伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

家族という病

2015年05月29日 | エッセー

◇家族とは何なのか、個という生き方と家族は相反するのか、家族は、個の生き方の前に立ちはだかるものにもなりかねない。手放しに家族万歳とはいかない中で、テレビは「鶴瓶の家族に乾杯」やドラマなど、家族への憧憬を描いたものが主流である。国は、家族を礼賛する。戦時中がそうであったように、家族ごとにまとまっていてくれると治めやすい。小型の国家たる家族は排他的にならざるを得ないのかもしれない。輪の中の平和と安泰をはかるためには排他的になり、自分だけよければという行動になる。◇(下掲書より抄録)
 「女子アナ」などという言葉がない時代、おそらく女性アナウンサーと呼ばれタレント性とは無縁だったころ、遙かテレビの興隆期にこの著者は一際存在感があった。
  「家族という病」下重暁子著、幻冬舎新書、3月刊。
 自分は誰にでも受け入れられるとでもいいたげな高慢さが鼻につく鶴瓶。ヨネスケなら芸の内と料簡もいくが、己のヒューマニティを御旗に他家に踏み込んでいく傍若無人。どうも好きではなかった。だから、溜飲が下がった。
 一読して大変な才媛であることが判る。意嚮においても、生きざまにおいても時代を超えている。日本が引き摺る家族観を小気味よいほど捌く。「病」といって憚らない。だから、胸がすく。と、ここまでは『小知恵(ショウチエ)』である。この著者はそこに留まらない。たとえば、
◇超エリートと呼んでいい家族は、学校教育を批判し、子供を自分達の考え方で育てようとする。その結果、個性的な子が出来るかというと、そうとは限らない。他の子供や先生との間で悩んだり、けんかしたりする部分がないせいか、変に大人びた常識人に育ってしまう例も多い。◇(上掲書より抄録)
 と指摘する。超エリートの愚昧を見逃さないのは小知恵を抜けている徴憑だ。
◇孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じことだ。なぜなら家族は社会の縮図だからである。◇
 通途の家族解体を説くものではない。繰り返すが、小知恵ではない。
◇なぜ私は、家族を自分から拒絶しようとしたのか。家族というよけては通れぬものの中にある哀しみに気付いてしまったからに違いありません。身を寄せ合ってお互いを保護し、甘やかな感情に浸ることでなぐさめを見出すことのごまかしを、見て見ぬふりが出来なかったからです。子供を産んで、母とそっくりに愛情に引きずりまわされる自分を見たくなかったのでしょう。◇(同上)
 著者は子を成していない。交友関係も、夫婦のあり方も一般的ではない。嫋やかな語り口、楚々たる居住まいからは想像しがたい。読み進むほどに仰け反ること頻りだ。確実に痛撃と呼べるカルチャーショックと病徴に明確な病覚を与える一種のカタルシスを供する。だからベストセラーを続けるのだろう。
 しかし盲蛇に怖じず、似ぬ京物語をするなら、それでも未だ『中知恵』といわざるを得ない。ならば『大知恵』とは何か。思想家・内田 樹氏は社会的セーフティネットに論及して、以下のように語る。
◇「家族」は、「非対等」を原理とする集団である。そこではメンバーのうちで「もっとも弱い者」を軸に集団か構成される。もっとも幼いもの、もっとも老いたもの、もっとも病弱なもの、もっとも厄介ごとを多くもたらすもの、それが家族たちにとっての「十字架」である。これをどうやって担ってゆくかということがどこでも家族の中心的な(わりと気の重い)課題である。家族は相互に迷惑をかけているか、かけられているかいずれかであり、赤ちゃんとして迎えられてから、死者として送り出されるまで、最初から最後まで、全行程において、そのつどつねに他のメンバーと「非対等」の関係にある。家族において「対等」ということはありえない。◇(「邪悪なものの鎮め方」から)
 「家族において『対等』ということはありえない」──チープな平等観を振り回す小知恵にとっては頂門の一針であろう。人類の最大の命題は生き延びることである。文明が進んでも、いや進むからこそ毫も減殺されない命題である。大知恵の大鉈がどれほど斬れるか。承前する。
◇人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている。そのために言語があり、儀礼がある。人間の生理過程が「飢餓ベース」であり、共同体原理が「弱者ベース」であるように、親族は「謎ベース」である。親子であれ配偶者であれ、「何を考えているのかよくわからない」ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている。成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上ではじめて機能するものとして家族を観念するならば、この世にうまくいっている家族などというものは原理的に存在しない。原理的に存在しえないものを「家族」と定義しておいて、その上で「家族は解体した」とか「家族は失われた」というのはまるでナンセンスなことである。成員は儀礼を守ることを要求される。それを愛だの理解だの共感だの思いやりだのとよけいな条件を加算するから家族を維持することが困難になってしまったのである。家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。それがクリアーできていれば、もうオッケーである。必要なのは家族の儀礼に対する遵法的態度である。◇(同上から抄録)
 「親族は『謎ベース』」とは言い得て妙、なんだか嬉しくなるではないか。達観に唸る。《よくわからないままでもサービスの供与に支障がないよう設計された家族制度》で唯一の受益条件は「儀礼を守ること」だ。儀礼とはなにか。──「おはようございます」「いってきます」「いってらっしゃい」「いただきます」「ごちそうさま」「おやすみなさい」と言い交わすこと──。それが家族の儀礼のすべてだと氏はいう。書けばひらがなで済むが、発語はそれほど容易くはない。この含蓄をしかと咀嚼したい。
 しつこいが、人類至上の命題は生き延びることである。家族はその不可欠な方途の一つに違いない。ならば「家族という病」を括弧に括って、「(家族という病)に病む日本」となるのではないか。 

※「小・中・大知恵」は稿者の造語である □


承前―識者の声を聴く

2015年05月27日 | エッセー

 伯楽の言は人の亀鑑である。読巧者(ヨミコウシャ)は世の木鐸である。都構想住民投票の顚末について2人の識者の声を聴きたい。23日、朝日新聞から。
 《(耕論)「橋下徹」を語ろう」》に、映画作家の想田和弘氏の声が載っていた。 
 17日の記者会見が論理ではなく感情操作にあったことを指摘し、警鐘を鳴らしている。
◇「間違っていた」「政治家冥利に尽きる」――。散り際の美学を愛する日本人の琴線に触れたため、「潔い」とか「すがすがしい」などと受け止められました。
 スポーツで惜敗した人だったら分かります。しかし、これは政治です。「大阪都構想が実現しなければ大阪はダメになる」とまで主張していた政治家が、「本当に悔いがない」「幸せな7年半だった」と笑顔で語り、彼の言葉通りならばダメになってしまうはずの大阪を全く心配していないように見えるのはどういうことなのでしょう。結局、住民投票は大阪のためではなく、彼個人のための私的な勝負事にすぎなかったのではないでしょうか。◇(◇部分は朝日から引用、以下同様)
 政治は安っぽい浪花節ではない。都構想が潰えたなら「ダメになる」はずの大阪を「本当に悔いがない」と立ち去れるのだろうか。彼は「スポーツで惜敗した人」ではない。「悔いがない」や「幸せな7年半」は私人の感慨である。「ダメになる」は公人の見解である。私情を殺して大義に生きるのが公人ではないか。掲げた公儀に不格好ではあってもしがみつくのが公人の本義だ。そう、頭を掻きながら不細工に前言を翻し、不器用にそして性懲りもなく構想をまたもや打ち上げる。それが公人の“美学”だ。
 あるいはひょっとして、「悔いがない」と「幸せな7年半」は大阪市民に放った持って回った三行半、捨て台詞だったのか。あの笑顔はそのように読めなくもない。
 承前のため、前稿を再掲する。
〓『主君たる民草のために一命を捧げるのが、もののふの本義である』ならば、「何某は侍なりといはるる様に心懸くべき」まさにその時に“自ら”もののふたることを棄てた。それが化けの皮が剥がれたとの謂である。主君への直諫が聞き届けられなかったからといって、己から主家と袂を別つもののふがかつていただろうか。それではもののふの世以前の下克上ではないか。もののふならば、主家に留まり奉公を尽くし果(オオ)すのが本分ではないか。〓
 恩田氏は市長が民主主義を多数決に短絡し、政治のプロセスを勝負事と誤解していると糾弾する。妥協と合意を図るのが民主主義であり、勝ち負けとは次元が違う。知ってか知らずか、彼は巧みにそれを迂回する。
◇「民主主義は感情統治」と橋下氏はかつてつぶやきました。彼が使い、支持者に伝染するキャッチフレーズやコピーとなるような言葉は、人々が抱いている怒りや猜疑心を刺激し、ネガティブな感情に火をつけます。敵味方をはっきり分ける橋下氏の政治手法を、安倍晋三首相や日本中の政治家が模倣し始めてもいるようです。それは民主制の危機を意味します。◇
 これは鋭く、重い伯楽の言だ。
 補記しておきたい。「都構想」は彼のオリジナルではない。1925年あたりから議論されてきた古くて新しいプランだ。官僚、教育、財政いずれの“改革”も頭打ちになり、失言も続き、政策の自転車操業に追い込まれる中で10年に唐突に持ち出してきた構想である。政界進出の初めから金看板にしていたわけでは決してない。この一事にも彼の底意が那辺にあったか容易に見当はつく。

 同じ日、内田 樹氏も声を寄せていた。タイトルは「『制度のみ語る闇』大阪都構想住民投票を読む」。
 僅差の結果は、「『民意が決した』とか『当否の判定が下った』というふうな大仰なもの」(同紙より、以下同様)ではないという。尤もだ。「大仰なもの」ではないのに、引退という「大仰なもの」へと芝居がかるところが前稿でいう『芸者』たる真骨頂ではないか。
 氏はさらに賛否いずれも改革を願っていた、賛否を分けたのは改革の方法と速度であったという。「『急激な改革か、ゆるやかな改革か』という遅速の差であった」、と。そして「遅速の差は、まなじりを決して、政治生命をかけて戦うほどのことなのだろうか。そんなのは話し合えば済むことではないのか。この常識を誰も語らなかったことに私はむしろこの国を蝕んでいる深い闇を見る」と斬り込んでいる。そうなのだ。「話し合えば済む」ことを市を二分してまで劇場化する。市民的未成熟とそれを逆用する政治手法。それは国政の場にも浸潤しつつある。きっと「深い闇」はそれのメタフォリカルな措辞だ。
 続けて氏はこういう。
◇制度設計がどれほど適切でも、運用者に知恵と技能がなければ、制度は機能しない。逆にどんな不出来なシステムでも、「想定外のできごと」に自己責任で対処できる「まともな大人」が要路に一定数配されていれば、システムクラッシュは起きない。
 私は別に「制度か人間か」の二者択一を迫っているのではない。どちらも必要に決まっている。違うのは、制度を壊すのは簡単で、大人を育てるのは時間がかかるということである。「都構想」をめぐる議論の中で私は賛否いずれからもついに一度も「システムを適切に管理運用できる専門家の育成」という話を聴かなかった。聴かされたのは制度問題だけである。◇
 これまた一重深い洞見である。読巧者の剔抉はまだ続く。
◇私たちの国が現に直面している危機の実相は「かなりよくできた制度」が運用者たちの質の劣化によって機能不全に陥っているということである。三権分立も両院制も政令都市制度も、どれも権限と責任を分散し、一元的にことが決まらないようにわざわざ制度設計されている。その本旨を理解し、その複雑な仕組みを運用できるだけの知恵と技能をこれらの制度は前提にしており、それを市民に要求してもいる。◇
 「わざわざ制度設計」はよくよく翫味する必要がある。大袈裟にいえば、「わざわざ」は人類の知恵である。重畳たる歴史的試行の誇らかな達成である。
 実に伯楽は真贋を見極め、読巧者は世のありさまを過たず読む。まことに識者の声は有り難い。 □


芸は身を滅ぼす Part2

2015年05月22日 | エッセー

 臆面もなく拙稿を引きたい。09年6月の『芸は身を滅ぼす』と題する愚案である。
〓「『葉隠』は太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたものであった。」(下掲書より)「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」が、その「調合」された「劇薬」の正体である。
◇芸は身を滅ぼす
《芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるる様に心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つなり。この当り心得べき事なり。》(聞書第一)
 『葉隠』が口をきわめて、芸能にひいでた人間をののしる裏には、時代が芸能にひいでた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。
 現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡(でく人形)となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。
 現代はテクノクラシー(技術者の支配の意)の時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクション(機能)にみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると、『葉隠』の芸能人に対する侮蔑は、胸がすくようである。◇(三島由紀夫『葉隠入門』)
 太平の世にはアナロジーがあるらしい。三島の時代観は著者・山本常朝のそれにぴったりと重なっている。
 ―― 芸は身を滅ぼす ―― のである。
 為政者、権力側というトポスを今に準(ナゾラ)えれば、もののふ(武士)とは政治家であろうか。主君たる民草のために一命を捧げるのが、もののふの本義である。ただその一心だけでよい。ほかには、何も要らぬ。「一芸」に身も心も囚われて、本義を忘れてはならぬ。「芸者」になってはならない。芸はもののふの身を滅ぼす。 ―― そう常朝は、太平ならばこその「劇薬」を処方したのだ。
 芸能者が一芸に長ずるのは当然である。ならばこその芸能者である。しかし、もののふはちがう。芸を捨てねばならない。「心懸くべき」は、「何某は侍なりといはるる」ことだ。
 アナクロニズムと嗤うなかれ。知名度にほだされてタレント議員なるものを量産し、起立要員として使い回し、やがて用済みにする。永田町自体が「芸」に血道を上げて、挙句、身を窶(ヤツ)してきたのが、あの町の偽らざる歴史ではないか。ために、あの町の劣化は見るも無残だ。
 「芸は身を助くる」など、よその国の夢物語だ。〓(抄録)
 この場合、いささかややこしい。もののふが芸者になったのではなく、芸者がもののふになった。いや、なった気になった。皆の衆もその気になった。ところが化けの皮が剥がれてみると、やはり芸者だった。それが事の顚末である。(断っておくが、ここでいう「芸者」とは花柳のことではなく「一芸これある者」の意)
 『主君たる民草のために一命を捧げるのが、もののふの本義である』ならば、「何某は侍なりといはるる様に心懸くべき」まさにその時に“自ら”もののふたることを棄てた。それが化けの皮が剥がれたとの謂である。主君への直諫が聞き届けられなかったからといって、己から主家と袂を別つもののふがかつていただろうか。それではもののふの世以前の下克上ではないか。もののふならば、主家に留まり奉公を尽くし果(オオ)すのが本分ではないか。ところが、この芸者は舞台に戻ると言う。
 大野伴睦の名言を想起しよう。猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人──これではっきりした。彼は舞台に戻ると言った。落ちても、「ただの人」ではないのだ。もののふではなかったなによりの証左であろう。まことに芸は身を滅ぼす。 □


マーケットは間違えない!

2015年05月18日 | エッセー

 昨日深更、“敗北会見”で市長は冒頭、
「受け入れられなかったことで、やっぱり間違っていたということになるんでしょうね」
 と語った。
 同席した知事も、
「究極の民主主義で決まった」
 と述べた。割符に分かつとは、このことだ。あまりの鮮やかさに鳥肌が立った。二氏の発言がではなく、合わせるもう一片は以下の内田 樹氏の言説である。
◇わが国はいま「国民国家のすべての制度の株式会社化」のプロセスを進んでいる。
 「次の選挙」がビジネスマンにとっての「マーケット」を代用する。「マーケットは間違えない」のであれば、次の選挙で当選すれば、彼らが採択した政策の適否についての歴史的判断はすでに下ったということになる。
 政治家が「文句があれば次の選挙で落とせばいい」とか「みそぎは済んだ」というような言い回しを好むのは、直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級であり、歴史的な審判などというものは考慮するに及ばないと彼らが本気で信じているからである。◇(晶文社、本年3月刊、内田 樹編「日本の反知性主義」から抄録)
 「『マーケットは間違えない』のであれば、」「やっぱり間違っていたということになる」。まさに符節を合わするが如し、ではないか。
 「直近の選挙結果が政策の適否を判定する最終審級」ならば、「究極の民主主義で決まった」ことになる。「最終審級」と「究極の」。これもまた見事な符号というべきである。
 赤坂真理女史の「事のいちばんの本質は、よく、はしっこのほうに宿っている」(上掲書より)との箴言に照らして彼らの隻句を閲すれば、彼らが時代の寵児どころか時代の申し子であることが闡明になる。
 おそらく市長に劣らず臍を噛んでいるのは首相であろう。政局の連鎖については囂しいマスコミの談義で充分だ。それ以前に、如上の卓説はそのまま彼の「本質」でもあるからだ。
 彼らには馬の耳に念仏であろうが、自戒を込めて内田氏の次の高説を徴したい。
◇誤解している人が多いが、民主制は何か「よいこと」を効率的に適切に実現するための制度ではない。そうではなくて、「わるいこと」が起きた後に、国民たちが「この災厄を引き起こすような政策決定に自分は関与していない。だから、その責任を取る立場にもない」というようなことを言えないようにするための仕組みである。政策を決定したのは国民の総意であった。それゆえ国民はその成功の果実を享受する権利があり、同時にその失政の債務を支払う義務があるという考え方を基礎づけるための擬制が民主制である。◇(上掲書より)
 市長が駆け出しの頃、大阪がある種のグルーヴに包まれた。稿者の危惧に対して、大阪住まいの経験がある友人が「心配ない。大阪人は賢いから」と応じた。今、彼の洞見に敬服する。
 取り急ぎの雑感として。 □


「粛々」

2015年05月15日 | エッセー

 確かに軽い戸惑いはあった。
「上から目線の『粛々』という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて、怒りは増幅していくのではないか」
 初の官房長官との会談での翁長発言の、この行(クダリ)である。「上から目線」と「粛々」がリニアには繋がらない。むしろ「粛々」は慎ましやかな「下から目線」のニュアンスをもった言葉ではないか、と。しかし、それは浅識であった。広辞苑によれば、
 【粛々】
 ① つつしむさま。               
 ② 静かにひっそりしたさま。       
 ③ ひきしまったさま。             
 ④ おごそかなさま。
 とある。③ ④ 、別けても④ は「上から目線」を纏う。字源を辿ると「粛」は文様を描くことで、その文様を織物に施すことを「縮」といった。文様を印しシンボライズすれば俗を別ち聖化に通ずる。やはり、「上から目線」を相応に含んだ出自といえる。むしろ④ ③ が先ずあり、受け手側の態様として① ② が導出されたのではないか。
 当の官房長官は冗句のようだが、「沖縄基地負担軽減担当大臣」でもある。国会審議で多用してきた永田町の定句である「粛々」を槍玉に挙げられた。意表を突かれた恰好だ。そんな硬直した権力的措辞では「負担軽減」は冗句にしかならない、と。定句を逆手に取って冗句へ逆落しにする。知事の見事な勝ちといえなくもない。長官は今後使わないと宣言した。だが、アホノミクスの御仁は依然としてお使いになっている。まことに何とかは度し難い。
 見方を変える。これは極めて稀で、かつ正当な『言葉狩り』の成功例ではないか。
 06年の「ドストエフスキーの『白地』??」と題する拙稿を再掲する。
〓なんと、ATOKでは「盲」が変換できない。『めくら』と入力して変換しても「盲」が出てこないのだ。ひょっとして差別語は変換が効かないようにしているのか。もしやと、「唖」「聾」も試みたが、これもダメ。
 ところがである。あの忌み嫌い、見下してきたIMEではできるのだ。なんということだ。ATOKに寄せる絶大なる信頼を裏切るのか。
 早速、Just System に電話した。 ―― 弊社といたしましては、差別語・不快語として<変換候補から>除外しております。
 との回答であった。差別語として扱う事と、かな漢字交換とは次元の違う話ではないか。ひらがなならいいのか、ということにもなる。変換できるようにすべきだ、との要望があることを関係部署に伝えてほしいと、電話を切った。
  『ATOK使い』である後輩の一人にこのことを話すと、彼はこう言った。「ATOKはIMEよりも格段に人権意識が高い証拠ですよ」と。すごい! 視点が違う。飲酒運転は悪い。だが、酒はなくせない。ならば、飲酒したら運転できない車を作ればいい。この発想である。やはり、Just Systemは、時代に先駆けているのだ。
 ところが、である。先週、週刊Sがこの問題を取り上げた。実は、変換不可は三重苦だけではなかったのだ。「女給」は『女九』に、「白痴」は『白地』に変換されることが判明。すると、かの名作も『白地』となってしまう。ムイシュキン公爵は癇癪を起こすに違いない。
 昭和56年5月に、「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」が公布された。翌年7月から法文が改められ、「不具」や「廃疾」は「重度障害」または「障害のあるもの」に、「白痴者」は「精神薄弱者」に変わった。また本年の今月からは、「精神病院」が「精神科病院」と呼称を改める。
 世の亀鑑たる法律の装いを改めることに異論はない。公の呼称を時代に即応させることに異見はない。だが、「規定と強制は毛筋の間隙(カンゲキ)もない」ことだけは十分に心得ておかねばならない。〓(抄録)
 JS、MSは措いておこう。彼らとて商売だ。問題は筋違いな圧力があることだ。特に、「『規定と強制は毛筋の間隙もない』ことだけは十分に心得ておかねばならない」という構えである。規定はいとも簡単に強制に変ずる。とりわけ権力による規定は衣の下の鎧を見逃してはなるまい。
 而して、知事の「粛々」攻撃は揚げ足取りと捉えては事の筋目を見損なう。「下からの」言葉狩りだ。「おごそかなさま」であるその依って来る源泉を問うているといえる。選挙で示された民意は圧倒的に“辺野古ノー”である。「おごそか」だというなら、それこそ厳かではないか。いや、国と国との“規定”こそ「おごそか」だというのか。併合し、属国化し、人身御供として差し出してきて、まだなお搾り取ろうとするのか。「粛々」のオリジンはどちらなのか。長官は箝口で逃げを打った。ならば、アホノミクスの御仁は何と答える。思考停止の彼に代わって答えよう。
「それはアメリカです!」 □


舞の海、出てこいやー!

2015年05月11日 | エッセー

 大相撲夏場所初日、結びの一番。通路で出を待つ逸ノ城を見て、解説の北の富士が「今日の逸ノ城は怖い。ちがう!」と言った。結果はその通りだった。さすがは勝負師北の富士である。片や向こう正面の舞の海は別段のコメントを挟まなかった。理詰めの舞の海に北の富士の経験と勘が優ったというところか。
 以前にも触れたが、相撲中継での両氏のスパークはなかなかおもしろい。舞の海が持論を述べると北の富士が真っ向否定し、北の富士の大雑把な解説に舞の海が理を尽くしてそれとなくオブジェクションを提示する。直感と理屈、情と論、辛口と抱擁──そう截然と別(ワカ)てないにしても、土俵以外で異質な個性がぶつかり合う。番外編の大きな楽しみである。
 両氏ともに棄てがたいのだが、場所前の5月3日舞の海に大きなクエスチョンを付けざるをえない珍事が起こった。ウェブ版産経ニュースを抄録してみる。
〓元小結の舞の海秀平氏が、公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」で提言を行った。昨今の日本人力士の「甘さ」は憲法前文の影響だと持論を展開し、会場の笑いを誘った。提言の要旨は次の通り。
 日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。
 「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。
 私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。
 今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。
 憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。〓
 「会場の笑いを誘った」とあるから、ジョークかもしれない。でも「考え」が憲法前文に「行きついた」そうだから、まんざら口から出任せでもなさそうだ。第一、件のフォーラムに出席したこと自体が真意であると示している。それにしてもこのすげぇー飛躍には、毎度奇想天外を繰り返している稿者もすっかり参った。ロジカルなコメントをする学士出の元小結解説者の評価がガラガラと崩れた。ひょっとしたら、現役時代に世を沸かせた八艘飛びをいまも脳内で繰り返しているのであろうか。まあ一つ確実にいえるのは、本邦憲法前文を知っている日本人力士は皆無に近いであろうことだ。育った社会環境一般に敷衍するにしても、「『諸国民の信義』を疑わなければ勝てない」という通念はむしろ支配的ではないのか。それに、「いきなり顔を張ってきたり、肘で顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり」しない外国人力士がほとんどである事実には言及がないのはどうしてであろう。なによりラフプレーを繰り出す外国人力士を指導しているのが日本人親方であるのは、親方衆は憲法前文を熟知し逆手に取ったタクティクスを採用しているとでもいうのであろうか。舞の海、千慮の一失。とんだ勇み足だった。
 片や、高田延彦。集団的自衛権の行使容認は姑息でインチキだと盛んに発信している。時の政権が勝手に解釈変更するのは憲法への冒涜だと断ずる。『はだしのゲン』を愛読し、「戦争の悲惨さを知る材料を、子どもたちの手の届く距離に置いておきたい」と語る。「息子にも平和に感謝する気持ちを持ってもらいたいと願っている」とも言う。
 90年代中葉参院選に「さわやか新党」で立候補したこともあり、元々政治意識は高いのだろう。しかし元プロレスラー、現タレントのイメージからすると意外な顔だ。如上の舞の海八艘飛び提言を聞いたら、「出てこいやー!」と咆えるにちがいない。
 冒頭に返って、逸ノ城。殊勲の日は「母の日」であった。吉報をプレゼントしようと電話したが、繋がらない。どうも電波の届かないところで遊牧しているらしいと、彼は呟いたそうだ。こちらの目頭が熱くなった。遊牧こそが逸ノ城を造ったと、かつて本稿で述べた。渺渺としていい話ではないか。
 白鵬戦は一瞬で決まった。変化ではなく、なんとも敏捷いとったり気味の突き落としだった。うっかり勝ったというのが稿者の印象である。今どき、うっかり勝っちまう力士はそうはいない。これが一推しの魅力だ。対照的にうっかり負けたのが照の富士だった。彼は同じモンゴルでも首都ウランバートル。都会っ子である。こんなところに差が出たというべきか。舞の海なら、なんとコメントするだろう。それは飛躍ですとでもいうだろうか。確かに、八艘飛びには適わぬが。 □


映画『王妃の館』

2015年05月08日 | エッセー

 365連休の身ではあるが世間並にGWの真似事をしてみようと、荊妻を連れて映画に行った。いかに片田舎とはいえ、ほんの2時間弱車を駆れば映画館に辿り着ける(半日は掛からない!)。先月下旬封切りの橋本  一監督王妃の館である。もちろん、原作は浅田次郎御大だ。
 浅田作品の映画化は98年の『ラブ・レター』を皮切りに、99年にあの『鉄道員』、00年『天国までの百マイル』、02年『椿山課長の七日間』と続き、03年『パイラン』(「ラブ・レター」の韓国版)、同年『壬生義士伝』、06年『地下鉄に乗って』、さらに07年『憑神』、09年『銀色の雨』、11年『日輪の遺産』、そして14年『柘榴坂の仇討』とほぼ隔年になされてきた。
 今度で13作目。ネットのレビューを見る限り、散々な評価である。満足度、僅か6%。酷評である。そのほとんどが浅田ファンだ。原作から映画を評しているのであろう。当然、そうなる。第一、作者が映画化は無理だと言っていた作品である。しかしエンターテイメント作品に定評のある監督を起用し、2人の脚本家がシナリオを練りに練り上げ、主役に水谷 豊をはじめとする豪華なキャストを据え、セーヌ川クルーズ、ルーブル美術館などのパリ現地ロケを敢行。極め付けはヴェルサイユ宮殿をまる1日借り切ってのロケと、フランスでの撮影は20日を越えた。おまけに登場するフランス料理は高名なシェフの手による実物、衣裳は巧みに富み、調度品は贅の限りを尽くした重厚さ、エンディング曲をボサノヴァの第一人者小野リサが熱唱する。どう考えても遜色はない。なのに間然されるのは、やはり原作を識っているからだろう。
 山妻は哀しいかな原作なぞまったく知らない(山菜には詳しいが)。それゆえか、大いに泣き、大きな口で笑っていた。欠かさず観ている『相棒』の水谷 豊が主役・北白川右京を演じる。奇しくも杉下右京と名が同じだ。かつ、杉下臭が付き纏うのが変な親近感を誘うのかもしれない。御満悦であった。
 わたしはというと、原作はほとんど忘れている。昨日のことさえ記憶定かならぬのに、8年も9年も前のことを記憶しているはずはない。ただ不思議だが、クオリアは残っている。梗概もプロットも登場人物も忘れ去っているのに、たとえば挿絵の蔦が絡まった館の風情やそこを慌ただしく作中人物が出入りする人熱れが、ある特定のクオリアとして残存している。おそらくそれは作者の膂力によるものであろう。駄作には、ない。ほぼすべてが記憶から失われても、海洋に一つだけ取り付く島があるように……。今も消えない独自の質感。ひょっとしたら人類が生き残るために必須の要件として獲得した能力なのかもしれない。豊饒を予兆する土の触感、風が運ぶオアシスの湿り、毒草の色香、進むか否か害獣の気配、嵐を孕んだ雲の重み、記憶以上に深く生命に刻印さたサバイバルの知恵。脳科学でも難題の一つとされるクオリアとは、そのようなものではないだろうか。
 茂木健一郎氏が俳人の黛 まどか氏との対談でクオリアについて語っている。
 俳句と向き合うとは、自分の全体性を総動員して言語化されていないものを「掴もう」とする営為だ。それが、
「ある実感を生む。要するに、その句に自分なりの感覚を持つに至るのだが、この感覚こそが、自分自身のクオリア(質感)である。」
 という。さらにそれは、
「内なる深いところから自分のクオリアを引き出してくる意識的なきっかけになるのである。限られた文字の背後に限られない世界を探ることは、限られていない自分を感じることでもあるのだ。」(角川ONEテーマ21『俳句脳』から抄録)
 自らの全体性を掛けて獲得されたクオリアが自身の内面を深化拡大するということか。知識、知性、感覚や来し方の経験を総動員して言語作品に取り組むことは実は自身を高みに押し上げている。内容を記憶することが目的ではない。作品から触発されるそのコアにあるものがクオリアではないか。
 『王妃の館』には、それがあった。だから取り付く島から眺望が開けた。その眺望は原作とは違う、また別の心地よいヴィスタであった。ちょうどうまくクオリアだけを残しディテールだけが掻き消えた好機だったからかもしれない。この映画には、間違いなくクオリアを甦生させる力がある。原作はあくまでも原作だ。原作と比較するのは映画には酷だ。無い物ねだりに近い。原作を超える映画は万に一つ、天才にしてなし得ることだ。たとえば「赤ひげ」のように。それだって、随分な手が加えられている。映画化とは作品を忠実に準ることではあるまい。新しい“眺望”を拓くことだ。だから“原”作と呼ぶのではないか。
 もしも最近読んだ作品だったとしたら、この稿はきっと違っていたであろう。幸いにも記憶力が脆弱なため、2度も愉しめた。帰りしなに、山妻が言った。
「もう一回、観てみたい」
 なんと横着な。先ず原作を読め。でなければ、御大に失礼であろうが。 □


ビンタ本

2015年05月03日 | エッセー


 半分されてみたい願望はあるが、幸いなことに女性(ニョショウ)にビンタを食らったことは未だ嘗て一度もない。ところがこの本には完全な往復ビンタをいただいた。コンピ本の駄洒落で『ビンタ本』だ。
 著者は「私は麻生太郎の知性の低さを、『みぞゆう』をもって決める気には未だになれない」という。なぜなら、それは近代になって本邦が「植民地に押し付けた態度」と同等ではないか。「漢字の読み下しを日本人のように自由自在にできるか」どうかを問うたように。
 これにはバシンときた。遡れば、「有人」と「有情」のように元々借りてきた中国語を読み分けたのは本邦創案の慣習である。慣習について正否を論う(つまりは、知性を裁断する)のはおかしくはないか、と指摘する(それはむしろ適否であろう)。続けて、そこには「日本語の、ひとつの本質がある。麻生太郎を鼻で笑った人たちも、本当は『未曾有をみぞゆうと好き好んで読むような作法』をエンジョイしているからだ。そこに、『日本人にとっての漢字』があるからだ」と斬り込む。
 復路のバシンだ。ちょうどジャパニーズイングリッシュを米国人が嘲る事情に似てないか。「テーブルスピーチ」や「ナイター」など借り物を都合よく改造してエンジョイしているところに知性が低いなどと冷や水を浴びせられたら、どうなる。
 誤読の批判に潜む侵略的心性と日本語の本質。もう、これは完璧な往復ビンタではないか。女性(ニョショウ)の細腕が呻りを発してわが両頬を打ち据えた方がむしろずっと痛みは軽い、というかずっと心地よいはずだ。脳内に喰らうビンタは只では済まない。
 バシンは続く。
 映画『三丁目の夕日』は物言わぬ東京タワーが主人公であったともいえる。戦後復興、高度成長期の表徴として登場する。ところが、展望台より上部は朝鮮戦争で使われたアメリカ軍の戦車を鋳潰した鉄骨で造られた。復興の象徴は朝鮮戦争特需の表象でもあったのだ。
 著者は鉄板コンテンツのひとつである『サザエさん』が兵隊の復員から中流家庭に至るまでを描く「一億総中流化」の物語だと捉える。そしてその総中流への「きっかけになったのが、朝鮮戦争の特需だった」と摘示し、「日本の戦後には、隠しゴマのように朝鮮半島の影がちらつく。しかしもちろん、それは描かれない触媒である。『サザエさん』のTVアニメでは、『中流になった後』だけを、終わりなき日常のように繰り返している。その時代にネガティブな面はないかのようである」と抉る。自らの浅識を恥じるばかりだ。
 ビンタと同時にわが膝を打った洞見もある。72年のあさま山荘事件についてである。
 著者はこの事件を社会が暴力性にどう向き合うかの分水嶺だったと視る。
「権力者の暴力が『悪くなく見え』、かつ『見る者をスカッとさせる』という意味では、非常にうまい方法だったと思う。そして社会が同じ想像力から出られなくなっていくスパイラルが始まったように、感じる。スクラップ&ビルドを繰り返すしかない街、国土。人目につかないところへと潜り、陰湿になっていく暴力……」
 視聴率90%だったTV中継。別けても「鉄球作戦」は東京オリンピックからインスピレーションを受けたのではないかと著者はいう。「市川崑の記録映画『東京オリンピック』は、鉄球で東京を『壊す』シーンからいきなり始まる。オリンピックの前に、東京の街を、壊して、創り直すのである。そこに登場するのが、ゆらゆらと揺れてコンクリートのビルを打つ、大きな鉄球である」と。
 こんなのもある。
 2020東京オリンピック招致でのプレゼン。シルクのスカーフを巻いた滝川クリステルは「一昔前の高級スチュワーデスみたいな格好で、完璧な笑顔で」あった、と。往時のスチュワーデスは「高学歴で美人で、有名人男性と結婚する率の異常に高い、そのためになるのだと揶揄」された存在だった。それが当今、女子アナに代わった。その具象的シーンではないか、と。
 男にとっては死角だ。スカーフは見えない。なるほど、「おもてなし」はスチュワーデスの専売特許ではないか。さらに「私は理解した、占領期の日本とは、来る者への『お・も・て・な・し』だったのかと! 在日米軍の扱いもまた『お・も・て・な・し』だった。ならば、在日米軍のための予算の『おもいやり予算』という気持ち悪いネーミングも合点がいくというものだ」と、畳みかける。悍しいほどの感性だ。
 その他、ビンタは連チャンだ。幾つかを挙げよう。
 天皇──
「論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。」
 文明の辺境にある心性、漢字そして英語──
「漢字は、それ自体ひとつで意味のパッケージであるがゆえに、それを当てはめることは、あくまで近似値である。一目瞭然であるからこそ、漢字は日本人にとってブラックボックスのように働く。」
 リンカーンの演説からふと疑念が。
「peopleは 『国民』のように、ひとくくりにできない。日本人はこれに類する概念を持ったことがあるのだろうか?」
 constitution と憲法は同義か。「憲」とは何か。
「気をつけないと、自分が思うその概念が、相手にとってはまるでちがうということが、同国人同士の中でさえ起こり得る。権力者に都合よく使われるというようなことも起こりかねない。それが起こりやすい言語を使っているのだということだけは、よくよく注意した方がいいと思う。」
 戦争の放棄。renounce が孕む倒錯。
「『自発的に捨てる』と本人に言わせるまでは、容赦しない。そういう単語が憲法に、他者のしるしとして刻印されている。他者の言葉で、『私はこれを自発的に捨てる』と言うことほど、倒錯的なことはない。」
 だから、続く問いかけは肺腑を衝く。
「私たちは、私たち自身が告発されたその言葉を、告発した側の言語に立ち、それを私たちの言語に照らし、じっくり精査したことが、一度だってあったのか、ということだ。」
 くっきりと先後を分かつ1980年の意味──
「松田優作がねんごろに葬られた年に、日本社会に『お笑い』は出てきた。日本社会のある局面が、最終的に松田優作を不要とした最初の年であった。」
「第一人者であったビートたけしが、北野武として映画監督になったとき、『ほとんど暴力だけ』の作品を何作も続けて撮ったのは、生理的なことであり、時代に抑圧された身体性の叫びではなかったか。」
 連合赤軍とオウム──
「『総括』されないものは、繰り返される。それが『連合赤軍』だったり『オウム』だったりしたのではないか。」
 軍部独走の主犯たち。それは
「軍人というより『受験エリート』だったのでは。軍人というのは究極のリアリストのことだが、昭和の軍人は、現実感覚こそを、欠いている。」
 とし、オウムとの奇妙なアナロジーを見出す。
 自らの体験から語る遊び場を規制する抗しがたい流れ。将来、子どもたちはこう言うだろう。
「『年寄りはそこで死なれたら困るから、共有スペースでのひなたぼっこ禁止』、冗談でなく。それは、かつて自分たちが言われたことの意趣返しである。『人を管理する』とは、ここまでの想像力を持つべきことだ、本来。」
 アベノミクスは作為的バブル──
「バブルがあれだけ悲惨なことになったのに同じ手を繰り返そうとするなど、歴史に学んでいるのだろうか」
 敬服する浜 矩子先生は、近著で『アホノミクス』と断じていらっしゃる。同趣旨だ。
 (上記カギ括弧引用部分はすべて下掲書より抄録)
 さて、『ビンタ本』とは。

「愛と暴力の戦後とその後」 

 赤坂真理著、講談社現代新書。ちょうど1年前の発刊である。間が抜けたことに、先月読んだ。帯をそのまま引く。

《国のかたち》が揺らぐ今 必読の日本論! 
あの敗戦、天皇、アメリカ、憲法、安保闘争、バブル、オウム事件、そして日本語の宿命──
誰かが何かを忘れようとしていた。
誰もが何かを忘れようとしていた。
この国には、
何か隠されたことがある! 

高橋源一郎氏──いまの時期にこそふさわしい、戦後社会と民主主義について深く検討する。
鈴木邦男氏──日本とは何か。お前は何者だと、問い詰めてくる。驚愕し、恐怖して読み終わった。こんな本は初めてだ。 

 著者についてはカバーの紹介をそのまま写す。
赤坂真理(あかさかまり)一九六四年、東京生まれ。作家。一九九〇年に別件で行ったバイト面接で、なぜかアート誌の編集長を任され、つとめた。編集長として働いているとき自分にも原稿を発注しようと思い立ち、小説を書いて、九五年に『起爆者』でデビュー。著書に『ヴァイブレータ』(講談社文庫)、『ヴォイセズ/ヴァニーユ/太陽の涙』『ミューズ/コーリング』(ともに河出文庫)、『モテたい理由』(講談社現代新書)など。二〇一二年に刊行した『東京プリズン』(河出書房新社)で毎日出版文化賞・司馬遼太郎賞・紫式部文学賞を受賞。神話、秘教的世界、音楽、そして日々を味わうことを、愛している。

 鈴木邦男氏ではないが、読了には驚愕と恐怖が伴う。下手をすると、ビンタを浴びせられる。一推しではあるが、覚悟は必要だ。ただし、面相は怖くない。むしろ、逆だ。とびきりの才媛にまた一人偶会したといえる。 □