◇家族とは何なのか、個という生き方と家族は相反するのか、家族は、個の生き方の前に立ちはだかるものにもなりかねない。手放しに家族万歳とはいかない中で、テレビは「鶴瓶の家族に乾杯」やドラマなど、家族への憧憬を描いたものが主流である。国は、家族を礼賛する。戦時中がそうであったように、家族ごとにまとまっていてくれると治めやすい。小型の国家たる家族は排他的にならざるを得ないのかもしれない。輪の中の平和と安泰をはかるためには排他的になり、自分だけよければという行動になる。◇(下掲書より抄録)
「女子アナ」などという言葉がない時代、おそらく女性アナウンサーと呼ばれタレント性とは無縁だったころ、遙かテレビの興隆期にこの著者は一際存在感があった。
「家族という病」下重暁子著、幻冬舎新書、3月刊。
自分は誰にでも受け入れられるとでもいいたげな高慢さが鼻につく鶴瓶。ヨネスケなら芸の内と料簡もいくが、己のヒューマニティを御旗に他家に踏み込んでいく傍若無人。どうも好きではなかった。だから、溜飲が下がった。
一読して大変な才媛であることが判る。意嚮においても、生きざまにおいても時代を超えている。日本が引き摺る家族観を小気味よいほど捌く。「病」といって憚らない。だから、胸がすく。と、ここまでは『小知恵(ショウチエ)』である。この著者はそこに留まらない。たとえば、
◇超エリートと呼んでいい家族は、学校教育を批判し、子供を自分達の考え方で育てようとする。その結果、個性的な子が出来るかというと、そうとは限らない。他の子供や先生との間で悩んだり、けんかしたりする部分がないせいか、変に大人びた常識人に育ってしまう例も多い。◇(上掲書より抄録)
と指摘する。超エリートの愚昧を見逃さないのは小知恵を抜けている徴憑だ。
◇孤独に耐えられなければ、家族を理解することは出来ない。独りを知り、孤独感を味わうことではじめて相手の気持ちを推しはかることが出来る。家族に対しても、社会の人々に対しても同じことだ。なぜなら家族は社会の縮図だからである。◇
通途の家族解体を説くものではない。繰り返すが、小知恵ではない。
◇なぜ私は、家族を自分から拒絶しようとしたのか。家族というよけては通れぬものの中にある哀しみに気付いてしまったからに違いありません。身を寄せ合ってお互いを保護し、甘やかな感情に浸ることでなぐさめを見出すことのごまかしを、見て見ぬふりが出来なかったからです。子供を産んで、母とそっくりに愛情に引きずりまわされる自分を見たくなかったのでしょう。◇(同上)
著者は子を成していない。交友関係も、夫婦のあり方も一般的ではない。嫋やかな語り口、楚々たる居住まいからは想像しがたい。読み進むほどに仰け反ること頻りだ。確実に痛撃と呼べるカルチャーショックと病徴に明確な病覚を与える一種のカタルシスを供する。だからベストセラーを続けるのだろう。
しかし盲蛇に怖じず、似ぬ京物語をするなら、それでも未だ『中知恵』といわざるを得ない。ならば『大知恵』とは何か。思想家・内田 樹氏は社会的セーフティネットに論及して、以下のように語る。
◇「家族」は、「非対等」を原理とする集団である。そこではメンバーのうちで「もっとも弱い者」を軸に集団か構成される。もっとも幼いもの、もっとも老いたもの、もっとも病弱なもの、もっとも厄介ごとを多くもたらすもの、それが家族たちにとっての「十字架」である。これをどうやって担ってゆくかということがどこでも家族の中心的な(わりと気の重い)課題である。家族は相互に迷惑をかけているか、かけられているかいずれかであり、赤ちゃんとして迎えられてから、死者として送り出されるまで、最初から最後まで、全行程において、そのつどつねに他のメンバーと「非対等」の関係にある。家族において「対等」ということはありえない。◇(「邪悪なものの鎮め方」から)
「家族において『対等』ということはありえない」──チープな平等観を振り回す小知恵にとっては頂門の一針であろう。人類の最大の命題は生き延びることである。文明が進んでも、いや進むからこそ毫も減殺されない命題である。大知恵の大鉈がどれほど斬れるか。承前する。
◇人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている。そのために言語があり、儀礼がある。人間の生理過程が「飢餓ベース」であり、共同体原理が「弱者ベース」であるように、親族は「謎ベース」である。親子であれ配偶者であれ、「何を考えているのかよくわからない」ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている。成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上ではじめて機能するものとして家族を観念するならば、この世にうまくいっている家族などというものは原理的に存在しない。原理的に存在しえないものを「家族」と定義しておいて、その上で「家族は解体した」とか「家族は失われた」というのはまるでナンセンスなことである。成員は儀礼を守ることを要求される。それを愛だの理解だの共感だの思いやりだのとよけいな条件を加算するから家族を維持することが困難になってしまったのである。家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。それがクリアーできていれば、もうオッケーである。必要なのは家族の儀礼に対する遵法的態度である。◇(同上から抄録)
「親族は『謎ベース』」とは言い得て妙、なんだか嬉しくなるではないか。達観に唸る。《よくわからないままでもサービスの供与に支障がないよう設計された家族制度》で唯一の受益条件は「儀礼を守ること」だ。儀礼とはなにか。──「おはようございます」「いってきます」「いってらっしゃい」「いただきます」「ごちそうさま」「おやすみなさい」と言い交わすこと──。それが家族の儀礼のすべてだと氏はいう。書けばひらがなで済むが、発語はそれほど容易くはない。この含蓄をしかと咀嚼したい。
しつこいが、人類至上の命題は生き延びることである。家族はその不可欠な方途の一つに違いない。ならば「家族という病」を括弧に括って、「(家族という病)に病む日本」となるのではないか。
※「小・中・大知恵」は稿者の造語である □