伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ゴーヤ

2020年07月28日 | エッセー

 陋屋の庇に大きな目の網が掛けられている。足元は猫の額ほどの庭に繋がれている。これが去年はプランタンだった。昨年の不作はこれが原因だったと荊妻は言う。今年は地面から蔦が網を這い上ってきた。今日で半分ぐらい網を覆っている。上手くいきそうだ。
 ニガウリとも呼ぶあの苦みは嫌いではない。ゴーヤ、名の由来は諸説あって定まらぬそうだ。「錦茘枝」とも書いてゴーヤと読ませる。茘枝(レイシ)は鱗状の皮で覆われた多汁で甘美な果実。楊貴妃の大好物だったという。どう見ても錦のように美しくはないが、鱗状の皮は似ている。傾城の高名を借りたか、阿ったか。
 プランタンにも土があり肥料がある。陽が注ぎ水も注す。なのに作不作を別つ。園芸に無縁な頭には知り難いが、敢えて揣摩憶測を労してみる。
 今やプランタン栽培は家庭から農園まで至極当たり前。しかもゴーヤは害虫に強く日照と気温、水さえ充分なら肥料や農薬など使わずに栽培できると聞く。ならばやはり土が悪かったのではないか。どのような土がお好みかは与り知らぬが、去年のプランタンの土はお気に召さなかったらしい。それともプランタンという狭小な枠組みに根が押し込められたのが気に障ったか。ともあれ今夏は蔦が網を覆い尽くし簾となって炎熱を遮り、さらに苦みが利いた大人の味を供してくれるだろう。
  ワシントン・スクエアの西側にある古びたアパート。芸術家のアジトだ。そのひとり、画家のジョンジーは重い肺炎を患い、医師から余命幾ばくもないと告げられる。気力も萎えたジョンジーはやがて窓外のレンガの壁を這う蔦の葉を数えるようになる。「あの葉がすべて落ちたら、わたしも死ぬ」と。幾日かが過ぎ、夜通し暴風雨が荒れ狂った翌朝、たった一枚残った葉が壁にへばりついていた。ジョンジーは強く心打たれ気力を取り戻し奇跡的な回復を遂げる。その「最後の一様」、実は壁に描かれた絵であった。階下に住む老画家ベアマン。日ごろわが才能を誇っても絵筆は取らず自堕落な生活を送る飲んだくれだ。そのベアマンがジョンジーの話を聞き、風雨に打たれながら夜を徹して描き上げた作品があの一葉であった。ところが雨風が祟ったか、今度はベアマンが肺炎に罹り急死してしまう。オー・ヘンリーの短篇小説である。
 高齢化とはいっても、古稀を過ぎればさすがに余命宣告を受ける友人知人がポツポツと出てくる。かく言う当人だっていつジョンジーになるか判ったものではない。その時、果たしてベアマンは現れるか。あるいは自らがベアマンたり得るであろうか。はなはだ心許ない。
 小庭の網を這い上がるゴーヤの蔦が胸のうちに妙に絡み、古アパートの蔦にまで延びてしまった。どちらも決して甘くはない。 □


高橋さん、ひと言足りない! 

2020年07月22日 | エッセー

 まずは今日付朝日の<多事奏論>から。
 〈コロナ禍の目覚め 安倍劇場と「共演」してない? 論説委員・高橋純子
 良くも悪くも、人は忘れる。脱原発の集会やデモには万単位の人が集まった。便利な生活を見直し、文明を問い直そうという議論がさまざまに、活発になされた。
 だが、簡単に答えが出ない問題を、踏みとどまって考え続けるには知的にも精神的にも体力がいる。
 ああ、疲れた。
 そんな「厭戦気分」ならぬ「厭考気分」にうまく乗じたのが、安倍政権だったと私は思っている。「この道しかない」と力強く言い切り、7年半の間、選挙であれ外交であれ、一種の見せ物として仕掛けていく「イベント屋」としての才をいかんなく発揮、難しいことは考えなくていいんですよ、面倒なことは忘れて、いまここを楽しみましょうよ、その方が人生お得ですよ――そんなメッセージで人々のもやもや、後ろめたさを消してくれた。
 その集大成が、東京オリンピック・パラリンピックとなるはずだった。
 もし予定通りだったら、連呼される「がんばれニッポン」。あおりあおられる一体感。そんな中でたとえば、森友学園をめぐり公文書改ざんを命じられたと命を絶った赤木俊夫さん、妻・雅子さんの訴えは、どれくらいの音量で人々の耳に届いただろうか。
 「アンダーコントロール」
 「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は、統御されています」。自国の首相が堂々とうそをつく。いかにも不誠実で、恥ずべきものだった。
 「うそも方便」が裏口ではなく表玄関をくぐり、それを拍手で迎えてしまったら、あなたも私も、首相プロデュースの舞台「不誠実」の「共演者」、控えめに言っても「観客」である。まんまとしてやられた。悔やんでも時すでに遅しで以後、舞台は題材を変えながらロングランを続ける。都合の悪い情報は隠し、あったことはなかったことにして……。〉(抄録)
 池田清彦氏は「大ウソつき」と扱き下ろし、中野信子氏は「排外主義者」と忌み嫌う。内田 樹氏は「あんな男」と一刀両断し、今、高橋氏は「イベント屋」と本性を曝く。まことに鋭い。
 敬愛する高橋論説委員に楯突くつもりもそんな膂力もありはしないが、ちょいと舌長(シタナガ)をしたい。
 なんのための「イベント」か? ということだ。これこそ画竜点睛ではないか。知れ切ったことゆえ敢えてお書きにならなかったのだろうが、わたしのような凡人にはなんとも歯痒い。そうです、改憲です。イベントが巻き起こすグルーヴ。その多幸感に乗じて一気に改憲へ。爺さんから隔世遺伝したトラウマから抜け出る。それが最終目的地である。
 内田 樹氏は「街場の天皇論」で安倍を、自らの血縁者だけを選択的に死者として背負い、その「死者に負託された仕事をしている」ことに自覚的な数少ない政治家である、と断じている。
 爺さんの悲願を達成し、戦犯の汚名を雪ぐ。つまりはそういうことである。
 「イベント屋」を突き動かす個人的ルサンチマン。それを決して忘れてはなるまい。 □


名 句

2020年07月20日 | エッセー

    夏草や兵どもが夢の跡

 これは、解る。無常観であろうか。括って解った気になるのは邪道かもしれぬが、凡愚には飛切りの感性なぞない。ところが、知情ともに追いつけず意も萎む句がある。

   古池やかはつ飛び込む水の音

 名句として名高いが、これが解らない。どこがどう卓絶するのか腑に落ちない。
 先日のこと、これが一気に氷解した。
 余りにちぐはぐなタイトルなので手に取った。
 池上英子・田中優子 「江戸とアバター」──私たちの内なるダイバシティ (朝日新書、今年3月刊)
 本屋のカバーを開けると、帯が飛び込んできた。
 〈 「自分」を複数もつことの限りない豊かさと創造性! 
歴史と未来、デジタルと認知科学を縦横に駆け抜けるスリリングな論考
「身分社会」の江戸でなぜ絢爛豪華な文化が咲いたか?〉
  池上氏はNYニュースクール大学大学院教授で文化社会学に精通。田中氏は江戸文化研究の大御所にして法政大学総長。いつも和服でキリリとお決めになっている。
 前半で柳家花緑との対話を通して落語は「アバター芸だ!」
と語る池上氏。アバターとは何かを明らかにしていく。
 受けた後半の末尾で、田中氏はこう記している。

 〈「明るい」という言葉を一度も使っていないにもかかわらず、「なぜ明るい時代だとしたのだ」と言われることがある。誤読なのか、それとも江戸にしっかりと根付いていた別世の効果なのか? このことは、私たちの時代を顧みる契機にもなる。〉
 維新政府の江戸時代に対する否定的スタンスがいまだに尾を引いているのであろう。近現代の二倍に相当する長い長い近世が暗かろうはずはない。それをアバターという斬新な視点から論究する。実に「スリリングな論考」であり、大いにインタレスティングだ。
 それは措いて、上掲の句を取り上げた田中氏の洞見に氷がたちまち溶けた。それはこうだ。
 まず古の和歌がある。
 「かはつ」「澄んだ川」「山吹の花」の取り合わせは和歌の定番であった。田中氏は「かはつ」はカジカガエルで、「清流に住み、鳥のように美しい声で鳴く。そこで和歌の世界では鳥として扱われる」(上掲書より、以下同様)という。

   かはつなく井手の山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを (古今和歌集)

 「山吹は散ってしまったのだが、花のさかりに来てみたかった」との謂だ。これを本歌とし、芭蕉はこう変化(ヘンゲ)させた。
 〈まず「山吹の花」を消した。カラフルな世界が消え、モノクロームに一歩近づく。さらに、「澄んだきれいな水の川」を、「古池」という、古く濁ったよどんで流れない水に百八十度ひっくり返した。まったくのモノクローム。しかも濁っている。最後に、かはつに鳴かせなかった。飛び込ませたのである。古池に飛び込むくらいだから、カジカガエルでないことは明白だ。聴覚がとらえたのは鳥のような声ではなく、アマガエルかガマガエルかヒキガエルか、とにかくそういうカエルが水に飛び込んだ音である。〉
 これで風雅が成った。田中氏はつづけて、芭蕉は「背景に残像として残っている」和歌を取り去ったとする。「澄んだ川」は流れのない澱んだ古池、つまりは「時間の堆積物」に。「かはつ」は鳴かせず飛び込む音に。「山吹の花」は丸ごと外して墨絵の書割に。それは、
 〈古池という現実的でありながらも時間の堆積物が中心の存在になるようなシーンを発明し、そこに飛び込み、堆積物(記憶)を広げながらまったく新しい音(流行)を出現させたのである。風雅は、不易と流行を一体化させる方法である。このような転換の方法が蕉風である。〉
 単なる定番破りでも換骨奪胎でもない。もちろんデフォルメでもない。懐古に足を取られず、今風に足を掬われない。それどころか、歴史の堆積物に俳人が潔く飛び込む。水の音が静寂を破る。それは「新しい音」だ。田中氏の名講義は門外漢で愚昧なこの耳にも届いた。やっと腑に落ちた。
 後、蕉風は正岡子規によって批判される。芭蕉さえも古池に身に窶す。時は非情だ。 □


『東京差別』

2020年07月14日 | エッセー

「県外からの転入生に登校の自粛を要請した」
「都内ナンバーを付けた車が傷つけられた」
「祖母の葬儀のため帰省しようとしたら、父親に帰るなと言われた」
「娘が久しぶりの休みに田舎へ帰ると伝えたら親に、もし感染したらここで生きていけなくなる。転職しなきゃいけなくなると拒否された」
 こういうのを『東京差別』というのだそうだ。クール・ファイブの「東京砂漠」なら聞いたことはあるが、「東京差別」は初耳だ。
 お千代さんの「東京だよ、おっかさん」は、「東京ヤ(嫌)だよ、おっかさん」に。松村和子の「帰ってこいよ」は「帰ってくるなよ」に。吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」は「俺ら東京さ行がねだ」に変わったってことか。と書いて、曲の古さに苦笑いしている。でも憧れの東京は今、疎まれの東京に変貌したといえよう。
 取り上げたTVニュースワイドでは、訳知り顔のコメンテーター諸氏が「差別」はいけないとしたり顔で一般論を宣っていた。彼らは狡い。分かっているくせに本当のことを言わない。
 東京都の人口は全国の1割強、都内総生産は名目で19%、トルコ一国を上回る。07年度で国税55兆円のうち都の負担は約20兆、36%に達する。
その他どんな指標を取っても全国で群を抜く。つまりは東京一極集中、裏返せば東京による全国支配だ。開府から400余年の間は幕藩体制で分散型。維新後、一挙に東京に一国のあらゆるリソースが集中し始めた。爾来150余年、震災、戦災を経てもなおその流れは緩まることはない。通算550年間、東京は被差別者となったことは一度もない。常に支配者であり続けた。政治も経済も文化も、地方はいつも東京の後塵を拝してきた。そのルサンチマンがコロナ禍で噴き出している。それが本当のことだ。差別の前に越え難い「格差」がある。そのことに目を瞑っているから彼らは狡いという。
 格差を持ち出せば、「じゃあ、お前はどうなんだ」と格差に安住し東京にパラサイトする以外活計の術がない彼らは逆襲される。だから、彼らは口を噤む。
 経済回復と感染防止。矛盾する難題の狭間で東京都は呻吟している。本来、アンビヴァレントの呻吟は人間に成熟をもたらす。相反する価値の選択を迫られた時、その二者択一の苦渋は人に稔りを与える、はずだ。だが都知事の場合、選択から逃げているようにしか見えない。複雑な基準を設定して、怪奇なレベルを打ち出す。しかも使うデータは粗雑極まりない。いつ、どこで、どんな人を、何人、どう調べたのか、すべて曖昧。そんな数字を挙げて実態とズレが生じると基準を変え、怪奇なレベルに再設定する。寝台に合わせて旅人の足を切ったプロクルステスとそっくりだ。二者択一の苦渋はこの知事に成熟ではなく、安直な知的退嬰化をもたらしたとしか見えない。片や宰相は部下と地方に下駄を預け、気楽なもんだ。もっとも、あの程度の男に選択の苦渋に挑もうという勇気や知性などありはしない。大きな顔に不似合いで不釣り合いな布マスクを付けて与太を飛ばすのが精一杯。期待したって馬鹿を見るに決まっている。なぜ国会に、とのインタビューに「日本を良くしたいから」と応えた案里議員の方が気の迷いだとハッキリ判るだけまだ正直だ。
 史上初めて差別の憂き目に会った東京。あんな厚化粧のおばさんで大丈夫か? 『第2波』卒業のためにカイロにでも「帰ろかな」。よぉ、サブちゃんだね! □


「お買い回り」??

2020年07月13日 | エッセー

 もう4・5年前になるか、あるスーパーマーケットで「ごゆっくり、お買い回りください」という館内放送を耳にした。おかしい! 変だ! とても耳障りである。馴染みの店長なので、その旨告げた。ところが、一向に改まらない。自然に足が遠のき、近ごろはとんとご無沙汰だ。
 ならば、他のスーパーはどうか。これがきれいに横並び。全国スーパーマーケット協会が統一したマニュアルでも出しているのかもしれない。そのためスーパーは行きたくないところばかりとなって、「買い回り」せず早々に立ち去るのを旨としている。ネットに当たると、この放送に違和感を持つ消費者はかなり多い。
 先日足を伸ばし、友人が店長をしている大型スーパーを訪った。ここでもあれだ。しかし持つべきは友、早速本社に掛け合うと応じてくれた。
 字引によると「回る」は多義に亘るが、その内<動詞の連用形に付いてその辺りを『あちこち』するの意を表す動詞>が該当する。用例として「のたうち回る」「走り回る」が挙げられている。
 他にも、「うろつき回る」「ほっつき回る」「嗅ぎ回る」「聞き回る」「呑み回る」「言い回る」「告げ回る」「逃げ回る」「暴れ回る」「付け回る」などと来て、とどのつまりは「猿回し」。決して耳に心地よい言葉づかいではない。聞いて晴れやかな心地になる物言いではない。
 ごく普通に、「ごゆっくり、お買い物ください」でいいではないか。偏屈な稿者などはつい「右や、左の旦那様」よろしく持ち上げて、褒め殺しを狙っているのではないかと勘ぐってしまう。
 一方、百貨店に対しては上記の批判はない。百貨店が衣食住の生活全般を扱い対面販売であるのに対し、スーパーは食料品を中心とした日常品を商いセルフサービスであることが両者を隔つ主因ではないか。外商までする百貨店は言葉へのセンシビリティが鋭くなる。まず、買い物を促すような野暮は言わない。良い悪いは措くとして、上位グレードにあるという幻想的前提が主客にある。そういう事情であろう。
 逝去に「物事の本質を鷲掴みにし、刹那に斬り別ける青竜刀のごとき知性」とオマージュを贈った故橋本 治氏。氏はこう語った。
 〈日本の敬語の歴史は、ある意味、過剰包装の歴史で大衆化の歴史ですね。敬語は、神様に対して使うものだったのが、だんだん下へと降りてくる。敬語のカジュアル化が、その反作用として上に対する過剰化も生む。古事記の「ノリタマフ」が使われる状況は、だいたい大声で言っているのです。だから私は「ノリタマフ」の「ノリ」は、すべて「叫ぶ」と訳しました。この「ノリ」は祝詞(のりと)の「ノリ」で、神様に伝えるのが祝詞だから大声でなきゃいけないわけですね。「祝詞」というのは、能や狂言、あるいは歌舞伎でも、祈りを捧げるシーンに使われる伴奏音楽の名前でもあります。もう一方「乗(のり)」という表現もあります。リズムに乗るという「ノリ」ですが、これも能楽の用語なんですね。乗っかるの「ノリ」と、大声で言うことの「ノリ」は、そもそも同じところから出ているんじゃないのかな。〉(「だめだし日本語論」から抄録)
 青竜刀が捌くとこういうことになる。「大声でなきゃ」遙か高みに居ます神まで届かない。その神が「大衆化により「だんだん下へと降りて」来て、今やお客様は神様に。そのようにして、「敬語の過剰包装」が起こった。であるなら、いっそ降臨した神の霊験に「乗っかるの『ノリ』」でいこう。そのノリが滑って「お買い回り」なるへんてこりんな言いざまを生んだ。
 百貨店は囁き、スーパーは「叫ぶ」。百貨店はご自分が「神」で、スーパーはコンシューマーが「神」。百貨店はステイタスに乗り、スーパーは時流に「乗っかる」。百貨店は包みが「過剰」で、スーパーは敬語が「過剰」。……まあ、仲良くやっとくれ、だ。 □


河井夫婦に推定無罪はない

2020年07月10日 | エッセー

 河井夫婦が公選法違反の罪で起訴された。どうしても確かめておきたいことがある。
 8年前(12年5月)の拙稿を再録する。
 〈 ずいぶん古い映画だ。三島由紀夫扮する薩摩藩士・田中新兵衛が罠に嵌められる。暗殺の現場に彼の佩刀が残されていたのだ。証拠の段平を見せられ、改めようとしてそれを手に取るやすかさず腹掻っ捌いて果てるという凄絶な場面が展開する。もちろん冤罪である。しかし嫌疑を掛けられた時点ですでに武士の面目は失われている。この場合、無実の証明はほとんど顧慮されていない。申し開きは無用であり、かつ有害だ。ましてや縄目の恥辱を受けるわけにはいかない。面目を回復する手段はただ一つ。武士のみに許された自死の作法である切腹だ。武士たるを証するには、武士たる特権的手法を鮮やかに振るって死んでみせる以外にないというパラドキシカルな理路がそこにはある。
 69年、五社英雄監督による『人斬り』である。
 以下の内田 樹氏の一文に触れた時だ。上記のシーンが蘇ってきた。引用してみる。
《 「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」 この古諺は官人というのは、「潜在的なドロボウ」とみなされているから、そのつもりで挙措進退を心がけるようにと教えている。あなたたちは「いつでも容疑者」なのだから、そのつもりで常住坐臥、ふるまい方に人一倍気を付けなさいと言っているのである。
 通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。官人は「疑われたら罰される」。「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用されるのは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう。官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。レフェリーたる公人は「ゲーム」に参加することは許されない。
 本人が「私は知りませんでした」といくら言い張っても、「知っていたと想定された」場合、それは「知っていた」と同じことである。なぜなら、公人とはまさに「想定される」という仕方でのみ機能する社会的装置だからである。
 公的過程とは、「ほんとうは何が起こっているか」ではなく、「何が起こっていると想定されているか」という水準で展開する。これが「李下に冠を正さず」の古諺に託された人類学的洞見である。「知性があると想定し」、「正しい決断を下す判断力があると想定し」、「高い倫理性を備えていると想定」した上で、私たちは彼らに権力と情報を集中させることに同意している。だから逆に言えば、政治家は実際に有能である必要も有徳である必要もない。「有能有徳であるように見えれば」それでOKなのである。官僚は清廉である必要も能吏である必要もない。「清廉にして怜悧であるように見えれば」それでOKなのである。民は「太っ腹」である。》 (「期間限定の思想」から) 〉(「卓袱台返し」から抄録)
──政治家は「潜在的なドロボウ」「いつでも容疑者」であるがゆえ、「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用される。それは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。「知性があると想定し」、「正しい決断を下す判断力があると想定し」、「高い倫理性を備えていると想定」した上で、つまり荀子の性悪説は一旦括弧に入れて私たちは彼らに権力と情報を集中させることに同意している。「清廉にして怜悧であるように見えれば」それでOKとした。民は孟子の性善説を開けて通す「太っ腹」の持ち主なのだ。──
 実に明解で判りやすい。腫れるほど膝を叩き、刹那に腑に落ちる。快哉を叫ぶほど深く同意できる。そうなのだ。政治家に「推定無罪」はない。彼らは「推定『有罪』」である。もちろん近代法の基本原則をいっているのではない。原則以前の人倫について語っている。
 さらに一稿。
 〈「李下に冠を正さず」という言葉がある。私の友人(加計孝太郎氏)が関わることだから、国民の皆様から疑念の目が向けられることはもっともなことだ。思い返すと、私の今までの答弁においてその観点が欠けていた、足らざる点があったことは率直に認めなくてはならないと思う。常に国民目線に立ち、丁寧な上にも丁寧に説明を重ねる努力を続けていきたい。改めてその思いを胸に刻み、今この場に立っている」
 衆院予算委員会冒頭でのアンバイ君の発言である。おぉ、と耳をそばだてた。ん、ん。なんか変だ。
 「私の友人が関わることだから」は、確かに「李下に」に符合する。李下にあるなら、「国民の皆様から疑念の目が向けられることはもっとも」ももっともだ。「答弁においてその観点が欠けていた」の「その観点」とは「疑念の目」であろうから、これも解る。変なのは、続くフレーズである。「足らざる点があったことは率直に認めなくてはならないと思う。常に国民目線に立ち、丁寧な上にも丁寧に説明を重ねる努力を続けていきたい」。約(ツヅ)めれば、今度は「丁寧に説明」をしますということだ。
 「冠を正さず」はどこへいったのだろう? いや、そんなことはない。まさか、そこまで物知らずではなかろう。と、自問自答してみたが、やはり明らかにコンテクストは「丁寧に説明」が「冠を正さず」に該当する。もしくは端っからないか、どちらかだ。ひょっとしてアンバイ君は「冠を正さず」を「冠を正さなくてはならない」、「正さなくては疑われる」とでも理解しているのではないか。そこまでわが宰相をアホ扱いしては天に唾するものではないか。でも、そうとでも理路を追わないと、この発言は日本語にならない。
 この箴言の「冠を正さず」とは、たとえずれた冠を正すという“正当な”行為であっても李下では避けよとの訓(オシエ)だ。
 「人の上に立つ王たる者は他人から嫌疑を受けるような立場になってはなりません。例えば、李(スモモ)の木の下で冠のズレを直してはなりません。手を伸ばして李の実を盗んでいるように見間違えられてしまうからです」
 「明示的な『総理のご意向』はなかったであろう。手続き上の瑕疵もなかったであろう」状況を「李の木」だとすれば、内部文書の「内部」は文字通りその「下」を、「文書」は「冠のズレを直して」に吻合する。「気張っちゃダメ」なのに、わざわざ「おしりを切っていた」。ケツカッチンは「冠を正さず」のまったく逆、「正した」ではないか。〉
 お判りいただけるであろうか。たとえ「“正当な”行為であっても李下では避けよ」だから、愚稿においては説明不足をまったく問題視してはいない。正当性を訴えることは、むしろ「冠を正す」ことになってしまう。厳密にいえば、李下に入った時点ですでにアウトなのだ。だから箴言は、李下に入ったらもう常識的で適法な言動をとるなといっている。それが最上の防衛策だと教示している。抗弁しないことが得策なのだ。薄ら惚けて、ずれた冠でもそのままにしておけ。それが君子の振る舞いだと箴言はいう。だって、すでにアウトなのだからそれ以上傷口を広げないようにするしか手はないのだ。〉(17年7月「首相官邸に辞書はないのか?」から抄録)
 「切腹」とは生涯政治の世界から身を退くことである。一切、すべて。一指も触れさせてはならない。服役だけで贖罪にはさせない。死ぬまで被選挙権を付与しない。「李下に冠を正さず」とはテメーを「『潜在』的なドロボウ」と心得よということである。ところがこの夫婦、辞職はしない、言い訳だけはする。もはや「『顕在』的ドロボウ」そのものではないか。かてて加えて、またもや「任命した者として責任を痛感する」とは言っても「責任を取る」とは言わないアンバイ君は「『顕在』的大ドロボウ」と断じざるを得ない。 □


携帯、不携帯のすゝめ

2020年07月08日 | エッセー

 副題は「ココアは甘くない」。
 昨年5月「異様な対応」と題する拙稿にこう記した。
 〈川崎死傷事件(通り魔殺傷事件、2人死亡、18人負傷)を受け、安倍首相は、事件の全容解明のほか、警察や学校が把握した不審者情報を共有する仕組みを強化するよう、閣僚らに指示した──。異様ではないか。ほとんど未解明の段階で一国のトップが前面に出て、こうまで即断し指示を出す。「不審者」とは何なのか。どういう基準で誰が決めるのか。明確な殺意とターゲットをもった計画犯だったのか。もしそうなら不審者とは呼べない。まだなにも判ってはいない。「情報を共有する仕組みを強化」からは相互監視社会、管理社会へのバイアスが臭ってくる。〉(抄録)
 今年3月の「ジャメヴュ」では、恐るべきは便乗独裁だと呵した。
 COCOA(ココア=COVID19 Contact-Confirming Application)。これはその第一歩だと断ずるのは杞憂であろうか。少なくともコンスピラシーの機先を制することは歴史に学ぶ骨法である。なにせ監視・監理が滅法好きな宰相である。性根は戦前志向である。感染予防のお為ごかしが蟻の一穴になるのではという疑念は決して手放してはならない。だから、「ココアは甘くない」と副題を付けた。
 Confirming=確認とは何か? 厚労省はGPSを利用も記録もしないスマホアプリだという。陽性者が登録に同意した場合、1㍍以内15分以上の近接をその条件内にある利用者に通知し、あとの対処を案内する。つまり「確認」とは「密接」を確認しているようで、『分断』を教唆しているのだ。その先に密告社会が待ち構えていると断ずるのは杞憂であろうか。少なくともコンスピラシーの機先を制することは歴史に学ぶ骨法である。だから、「ココアは甘くない」と副題を付けた。
 世界一の監視社会は紛れもなく中国である。それを可能にしているのは17年調べで約8億人、人口の半数以上にまで普及したスマホの存在だ。さらにそれを下支えしているのがキャッシュレスの急速な拡大である。イギリス、韓国に次いで世界で3番目の普及だ。中国人民銀行が音頭を取ったカード誕生がきっかけとなり、高額紙幣がないため経済成長に追いつけない中で電子決済にリープフロッグしたためだ。その他偽札対処も大きな理由だ。しかしそれは反面、管理社会へのとば口ともなった。
 蟻の一穴を塞ぐ蟻の防御。群れなす蟻の一匹に過ぎない稿者はささやかな対抗策を講じている。それはスマホを外へ持ち出さないこと。「携帯、不携帯」の励行である。もう数年になる。「アイツはずーっと家にいやがる」 そう裏を掻いてやる。外出時に理由を問われると、「あんなちっちゃな機械1つに大の大人が四六時中纏わりつかれる謂れはない」と応える。カネはモバイルバンキングを利用しているし、元々預金など無いに等しい。当方にとってキャッシュレスは文字通りのキャッシュ「レス」である。なんの掻痒もない。
  PRESIDENT Onlineにこんな記事があった。
 〈デモ参加者の間では「デジタル断ち」と呼ばれる行動が広がる。デジタル空間での痕跡を最小限にする取り組みで、電子マネーの利用もやめ、現金での生活に戻すようになっている。香港版SUICA「オクトパス」や電子決済「アリペイ」を使うと、地下鉄やトラムの乗車履歴や、買い物履歴などのデータが残る。誰がいつ、どこにいたのか、位置情報などの証拠として、当局にそのデータを使われる可能性があるという。スマホのGPS機能を切り、写真データが筒抜けになる可能性があると、変顔アプリやゲームアプリすらも使用しない徹底ぶりだ。〉
 「デジタル断ち」とはすばらしい! 「携帯、不携帯」など足元にも及ばない。香港の若者にエールだ。 □


「うれしく思います」?

2020年07月04日 | エッセー

 コロナばかりでは食傷する。久しぶりに言葉について考えたい。
 なんとなく据わりの悪い言い回しがある。「うれしく思います」はその筆頭である。
 本来なら「うれしゅうございます」であろう。音便の変化である。
 「うれしいです」──学校教育では誤りとされていたが、国語審議会が認めた丁寧表現である。だが、違和感は残る。何とかというお笑いが使う「口惜しいです!」を連想する。
 「うれしいですね」・「うれしいですよ」──終助詞を付ければ収まりはよくなるが、相手次第だ。
 「うれしい限りです」・「大きな喜びです」──誇張になるばあいがありそうだ。
 「楽しんでいます」・「感激しています」・「感謝しています」──「うれしい」の中身では使えるかもしれない。
 昨今はさまざまなシチュエーションで「うれしく思います」一辺倒である。それでは能がない。状況に応じて言葉そのものを使い分ける工夫が要るのではなかろうか。
 「思います」については14年前(かなり昔である)の06年「『おかずを思う』か?」と題する拙稿で種々述べた。
 〈広辞苑によると、①思慮 ②期待 ③予想 ④決心 ⑤心配 ⑥慈愛 ⑦回想 の七つになる。実に多義にわたる。心の動きほとんどをカバーすると言っていいくらいだ。多義であることは、すなわち曖昧に通じる。
―― 大野 晋著「日本語練習帳」(岩波新書)から
≪「思う」と「考える」の違い≫
 「思う」とは、一つのイメージが心の中にできあがっていて、それ一つが変わらずにあること。胸の中の二つあるいは三つを比較して、選択し構成するのが「考える」。この違いは昔からあったのです。
  「考える」という言葉を古くさかのぼると、罪人を刑罰に処するときに、「……に勘ふ」と言いました。「事柄を突き合わせてしらべる」のが「考える」の最古の使い方です。現在も、「企画を考える」とか「献立を考える」という。「思う」は使いません。≫――〉(抄録)
 以下、十八番の酢豆腐である。
 「うれしく思います」はおそらく皇室から始まったとみていい。それはきっと、「うれしゅうございます」の変化ではない。そうではなく、文字通り 「うれしい」 + 「思います」 ではないか。「うれしい」という感情に上記①思慮の「思います」が付いた。つまり、「うれしい」との感情表現を「思います」によって迂回している。なにせ、日本人の中で最も忠実な憲法の実践者である。象徴が感情を直截に言表してはならない。生な心情の吐露は避ける。その慮りがこの言辞を生んだ、そうみたい。「状況に応じて言葉そのものを使い分ける工夫が要る」のは国民で、皇室はそんな能天気ではいられない。その窮屈さを国民の一人として御推察申し上げねばなるまい。
 となれば、文字面は同じでも音便と迂回はえらい違いだ。こちらは穏便、あちらは迂回。心して参りたい。 □


恐怖!「新しい生活様式」

2020年07月01日 | エッセー

 拙稿を再録したい。5月5日「』新しい生活様式』??」から。
 〈「新しい生活様式」は『古い生活様式』、つまりは戦前志向への地均しだ。
 「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」「進め一億火の玉だ」「石油の一滴、血の一滴」「全てを戦争へ」などなど、戦時標語が羅列する「国民精神総動員運動」。「新しい生活様式」の中身、いやそれ以上に「精神総動員」の手法とのアナロジーに改めて驚かされる。近衛内閣が仕掛け、総員が奈落の底に突き落とされたのはわずか80年前だ。戦争とパンデミックでは話はまったく違うという反論もあろうが、ある構造が類似する社会の動きを誘起してきたのは歴史的事実である。だとすれば、この国は本当に成熟したのであろうかと自問したくなる。〉
 初めて知って驚いた。大政翼賛会の研究をしているまんが原作者がいる。大塚英志氏だ。以下、朝日への寄稿から要録する。
 〈(耕論)「新しい生活様式」の圧 新型コロナ日常に入り込んだ公権力  6月21日
▼80年前にも、新聞や雑誌には「日常」や「生活」があふれていました。家庭菜園、古着再利用などの記事が競って掲載されています。
▼記事に軍国色は感じにくい。しかし、目的は「日常」レベルで「戦時体制をつくる」こと。そのために昭和15年に発足した大政翼賛会が説いたのが「新生活体制」でした。
▼コロナ下の光景は、その「新生活体制」の繰り返しに見えました。家庭菜園が人気、断捨離の動画。政治やメディアは、日常のつくり替えによる行動変容を説く。そこに違和感を抱きました。
▼実は翼賛体制に向かう前振りにあったのが、「自粛」でした。パーマネントや接客するカフェがやり玉にあがり、映画館の行列は白い目で見られました。自粛警察のような動きさえありました。
▼「自粛」や「新しい生活様式」にへばりつく「正しさ」がとても気持ち悪い。けれど「気持ち悪い」と言いづらいような社会の空気がもっと「気持ち悪い」。
▼将来この時代を振り返った時、今の愚かさが見えてくるはずです。しかし、「反対できる空気じゃなかった」と弁明するのですか。それは、戦争に抗わなかった親世代の言い訳と同じです。
▼生活という個人の領域に、不用意に公権力が介入してくることを「おかしい」と思うのは、民主主義の基本です。
*おおつかえいじ 1958年生まれ。まんが史を軸に戦時下文化研究も行う。著書に「大政翼賛会のメディアミックス」など。〉
 非常に心強い援軍である。
 〈気持ち悪い」と言いづらいような社会の空気がもっと「気持ち悪い」〉
 蓋し、核心を突いている。では、なぜこうなるのか。
 保守派の論客・京都大学名誉教授の佐伯啓思氏が同じく朝日に寄稿した論攷を徴したい。次は節録。
 〈(異論のススメ スペシャル)死生観への郷愁
▼東京の感染者数は、無症状者も考慮して多く見積もって約6千人。人口は1400万人。感染確率は0・05%にもならない。死者数は300人強であるから、致死率はたいへん低い。日本全体でも、感染確率は0・02%以下である。一方、インフルエンザによる死者数は年間約1万人とも推定され、19年の感染者数は何と1200万を超えている。
▼といっても、実存感覚からすれば、「かかる」か「かからない」か、「生きる」か「死ぬ」かのどちらかなのである。見えない敵によっていつ死に直面するかわからない、という不安にわれわれは襲われたのだ。
▼この不条理な死ともに「無常」という仏教的観念が日本人の精神の底を流れていたことは疑いえまい。
▼トマス・ホッブズが国家とは何よりもまず人々の生命の安全を確保するものだ、と定義して以来、近代国家の第一の役割は、国民の生命の安全保障となった。
▼今日、われわれの生と死に対して責任をもつのは国家なのである。
▼自分の生命はまず自分で守るという自立の基本さえもない。〉(6月27日付)
 近世まで疫病をはじめとする天変地異による被害は個々人の無常観の内に吸収されていた。確かに被災民を救援する領主はいたが、憐憫に基づく徳治でしかなかった。近代に至ると、それは国家が引き受けることになる。万人の闘争と引き換えに国家の軛を受容させる見返りでもあった。だがそれは「個人の領域に、不用意に公権力が介入してくること」まで認めたわけではない。それが大塚氏がいう「民主主義の基本」である。
 ただ、リヴァイアサンは習性として檻が嫌いだ。檻を抜けたヤツはまちがいなく真っ直ぐに飼い主を食い殺そうとする。それを弁えておくことも「民主主義の基本」だ。
 今コロナ禍に便乗してその「基本」が蝕まれようとしている。公権力への丸投げ、白紙委任から脱した新たな民主主義の地平を拓くため、無常の諦念を超えたアクティブでヒューマンな基軸を模索する時代に入ったといえまいか。 □