伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

囚人の記 2

2008年02月10日 | エッセー
<逮捕>
 ICUに1週間いて、考えた。これは逮捕以外のなにものでもない、と。
 法の定義によると、逮捕とは人の身体を直接に束縛して自由を拘束することとある。三種類あって、逮捕令状をもって検察官・検察事務官・司法警察職員のみがなし得る通常逮捕。また、犯罪を犯したと疑うに足りる十分な理由のある者を、逮捕後に令状を請求することを条件に、検察官・検察事務官・司法警察職員のみがなし得る緊急逮捕。そして、現行犯逮捕である。問題はこれだ。 
 刑事訴訟法第213条の定めによれば、「何人でも逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」と一般私人にも認められる権限である。条文の「これ」とは現行犯人のことだ。現行犯人とはなにか。現に犯罪を行っている者をいう。現に犯罪を行っているところを発見された場合には犯行事実がはっきりとしているので、そのまま逮捕しても人権の侵害はないとの解釈である。ただし、未遂の段階では単なる不審者であり現行犯人とはいえないので、この権限は発生しない。
 
 わたしの知見によれば、医師及び看護師、薬剤師、レントゲン技師、栄養士、その他掃除のおばちゃんにいたるまで、病院関係者はすべて一般私人である。もし彼らが「人の身体を直接に束縛して自由を拘束すること」に及んでいるとすれば、それは「現行犯逮捕」以外のなにものでもない。他にこのような「特権」の定めを知らない。もちろん、医師法には医師の義務として「療養指導義務」が規定されている。これはドクターに課される義務であって、クランケを縛るものではない。まさか患者はかくあらねばならないという規矩準縄などあろうはずはない。あるいは、蒙昧のゆえにわたしが知らないだけか。しかし、まさかそんな……。
 内実は現行犯逮捕と変わらない。いや、それ以上の拘束力を持つ。極悪人にしたところが、死刑までには気の遠くなるようなプロセスを経ねばならぬ。ところが、こちらは指呼の間だ。医療事故は日常茶飯であるし、点滴ひとつに命がかかる場合だってある。かつ格子はないものの状況を括れば、格子なき牢獄だ。だから現行犯逮捕と違わない。だとすれば、いかなる罪科を現になしていたのかである。

 改めていうまでもなく、病気は犯罪ではない。万人が確実に患う。知能、学識、地位、名誉、財産に関係なくだ。さらに、健康にも関わりなくだ。「元気に死にました」は冗談にもならない。いかな健康体であろうとも、死に際しては必ず病む。病まずに死ぬはずがない。死と同様に、病もまた人みなすべてに不可避だ。ならば、実態的に限りなく現行犯逮捕に近い行為がなぜ易易となされるのか。なにゆえこのような「不法」が罷り通るのか。

 囚人(メシュウド)に身を窶(ヤツ)しつつ郢書燕説を試みた。
第一に、症状の先には死が待ち構えていること。誰人もわが命は惜しい。
第二に、「不法」を咎め立てる捻(ヒネ)くれ者がいなかったこと。
第三に、医者の言を信じ身を委ねたこと。
第四に、苦痛に耐えきれず「正常」な判断力を失っていたこと。
第五に、運を天に任せたこと。医者にではなく、天にだ。
第六に、したたかなMであること。
第七に、なにも考えなかったこと。性格が素直であったこと。
…… そんなところか。
 第一は自明。第二、第六は奇人変人に属し、第四は悲しい現実だ。第七は常識の範疇か。そして第三と第五、有り体は同じことだ。肝心なのはここだ。つまりは、クランケの「善意」による委託。肝心要、画竜点睛はここだ。
 「不法」を不問に付しているのはクランケの善意だ。最近はセカンド・オピニオンが行われるようになったが、それとてあくまでオピニオンでしかない。クランケにとってドクターはオンリー・ワンだ。たとえドクターにとってクランケはワン・オブ・ゼムであろうとも。極めて偶然に属すとはいえ、キュア(治療)を委ねられる医師はこの厳粛な事実に襟を正すべきであろう。クランケの善意の海に浮かぶ船がドクターなのだ。ドクターを中心とする医療機関である。早い話が、患者がなくては医師は成り立たぬ。医師なき患者はいても、決してその逆ではない。どこの物好きが医者のために病気になるか。
 医師は患者の「善意の海」に溺れてはならない。実情にそぐわない部分があるとはいえ、「ヒポクラテスの誓い」は万古不易である。だから今でも、医療関係者はこの誓いをなぞる。「西洋医学の父」と謳われる古代ギリシャの医学者ヒポクラテスが残したこの誓文は、医師のモラルを定めた最高の指針であり根本の倫理である。「善意の海」を航海する「船」の羅針盤でもある。

 米軍の兵士がたまの外出許可を「シンデレラ・リバティー」と呼ぶ。帰隊時間が厳格に定められているところをシンデレラに準(ナゾラ)えてだ。あすは、そのシンデレラ・リバティーになりそうだ。時間は2時間。手首には名前とバーコードが印刷されたリストバンドがしっかと嵌められたまま。なにせ、いまだに囚人なのだ。□


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2008年1月の出来事から

2008年02月03日 | エッセー
■ 米大統領選指名レース始まる
 アイオワ州の党員集会で民主はオバマ氏、共和はハッカビー氏が勝利。「変化」を望む声が後押し(3日)
 ―― アメリカは大きな国だ。そのトップを選ぶにも1年をかけてじっくり練り上げる。さらに世界最強の国だ。プレジデントはオーバーキルの核ボタンを握る。いわば人類の生殺与奪の権を掌中にしている。その人物を選ぶ権利が他国には認められていない。これはおかしいとの議論がある。もっともなことである。夢想に属する話だが、核保有国のトップは自国民のみならず、他国民も挙(コゾ)って選出する仕組みを考えるべきだ。国連事務総長とは訳が違う。なにせ世界の死命を制する人物である。他人事ではない。
 前回の大統領選で、総得票では対立候補が上回ったのにブッシュが当選した。選挙人の数で勝(マサ)ったのだ。民主的ではないと、これに異を唱える論調が日本にあった。繰り返そう。アメリカは大きな国なのだ。だから合衆国だ。国の成り立ちが違う。一色(ヒトイロ)に染め抜かれることを潜在的に嫌う。それは国を過つからだ。全国紙もない。ニューヨークタイムズ、ワシントンポストといった有名どころも実態はローカル紙である。大統領選挙もアメリカの抱える体質的危機感がシスティマナイズされたものだ。実に周到な民主主義である。
 ただ、夜郎自大はこまる。押し売りはなお困る。善意の押しつけはなおなお困る。

■ 再生紙の古紙配合率偽装
 日本製紙など年賀はがき納入の全5社が偽装していたことが明らかになった。(16日)
 ―― 木を見て森を見ざるの愚である。古紙を使えばコストが上がる。古紙そのものが中国のニーズとバッティングして高騰している。品質を保つために化学薬品も余計に使う。環境汚染にも繋がる。古紙をリユースして環境にダメージを与える。愚かな話だ。縦割り行政の、頭隠して尻隠さずでもある。
 トータルなグランドデザインがないからこうなる。日本製紙の肩をもつわけではないが、おバカな行政のスケープゴートに同情を禁じ得ない。

■ つなぎ法案取り下げ
 与野党が歳入法案などについて「年度内に一定の結論を得る」ことで合意し、「つなぎ法案」を取り下げた。(30日)
 ―― ガソリン税など車から上がる税金を道路建設に特定する「道路特定財源」の誕生はじつに古い。「新道路法」が成立したのは56年前、半世紀以上になる。昭和27年、「受益者負担の原則」を掲げて、当時気鋭の衆議院議員だった田中角栄氏が主導して議員立法で挙げた。
 さらに暫定税率。これも「日本列島改造論」を引っ提げて登場した田中角栄首相の肝煎りであった。昭和49年、高速道路網を張り巡らすための、うまい便法であった。「暫定」とはいかにも角栄的手法だ。爾来34年、とっくに暫定の域は過ぎている。この間、「政治とは道なり」という、政治理念というような厳かなものではない、一種の政治的渡世術が定着した。
 この税率を元に戻すと、2.6兆円の減収となる。さて、どうする。すでに身体の一部と化した義足を引き剥がすとなると、大量の血が流れる。激痛が走る。さて、どうするか。議論は分かれ、甲論乙駁である。ただ、ひとつだけ感興を催すことがある。それは半世紀を経ても、なおわが国は角栄的政治もしくは角栄的遺産から脱していないということだ。
 司馬遼太郎は「土地本位制」と呼んだ。公共財であるべき土地が投機の対象となり、土地神話を生んだ。なれの果ては土地バブルと、その崩壊である。その元兇に列島改造論があると司馬は捉えた。暫定税率の背景には、今後10年間で59兆円を投じる道路整備計画がある。関空が59個も出来る計算だ。そこには、「改造論」的陰影から半歩も歩み出していないわが国の姿があるばかりだ。かなしい感興である。
 1月30日、テレビ番組で民主党のKanくんが自民党の選対委員長と総務会長の名をあげ「顔を見るからに(道路建設の)利権だけは離さないという決意が表れているじゃないですか」と宣(ノタモ)うたらしい。当の総務会長は名誉毀損だと憤っているらしい。当たり前だ。決して自民党に味方するつもりはないが、「Kanくんこそ、鏡を見給え」と言いたい。てめぇーの貧相な面を棚に上げて他人のことは言えないのではないか。君の人相こそ年々乾涸らび、渋面、醜貌の度を増しているのではないか。カン違い、心得違いも甚だしい。「顔を見るからに(党執行部の)利権だけは離さないという決意が表れているじゃないですか」と言っておこう。党首の跡目を狙う鳶のような目、ひとをして不快にする寝惚け声、切れ者ぶる割にはすぐにお百度を踏む安っぽさ。その昔、吉本隆明氏が論敵に対して「おまえは顔が悪い!」と言い放ったことがある。論が激し、突然位相が真っ逆さまに落ちる。この落差が面白かったものだ。それとKanくんとでは、まるで事情が異なる。片や、日本を代表する思想家。片や、形勢不利と見るや「ガソリンから道路へ」と論点を巧妙にずらす似非論客。比較の対象にもならない。だから、Kanくんに進言しておこう。「人の顔見て、わが顔直せ」と。適わぬことではあろうが。
 さらに、もう一点。オオサワくん、政治の世界での師匠はたしか角栄氏であった。記憶違いでなければ……。

■ 中国製冷凍ギョーザで10人が中毒
 日本たばこ産業(JT)の子会社が輸入。千葉、兵庫県の3家族が下痢などを訴え、3人が一時重体になった(30日)
 ―― 病院からの通報を受けた兵庫と千葉の県警は当初、殺人未遂容疑で別々に捜査していた。このことは興味深い。「食品中毒」ではなく、「殺人未遂」を疑ったのだ。つまりこれは、捜査機関たる警察の慣性(ナライセイ)に属する。今後の展開次第ではあながち的外れではないかもしれないが……。
 さらに便乗値上げならぬ、「便乗健康被害」だ。ニュースが流れて以来、下痢・腹痛を訴える者が続出。2月2日現在、全国で900人以上に上る。不可思議な現象である。うち中毒症状が165人。しかし有機リン系農薬の疑いは一人もなかった。奇っ怪なことである。
 中国からの加工食品輸入はこの10年で2.4倍。全輸入加工食品の4分の1。5200億円に達する。中国の場合、すべての材料が揃い、しかも物流コストが低いなどの利点がある。この構図は将来も変わらない。ならばこの枠組みのなかでレベルアップしていくしかなかろう。
 ひるがえるに、近年この時季になぜかくも食品問題が起こるのだろう。「吉兆」の再開がとんだ「凶」兆になってしまった。
 それにしても、今はひたすらギョーザが食いたい。しこたま喰らいたい。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


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