●普天間問題 辺野古移設を閣議決定 反対の福島氏を罷免
鳩山首相は28日夜、臨時閣議を開き、この日午前に発表した日米共同声明を確認し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)を名護市辺野古周辺に移設するとした政府方針を閣議決定した。これに先立ち、社民党当主の福島瑞穂・消費者担当相が閣議決定への署名を拒んだため、首相は福島氏を罷免、同党は連立政権離脱の検討に入った。(朝日 28日)
⇒いやはや福島女史は『女を上げ』た!(こんな言い方があるのかないのか) 首相が男を下げた分、確実に上げた。おおー、凧のように五月(サツキ)の空に舞い上がった。
政権発足時に「舌っ足らずのブリッ子オバさん」と悪態をついたが、見方を変えねばならない。なにやらこのお方が美人に見えてきた。『護憲ロマンチスト』であった土井たか子先生の後継として立派な決断ではなかったか。
自らの発言に責任をもつということが何なのか。ハトさんは女史の爪の垢でも煎じて飲むべきだ。消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当大臣という長い名前の職責を、立派に果たし終えての見事な「罷免」である。特に、「男女共同参画」については、首相を凌ぐ国政への『参画』ぶりではなかったか。実に堂々たるもので、首相こそ天に唾する醜態であり、むしろ彼こそ罷免に値する。
なにせ前身の時代、時の総理誕生と引き換えに信条を曲げ、ついには解党の憂き目を見た政党である。今度ばかりはキチンと学習機能が働いたと見るべきではないか。
連立離脱についてはこれから詮議するらしいが、この際袂を分かつに如(シ)く はない。政治的得失を考えても、この斜陽政党には失うものはすでになにもない。選挙協力とて、支持率急落の与党がどれほどの肩入れができようか。むしろ潔い進退こそ、格好の売りとなる。政権に色気を出すより、党首の色気を磨く方がよほど利口だ。
さて、普天間の顛末。再び、長い引用をしたい。司馬遼太郎「街道をゆく」21巻からである。俯瞰すると、望外の発見があるものだ。
〓〓横浜の開港は、米国(代表・ハリス)と幕府とのあいだで結ばれた日米修好通商条約(一八五八年・安政五)によるもので、条約面では、開港場は横浜ではなかった。神奈川であった。
ハリスは当初、
―― 江戸品川を開け。
と主張したのだが、幕府は将軍のひざもとで夷狄が往来することをおそれ、神奈川を主張し、やむなくハリスはうけ容れた。が、幕府はさらにずるかった。
神奈川宿には東海道が通っているために、日本人の攘夷感情を刺激し、かつ過激な攘夷家が外国人に暴行を加える可能性がすくなくない。横浜村がいい。と、幕府は肚のなかで思っていた。街道からはずれている上に、あの村の砂嘴上に都市をつくり、まわりに関所をつくれば、攘夷家が侵入してくることがふせげる。この着想の根底に、オランダ人を監禁するようにして住まわせてきた長崎出島の思想がなかったとはおもえない。ハリスには、横浜も、神奈川村のうちなのだ。と、強弁しておけば済む。この種の小細工は幕府外交の常套のもので、他に多くの例があり、日本人は狡猾という印象を国際的に定着させた(ちなみに明治政府の外交は旧幕府の悪印象を払拭することにつとめたが、太平洋戦争の敗戦後の外交は旧幕府流にもどっているといえなくはない)。
「神奈川」
という建前上、幕府はここに条約履行のための行政機関である神奈川奉行所(当初は外国奉行の兼務)を置き、英、仏、蘭などに公使館の仮住まい用として、それぞれ古寺をわりあてた。
でありながら、一方では横浜村に運上所(税関)など貿易上の諸施設や外国人居留地をつくった。このため、貿易商人は横浜に住み、かれらを保護する公館は神奈川にあるという不便でかつ無意味な二分構造になった。
―― 横浜に居留地を造営しているときくが、なぜそんなことをするか。居留地は神奈川にこそ設けるべきではないか。
と、各国使節がねじこんだため、幕府は体裁をつくろうために、神奈川宿のとなりの新宿村を居留地にするとし(そんな気もないまま)全村百六十戸に対し立退きを命ずるという芝居じみた挙に出た。新宿村こそいい面の皮で、江戸に直訴にゆくなどのさわぎになったが、幕府の小役人が外国使節の前をとりつくろうだけのためにやったことで、やがて立退きは沙汰やみになった。〓〓(上掲書「神戸・横浜散歩」より)
「江戸品川」から「神奈川宿」へ、さらに「横浜村」へ。加えて、「新宿村」の立退き騒ぎ。 ―― メタファーのようにそれぞれを今の状況に対置させても、面白くはあるが、さして生産的ではない。核心は便法や狡猾な流儀、その体質である。本卦帰りとしても、140年の長遠はその2倍を越える。民族的羈絆というべきか。長嘆息で紛らわすしかないのか。
さらに引用を続ける。
〓〓当時、日本中が攘夷気分のなかにあり、薩長および在野の志士は、そういう気分をエネルギーとして革命化しつつあった。土俗的な排他、保守の政治的感情の上に、反幕・倒幕の革命的行動がのっかるという、二十世紀までつづく「政治的民俗体質」が成立するのは、このときからである。
むろん、幕府の開港・開国は、その政権の基本的なものから出たものではない。徳川幕府の基礎思想というのは、その開創以来、現状維持というきわめて保守的なものにすぎなかった。かれらはペリーとその艦隊の武威に屈して、国をひらいた。土俗感情はそのことに激昂し、反幕化し、やがて開国という“進歩的な”幕府をたおすにいたる。破天荒なことに、倒した攘夷勢力の側が、明治政権を樹立して開明という以上に欧化政策をとるにいたる。
「あのときは、ああでなきゃならんかったんだ」
と、長州閥の政治家井上馨(旧称・聞多)がいったことがある。維新後、客のひとりが、
―― あなたのように積極的な開明家(井上はいわゆる鹿鳴館時代の主唱者のひとり)が、なぜ旧幕のころ、攘夷家だったのですか。
と質問したのに対し、井上はいらだち、その話題をおさえつけるような勢いで言ったといいわれる。〓〓(上掲書、同章から)
首相は、政権に就いて駐沖縄海兵隊の戦略性を学んだと語った。「駐留なき安保」が持論の氏が、何を学んだのだろう。または、持論といえるほどのものではなかったのか。いつもの出まかせだったのか。おそらく後者であったろうが、交渉の段取りもすっかり米国優先だったようにみえる。
「破天荒なことに、倒した攘夷勢力の側が、明治政権を樹立して開明という以上に欧化政策をとるにいたる」好例として井上馨を、司馬は挙げた。(上述に反して、敢えてメタファー染みると)一国の興廃を賭けた大芝居と比較しては井上に大いに失礼であり、役者が違い過ぎるが、「破天荒」は似てなくもない。「欧化」も米化と置き換えても、あながち外れてはいまい。
それにしても、8カ月の顛末は重い痼を残した。日本の政治が少しも前進せず、むしろ後退局面に入ったことも期せずして明らかになった。 □