伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

近ごろの出来事から ―― 大臣罷免

2010年05月29日 | エッセー

●普天間問題 辺野古移設を閣議決定 反対の福島氏を罷免
 鳩山首相は28日夜、臨時閣議を開き、この日午前に発表した日米共同声明を確認し、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)を名護市辺野古周辺に移設するとした政府方針を閣議決定した。これに先立ち、社民党当主の福島瑞穂・消費者担当相が閣議決定への署名を拒んだため、首相は福島氏を罷免、同党は連立政権離脱の検討に入った。(朝日 28日)

⇒いやはや福島女史は『女を上げ』た!(こんな言い方があるのかないのか) 首相が男を下げた分、確実に上げた。おおー、凧のように五月(サツキ)の空に舞い上がった。
 政権発足時に「舌っ足らずのブリッ子オバさん」と悪態をついたが、見方を変えねばならない。なにやらこのお方が美人に見えてきた。『護憲ロマンチスト』であった土井たか子先生の後継として立派な決断ではなかったか。
 自らの発言に責任をもつということが何なのか。ハトさんは女史の爪の垢でも煎じて飲むべきだ。消費者及び食品安全・少子化対策・男女共同参画担当大臣という長い名前の職責を、立派に果たし終えての見事な「罷免」である。特に、「男女共同参画」については、首相を凌ぐ国政への『参画』ぶりではなかったか。実に堂々たるもので、首相こそ天に唾する醜態であり、むしろ彼こそ罷免に値する。
 なにせ前身の時代、時の総理誕生と引き換えに信条を曲げ、ついには解党の憂き目を見た政党である。今度ばかりはキチンと学習機能が働いたと見るべきではないか。
 連立離脱についてはこれから詮議するらしいが、この際袂を分かつに如(シ)く はない。政治的得失を考えても、この斜陽政党には失うものはすでになにもない。選挙協力とて、支持率急落の与党がどれほどの肩入れができようか。むしろ潔い進退こそ、格好の売りとなる。政権に色気を出すより、党首の色気を磨く方がよほど利口だ。

 さて、普天間の顛末。再び、長い引用をしたい。司馬遼太郎「街道をゆく」21巻からである。俯瞰すると、望外の発見があるものだ。

                                              
〓〓横浜の開港は、米国(代表・ハリス)と幕府とのあいだで結ばれた日米修好通商条約(一八五八年・安政五)によるもので、条約面では、開港場は横浜ではなかった。神奈川であった。
 ハリスは当初、
 ―― 江戸品川を開け。
 と主張したのだが、幕府は将軍のひざもとで夷狄が往来することをおそれ、神奈川を主張し、やむなくハリスはうけ容れた。が、幕府はさらにずるかった。
 神奈川宿には東海道が通っているために、日本人の攘夷感情を刺激し、かつ過激な攘夷家が外国人に暴行を加える可能性がすくなくない。横浜村がいい。と、幕府は肚のなかで思っていた。街道からはずれている上に、あの村の砂嘴上に都市をつくり、まわりに関所をつくれば、攘夷家が侵入してくることがふせげる。この着想の根底に、オランダ人を監禁するようにして住まわせてきた長崎出島の思想がなかったとはおもえない。ハリスには、横浜も、神奈川村のうちなのだ。と、強弁しておけば済む。この種の小細工は幕府外交の常套のもので、他に多くの例があり、日本人は狡猾という印象を国際的に定着させた(ちなみに明治政府の外交は旧幕府の悪印象を払拭することにつとめたが、太平洋戦争の敗戦後の外交は旧幕府流にもどっているといえなくはない)。
「神奈川」
 という建前上、幕府はここに条約履行のための行政機関である神奈川奉行所(当初は外国奉行の兼務)を置き、英、仏、蘭などに公使館の仮住まい用として、それぞれ古寺をわりあてた。
 でありながら、一方では横浜村に運上所(税関)など貿易上の諸施設や外国人居留地をつくった。このため、貿易商人は横浜に住み、かれらを保護する公館は神奈川にあるという不便でかつ無意味な二分構造になった。
  ―― 横浜に居留地を造営しているときくが、なぜそんなことをするか。居留地は神奈川にこそ設けるべきではないか。
 と、各国使節がねじこんだため、幕府は体裁をつくろうために、神奈川宿のとなりの新宿村を居留地にするとし(そんな気もないまま)全村百六十戸に対し立退きを命ずるという芝居じみた挙に出た。新宿村こそいい面の皮で、江戸に直訴にゆくなどのさわぎになったが、幕府の小役人が外国使節の前をとりつくろうだけのためにやったことで、やがて立退きは沙汰やみになった。〓〓(上掲書「神戸・横浜散歩」より)

 「江戸品川」から「神奈川宿」へ、さらに「横浜村」へ。加えて、「新宿村」の立退き騒ぎ。 ―― メタファーのようにそれぞれを今の状況に対置させても、面白くはあるが、さして生産的ではない。核心は便法や狡猾な流儀、その体質である。本卦帰りとしても、140年の長遠はその2倍を越える。民族的羈絆というべきか。長嘆息で紛らわすしかないのか。
 さらに引用を続ける。

〓〓当時、日本中が攘夷気分のなかにあり、薩長および在野の志士は、そういう気分をエネルギーとして革命化しつつあった。土俗的な排他、保守の政治的感情の上に、反幕・倒幕の革命的行動がのっかるという、二十世紀までつづく「政治的民俗体質」が成立するのは、このときからである。
 むろん、幕府の開港・開国は、その政権の基本的なものから出たものではない。徳川幕府の基礎思想というのは、その開創以来、現状維持というきわめて保守的なものにすぎなかった。かれらはペリーとその艦隊の武威に屈して、国をひらいた。土俗感情はそのことに激昂し、反幕化し、やがて開国という“進歩的な”幕府をたおすにいたる。破天荒なことに、倒した攘夷勢力の側が、明治政権を樹立して開明という以上に欧化政策をとるにいたる。
「あのときは、ああでなきゃならんかったんだ」
 と、長州閥の政治家井上馨(旧称・聞多)がいったことがある。維新後、客のひとりが、
 ―― あなたのように積極的な開明家(井上はいわゆる鹿鳴館時代の主唱者のひとり)が、なぜ旧幕のころ、攘夷家だったのですか。
 と質問したのに対し、井上はいらだち、その話題をおさえつけるような勢いで言ったといいわれる。〓〓(上掲書、同章から)

 首相は、政権に就いて駐沖縄海兵隊の戦略性を学んだと語った。「駐留なき安保」が持論の氏が、何を学んだのだろう。または、持論といえるほどのものではなかったのか。いつもの出まかせだったのか。おそらく後者であったろうが、交渉の段取りもすっかり米国優先だったようにみえる。
 「破天荒なことに、倒した攘夷勢力の側が、明治政権を樹立して開明という以上に欧化政策をとるにいたる」好例として井上馨を、司馬は挙げた。(上述に反して、敢えてメタファー染みると)一国の興廃を賭けた大芝居と比較しては井上に大いに失礼であり、役者が違い過ぎるが、「破天荒」は似てなくもない。「欧化」も米化と置き換えても、あながち外れてはいまい。

 それにしても、8カ月の顛末は重い痼を残した。日本の政治が少しも前進せず、むしろ後退局面に入ったことも期せずして明らかになった。 □


ふたつの吉田町

2010年05月26日 | エッセー

 まったくファンにあるまじき勘違いであった。てっきり広島県の吉田町(マチ)が発起したものと、長い間、疑いもしなかった。この稿を書くに当たって確かめてみて、驚いた。なんと、新潟県の吉田町であったのだ。実に潜入主とは怖ろしい。


 〽昔 その人は 赤児を抱いて いつか故郷(フルサト)を拓けと願い
  「父を越えて行け」と 名前を さずけた
  母は影のように たたずみながら すこやかであれと 涙を流す
  のびやかに しなやかに 育てよ 子供
  やがて 大地 踏みしめ 太陽になれ

  祖母に手をひかれ 海辺を歩く はるか遠い国へ 胸をおどらせ
  風がほほを過ぎて 7才(ナナツ)の夏の日
  姉の唄う声は 小鳥のようで 心ときめいて 足を はやめる
  のびやかに しなやかに 育てよ 子供
  やがて 大地 踏みしめ 太陽になれ

  兄の進む道は たくましそうで あこがれのように まぶしく写る
  「強くなれたらいい」 12才(ジュウニ)の秋の日

  友と汗をふき 山に登れば たぎる想いゆれて 命とおとし
  時は 川の流れ 19才(ジュウク)の冬の日
  あの日その人は やさしく笑い 母の手をにぎり 旅に出かけた
  おだやかに やすらかに 眠れと いのる
  やがて 雪を とかして せせらぎになれ

  いくど春が来て あの日をたどる この名も故郷も静かに生きる
  雲が空に浮かび 人の顔になる
  昔その人が 愛した場所に 若い緑たちが 芽をふきはじめ
  のびやかに しなやかに 育てよ 子供                                        
  やがて 大地 踏みしめ 太陽になれ〽

 

 「吉田町の唄」作詞・作曲 吉田拓郎。92年にリリースされた。彼の数多い作品中、生い立ちが特異で、かつ名作に列せられる一曲である。
 人口2万4千、新潟県西蒲原郡吉田町(92年当時)の若者たちで作る「若者共和国」が町の歌として、同じ吉田を姓とする拓郎に頼んだのが事の起こりだ。それを、拓郎といえば広島だからと、てっきり広島県の吉田町とばかり早とちりして、今日まできていたのだ。汗顔の至り、穴があったら入りたい。ないから、このまま赤面を晒しつづけるほかないが。
 拓郎は快諾したらしい。こういう形の依頼に応えた作品を、外に知らない。だから、「生い立ちが特異」なのだ。
 全国には吉田町が六つあった。あったとは、06年に当の吉田町が隣接2町と合併し名前が消えたからだ。しかし新潟吉田町は外の吉田町 ―― 埼玉県秩父郡、静岡県榛原郡、愛媛県北宇和郡、鹿児島県児島郡、広島県高田郡 ―― と「姉妹町」縁組を結んでいた。曲の依頼は6町の総意としてなされたとの確かな話もあり、この際姉妹町すべての「町の歌」と括っても決して牽強付会ではなかろう。
 と、わが勘違いを正当化して本題に入る。

 司馬遼太郎「街道をゆく」。長編ゆえに遅々として捗らない。先日やっと5合目、第21巻「神戸・横浜散歩、芸備の道」にまで至った。
 「芸備の道」 ―― やはり期待どおりに吉田町が登場した。(新潟の吉田町は「街道をゆく」には出てこない)推定するに、司馬が訪れたのは80年(昭和55年)である。「吉田町の唄」誕生のはるか以前。もとより接点はなく、司馬の関心も生の「今」にあるわけではない。
 歴史の蒼穹を揺蕩(タユト)いつつ飛ぶ鳳が、ふと羽根を休めに舞い降りる。人の世の今昔が行き交う街道こそ、格好の飛来地だ。「街道をゆく」旅、豊饒な該博が溢れ出(イ)でて、その地は歴史のオーソライズを受ける。決して自尊のためではない。この地が何であったかを識るためだ。つまりは塵埃に過ぎぬ己を生んだ大地の、奥深い鼓動を聴くためだ。
 長い引用をする。


「ここは、上根(カミネ)というところですよ」運転手さんがいった。 
 道路は遠くまでまっすぐについている。自然の地形としてこの北にむかって細長い平坦地は尾根なのか高原なのかよくわからない。
「このへんですよ、日本海へ流れてゆく川の上流と瀬戸内海へ流れてゆく川の上流とが一ツ所にありまして、そのあたりの人は立小便をします」
 運転手さんがいう。まさかと思いつつよくきいてみると、そういう習慣があるのではなく、平坦地に小便をして自分のゆばりが日本海へゆくか瀬戸内海へゆくかを見るのだということらしい。それも下界の物好きが創った笑いばなしにちがいなく、ともかくも一ツ在所で水の流れるむきが南と北とにわかれているのだということの地理上の落し咄なのである。
 道はただひたすらに平坦なのだが、ごくわずかにすでに北の日本海にむかって傾斜しているのであろう。
 このことは、一つの驚きである。広島県というのは瀬戸内海文化圏だとおもっていたのだが(事実そうではあるが)、それについての自然地理の面積はじつにせまい。広島市街を出て太田川とその上流(根之谷川)をわずか二〇キロばかり北上しただけで、もう川が日本海にむかって流れているというのは、ただごとではない。
 分水点にちかいという上根から測って、川筋をたどりつつ島根県海岸の江津(ゴウツ)[旧石見国]に出るには、一五〇キロもある。松江(旧出雲国)までなら、それ以上ある。古代の文化圏でいうと、日本海の出雲文化圏が水流を南へさかのぼって(古代弥生式農耕文化は水流をさかのぼってゆく文化であった)広島市域北方二○キロのところまできていたということではないか。
 勝田から北へ降りてゆくと、簸川(ヒノカワ)は西北の渓谷をうねりつつ流れてくる江の川に流れこみ、呼称も江の川(可愛川 エノカワ)になる。合流したばかりの江の川は桂付近をふとやかに流れてゆく。

 この旅には、大阪の編集部から山田さんと長谷さんが同行してきている。どちらも東京の人で西日本に縁がうすいために、私は余計なおせっかいの心をおこした。
「ここに、桂という村があるでしょう」
 と、私は地図をひろげ、勝田からわずかに川下へくだったところにある地名を指さした。
「ああ、ありますね」
「この道路に沿って」
 私は、いまから吉田までのあいだにたどるべき道路を指の爪でひっかいて、「つまり道路ぞいに、おもしろい地名がつづいています。桂のつぎはそれに隣接して福原です。それに隣接して国司というのがあります」
 といい、これは幕末に活躍する長州藩の姓です、といった。入江というのも、桂の手前にある。吉田松陰の門弟で、入江杉蔵という者がいるが、そのおこりをはるかな過去にたどれば勝田のむこうの入江の在所になるであろう。勝田から吉田まで一〇キロ強のあいだに、このように密集している。
 ついでながら入江杉蔵は長州藩の足軽身分で、野村和作の実兄であり、師の松陰からこの兄弟はもっとも信頼され「独り杉蔵兄弟頼むべし」とか「杉蔵尤貴ぶべき人物」などと最大級のことばでほめられている。元治元年(一八六四)の禁門ノ変で戦死した。
 福原姓、国司姓では長州藩家老福原越後、国司信濃が代表的で、両人とも前記禁門ノ変のあと、事変の責任をとって切腹した。
 桂姓については木戸孝允の旧称桂小五郎の名が著名だが、他にもこの姓の藩士が多い。明治の軍人・政治家の桂太郎の桂姓のほうが家柄はよかった。桂太郎の桂家は、その伝記によると、毛利元就の重臣であった桂広澄を祖としている。広澄以前から桂氏は吉田城下の南郊の桂村に住んでいたために、それが姓になった、という。 高杉といえば、そういう在所も吉田付近にあり、高杉の下で奇兵隊軍監をつとめた足軽あがりの山県狂介(有朋)と同名の地名もある。

 毛利氏はその祖が鎌倉期に関東からきて、吉田の盆地の地頭職になった。
 元就のときこの小領主の境涯から崛起して近隣をあわせ、ついにその最盛時にはさまざまな数え方があるが山陰・山陽十四力国百四十数万石を領し、中央の織田信長の勢力と対峙した。
 時を経、輝元が当主のとき、関ケ原で反徳川方についたため戦後処置で全領土を没収された。が、支族吉川氏のとりなしで長門・周防三十九万九千石をもらって、現在の山口県一県にとじこめられた。
 元来が広島県――安芸・備後――を本拠としたために、この地の家臣団のぜんぶといっていいほどが山口県に移った。輝元はわずか三十九万余石でもってかつてのぼう大な人数を養う自信がなかったので、
「ついて来なくてもいい」
 ということを幾度もいったようだが、みなきかなかったといわれる。上級者は何分ノ一かに家禄をへらされて萩へ移ったが、下級者には知行も扶持ももらえない者が多かった。そういう者は農民になり、山野を開墾した。
 幕末、長州藩が階級・身分をこえて結束がつよかったのは、江戸期に百姓身分であった者も先祖は安芸の毛利家の家来であったという意識があり、それが共有されていたためにちがいない。
(前掲書より抄録、一部先後を替えた)


 吉田は毛利の故地だけあって、歴史が厚い。地勢の奇、地名の縁(エニシ)、主従の絆。まことに興趣が尽きない。

 〽昔その人が 愛した場所に 若い緑たちが 芽をふきはじめ
  のびやかに しなやかに 育てよ 子供
  やがて 大地 踏みしめ 太陽になれ〽
 幾世代にも亙って重ね、継がれてきた希い。時は巡っても、薄らぐことはない。吉田の地ならずとも、わが住まうところとて同然だ。なんとものびやかで、大きな唄ではないか。

 越後吉田の発意がなければ「唄」は生まれていない。振り返って、拓郎のクロニクルに輝かしいモニュメントが刻まれたかどうか。
 備後吉田に毛利が入らなければ戦国は様相を異にした。下って、維新も起こり得たかどうか。
 ふたつながら、歴史の妙といえる。 □


楽な仕事じゃないよ

2010年05月24日 | エッセー

「お前の泪 …… 決してムダにしない」
「生まれ変わっても …… またあなたに出会いたい」
「必ず戻ってきます …… 桜が咲くころに」
「男には絶対に負けられない戦いがある …… それが今だ」
「オレは絶対に忘れない …… お前と過ごした日々を」
「あなたに …… もっと早く出会いたかった」
「バカを演じて相手に自信を付けさせる …… 楽な仕事じゃないよ」
(註・ …… はタメの部分、間)

 大仰な台詞である。ドサ廻りの芝居か、三文小説でもなければ、今どきなかなか聞けない。特に「楽な仕事じゃないよ」は、なぜかシンパシーを誘う。3人組のお笑いグループ「ジャングルポケット」が繰り出すコントの、幕切れで放たれる台詞の数々である。
 たとえば、こんな具合だ。

(斉藤のアパート。他の2人と話をしている。と、斉藤が郵便受けから葉書を取り出し、血相を変えて驚く)
斉藤「オレにもついに来てしまった! これが来た以上、行かなきゃならない」
武山「ただのバーゲンの知らせじゃないか。なんだよ、戦争行くみたいに」
太田「そんなのイヤだ! 幼い弟を残して行くのか」
(太田、斉藤に詰め寄る)
(斉藤、太田をなだめるように)
斉藤「大丈夫だ。クマさん柄のトレーナーを買って来ることだけがオレの任務だから、死にはしない。安心しろ」
(太田、葉書を読んで)
太田「クマさん柄のトレーナー、60%オフ。バーゲンの目玉商品じゃないか! 生きては帰れないぞ」
斉藤「たとえ五体満足で帰れなくても、男にはどんなことをしても、戦わなければならない時があるんだ。大丈夫、必ず帰ってくる」
(太田、泣く。斉藤は突然、「泪くん、さよなら。さよなら、泪くん・・・」と調子外れで歌い出す)
太田「神様。どうして地球上から、バーゲンはなくならないんですか!」
武山「需要があるからだよ。そんなの分かってるじゃないか。なんなの、それは」
斉藤「無事帰ったら、また二人で酒でも飲もうや」
(太田、しゃくり泣きながら)
太田「無事を祈ってる。最後は笑顔で送りたかったのに」
(一呼吸おいて)
斉藤「お前の泪 …… 決してムダにしない」
(と言い残し、部屋から駆け出していく)

 斉藤が大ボケ、太田が小ボケ、武山がツッコミである。際立つのは斉藤の舞台演劇じみた大袈裟な表情と動き、それに台詞回しだ。顔も、相当にくどい。大学の芸術科を卒業し、文学座附属演劇研究所を経て俳優を目指した。しかし志叶わず、吉本へ進んだという経歴の持ち主である。コンビは07年に結成され、昨年あたりからブレイクした。
 コントのオーラスの台詞とタイトルをあらためて並べてみる。

「生まれ変わっても …… またあなたに出会いたい」 ―― 『ティッシュ配り』
「必ず戻ってきます …… 桜が咲くころに」 ―― 『1円玉拾った』
「男には絶対に負けられない戦いがある …… それが今だ」 ―― 『洋服店での裾上げ』
「オレは絶対に忘れない …… お前と過ごした日々を」 ―― 『ゴキブリを殺した』
「あなたに …… もっと早く出会いたかった」 ―― 『コンビニのトイレ』
「バカを演じて相手に自信をつけさせる …… 楽な仕事じゃないよ」 ―― 『受験生』(意欲減退気味のデキる受験生を、おバカな受験生が必死に勉強する姿を見せて発奮させるというのが粗筋)

 およそ結びつかない。この落差が俳味であるともいえる。至極日常的な場面の、それも些末な出来事が、一気に世をも揺るがす大事件に仕立て上げられていく。ものスゲェー勘違いと場違いな演技。ほとんど無意味な気張り。おかしみはそこにある。ともかく今、一頭地を抜くグループだ。筆者、一推しである。賞味期限内に、是非お召し上がり願いたい。
 世には、どうにもならぬことに気張りすぎてポシャる人もいる。この5月にも一人いた。片や、どうでもいいこと、必ずそうなることに気張ってくれる斉藤くん。よほど安心して観ていられる。絶対に裏切られる心配はない。どんな千客万来のバーゲンでも彼は間違いなく、五体満足でクマさん柄のトレーナーを着て帰ってくる。
 「楽な仕事じゃないよ」という割には結構楽そうで、しかもしたたかに善意を売っている(バカ役を頼んだ教師に)。でも、こちらの方が世のためにはなりそうだ。「楽な仕事じゃないよ」とも言わず、自信満々で期待させるだけさせておいて「ごめんなさい」と言うよりは。
 
 「整いました」 
 これがいい。なんとも、いい。謎かけの決まり文句である。なにせ近ごろ、整わないことばかりではないか。しつこいようだが、『5月の南の空』といい …… 。ついこないだまでの「最低でも」の大言が、お詫び行脚では「『できるだけ』県外にと努力してきたが …… 」にすり替わっていた。「最低」と「できるだけ」では整わないもなにも、意味がまるで違う。この人物、一体何枚の舌をお持ちなのか。

  『時の首相とかけまして』

    …… 『整いました』

  『負け越した相撲取りと解く』 
  『その心は、次の場所では何枚した(下・舌)になるでしょう』
   お粗末。

 字引に依ると、「整える」とは ―― ①本来あるべききちんとした状態にする。 ②必要なものをそろえる。 ③調子やリズムなどをあわせる。 ④話し合ってまとめる。 ⑤調整してうまくまとめる。 ⑥多数の人をまとめる。 ⑦買う。 ―― の意を持つ。この方の失敗は、④⑤⑥であろうか(ただ、③は適っているようでもあるが)。もちろん、謎かけは②である。では、なにが必要とされるのか。
 解は当然として、お題と解を繋ぐ共通項(=その心)である。この二つが揃った時、「整いました」となる。「心」は駄洒落の類い、文字通りの言葉遊びや考え落ち、理屈にひねりとさまざまだが、題と解を見事に結び付ける。しかも題と解はできるだけかけ離れているほどいい。そこに鮮やかな橋を架ける。その妙である。

 謎かけがブームだ。別けても『ねづっち』こと、根津俊弘くんが大受けである。漫才コンビ、「Wコロン」の一人だ。懐かしの「Wエース」の門下である。
 長身に蝶ネクタイ、派手なジャケット。お題を受けてすぐに、「整いました!」。答えが決まると、襟を持って「ねづっちです」とポーズ。古典的な言葉遊びがいかにも現代風に甦っている。
 NHKラジオ第1では、昼の「つながるラジオ」で「なぞかけ問答」を定番コーナーにしている。その他、テレビ番組でもさかんに謎かけが取り込まれている。脳トレにもなるという。まさに受け筋である。時代のトレンドに共鳴する故ではないか。
 まずは、そのスピード感だ。即答である。短文でインタラクティブ、ツイッターと軌を一にする。本体は古典に属するが、そのあり様(ヨウ)はいかにも今風だ。似ても似つかぬ題と解。須臾の間(マ)に、「整いました」が絶妙なアクセントを打ち、意表を突いて「心」が繋ぐ。その巧みさに、皆が唸る。

 グローバルでインタラクティブ。だとしても世界中が睦み合うのでなければ、なにほどのことがあろう。とかくに「切れる!」昨今、繋げるのは「楽な仕事じゃないよ」であろう。易々(ヤスヤス)と「整いました」とはいかぬが、「生まれ変わっても …… またあなたに出会いたい」かなんかコいて、走り去ってみたいものだ。 □


近ごろの出来事から ―― 鼻眼鏡?

2010年05月21日 | エッセー

●東国原知事「寝てない!けんか売ってんのか!」 大荒れ記者会見
 感染拡大が続く口蹄疫に対し18日、非常事態宣言を発した宮崎県。「このままでは県の畜産が壊滅する」と宣言では危機感を鮮明に出した。
 会見で東国原知事は、殺処分かワクチン接種かなど今後の防疫体制について「検討します」との言葉を繰り返した。
 しかし記者から、知事の判断ではないかと問われると、徐々にヒートアップ。最後には「我々は一生懸命やっているんです。毎日寝ずに」と怒鳴り、机をがんと叩いて「以上です」と会見を打ち切ろうとした。
 制止する報道陣に対し、「けんか売ってるのはそっちだ」と声を張り上げたが、職員らに促されて再び、会見の席に着いた。
 国の支援策などについて聞かれると、ようやく落ち着きをみせ、最後には「速やかに一歩踏み込んだ対策を出したい」と話した。(MSN産経ニュース 18日)

⇒竹内 一郎著「人は見た目が9割」(新潮新書)によれば、コミュニケーションの力は話し方よりも見た目に負うところが圧倒的らしい。身なり、顔付き、目付き、仕草が信用や説得の決め手になるという。
 その伝でいくと、この知事が老眼鏡(?)を鼻眼鏡のように鼻先にずらし、上目使いで発言する様子は「見た目」を相当悪くしている。厳かな会見には馴染まない。元々そうなのであろうが、人物が軽く見えてしまう。臍曲がりには、(関西弁で言うところの)人をおちょくっているようにもとられてしまう。やはりお笑いという出自と素性は払拭し難いのであろうか。「誰か言ってやれよ」である。

 「家畜伝染病予防法」には以下のように規定されている。
〓〓第3章 家畜伝染病のまん延の防止
(患畜等の届出義務)第13条 家畜が患畜又は疑似患畜となつたことを発見したときは、当該家畜を診断し、又はその死体を検案した獣医師(獣医師による診断又は検案を受けていない家畜又はその死体についてはその所有者)は、農林水産省令で定める手続に従い、遅滞なく、当該家畜又はその死体の所在地を管轄する都道府県知事にその旨を届け出なければならない。(略)
 都道府県知事は、第1項の規定による届出があつたときは、農林水産省令で定める手続に従い、遅滞なく、その旨を公示するとともに当該家畜又はその死体の所在地を管轄する市町村長及び隣接市町村長並びに関係都道府県知事に通報し、かつ、農林水産大臣に報告しなければならない。〓〓
 条文によれば、第一報は知事に寄せられ、初動はそこからとされる。宮崎県は07年に鳥インフルに見舞われた。東国原知事が誕生して早々であった。その体験は活かされたのであろうか。初動に遅滞、瑕疵はなかったのか。そこはキチンと押さえるべきあろう。
 初動の後れでは、赤松農水相が集中砲火を浴びている。本人は開き直っているが、なにもこの大臣に限ったことではない。今年1月のハイチ地震の時といい、危機管理に腰が重いのはこの政権の特筆すべき性向である。本ブログで政権発足時に命名した『自信慢心内閣』に根はあるようだ。総選挙での圧倒的勝利が生んだ夜郎自大の故であろう。

 「夜郎自大」といえばその昔、「『野郎』自大」と書いて大きな顔をしていたことがあった。汗顔の至りだが、丸覚えが仇(アダ)となった。「夜郎」と「自大」が繋がらないのは、夜郎が国名だからだ。意味するところではむしろ「野郎」が似つかわしいといえば、負け惜しみになるか。
 司馬遼太郎がどこかに書いていた。 ―― 中国の南西に滇(註・「氵」に「眞」と書く、読みは「テン」)という国があった。漢の使者が遙かに訪(オトナ)うと、王である嘗羌が問うた。「漢はわが国より大きいか?」実に小児のような質問である。おもしろいことに、隣の夜郎国の王も漢の使者に同じことを訊いた。山深いところに住んでいると、外界を知らず、自ら大なりと己惚れるものだ。そう「史記」にある。夜郎国の名はついでに出てきただけで、話の流れからいくと『滇自大』となるべきところだ。しかし四文字の方が納まりがいいのであろう、いつの間にか「夜郎自大」として句を成した。夜郎国は気の毒だ。 ―― たしかにそうだ。彼の国には好い迷惑だったかもしれないが、自大であったことに変わりはない。
 旧政権党は半世紀余にわたって自大であり続けた。そこに、突然の、降って湧いた『交代』である。新政権が自ら大なりと恃むのも宜なるかな、またそこに機鋒が向くのも宜なるかなではないか。
 中には、行政府にあるということがいかなることか皆目解らず、枝野某などは「この手の問題は必ず初動の遅れを指摘されるものだが、きちんと対処するだけだ」と嘯いた。後半は当然だが、「……指摘されるものだ」という物言いは、一体、何様であろうか。行政府に評論家なぞ、一人として要らない。徹頭徹尾、当事者でなくてどうしよう。国務大臣とは批判を完爾として受け止め、言い訳、責任逃れの退路を潔く断ち、付託の遂行に命を削る者の謂だ。「この手の問題は……」などと、お高く構えている講釈師は百害あって一利なし、害毒でしかない。夜郎自大、極まれりである。こんな大臣こそ真っ先に『仕分け』すべきではないか。

 宮崎は肉牛、乳牛、豚、鶏と、全国屈指の牧畜生産県である。現知事が芸を活かして売り歩き(けんかは売らずに)、ここのところ急速に名を上げてきた。いま躓くわけにはいくまい。不眠不休の鼻眼鏡(?)知事。鼻つまみにならぬよう、今が切所だ。 □


近ごろの出来事から ―― 英国に学べ

2010年05月19日 | エッセー

●第1党の保守党、自民との連立視野 英国の総選挙
【ロンドン=土佐茂生】6日投開票された英国の総選挙(定数650)で、第1党になった保守党のキャメロン党首は7日午後、ロンドンで会見し、第3党の自由民主党と連立政権を組むことも視野に協議を始める意向を明らかにした。保守党はこれまで連立には否定的だったが、議会の過半数をとれない状態になり、踏み込んだ。労働党のブラウン首相も自民党との交渉に意欲を見せており、新政権をめぐるつばぜり合いが激しくなった。(5月7日)

⇒7日、朝日は「英国総選挙―2大政党が負った疑問符」と題する社説を掲げた。「英国で、2大政党に向けられた不信と小選挙区制が示した限界。日本の各政党も自らへの問いとして受けとめるべきだろう。」と、機鋒をわが身に向けている。本ブログでも、2大政党制と小選挙区制については何度も非を鳴らしてきた。宗家の苦渋はあすのわが身であろう。「過ちては改むるに憚ること勿れ」ではないか。下表をご覧いただきたい。

              得票率(%)      当選者     増減
 保守党         36.1      306     +97
 労働党         29.0      258     -91
 自由民主党     23.0         57       -  5

 得票率で労働党に比肩する自由民主党が議席数で大差をつけられている。これが小選挙区制のマジックである。ゲリマンダーがそのタネだ。これでは民意の切り捨てでしかない。保守・自民の連立により36年振りのハング・パーラメントは収まったが、もはや制度的欠陥は明らかだ。宗家は今度こそ見直しにかかる。わが国はどうか …… 。

 奇想を飛ばしてみたい。推力は「日本辺境論」だ。(内田樹著、新潮新書。本年1月2日付本ブログ「大きな物語」で取り上げた)以下、骨格部分の抄録である。

◆今、ここがあなたの霊的成熟の現場である。導き手はどこからも来ない。「ここがロドスだ。ここで跳べ」。そういう切迫が辺境人には乏しい。
◆日本人はどんな技術でも「道」にしてしまうと言われます。柔道、剣道、華道、茶道、香道……。このような社会は日本の他にはあまり存在しません。
◆「道」という概念は実は「成就」という概念とうまく整合しない。「目的地」を絶対化するあまり、おのれの未熟・未完成を正当化している。
◆「道」は教育プログラムとしてはすぐれたものだが、「私自身が今ここで」というきびしい条件は巧妙に回避されている。
◆「辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理形式が「学び」を起動させ、師弟関係を成立させ、「道」的なプログラムの成功をもたらした。
◆つねに「起源に遅れる」という宿命を負わされたものが、それにもかかわらず「今ここで一気に」必要な霊的深度に達するためには、主体概念を改鋳し、それによって時間をたわめてみせるという大技を繰り出すしかないというソリューションでした。
◆「機」というのは時間の先後、遅速という二項図式そのものを揚棄する時間のとらえ方です。どちらが先手でどちらが後手か、どちらが能動者でどちらが受動者か、どちらが創造者でどちらが祖述者か、そういったすべての二項対立を「機」は消去してしまう。
◆後即先、受動即能動、祖述即創造。この「学ぶが遅れない」「受け容れるが後手に回らない」というアクロバシー(註・曲芸)によって、辺境人のアポリアは形式的には解決されました。

 まとめれば ―― 日本は辺境なるがゆえに「学び」を起動させ、「道」を誕生させた。しかし、それは未完成を正当化するものである。だから今、この場での成就のために「機」(=即)を案出した ―― となるか。
 突飛な譬えではあるが、野球はどうだろう。例に漏れず、このアメリカ生まれのスポーツも「学び」の対象となり、「道」になった。甲子園はそのティピカルな舞台だ。「ソリューション」たる「機」は天稟に負うしかない。そこでさらに跳ねてみると、〓〓 かつて、長嶋さんが原に打撃の指導をした。「腰をグーッと、ガーッとパワーで持っていって、ピシッと手首を返す」「ビューと来たらバーンだ」。天才の技が言葉になるはずがない。だから、ナガシマ語で表現するしかない。しかし驚くことに、原の「極意ノート」にはこの発言がそのまま書かれていたという。原の純朴を讃えるべきか。愚鈍を哀れむべきか。いずれにせよ、世の中には言葉にならない何かがあることを教える話だ。〓〓(06年8月2日付本ブログ「いわゆる一つの宗旨替えか?」から)となる。
 「『今ここで一気に』必要な霊的深度に達するためには、主体概念を改鋳し、それによって時間をたわめてみせるという大技」は、アプリオリに「主体概念を改鋳」する必要のない天才にして初めて可能となる。余人、凡人の理解力を峻拒するその「大技」はオノマトペ以外に表出する術はない。
 
 さて、英国に学んだというO氏の発議になるわが国の小選挙区制・2大政党制についてである。
 辺境国家の特性に立ち返って真摯に学ぶのか。だとすれば宗家に倣い、即刻見直しに掛かるべきだ。
 それとも、辺境ゆえに道半ばであり続けるのか。日暮れて道遠しとして、「未熟・未完成を正当化」し続けるのか。
 はたまた、件(クダン)の「大技」か。政治的アクロバシーなど、今や白昼夢だ。
 さらに、「『ここがロドスだ。ここで跳べ』。そういう切迫」は政治の自明の前提である。政治が存在するところ、そこはすべて『ロドス』だ。『跳べ』ない政治家など、その名に値しない。「道」を誤れば、『偏狭』国家に身を落とすだけだろう。今こそ、英国に学べ、ではないか。 □


近ごろの出来事から ―― 一つの出来事、二つの問題

2010年05月17日 | エッセー

●小沢一郎氏「起訴相当」と議決 陸山会事件で検察審査会 
 小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」の土地取引事件で、東京第五検察審査会は27日、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑で告発された小沢氏を東京地検特捜部が不起訴(嫌疑不十分)とした処分について、「起訴相当」とする議決をし、公表した。
 特捜部は今後、再捜査して再び処分を出す。昨年5月に施行された改正検察審査会法では、再捜査の末に再び不起訴としても、それに対して審査会が2度目の「起訴すべきだ」とする議決をすれば、裁判所が指定した弁護士によって強制的に起訴されることになる。
 特捜部は2月、小沢氏の元秘書で陸山会の事務担当者だった衆院議員・石川知裕被告(36)ら3人を同法違反罪で起訴した。その一方で、小沢氏については「虚偽記載を具体的に指示、了承するなどした証拠が不十分で、共謀は認定できない」として不起訴にしていた。
 これに対して小沢氏を告発した東京都内の市民団体が「証拠の評価が国民目線とズレている」として、「起訴相当」の議決を求めて審査会に審査を申し立てていた。(4月27日)

⇒郷原信郎氏(元検事・弁護士)の近著「検察が危ない」(ベスト新書)は頂門の一針だった。大いに蒙を啓かれ、かつ自らの不明を恥じた。かつて同氏の「思考停止社会」(講談社新書)を引いた(09年5月4日付「この印籠が目に入らぬか!」)。論語読みの論語知らず。自らも同じ墓穴を掘るところだった。
 昨年7月9日付本ブログ「2009年6月の出来事から」で
〓〓西松建設前社長の初公判
 東北の公共工事で小沢事務所が「天の声」と検察が指摘(19日)
 ―― 以前にも触れた。野党にあろうとも、彼には自民党の核心部分のDNAが受け継がれている。いまだに「古典的手法」を振り回していたとすれば、その「古さ」に唖然とする。〓〓 と記した。
 「振り回していたとすれば」とは、まさに寸止めであった。検察のストーリーに乗せられるところだった。
 さらにもう一つ。昨年11月4日付「2009年10月の出来事から」には
〓〓JR西歴代3社長「起訴相当」
 宝塚線(福知山線)脱線事故で、神戸第一検察審査会(22日)
 ―― 水に落ちた犬を打つのではない。責任の所在も大事だが、滅私奉公から『滅私奉社』に至る連綿たる日本的文化の深層に切り込めないものか。至難ではあるが、せめてその端緒にと願う。〓〓 と述べた。
  なんと能天気な。「日本的文化の深層」になど切り込めるはずがない。愚かにも、無批判に検審を受容している。裁判員制度は愚策と断じたのに、返す刀を忘れてしまった。これも劣らず愚策ではないか。(なお、前掲書では検審には触れていない)
 小沢氏の掲げる政策には全く賛同できないし、ましてやその政治手法には虫唾が走るほどの嫌悪感を感じる。だが、それとこれとは話が違う。これとは、
 一に、検察の問題
 二に、検審の問題である。

 検察の問題とは、
〓〓ロッキード事件、リクルート事件での検察が政界捜査で「成果」を挙げたことが、「巨悪」としての政治家と対決する検察というイメージを固定化することになった。検察は、そういうイメージで政治家の摘発を求める国民の期待に応えるのが当然のように思われることになった。そして、司法クラブを中心に検察の捜査の動きを追うマスコミは、そのような「巨悪と対峙し、対決する検察」という固定的なイメージで取材・報道を行うようになる。
 その期待を大きく裏切ることになったのが東京佐川急便事件であった。この事件で検察庁の看板にペンキが投げつけられた瞬間から、検察は世論の期待に反することの恐ろしさを知る。それを機に世論を非常に意識し、捜査を進めていくという検察の姿勢が顕著になっていく。〓〓(前掲書から)という検察の暴走、劣化である。
 わが国は法治国家である。罪形法定主義は自明の大前提だ。どう探っても単なる『期ズレ』の問題にしか過ぎない事案を、遮二無二検察の描くストーリーに嵌め込もうとして頓挫したのが検察の「不起訴」の結論である。しかも「嫌疑不十分」による不起訴である。決して「起訴猶予」ではない。明確な白である。ここが外してはならないポイントだ。
 郷原氏の主張を要約すると以下のようになる。
◆政治資金収支報告書の記載で、土地の取得の時期が2カ月ズレていた。『期ズレ』である。それは国会議員を起訴すほどの処罰価値がある事件では到底ない。
◆単に身内の立替金に過ぎないともいえる資金の中に、水谷建設からの裏献金5000万円が含まれているのではないかと検察は疑った。ところが、証拠はまったく固まらなかった。
◆小沢氏の監督責任については、「選任及び監督」の条文に照らし訴追は無理である。(註・一部に『及び』を『又は』に変える改定案があるが、それでは検察にフリーハンドを与えることにならないか。角を矯めて牛を殺す結果にならないか。)
 詳しくは上掲書に当たっていただきたい。

 二つ目に検察審査会。
 検審とはくじで選ばれた11人の市民が、検察の不起訴処分が妥当だったかどうか審査する仕組みである。議決は3種類。11人中6人以上が不起訴を是とすれば「不起訴相当」。6人以上が納得できないと判断すれば「不起訴不当」。11人のうち8人以上が起訴すべきと判断すれば「起訴相当」となる。
 全国の地裁や地裁支部にあり、審査員の任期は半年。3カ月ごとに半数の5~6人が入れ替わる。
 昨年に法改正され、「起訴相当」の議決が出た場合は、検察は再捜査し3カ月以内に起訴か否かを判断する。捜査に時間がかかる場合は、さらに3カ月以内の延長ができる。起訴しなかった場合は再び審査会がメンバーを変えて審査し、改めて11人中8人以上が起訴を求める「起訴議決」をすれば、その容疑者は起訴強制される。
 郷原氏は今回の検審の議決について、あるTV番組で次のように指摘している。
◆すでに検察が証拠が不十分で起訴できないと決定している。再捜査をしたところで新たな証拠が見つかる可能性はほとんどない。
◆検審の議決で被疑事実とされたのは、単なる「期ズレ」の問題だけである。これだけで起訴するということはあり得ない。
 市民団体の言う「国民目線とズレている」という認識と、罪形法定主義による処罰とはトポスが違う。前者は政治的活動(とりわけ選挙)によって反映、解決を図るべき問題だ。検審を錦の御旗にすべきではない。司法の民主化の名の下に権限を強化された検審だが、下手をすれば「人民裁判」化しかねない。それが第一に危惧される。さらに不起訴を承知で特定の人物・組織のイメージダウンを狙った、まさに政治的意図で検審が使われるとたら司法制度の瓦解だ。
 人民裁判とは社会主義国で行われる裁判制度であるが、転じて多数者が集団的圧力と偏執的感情によって少数者を法に依拠せず私的に断罪することである。大衆への扇動が行われ、感情論が声高に叫ばれる。現今のマスメディアのあり様(ヨウ)とどうしてもオーバーラップしてくる。さらに法的根拠の欠落。まさに感情に任せたリンチだ。行き着くところは暗黒社会の到来である。果たして、杞憂であろうか。

 郷原氏は上掲書の結びで、
〓〓今、検察が危ない。無条件に「正義」だと信じられてきた検察は、暴走と劣化を繰り返し、日本の社会にとって非常に危険な存在となっている。
 一方で、社会の中で本来の役割を果たせていないということは、検察という組織にとって深刻な問題である。その意味でも、検察が危ない。〓〓 と訴えている。 傾聴すべき一節であり、全編好著、必読ではなかろうか。 □


新国家主義

2010年05月11日 | エッセー

 仮に「ディマンディング(註・要望)社会」と呼ぶとすれば、「新国家主義」と踏み込んでもよさそうだ。
 近年のこの国の在り様(ヨウ)についてである。

 国家を世の最上位に位置付けることを国家主義という。イマヌエル・カントが夢想した世界政府が成らぬうちは、これを超える力はない。国家権力を凌駕する力は国内には存在しない。あるのは、別の国家権力である。鞣(ナメ)していえば、そうなる。まことに平板なものともいえるが、時として全体主義に変貌する宿痾を抱える。ナチス、NK、例には事欠かない。メビウスの帯のようだ。人類史的アポリアである。
 「近年のこの国の在り様」で際立った事柄を列挙すると、リストラからはじまり派遣切り。フリーターからニート、ホームレス。引き籠もりや児童虐待、DVなど家庭でのあれこれ。モンスターペアレントやおクスリ、通り魔殺人。 …… どれもマスコミが大きく取り上げた。これに鵺(ヌエ)のごときアナリストが囂(カマビス)しく群がり騒ぎ、世論なるものが先導されつくられていく。向かう先は個別の事情や個人の責任が捨象されて、社会の問題、政治の無策、ひいては国家の責任に収斂していく。歴史的背景や文明論的動向に議論が深まることはなく、ワイドショーの単なるネタとして処理されていく。かつ問題の所在が上へ上へと押し上げられていくにつれ、それらへの告発とディマンディングの愁訴に充ちてくる。なんとも殺伐たる様相である。
  〽 人を語れば 世を語る
         語り尽くしてみるがいいさ
     理屈ばかりをブラ下げて
     首が飛んでも血も出まい〽
 かつて吉田拓郎が『知識』に込めたメタファーは寸毫も色褪せてはいない。
 昭和30年代、テレビの猖獗に大宅壮一は「一億総白痴化」と警鐘を鳴らした。今は、「一億総ディマンディング化」とでもいえようか。テレビですっかり思考力を抜かれた人間が退嬰を始めた。その成れの果てでもある。嬰児はディマンディングが生きることのすべてだ。
 
 心象を即座に表徴するものが言葉であるなら、「させていただきたがる人々」の出現はディマンディング化の裏書でもあろう
 「させていただきたがる人々」とは、日本語・フランス語講師の野口恵子氏が近著で指摘している奇っ怪な謙譲表現である。(光文社新書「バカ丁寧化する日本語」 先日、「ためさずガッテン」でも取り上げた)
 選挙演説の「お訴えさせていただきます」。電話勧誘の「お電話させていただきます」「では、お電話のほう、切らさせていただきます」。閣僚の「辞任させていただくことにいたしました」などなど。いまや常套句となった「させていただく」である。
 詳細は同書に譲るとして、「一億総ディマンディング化」が背景にないと生まれ出ない表現ではないか。デマンドの弾が飛び交う戦場(イクサバ)では、身を低くして匍匐前進すれば安全だ。目線を限りなく下げたフリをすれば当座は凌げる。どこかの宰相にも通底する心理であろう。(この人物の珍妙な物言いについては何度か触れてきた)

 憲法第25条「生存権」の規定は、名宛人である国家に対してセーフティーネットを課しているのであって、個人の責任を捨象するものではない。ディマンディングが最終的に国家に収斂していく構図は、国への白紙委任でもある。これは逆の、形を変えた新しい国家主義ではないか。だとすれば、まさにメビウスの帯だ。同じ帯が一転、ディレクティブの縛りに変ずる。忌まわしい国家主義に変貌する危機は常にある、否、増しつつあると心得たい。
 以前、「子ども手当」にオブジェクションを呈した。本稿と同心円上にある疑義である。現政権は「一億総ディマンディング化」に乗るかたちで政権を手中にした。半年を越えてなお続く迷走と釣瓶(ツルベ)落しのごとき大きな落胆はそこに起因する。罪深くもあり、危険でもある。

 最近の問題意識について粗々整理するつもりで記した。脈絡定かならぬ、広がりも深まりもない、ドラフトともいえない走り書きに終わった。一笑の世迷い言であればと願う。 □


奇観

2010年05月05日 | エッセー

 「それ」を見遣り、「そこ」を通り過ぎて、事の異様さに気づいた。「まさか、そんな」と自問しつつ、「真偽」を確かめるべく引き返した。
 やはり、本当だった。

 わが町を東西に別(ワカ)って流れる太い川。川沿いにあったかつての家並(ヤナミ)を取り払って、護岸の堤防が高々と築かれている。並行して下を道路が走り、斜面には草が生い茂る。距離約二百メートルといったところか。先日、久しぶりに通り過ぎたのは、「そこ」である。
 「それ」は法(ノリ)で草を食(ハ)んでいたのだ。それも三匹。なんと、山羊である。
 白が二匹に、黒山羊が一匹。紐で繋がれ、メーメーと啼きながら、絶え間なく雑草を咥えては咀嚼している。仰ぎ見つつその一角だけを切り取れば、構図の上部は青空が広がり、実に駘蕩たる絵面となる。

 過疎に泣く片田舎とはいえ、まさかこんな街中(マチナカ)でヤギを見ようとは。住まうこと長年月に及ぶも、ヤギは初めてである。驚きと、好奇と、おかしみと、そして少しばかりの寂しさが綯い交ぜになって、しばし呆然とした。
 聞くところによれば、「飼い主」は近所の物好きらしい。決して牧場主ではない。なんとも奇特な御仁ではないか。こういう人が市長にでもなれば、この町は劇的に変わるにちがいない。だがこういうお方に限って、一目置かれずに距離だけを置かれる。憂き世たる由縁だ。


  〽しろやぎさんから  おてがみついた

   くろやぎさんたら  よまずにたべた

   しかたがないので  おてがみかいた

   さっきのてがみの  ごようじなあに〽

 まどみちお氏作詞の「やぎさんゆうびん」である(作曲:團 伊玖麿)。 ―― まど氏については、年初の五日、本ブログ「奇蹟の人」で取り上げた ―― 大人が深読みすれば相当に面白そうな詞なのだが、それは歌意を穢すだけであろう。ともあれ、「よまずにたべた」が絶妙である。「おてがみ」の非日常が書割にされることで、山羊にとっての自然な行動(「よまずにたべた」)が逆転して非日常化する。擬人化が童謡の妙味、醍醐味ではあろうが、それにしても絶妙な転回に唸る。
 その伝でいけば、市中に忽然と貼り付けられた牧場の一角を切り取ったような風景は、日常と非日常の軽妙な倒錯ともいえる。単なる道楽、あるいは見境なく進む過疎化の一現象と括れなくもないが、童謡を連想したついでに愚案に落ちてみた。

 山羊は磽确の地にも粗食にも耐え、肉も乳も毛も人類に供してきた数千年来の家畜である。だが、その割には厚遇されてきたとはいい難い。「スケープゴート」然り。イギリスでは「ゴート」はバカ者、アメリカでは犠牲の意として使われる。好色家の意もあるらしい。もう、踏んだり蹴ったりだ。同じウシ科でほぼ同じ役回りのヒツジとは相当に印象が異なる。なんとも不遇な家畜ともいえる。
 それにつけても、件の奇特者は何のために飼っているのだろう。まさか実用ではあるまい。だとすれば、愛玩か。同感しがたい感覚ではあるが、爬虫類をペットにする向きに比すれば十分に真っ当で牧歌的でさえある。GWのバカ陽気のもと、今日もしっかりと腹を満たしたに
違いなかろう。
 いっそ、『土手牧場』と銘打って観光の目玉にしてみてはいかがか。堤防を管理する国交省も文句はあるまい。多少の糞は出るが、なにせ無料で草苅ができる。人も寄ってくる。出店でも並べて商いだってできる。法一面を柵で囲って放し飼い、これもいい。 …… などと、邂逅した奇観に促されて与太を飛ばして連休を終える。 
 結びに、「奇蹟の人」まど氏の御存命を案じつつ御長寿を祈る。 □