伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

メッシとメッシュ

2022年12月20日 | エッセー

 時として「メッシュ」と聞き違い、言い違いをしてしまう。加齢のせいには違いなが、なんとも紛らわしい。もちろん、メッシは固有名詞で、メッシュは一般名詞である。
 広辞苑には「mesh 英語で網目の意味。網目状に織られた透かしのある織物。」とあり、単なるダジャレを超えて無関係ではなさそうだ。以下、十八番の牽強付会。
 メッシを点、メッシュを網に準えると、メッシという点が敵陣の網を突破する閃光のような動きが浮かぶ。あるいはメッシという点の動きに連動し敵陣の網が変化する。そこに生まれた一瞬の空隙に自陣の点が傾(ナダ)れ込む。アルゼンチンはフォーメイションではなく、メッシを起点としたメッシュと捉えた方が解りやすい。メッシによって動き、メッシを動かすための網目だ。自国が生んだ英雄の最後の大一番に同輩がピタリと呼吸を合わせた。その金字塔である。試合後メッシは次回も狙うと語ったそうだが、それは措こう。
 メッシュを連想したのには訳がある。俯瞰だ。
 思想家 内田 樹氏はこう語る。
〈これは脳科学者の池谷裕二さんの受け売りなんですが、同じ動作をたくさんの人間で反復していると、ミラーニューロンが活性化してきます。そうすると、どういうわけか意識が幽体離脱して、視点が上に上がってゆくんですね。集団で同じ動作をする目的の一つはもちろん身体の共感力を上げてゆくことですが、もう一つの自分が集団の中のどこにいるのか、どんな「文脈」の中に置かれているのか、それを鳥瞰的に見下ろす力をつけることなんです。自分の足がどちらから出て、どう体重が乗っているか、体軸はどの角度で傾斜しているか……そういう自分自身の空間的な位置取りを上方から俯瞰する。〈(「日本の身体」から抄録)
 メッシの天稟はそこにあるのではないか。
 スポーツ界には時として現れるジーニアスだが、地球と歴史の網目を俯瞰できる天才は政治の世界には現れ難い。擬い物は数多いるが(つい最近も日米同時に出現した)、その評価が定まるまでには数百年規模の時間を要するからだ。ただし、人類史は一人のそれを望んではいない。数々の辛酸を嘗めて、プラトンの「哲人政治」は万人に開かれている。今や、民衆こそ賢なりというレベルにまで達している。そんな夢が湧いた。
 いや、違う。夢ではない。夢こそ希望の力だ。
  ジョンレノンは歌う。
  Imagine all the people  
  Living life in peace
  You may say I'm a dreamer  
  But I'm not the only one
  I hope someday you'll join us  
  And the world will live as one  □