伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ストーリー テラーに乾杯!

2006年12月27日 | エッセー
 振り返ってみるに、今年最大の収穫は作家・浅田次郎氏との出会いであったろう。勿論、作品との邂逅である。意図しない出会い、そのものであった。その経緯については、本ブログの8月24日付「キケンな本」に記した。爾来、浅田浸けの日々を送ることとなる
 「書物の新しいぺージを一ぺージ、一ぺージ読むごとに、わたしはより豊かに、より強く、より高くなっていく!」とはチェーホフの言葉だ。まことに良書との出合いは値千金である。「勇気凛凛ルリの色」初版が96年。この作家との巡り会いに旬年を要した勘定になる。だが、遅きに失してはいない。彼は現役だ。
 いまだ浅田ワールドを渉猟し尽くしたわけではない。だから評する資格も、もとより力量もある筈はないのだが、年の終わりにその感慨の一端を記して筆納めとしたい。

 「お腹(ハラ)召(メ)しませ」は今年の「司馬遼太郎文学賞」に輝いた。一度の出会いはあったものの、遂に言葉を交わすことのなかった氏にとって感慨一入であったに相違ない。江戸末期に材を取った短編集である。切腹、神隠し、賄賂などをテーマにストーリー テラーの面目躍如たる作品である。ただ、江戸末期、晩期を舞台としたところがこの作家の凄みだ。たとえば祖父の昔語りから、あるいは携帯電話から、さらには抜擢人事から、はたまた卒業生名簿から、奇想、天外遥か江戸より来(キタ)るのである。
 したがって、筋立ては「武士の一分」のように直線的ではない。むしろ、それへの強烈なアンチテーゼだ。不祥事は腹を召さずとも維新が清算し、不義密通は一刃を交えずとも鮮やかに始末される。250年の泰平が育んだ生きる智慧が難題を見事に捌(サバ)く。生半(ナマナカ)な時代物ではない。
 『お腹召しませ』と迫る声は、『武士の一分』を立てよと急(セ)き立てる。しかし主人公は結句、『人間の一分』に忠義を立てるのだ。この辺り、憎い展開だ。さらには、「男の一分」を果たすための奇策。つまりは神隠し。遥かな古(イニシエ)に兵(ツワモノ)であった一団は、やがて「お家大事」の官僚団と化す。その屈折。時代回転の大津波は寄せてはいるものの、いまだ気配はない。優れて巧みな時代設定である。
 このテラー、一段と語り口滑らかに、聞き手を決して飽きさせはしない。
 
 「中原の虹」は今も進行中の作品である。来年には三・四巻が揃い、完結する。「蒼穹の昴」にはじまり、「珍妃の井戸」を挟んだ大河のごとき小説である。第二巻で西太后が身罷り、一つの区切りを迎えた。 ―― と、ある想念が浮かぶ。この作家、西太后に惚れたのではないか。たとえば、塩野七生氏がカエサルに入れ込みついにはローマに移住したように。でなければ、希代の悪女を五千年に及ぶ王朝史のクローザーとして蘇らせる筈はない。
 歴史小説としては、舞台は指呼の間にある。近いだけに書き辛かろう。前人未踏の時代でもある。その難渋に挑ませたのは、繰り返すが、后への思慕に外なるまい。崩じはしたものの、著者の胸奥にはしかと生き続けるに違いない。後(ノチ)の展開や、いかに。
 このテラー、いよいよの大団円に向かい、万端抜かりはあるまい。

 氏は名代(ナダイ)のストーリー テラーである。これは多言を要しない。加うるに、頭抜けた『言葉づかい』である。これも作品に当たれば領解(リョウゲ)できる。包丁づかいの名人が意のままに材を刻み料理るごとく、氏の言葉は如意棒のごとくに材を捌き、さまざまな世界に誘(イザナ)ってくれる。平成の語り部とは氏をおいて外にはない。
 かつて氏は「小説家とは嘘をつくことを許された職業である」と述べた。嘘はついても、それらが紡ぐ世界には空蝉(ウツセミ)のまことが綺羅星のごとく輝く。ならば、上手に、上手な嘘がつける作家こそストーリー テラーだ。
 年の括(クク)りに、満腔の祝意を込めて ―― 平成のストーリー テラーに乾杯!
 
 ―― fulltime氏に深謝しつつ。   団塊の欠片 拝 □

極月 雑感

2006年12月20日 | エッセー
 極月(ゴクゲツ)である。一年極みの月である。「時間は飴のように伸びた棒」と言った作家がいた。宇宙の運行に依拠するものの、際限のない自然の流れに人為の節を刻む。これは人類の卓見にちがいない。「飴のように伸びた棒」では定心を失う。
 クリスマスもあればイスラム暦もある。旧正月もある。しかし、グリニッジに合わせて世界は新しい節を刻む。人為的リセットだ。外はなにも変わりはしない。変わるのはこちらだ。そこにしか意味はない。
 
 竈に湯気が立ち、蒸籠で蒸した餅米を杵が穿つ。勇壮な杵の音(ネ)に、手返しの軽快な拍子が交じる。明けやらぬうちから、にわかに忙(セワ)しい人気(ヒトケ)がする。いつもこの時期になると、わたしの家でも餅搗きをした。親戚や近しい人が集まってきて、昼近くまでずいぶんと賑わった。少年のこころにも時ならぬ華やぎが兆したものだ。来由のほどは不案内だが、極月の風物詩である。新しい年を迎える昂揚は餅搗きとともにやってきた。 ―― こと絶えて、何年になるだろう。

 NHKの大晦日恒例のバカ騒ぎ。あれは止(ヨ)したほうがいい。『一日民放』の御為ごかしはいただけない。いい番組を作る局なのに、なぜかこの日は羽目が外れる。「歌い納め」などといいながら、数時間もすれば昨年のVTRが流れる。「納め」てなどないではないか。「納め」る前の唄が「歌い初め」などとは、ずいぶんひとを虚仮にしたはなしだ。

 この時期、人口の分散が起こる。田舎に人波が戻り、一時の活況を呈する。『美しい国へ』は「国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、郷土愛をはぐくむことが必要だ」と説く。本当にそうか。郷土の延長に国家はない。国家とは共同幻想体だ。個人の実感や体験を超えた抽象概念である。人為の産物だ。「愛する」ことの極限には死の選択が横たわる。著者の意図は別にして、単純化した筋立てには穴があるものだ。『国家の品格』もしかり。「愛国」は決してアプリオリな与件ではない。パトリアとナショナリティとの連関については熟考が必要だ。
 里帰りの波が退いたあと、寂寥の静寂(シジマ)が、また戻る。

 らしくないから、日本も英国のように開店を規制した方がいい。コンビニは元日も開けている。二日から営業を始めるスーパーもある。年の瀬の買い出しも、おせちもノミナルになってしまった。文化は利便だともいえるが、利便が文化を薄くもしている。でも、人は「らしさ」を求めて、今年も買い込むにちがいない。
 実用を離れた「らしさ」が時節の気分を醸す。
 
 今年の流行語大賞は「イナバウアー」と「品格」だった。極月の恒例だ。「イナバウアー」はこのブログでも取り上げた。この技、得点に関わらないことがすばらしい。無償の演技だ。この点はもっと評価されていい。非の打ち所のないプレーの連続に、1点も加算されない妙技を織り込む。荒川静香の凄味だ。
 個人的には『おまえの話はつまらん!』が一押しだ。見事に饒舌の世を一刀両断した。居合いの極意は力を抜くことにあるという。力んで出る言葉ではない。とっくに浮世を超えた秀じいさんの居合いに敵う論客は、今のところ見当たらない。

 骨が折れるほどの大きさでも広さでもない。だが、少しでも年末の負担を減らすために、旧盆の間に『中掃除』を行う。勝手な命名だが、結構気に入っている。汗だくになりながら、半年の埃を払う。なんとも痛快だ。残れば残ったで、年末回しだ。それに引き換え、冬の大掃除は寒さに身を縮め、なにものかにせっつかれながら急ぎことをなす体(テイ)がないか。
 「部屋がきれいになった分だけ、掃除機の中はゴミだらけだ」と、養老孟司さんは言った。私たちは同じことを地球規模で繰り返してはいないか。ゴミ処分場だって地球上にしかないのだから。てなことを理屈に掃除を免れる手はないか。そうは問屋が卸すまい。
 でも、本当にきれいにしたいのは憂き世の垢にまみれた来し方の自分。大掃除のゴミと一緒に今年の自分も捨ててしまいたい。どれほどすっきりと初春(ハツハル)を迎えられることか。 ―― 叶わぬことゆえ、ことしも掃除に精を出すしかあるまい。□

2年B組 学級レポート その2

2006年12月14日 | エッセー
 9月13日以来、2度目のレポートをします ―― 。

 アンバイ君が新しい学級委員になって3カ月になる。選挙はブッチギリのダントツだった。それはそれはカッコいいデビューだった。選挙での彼のアピールは「美しい学級・2年B組」。掃除当番を増やすことかな、と勘違いしたり心配したりした子もいたが、なんか違うらしい。「学級を愛そう」ってピントが違うんだけど、なんだかよく分からないうちに、ほとんどの生徒が彼に投票した。だって、オオイズミ君とくらべればずいぶんフツーに見えたんだもの。
 落選したアッソー君は、いま給食係だ。張り切ってはいるのだが、そそっかしいのでおかずを間違えたり、こぼしたりしている。気に入らない子に盛りを少なくして、こないだえらく先生に叱られた。もうひとり落選したヤマガキ君は、なんにも係には付かず、ひっそりと、ひたすら勉強している。
 当選するとすぐに、アンバイ君は犬猿の仲だったC組の学級委員であるK君のところに行って挨拶した。これからはお互いよきライバルとして仲良くやろう、と言って握手した。なかなかキマっていた。
 問題が起こった。
 オオイズミ君が強行した『給食廃止』の後始末。どうしてもイヤだといって学級を替わった生徒たちのことだ。学級委員が替わったのをきっかけに、やっぱりB組に戻りたいって言うんだ。B組に残った友達も早く帰っておいで、フレンドシップは大事だと言う。アンバイ君は名前の通り、どうしても塩梅をつけたがる。反省するならいいよ、ということにした。これがいけなかった。謝って済むのなら警察は要らない、それはヘンだよと、人気がたちまち落ちた。
 もう一つ。アンバイ君はお公家さんのような顔立ちのくせに、考えることは意外に硬派だ。僕たちの学校では個性を大事にしようということで、もう20年以上も前から制服を止めて私服にしていた。それをアンバイ君は元に戻して制服を復活させようと言い出した。生徒会に提案しまとめ、先生たちとの意見交換会を開くことになった。会で意見発表した生徒は制服派が圧倒的だった。親たちも学校の一体感が大事などと言い始めて、どうやらアンバイ君の提案は実りそうになった。と、ここにきて意外なカベに突き当たった。なんと、意見交換会での生徒の発言が「やらせ」であったことが判明したのだ。アンバイ君は発言の内容まであらかじめ教え込んでいたらしい。おまけに、「やらせ」をしてくれた人には缶コーヒーのGEOGIAをおごっていたこともバレてしまった。いやはや、また一波乱だ。
 悪いことは重なるもので、もう一つのアンバイ君の提案が行き詰まっている。子供貯金の使い道のことだ。いままで貯まったお金は卒業記念のために使ってきた。時計を贈ったり、オルガンを買い替えたりしてきた。このお金を他のことに使おう、というのがアンバイ君の提案だ。卒業記念品はもう止めて、学校行事の穴埋めに振り向けよう、というのだ。なかなかいい考えなのだが、やっぱり卒業記念にこだわる生徒もたくさんいて、すったもんだした。結局、もし卒業記念の余りが出れば、ということになってしまった。こういうのを、「骨抜き」というらしい。
 これでまた株を落としてしまった。
 同級生のアサヒ君が変なことを調べた。前の学級委員だったオオイズミ君としゃべる時間を比較してみたのだそうだ。そうしたらアンバイ君の方が2倍長い。丁寧に説明しようとしているのだろうが、文節をアーとかエーで区切るのでまどろっこしく感じる生徒が多いらしい。オオイズミ君は一言しかしゃべらず、それが随分ウけた。だけど、いま振り返ってみると、なんだかだまされていたような気もするんだけど……。

 さて、来年は3年生。生徒会長が替わる。毎年、B組の学級委員がなるのだけれど、こんなに人気が落ちると危ぶまれる。このままでは塩梅が悪い。かといって、アンバイ君の代わりはいないし……。少し憂鬱な年の瀬です。
 最後に、もうひとつ。こないだ YouTube でおもしろいのを発見しました。アンバイ君とそっくりな声のおじさんが安倍総理のモノマネをしていました。なんか顔まで似ていました。ということは、アンバイ君は総理とよく似ていることになるのでしょうか。これって、ラッキーなのかな? □

ドストエフスキーの「白地」??

2006年12月11日 | エッセー
 欠片の主張 その3である。まず以下のコメントを御一読願いたい。

―― 怪我の功名 (団塊の欠片)   2006-10-04  18:05:41
 ここ数日の『熟語騒動』の関連で予想外の大発見!!  ―― なんと、ATOKでは「盲」が変換できない。『めくら』と入力して変換しても「盲」が出てこないのだ。ひょっとして差別語は変換が効かないようにしているのか。もしやと、「唖」「聾」も試みたが、これもダメ。
 ところがである。あの忌み嫌い、見下(ミクダ)してきたIMEではできるのだ。ただ、IMEでは変換候補の中に「単漢字候補」というメニューがあって、そこにあるという。一発変換とう訳ではないにせよ、なんということだ。ATOKに寄せる愚生の絶大なる信頼を裏切るのか。
 早速、Just System に電話した。 ―― 弊社といたしましては、ユーザー様からのご要望もあり、差別語・不快語として<変換候補から>除外しております。意図的ではなくても、文章の途中にこの言葉がはいっていて一括して変換される場合もありますので……。
 との回答であった。差別語として扱う事と、かな漢字交換とは次元の違う話ではないか。ひらがなならいいのか、ということにもなる。変換できるようにすべきだ、との要望があることを関係部署に伝えてほしい。 ―― と、電話を切った。
 『ATOK使い』である後輩の一人にこのことを話すと、彼はこう言った。「ATOKはIMEよりも格段に人権意識が高い証拠ですよ」と。すごい! 視点が違う。飲酒運転は悪い。だが、酒はなくせない。ならば、飲酒したら運転できない車を作ればいい。この発想である。やはり、Just Systemは、時代に先駆けているのだ。世の『ATOK使い』の諸氏よ、自信をもって使い続けようではないか! 
※勿論、ATOKも漢字としては持っている。変換ができない、という話である。愚生、上記3語を急いで「ユーザー登録」したことは言うまでもない。 ――

 ところが、である。先週、週刊Sがこの問題を取り上げた。実は、変換不可は三重苦だけではなかったのだ。「女給」は『女九』に、「白痴」は『白地』に変換されることが判明。すると、かの名作も『白地』となってしまう。ムイシュキン公爵は癇癪を起こすに違いない。
 まだある。「色盲」は『指揮網』、「片端」は『片輪』、「白蝋病」は『葉苦労病』、「土工」は『土光』、「支那」は『品』、「人夫」は『妊婦』、「飯場」は『半場』、「気違い」は『機知外』……。さらに、「聾桟敷」の『聾』、「盲判」の「盲」まで変換不可だ。叩けば埃、でもあるまいが、文字通りキーを叩けばもっとありそうだ。ことこれに関してはMS、JS、仲良く横並びだ。
 政権党というものは、己の腹が痛まぬ限り極めて開明的だ。金がかからないことには、なおかつそれで名が売れようものならいたって先駆的になる。ふだん守旧であるだけに、余計に肩に力が入るらしい。昨年には「食育基本法」なるものが成立した。さすがに罰則はないものの、法律の「沙汰」は余計だろう。『なにを喰らおうと、大きなお世話だ!』と言いたくなる。赤絨毯の木偶の坊たちは余程に暇なのか。そんなことより己のダイエットに励み、自ら手本を示せばよいであろうに。
 おそらくその伝にちがいない。昭和56年5月に、「障害に関する用語の整理のための医師法等の一部を改正する法律」が公布された。翌年7月から法文が改められ、「不具」や「廃疾」は「重度障害」または「障害のあるもの」に、「白痴者」は「精神薄弱者」に変わった。また本年の今月からは、「精神病院」が「精神科病院」と呼称を改める。
 世の亀鑑たる法律の装いを改めることに異論はない。公の呼称を時代に即応させることに異見はない。だが、「規定と強制は毛筋の間隙(カンゲキ)もない」ことだけは十分に心得ておかねばならない。このことは、本ブログの5月28日付拙稿「恩が仇になる」で触れた。
 問題はMSにせよJSにせよ、『悪乗り』が過ぎることだ。地方公共団体がよくやる「上乗せ規制」や「はみ出し規制」の類いを、自ら買って出ている。法文や新聞がレギュレーションをかけるのは分かる。だがソフト屋は関係ないだろう、と言いたい。ワープロ(ソフト)は単なる道具だ。それ以上でも以下でもない。もっともJSは道具以上のものを目指してはいる。とびきりの優れ物であることは認める。しかし、それとてユーザーの能力を超えることはできない。なににせよ、ワープロが『第三のペン』となったことに浮かれて、考え違いをしてないか。
 繰り返そう。ワープロは単なる道具だ。彫刻刀の平刃は危ないからとなくしてしまうのか。平も丸も角もなければ彫れるものも彫れぬ。言葉の淘汰は人の世の移ろいにまかせればいい。道具屋が介入すべき事柄ではない。ましてや、そのお先棒を担ごうなどとはオーバーテリトリーも甚だしい。週刊Sは「言葉狩り」だとあげつらっているが、正確に言うと「漢字狩り」だ。変換さえしなければひらがなとして言葉は記せる。ただ、漢字が消えてそのままに言葉自体が使われなくなる可能性はある。

 そこで、欠片の主張 その3 ―― ワープロで、差別語・不快語としてかな漢字交換を制限しているのはおかしい。早く止めよう。ソフトメーカーはワープロは道具であるという原点に立ち返るべきだ。

 前言をひるがえし、JSにも物申す。『はくち』も『ハクチ』も、ましてや『白チ』など、おかしくないか。「過ぎ足るは及ばざるがごとし」、また「角を矯めて牛を殺す」とも言うではないか。賢察を期待する。□

12/8

2006年12月08日 | エッセー
 12月8日は因縁めいた日だ。65年前にパールハーバーの攻撃が、26年前にはジョン・レノンの横死があった。不意討ち、闇討ち、暗殺の類い ―― 片や国家的規模で、片や一人の狂人によってそれは行われた。古い話になると、四十七士の討ち入りは1週間後である。この時分(ジブン)、人を駆り立てるなにものかが蠢くのであろうか。
 真珠湾攻撃の立案者は山本五十六である。対米戦争反対の急先鋒だった五十六が戦端を開いた。悲劇的な皮肉である。同郷に河井継之介がいる。戊辰の役で壮絶な死闘を繰り広げた長岡藩の家老である。慧眼の士であった河井には幕府が余命幾ばくもないことは分かっていた。しかし結局は幕府と心中する。五十六も、継之介も時代は明瞭に見えていた。だが流れに抗い、逆行せざるをえない。このあたりの悲劇性は、まことに因縁めいてくる。「トラトラトラ」はかりそめの徒花(アダバナ)に終わる。

 訃報は車のラジオで聞いた。信号待ちをしていた時だ。よく晴れた日で、衝撃とともに、どういうわけか、あたりの光景までも鮮明に覚えている。 ―― 午後10時50分、ニューヨーク市内のダコタ・アパート前。マーク・チャップマンはリボルバーで5発の銃弾を浴びせた。
 デジャブではなく、なんとなく予感はあった。因果応報 ―― 彼は、また彼らもかつて刺客であった。リバプールから旅立った彼らはまたたくまに世界を席巻した。音楽シーンは不意討ちを食らい、固陋な社会は闇討ちに脅えた。たった4人で20世紀の奇蹟を創った。その中心に彼はいた。わたしたちは、彼を、彼らを英雄と呼んだ。しかし、英雄は非業の死を迎える。歴史はそう教える。老残を晒しながらベッドで身罷る彼は、想像の外だった。
 レノンもまた非業に斃(タオ)れた。
 
 わたしはこの日を、しずかに「IMAGINE」を聴く日と決めている。
 
 当時、アメリカは泥沼のベトナムにいた。「IMAGINE」は一条の光明だった。ヨーコに啓発されたレノンの思念がたおやかな調べに乗り、紡がれた。いままた、泥沼のイラクにいる。背景を同じくするためか、ここに再びの光明を見いだそうとする善意が注がれている。
 今年8月、朝日新聞社から『自由訳 イマジン』が出版された。新井 満(アライ マン、第99回芥川賞受賞作家)の力作である。トリノ五輪の開会式でこの曲が歌われたことに心打たれ、ヨーコ氏の賛同も得て執筆に至ったらしい。
 歌詞はレノン独特の、きわめて平易な英詩である。それだけにこちら側に預けられたものは大きい。優れた芸術がそうであるように、切り口は万斛(バンコク)にある。
 作家の目は、さすがに鋭い。 ―― 天国も地獄もない。国家も宗教もない。富も貧困もない。「ない」ことをこころに描けという。非常に希な呼びかけだと、氏は指摘する。アナーキーと早とちりしてはいけない。存在の証明はできても、不存在の証明は不可能に近い。対立概念を並べて、「ない」で括る。わたしはそこに東洋の智慧を感じる。

Imagine there's no Heaven  it's easy if you try
No Hell below us  Above us only sky
Imagine all the people  Living for today
Imagine there's no countries  It isn't hard to do
Nothing to kill or die for  And no religion too
Imagine all the people  Living life in peace
You may say I'm a dreamer  But I'm not the only one
I hope someday you'll join us  And the world will live as one
imagine no possessions   I wonder if you can
No need for greed or hunger  A brotherhood of man
Imagine all the people  Sharing all the world
You may say I'm a dreamer  But I'm not the only one
I hope someday you'll join us  And the world will be as one

 英雄、逝いて四半世紀。しずかに来し方をふり返る。□

ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ

2006年12月04日 | エッセー
 今年は、地方の首長に不正が相次いだ。正確にいうと、相次いで不正が明るみに出た。入札絡みの事件では、知事レベルで3件。福島、和歌山に次いで、いま宮崎が渦中にある。市町レベルでは5件。まさか「地方の時代」のさきがけでもあるまい。
 四捨五入して言うと、遠因は小選挙区制の導入にある。近因は検察がスタンスを変えたことだ。
 中選挙区とちがい小選挙区では1人しか当選しない。ひとつの政党で複数の立候補はない。当然、党主導になる。派閥は力を削がれる。特定の勢力を代弁していた族議員も減退しつつある。選挙区内をまんべんなくカバーしないと当選できなくなった。いままでの特定勢力の票だけでは足りなくなったのだ。
 政官業はピラミッドを成す。一時代前までは頂点に有力国会議員が君臨して、増え続けるパイを取り分けていた。しかし、いまやパイは細り続けている。構造自体が変容している。加えて、小泉改革。中途半端ではあったものの「国から地方へ」のベクトルはより強まった。国の力が低下した分、相対的に知事のプレゼンスが大きくなった。小さいながらも大統領制的な権限を知事は持っている。
 さらに、今年1月、改正された独占禁止法が施行された。罰則が強化され、起訴権限も地検にまで拡大された。「談合は必要悪という意見もあるが、談合で7、8割の金額でできる公共事業の値段を吊り上げている。これは国民の税金をだまし取る詐欺のようなものだ」との検察トップの認識もあった。贈収賄から談合の摘発へ、検察がスタンスを変えた。かつ、業界もいまサバイバル・ゲーム。かつての「鉄の結束」は崩れつつある。受注絡みの不満はすぐに噴出し、摘発への有力な内部情報が得やすくなった。
 かくて、知事による不正の連鎖「知事ドミノ」となった。
 最近聞いた話 ―― 大量飼育の養豚場は10頭づつぐらいの小部屋に仕切られている。10キロ強の子豚を3倍にして出荷する。餌は機械仕掛けで小さな箱に供給される。群がっては食えない。ところが各部屋にボスがいて、餌の順番を取り仕切る。しかし、悲しいかな一番始めにたらふく食うボスが最初に大きくなる。したがって出荷が最初なのだそうだ。 ―― 身につまされる向きがあるかもしれない。
 かの知事たちは稔るほどに頭(コウベ)をもたげ、ついに「天の声」を発するに至った。しばらく養豚場にでも出向いて、生態を観察していただいてはいかがか。
 ヨーロッパでは「ノブレス・オブリージュ」という。「高貴なる者に義務あり」だ。民主主義の大鉄則といわれる。政治家は権力をもつ分、身を律し民衆に尽くせ、と。さらに、ドイツの詩人・ハイネは綴る。「わたしの国民よ、あなたは国家の真の皇帝であり、真の君主である」。民主主義の『民主』とは、何あろう、このことではないか。これが為政者の本来の姿だとすれば、今の世はまさに転倒だ。この転倒を正さないかぎり、「浜の真砂(マサゴ)は尽くるとも世に盗人の種はたへせじ」だ。石川五右衛門、辞世の高笑いが聞こえる。ガンジーはカースト最下層の民を「ハリジャン」神の子と呼んで慈しんだ。カースト制度への対応について甲論乙駁はあるものの、ガンジーの真情と言動に嘘はない。
 
 「つま恋」を受けての『たくろう全国ツアー』が跳ねた。どの会場も2時間40分、圧倒的なパワーで押しまくった。今回のツアー、タイトルは「ミノルホド コウベヲタレル イナホカナ」。エンディングは、いつものように1分に及ぶ長く、深いお辞儀であった。
 初冬の列島に春の風が駆けた。(コンサートツアーの報告に替えて)□