伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ハンコ廃止に反対

2020年09月28日 | エッセー

 先日、朝日は以下のように報じた。
 〈河野氏、ハンコ廃止を全府省に要請 「存続なら理由を」
 河野太郎行政改革相は24日、全府省に行政手続きでハンコを使用しないよう要請した。そのうえで業務上、押印が必要な場合は理由を今月内に回答するように求めた。
 河野氏はテレビ朝日の報道番組に出演し、「テレワークをやってたのにハンコを押すために(会社に)出ていかなければいけないということが随分ある」と話した。〉(抄録)
 「存続なら理由を」という前に、なぜ生まれ、なぜ存続してきたのかを彼は問うたのであろうか。
 5千年前、メソポタミアのシュメール人が財宝を封印するために作った円筒印が最古のハンコとされる。誕生から約250万年間狩猟採集を続けてきた人類が農業革命を起こしたのが1万5千年前。それから1万年の間、何が起こったのか? 移動から定住の農耕社会へと大きく変化していった。農耕は狩猟採集のようなその日暮らしでは立ち行かない。種を蒔き時を経て稔りを迎えるという長時間のスパンで考えないと成り立たない。加えて、次の耕作のために種を保存せねばならない。ゆえに未来という概念が生まれたのだ。シュメール人の頭脳に未来の概念が棲み着いた時、円筒印は生まれたとみていい。さらに農耕は否応なく所有権の概念を飛躍的に高め、必然的に格差をももたらした。益々ハンコはプレゼンスを高めることになった。それが大括りの来由である。
 ハンコひとつもらうためにコロナ禍を移動しろというのかとのブーイングがある。尤もではあるが、太古からそのような事情は何度もあったはずだ。どうせ盲判とのオブジェクションも頷ける。しかし、それらを超えてなお「所有権の概念」は重要だ。死活に係わる。だからこそ、いくつもの審級を設けた。いちいちに熟慮と決断のステップを構え、責任の所在を明示した──という幻想を共有した。そういえるのではないか。例えば水戸黄門の印籠。誰もフェイクだとつゆほども疑わずひれ伏してしまう。なぜか。助さんが「静まれ、静まれ」と呼ばわり、格さんが「こちらにおわすお方をどなたと心得る・・・・頭が高い、控えおろう!!」と宣しつつ懐から印籠を取り出し高々と掲げる。その厳かな段取りが越後のちりめん問屋の隠居を刹那に先の副将軍にメタモルフォーゼさせる。隠居が自分で名乗り印籠を出したのでは「えーい、斬り捨てい!」の通りにされてしまう。
 これからは電子署名が取って代わるという。偽造はできず、手間暇も掛からない。セキュリティーを最大化し、コストを最小化するには打って付けだ。市場原理の一結実ともいえよう。だが、件(クダン)の「幻想」も「未来の概念」も跡形もなく潰える。それは同時に人間くさい営みの喪失でもある。清濁ともに消えた純水には特殊な酵母やカビを除いて生物は棲めない。「未来の概念」を逸失すると無時間思考のピットホールが待ち構える。今がどういう未来を招来するかは思慮の外に置かれる。当今の直情的で無分別な凶悪犯罪の横行はその表徴である。いつかも書いたが、だから林修の「今でしょ!」が嫌いなのだ。意図は別にあるにせよ。それだって、随分市場原理に毒されているが。
 京大元総長山極壽一氏はこう語る。
 〈この先に訪れるのは、物が動くか、人が動くか、どちらかの世界でしょう。自分の身体を使わずに宇宙にも行けるし、深海にも潜れるし、外国で異文化体験もできます。自分はまったく動かなくていい。でも、これは非常に危険です。なぜなら、信頼関係は身体をつなぎ合わせることでしか得られないものだからです。ぼくが期待しているのは人が移動する時代です。〉(「スマホを捨てたい子どもたち」から抄録)
 重い指摘だ。
 サインもハンコと同じく消えていく流れにある。かつてオバマが財務長官にジャック・ルーを起用した時、彼のサインが余りにも稚拙で簡単だったため偽造が心配された。任命式でオバマは「ジャックのサインを見た時は、指名を取り消そうかと思ったよ。僕にも読める文字を1文字は入れてくれと注文したんだ」とジョークを飛ばした。こんなやり取りは電子署名ではあり得ない。なんと味気ない。
 反対の理由はもう一つある。コロナ禍で噴き出した忿懣への人気取りに感じられてならないことだ。普段ならまず実態調査。次いで形だけでも諮問会議をつくって諮るところだ。いつものプロセスを素っ飛ばしてともかく実績をとの底意が見て取れる。拙速との批判を覚悟しても、まずはやってます感を演出する。そんな臭気がするのである。目下の官僚機構が抱える問題はそれではないだろうってことだ。変な猫騙しより、アンバイ君の負の遺産を片づけることが先だ。細々と曲がりなりにも命脈を保ってきた戦後民主主義が機能不全に陥っている。その再生こそ急務のはずだ。一度は自民党を飛び出した親父の気骨は悴に継承されなかったのか。太郎君、真価が問われる。 □


ヤマザキ&中野、コロナを語る

2020年09月27日 | エッセー

 作品を読んだことはないが、時々テレビで顔は見たことがある。随分尖ったことを言う人だなとの印象を受けた。
 ヤマザキマリ 1967年、東京都生まれ、漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で庭術史・油絵を専攻、2010年『テルマエ・ロマエ』(エンタープレイン)で第3回マンガ大賞受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞、著書に『プリニウス』(とり・みきとの共著、新潮社)、『オリンピア・キュクロス』(集英社)、『国境のない生き方』(小学館新書、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)など。
 ミッションスクールに通っていた14歳の時、1ヵ月ドイツとフランスを一人旅した。パリからドイツに移動する際に老齢のイタリア人陶芸家が付き纏い、旅の理由が芸術のためであることを話すと、「すべての道はローマに通ずる、イタリアを訪れないのはけしからん」と叱られる。母から「学校をいったん辞めてイタリアに留学したら?」と勧められ、17歳で高校を中退。フィレンツェのイタリア国立フィレンツェ・アカデミア美術学院(イタリア語版)で美術史と油絵を学びながら11年間過ごした。フィレンツェ在住時には学生アパートの隣室の詩人(イタリア人)と恋愛した。妊娠発覚後、その詩人とは別れ、男児を出産してシングルマザーとなった。(以上、ウィキペディアから抄録)
 受けた印象は略歴で充分頷ける。そのヤマザキ女史が脳科学者・中野信子先生とコロナを巡って対談した。「パンデミックの文明論」(文春新書、先月刊)である。
 中野先生のことだから脳内物質との関連で話が進むのかと見当を付けていたら、どっこい、これが大違い。ドーパミンだのセロトニンは出るには出るが、ジャブ程度。中身は看板に偽りなく、高々とした文明論であった。かつ、巨細漏らさず、おばさん目線、いや失礼、女性ならではの視点が斬新でもある。
 欧米では自然は征服する相手。コロナについても、「日本人には想像しづらい自然に屈することへの屈辱感」があり、だから「マスクをすることが『負け』になるという欧米の感覚」があると中野先生はいう。道理で、トランプがマスクを意地になって嫌い、返ってそれが好感されるのも納得がいく。日本人はというと「疫病は『避けるもの』であって、『戦うもの』ではない。マスクは「疫病に見つからないように顔を覆う、という感覚」に近く、「ネゴシエーションすることでやり過ごそうというやり方は、実に『ウィズ・コロナ』的で、意外に洗練された向き合い方なのかもしれない」と語る。おもしろい。○○警察についても鋭い分析があるのだが、次の2点が特に印象深かった。
 ヤマザキ氏は14世紀の黒死病パンデミックをキリスト教が逆手に取って一気に教勢を拡大したという。ヤマザキ女史はただのマンガ家ではない。イタリアを軸に広汎で深い欧州史の学識をお持ちだ。
 「『ペストは信仰を持たない者への天罰だ』と大キャンペーンを繰り広げ」、「キリスト教は死に神と戦っているんだという意識を植え付け、民衆の信頼を得ようとした」と抉る。それまでカルト宗教の一つにしか見られていなかったキリスト教が大きなプレゼンスを掴むことになったわけだ。パンデミックの後には農奴の解放が起こり、ルネッサンスへと連動していく。その俯瞰的な史的考察は圧巻である。
 2つ目は「アントニヌスのペスト」が誘起したローマ帝国の瓦解についてだ。
 「アントニヌスのペスト」とは、165年から180年にかけてアントニヌス帝の治世下ローマで猖獗した疫病である。350万から700万人ほどの人々が死んだ。なぜか? 「全ての道はローマに通ず」であったからだ。 
 ヤマザキ氏はこう繙く。
 〈メソポタミアから兵士たちが持ち帰った疫病によって、総死亡者数は一千万を超えたとも言われ、経済機能が止まってしまいます。生活インフラを担う商人たちが軒並み倒れたので、食料が尽きてしまった。さらに貿易を扱う人も船を漕ぐ人もいなくなってしまったので、物資が港に入ってこない。都市全体が飢餓に直面する中、兵士たちも次々と死んで軍隊が脆弱化する。そうした負の連鎖が続いた結果、ついに広大な帝国を監視・維持できるだけの国家の体力が奪われてしまったのです。〉(上掲書から)
 帝国の版図拡大はパンデミックとアンビバレンスにある。それはそっくり現代に当て嵌まる。トランプの愚昧さを勘定に入れたとしても、アメリカの惨状は古代ローマの生き写しといえる。もはや引き返せないグローバリゼーション。しかし宿痾も抱えねばならない。このアポリアを人類はどう乗り越えていくのか。蓋し、壮大な文明論ではないか。
 さまざまなコロナ本に当たってきたが、なんだか一番読み応えがあった気がする。好著だ。 □


むかしむかしあるところに、死体がありました。

2020年09月23日 | エッセー

 余りに無体なタイトルに吸い寄せられた。パロディーではない。換骨奪胎でも、ましてやコメディーでも更更ない。かといって怪奇譚でもない。雑多なメタファーのアンソロジーともいえない。ミステリーが一番相応しかろう。
 そのはずだ。作者は推理小説『浜村渚の計算ノート』シリーズで60万部超を売り上げた青柳碧人氏である。この作品は今年の「本屋大賞」第10位に選ばれた。同賞は書店員が「面白かった」、「お客様にも薦めたい」本を投票で決める。芥川賞や直木賞のようにプロが選定するのではなく、現場からの声を集約したオマージュだ。
 以下、紹介サイトから抄録。
 〈【「本屋大賞2020」候補作紹介】『むかしむかしあるところに、死体がありました。』――昔話×ミステリーを楽しめる本格推理小説
 「桃太郎」「浦島太郎」「一寸法師」――。日本人なら一度は読んだことがあるだろう昔ばなしをミステリーにアレンジしたユニークな作品です。 
 代表的な昔ばなし5作を「一寸法師の不在証明」「花咲か死者伝言」「つるの倒叙がえし」「密室龍宮城」「絶海の鬼ヶ島」に改題。
 例えば「つるの倒叙がえし」。しんしんと雪が降る日、両親を亡くした弥兵衛の家に、父親に金を貸していた庄屋が訪れます。両親の悪口を言われたうえに、借金を返さないなら村から追放すると脅された弥兵衛は、庄屋を鍬で殺しています。死体を機織り機が置いてある部屋の奥にある襖で閉ざされた部屋に隠した弥兵衛。直後、「つう」と名乗る女性の姿が......。罠にかかった鶴のつうを助けてくれた弥兵衛のもとへ、恩返しのためにやってきたのです。つうは弥兵衛に「機織りをしているときは決して中を覗かないでください」と忠告。弥兵衛もまた「何があっても、あの襖を開けて中を覗くことはなんねえぞ」と警告したのです。村人たちは懸命に庄屋を捜索しましたが発見できずにいました。弥兵衛の家の襖で閉ざされた奥の部屋でさえも......。あるはずの遺体はこつ然と消えていたのです。一体、どんなトリックを使ったのでしょうか? 
 ヒントはタイトルにある「倒叙」という言葉。ドラマ『古畑任三郎』のように、ストーリーの最初から犯人や犯行の様子が描写されることを意味します。最後まで読むと、タイトルの意味はもちろん、伏線や誤解に気づくことになり、もう一度初めから読み返したくなるほどの面白さ。驚愕のラストは必見です。 
 「一寸法師の不在証明」はアリバイ崩し、「花咲か死者伝言」はダイイングメッセージ、「密室龍宮城」は密室殺人、「絶海の鬼ヶ島」はクローズド・サークル(外界と連絡手段がつかない場所に閉じ込められた状況)というように、ミステリー要素が満載。ファン垂涎の1冊といえるでしょう。 
 よく知っているはずの昔ばなしが、新たな解釈で現代によみがえる新鮮な驚きと感動を味わえること間違いなしです。〉
 「驚愕のラスト」は「つるの倒叙がえし」だけではない。全作がそうだ。「花咲か死者伝言」は、まさかそんな、である。しかし、古典エッセイスト・大塚ひかり女史はこう語る。 
 〈老いによる精神的なマイナス面を表すポピュラーなことばが、“老いのひがみ”です。“ひがみ”とは、心がねじける、ひねくれる、歪む、といった意で、“老いのひがみ”というのは、老人ならではの頑固さや認識の誤りを表すことばとして、とくに平安文学に実にたくさん出てきます。こうした冷ややかな老人観のせいか、平安・鎌倉時代の文学では、老人は悪役にされることもしばしばです。〉(草思社「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」から抄録)
 となると、あの結末に頷ける。単なる謎解きを超えた老いのアポリアといえなくもない。
 「密室龍宮城」はタイムトラベルに目を奪われがちだが、城内の愛憎劇が濃密に描写される。そのはずだ。女史の洞察が裏書きしている。   
 〈千年以上ものあいだ形を変えて書き継がれてきた「浦島太郎」の主眼=今の「昔話」(や童話)では、その主眼……浦島太郎は結婚のために竜宮城へ行った……がすっぽり抜け落ちているのです。〉(同上)
 「絶海の鬼ヶ島」はコロナ以前の執筆とはいえ、クルーズ船DPやロックダウンを連想させる。今日的イシューの先取りといえるかもしれない。
 全体に年寄りが下手人となる話が多い。女史は古典文学にも高齢者の犯罪があるとして、昨今の状況をこう述べる。
 〈高齢者の人口が増えているのだから犯罪者が増えるのは当たり前とも思うのですが、実は、高齢者の検挙率の上昇は、高齢者人口の増加だけでは説明できないのです。平成十九年の高齢者人口が二十年間で約二倍に増加しているのに対し、高齢者の一般刑法犯検挙人員は約五倍に増加しているのです。高齢者の貧困化と孤独化がこうした結果を招いているのです。〉(同上)
 好々爺、優しい媼。そんな定型句が空語に近似する今を本書は「むかしむかし」の書割に投影している。そう捉えて飛躍はないだろう。他人事ではない。われら団塊の世代はすでにそっくり高齢者にカテゴライズされている。
 昨年5月には、瀬尾まいこ本屋大賞受賞作 「そして、バトンは渡された」を取り上げた。
 〈「そして、バトンは渡された」は父親が三人、家族の形態は、十七年間で七回も変わった。それは橋本 治最後の指南「代表者が複数」へのアンサーだ。〉
 と記した。比して本書は遜色ない。10位が不思議なぐらいだ。ミステリーではあるが、それを凌ぐアレゴリーに満ちている。歪んだ現代社会の写し絵といえなくはない。
 「昔話はなぜ語られるのか?」大塚女史の問い掛けである。
 〈それはつき詰めると、「コミュニケーション」の問題に行きつきます。子孫や共同体の人々に自分たちの国や家族の歴史を伝えたい、知恵や知識や感動を伝えたい……そうした目的もさることながら、昔話を語ることによって、聞き手との交流をはかる。退屈な夜のひととき、あるいは、いろりを囲んで夜なべをする子や孫に、老人がそれまでの経験から得た話、近所の噂話から得た話、自分が子供時代にやはり老人から聞かされた話を、伝える。〉
 「子孫や共同体」が消え、「退屈な夜」が「眠らない夜」に変わった当今、昔話の継承も途絶えた。こんな寂しい夜なべはない。同様、「死体」という究極の非日常も現実から追い遣られた。「むかしむかしあるところに、死体がありました。」ではなく、本当は「いまのいまいたるところに、死体があります。」なのに……。人工が死を覆い隠しても、生と死は渾然として今もある。そんなダイイングメッセージを青柳氏は寄こしたのではないだろうか。読後感は決して軽くはなかった。 □


デドックス

2020年09月17日 | エッセー

 官邸のポチだった田﨑某を始めTVの政治コメンテーターのクオリティの低さは目を覆うばかりだが、1人注目すべき発言をした解説者がいた。余談ながら、近ごろはなぜか解説者といわずコメンテーターという。時代感覚なのか、主張に重きを置いたのか、よく分からない。
 今月の14日にNスタを何気なく観ていると、閣僚を予想するなかでコメンテーターの与良正男氏がこう言った。
「注目すべきは官邸人事。首相補佐官。特に今井氏です」
 おっ、これこそ注目すべき発言ではないか。元毎日新聞論説副委員長だった政治コメンテーター。ちょび髭のあのおっさんである。見てくれはよいとはいえぬが、リベラルで辛口の論評で知られる。
 16日の朝日はこう伝えた。
 〈杉田副長官ら官邸事務方幹部、続投の方針 今井氏参与へ  20200916
 自民党の新総裁に選出された菅義偉官房長官は、官僚トップの官房副長官に杉田和博氏、外交・安全保障政策の司令塔である国家安全保障局(NSS)の局長に北村滋氏を再任する方針を固めた。菅氏の側近である和泉洋人首相補佐官も再任する。首相官邸の事務方の幹部を続投させ、危機管理体制や政策の継続性を保つ狙いがあるとみられる。
 安倍晋三首相の最側近として、政務担当の首相秘書官と首相補佐官を務めた今井尚哉氏を、内閣官房参与に充てる人事も固まった。
 今井氏は旧通商産業省(現経済産業省)出身。安倍首相の「側近中の側近」として知られ、2度の消費増税先送りのほか、日中や日ロをはじめとする外交政策にも大きな影響力を及ぼした。第1次安倍政権で事務担当の首相秘書官を務めた後、資源エネルギー庁次長などを経て、第2次安倍政権発足後は政務担当の首相秘書官として安倍氏を支えた。昨年9月からは首相補佐官(政策企画の総括担当)も兼務していた。〉
 今井氏については3月の拙稿「一寸の虫 8」で触れた。考えてみれば、彼の仕事ぶりは官房長官のそれの横取りだったともいえる。元々敵対といって悪ければ、拮抗関係にあった訳だから、ささやかな報復人事と言えなくもない。大臣選びに灰神楽が立つ中、与良氏が狙ったイシューは正鵠を射ていた。流石、ちょび髭は伊達ではない。
 「首相機関説」──佐藤 優氏の見立てである。
 〈安倍政権の特徴は「首相機関説」で見た方がわかりやすいと思います。カリスマ型の政治統治で自らのイニシアチブで政治を進めた小泉純一郎元首相とは異なり、安倍氏は側近に政策の立案を任せていました。側近から上がってくる政策で、安倍氏がやりたい事柄についてはアクセルを踏み、やりたくない場合はブレーキをかけるというスタイルでした。戦前・戦中に重臣が裁可を求めて上げてくる政策に同意できないと不機嫌に横を向いたという昭和天皇の統治スタイルに安倍政権は似ていました。〉(AERA 先週号より)
 「側近から上がってくる政策」とある。いつも盲判ならぬ盲アクセルを踏んだ側近案こそ今井氏の手に成るものだった。肝胆相照らす仲、阿吽の呼吸だったろう。それは勝手だとして、中身は最低、最悪の独りよがり、朝令暮改、強行突破の連続だったからいけない。側近政治の一典型として歴史に汚点を残した。今回の人事で“影の首相”を窓際化したのであれば快哉を叫びたい。スッカスカという前言を撤回しよう。続けて佐藤氏はこう読む。
 〈菅氏が首相になっても、「首相機関」という構造は基本的に維持されます。というよりも、このシステムを維持するために、8月28日に安倍氏が首相職から退くという表明をするまでは、本命視されていなかった菅氏が急速に力をつけたのです。菅氏が派閥政治の解消を訴えるのも、その方が現在の首相機関を維持することができるからです。〉
 居抜きに近い顔ぶれ、あからさまな論功行賞、座を争った他の二候補への冷遇をみると、「派閥政治の解消」を疑ってしまう。しかし一強ならぬ一毒のデドックスがなされるならよしとせねばならない。居残る補佐官たちも決して弱毒とは言い難いが、衡量すればの話だ。ただ首相機関の構造に変化はない。スッカラカンには本来相性がいいはずだ。
 新総理の十八番を使って締め括ろう。
 「いづれにしろ」これからである。 □ 


前稿捕捉

2020年09月15日 | エッセー

 「またやったね! なおみ」で、3. 日本的ソリューションについての言及を忘れていた。
 試合後のインタビューで7枚のマスクに込めたメッセージを問われ、なおみは「あなたがどんなメッセージを受け取ったのか。それの方が大事です」と応じた。
 内田 樹氏はこう述べている。
 〈「審問する」を究極の動詞とする言説は、私にはどうしても息苦しく感じられてならない。誰かを告発し、断罪し、弾劾するということは、そんなに素晴らしいことなのだろうか。そんなに崇高な行為なのだろうか。それによってしか私たちの未来は開かれないのだろうか。私にはどうしてもそうは思えない。正義への希求は「不義によって苦しむ人々」の痛みを想像的に共感するところから始まる。だから、「審問」という攻撃的なふるまいを動機づけたのは、ほんらいは「憐憫」や「同情」という柔弱な感情であったはずだ。〉(「ためらいの倫理学」から)
 あなたがどう受け取るかとのなおみの返しは、「痛みを想像的に共感する」ところから正義が希求されるとするこの日本人思想家の琴線に触れるのではないか。また、こうも語る。
 〈私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。(「邪悪なものの鎮め方」から)
 質問に声高に「正しい主張」を捲し立てるのではなく、「正しい主張」を自制する。この日本人思想家の深層は「日本的ソリューション」に通底しているのではなかろうか。
 続いて、2. で日本が「人権後進国」である実態をなぜマスコミは省みないのかと苦言を呈した。遠吠えが届いたのではあるまいが、今日(9月15日)の朝日は社説で「大坂なおみ選手 ボールは私たちの側に」と題し、
 〈私たちが住む日本にも様々な場面で差別は厳としてある。無自覚のうちに手を貸していないか。異議申し立てを抑圧する側に回ってはいないか。大坂選手が提起した問題を受け止め、足元を見つめ直す契機としたい。〉
 と記した。テレビメディアでは聞いたことがない言説である。テレビの劣化に比し、文字メディアの健全性に少し安堵を覚える。
 前稿では「官邸の巣ごもり君」にも言及した。十八番の「美しい日本」の他に「国民の負託に応える」も常套句だ。選挙によって国民から支持を受け国政を担うと執拗に言挙げする。しかし、忘れないでほしい。直近の昨年参院選挙での自民党の絶対得票率はいかほどであったか。比例代表が16.7%、選挙区が18.9%。国民の2割に満たない支持しかない。これで「国民の負託」と言えるのか。フェイクデータは巣ごもり君の専売特許だが、8割のサイレントマジョリティを捨象した挙句が今のざまだ。次のスッカスカ君にも“2VS.8”の構図はそのまま継続される。では投票率を上げるか。それは自分の首を絞める。自死に近い。超低投票率に“支え”られた政権という自覚と自制。それを夢寐にも失念せぬよう願いたい。
 以上、凡下の後知恵でした。 □


またやったね! なおみ

2020年09月14日 | エッセー

 「やったね! なおみ」(8月28日)では、
1. なおみは歴とした日本人。内政干渉に限りなく近似する。ならば、非難するか称賛するか、2つに1つ。なおみの勇断はアンバイ政権を股裂き状態に追い込んだ。それは、分断の安倍政治にNOを突き付けたも同じ。
2. 奇しくも沈黙は、日本が「人権後進国」である実態を炙り出した。返す刀が本邦の喉元に突き付けられた。なぜ、マスコミを筆頭にわが身を省みないのか。
3.  一度決めた棄権を撤回したのは三方一両損に通じる日本的なソリューション。
 と3点にわたって「やったね! なおみ」、届かずとも絶賛の声を上げた。
 今度は全米オープン2度目Vだ。しかもケガを押し劣勢を跳ね返しての快挙である。かつ、7試合ごとに7つの Black Lives Matter の黒マスク。1枚ずつ犠牲者の名前が白抜きされていた。人種差別への糾弾が有無を言わせない勝利で圧倒的に裏打ちされたといえる。「またやったね! なおみ」だ。
 人種とは、骨格・皮膚・毛髪などの遺伝的・形質的特徴によって区分した人の自然的な集団を指すとされる。英語 race の日本語訳語でもある。ヨーロッパ人が世界で植民地化を進めるに際し、征服者の優越性を正当化するために生み出された概念だ。
 ところが、日本には人種という概念がない。明治初期以来 race の訳語としての人種はあっても、日本人を括る概念としては使われなかった。モンゴロイドにカテゴライズされると欧米の蔑視を浴びるからだ。代わって用いられたのが「民族」。
 民族とは、「一定地域に共同の生活を長期間にわたって営むことにより、言語、習俗、宗教、政治、経済などの各種の文化内容の大部分を共有し、集団帰属意識によって結ばれた人間の集団の最大単位をいう。」とブリタニカ国際大百科事典にはある。
 雑に四捨五入すると、身体的特徴で別けると人種で文化的集団で別けると民族であろうか。歴史社会学者・小熊英二氏は朝日新聞のインタビューに応えて、
「日本政府は日本に人種問題や民族問題は存在しないという立場をとってきました。国内の差別を直視しよう、としないという点では、民族という概念の呪縛は続いている」
 と述べる。台湾や朝鮮の領有を正当化し彼の地の独立を弾圧する根拠となったのは民族という概念だった。劣った民族は教化し馴致せねばならない、と。人種差別を回避するために案出した民族が、同一人種内で新たな差別を生む。それが「民族という概念の呪縛」である。さらに小熊氏は
「差別や支配の自覚がないことなどは、日本が発明した民族概念の特徴です」
 とも語る。“アジアの一等国”を僭称した夜郎自大ゆえであろうか。嫌韓、嫌中の瀰漫は裏返った“アジアの一等国”といえまいか。
 インタビューで「民族という概念の影響は残っていますか」との問いかけに小熊氏は、
「残っていると思います。差別をしているという自覚がないこと、『国のお荷物になる』とみなされた者や内部の分裂を起こすとみなされた者が差別されること、などの点においてです。たとえば、生活保護を受ける人々や政府に人権侵害を抗議する人々が不当に非難されるなら、それは差別です。肌の色を基準とする米国型の人種主義とは違うかもしれません。しかし、差別のありようは社会によって違うのです」
 と返した。宜なる哉だ。
 世界の舞台で民族概念をはるかに超えた「日本人」が、黒人差別を高々と人権問題に普遍化した。これは先述の2. を凌駕する壮挙ではないか。だから、「またやったね! なおみ」である。まだ首相官邸に居残っている某前首相は今回も沈黙を守っている。やはり、もうそんなことには興味がないか。「美しい日本」の日本人が世界で輝いているというのに、官邸の巣ごもり君には眩しすぎて直視できぬらしい。 □


東京裏返し!?

2020年09月12日 | エッセー

 数年ぶりにエキサイトしつつ読み、<あとがき>に至った時になんと著者も同じ言葉を使っていた。
<今まで気づかなかったスポットに遭遇し、思いもせぬ結びつきを知り、多くの魅力的な風景を発見し、その度に興奮した。東京がこれほどエキサイティングだったとは──。>
 グルーヴともいえる。これほどの高揚感をもって1冊の著作に対峙するのは僥倖でもある。
 目次の端(ハナ)に「都電荒川線」とある。令和になってもなお残る東京で唯一の路面電車である。もう目が釘付けである。往年、日常の足だった。あの頃は確か「都電32番線」と呼んでいたように記憶する。それはともあれ、これが読まずにおられよか。
   「東京裏返し──社会学的街歩きガイド」 (吉見俊哉著、集英社新書、先月刊)
 吉見氏は東京都生まれ。東京大学大学院情報学環教授、元東京大学副学長で専門は都市論、文化社会学。日本におけるカルチュラル・スタディーズの発展で中心的な役割を果たす。著書に『都市のドラマトゥルギー」「五輪と戦後上演としての東京オリンピック」など。
 帯と見返しにはこうある。
 〈これからの注目は「都心北部」! 
 これまでに東京は三度「占領」されている。一度目は徳川家康、二度目は明治政府、三度目はGHQによって。消された記憶をたどっていくと、そこに見え隠れするのは、日本近代化の父と称される渋沢栄一であった。本書の中核をなすのは、都心北部=上野、秋葉原、本郷、神保町、兜町、湯島、谷中、浅草、王子といったエリアである。これらは三度目の占領以降、周縁化されてきた。しかし今、世界からも注目される都心地域へと成熟している。まさに中心へと「裏返し」されようとしているのだ。〉
 都心北部から南西に移動した中核が裏返り、再び北部へ戻る。なんと壮大なドラマトゥルギーか。「裏返し」とは、知られざる穴場の観光スポットガイドではない。家康のはるか以前、知られざる太古からの東京に地政学と社会学を駆使して分け入った探検記録である。
 吉見氏は都市のモビリティには3つあるという。時速4キロの歩行、同13キロの自転車や路面電車、40キロ以上の自動車と電車。都電は生活の場所から乖離せず低い目線で同じ空間を移動する。いわば「走る歩道」だと評する。
 そこで荒川線だ。氏は以下のように繙く。
──早稲田駅から三つ先に鬼子母神前駅。子授けの神は出産・育児さらに少子化問題につながる。
 その一つ先に都電雑司ヶ谷駅。日本初の公共墓地の一つ、雑司ヶ谷霊園がある。
 その五つ先に庚申塚駅。「おばあちゃんの原宿」で有名な巣鴨地蔵通り商店街の最寄り駅である。高齢化社会の典型でもある。──
 稿者流に括ると、
    鬼子母神は生を
    雑司ヶ谷は死を
    庚申塚は老いと病を
表徴するといえるのではないか。吉見氏は同著で「人間が生まれてから死ぬまでが、この短い区間に凝縮されているのです」と述べる。この辺りからエキサイトは始まる。
 さらに氏は、飛鳥山・王子から終点三ノ輪、近隣の山谷は資本主義の頂点と底辺とも捉える。ここから本書の陰の主役である渋沢栄一が登場する。一気に地政学の目が鋭くなっていく。
 〈飛鳥山・王子と三ノ輪・「山谷」を結ぶ荒川線の円弧は、近代資本主義の頂点と底辺を結ぶ路線でもあるのです。私たちは、一方では人生の誕生から老後、そして死までをつなぐ、他方では近代資本主義の頂点と底辺をつなぐ時速一三~一四キロの道行として、荒川線を味わうことができます。〉(上掲書より)
 と章を結んでいる。紙幣を生んだ渋沢が、早晩電子通貨に追われるであろう紙幣の最後の顔となろうとしている。とともに、資本主義もパラダイムシフトを迫られている。私たちは今、アイロニカルな歴史の結節点にいるのか。
 次章からは秋葉原、上野、神田、蔵前へと進み、今は蓋をされた水運都市江戸を浮かび上がらせていく。特に、神田・神保町での東大を中心とした学の街への考究は圧巻だ。その探索は東京再発見というレベルを遙かに超え、東京再興への壮大なビジョン、つまりは「東京裏返し」へと拡大、深化する。エキサイティング・トラベルだ。
 〈都市を時間的存在として理解すること。つまり本書は、読者が東京都心で、緩やかな速度(スローモビリティ)、長い歴史的時間の重層(三つの占領)、異なる次元の時間の共在(聖学俗)を、街歩きをしながら体験できるよう仕組まれている。さらに本書は、東京再生のための提案書でもある。本書で提案した多くの構想は、東京文化資源会議というネットワーク組織で議論されてきたものだ。そこで目指されているのは、都心北部の諸地域をつなぎ、二一世紀東京の文化の中心にしていくことである。〉
 と、「あとがき」は結ばれている。裏返して観る。歴史の重層が顕れる。原点に裏返る。なぜなら、人は地を離れて生きてはいけぬのだから。 □


スッカスカ

2020年09月06日 | エッセー

 スッカスカ君とは反りが合わないアッソー君がスッカスカ支持を先導した。「お前を総裁に担いだのはオレだぞ。オレを忘れるな!」ということである。「前政権を引き継ぐにはずっと支えてきたこの人が適任」などと歯の浮くような心にもないヨイショまでして。
 「お前が狙えばいいではないか」には乗らなかった。そのあたりはアンバイ君よりは賢い。いや、ずる賢い。失敗に学ぶことぐらいはできたらしい。もっとも反省ザル程度ではあるが。
 前政権を継承するとは居抜きと同義である。アンバイ政権の受益者の既得権益を保障するということだ。同時に居抜きである以上は先住者が置いていったものも受け継ぐ。モリカケサクラも継承せねば筋目が通らない。ん、そういえば条理からもっとも遠かったのが前政権だった。反知性主義もそのまんま。もう片付いてますと言い張るのもスッカスカ君にとっては立派な跡目の役割だ。となると、立派な共謀罪だとだけは言っておきたい。ポチが生き延びるにはボスの忠実なポチであり続けるしかない。トランプ大親分からするとポチのポチ、ポチポチだ。先だって、「露骨な独裁と戦前回帰にとりあえずの待ったが掛けられたことは慶賀に堪えない」と述べたが、糠喜びだったか。
 イシッパ君には運と仕掛けがなく、キッシー君にはキャラと度胸がなかった。かわいそう。ところが、ポチには巨大な空虚があった。文字通りのすっからかん、スッカスカであった。空疎でなければポチなど務まるものではない。スッカスカ君には他の2人が持ち得ないこの強力な属性があったのだ。稿者、不徳のいたすところこれを失念していた。
 こうもいえる。スッカスカを担ぐのはこの政党自体がスッカスカである証左であり、象徴的な戯画でもある。スッカスカに最も相性が良いのはスッカスカだ。国民政党とは名ばかりで利害政党である本性が曝け出された格好だ。世の利害を集約した政党が内側でも利害闘争を繰り返す。マトリョーシカだ。そんなに可愛くないか。
 さらに、こうもいえる。19世紀の哲学者ジョン・スチュアート・ミルは「国家の価値は結局、それを構成する個人個人のそれである」との箴言を残した。国民と国家のレベルは同値だと諭す。ならば、国民自体がスッカスカといわれても返す言葉はない。
 辞任表明の後、アンバイ政権の支持率が急上昇しているという。日経新聞の世論調査では55%。ただし、辞任を妥当とする声が88%。われら国民は既(スンデ)の所でスッカスカを免れたようだ。55%はまさか判官贔屓ではあるまい。いいとこ、お捻りか餞別と解するに如くはない。88%は政権とのズレを明証する。
 「スカッとジャパン」は夢のまた夢。見飽きた茶番を見せられて、またもや臍で茶を沸かす。そんな小汚ねーものが飲めるか! って、自分の臍じゃないか。まったくー。 □


気持ちだよ

2020年09月05日 | エッセー

   〽重たい荷物は背負ってしまえば
    両手が自由になるだろう
    その手で誰かを支えられたら
    それはどんなに素敵なんだろう〽
 康珍化作詞、吉田拓郎作曲の「気持ちだよ」はこう始まる。なんと伸びやかで広やか、寛(クツロ)かな歌か。続くのは何度も何度もリフレインされるフレーズ「気持ちだよ 気持ちだよ ぼくの気持ちだよ」である。
 「両手が自由になる」とは? 歌意を辱めることを怖れつつ勝手で突飛な連想をする。
 人類が熱帯雨林からサバンナへ居を移した時、直面したのは食糧不足だった。遠方から食物を掻き集めねばならない。先般引用した山極壽一氏の洞見を再び徴したい。
 〈直立二足歩行は、歩行速度を速めるのに役立つわけでも、俊敏性に優れているわけでもありません。ただ、長距離を歩くのにはエネルギー効率がよく、なおかつ自由になった手で物を運ぶのにも便利です。だから、栄養価の高い食物を手に持って帰ってくることで、自分だけでなく弱い仲間にも食べさせることができました。食べ物を通じて仲間の信頼が高まったわけです。これが、ゴリラやチンパンジーにない、人間の信頼関係の最初の構築です。人間の社会力の強さはここから始まったといっていいでしょう。〉(「スマホを捨てたい子どもたち」から抄録)
 翻って、「重たい荷物」とはなんだろう? 前稿で触れた『残酷な進化』の現実ではなかろうか。二足歩行と引き換えに、例えば心臓病という宿痾を抱えた深刻な現実。その覚悟。それは自由になった両手で誰かを支えるためだった。それが「素敵」だという。素敵を幸福とパラフレーズしよう。心理学者アドラーは「幸福とは、貢献感である」と定義する。しかも要求は厳しい。
 〈貢献感を得るための手近な手段として、他者からの承認を求めている。承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。共同体感覚さえあれば、承認欲求は消えます。他者からの承認は、いりません。〉(「嫌われる勇気」から抄録)
 「承認欲求を通じて得られた貢献感」は、次の承認を求めて常に自らを下位に呪縛し続ける。「自由がない」。しかし「共同体感覚さえあれば、承認欲求は消え」る。共同体感覚は直立二足歩行によって誘起された。具体的には「自由になった手」である。
 そして「心」と大上段に構えず、「ぼくの気持ち」にとどめるあたりが憎くはないか。「気持ち、右に寄せて」という。ほんの少しなのだが、気を向ける程度。距離にもならない距離感。上手い物言いだ。
 刻下の無菌指向が暴走すれば「誰かを支え」る「両手」まで邪魔だと言い出しかねない。そんな逆立(ギャクリツ)の萌芽を嗅ぎ取るのは奇怪な感覚障害であろうか。気持ち、視点をずらせば……案外世界は違って見えてくる。 □


心臓病になるように進化?!

2020年09月03日 | エッセー

 フラットな地面に渡されたホースで水を送るのはさほどの圧力は要しない。ところが、ビルの屋上に水をくみ上げるとなると相当な圧力を要する。前者はカエルやトカゲの心臓に、後者はヒトのそれに当たる。700万年前に直立二足歩行を始めて以来、ヒトは「心臓病になるように進化した」。そう語るのは明大講師で分子古生物学が専門の更科 功氏である。「残酷な進化論」(NHK出版新書、昨年10月刊)はヒトの様々な臓器や働き、集団の進化について解明し、実に示唆に富み目から鱗の連発だ。先般引用した山極壽一氏の学識と共通する部分も多く、好著である。
 体の一番上に乗っかる脳は体重の2%でしかないがエネルギーの20%を使っている。運ぶのは血液、送り出すポンプが心臓だ。他の臓器もある。血液はそれらをすべて経巡って、かつ回収されていく。心臓には大変な負担が掛かる。ならばもっと大きくて強くすればいいではないかと文句が出るが、ヒトはそのようには進化しなかった。だから、「残酷」なのだ。
 進化は進歩ではないと氏は言う。四捨五入すると、進化とは自然淘汰による単なる変化であり、自然淘汰とは自然による篩(フルイ)のことだ。われわれは未だ進化の途上にあり、ヒトは進化の最終形態ではない。例えば鳥の目。比較の視点を変えればヒトより勝れた生物はごまんといる。万物の霊長など与太に過ぎない。
 ダーウィンの「進化論」を腰だめ承知で約(ツヅ)めると、進化とは『たまたま』適合である。「キリンさんの首はなぜ長いのか?」、それは「たまたま首が長いキリンさんがいて高い所にある葉っぱを食べられたので生き残ったのです」。「高い葉っぱを食べるために、首を長く伸ばしたキリンさんだけが生き残ったのではないのです」。と、まあそういうことだ。
 この6月なにを血迷ったか、自民党の広報が進化論を引き合いに出して憲法改正をアピールした。とんでもないこじつけ、無知丸出しの郢書燕説である。各界から大変なブーイングを浴びた。上野動物園のキリンさんたちが首を縮めていたとか、いなかったとか。
 閑話休題。
 更科氏はこう述べる。
 〈頭は胴体よりもさらに高いところにある。その結果、頭のてっぺんから足先までは、かなりの高低差になる。この一番上から一番下まで血液を送らなければならないのだから、心臓の負担は大変なものになる。首の長いキリンや頭の大きいヒトは大変だろう。〉(上掲書より、以下同様)、またキリンさんが出た)
 飛行場には高い管制塔がある。頭も同じだ。アイポイントを高く保ちより広い視覚を得る。触感を除くあとの三感も集約して適時の判断と指示を出す。そこにエネルギーを供給するのが心臓だ。左右の心房と心室が収縮と拡張を繰り返し血液を全身に送り出す。同じ圧では肺が壊れるので肺には圧力を落とし別ルートを使う。なんとも芸が細かい。
 ともあれ楽な四つん這いを捨てて、直立二足歩行を維持するために健気にも心臓は働き詰めなのだ。少し休ませてやりたいが、そうはいかない。命が懸かっている。だからどうしても傷む。不可避的に傷む。設計ミス説があるほどだ。しかし「進化は進歩ではない」以上、不可避なのだ。狭心症や心筋梗塞は起こるべくして起こる。進化は残酷だ。氏はこう続ける。
 〈たとえ狭心症や心筋梗塞が起きたとしても、その個体が生殖年齢を過ぎていれば、自然淘汰には関係がない。もう子供をつくらない個体に何が起きようが、自然淘汰は一切関知しないのだ。それに加えて、もしも若い個体の一部に狭心症や心筋梗塞が起きたとしても、それを補って余りあるメリットがあれば、狭心症や心筋梗塞になりやすい個体が、自然淘汰によって除かれることはない。狭心症や心筋梗塞になりやすくなった理由は、元はと言えば、高い圧力で血液を全身に送るためだった。高い圧力で全身に血液を送れた結果、頭を高く上げて機敏に行動することができたのであれば、そして心筋梗塞で死んだ個体数を補って余りあるほど子供をたくさん残せたなら、そういう形質は自然淘汰によって「進化」するのだ。〉
 心臓疾患の病因は高血圧などが挙げられるが、「高い圧力で血液を全身に送るためだった」。直立二足歩行と天秤に掛けて、後者が自然選択された結果である。約5300年前のアイスマンの男性ミイラからは狭心症や心筋梗塞の徴候が窺えるという。「男性」に泣かされる。今も昔も、男どもにとって「狩り」は重労働なのだ。やはり、「自然淘汰によって除かれることはない」「補って余りあるメリット」に望みを繋ぐほかはない。
 氏はこう綴る。
 〈冠状動脈などの心臓の構造は、進化における設計ミスではなくて、進化にとっては理想的な構造かもしれない。ただそれが、私たちにとっては不都合な構造だったということだ。私たちと進化の利害関係は、しばしば一致しない。ときに進化は私たちの敵になる。もしそうなら、私たちも進化の言いなりになっている必要はないだろう。医学や健康な生活習慣は、進化と闘うための武器なのである。〉
 そして、
 〈大切なことはあっても、「生きる」より大切なことはないのではないか。つまり、生きるために生きているのが生物なのではないだろうか。何もできなくたって、恥じることはない。そんな生物は、たくさんいる。〉
 と語りかける。カムアウトすると、「自然淘汰」が「一切関知しない」年齢を過ぎて心臓を患い、今もって患っている。ヒトの進化を地で行くようで、誇り高い。もちろん負け惜しみだけど……。 □


コロナにヤられたのは誰だ!

2020年09月01日 | エッセー

〈未来の見えない日本の中の未来なき政治家の典型が安倍晋三です。安倍晋三のありようは今の日本人の絶望と同期しています。未来に希望があったら、一歩ずつでも煉瓦を積み上げるように国のかたちを整えてゆこうとします。そういう前向きの気分の国民があんな男を総理大臣に戴くはずがない。自信のなさが反転した彼の攻撃性と異常な自己愛は「滅びかけている国」の国民たちの琴線に触れるのです。彼をトップに押し上げているのは、日本の有権者の絶望だと思います。〉(「憲法が生きる市民社会へ」から)
 「日本人の絶望と同期」、「攻撃性と異常な自己愛」。これほど「あんな男」の正体を深く鋭く捉えた洞見を他に知らない。露骨な独裁と戦前回帰にとりあえずの待ったが掛けられたことは慶賀に堪えない。
 待ったは意外なものが掛けた。疫病である。4月の拙稿「コロナの大功名」で呵した通りだ。「日本人の絶望と同期」が「日本人の不安と同期」に転位した。安倍晋三が不安を代替した刹那、辞任以外の選択肢がすべて失われた。アベノミクスに始まり、アベノマスクに終わった。浜 矩子氏ならアホノミクスからアホノマスクへ、と言うだろう。
 アホノミクスの成果として彼がなんとかの一つ覚えに誇るのが400万人の雇用創出である。しかし実態は55%がパート、アルバイト、非正規である。当然、正規よりも所得は少なく手当てもなく不安定だ。川向こうに橋を架けるのではなく、たくさんのロープを渡すようなものだ。過重な負担と不安が増すばかり。余計事態は深刻になったというのが真相だ。現に主要13カ国の1994~2018年の名目賃金は日本が約マイナス5%と、本邦だけが減少した。件(クダン)の一つ覚えは、一つのデータを一つの上っ面だけを取り上げた恣意でしかない。瞞されてはなるまい。やっぱりアホノミクスに変わりはない。
 ついでだから付言したい。「安心安全」という言葉。これは形容矛盾である。字引によると、安心とは物事が安全・完全で、人に不安を感じさせないこととある。安全とは物事が損傷・損害・危害を受けないこととある。「物事が安全・完全」であることは不可能である。不可能である以上は不安は尽きない。また不安の解消を求めて物事の安全・完全を追求するのだが、これは無限ループだ。つまり、両立しない。どこかで折り合うしかない。ところが、どこかの政権は見果てぬ夢を軽々しく安売りしていた。「安心安全な国民生活」、「安心安全な町づくり」、「食の安心安全」などなど。あるいは逆に、「日本を取り巻く安全保障環境の悪化」を殊更に言挙げして不安を煽った。どちらにせよ、安心ホルモンであるセロトニンが際立って少ない日本人への『安心安全トラップ』といえなくもない。だが惨めにも、このアンビヴァレンツに絡み取られ身動き取れなくなったのは他ならぬ「あんな男」ではなかったか。自宅で犬を抱いてくつろぐ様は、遂に犬にしかくつろぎを与えてもらえない「あんな男」の末路を象徴して余りある。
 愚稿を採録して結びとしたい。3月「一寸の虫 9」から。
 〈規模の大小を問わず、国家権力を超える権力は国内には存在しない。超えるものは2つ。1つは他の、より強大な国家権力。もう1つは自然現象、天変地異である。
 ナチスは連合軍によって潰えたし、ポルトガルは大地震によって世界の覇者から引きずりおろされた。ペストによるパンデミックは洋の東西を越えて人類を何度も危機に陥れた。
 アンバイ君がどんなに一強を誇示し、独裁を欲しいままにしても道理は同じだ。新型コロナはさしずめ天変地異か。一強を超える自然の猛々しい力を見せつけている。付け焼き刃の「やってる感」なぞで太刀打ちできる相手ではない。
 百歩も千歩も譲って、到底宰相の器ではない者の「開いた口へ牡丹餅」が転がり込んだとしても、取ってつけた箔はもはや毀たれ「弱り目に祟り目」の境遇にあると自覚することだ。
 いや失念。この御仁、牡丹餅より桜餅がお得意だった。〉
 因みに、努力や苦労もせずに予想外の幸運が舞い込むことを「開いた口へ牡丹餅」という。夜郎自大な「あんな男」はすぐ図に乗る。今度は己がはなばなしく桜餅を振る舞って墓穴を掘ってしまった。まことに天網恢々疎にして漏らさずである。 □