伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

犯人はどっちだ

2021年01月31日 | エッセー

 犯人は病気だ。患者は被害者である。
「質(タチ)の悪い胃潰瘍にやられましたな。これではさぞお困りでしょう」
 たとえ患者の不摂生が病因だとしても、それは伏せてこう言うのが名医の骨法である。診察のたびに患者が犯人扱いされると足は遠のく。そうではなく、医者と患者が共同戦線を張って病気に立ち向かう構図をつくると、キュアは確実に向上する。
 ところが、この逆をいく藪医者が永田町界隈に群棲している。コロナ特措法と感染症法の改定である。諸説あるが、風邪如きにざわめき揺れる竹藪の藪。いい加減な見立てで小出しにされる処方箋。刑事罰を行政罰に変えたとはいえ、患者を犯人扱いすることに変わりはない。被害者と犯人が逆さまになっている。これでは瓢箪から駒、寝耳に水、藪から棒。とんでもない藪医者に掛かったものだ。
 お願いベースからお仕置きベースへ。日本はお上意識が抜けきれず、同調圧力が強い。緊急事態宣言も最初はそのような認識で発出された。あに図らんや、2波・3波に見舞われるうちお願いからお仕置きにベースを変えざるを得なくなった。哲学者で経済思想史の研究者である斎藤幸平氏が近著「人新世(ヒトシンセイ)の『資本論』」でこう述べている。
 〈「人命か、経済か」というジレンマに直面すると、行きすぎた対策は景気を悪くするという理由で、根本的問題への取り組みは先延ばしにされる。だが、対策を遅らせるほど、より大きな経済損失を生んでしまう。もちろん人命も失われる。危機が本当に深まると、強い国家さえも機能しなくなる可能性がある。実際、コロナ禍では、医療崩壊と経済の混乱を前にして、多くの国家はなにもできなくなった。〉
 昨年来、まさにこの通りの跛行であった。危機が深刻化すると国家は強権化する。それでも間に合わなくなると、お手上げ状態の土壺に嵌まる。お仕置きベースの成れの果てである。と、そんな軌道を歩んでいるような気がしてならない。ガースーなどと与太を飛ばしている暇はないはずだ。
 切り札と目されているのはワクチンである。
「地球ごと ワクチン接種 無理やろか」
 かつて、大阪弁川柳コンテストで大賞をとった作品である。「地球ごと」と願いたいが、国同士の奪い合いや途上国の置き去りが懸念されている。副反応、副作用、延いてはアナフィラキシー(過剰反応)も心配される。ともあれ万能薬はない。
 ワクチン接種は強制ではない。しかし職場で圧力が掛けられたり、入店を拒否されるケースが起こるだろう。そうなると感染者同様の差別を受けることになる。犯人と被害者の逆立。病気こそ犯人の視点が見失われ、お仕置きそのものが横行する。嫌(ヤ)な渡世の先に待ち構えているのは強権国家と密告社会。挙句は国家的カオスだ。もう一度言おう。犯人は病気だ! □


蓮舫議員の勇み足

2021年01月28日 | エッセー

 「2位じゃダメなんでしょうか?」はつとに有名だが、蓮舫議員はまた勇み足をした。先日の予算委員会で、自宅・宿泊療養中の死亡者が急増している問題を菅首相にぶつけた。首相は「大変、申し訳ない思いです」と述べたが、蓮舫議員は畳み掛ける。
「もう少し、言葉ありませんか。そんな答弁だから言葉が伝わらない。そんなメッセージだから、国民に危機感が伝わらないんですよ。あなたには総理としての自覚や責任感を言葉で伝えようとする、そういう思いはあるんですか」
「失礼じゃないでしょうか。私は昨年総理大臣に就任してから、1日も早い安心を取り戻したい。その思いで全力で取り組んできました」
 「もう少し、言葉ありませんか」と蓮舫議員に言いたいくらいだ。虻蜂取らず、これでは首相に情が寄ってしまう。水に落ちた犬を打つ後味の悪さ。残念ながら、勇み足。首相の勝ちだ。
 片や辻元清美議員は巧い。昨年2月の委員会質疑で当時の首相を巧みに煽って、「意味のない発言だよ!」とのヤジを誘発した。しかも質問席から退席する背中に向かってヤジを飛ばさせるという超難度の離れ業だった。審議は紛糾、頓馬な首相は謝罪に追い込まれた。今や、辻元議員の質問は永田町随一である。「自覚や責任感を言葉で伝えようとする、そういう思い」に溢れ、「失礼じゃないでしょうか」と勇み立つその足をサッと払う。柔よく剛を制す模範である。
 先日、元ソフトバンクの社員が秘密の技術情報をライバルの楽天に持ち出した容疑で捕まった。そうではなく、合法なM&Aで相手方企業が開発した技術を企業ごと取り込むことを「時間を買う」という。となると、楽天の場合は「時間を盗む」か。
 先月、フェイスブックによるインスタグラム買収を米当局が独禁法違反の疑いで提訴した。訴状の中で、FBのマーク・ザッカーバーグCEOの発言が露わになった。「インスタを単独のままにしておくと怖いことになる」と危機感を募らせ、「我々が本当に買うのは時間だ」と即断したというのだ。M&Aは規模拡大を求めて「会社を買う」から、技術開発に掛ける「時間を買う」にシフトしてきている。物的財産から人的財産へ、さらに知的財産へ。世の趨勢はそのように動いてきた。ビッグデータの活用により大量生産もやがて多様生産へとパラダイムシフトするだろう。「大きいことはいいことだ」った価値観は「小さくてもいろいろある」へと軸足を移すことだろう。
 ただ忘れてはならないこと。それは経済とは何かということだ。旧稿を引く。 
 〈経済とは中国古典の「経国済民」を略した言葉で、「 世 ( よ ) を 經 ( をさ ) め、 民 ( たみ ) を 濟 ( すく ) ふ」。国民のために手段として経済はある。〉(「やめられない、とまらない ごーつーえびせん」から抄録)
 「国民のために『手段』」である。決してその逆ではない。経済のために国民が手段化された不幸を歴史はどれだけ残してきたことか。
 蓮舫議員の勇み足からザッカーバーグCEOの発言へ話柄が飛んだ。無理矢理のようだが、どちらにも時間に急き立てられる切迫感、もしくは焦燥を感じてならない。じっくり煮て、焦がすほど焼く。辻元議員の巧みさが、今、光る。 □


マウンティング爺さん

2021年01月23日 | エッセー

  アッソー爺さんが「定額給付金」の再支給について「国民に一律10万円の支給をするつもりはない」と頭っからダメだし。生活困窮世帯に限っての給付も「考えにくい」と鰾膠も無く躱した。
 片や、一階の上爺さんは政府のコロナ対策について「他の政党に何ができますか。他の政治家が何ができますか。今、全力を尽くしてやっているじゃないですか。いちいちそんなケチをつけるものじゃないですよ」と記者に凄んだ。
  イメージコンサルタントの吉原珠央女史は、
 〈人が相手に決めつけるようなことをいうのは、「決めつけたほうがよっぽど楽で、問題が片づいたと錯覚できるから」、そして説教をすることに関しては、「説教というものが、説教する人の精神衛生上、大いに役立つものであるから」〉と、近著「その言い方は失礼です!」で臨床心理学者・河合隼雄氏の言葉を紹介している。
 大いに納得、宜なる哉だ。「よっぽど楽」が図星だ。反知性というか、非知性でなくては冒頭のような物言いはできるもんじゃない。それとも加齢による認知機能の低下か。
 思想家・内田 樹氏はさらに鋭い。
 〈自分は偉いので例外的な扱いを要求できると思っている幼児的なオヤジ。その代表が麻生太郎ですね。麻生太郎は別にナチスのこと(引用者註・憲法改正はナチスの手法に学べと発言)なんかどうとも思っていないと思いますよ。ネタは何だっていいんです。「非常識なこと」であれば。「ふつうの政治家がそんなことを言ったら社会的制裁を受けずには済まされないこと」であれば、何でもいいんです。「麻生太郎の場合はそういうことをしても社会的制裁を受けない」という事実を人々に誇示したいだけなんです。あたりかまわずマウンティングをしているんです。「下品」という以外に形容のしようがありません。〉(「コモンの再生」から抄録)
 永田町のマウンティング・ジジイ2傑といったところか。両人はともに政治を語らない。全知感が「無知の知」の逆立だとすると、アッソー爺さんの財政通も「非常識なこと」を支離滅裂に羅列しているとみていい。高邁な経済理論なぞ聞いたことがない。政治家ではなく、政事屋だ。
 一階の上爺さんも同等。いや、もっと酷い。政界のフィクサーからのイメチェンを狙ったのか、先日の国会で幹事長として代表質問に立った。以下、自民党HPによると、
 〈政治の真髄は「国民の命を守る」ことだと改めて強く認識し、この難局にあたってまいることをお約束いたします。〉
 と前置きし、ビジネス入国一時停止は果断な判断、ワクチン接種の準備状況、ステイホーム等の中で生じる様々な社会課題への対応、偏見・差別等への対応、特措法改正など、スッカ首相へのヨイショとごく普通の問題意識の列挙に過ぎなかった。
 唯一理念らしきものが語られたのは次の部分。
 〈観光の語源は、「易経」にある「国の光をみる」から引いたものと言われますが、私はこの光が「子供の笑顔」であるべきだと思います。コロナ禍の時代、コロナ後の時代に、子供たちの笑顔をどのようにして取り戻すことが出来るか、今、我々に課せられた喫緊にして大きな課題であると考えます。〉
 子どもたちに海外を見せて見聞を広げさせよう、ではない。なんだか、観光立国で金を稼げば子どもたちはハッピーになれる、と言いたいようだ。なんとも光りなきチープな理念である。
 和歌山県議から自民党国会議員へ。後、小沢一郎とともに自民を離党し、新生党結成。爾来10年、新進党、自由党、保守党、保守新党と渡り歩き、なんのことはない、ついに自民党に復党。この複雑怪奇な政党遍歴が、一階の上爺さんが紛れもない政争屋、政事屋であることを雄弁に物語っている。永田町の鵺であろうか。おまけに現在、全国旅行業協会会長で自民党観光立国調査会最高顧問でもある。「この光」の正体が透けて見える。
 もう1点。最大のイシューに触れないわけにはいかない。
 河井案里陣営に党本部から1億5千万の選挙資金が渡されていた事案だ。通常はその10分の1、1500万円である。最有力だった岸田派の対立候補の10倍だ。これを不問に付していいはずがない。政党助成金も原資に入っている以上、内輪の話で済ましてはならない。立件は難しいであろうが、検察にはジャブぐらいは繰り出して意地を見せてほしい。
 差配は誰がするのか。総裁は首相を兼務する、ため幹事長が衆参全般の党務を司る。実質的にカネを握っているのは幹事長だ。絶大な権限を独り占めしている。しかも在職期間は史上最長。すでに構造自体がマウンティング状態である。一階の上爺さんそのままに一階のその他大勢を睥睨している。だから、「他の政党に何ができますか。他の政治家が何ができますか。」という民主主義にとって「非常識なこと」がいとも簡単に口を衝いて出る。保守政治の最も悪質な旧弊を体現するマウンティング爺さんだ。ところが、近ごろははやり病で馬が跛行を繰り返し始めた。かといって、乗り換える馬はもうない。「いつまでもあると思うな親と金」、いや「馬と金」だった。 □


絶対悪

2021年01月21日 | エッセー

 「ダモクレスの剣」、61年9月ケネディは国連総会でそう断じた。核兵器のことだ。僣主が常に一触即発の剣呑にあることを、玉座の頭上に馬尾(ウマゲ)1本で剣を吊して諭す。古代ギリシャの説話である。
 明くる62年10月、皮肉にも「ダモクレスの剣」は現実のものになった。キューバ危機である。ケネディというよりフルシチョフの勇断により危機は回避された。しかし核保有国は増え続け、70年3月NPTの発効により大国による核の寡占体制が敷かれる。核拡散防止条約(NPT)とは、核軍縮を目的に米・英・仏・ソ・中の5カ国以外の核兵器の保有を禁止する条約である。非保有国でも加盟すれば平和利用は厳しい国際監視の下で認められる。日本は76年に批准。
 NPTには核保有5カ国に「誠実に核軍縮交渉を行う義務」が規定されているが、核軍縮は一向に進まず、増加の一途を辿った。89年12月、冷戦が終結。曙光が垣間見られたが、2000年代に入ってイラン、北朝鮮の核開発が明るみに出た。09年、オバマが「核兵器なき世界を目ざす」と宣言。将来への期待の意を込め彼にノーベル平和賞が授与された。そんな中、派手な表舞台の裏で核禁へ長い悪戦苦闘が積み上げられ、17年7月ついに核兵器禁止条約が国連で採択される。主導したICANはノーベル平和賞を受賞した。その核禁条約がこの22日、いよいよ発効を迎える。18日、朝日はこう報じた。
 〈核禁条約 大国を動かせるか──核兵器を初めて非人道的で違法とする核兵器禁止条約(核禁条約)が今月22日に効力を発する。核保有国や日本など「核の傘」に依存する国は背を向けているが、批准国が増えれば、無視できない存在になるとの見方も出ている。
 「絶対悪」3年内に100カ国・地域目標──「核は非人道的で絶対悪」という新たな国際規範が広がるためには批准国・地域がどれだけ増えるかが試金石となる。条約締結を先導した国際NGO・ICANは、加盟国と連携して各国への働きかけを強化するという。〉(抜粋)
 三文字に釘付けされる。「絶対悪」だ。
 「絶対」とはなにか。字引には次のようにある。
 〈「絶対」は、仏教用語の「絶待」に由来しており、この言葉は善悪・高低・美醜など、あらゆる対比を超えた立場・状態のことを指すものであった。一方、「絶体」は、もともと九星術で運勢を判断するときに、「凶星」の名前から来た語である。「絶」には「途中でたち切る。連続しているものや関係が切れる」という意味があり、「絶体」は体が尽きるような状態を表す言葉。「絶体絶命」でのみで使われる。〉
 「『対』峙」するものが「『絶』えた」、との謂が「絶対」であろう。「絶対は絶対にない」とは織田信長の名言であるが、トートロジーといえなくもない。むしろ、カントノの無条件に「~せよ」と命じる定言命法に近い。よって、「絶対悪」とは悪の極み、最悪を超えてなお比較を絶した悪、無条件の毫も猶予なき悪行となろうか。対義語は「必要悪」である。NPTは必要悪に立った取り決め、核禁条約は絶対悪に立脚した締約。ここが歴史的で画期的な画竜点睛、肝心要である。ヒロシマ・ナガサキで使われた早期終結論の正当性をも打ち砕く発想の転換だ。かつ、締約国は法的拘束力を受ける。
 ところが唯一の被爆国日本は批准どころか反対を貫いている。核兵器開発を止めない北朝鮮の脅威に対するには、アメリカの核の傘下にある必要があるという。これこそ抑止論の呪縛ではないか。近年、欧米では抑止論に疑問が呈せられるようになっている。日本では佐藤 優氏がAI兵器の誕生が従来の「核抑止論」を根本的に変える可能性があると主張している(「世界史の大逆転」)。さらに内田 樹氏は米軍は戦闘管理ネットワークを攻撃するサイバー攻撃で中国に一歩先んじられ、戦略の根本的な見直しを強いられているという(「コロナと生きる」)。一見戦争の垣根が低くなるようにみえるが、核のボタンが押せなくなるかもしれないパラドキシカルな展開だ。現実的に抑止論は無力化しつつあるのだ。AIには「絶対悪」を封じ込めるポテンシャルが秘められている。
 また、反対の理由として核軍縮は核保有国と非保有国が一緒になって段階的に進める必要があるとする。体のいい逃げ口上だ。アメリカの属国である以上ヘゲモニーを握れるはずなどない。ただし、唯一の被爆国として絶対悪に立ち向かう歴史的使命は間違いなくこの国にはある。そういう矜持に溢れる政治家がほしい。戦前志向の反知性リーダーや理念を持ち合わせない政争屋とはもういい加減におさらばしたい。 □


最後の語り部

2021年01月14日 | エッセー

  丸山眞男     1914年(大正 3年)生まれ  終戦時  31歳
 五味川純平  1916年(大正 5年) 〃           〃     29歳
 加藤周一    1919年(大正 8年) 〃           〃     26歳
 鶴見俊輔    1922年(大正11年)  〃        〃    23歳
 司馬遼太郎   1923年(大正12年)  〃         〃   22歳
 吉本隆明    1924年(大正13年)  〃          〃    21歳
 三島由紀夫   1925年(大正14年)  〃          〃   20歳
 半藤一利    1930年(昭和  5年) 〃        〃    15歳

 ざっと頭に浮かんだ戦中派の論客たちを並べてみた。戦中派とは戦争の只中に青春時代を送り、かつ戦後を主導した世代をいう。一日にして価値観が逆転し、それをトラウマとして自覚的に抱え続けた時の若者たちである。戦後、向き方はどうあれ戦争と真っ直ぐに対峙してきた面々である。このうち殿の半藤一利氏が先日死去し、上記の先達はみな生者の列を離れた。
 朝日は「昭和史、照らした語り部 半藤一利さん死去」と報じ、「日本の近現代史を身近なものにした立役者だった」とその死を悼んだ。おそらく『日本のいちばん長い日』を念頭に置いたのであろう。さらに、「憲法9条がもたらした戦後の平和を高く評価していた」とオマージュした。近現代史、特に昭和史に明るい歴史研究家であった。自らを「歴史探偵」と名乗り、旧軍人から徹底した聞き取り取材を続けた。本稿での引用は十指に余る。改めて感謝申し上げたい。
 司馬遼太郎は日露戦争の終結から太平洋戦争敗戦までの40年間を「明治憲法下の法体制が、不覚にも孕んでしまった鬼胎」と呼んだ。その期間を「いつわりの」「魔の季節」であるとし、その40年間を括弧に入れて日本史の架橋を試みた。つまり、日本史の連続性を担保しようとした。ただ壮大な枠組みは設えたものの、なぜか画竜点睛を打つことはなかった。それを見事に継承したのが半藤氏の『ノモンハンの夏』であった。
 戦後71年にして正銘の「語り部」が払底した。生きる平和遺産の喪失ともいえよう。だが呵された文字は留まり、声も映像も残る。その中の頂門の一針をもう一度肝に銘じておきたい。
 〈戦争は、ある日突然に天から降ってくるものではない。長い長いわれわれの「知らん顔」の道程の果てに起こるものなんである。〉(「歴史と戦争」から) □


議事堂乱入

2021年01月11日 | エッセー

 1933年2月27日、ドイツ国会議事堂が炎上した。ヒトラーは「コミュニストの仕業だ!」と叫んで現場に急行。翌日ヒトラーに強要され緊急大統領令が発令されワイマール憲法が骨抜きにされる。続けて翌月には全権委任法が成立してヒトラーによる独裁が始まった。炎上事件はナチスによるヤラセであるとの説が当初から囁かれていた。
〈 トランプ氏「扇動」批判強まる 支持者が議会乱入・占拠
 6日午後、トランプ大統領の支持者が多数、連邦議会議事堂に乱入し、一時占拠した。この影響で、議事堂で行われていた、大統領選の結果を確定させる上下両院の合同会議は中断され、議員らは一時避難した。また、地元警察によると、警察に銃撃された女性1人を含め、4人が死亡した。トランプ氏は、支持者が議事堂で抗議するよう呼びかけており、「扇動した」と批判が強まっている。 〉(7日朝日より抄録)
 今回の報道でナチスの事件を引き合いに出す例を聞かない。議事堂事件の前者は独裁の始まりであり、後者は独裁の成れの果てである。前者はあからさまな独裁であり、後者はこの事件によって独裁であったことが事後的にあからさまになった。全得票のほとんど半数、7000万のトランプ票は民主主義的手法を装った独裁政権による被支配者および被洗脳者の頭数と見るべきだ。乱入事件の本質は民主主義の否定ではなく、独裁の問題である。民主主義と独裁制は本来親和性が高い。ナチスの政権奪取は近代民主主義憲法であるワイマール憲法の手続きに拠って成された。トランプとて同様、アメリカの民主的法規に拠った。ただアメリカのそれには頗る高度な智慧の仕掛けが組み込まれている。それが大統領選挙における間接選挙だ。
 民主は出自からして衆愚と背中合わせだった。主権者たる民は時として熱狂に酔い、誤った決断を下すからだ。なにせ肇国当時は読み書きできない人が大勢いた。それに各々の州が独立不羈、一国の意識と体を成す。さらに選挙人は人口比で割り当てられるのではない。人口の少ない州が不利益を蒙らないよう、特定の州に権力が集中しないよう按配されている。だから合計得票数がそのまま勝敗を決するわけではない。それが間接選挙の骨法である。衆愚を回避し、ポピュリズムを斥け、トップリーダーの暴走や愚昧を極小化し、独裁を防ぐ。間接選挙方式は民主主義の安全弁といえる。 
 今回この仕掛けが見事に効いた。だから、民主主義の否定ではない。むしろ独裁政治が民主主義的手法に返り討ちにされた断末魔の醜態、ないしは痴態と見るべきではないか。民主主義の否定ではなく、民主主義の逆転勝利、独裁政治の逆転敗北だ。
 首の皮一枚、既の所でアメリカは奈落の縁で止まった。そう歴史書は記すにちがいない。 □


町木戸

2021年01月08日 | エッセー

 江戸の町は明け六つ(午前6時)から始まった。町木戸が開き、御店(オタナ)と湯屋が営業開始、芝居もこの時刻から幕が上がった。朝五つ(午前8時)になると職人が家を出、仕事仕舞いが夕七つ(午後4時)。暮れ六つ(午後6時)になると御店が閉め、替わって吉原が開いてくる。夜四つ(午後10時)に町木戸が閉められ、町々は深い眠りに入る。と、そんな具合だったらしい(時間幅は端折った)。
 職人をサラリーマンに準えると、吉原は括弧付きとして、さして変わりはなさそうだ
。だが、注目は「木戸」である。2人の木戸番が詰めた。22時から翌6時まで、防犯のため夜間8時間は閉じられた。命に係わる医者や産婆はフリーパスだったが、他用の者は木戸番が改め、木戸の左右にある潜り戸から出入りした。その際、人数分の拍子木が打たれ次の木戸に報せる。待っても来ない場合は、町内潜伏の疑いにより人を出して捜索した。木戸番屋は火事の警報役も兼ね、火の見櫓に昇って半焼を打ち鳴らした。木戸番の女将たちは火消しのために炊き出しまでしたという。
 町木戸システムは極々小規模とはいえ、当今のロックダウンといえるのではないか。治安維持のためこんな周到な仕組みを築き上げた先人の知恵に一驚を喫する。もちろん民草を管理するという発想はいただけないが、時代が違う。
 比するに、緊急事態宣言のなんとしょぼいことか。どこがしょぼいか? その泥縄ぶりがしょぼい。宰相の面がしょぼいのはしょうがないとして、跡追いがいかにもしょぼい。江戸は人口100万。世界最大の都市だった。当然、治安が憂慮される。憂慮が先手を生んだ。それが刻下この先進国で、できない。だからしょぼいのだ。なぜか先が読めない。いつも跡追い。後の祭り。遅参その意を得ず。だから、しょぼい。おまけに飲食業を目の敵。江戸の敵を長崎で討つ。とんだ筋違いだ。
 暮れ六つ、黄昏時、顔の見分けも付かない中で現れた俄政権。あっという間に夜四つが迫った。もうすぐ町木戸が閉まる。 □


ウヌボレはハクホウのはじまり

2021年01月06日 | エッセー

 〈わが家では、照ノ富士を『テルテル』、逸ノ城を『イッちゃん』と呼ぶ。テルテルが彗星の如く現れ流星の如く消えていったのが3年前。同じく彗星の如く現れいつの間にかいなくなったイッちゃん。今場所でテルテルは彗星の如く復活し、5年前の優勝額を見上げた。イッちゃんは迷い星の如く十両で低迷し、東京の夜空をそっと見上げる(想像だけど)。どちらも絵になる。
 白鵬はいけない。日本への過剰適応がみみっちくてなんとも大陸的ではない。帰化したそうだが、それこそ過剰適応の成れの果てだ。16年5月の拙稿「かちあげ 禁止に!」を初めとして何度か白鵬批判をしてきたが、犬の遠吠え。七月場所も、負けた相手の肩を突いたり横綱にあるまじき振る舞いが散見された。〉(昨年8月「やったね! テルテル」から抄録)
 その「過剰適応の成れの果て」横綱・白鵬は続く9月、11月場所を全休した。ついに11月、日本相撲協会の諮問機関、横綱審議委員会は成績不振や休場の多い白鵬、鶴竜両横綱に対し引退勧告に次いで重い『注意』を決議した。“後”がない白鵬。昨年暮れの合同稽古で貴景勝と三番稽古に臨んだ。15番取って13勝2敗。「次を育てるという私の役目、大相撲の恩返しになると思う。今日の稽古も生きてくるんじゃないかな。自分自身もそうだけど」と綱取りに挑む貴景勝の壁になると大見得を切った。こんな大口を叩くから後の始末が付かなくなる。今度はてめーがコロナに感染したのだ。入院中らしいが、1月場所出場は絶望的だ。
 大相撲の勝負規定は張り手、搗ち上げを禁じてはいない。品格を指摘された時、白鵬自身もそう応じた。しかし降格のない最上位である横綱という特権は、他の変転極まりない番付の力士に許されるルールのいくつかを適用除外されることで成り立っている。例えば注文相撲、立ち会いでの変化は許されない。地位を永久保証された特権者と争う非特権者にハンディキャップが与えられないと平等則に反する。アマにハンディキャップを認めないプロゴルファーはいない。事情は同等だ。張り手、搗ち上げも横綱が下位力士に返上したハンディキャップである。もちろんそんなことは勝負規定には明記されていない。殺人の禁止規定がないのと同じく相撲道における当たり前だからだ(殺人犯の処分に関する法規はあるが)。
 相撲界の第一人者であり牽引役である横綱がこともあろうにウイルスに感染する。いかに自己管理ができていないかを満天下に曝け出した大失態である。またしても横綱の品位を貶めた。間抜けな横綱だ。
 驕兵必敗という。慢心は必ず敗北を招く。今風にパラフレーズすれば、「ウヌボレはハクホウのはじまり」となろうか。なんだか前々稿「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」と妙に響き合う。
 ついでだから似ぬ京物語を一くさり。  
 春にはガースー下ろしが起こる。首相交代。ぐっと若手でイメチェンを図るだろう。おそらく衆院選。辛うじて過半数は維持するものの再びのねじれ状態。決められない政治の復活だ。
 だがこれは民主主義の王道に近似する、国民にとって嘉すべきありようである。ねじれを口実に返り咲いた政権がどれほど酷いものだったか、夢寐にも忘れてはなるまい。『あんな男』がゾンビとなって戻ってこないうちに急いだ方が得策だ。「ウヌボレはアベシンゾウのはじまり」でもある。 □


2020年の一書

2021年01月01日 | エッセー

 〈今書いているこの文章は、たぶんほとんどの同時代人には見向きもされないだろうと思っています。でも、二十年後、三十年後には「そうだよね」と同意してくれる読者がもう少し増えているかもしれない。それをめざして書いてます。〉(抄録)
 冒頭はこのように始まる。後継世代への遺言を残すことはあっても、20、30年後の読者と対峙する著作は滅多にあるものではない。言に違わず、「見向きもされない」売れ行きだ。
   内田樹 「日本習合論」 (ミシマ社 昨年9月刊)
 以下、紹介サイトから。
 〈外来のものと土着のものが共生するとき、もっとも日本人の創造性が発揮される。どうして神仏習合という雑種文化は消えたのか? 共同体、民主主義、農業、宗教、働き方…その問題点と可能性を「習合」的に看破した、傑作書き下ろし。壮大な知の扉を、さあ開こう。
──「話を簡単にするのを止めましょう」。それがこの本を通じて僕が提言したいことです。もちろん、そんなことを言う人はあまり(ぜんぜん)いません。これはすごく「変な話」です。「話は複雑にするほうが知性の開発に資するところが多い」という僕の命題については、とりあえず真偽の判定をペンディングしていただけないでしょうか。だって、別に今すぐ正否の結論を出してくれと言っているわけじゃないんですから」――あとがきより
 本書は「頭が大きい」内田氏の頭の中身を体感できる本。「純化」好みの多数派の人びとには手に負えない本だ。〉
 09年の「日本辺境論」に次ぐ日本論第2弾である。前者がトポグラフィーだとすると、後者はクロノロジカルともいえる。空間軸に因る日本論が前者、時間軸に因るそれが後者か。
「日本辺境論」では、
 〈国民作家である司馬遼太郎の作品の中で現在外国語で読めるものは三点しかありません。日本の戦後思想はほとんどまったく海外では知られていません。吉本隆明は必読の文献ですが、外国語訳はひとつも存在しません。「日本とは何なのか、日本人とは何ものなのか」を知ることこそは私たちの「見果てぬ夢」なのです。〉(抄録)
 と述べていた。爾来11年、「見果てぬ夢」に再度挑んだ「大風呂敷」が本書だと公言する。
 〈「習合」という一つの概念を手がかりにして、宗教から民主主義まで、日本文化の諸相を論じようというわけです。こういう大風呂敷話、僕は大好きなんです。以前「辺境」という概念を手がかりにして、やはり日本文化の諸相を論じたことがありました。それに続く久しぶりの「大風呂敷」です。〉(抄録)
 「諸相」はまことに重厚長大にして微に入り細を穿って綴られていく。知の大海に船酔いしつつ、わたくし流に無理矢理大括りにすると
 【 ハイブリッドは平和的! 】
 とでもなろうか。「二十年後、三十年後」に生きている確率がゼロに近い読者には必読の一書である。
 昨年12月8日ジョン・レノン没後40年に当たり、NHKが特番「イマジンは生きている」を放映した。その中で、ポール・マッカートニーが10月BBC放送で語った言葉が紹介された。
「ビートルズが解散して一緒に曲を作らなくなってからも、曲を書くたびに僕らはお互いを思い浮かべていたんだ。
 曲を書いていて『ここは最悪だ』と思った時、『ジョンならどう言うだろう?』と考える。そうすると、ジョンが『お前は正しい。確かに最悪だな。変えた方がいい』と話しかけてくる。だから僕はその通りにした。
 たとえ離れていても、いつもお互いを思っていたんだ。僕はそう思っていたい。」
 琴線に触れる言葉だ。胸が熱くなった。幻想の絆が限りない創造を生んだ。世紀を超え国境を越えたビートルズの名曲はジョンとポールのハイブリッドが生み出したのだ。自立した後も「お互いを思い浮かべて」それは続いた。干戈の対極にある平和の文化はそのようにして世に放たれていった。実にハイブリッドは平和的ではないか。 □