伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

オヤジは説明できない

2019年04月27日 | エッセー

◇13年12月9日
 安倍晋三首相は9日の記者会見で、6日に成立した特定秘密保護法について「今後とも国民の懸念を払拭すべく丁寧に説明していきたい」と語った。
◇15年月15日
 安倍晋三首相は15日、衆院平和安全法制特別委員会で安全保障関連法案が与党の賛成多数で可決したことについて「国会での審議はさらに続く。国会での審議を含め、国民にさらに丁寧にわかりやすく説明していきたい」と語った。
◇17年6月23日
 安倍晋三首相は通常国会閉会を受けた19日の記者会見で、学校法人加計学園の問題が不信を招いたことを認め「丁寧に説明する努力を積み重ねたい」と述べた。
◇18年11月12日
 外国人材の受け入れを拡大するための出入国管理法の改正案が13日に衆議院で審議入りすることを受け、安倍総理大臣は、法改正の必要性を丁寧に説明し、今の国会での成立を目指す考えを強調しました。
◇19年3月13日
 安倍晋三首相は13日午後の参院予算委員会で消費税に関し「さらなる引き上げに向けて、国民に丁寧に説明し、理解を深めていきたい」と述べた。
 上記は過去5年間の重要なイシューについてのアンバイ君のコメントである。すべてに「丁寧」と「説明」の2語が入っている。果たして「丁寧な説明」はなされたか。全部、うやむやのままだ。なぜだろう? 実は「説明しない」のではなく、「説明できない」のだ。つまり意志ではなく能力の問題であると、意外なことの本質を一刀両断に剔抉してくれたのが故橋本 治氏である。  帯に──バカばかりになった日本人への遺言──と副題をつけた
   「父権制の崩壊 あるいは指導者はもう来ない」 (朝日新書、今月刊)
 である。
  橋本氏はアンバイ君とは畑違いの人物を持ち出してくる。日本ボクシング連盟元「終身会長」であった山根明だ。あの「男、山根明」である。彼を「今では失われてしまった家父長制度の残像を身にまとった人物」とし、こう述べる。
 〈説明とは、言い訳と重なるようなもので、一家の上に絶対権力者として君臨する家父長オヤジが、どうして「自分より下」の立場の人間に説明なんかする必要があるだろう。オヤジが目下の人間に垂れるのは訓辞だけで、言い訳がましい説明なんかはしない。オヤジというのは説明をしない。説明をする必要が、立場としてない。だからどうなるのか? 恐ろしいことになる。オヤジには、説明能力がなくなるのだ(!)。〉(上掲書より)
 返す刀で、
 〈大阪在住のボクシングおやじと、東京の永田町にいる「総理大臣」とか「首相」と呼ばれる人物は、そのあり方──説明能力のなさ、説明能力のなさをうやむやにしてしまっている点でそっくりだ。説明をしなかった総理大臣は“なに”をしたのか? 日本ボクシング連盟会長が「みんな嘘!」と言い切って、その後に「辞任します」と言ったように、衆議院を解散してしまった。「解散します」は「辞任します」の近似形である。「見なし辞任」のようなもの。
 (総理は)「“ないこと”は証明出来ないのです」と、高級なことを教えてくれるのに止まった。下手に突っ込まれたらやばくなるから、絶対にその件に関しては触れないという戦法で、これを日本ボクシング連盟会長の言葉に翻訳すると、「みんな嘘」になってしまう。「みんな嘘」なのだから、一々の疑惑について反証する必要はない──そういうすごい展開です。〉(上掲書より抄録)
 「“ないこと”は証明出来ない」とは「悪魔の証明」である。官邸スタッフの入れ知恵であろう。「みんな嘘」の「男、山根明」よりは少しアカデミックだが、もっと狡い「みんな嘘」だ。
 続いてトドメを刺す。
 〈嘘をつこうとしている、逃げようとしているというのはモラルの問題だけれども、「説明能力がない」は、モラルとも道徳とも関係ない。すごいことに、「えらい」と言われる上の方の地位の人に多い。それは残存する家父長制の亡霊がなせるものだから。家長である男は、一家の中で一番えらいから「家族」という目下の人間に命令はしても、説明などということをする必要がない。終わってしまった家長おやじの幻想の中に入り込んでしまった人間は、だから説明能力が育たない。〉(同上)
 なんだか親分筋のトランプにもそのままいえそうだ。
 遺稿ともいうべき上掲書のそでにはこうある。
──「父はえらい、男はえらい、だから説明能力がなくてもいい」そんなバカげた世界は、とっくの昔に崩壊している!
 トランプ大統領の出現後、日本の組織でもパワハラ、セクハラが露わになり、官僚や大学のオヤジ体質が暴かれていく。男たちの「論理」が通用しない時代に、なぜ「父権制の亡霊」がはびこるのか。都知事選の変遷、ハリウッド映画の分析、学生運動の成り立ちから政治家のスキャンダルまで、あらゆる現象を歴史的にひもときながら、これまでの「当たり前」が失効する世界の到来を説く。ベストセラー『知性の顚覆』に続く、橋本治による最後の指南!──
 17年12月、小稿『昭和、平成、そして』で日本の歩みを以下のように大括りしてみた。

◇ヒメ・ヒコ制を抜けて古代国家の成立から江戸末期まで──「お家大事」。日本史のほとんどは「お家大事」の時代であったといってよい。
◇明治維新から敗戦まで──「家」から『お国大事』の時代へ。やがて暴走を始め、遂に破局に至る。
◇敗戦後から平成──アメリカが乗っ込んできて「お国」は退き、『お金大事』へ。高度経済成長、エコノミック・アニマル、やがてバブルに。だがバブルは弾けても、依然「お金大事」は続く。

 「日本史のほとんどは「お家大事」の時代であった」ゆえに、「家父長制の亡霊」は依然として残存するのであろう。実は、「お国大事」も「臣民は天皇の赤子」という家父長制の究極型だった。後続した「お金大事」はやがて成長の限界と少子高齢化という不可逆的な趨勢の中で「お家大事」を崩していく。そして「家」が急速に機能不全に陥っていったのが平成である。それはつまり、「家長」の消失と同義なのだ。橋本氏は同書を次のように締め括る。
 〈もう「家」そのものが実質的な機能を失っている以上、一人の支配者、一人の統治者であるような家長に、全体を統率する力は宿らない。だからもう実行力を持った指導者は現れない。しかし人は、まだ「力を備えた一人の指導者がやって来る」という幻想から離れられない。だから世界には、国民の考えから解離してしまった独裁的な力を持つ権力者が頻出している。アメリカでもロシアでも中国でも北朝鮮でも、日本でも。内向きで周囲の声に耳を貸さない人だけが指導者になれるというのは、時代がそこで止まってしまっているからだ。
 もう一人の人間に権力を預けて「指導者」と言うのをやめて、代表者が複数いてもいいあり方を検討すべきではないのでしょうか。〉(同上)
 重厚な博学多識と高々とした知性が徹見した世のありようと行く末。「最後の指南」というに相応しい名著である。 □


維新の強さ

2019年04月23日 | エッセー

  エスカレーターの2列乗り、「歩かず2列で」が奨励され始めたというTV報道があった。その方が結果速いのだそうだ。ふと、東京は左立ち、大阪は右立ちが浮かぶ(数年前、稿者は東京の某駅で右立ちをしていて突き落とされそうになった)。東京と大阪では言語、食文化を始めさまざまなものがちがう。「マック」(関東)と「マクド」、蕎麦とうどん。ディズニーランドとUSJ。3.11で顕在化した電気周波数の違い、などなど。挙げれば切りがない。笑ってしまうのが、警察官募集のキャッチコピー。警視庁は『あなたがまもる東京』、大阪府警は『行くぞっ!チカラの見せ所や!!』。府警は芳しからざる世評を気にしてか、妙に肩に力が入っている。ともあれ、これほど向こうを張る都市は世界にも稀ではないか。張っているのは大阪だが。
 エビデンスに欠ける腰だめの与太ではあるが、大阪維新の会の強さは如上のメンタリティーにあると稿者は観る。“アンチ東京”である。洒落ていえば、カウンターカルチャーの意地か。一端潰えたかに見えた「都構想」がまた生き返る(あるいは蒸し返す)。東京でオリンピックなら、大阪で万博。半世紀も前だ。08年、大阪でもオリンピックと狼煙を上げたが、やっぱり今度も万博。ならば、せめて「都(ト)」として肩を並べ副首都に。案外といっては礼を欠くが、維新の強さは“アンチ東京”という大阪人メンタリティーの琴線に触れるがゆえのような気がしてならぬ。だから、一時(イットキ)伸(ノ)した国政での維新の会は尻つぼみになってしまった。
 どのような党内事情があったかは知らぬが、立ち上げ時の大阪維新の会は大阪自民党からの離党組である。もちろん、府連には獅子身中の虫だ。ところが総理の座を投げ出した時秋波を送られた因縁もあってか、アンバイ政権も憲法改正の補完勢力として微妙な距離間を保っている。そんな複雑な相関関係の中を金看板の「大阪都構想」が再び“アンチ東京”の琴線をストレートに弾(ハジ)いた──。そういうドクサである。
 「都構想」については何度か触れてきた。詰まる所、以下の内田 樹氏の洞察に集約できる。
 〈大阪市廃止構想の本質的な瑕疵は、「自治」の問題であるにもかかわらず、徹底的に「効率」の問題として語られていることです。市民の自治権と効率的な行政サービスの交換取り引きに応じようとする人たちは、一度放棄した自治権はもう回復できないことを忘れています。〉
 複数の審級を組み合わせて意志決定を図る政治のありようを民主的という。自治権はそこに関わる。行政サービスの効率とは次元の違う話だ。「何も言うな、オレに任せろ」で痒いところに手が届けば結構なことだが、そんな思考停止の白紙委任ができるほど市民はバカではあるまい。いわば立法権と行政権をバーターしようとするものだ。それが「本質的な瑕疵」である。
 行政を会社運営と同一視する橋下徹のしょぼい政治観や政策についてはアンバイ君とのアナロジー、及びシンパシーを含めいいたいことは山ほどあるが別稿に譲る。
 強さの秘密は身近に宿る。存外、『行くぞっ!チカラの見せ所や!!』が当たらずといえども遠からずかも。 □


ノートルダム大火災

2019年04月19日 | エッセー

 火焔は免れたものの、一部が壊れ瓦礫や埃を被ったらしい。修復に2年は掛かるという専門家もいる。15世紀から数世紀に亘って廓大され、今ではパイプが8千本近い。ノートルダム大聖堂が誇る巨大パイプオルガンである。
 本来キリスト教は偶像崇拝を禁じている。それでも信徒は神を感じたい。ならばお姿を目で見る代わりに、お声なりと耳で聴こう。そこで聖歌が生まれた。さらに世界中のネットワークで、どの教会でも同じ歌を歌えるようにと五線譜の楽譜が創案された。西洋音楽の淵源には「神のお声」があったのである。
 パイプオルガンは9世紀あたりからカトリック教会で使われ始め、13世紀には「教会の楽器」として定着した。「パイプオルガンは、その音色が教会の祭式にすばらしい輝きを添え、心を神と天上のものへ高く掲げる伝統的楽器として大いに尊重されなければならない」と、バチカンの公式文書にある。プロテスタントではルター派が音楽を重要視し、マルティン・ルター自身が多くの賛美歌を作詞作曲した。約200年後、ルター派から「音楽の父」バッハが生まれた。比するに、カルヴァン派は歌舞音曲の類いには否定的だった。プロテスタンティズムに厳格で勤勉、倹約を説いたカルヴァンが無伴奏での詩篇歌斉唱を採ったためである。始祖によって文化にもバイアスがかかる。とまれノートルダム大聖堂は失った「声」を取り戻すため、格闘を始めることになる。
 世界遺産ノートルダム大聖堂は11世紀中葉に着工され13世紀中葉に竣工した。約200年を費やした代表的ゴシック建造物である。ゴシック宗教建築には、天に聳える尖塔、多量の外光を取り入れる大きな窓、外壁から飛び出たアーチ型梁を特徴とする。今でいえば、これ見よがしなド派手な建物である。均整のとれた古典文化を旨とするイタリア知識人には歪で不揃いに見えたに相違ない。評するに、野蛮人の意味を持つ「ゴート人の」という蔑称を使った。ゴシックとはその転訛である。
 吉本隆明は、ヨーロッパ人は堅固な建築物を造って思想を哲学として表現し、日本人は思想を能や茶道の芸道として表現した、と語ったことがある。高々と聳えるノートルダム大聖堂の偉容はヨーロッパの常道であろう。養老孟司氏は西洋の街には中心に教会と劇場の二つの大建造物があるとし、建物の立派さが中で生じている非現実の世界を保証している、と言ったことがある。なんとも辛辣だ。ともあれ人類の足跡を刻む世界の遺産であることに変わりはない。フランスは威信をかけて復元に挑むだろう。
 「ノートルダム」とはフランス語で「我らの貴婦人」という謂だ。貴婦人とは聖母マリアであり、聖母マリアに捧げられた大聖堂との意義である。聖母といえども跪く。なぜか。先代のローマ教皇ベネディクト十六世はキリスト者にこう呼びかけた。
 「信じることを学ぶ者は、ひざまづくことも学ぶ。そして、ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちや殉教者たちと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」
 さて、今上天皇になって大きく変わったことがある。被災者や障害者などの慰藉に際して、天皇皇后は跪く。初めは皇后だけであったが、その内お二人とも膝を付くようになった。昭和まではなかった振る舞いだ。「平成流」と呼ばれる。皇后が始めた。聖心女子大を出、キリスト者を両親にもつ皇后ならではだろう。直截的なシンクレティズムというよりは「象徴」としての立ち居に対するひとつの明確な、そして鮮やかな解答ではないか。そこにキリスト教的素養が与ったとみていい。令和に継承されるはずだ。
「パリは燃えているか」
 降伏時に焦土作戦を厳命していたヒトラーはパリ前線にそう詰問した。かつて建築を志望した彼の脳裡にはあの大聖堂も浮かんでいたにちがいない。パリ軍事総督であったコルティッツ将軍は命令に従わず連合軍に無条件降伏し、パリを救った。この大火にはテロルの疑いはないという。胸をなで下ろすところだが、異常時をかいくぐっても危機は日常にもある。破壊は刹那に襲ってくる。万般の教訓となろう。 □


韓国の民主主義

2019年04月16日 | エッセー

 時としてぐっと吸い寄せられる言葉がある。内田 樹氏の近著「株式会社化する日本」(詩想社新書、先月刊)から。
 〈朴正煕や全斗煥の時代の強権政治、開発独裁に対しては、違和感や嫌悪感を持っていた日本人が多かった。でも、民主化闘争以降、特にここ一〇年間くらいの韓国の民主制の成熟は目を見張るほどです。朴槿恵政権を倒した一〇〇万人集会では、ついに一人の死者も出さなかった。軍隊が市民に発砲し一五O人を超える死者を出した光州事件が一九八〇年、韓国の民主主義の成熟ぶりには驚かされます。民主主義の市民への根づきにおいて、日本はすでに韓国に抜かれたと思います。どうして抜かれたのかというと、日本の民主主義制度は市民が戦い取ったものではないからです。これまで目下に見ていた韓国が、気がついてみたら、日本よりも民主主義において成熟していた。〉(抄録)
 「韓国の民主主義の成熟ぶり」、ここだ。1980年光州事件の大弾圧、7年後の「6月民主抗争」の勝利。そこまでは知っていても、その後30年余の「成熟ぶり」には関心が向かなかった。隣国なのに、センセーショナルな事件は報道しても社会の基底的変化には無頓着であった。かつての「違和感や嫌悪感」が尾を引き、「目下に見ていた」のかもしれない。浅識に恥じ入るばかりだ。
 では、民主主義とは何か。内田氏の「アジア辺境論」での言説を整理してみる。(⇔ : 対立項)
── 主権者は誰か?……民主制 ⇔ 王政・貴族制・帝政 <独裁制ではない>
     統治のあり方?……独裁制<法の制定・執行者が同一> ⇔ 共和制<法の制定・執行者が別>
     独裁制……民主制とは相性が悪くない・知性の疲労、簡単な話が誘因
      共和制……権限が分割され簡単には物事が決まらないようにしてある・統治の制度ではなくマナー ──
 日本との対比の上から愚考を巡らす。
 如上の「違和感や嫌悪感」にはもう一つ、歴代大統領のほとんどが悲惨な末路を迎えてきた歴程が挙げられる。暗殺、亡命、自死、逮捕、収監、起訴、有罪判決、服役。お定まりのように繰り返されてきた。一族の英才にぶら下がる科挙の名残や、儒教の親族主義に基づく血腥い朋党の争いの呪縛が起因である。苛烈といえば、特異に類する苛烈さだ。だが君主という最高審級の権威をもたない一国の枠組みの中で、「王政・貴族制・帝政」を忌避しかつ<民主制とは相性が悪くない>独裁を却ける国民史的アレルギー反応だったといえなくもない。少なくとも忖度政治がギャグになり、司直は機能不全で<法の制定・執行者が同一>という実質的独裁が跋扈する本邦にはない剥き出しの「民主制」がそこにはある。
 アメリカとの関わりはどうか。韓米地位協定では殺人、強姦、誘拐、放火、強盗や、ほか薬物取引やこれらの未遂犯など12種類の犯罪、さらに飲酒運転による死亡事故も容疑者引き渡しの対象となっている。要請があれば起訴前でも可能だ。協定締結当初は韓国に刑事裁判権はなかったのだが、世論の強い後押しを受け30年を掛けた粘り強い改定交渉の結果、手にした。日米地位協定では、引き渡し対象は殺人と強姦しかない。治外法権も同然だ。「改定」の“か”の字もない。
 地位協定に基づく合同委員会はどうか。2017年、軍事機密や米軍の内部事情にかかわるものでない限り、すべての文書を公開することで韓米は合意している。片や、日米合同委員会は未だ議事録は「日米双方の合意がない限り公表しない」と定められている。どちらが「民主主義の市民への根づき」に優るか、推して知るべしであろう。「市民が戦い取った」民主主義であるか否か、違いはそこにある。ともあれ国の根幹に直結する事柄について日・韓の民主主義の差は歴然としている。そのことはもっと痛切に身に染みていいのではないか。「気がついてみたら、日本よりも民主主義において成熟していた」のだ。
 さらにもう一つ。慰安婦像への「違和感や嫌悪感」。これには日本政府の巧妙なプロパガンダがある。2014年8月の日米韓外相会合で「最終かつ不可逆的な解決」ができているのに、という繰り言だ。首相は「合意は国際的かつ普遍的な原則」だと見直し要求を峻拒した。しかし、本当にそうか。アメリカの恫喝による合意であったことを脇に措いても、合意は両外相の共同記者発表でしかない。つまり、合意文書を交わしたわけではない。国会の批准を要する条約でも、外相署名による行政レベルでの合意書でもない。ましてや署名なしの口頭約束が格段に法的拘束力が低いことは「国際的かつ普遍的な原則」である。見直し要求を拒絶する謂れはまったくない。知ってか知らずか、首相の見識が疑われる。だから、慰安婦像は対日不信の象徴としてありつづける。なぜそれほどまでに隣国から信頼を得られないのか、まずそれを省みるべきではないか。それが大人の応じ方だ。「民主」どころかその対極である植民地支配30年のルサンチマンは決して軽くはない。かつて奪われた「民主」の偶像としての慰安婦像をいま昂然と、「戦い取ったもの」ではなく諾々と与えられた似非「民主」の国に突き付ける。そのようなものとして慰安婦像はある。そう心得たい。
 アメリカとNKとの狭間で、いま文在寅大統領は苦悶し、苦闘ている。対峙するのは王政ともいえる民主制の対極にある国家である。かつ夜郎自大な独裁制でもある。彼を突き動かしているのは祖国統一を希う民意に違いない。アメリカの属国に甘んじる日本との懸隔は余りにも大きいといわざるを得ない。どちらが成熟した民主主義か、忸怩たるものがある。 □


サクラだ

2019年04月12日 | エッセー

 「任命責任は私にあります」とアンバイ君は言うが、それは違う。テメーの内閣という身内の不祥事なら「私の身から出た錆です」と言うべきだ。「任命責任」と言っているうちは「私に人を見る目がありませんでした」や「運悪く変なのを掴まされちまいました」と同義で、他責的言辞に変わりはない。怯まず自責を負う者こそ人に長たる者だ。
 「復興より議員が大事」とは、オリンピックという打ち上げ花火で政権の浮揚、つまりは議員の頭数を増やそうとしている政権の思惑をそのまま語っているに過ぎない。現に五輪工事のためにヒトもモノも横取りされ復興は滞っている。「残念」発言も国威発揚のメダル数が減る心配を率直に吐露したまでだ。
 石巻市をちゃんと読めないといっても、スカ官房長官は枚方市が“まいかたし”で、副総理のアッソー君は“ミゾウユウ”、アンバイ君は「云云」が“でんでん”で、「背後」が“せいご”。ほとんど同じレベルだ。“サクラだ”君だけを責めてやっては可哀相だ。国民的な知的劣化を彼らが先鋭的に体現しているのだから。
 PCに触らずともUSBを知らずとも、サイバーセキュリティ戦略本部担当大臣は務まる。オリンピック憲章だってそうだ。読んでないからといって、それがどうした。そのような区区たる知識の有無に大臣の適否が懸かっているわけではない。その付置をもって派閥の威勢を顕示し、あるいはその威勢を封殺した証としての付置を顕示することで与党勢力を統御することが組閣の第一義的意味である。職掌に応じた適否なぞは末節の関心事だ。だから8人も辞める。
 こないだ、アンバイ政権が忖度政治であることを正直に打ち明けて首が飛んだなんとか副大臣がいた。今度は“サクラだ”君だ。客の振りをして真っ先に「買った!」と声を上げる露天商の配下を偽客(サクラ)と呼ぶ。きっと“サクラだ”君は甲斐甲斐しくサクラを演じようとしたのだろう。いや、演じてみせた。「復興」ではなく、「議員」に「買った!」と手を挙げた。露天商の意を忠実に準ったとみてよい。ただ、忠実過ぎた。なんせサクラが選んだら擬い物に決まってる。「身から出た錆」という由縁だ。 □


MMT

2019年04月09日 | エッセー

 荻原重秀 VS. 新井白石 そして 田沼意次 VS. 松平定信 は、江戸時代を代表する不倶戴天の敵(カタキ)同士である。荻原、田沼は経済に通じた悪徳政治家、対する白石、定信は律儀な経済正統派として──。ところが後、白石は「白石デフレ」と酷評され、定信は「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と悪評を買った(白河は定信の暗喩)。まことに皮肉なものだ。反面、当今高い評価を受けているのが荻原と田沼。特に注目すべきは荻原である。
 荻原の「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」との持論は、300年も時代を先取りした信用貨幣論ともいえるものだ。歴史学者磯田道史氏はこう語る。
〈元禄期の勘定奉行・荻原重秀は「元禄の貨幣改鋳」をおこなった。彼は前近代人であるにもかかわらず、貨幣のもつ神秘性、犯しがたい貴さが、金銀などの貴金属によって担保されるというドグマ・思い込みから自由であった。彼だけが「金銀は神ではない。国家の信用が神なのだ」という現代的な通貨の本質に目覚めていた。通貨にとって、神となるのは通貨を発行している発行元=国家の信用力であると看破していたところに、私は、荻原の天才性=時代からの超絶をみる。〉(「日本史の探偵手帳」から)
 最近の研究により貨幣改鋳によるインフレはさしたるものではなく、逆に元禄の好景気を呼んだ「大江戸リフレ政策」として見直されている。
 元禄金銀の是非はともあれ、貨幣の本質を“幻想性と信用性”だと見抜いた眼力は驚異的だ。この二つは小稿で何度も触れてきた(「瓦礫」が幻想性、「国家が造る」が信頼性)。経済学者浜 矩子先生もズバリこう仰せである。
〈結局のところ、全ての通貨が仮想通貨だということである。我々はビットコインなどの電子決済手段を仮想通貨と呼んでいる。だが、考えてみれば、これはどうも少しおかしい。通貨は、人が通貨だと認知するから通貨となる。ということは、今日、世の中に出回っている通貨は、全て、人がそれを通貨だと「仮想」しているから通貨なのだ。〉(「通貨の正体」から)
 今月4日のこと、参院決算委員会で「財政赤字は怖くない」と、自民党の西田昌司くんが得意然とMMT(現代金融理論)の能書きを垂れていた。
〈米国で注目される「異端」の経済理論を踏まえて日本は借金を増やしても財政破綻しないとする意見に対して、麻生太郎財務相らが否定的な考えを述べた一方、安倍晋三首相は「日本の信用は十分にある」とまんざらでもない様子を見せた。西田氏は、「十分に財政出動ができていない。緊縮財政がむしろデフレをつくって財政を悪化させている」と主張。財政赤字を問題視しないMMTを引きながら、「自国通貨でお金をどんどん出していけば日本政府は絶対破綻することはない」と、財政支出の拡大を求めた。〉(4月5日付朝日から抄録)
 MMTとは「貨幣的主権を持つ政府は貨幣の独占的な供給者であり、物理的な形であれ非物理的な形であれ任意の貨幣単位で貨幣の発行を行うことができる。そのため政府は将来の支払いに対して非制限的な支払い能力を有しており、さらに非制限的に他部門に資金を提供する能力を持っている。そのため、政府の債務超過による破綻は起こりえない。換言すれば、政府は常に支払うことが可能なのである」と、ウィキペディアにある。
 “Modern Monetary Theory”──確かに Modern ではあるが、祖型を荻原論としその極めつけとみられなくもない。日本でもかなり以前から取り上げられ、トンデモ経済論として総スカンを喰ったこともある。知ってか知らずか、西田くんはアホノミクス不振の尻拭いを買って出たのだろうか。ご苦労なことだ。
 さてMMT、稿者には眉唾だ。貨幣の“幻想性と信用性”──幻想性はともあれ、MMTへの最大の疑念は“信用性”にある。刻下「非制限的な支払い能力」と「非制限的に他部門に資金を提供する能力」自体が問われるパラダイムシフトの渦中にあることを失念しているのではないか。つまり、いまだに成長神話を甲斐甲斐しく信じて疑わないのではないか。ピケティの指摘を筆頭に、資本主義は黄昏にあるというのが“Modern”な識見だ。成長経済から「脱成長」「定常経済」へ、が“Modern”な志向だ。だから、MMTは前提がおかしい。貨幣論の先駆性は別にして、荻原の「大江戸リフレ」は近代以前の、まだ成長が夜明け前にあったころの昔々のお話である。「重要なのは答えではない。問いを立てる力だ」とするなら、なぜアホノミクスが糠に釘に終始しているのかを問うことこそ緊要だ。
 荻原の先駆性とは無縁。白石の律儀も定信の清廉もなく、あるのは田沼の「濁り」のみ。「忖度」はついにこの政権の金看板となった。お札の顔を変えるより、内閣の顔を変えるが先だ。 □


漢の勲章

2019年04月05日 | エッセー

 〈笑われてなんぼ、の芸人なら、庶民から抜きんでては決してならない。お上からオーソライズされてはならない。それは芸人としての自死に当たる。世にもの申すことを芸風にしたいのなら、超えてはならない一線があるのだ。その距離感覚、地理感覚がまことに危うい。
 笑われてなんぼの「なんぼ」は、誰の懐から出ているのか。「一刀も持たぬ庶民」の懐だ。その心意気を忘れてもらっては困る。その心意気こそが、君たちの立つ瀬ではないのか。
 この問題の処方箋になるかどうか。たしか、「国民栄誉賞」かなにかを、まだ現役を理由に断ったイチロー。そう、彼の爪の垢を煎じて飲むことを是非おすすめしたい。〉
 06年4月、爆笑問題が文部科学大臣賞を受章した折の小稿である。(「” 爆笑問題 ”の問題」から抄録)
 「立つ瀬」とは実業にあらざるデラシネがそれでもなお拠って立つところとの謂だ。引退インタビューでイチローは、
「あるときまでは自分のためにプレーすることがチームのためになるし、見てくれる人も喜んでくれるかなと思っていたけれど、ニューヨークに行った後からは、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきた。ファンの存在なくしては自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思う」
 と語った。イチローの「立つ瀬」はファンなのだ。お上ではない。「お上からオーソライズ」なぞ端っから無縁である。眼中にない。むしろ余計、邪魔である。
 1度目は衝撃的デビューを果たしMVPなどを受賞した01年。「まだ現役で発展途上の選手なので、もし賞をいただけるのなら現役を引退した時にいただきたい」と辞退した。2度目は262安打の新記録、10年連続200安打以上など数々の記録を塗り替えた04年。「今の段階で国家から表彰を受けると、モチベーションが低下する」と、これも返上。そして今度。お上は三度目の正直を狙ったが、「人生の幕を下ろした時にもらえるよう励みます」と袖に。テレビの前でオーッと飛び上がり、手が赤くなるまで拍手を送った。実に痛快にして豪快。ファン冥利に尽きる快事である。
 「人生の幕を下ろした時」とは没後のことだ。漢籍にいう「棺(カン)を蓋いて事定まる」ともとれるが、たっぷり皮肉を利かせた名言と捉えた方がやはり「事定まる」。26人1団体のこれまでの受賞者の中に黒澤明氏と渥美清氏もいるが、おふたかたとも没後である。辞退者はイチローを含め3名。盗塁王・福本豊氏の「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」とのコメントは夙に有名である。もう一人、作曲家古関裕而は没後追贈に長男が「元気に活動している時ならともかく亡くなったあとに授与することに意味があるのか」と蹴った。
 比するにトランプ、アンバイ君。親分がノーベル平和賞に秋波を送れば、ここが子分の出番とばかり推薦状を送る。もう子分どころか、すっかり幇間である。イチローとは男の大きさが違う。桁違いに違う。太鼓持ちに心付けは渡しても、太鼓持ちから心付けを貰ってはあべこべだ。男が廃ろうというものだ。確たる基準もなく政府の人気取りに過ぎない小汚い付け届けなぞ御免蒙る、やっぱりイチローは漢だ。なんとも男を上げたものだ。男の中の漢だ。
 では、イチローにとっての勲章とは何か。拙稿を繰り返す。
 〈インタビューで胸に突き刺さったひと言があった。 「今まで残してきた記録はいずれ、誰かが抜いていくと思う。去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできなかったかもしれない。そのことがどの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りに持てたことかなと思います」
 「去年の5月から」とは会長付特別補佐に配され、選手としての出場はなく裏方に徹しつつもなお鍛錬を重ねた「あの日々」である。並のスーパースターなら腐る。だが、イチローは「誇り」だと言った。これこそ漢の言葉だ。琴線が弾かれ、暫し込み上げるものに堪えた。〉(先月「漢の誇り」から)
 「あの日々」とは現役時代の杮(コケラ)をすべて払い落とし、次なるステージの幕を開くことではなかったか。人知れず、かつ入念に、真摯にそれを遣り果(オオ)せた、その誇りだ。それはイチローの胸奥に輝く勲章である。彼はあの時点で充分可能だったレジェンドで収まる退路を自ら断ったのだ。刀折れ矢尽きての撤退なら誰でもできる。対峙する敵を退けるだけが名将ではない。名将は殿(シンガリ)をも見事に務め退却を仕遂げる。それが「あの日々」だったと見たい。その勲章に比べれば、なんとか栄誉賞など夜店のバッジより軽かろう。 □


25・88・18

2019年04月03日 | エッセー

 「安」も「晋」も入っていないのでひとまず胸をなで下ろした。そこまでずうずうしくはないだろうが、ひょっとしたらやりかねない御仁であるからだ。なにせ閣議控え室に最後に入ってくるなり閣僚が一斉に直立不動になって辞儀をし彼が座るまで動かない、という場面がTVニュースで番度映される。誰の振り付けか知らぬが、一強をこれ見よがしに演じているようで気持ちが悪い。政権のありようと目指すものが透けて見える、なんとも嘔吐を催す場面である。だから、やりかねないと危惧したのである。
 朝日新聞のインタビューに内田 樹氏は以下のように語った。
「政治的なにおいはしない。だが、国書といっても漢詩に原詩があると指摘されている。政治的効果を優先し特定の政治勢力に配慮して、冷静で丁寧な学術的検証が省かれたという疑念が拭えない。問題は、政権が元号発表を政治ショー化したこと。元号のような文化的な制度に露骨に政治的な策略を絡めたことについては、私は元号擁護論者として強い不快感を覚えている」(要約)
 第一報に接した時、稿者は「政治的なにおい」をもろに嗅いだ。律令の「令」ではないか、行政法の「令」だ、行政優位を含意したか、と捻くれ者ゆえツッコミを入れたくなった。数多の令子さんには申し訳ないが、清らかで美しいなどの謂はとんと浮かばなかった。字源は「頭上に頂く冠」と「跪く人」の象形にあり、人が膝を地に着け屈み込んで神意を聞くことである。「命ずる・いいつける」を意味する「令」の文字はそこに発した。
 ともあれ、問題は「政治ショー」だ。過剰な秘密保持、いかにも天皇・皇太子の裁可を受けるが如き芝居がかった進行。TVを梯子しての露骨なアピール。なんだか自らの政治的レジェンドのために今上天皇の退位を体よく政治利用しているようにしか見えない。まさしく「政治的な策略」だ。これは一杯食わされた。それゆえ後味の極めて悪い改元劇に成り下がってしまった。
 元号法は、本稿で何度も触れてきた日本会議の前身「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が主導して昭和54年6月に成立した。帝国憲法下の旧皇室典範にあった元号の規定は、新憲法下の新皇室典範(昭和22年)では条文が削除された。GHQによる民主化の流れを受けたものだろう。公文書等での使用は慣例という位置づけにされた。後、昭和天皇の高齢化に伴い元号の扱いがイシューとなっていく。昭和50年には内閣法制局部長が「陛下に万一のことがあれば空白の時代が始まる」と答弁。世論調査でも国民の8割が元号の継続に賛同し、にわかに事が進んだ。
 元号法は僅か2項でできている。
  第1項 元号は、政令で定める。
  第2項 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
 「政令」、要は政府が決めるとある。旧典範では
   第十二条 践祚ノ後元号ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト
 とあり、ぶっちゃけていうと天皇が決めた。なぜなら世を統べるとは時間を支配することだからだ。これは洋の東西を問わない。キリスト教下では創世から終末まで時間は神によって定められている。神の子・イエスの誕生をもって西暦の初年とする由縁だ。中国においても元号は中華皇帝の専管事項であった。日本において然り。しかし旧典範に始まる一世一元制度は天皇による時間支配を表徴するものではあったが、不合理でもあった。コラムニストの小田嶋隆氏はこの国は「ひとつの時代の終わりと始まりを、特定の人物の具体的な死に関連づけることで成り立っている実にもって不合理な社会である」と語る(晶文社、先月刊、内田 樹編「街場の平成論」より)。
 だからこそ、  
〈今上天皇が譲位という形で時代を締め括る意思を表明した勇気には、心から感服している。陛下は、平成という時代の終わりを、ご自身の正史と切り離す決意を申し出られた。大変な決断だと思う。平成の終わり方は、昭和の終わり方とは違う、そこには「死」の匂いが伴っていない。これは、どんなにことほいでも足りない素晴らしい変化だ。〉(同上)
 と深い賛意を寄せる。洞見というべきだろう。してみれば、退位の表明は「平成天皇による第2の『人間宣言』」といえなくもない。時間支配としての元号が一身の消息に縛され、しかも行政府の手中に落ちる。そのような不合理への人間の側からの反撃といえば、誇張が過ぎようか。
 「政治ショー」は瞭らかに「人間宣言」に逆行する。「元号のような文化的な制度」について政府の手柄が喧伝されればされるほど天皇のプレゼンスは希薄化し、「特定の政治勢力に配慮」つまりは天皇裁可を偽装すればするほど今上天皇の意図とは乖離していく。そのようなアンビバレンスを懇切丁寧に平衡できる知力と胆力こそが「象徴」を担保する唯一の力だ。すぐに辻褄が合わなくなる俄仕込みの講釈を垂れ回す腰軽には、とても適う仕事ではない。もっともエイプリルフールの座興としてなら面白い仕掛けではあるが……。
 結びに、タイトルの数字である。稿者が日頃使っている、使うことになる西暦・和暦換算の小知恵である。昭和に25を足すと西暦の下二桁に、平成には88、令和には18。和暦から引くと西暦の下二桁になる。敗戦の昭和20年+25で西暦1945年、ミレニアム2001年―88は平成13年、赤面の「2025年問題」は―18で令和7年という具合──。面倒という勿れ。内田 樹氏曰く「複数の時間軸を持っていることは、文化的に豊かなこと」なのだから。 □