伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

一寸の虫 7

2020年02月28日 | エッセー

 別にわざわざ不味(フミ)を期待しているわけでも、かといって美味をないものねだりしているのでもない。病院食である。 

   ひとつだけお手上げの副食がある。初めて食した時、その絶望的不味さに「オレにケンカを売ってるのか!」と叫びたくなった。魚なのだが、決まって同じ魚種。これが煮ようが焼こうがひとっつも不味に変わりがない。ひょっとしたら魚ではないのではないかと素性を疑ったがやはり魚だった。ならばアマゾンの熱帯魚か、南海トラフに棲息する深海魚か。まさかそんなコスト無視はすまい。ナースを通じて訊く手もあるが、気弱なボクにはそんな大胆不敵なことはできっこない。生憎、さかなクンとはなんのつながりもない。 出自は杳として知れぬ。

 いつもまるまる残すものだから、無言のメッセージが通じたのか、餡掛け、クリーム煮など工夫を加え始めた。しかし欠片を試食してもう終わり。やはりダメだ。五味を軽々と迂回して脳髄を強烈なパンチが直撃する。新手のフーズハラスメントであろうか。今日もまた、食器の蓋を開ける指先が小刻みに震える。確か、パーキンソン病は患っていないはずなのだが。
 あれこれ考えるに、「不快の構造化」の最右翼こそ病院食ではないかとの結論に至った。
 聞くところによれは、料亭並みの病院食(勿論、人工食材を使ったりフェイクなどの工夫をして病状に適した制限は守りつつ)を供する不埒なホスピタルもあるそうだ。やっかみから言うのではない。「不快の構造化」に著しく反する。
 さて肉はどうか。こちらは鶏肉一辺倒。忘れたころに、豚肉が出る。しかしこれも、どうすればこれほど不味く作れるのか不思議なくらい。このブログの当初から指摘する「なります」言葉──「こちら珈琲になります」のあれだた。「じゃあ、珈琲になる前はなんだったんだ?」と突っ込みを入れたくなるコンビニやファーストフードのマニュアル言語──のおそらく唯一の最適使用例かもしれない。だって器に盛られた豚肉は豚肉になる前は何だったのかとトレースせざるを得ぬほど豚肉から遠いのだから。
 豚は措こう。あの忌々しい天敵魚だ。やがてテメーがひとりの善良なる病人に甚だしい痛苦を与えることも知らずに、どこを泳いでいやがる! □


一寸の虫 6

2020年02月24日 | エッセー

 はじめてこの四文字の漢字に接した時、座りの悪さに強い違和感を覚えた。
 「論理国語」である。22年度から高等学校の「現代文」がなくなり「論理国語」と「文学国語」の選択制になるという。「論理国語」だって? なんじゃそれはっていうわけだ。
 文科省のHPには、──実社会に必要な国語の知識を身に付けるため、論理的に書き批判的に考える力を伸ばすとともに、創造的思考力を養い自分の考えを深め広げる──とその目的が記されている。まずこの文章自体がしっちゃかめっちゃかで何が言いたいのか要領を得ない。論理と創造の無批判な短絡。むしろ、創造は論理とのアンビヴァレンツな鬩 ぎ合いからなされるのではないか。少なくとも歴史はそう教える。国語教育が喫緊に必要なのはむしろ文科官僚ではないのか。
 茂木健一郎氏は「これを考えた人たちの頭の悪さとセンスの貧しさ」と、酷評している。
 問題の根は別にある。中高生の日本語読解能力が危機的状況にあり、教科書程度の文章が正確に理解できない現実にこそ目を向けるべきだ。問題文が何を訊いているのか理解できないため、約半数の正解率がサイコロ並みだという。東ロボくんの母と呼ばれる新井紀子氏がつとに警鐘を鳴らしている深刻なアポリアである。18年6月の拙稿『東ロボくんの母は語る』で詳しく触れた。
 「論理国語」問題は、文科省による大学からの人文学外しと同心円上にある。つまりは実学重視路線だ。雲を掴むよりカネを掴め、ということらしい。
 実学とは、理論より実用性、技術を重んずる学問で、農学、工学、商学、医学などがそれだ。人文学は、哲学、歴史学、文学、社会学などが該当し、そもそも論、世の当たり前を問う学問である。
 内田 樹氏は安定したシステムの中で効率を追究する実学は平時の学問であり、百年単位の非常時に働く人文知・人文学はカタストロフィーの学問、乱世で輝く学問であるとして双方を使い分けねばならないと、目から鱗の達識を提示している。
 2045のシンギュラリティをはじめ、既存のシステムが瓦解する人類史的パラダイムシフトが今迫ろうとしている。「移行的混乱を生き延びていく知恵や制度とは何なのか。100年、500年、1000年という時間軸で人類の歴史の中から見つけてゆく」(内田氏)べき時代に逆行しているのは本邦の文科行政ではないか。「論理国語」問題は偏に文科省の時代を読み解く読解力の貧困にあるといわざるを得ない。

 ミネルバの梟が黄昏に飛び立つのは、現実のダイナミズムに挑む人知の健気を喩えるが、霞ヶ関にはゴミを漁る烏の群れしかいないとみえる。 □


一寸の虫 5

2020年02月20日 | エッセー

 最初の10日間、1日ウン万円の特別室に入っていた。満室のため、病院側の配慮により普通料金で。ビジホテのBIP並みで、シャワーも応接セットも大型のクローゼットもありで、 窓は障子との二重構造。一般病室とは離れているため物音ひとつしない。しめた! とほくそ笑んではみたものの、5日6日と経つうち、段々と居心地が悪くなってきた。わずかな年金でほそぼそと糊口をしのぐ下層老人に不釣り合いなのは勿論だが、ケア・スタッフも幾分勘違いしているのか、扱いが妙によそよそしい。何より悩ましいのは人の息づかいがしないことだ。インフルのため面会は家族のみ。こちとら痔病、いや持病の心の臓の病で入院。いいとばっちりだ。一人になると点滴の音だけが無機質に響く。

 11日目、4人部屋に移動。やっと人の息づかいがする環境に戻った。ところがドッコイ、こちらは息づかいがあり過ぎ。ひっきりなしのナースコール、廊下を往ったり来たりのドタバタの連続。息づかいのヒマもない。近頃はどうも看護と介護がシームレスになってきているようだ。
 そんな中、同室ではやたら浣腸をせがむ爺さん。TPOをまったく弁えず、傍らに人なし。喚いて息んで番度の大騒ぎ。どう生きてくればあのような傍若無人なる人格を獲得できるのか一興ではある。がしかし飯時にやられては、がっつくべき物相飯(これに比べれば、荊妻が作る料理は三ツ星レストラン級であるといえなくもない)でも喉を通らない。窮状を聞き取った看護師長の計らいで「そういう人たち」の専用室に遷座願った次第である。
 代わって入ったのがいわくありそうな中年男。職場で高熱を発して倒れ、救急車で運ばれて来たという。その割には元気で3日目には支払いもせず大手を振って退院していった。なんのことはない。職場とはパチンコ屋、生保受給者。ほぼパチプロだそうだ。税金がこんなふうに消えている。どうにも腹立たしい。
 もうひとり。切れ痔の手術で入院した独居老人。危ないからと家にあった有り金50万を持参したという。それを看護士立ち会いのもと、ベッド脇のコンソールボックスの鍵が掛かる抽斗に仕舞うと大騒ぎ。銀行に預ける手はなかったのか。もしも逸失したら同室者が疑われる。改めて現なまへの執着に驚かされる。

 そして当方。何本かの管と電極によってベッドに緊縛された肢体不自由高齢者。情けない限りである。
 今も遥か離れた病室からあの爺さんの雄叫びが聞こえる。人の息づかいも、すぎたるは及ばざるながごとし、か。やはり「不快の構造化」か。いやまて、これこそ浮世の写し絵ではないか。嗚呼。 □


一寸の虫 4

2020年02月18日 | エッセー

「100万人といえどもわが中国においてはごく少数である」

 1989年6月天安門に押し寄せる100万を超える大群衆に対し、こう鄧小平は言い放った。きのう現在、新型コロナによる中国国内での感染者7万人超、死者1700人超という報道に、にわかに先の言が蘇った。

 こういう数字が公表されること自体、大きな様変わりだ。鄧の時代の肩肘張った頑迷さから、中国は確実に遠ざかりつつある。内外に気を使い始めているのだ。鉄壁の一強である習近平体制でさえそうだ。変化はグローバリズムゆえともいえるが、裏返してみれば別のありようが見えてくる。

 中国の巨大なプレゼンスだ。中国一国の動向が世界の隅々にまで及び、ヒト・モノ・カネすべてにわたって地球規模で揺さぶられる。今、世界はそういうフェーズに入ったと観るべきであろう。好むと好まざるとに関わらずだ。新型コロナはその表徴的事例だ。

 これは中国の大国化ではない。中国は有史以来元々大国である。大国に戻りつつあるのだ。大国への復帰という史的文脈で捉えねば、ことを見誤る。「辺境国家」日本は、それを重々に弁えねばならない。夜郎自大になって汚点を残した近世史に照らしても。 □


 


一寸の虫 3

2020年02月15日 | エッセー

 野村克也という存在の奇観は、常に長嶋・王のアンチテーゼであり続けてきたことだ。あちらはヒマワリ、こちらは月見草だと。選手、監督両時代を通じて、それは比類なき大輪の月見草であった。

 さらに、キーワードは2つ。「頭」と「人」である。

 「野球は頭のスポーツ」は球界史に残る箴言である。振り返れば、06年3月に拙稿『野球大発見』で愚案した「野球はスポーツの将棋だ」が甦る。訃報に接した時、たまたま読んでいた『プロ野球 堕落論』(奇しくも絶筆となった)でも原監督のパフォーマンス野球を扱き下ろしていた。宜なるかなである。同著の「おわりに」にはこう綴られている。

〈野球界の未来が心配だ。若い選手諸君、スマートフォンばかり見ていないで、移動時、あるいはホテルで本を読もう。自分の言葉を持とう。野球のプレーについて、少しずつでもいいから自分の言葉でメモを取ろう。野球について、考えよう。それは君の未来に野球界に残るにしても、一般社会に出るにしても、必ず役に立つはずだ。そして私たち世代からの遺産を、次世代に伝えてほしい。
2019年9月吉日
野村克也〉

 この世に留め置く言の葉も、また「頭の野球」であった。

 「人」とは小早川を筆頭に「野村再生工場」と呼ばしめた絶妙な蘇生の手腕である。加えて古田をはじめ後進の育成。「人間何を残すか。人を残すのが一番」──これもまた特筆すべき金言であろう。自分が輝くだけでは人材とは呼べない。人材を育てる人こそが人材である。オレがオレがの世の中への警鐘でもある。

 おそらく、あちらでもノムさんはぼやいているだろう。だがノムさんのそれは不遇を託っているのではない。俯瞰的視座から自己を韜晦し、返す刀で相手の急所に斬り込んでいるのだ。際立った知的パフォーマンスといえる。あちらでは誰がカモか。想像が刺激される。

 ともあれ御冥福を祈るのみ。 合掌 □


一寸の虫 2

2020年02月13日 | エッセー

■ 昨日は完全に辻元クンの勝ちだ。質疑は明らかにアンバイ君を挑発する流れだった。まんまと乗せられたのはアンバイ君。「意味のない発言だよ!」と退席する辻元クンに売り言葉に買い言葉を浴びせてしまった。大臣席で苦虫でも潰していれば、さすが大人の対応と見直されたものを。

 自民党の理事もレスが鈍い。院内秩序を乱す暴言だと懲罰動議をちらつかせるなり、逆手に取る方法はあったはずだ。

 なんにせよ、「あんな男をトップに押し上げる自己愛と攻撃性」(内田樹氏)をありありとみせてくれた一齣ではあった。

■ 病院のCMには規制がある。しかし体験談として「快適な入院生活でした」と、ホームページに載せるのはセーフだ。だが稿者は断言する。「それは形容矛盾だ」、あるいは「ウソだ」と。

 入院生活が快適なはずはない。不快であるからこそ全身のレジリエンスが駆動されるのだ。そのため入院生活は不快であるように構造化されている。快適では居着いてしまう。居着きこそ最強の敵だ。その意味ではムショ暮らしと同等といえなくはない。快適なムショでは良心のレジリエンスは消え、塀の中に居着いてしまうだろう。

 などと愚案を巡らして不快と挑戦の日々である。嗚呼。 □

 


一寸の虫 1

2020年02月09日 | エッセー

 つづく「五分の魂」を吐き出さないことには、どうにも胸が支える。よって小出しを試みたい。

■ ハギュウウダウダ君の身の丈を弁えない失言により、共通テストは延期された。ウダウダ言ううちにボロが出る。こういうのを「語るに落ちる」といい、受験生にとっては「怪我の功名」という。

■ 大統領選のとば口で民主党が躓いた。ここぞの時に結束できず、おまけに選挙集計まででたらめ。攻め時に大同団結できない! 本邦の旧民主党勢力と瓜二つ。まったく情けない。元々の種を蒔いた(小選挙区制導入を主導)コサワ君の罪はさらに深い。

■ 頂けない女のヤジは野党にも不規則発言、つまりヤジがあったとかで引き分けにしたそうだ。どっちもどっち、小学生いや保育園児レベルのケンカか! こんな連中を飼うために年間数億の国民の膏血が使われる。ヤジり倒され虚仮にされてるのは、実は国民ではないのか!

 

 以上、この上なく正確な間合いを保ちつつ滴る薬液の音に耳を澄ましつつ。

 


新型コロナの突然変異 in 永田町

2020年02月02日 | エッセー

 人人感染と突然変異は永田町で起こった。以下、今月1日の朝日新聞から要録。
 〈新型肺炎「緊急事態、改憲の実験台」 自民内に意見、野党・公明反発
 新型コロナウイルスによる肺炎拡大にからみ、自民党内から憲法を改正して「緊急事態条項」を新設すべきだとの声が上がっている。
 論争の発端は30日、自民党二階派例会での伊吹文明元衆院議長の発言だった。伊吹氏は「指定感染症」とする政令の閣議決定後、強制入院などには一定の周知期間が必要になると指摘。「周知期間を置かなくてもよくするには憲法を変えないと」とし、感染拡大は「憲法改正の大きな一つの実験台。緊急事態の一つの例」と述べた。
 党内からは、伊吹氏の主張に理解を示す意見が相次いだ。小泉進次郎環境相は「公益と個人の人権のバランスを国家としてどう取るのか。日本として問い直される局面で問題意識を持っている」と述べた。
 しかし、感染拡大で国民の不安に乗じるように改憲論議を進めようとする姿勢に、他党は一斉に反発する。立憲民主党の枝野幸男代表は31日、「拡大防止はあらゆることが現行法制でできる。憲法とは全く関係ない。悪乗りで、憲法改正に悪用しようとする姿勢は許されない」。公明党の幹部は「『火事場泥棒』で議論を進めようなんて絶対ダメだ。改憲がますます遠のく」と指摘する。〉
 上を下への灰神楽の中で老いぼれゾンビが舞い戻って、またぞろ火を付ける気か。
 自民党の「緊急事態条項」に関する改憲条文案はこうだ。
① 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、緊急事態の宣言を発することができる(98条)
② 緊急事態の宣言が発せられたときは、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる(99条)
 前項の政令又は処分は、100以内に国会の承認がない場合には、その効力を失う。
第〇条 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、あらかじめ法律で定めるところにより、内閣の要請に基づき、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、(〇月を超えない範囲内において、)その任期及び選挙期日の特例を定めることができる。
③ 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。
 この三項は猛毒を含む。ナチスの全権委任法と同じく独裁に道を開くからだ。
① ──「内閣総理大臣は……緊急事態の宣言を発することができる」の「内閣総理大臣は」が最大の問題だ。人治主義を脱し法治主義へ移行したところにこそ民主主義の真髄がある。とんでもない邪悪な人間やどうにもならない愚鈍な者を一国のトップから排斥するシステムである。民主主主義的手続きを経て専任されたとしても「乱心」する場合もあり得る。邪智を隠していることもある。国家存亡の判断を一個人に委ねることは最も危険である。それは嫌というほど歴史に学んできたはずではないか。
② ──「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定」は、国会の死を意味する。国会は立法権を内閣に奪われ、全権は内閣に集中される。
 第〇条は一見すると尤もだが、ナチスの全権委任法と同じ手法だ。4年の時限立法だったが、ナチスは実際には議会を招集しなかったため無期限の延長となった。「100以内に国会の承認」とはいっても議会が緊急事態を承認すると選挙は行われない。議員はずっと同じメンバーである。「選挙の適正な実施が困難であると認めるときは」がそもそも緊急事態なのだから形容矛盾だ。何度も同じ議決を繰り返せば、「特例」を無期限に延長できる。国会は有名無実と化す。法の制定と執行者が同一となる。これが独裁制だ。
③ ──これが国権によって平等権、自由権、参政権などの基本的人権が緊縛された「独裁」の中身だ。「緊急事態条項」の成立を梃子に戦前志向の憲法改正、別けても9条。そのブレークスルーとしての自衛隊明記へと駒を進めたい。これが本音だ。
 新型コロナは人身を蝕んでもやがて終熄する。コロナを逆手に取った「緊急事態条項」は国の骨格を蝕み永劫に終熄することはない。
 慧眼の士内田 樹氏の警世の一文を徴したい。
 〈僕は民主制から独裁制への移行をもたらすのは、最終的には知性の疲労だと思います。知性の肺活量不足と言ってもいい。「複雑な話」を「単純な話」に還元しようとする誘惑は常に存在します。「反知性主義」というのはこの誘惑のことです。反知性主義は感染力が強い。悪病がうつるように、ため息がうつるように、「もう難しいことを考えるのに疲れたよ」という愁訴はあっという間に広がってしまう。この徒労感からどうやって民主制を守るのか、それが喫緊の課題だと僕は考えています。言い換えるなら、「難しいことを考えることを厭わない」という意欲をどうやって保持するか。もっと踏み込んでいえば、「難しいことを考えることをむしろ好む」ような傾向をどうやって創り出すか。それが民主制を守るための思想的な急務ではないか。〉(「アジア辺境論」から抄録)
 「新型コロナの突然変異 in 永田町」の培養液は「知性の疲労」にある。鋭い剔抉にしっかと身構えた。 □