「私たちはあなたたちを見ている」
国連での演説はこう始まった。これは未来完了形ではないか。単なる未来形ではない。これから先の振る舞いを未来の時点から監視しているというのだ。いきなりガツン。これは衝撃だった。
舌鋒鋭く次々にグレタは畳み掛ける。
「間違ってる。私はここにいるべきじゃない。海の向こうの学校に戻るべきだ」
「あなたたちは私の夢を、子ども時代を、空っぽな言葉で奪ってきた」
「あなたたちはお金の話や、終わりなき経済成長のおとぎ話ばかり」
「もう逃がさない」
「あなたたちは私たちを見捨てている。もしそうなら、私はこう言う。絶対に許さないと」
各国代表団の拍手を睨み返し声は怒りに震え、義憤は
「How dare you」(よくもそんなことができるものだ!)
のひと言に凝った。
16歳、将来世代からの告発であり受け取り拒否である。ここが新しい。当事者世代の悔恨や警告ではない。それは山ほどある。グレタは未だ存在しないこれから生まれ出ずる億万の人びとを代弁しているのだ。だから重い。トランプの返しは、「明るく、素晴らしい未来を楽しみにしている、とても幸せそうな女の子みたいだ。見られてよかった!」であった。茶化したつもりだろうが、負け惜しみも極まれりだ。町中の賑やかしを演じる羽目になっているのが判らないらしい。おまけに自らはノーベル平和賞をせがみ、アンバイ君にポチよろしく橋渡しを頼む。もう病膏肓、呆れ返って言葉が継げぬ。まあ、イグノーベル賞なら分かりもするが。
「海の向こうの学校に戻るべきだ」は穿てばおもしろい。悪友に嗾されてグレたのではない。環境問題でグレた(失礼!)。断言するが、日本にそんなグレ方をして学校に行かない16歳はいない。あり得ない。原因は地球規模、ふけた先も大西洋の向こう側。なんともすごい。
いきなり属人的な要因を探るのではなく、スウェーデンの教育に目を向けてみたい。
幼児教育は保育士だけではなく教育担当の先生が協力して行われる。就学年齢は子どもの能力により親と学校の判断で決める。学区はなく、共通の指導要領はあってもそれぞれの学校で独自のカリキュラムを運用できる。カリキュラムの適否によって学校を選択できる。飛び級もある。もちろん義務教育は無料だ。
大雑把な括り方だが、なんとなくグレタの1人や2人は出てきも不思議ではなさそうだ。福祉国家は未来世代にも福祉を供する。日本全土に北海道を足した国土面積、人口は日本の12分の1、人口950万、世界第7位の高所得国。確かに国情は違う。しかしそれを超えてなお教育のあり方に大きな教訓が得られるのではなかろうか。
17歳でノーベル平和賞を受けたマララ・ユスフザイも鮮烈だったが、彼女は被害者、当事者だった。グレタ・トゥンベリは刻下の当事者ではない。日本の裁判でいえは当事者適格に欠ける。言わば未来の当事者からの断罪。ここが新しい。
自問したい。「How dare you」の“you”はだれだ! □
先日、近郊にある観光物産館を訪った。飛び込んできたのがある手書きのポップ広告。 ── ついに7.000.000枚突破! ○○せんべい ──
しばし唸った。7百万枚とはすげぇー量だ。しかしサンプルを見るとかなり薄い。1袋に50枚は入るだろう。すると14万袋。しかも出荷数だから大した数ではない。この煙(ケム)に巻く、巻き方がなんとも巧い。
近所に名の知れた名湯がある。国道から3キロほど枝道を入らねばならない。その国道からのとば口を過ぎて5キロくらいの国道沿いにこんな看板がある。 ── おーっと行き過ぎ! 5キロうしろ ○○温泉 ──
これにも唸る。「○キロ先」はあっても「うしろ」にはお目にかかったことがない。この逆手に取る、取り方がなんとも巧い。
双方、「7.000.000」や「行き過ぎ」という強い言葉に気圧されて文脈を忘れさせる。それが骨法であり常套手段である。
近年急速にポピュラーになった言葉に「大丈夫」がある。
「ランチ、わたしと大丈夫ですか」
「ええ、大丈夫です」あるいは「もう、大丈夫です」
これだ。応答の「大丈夫」は逆の意味である。OKとNG。これが紛らわしい。字引には以下のようにある。
大丈夫 [形動][文][ナリ]
1 あぶなげがなく安心できるさま。強くてしっかりしているさま。 「地震にも大丈夫なようにできている」「食べても大丈夫ですか」「病人はもう大丈夫だ」
2 まちがいがなくて確かなさま。 「時間は大丈夫ですか」「大丈夫だ、今度はうまくいくよ」
[補説]近年、形容動詞の「大丈夫」を、
a. 必要または不要 「結構です」の代わり 「重そうですね、持ちましょうか」「いえ、大丈夫です(不要の意)」
b. 可能または承諾 「試着したいのですが大丈夫ですか」「はい、大丈夫です(可能、または承諾の意)」
3 [副]まちがいなく。確かに。「大丈夫約束は忘れないよ」
a. は“Thank you / No, thank you ”であり、b. は“OK/ NG ”であろう。困るのは、a. とb.の混合型である。「今晩、一杯どう?」に「大丈夫です」で返された場合だ。前記のランチと同様に誘いをやんわりと断る場面で頻出する。冒頭の例と同じく、文脈で判断する以外ない。志村けんの「だいじょうだぁ」は嗜虐と自虐が入り交じった、また格別の味わいがある。
ほかにもある。夜道は「ヤバい」と「この味、ヤバい」。「湯加減どう?」は「いい加減だよ」。「あいつはいい加減な野郎だ」「いい加減にしてください」。同じ「いい加減」が真反対の意味になる。これを『あべこべ言葉』と、思想家の内田 樹氏は呼ぶ。あべこべ言葉は古今東西にあり日常的に使われているとし、意味の逆転についてこう述べる。
〈僕の仮説は、「あべこべ言葉」はコミュニケーション能力を高めるための教育的な仕掛けではないかというものです。その語が何を意味するのかは単語だけをじっと見ていても一意的には確定できない。文脈を読まないと決まらない。だから、辞書的定義ではなく、コンテクストを読め。そう指示することが「あべこべ言葉」の機能ではないのでしょうか。〉(「内田 樹による内田 樹」から抄録)
つまり、コミュ力アップの「教育的仕掛け」があべこべ言葉だという。目的は「コンテクストを読め」だ。逆の位相にあるのが法文である。こちらは常に「一意的」に「確定」できなくてはならない。日常、世間は違う。「一意的」では息が詰まり、角逐が絶えない。それゆえ端っから多義的にコミュニケーションは形作られている。換言すれば、意思の疎通(コミュニケーション)は多義的な「文脈」を抜いては成り立たないのだ。“文脈把握力”こそコミュニケーションの肝である。したがって、「大丈夫」には「教育的な仕掛け」があるといえる。その“教育”をネグレクトしたりサボタージュした政治家が失言を繰り返す。
話はこれで終わらない。内田氏の洞見は一重深い。
理解し合いたいという欲望がコミュニケーションを駆動するのだが、実はコミュニケーションを延伸するために理解し合うことを先延ばしにする欲望も同時に抱えると氏は見抜く。目的と手段の逆転だ。
〈理解を望みながら、理解に達することができないという宙づり状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。相手に「君が言いたいことはわかった」と、言われると、人間は不愉快になるんです。メッセージの正確な授受ということがコミュニケーションの真の目的だとしたら、メッセージが正確に受け渡しされたときに不愉快になるというのはおかしいですね。ということは、もしかするとコミュニケーションの目的はメッセージの正確な授受じゃないのではないか……という疑問が湧いてきます。コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか?〉(「先生はえらい」から抄録)
氏は恋人同士の対話を例に挙げる。「あなたって人が、よーくわかったわ」は終了宣言。判らないから、下手すれば一生かけて「話していたい」になる(この目論見は失敗するに決まっているのだが)。
「メッセージをやりとりすることそれ自体」を目的に理解と無理解の矛盾を敢えて背負(ショ)い込む。それほどに人間は怪奇な生き物なのか。おそらく生き延びていくために集団を形成し維持する必要からこの怪異は生まれたにちがいない。世に強まる同調圧力は多分この原理に反する。「宙づり状態」の解放は落下に直結するからだ。
中国周時代、当時の男の平均身長から一丈は180センチとされた。よって「丈夫」とは男を意味し、とりわけ立派な者を「大丈夫」と呼んだ。これなら寄っかかっても安心。そこから日本では「強くてしっかりしているさま。まちがいがなくて確かなさま」の謂となった。それが今では「要りません」「お断りします」でもある。このアンビヴァレンスに人類の知恵が凝っている。
チコちゃんの質問に続く森田美由紀アナ流に言うならば、
「今こそ全ての日本国民に問います! あなたの大丈夫は大丈夫?」 □
秦の始皇帝没後、奸臣趙高が自らの権勢を試そうとして二世皇帝に鹿を献呈し「これは馬だ」と強弁する。異を唱えると殺される。皆が肯いた。史記に記された「鹿を指して馬と為す」の来由である(「馬鹿」の語源は別)。黒を白、鷺を烏、馬を牛、雪を墨、すべて同類、「言いくるめ」の詐術である。権力と追従との愚かさを表して余りある。
「鹿を馬」は古今東西を問わないらしい。今月、アメリカでも黒が白に、雪が墨になった。以下、朝日新聞から抄録。
〈トランプ氏、気象当局に圧力? ハリケーン進路予想「自分が正しい」
ハリケーンの進路予想をめぐって、トランプ米大統領が気象当局に圧力をかけた疑惑が持ち上がっている。きっかけはトランプ氏の不正確なツイートだったが、米海洋大気局(NOAA)がこの内容を支持する異例の声明を発表し、科学がゆがめられる恐れのある事態に発展。米メディアによると、裏には複数の政権幹部の働きかけがあったといい、米議会なども調査に乗り出している。
9月上旬に米東部に接近したハリケーン・ドリアンに関して、トランプ氏がフロリダ州などに加え、西側のアラバマ州も「直撃して予想以上の被害が出そうだ」とツイートで警告した。国立気象局の地元事務所は直後にツイッターで「アラバマはドリアンの影響は受けない」と否定した。アラバマは実際に被害を受けず、米メディアはトランプ氏のツイートを「不正確だ」と批判したが、本人は固執した。「トランプ氏が、自分の発言に合わせて予想図を改ざんしたのではないか」という疑念が持ち上がる中、国立気象局を所管するNOAAは、トランプ氏を支持する声明を発表。アラバマ州が暴風被害を受ける可能性があったとし、地元事務所のツイートを否定した。異例の声明だった。
今度はこの声明をめぐり、「ホワイトハウスからの圧力があった」と米メディアが次々に報じている。トランプ氏はツイートが否定されたことに不満を持ち、部下に対してNOAAが「立場を明らかにするよう」求めた。ロス商務長官に「事態の収束」を指示。NOAA長官に解任をちらつかせて対応を迫ったという。自身の関与を問われたトランプ氏は「そんなことはしていない。すべてフェイクニュース、メディアのでっち上げだ」と否定した。〉(9月17日付)
4月1日はとっくに過ぎた。だからジョークではない。記事そのものがフェイクではないかと疑ってしまう。ギリシャ神話にベッドの長さに合わせて旅人の足を切ったり伸ばしたりする強盗が登場する。「プロクルステスの寝台」だ。気象局を捻伏せる無謀と変わりはない。「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」(佐藤 優氏)を反知性主義と呼ぶのだから、まさにその権化である。「ファクトフルネス」ならぬ、“フェィクフルネス”だ。
先月の拙稿「『ファクトフルネス』から診たトランプ」を再録する。
〈4. 恐怖本能──頭の中と、外の世界のあいだには、「関心フィルター」という、いわば防御壁のようなものがある。この関心フィルターは、わたしたちを世界の雑音から守ってくれる。──「守ってくれる」とはいっても過保護はいけない。見たいもの、聞きたいものしか見聞きしない本能がファクトを歪める。昨年7月、トランプは批判的な質問をする記者を排除しようとした。トップリーダーは反対勢力を含めて一国を代表する。オブジェクションに耳を傾けないのは恐怖本能からか。どこかのポチも同じだが。器が小さいとも、小心ともいえる。〉
「小心」から想起されるのはフロイトと並び称される心理学者アルフレッド・アドラーの次の言葉だ。
〈ここはしっかりと理解してください。他者の期待を満たすように生きること、そして自分の人生を他人任せにすること。これは、自分に嘘をつき、周囲の人々に対しても嘘をつき続ける生き方なのです。他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。〉(『嫌われる勇気』から抄録)
これは深い! 小器の正体は「他者の期待を満たす」他者への依存にある。続けて褒められるために、つまり自己承認欲求のために限りなく他者に依拠した生き方を選ぶ。かといって常にうまくいくとは限らない。依存はやがて「満た」せない溝を自他への「嘘」で埋めるようになる。嘘はそのようにして生まれる。「他者の課題に介入すること」を厭わないのは自分の都合に合わせるためだ。プロクルステスと同等である。承認欲求を満たすためにエビデンスをも改竄する。気象局への介入はそのものズバリではないか。反知性主義の核心にあるのは自己承認欲求なのだ。アメリカファーストからトランプファーストへ。ジコチュウ(自己中心)とは承認欲求と見つけたり、だ。
とここまでくれば、本邦のポチ君との類似にあらためて驚かされる。モリカケ問題である。宰相の発言に合わせて文書を改竄するという瓜二つの構図にビックリだ(この構図はモリカケ以外にも幾つもあるが、煩わしいゆえ割愛する)。
戦争を糾弾し続けて止まない作家で評論家の保阪正康氏は、大日本帝国の軍人には人間形成が遍頗な者が少なからずいたと指摘する(昨年7月刊『昭和の怪物 七つの謎』)。彼らの共通点として、「精神論が好き」「妥協は敗北」「事実誤認は当たり前」の3点を挙げる。その典型が東條英機。(その点では安倍晋三首相と似ているともいえる)と括弧書きし、東條に学ぶ教訓として
〈私は日本には決して選んではならない首相像があると実感した。それはつまるところは「自省がない」という点に尽きる。昭和十年代の日本は、「自省なき国家」としてひたすら驀進していった。それは多くの史実をもって語りうる。その行き着く先は国家存亡の危機である。〉(上掲書から)
と語る。括弧書きは括弧を外して、警鐘と受け止めるべきだ。「『自省がない』という点」こそジコチュウにほかならない。日米ともに「選んではならない」トップ像を「自省」すべき時ではないか。 □
さすがはマツコデラックスだ。「気持ち悪い人たち」「ふざけて(票を)入れた人も相当いると思う」と、テレビでN国を扱き下ろした。鋭い嗅覚に敬服する。対する立花孝志党首は支持した有権者に対する侮辱行為だとして損害賠償を求めると宣言した。同党に投票した有権者を対象に原告を募集し、先着1万人で原告団をつくり1人当たり1万円の賠償額を要求するそうだ。
「同党に投票した」ことをどう証明するのか。応募者が無記名投票された比例区得票数987.885票、つまり987.885人の1人であることを証する手立てはあるのか。1人300円の負担で1万円手に入ると呼びかけるなど、冗談のような宝くじ擬きである。ブラフをかまして、お得意の話題作りを狙ったとしか見えない。逆告訴を怖れてか、ここにきて動きは急に尻つぼみになっているが。
マツコの嗅覚通り、この政党はヤバい。どうヤバいか。まず政党要件、これはクリアーしている(国会議員5人以上か、直近の国政選挙で2%以上の得票のどちらか)。立花氏だけの1人政党で出発し、次は2人以上での会派の結成へ。会派は他の党派との交渉ができる。政党助成金も跳ね上がる。狙いをつけたのはあの衆院議員丸山穂高クンだった。これがヤバい。北方領土トンデモ発言で議員辞職勧告決議を突き付けられている丸山クンがヤバいのは当然として、N国の無節操がヤバい。先月末、今度は竹島戦争奪還説を唱えた丸山クンを立花党首は表現の自由だの問題提起だのと擁護した。トンデモ議員とトンデモ党首の二人三脚か。
ワンイシューを叶えるためにはなり振り構わず野合する。“one of them” の “one” でも “all is one” の “one” でもない。“one is all” の深意もなく、単なる “only one” でしかない。“one” とはNHK受信料マター。スクランブル放送のひとつ限(キ)り。それ以外の政策については議題ごとに党員による直接民主主義で賛否を決する方針だという。つまりは、他の政策はない。だから怖いのだ。扱うのは黒糖(ダジャレ、失礼)ひとつの卸屋。なんとか売り切りたい。だが販路がない。だからよその卸屋で他の商品と抱き合わせで売ってもらおう。そんな図である。
当面はNHK『日曜討論』に参加するのが目標だ。そのためには得票率2%と国会議員5人の壁がある。なんだかんだで結局1人政党の孤独をかこっていた渡辺嘉美氏を会派名を譲って取り込み、3名で院内会派「みんなの党」を立ち上げた。あと2人、足がかりはできた。ますますヤバい。
最大の懸念は、もしかすると巨大卸問屋で他の商品との抱き合わせ販売を企図するかもしれない危うさである。無節操の極みにはこれがある。だから、ヤバい。この場合の無節操はアンバイ政権側をも含む。参院での3分の2まであと4議席。マスコミの分類では立花非改憲、丸山・渡辺改憲サイドとされている。改憲勢力にとっては垂涎の的である。立花党首が改憲とスクランブル放送をバーターしないとも限らない。N国の真の危うさはこれだ。現に立花党首は「とりあえず憲法改正に反対するが、賛成と引き換えに、安倍氏にスクランブル放送をしてもらう」と公言して憚らない。閣議決定でスクランブルを否定している以上そう容易くはあるまいが、「新しい判断」はアンバイ君の十八番だ。
地方議会選挙から中央へとの選挙戦略、SNSなどのネットを駆使した選挙戦術に目を向ける向きもあるが、ことはそんなに甘くはない。しかし、どうして国会に議席を有するまでの支持が集まったか。11年「ウォール街オキュパイ運動」の理論的支柱となったアメリカの高名な哲学者マイケル・ハート氏が、現代の民主主義の危機は、
「選挙で政治選択ができるという信念が、有権者たちから消失している。自分たちの利益をどの政党も代表しているとは思えない」(先月刊、集英社『未来への大分岐』から)
ことにあると語っている。N国への支持はこの裏返しではないか。「自分たちの利益を」N国が「代表」していると映る。一つではあっても「黒糖」だけなら確実に手に入れられそうだ。喉から手が出るほどほしくはないが、確実に棚に並んでいる。たとえ国家の存亡をかけた選択ではなくとも、「選挙で政治選択ができるという信念」を掴みたい。そういう手応え、実感への渇仰といえば大袈裟だが、シングルイシューにはそんな仕掛けが潜んでいる。同時にそれは民主主義のピットホールでもある。だから、危うい。
話はこれで終わらない。アンバイ政権も実態的にはワンイシュー政権といっておかしくはない。次から次に繰り出される野党のお株を奪ったような、レフト寄りの政策の数々。働き方改革や男女共同参画へのコミット、ハンセン病訴訟での控訴取り下げに見る異例の判断、春闘や最低賃金での産業界へのプレッシャーなどなど。これこそなり振り構わぬ改憲のトラウマ、もしくはパラノイアの為せる技といわずしてなんといおう。棚には赤字覚悟で超特価、出血大サービスの売れ筋商品を並べて他店の顧客をも呼び込む。コンシューマーはわれ先に買い物カゴに陳列品を放り込んでいく。そうやってどんどん導線をたどって行けば、ほしくもない在庫一掃処分の擬い物が積まれたコーナーへ。ついつい手が出てとんでもない物(ブツ)を掴まされる羽目に。と、まあこんな具合だ。改憲とそれ以外の施策を比すれば、圧倒的に前者に比重がある。後者を無化、あるいは手段化するほどのプライオリティである。“one of them” の “one”と見せかけて実は“only one”だった。参院選の結果は改憲へのゴーサインだと揚言する牽強付会はもはや病的だ。NHKパラノイアのN国の危うさとなんら変わりはない。いな、実害は改憲シングルイシューが比較にならないほど大きい。その手は桑名の焼き蛤。N国は電波のスクランブル、それで人命が失われるわけではない。現政権のスクランブルは領空を越えてまで命を的にする。自衛隊明記とは殉死をオーソライズすることだ。誑かされてなるまい。ご用心召され。 □
三重県南部の熊野市と奈良県十津川村とに挟まれた和歌山県東牟婁郡(ヒガシムログン)北山村は全国唯一の“飛び村”である。昨年7月の拙稿『境目の話』で触れた。それさえも正確に切り抜かれ、白米の上に乗せられている。切り取られたモノは、なんと海苔である。弁当に海苔はごく定番だが、都道府県の形にキッチリと縮尺されて出されたらこれは存外な驚きだろう。というか、始めは何だか判らないのではないか。現に愛嬢はインタビューに「嫌です」と呟き、「お弁当開けて和歌山入ってたら、びっくりするじゃないですか」と続けた。もっともである。
今月10日に放送されたNHK『サラメシ』に登場した「都道府県弁当」である。作者(なんか変だけどこうとしか呼べない)は札幌の建設会社で営業次長の任にある石橋明浩氏、50歳。あいうえお順に各県の地図を海苔にくり抜く。弁当箱の大きさに合わせて全県がスケールダウンされ、たとえ米粒以下のサイズであろうとも離島まで乗っかっている。東京都は沖永良部島まで入っているので本土部分は数ミリの大きさ。東京都とは判じがたい。これは、もう病気に近い(失礼)。銀シャリだけではない。おかずには各県の特産、名産品だけではなく、ソウルフードが詰められている。東京の江戸前寿司、山梨のほうとう、愛媛のじゃこ天、熊本の辛子レンコンなどなど。食材は取り寄せたり、それができなければ手作り。郷土料理を譲らない。足かけ2年、先ごろついに和歌山県でフィニッシュを迎えた。コンプリートの感想は「自分を褒めてあげたい」。どこかで聞いたような。
ともあれ、男しかこんなことはしない(多分)。種の保存と生存のため、染色体をわざわざいじくってつくり出されたのが男。ノーベル賞受賞者や運動の世界記録はほとんどが男。しかし、養老孟司先生は「無理をしている。だから、男のほうが『出来損ない』が多い」(『超バカの壁』から)とおっしゃる。女が中庸で持続性があるのに対し、男は両極に別れるという。病気がちで寿命も女より短く、生物学的には断然女が強いのだと。加えるに、女は現実に適応するため、「無駄なことを好まない。女性で虫を集めている人はほとんどいません。虫好きの世界は男専科です。虫に限らず、コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。マッチの箱とか、ラベルとか、切手とか、余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。」(同書より)と断ずる。
喰ってお仕舞いの海苔による都道府県地図は「無駄なこと」であり、「コレクター」「虫好きの世界」と同類である。だが「生存のため」には、生き永らえるためには遊び心は不可欠なのだ。
ロビン・ダンバー。イギリスの人類学者で、人類社会の基礎単位を150人だとした「ダンバー数」の提唱者である。彼は、サピエンスよりも大きな脳を持ち体躯も立派で長く繁栄してきたネアンデルタール人がサピエンスにより絶滅に追い遣られたのは多様性、創造性、繊細さに欠ける道具と交易ネットワークの狭小さゆえであった、とする。イシューはその「道具」だ。
〈彼らの道具は総じて機能一辺倒で、はるか後世の解剖学的現生人類(サピエンス・引用者註)の芸術作品に見られる遊び心がない。志向意識水準が一次元低いために、彼らは岩石や大理石から形を削り出したり、新たな技術を生み出したりする能力に欠けていたのだ。〉(ダンバー著『人類進化の謎を解き明かす』より抄録)
「志向意識水準が一次元低い」とは儲けにならないことには関心がないということだ。ネアンデルタール人は「遊び心がない」ため」「新たな技術を生み出」すイノベーションで後れを取った。これが両者の雌雄を決し、ついには生死を分かった。
たかが弁当の話なのになにを大層な、と難ずる向きもあろう。しかし、国立大から文系を廃止しようとする文科省の動きを想起されたい。かの官庁こそ「志向意識水準が一次元低い」「後世の解剖学的現生人類の芸術作品に見られる遊び心」を持たなかったネアンデルタール人のようではないか。そんなところにイノベーションなぞ起こるはずはない。一国の教育中枢がそんなことでどうする。同省における数々の収賄事件は「志向意識水準が」「一次元」どころか、地の底ほど「低い」証拠といって過言ではあるまい。
だからこそ呼ばわりたい。遊び心は人類を救う。ビバ「都道府県弁当」! □
やっとというべきか、ついにというべきか、恥ずかしながら本年古稀を迎える。正味の団塊の世代(昭和22~24年生まれ)としては殿である。800万の塊が揃いも揃って(当たり前だが)70の坂を越える。有り体には馬齢を重ねる(失礼、稿者だけ)。
そこで、「古稀」である。
9世紀唐代の詩人杜甫は47歳の時、やっと得た官位を追われる。旅立ちの折、鬱々たる心境を託した詩の中に「人生七十古来稀なり」とあり、これが来由となった。略字化して「古希」と書く場合もある。人間、70歳まで生きられるなぞかつて聞いたこともない。ならば短命の蝶や蜻蛉が刹那の生を楽しむように、一時(イットキ)のこの人生を大いに愉しみたいものだ。そんなコンテクストに挟まれるフレーズである。
さて、9世紀ごろの世界の平均寿命はどれくらいだったのだろうか。実は24歳と推測されている。驚くべき数字だが、新生児の平均余命が平均寿命であるからあながち外れてはいまい(幼児死亡率は今とは桁外れに高かった)。実際の死亡年齢はもっと高かったであろうが、それにしても70歳は常識を超えていたにちがいない。因みに杜甫は59歳で世を去った。
12年前の07年7月「長生きは『事故』か?」と題する拙稿で、保険が事故に備えるものであるならばこうなると妄説を記した。
〈老後という「事故」 ―― 長生きが『事故』になる「転倒」はなぜ起こるのか。制度上、そうなる。「制度」とはなにか。すなわち、人為である。人為の対極には「自然」がある。この制度は相手が悪い。寿命は人間にとって究極の自然である。どんな名医だって、自分の命日は判らない。寿命はいかんともしがたい。〉
戦費調達を目的として国民皆年金制度が始まったのは戦時中の1942年であった。もちろん支払いは数十年先。戦後の1947年でも平均寿命は男50歳、女53歳。時の政権は高を括っていたに相違ない。ところがどっこい、「究極の自然」である寿命はあれよあれよという間に伸びに伸びて昨年は男81歳、女87歳、男女の平均寿命は世界一の84歳に達し人類未踏の領域に歩み込んだ。支給開始が60歳では保たない。65歳に繰り下げても追っつかない。ついに75歳延期論まで俎上に載せられている。つまりは、そこら中で「事故」が多発して保険の支給が間に合わない。命永らえることが「事故」扱いされる転倒が生じている。鰾膠も無い言いざまだが、年金制度上は無慚にもそうなる。おまけに2025年問題。団塊の世代がどっと後期高齢者に傾れ込み、膨れ上がる介護・医療費などの社会保障費が立ち行かなくなりはしないかと危惧される。もはや「事故」どころか「事変」に近い。
有吉佐和子の『恍惚の人』が1972年(昭和47年)の出版だった。同年194万部を売り上げた超ベストセラーだ。当年の平均寿命は男71歳、女76歳であった。痴呆、今でいう認知症を先駆的に扱った作品だが、年を経るごとに事態はより深刻の度を増していった。今や国民的、世界的なアポリアである。前述の如く木で鼻を括り自虐するならば、ボケる前に世を去っていたのが今はボケても居続けている、とでもなるか。だから古稀は、古来稀なる難関のとば口といえる。
話が暗くなった。そこで、日本総合研究所主席研究員であり日本政策投資銀行特別顧問でもある地域問題・町おこしのスペシャリスト藻谷浩介氏にお出ましを願う。
氏は65歳以上の高齢化率34㌫(昨年調査)で全国第3位の島根県には「日本の未来の希望がある」と訴える。
高齢県のイメージにも拘わらず、合計特殊出生率が1.75で沖縄に次いで全国2位。本土では子どもが最も生まれやすいところだ。氏はこう見立てる──島根県は最初に「過疎」なる呼び名が付いた県であり、それがために慢性的に人手不足となり結婚後も働く女性が多かった。そのため職場に保育所を用意する企業も多く、行政も子育て支援に積極的に取り組んできた。待機児童は今もってゼロである。ピンチをチャンスに、過疎が男女共同参画を招き寄せた。また強い国際競争力を有する製造業の拠点があり、和牛、国産豚、牛乳、野菜でも一大産地である──と。それゆえ、「人口減少の処方箋は、島根県にあり!」と宣揚する。
加えて、島根県は47都道府県中75歳以上の後期高齢者の増加が止まった唯一の県である。高度成長期に若者が都会に吸い取られ、「年寄りの成り手」が底を突いたと、氏は見る。増加が止まった医療福祉の負担を子育て支援に回し始めた。片や、首都圏の75歳以上人口は年五㌫ペースで急増中。医療や介護の人材不足と高騰する土地、住民のNIMBY意識の高まりで子育て支援は汲々としている。かつて割を食った勘定がここにきて帳尻が合ってきた。いな、戻ってきた。過疎の手柄といえなくもない。
唐突だが、三度(ミタビ)『ファクトフルネス』から。 <ネガティブ本能──「とんでもない勘違い」が生まれる原因とは、「世界はどんどん悪くなっている」というものだ。> さまざまなランキングで常に最下位付近にある同県だが、「ありのままに」(上掲書より)見ればポジティブでアグレッシブ、さらにオフェンシブでさえある。ネガティブ本能に惑わされてはなるまい。ポテンシャルは意外にも高い。
来月同輩が集うと報せがあった。ふと、中島みゆきの詩が浮かんだ。
〽出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ
『永遠の嘘をついてくれ』(作詞・作曲 中島みゆき/歌 吉田拓郎)はこの言葉で終わる。古稀ならばこれぐらいの達観はあってもおかしくはないのかも知れない。そう身に染みる秋だ。 □
(とある高級料亭の宴会場で、板前今野クンの結婚披露宴が盛大に開かれている)
(女将が祝辞を述べる)
「この度はご結婚、おめでとうございます」
(刹那、溜めをつくって)
「今野」
(カーンと効果音が一つ)
「ひとつ訊いてええか。そこに愛はあるんか」
(語気強く)
「信じられる愛はあるんか」
(今野クン、戸惑いながら呟く)
「なぜ、今ここで訊く」
(画面一杯に『愛がいちばん。』、続いて『アイフル』の文字が浮かび、前川清が小節グルングルンでコピーを熱唱)
後、いろいろなバージョンが出たが、今はまたこの初回版に戻ったようだ。ともあれこれがいちばん出来がいい。出色のCMである。
まずなにより女将の詰問。この違和感、時代錯誤感が泣ける。ひょっとしたら新妻は女将の愛嬢かも知れない。それにしてもこの期に及んで、「なぜ、今ここで訊く」だ。公衆の面前であらためて「愛」の存否を検めるとは、逆玉への先制パンチか。旧民法よろしく戸主の同意を演じて見せたか。──戦後は民法ではなく最高法規たる憲法第24条に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」とされ、家族の縛りを脱した。それがためか、昨年の調査では年間離婚率35%、実に3組に1組、2分に1組だという。そこらあたりに少子化の根因を探る識者もいる。──はたまた穿てば、「信じられる愛」とは『信用できるアイ(フル)』はあなたの味方ですよか、あるいは『信用できてこそのアイ(フル)』ですからむやみにお貸しはしませんよか、もしくは借りたらちゃんと返してねとの含意であろうか。金融業者のCMとしては意表を突く優れ物である。と同時に、ふと気がつけば女将役の大地真央は確か2度目。「キミの場合はどうだったんだ?!」とツッコミを入れたくなる。ひょっとしてなんとかサンバがうまく踊れなかったのかと勘ぐってもみたくなる。
さてその「愛」であるが、浅学非才を顧みず食らいついてみる。
碩学白川 静先生の『字統』によれば、「後ろに心を残しながら、立ち去ろうとする人の姿を写したものであろう」とある。さらに「後ろを顧みて、杖を樹(タ)てて凝然として立ち、去就に迷うような形である。いずれも人の心意を字形に写して、巧妙をきわめている」と続く。執着との葛藤とでもいう「心意」を祖型とするか。多くの字引には人と人が交わろうとする根源的で普遍的な感情との字義を載せている。そこには心奥の葛藤はなくむしろ直截な心意が示されている。字源とは明らかに意味の乖離がある。どうもこのリープフロッグに「愛」を開くカギはあるらしい。
大括りすると、「エロス」の発祥は紀元前8世紀の古代ギリシャ神話である。肉体的愛から真理へ至ろうとする憧憬を意味した。「アガペー」はキリスト教における神の「無償の愛」、「不朽の愛」をいう。さらに隣人愛をも表した。ルネサンス期にはベクトルが人に向き人間を賛美する原動力とされた。ここから「愛」の世俗化が始まり、今日その傾向はなお強まっている。「アガペー」は「ラブ」と置き換えられ、「恋愛・自己愛・家族愛・親子愛・国家愛・愛国」果ては「「愛社・愛車」までさまざまに世俗化、大衆化してきた。しかし、恋愛結婚は西洋でも意外に新しく200年程度の歴史だという。付け加えると、1967年のBEATLES『All You Need Is Love』はむしろ隣人愛に近く、原点回帰ともいえる。他の文明圏における該当概念は割愛する。なにはともあれ一神教の元で今日の「愛」は生まれた。
勝手な当て推量だが、近世まで本邦では「愛」は音読みの『あい』ではなく、訓読みの『め(でる)・いと(おしむ)・いと(しい)・かな(しい)・お(しむ)・いつく(しむ)』が主流だったのではなかろうか。下って近代、海外文化が雲霞の如く押し寄せる中で、明治初期に「LOVE」は「愛」と訳された。ただし苦渋はあった。──例えば16年9月の拙稿『月がとっても青いなあ』で触れた漱石の逸話。〈漱石が英語教師だった頃。“I loveYou.”を「『我、汝を愛す』などと訳してはならぬ。日本人は、そんな、いけ図々しいことは口にしない。これは、『月がとっても青いなあ』と訳すものだ」と、教えたそうだ。〉漱石は当時の文壇などで翻訳された「愛」に「いけ図々しい」と強い違和感を抱いていた。訓読みの『あい』を無理やり音読みの『あい』にメタモルフォーゼさせて異文化の重荷をしょわせるとに渡英経験のある彼は抵抗したにちがいない。それゆえ、『月がとっても青いなあ』というすげぇー意訳を繰り出したのではないか。(このエピソードは後世の偽作ともされるが、事の真相は突いている)──
唐突だが、視点を古代ギリシャに戻す。「エロス」から3世紀後、自然哲学者であり医者、詩人、政治家でもあったエンペドクレス(紀元前490~430年)が現れ、「愛」に別流を生む。物質は火・水・土・空気の「四大元素」からなり、それらを「結合」することが「ピリア」すなわち「愛」であり、分離することは「ネイコス」つまり「憎」であるとした。宇宙はこの結合と分離をくり返し、「愛」と「憎」が入れ替わりつつ継起する動的反復の場であると捉えた。具象的にには引力や物質の化学的結合や分離がそれに当たる。要するに自然現象を「愛」と「憎」で括ったわけだ。後、この概念が擬人化され人間関係に援用されるようになった。ことは逆で、「愛」がフィジカルな事象に準えられるのではなく、ヒューマンな心象を「愛」が擬したことになる。この逆擬人化が人間関係に多用され一般化された。前述したアガペーの世俗化には「ピリア」の逆擬人化が伏流していたのではなかろうか。これが稿者の見立てである。似ぬ京物語、一笑に付される郢書燕説であるが、これが精一杯。
昨今、『a + i』とローマ字入力するとたいがい「AI」と変換される。学習機能が使用頻度の高い「AI」を優先させるのだろう。しかし「愛」も『a + i』である。駄ジャレめくが絶妙な一致である。だからではあるまいが、近年AIを使った恋人の代わりをする会話ソフトが隆盛と聞く。またフィジカルなサポートだけでなく、高齢者との雑談をこなす介護ロボも登場した。一見擬人化のように見えて、実は「ピリア」への先祖返りといえる。なぜなら、心もたぬ物理現象を「愛」と呼んだのだから。それで恋心が生まれ癒しがなされるのなら「結合」、まさに「ピリア」である。なんの不思議もない。擬人化どころか、真っ当な「愛」そのものだ。してみると、やはり『愛がいちばん。』か。 □