伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

年の納めに悪態

2016年12月30日 | エッセー

●三浦九段の不正疑惑
 「不正行為に及んでいたと認めるに足る証拠はない」との調査結果で、疑惑は晴れた。しかし、プロ棋士としては負けである。棋士の「士」は“さむらい”だ。アマチュアの余技ではない。命を、つまりは人生を掛けて勝負に臨む者が士(サムライ)である。そのような覚悟の者をプロと呼ぶ。昨年7月の拙稿を引く。
 〈昭和44年、司馬作品を基にした映画『人斬り』が話題になった。劇中、三島由紀夫扮する薩摩藩士・田中新兵衛が壮絶な切腹をして果てる。暗殺現場に残されていた刀が新兵衛の愛刀であったことから嫌疑が掛けられた。その吟味の最中(サナカ)、突きつけられた証拠の愛刀で突如無言のまま自刃に及ぶ。
 武士の命を逸失し、それを事件の捏造証拠に使われた。真偽以前の武士の名折れであり、申し開きはできない。それが動機であったろう。〉(「即刻、筆を折るべし」から)
 処分撤回を受け、涙を流しながら「元の状態に戻してほしい」などとは片腹痛い。疑われた時点ですでに負けだ。勝負に臨んで脇が甘かったからだ。もしも嵌められたとしても同等だ。九段ともあろう者が自らの行動がどう見られるか予見できないとは、そもそも段位に相応しくない。刀を持ってする果たし合いならとっくに頸は飛んでいる。即、引退すべしだ。

●SMAP解散
 本年1月の愚稿を引く。
 〈「国民的アイドル」だのなんだのと騒ぎ立てるのがなんともしっくりこない。香取クンは38だがアラフォーと括れば、みんな40を超えたいいオッサンさんだ。なにが“アイドル”であろうか。まったく『一億総ガキ化』極まれりだ。これについては10年11月の拙稿「『一億総ガキ』化」で、精神科医の片田珠美氏の著作『一億総ガキ社会』を引いて述べた。いまだに病膏肓に入るのままとみえる。〉(「欠片の瓦版 16/01/25」から)
 おそらくまたぞろ、いい歳こいたおばさん達が“SMAPロス”なんて騒ぐにちがいない。
  付言しておきたい。『世界に一つだけの花』なぞという愚にも付かない歌も一緒に霧散してもらいたい。マキハラなんという擬い物がこさえたそうだが、やはりどうしようもなく幼稚な歌だ。いや、毒ともいえる。なぜなら、個性とは磨き上げられてこその個性だ。「もともと特別なOnly One」などと無条件で「個性でござい」と祭り上げられたのでは、あらゆる錬磨や試練や淘汰は意味をなさなくなる。すべてが「もともと特別なOnly One」で「世界に一つだけの」個性だというなら、精神病院で壁にウンコで絵を描いている人なぞは個性の極致というほかなくなる。
 「一つだけ」とは個別性ではないか。それは個性とは違う。個性と個別性を明らかに混同している。例えば身体の障害を個性として受け入れるまでにはどれほどの格闘があったことか。心中、幾度血を流したことか。それに想像及ばずして、脳天気に「もともと特別なOnly One」などと言えるだろうか。早めのデドッックスを要する。

●パールハーバー訪問
 謝罪のない和解はない。そんなのは知れきったことだろう。オバマは大人だから寛容の振りをしているだけだ。一番使い勝手のいい属国にいい気分にさせる。これは費用対効果、抜群である。
 未来志向だそうだ。70年談話の「将来世代に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」が本気なら、現役世代が今の内にきっちり謝罪するのが事の筋目ではないか。謝罪を要求されているのは戦後の自民党政権の不手際、ありようであって、将来世代の謝罪を誰も求めてなどいない。子や孫を盾にして大人が責任逃れをしているだけだ。子や孫になんていう殊勝な心がけがあるなら、千兆円を越える借金こそ「背負わせてはなりません」だろう。今年もまた目先の人気取りのために国債が30数兆も積み増される。それに談話が本心からのものなら、その慰霊とやらは中国にも韓国にも赴くべきではないか。そういう気概も勇気もない小心者が「和解の力」などと嘯く。悪い冗談だ。元広島市長の平岡敬氏は、朝日新聞に「過ちを認めず、責任をうやむやにしたままでは、和解や不戦の誓いはありえない。言葉だけが踊っている印象だ」と語った(29日)。もっともだ。
 広島でオバマは謝罪しなかったから、こちらも謝罪なし。オバマが被爆者を抱き寄せたから、アンバイ君も元アメリカ兵とハグ。なんだか臭い下手な小芝居を見せられているようで反吐が出そうだ。腰巾着よろしくくっついて行った防衛大臣の姐ちゃんも、帰った翌日には靖国参拝。真珠湾に攻撃を仕掛けたA級戦犯にも哀悼の誠を捧げたことになる。これでは支離滅裂、後ろ足で砂をかける、ではないか。
 内田 樹氏が犯罪捜査を引合いにおもしろい話をしている。
 〈供述の矛盾を突かれて落ちたりするのは、知識人だけなんだそうです。別に、知的であることに価値を認めていない人間は、供述の前後の矛盾なんか指摘されても、痛くも痒くもない。ヤクザなんかは「おまえ昨日こう言っていただろ。今日はこう言って、前後噛み合わないじゃないか」と取り調べでいくら突っ込んでも「あ、そうでした。じゃあ、昨日のはナシにしておいてください。今日の方が本当の話です」と言ってけろっとしている。食言を恥じる気持ちがない。「あのときと今では状況が違う」と言えばどんな食言も違約も言い逃れられると知っている。知識人であることを放棄した人間は強いです。今の日本政治の世界では、愚鈍化したほうが強い。〉(「属国民主主義論」から抄録)
 「失われた年金記録を一件残らず探し出す」に始まって、「フクシマはアンダーコントロール」、極めつけはアベノミクスの大嘘。まことに「知識人であることを放棄した人間は強い」。
 対ロ交渉でやらずぼったくりに終わった末の帳尻合わせの真珠湾。防衛姐ちゃんは支持勢力との辻褄合わせの靖国。如上の箴言もきっと豚に“真珠”であろう。
 てなことで、今年はこれでお仕舞い。皆さま、よいお年を。 □


当世『国家論』

2016年12月28日 | エッセー

 プラトンの「国家」を富士山とすると、これは富士塚といえよう。3776メートルは無理でも江戸市中の10メートルにも満たない「お富士さん」なら苦もなく登れる。かつ霊験もあらたかとくれば、行かない手はない。
 橋本 治著  「国家を考えてみよう」  ちくまプリマー新書(6月刊)
 今年の新書ベストワン、まちがいなしだ。タイトルは「考えてみよう」とまことに緩いが、「考え」は高々としている。だから、富士塚だ。
 この人の知性はなんと表現したらいいのだろう。失礼ながらあの飄然たる風貌に似ず、快刀乱麻を断つ颯爽たる知性とでもいえばいいのだろうか(颯爽といっても桃尻娘調は微かに底流するが)。この人の手に掛かると、こんがらがった糸が鮮やかに解(ホド)ける。その手捌きは当代随一ではないか。別けても三島由紀夫論、小林秀雄論は胸をすく。そして今回、大いに縺れた糸である「国家」を相手に快刀が唸りを発した。
 のっけから
 〈『国家を考えてみよう』という本ですが、そのために重要なことは、まず「国家を考えない」ということでしょう。〉(上掲書より抄録、以下同様)
 と意表を突いてくる。哲学の迷路に行かずに、政治の具象に即して考えようというのだ。まずは「國」の解字から始まる。まことに具体的だ。
 〈漢字には、「支配者のものではなくて国民のもの」であるような国民国家を表す、一文字の「クニ」はありません。〉(引用者註・国構えに民が入るクニは俗字で正字ではない)
 信長が右大臣、秀吉は関白で幕府を開かず、頼朝や家康が征夷大将軍となって幕府を開いた訳。国に家が付く国家の意味と天下との違い。
 〈最大の間違いは、主君に忠誠を誓うのは武士だけで、百姓や町人はそんなことをしません。ただ、将軍や大名の領地となった場所に住んでいるだけです。そもそも、「日本全体」を一まとめにする考え方がないのです。どうしてかと言うと、日本人は「日本人」である前に、「武士」だったり「町人」だったり「百姓」であったりするような、階層ごとの捉え方しかしていないからです。〉
 と、この辺りはいかにも治さん流で目から1枚鱗がポロリだ。続いて「王政復古の大号令」によって日本に「国家」が復活したと述べ、明治日本の大啓蒙家・福沢諭吉が『学問のすゝめ』の中で「国家」「天皇」という言葉をまったく使っていない理由を探る。諭吉は現在の象徴天皇制に近い考え方をしていたと聞いて、また鱗がポロリ。
 翻って話は日本の土地所有制度に移り、封建制のキモに。
 〈「所有することよりも、それを保証されること」という不思議なシステム。この日本を安定させていた不思議なシステムの名前が、実は「封建制度」です。〉
 かつて司馬遼太郎が廃藩置県がなぜスムーズに成されたかについて語った論旨に重なる。
 〈誤解されがちですが、「主君に忠誠を誓う」とか「忠義を尽す」というのは、封建制度ではありません。これは儒教の方から出た考え方で、「交換条件があるから従う」ではなくて、「えらい人なんだから、文句を言わずに従え」というのが儒教です。〉
 これで、3枚目の鱗がはらり。そしていよいよ佳境に入る。「国家主義」についてだ。「国家の悪いDNA」を剔抉し、
 〈「国民の国家」が出来上がった後で生まれる、本当ならもういらないはずの国家主義は、「国家に関する不安の表れ」なのです。〉
 と本質を喝破する。ここからが治さんの極めつけ。
 〈民主主義の政治というのは、その政治を支える国民の頭のレベルを、まともでかなり高いものと想定して、これを前提にしています。自動車の運転なら「運転免許を取るための学習」が必要になりますが、国民には、参政権を行使するための学習が必要ありません。〉
 譬えが絶妙である。目から鱗の4枚目だ。
 〈自信のなくなった民主主義国家の国民は、民主主義である国民の国家になる前にあった、自分達の国の君主制政治の「輝かしい幻」を見るのです。〉
 先月の拙稿「ニューシフト・イレブンが紡ぐぼくたちへのアンソロジー」で紹介した《「国を愛する」ってなんだろう?》で、山崎雅弘氏が指摘した「戦前戦中の古いバージョンの『愛国心』」に通底する卓見だ。
 「自信」を回復するには「改革」が要る。それには「大いなる権力」が必須だが、そうは明け透けに言えない。そこで、「決断力」と「実行力」に巧みにパラフレーズされる。そこを見逃してはならない。
 〈「パッとしない状況」が長引き、「変革の必要」が叫ばれて「決断力と実行力のあるリーダー」が待望され出現してしまえば、「グダグダ言うやつのことを聞く必要はない」になって、議会の言うことは平気で無視されてしまいます。一度リーダーになってしまえば、どんな批判を受けても「私は間違っていない。私はきちんと民主主義のやり方を踏襲している」と言って通ってしまうのが、民主主義を前提とした国家主義のすごいところで、逆を言えば、それを可能にしてしまうところが、民主主義の弱いところなのです──ということはつまり、民主主義の世の中に、「国家主義の芽」はいくらでも存在しているということです。〉
 これは当今の永田町のありようを糾弾しているともいえる。さらに「国家主義の芽」つまりは「支配者になりかねない権力者」を防止する最終的な砦が憲法であると述べ、自民党憲法改正草案の指弾へと展開する。
 最新の調査によると年代と自民党の支持率はパラレルではないという。むしろ、団塊の世代では薄くなるそうだ。自民党の一人勝ちは小選挙区制と低投票率の帰結であるらしい。してみれば、国民の約半数に及ぶ無投票者が実質的に自民党に“投票”していたことになる。この件については、本年1月の愚稿「多数決を疑え!」で取り上げた。ともあれ「運転免許を取るための学習」はしても、1人の例外もなく国民全員の生殺与奪の権をも握る「参政権を行使するための学習」がなされていない証左といえよう。
 本書の結びはこうだ。
 〈「政治に失望しているから」と言う人がいます。「選挙に行ったってなにも変わらないし、政治家なんかみんな同じでしょう?」とか。こういう人は、実は、政治を他人にまかせ放しにして、「政治に参加する義務」というものを放棄しているのですね。〉
 「政治に参加する義務」とは重く厳しい言葉だ。残念ながら、「国家」がバージョンアップして別の何ものかに変身する気配はない。ならば、そこに住まう者として「国家を考えてみよう」とするのは一身上と同等に至極当然のことではないか。それも具体的な政治に即して考える。「3776メートルは無理でも江戸市中の10メートルにも満たない『お富士さん』なら苦もなく登れる。かつ霊験もあらたかとくれば、行かない手はない」。この書はわが町の「富士塚」である。ぜひ、お出ましを。 □


ディラン先生 そのメッセージ お見事です

2016年12月22日 | エッセー

 『初耳』コンシェルジュの大政 絢女史ならこう言うだろう(タイトルの出処)。メッセージとはノーベル賞晩餐会で在スウェーデン米国大使により代読されたボブ・ディランのそれである。
 まずは、
 〈名誉ある賞をいただき私が光栄に思っていることを知ってください。〉
 とある。大人のご挨拶である。続いて、
 〈私は幼い頃から、キップリング、ショー、トーマス・マン、パール・バック、アルベール・カミュ、ヘミングウェイなど、この栄誉に相応しいと考えられた人々の作品に慣れ親しみ、読み、吸収してきました。〉
 と歴代ノーベル文学賞受賞者の名を挙げ、リソースがそこにあったと述べ、また末席に連なる栄誉を謝している。
 注目は次だ。授章発表直後から囁かれていた、歌詞がはたして文学に値するのかという疑義への切り返しである。シェークスピアを取り上げて、
 〈彼は自身のことを劇作家だと考えていたと思います。文学を執筆しているという思いは彼の頭の中になかったでしょう。彼の言葉はステージのために書かれたものです。読まれるのではなく話されるためのものでした。〉
 胸がすく論破だ。立ち上がって快哉を叫びたくなった。シェークスピア文学とされるのは劇中の台詞である。ト書きとは切り離される。ならば、曲とは別に歌詞を独立した文学作品として何の不都合があろう。見事な切り返しである。ことばがこころに刺さるからこそ文学だ。ならば読むか歌うか、あるいは語るかは二次的な因子でしかない。図書館を領する万巻の文学書であろうと、琴線を掻き毟らねば文字の羅列かなにかの呪辞か、あるいは与太話でしかない。さらに、
 〈ハムレットを書いているとき、彼は多くの別のことを考えていたと思います。“これらの役に相応しい俳優は?”とか“どう演出すべきか?”“本当にデンマークを舞台にしたいのか?”などといったことです。彼が、自分のクリエイティブ・ヴィジョンや大志を第一に考えていたのは間違いないでしょうが、“資金は大丈夫なのか?”“パトロンに十分いい席を用意できるのか?”“骸骨はどこで手に入れたらいい?”など、考えなくてはならない、対処しなくてはならない、より俗世的な事柄もあったでしょう。“これは文学なのか?”という質問は、シェイクスピアの中では最も縁遠いものだったと私は確信しています。〉
 と、興業性に言及していく。芸術が「パンのみにて生くるにあら」ざる高みにあろうとも、パンは喰わねばならぬ。芸術は思念の宙(ソラ)に浮かんでいるわけではない。具体を伴って地上に降り立たねば狂人の譫言(ウワゴト)に過ぎぬ。「多くの別のことを考え」、「俗世的な事柄」を外せない所以だ。
 メッセージの後半はその興業性の核心に触れていく。
 〈パフォーマーとして私は5万人を前にプレイしたことも50人を前にプレイしたこともあります。そして、50人を前にプレイするほうが難しいのです。5万人は1つのペルソナとなりますが、50人はそうではありません。1人1人が、それぞれ別の違ったアイデンティティ、言葉を持ちます。彼らは物事をより明確に見抜くことができるのです。あなたの誠実さ、それが才能の深さとどう結びつくのか、試されるのです。ノーベル委員会は小さい、これが意味することを私は理解しております。〉
 「5万人は1つのペルソナ」になるという。マーケティングのユーザーモデルではなく、きっと心理学でいう仮面の謂だ。5万人はマスとして対峙する以外に手はない。個々の顔は1つのペルソナを構成する画素となる。二人称単数形だ。しかし50人は違う。肉眼には画素であることを止め、「それぞれ別の違ったアイデンティティ」をもった顔に見える。逆説的だが、二人称複数形になる。立場を入れ替えれば、こちらの「誠実さ」や「才能」を「より明確に見抜く」鋭い眼に囲まれることになる。こうして「試される」のはしんどいはずだ。1人が相手であれば剣豪には苦もない。だが、複数に包囲されれば切り抜けるのは至難だ。つまりはそういう事情であろう。
 だとすれば、返す刀が次だ。「ノーベル委員会は小さい」とは権威への褒め殺しの皮肉にも聞こえるが、「パフォーマー」のセンシビリティには荷が重すぎるという謙遜ではないか。世にいう晴れ舞台はおいらには似合わないんだと、傲慢という批判に対する「お見事」なお返しである。
 「えっ、ずいぶん欲目! それは本当か?」と訊かれても、
〽The answer is blowin' in the wind
 としかいえません。 □


第43回大佛次郎賞

2016年12月20日 | エッセー

 浅田次郎著 短編小説集『帰郷』が今年の大佛次郎賞に選ばれた。いうまでもなく同賞は朝日新聞社主催の文学賞で、名の通り歴史系の作品に贈られる。ファンの1人として慶賀に堪えない。
 氏は受賞の知らせを受け、「これは冗談じゃないのか」と笑いがこみ上げたという。
 〈その理由は表題作を決めた時にさかのぼる。収録6作のうちどの作品名にするか、編集者と悩んだ。「金鵄のもとに」では右翼の本のようだし、「夜の遊園地」だと湊かなえさんの小説と勘違いされかねない……。残ったのは「帰郷」と「無言歌」。だが「無言歌」は赤川次郎さん、「帰郷」は大佛次郎が小説のタイトルにしていた。どちらの「次郎」に敬意を表するか迷った末、「帰郷」を採った。「それがまさか大佛次郎賞とは、思ってもみませんでした」〉(朝日のインタビューから)
 拙稿では6月に触れた。
 〈全6篇が「反戦小説」である。今時「反戦」は軽くなったが、決して遠くなってはいない。健忘は新手の誘惑に搦め捕られ、悪夢の再来を至近に引き寄せてしまう。必要なのは語り継ぐことだ。凄腕の語り部が巧みな意匠を施して物語ることだ。「反戦」に十全な重みを付け直し、世に放った「反戦小説」がこれだ。
 全6作、あり得ない奇怪な話の連続だ。もちろん創作だ。だにしても、読者は易易としてその特異を受け入れてしまう。理由は明らかだろう。戦争が人知と隔絶した特異だからだ。元より人性も隔絶される。「反戦小説」が緊要とされる所以だ。〉(「反戦小説『帰郷』」から抜粋)
 選考委員5氏の選評を拾ってみる。
◇黙する死者との血脈 作家・佐伯一麦氏
 佐伯氏も拙稿と同じ箇所「ゆえなく死んで行った何百万人もの兵隊と自分たちの間には、たしかな血脈があった」にフォーカスしている。作品が帰還者たちの寡黙と沈黙に代わることの重さを「我々の言葉は死者たちに睨まれている」と印象的に語っている。
◇内面描き、出発点示す 法政大学総長・田中優子氏
 敗戦後、価値観の断絶を乗り越える努力を忘れ経済復興に走った日本社会。「置き去りにされた戦前が潜み、敗北感が新しい社会の創造に置き換わらないまま、対米従属の日本を私たちは生きてしまった。そして、現在の戦前回帰現象につながる」として、「この作品は、これからの日本を考えるための出発点だ。帰る場所のなかった彼らは今どこにいるのか?」と結ぶ。深い視点だ。
◇「曇りガラス越し」に 哲学者・鷲田清一氏
 「戦争を知らない子供たち」が戦争に敗れた父たちを描く。
「つい彼らから眼を逸らせて未来のほうに視線を移したこの世代の一人として、作家は、言葉を呑み込むばかりだったその人たちの思いを曇りガラス越しに描きだそうとする。これがじぶんたちの世代の責任だと言わんばかりに」
 「じぶんたちの世代」とは戦争を生きた世代に踵を接した「戦争を知らない子供たち」のことだ。接してはいるが当事者ではない。「曇りガラス越し」とはその謂だ。語り部は「じぶんたちの世代」が担う「責任」と捉える、その真情にこそ浅田次郎という作家の他に屹立する真骨頂がある。さすがに哲学者の眼だ。
◇兵卒たちの“人間宣言” 朝日新聞元主筆・船橋洋一氏
「生きることが、出直すことだった。戦後は、テントウムシのような一兵卒のこの“人間宣言”から始まった。状況を捉える筆致は冷たく、乾いている。人間を描く筆致は、優しく、温かい。その絶妙の間合いの中、時代が目の前に鮮やかに浮かび上がってくる」
 期せずして最高のプレゼンとなっている。
◇戦後の「埋み火」通底 ノンフィクション作家・後藤正治氏
 氏は浅田氏を長編作家として評価する立場から、物足りなさを指摘する(稿者は逆なのだが)。しかし再読して、歳月を経てもなお残る埋み火に気づいたという。それは「時空を超えた通底音」であり、「著者にとって戦争文学の序章に位置する短編集であろう」と語る。
 
 「反戦歌」はとうに廃れた。「反戦劇」など跡形もない。イベントは形骸化する。語り部も次第に消える。「反戦」の継承は文学、それも短編が担う時代なのであろうか。してみれば、浅田氏の業績は一層高々としている。 □


還我河山

2016年12月18日 | エッセー

 「ホアンウオホーシャン」と、原語では読む。初見では、我が河山へ「かえる」ととった。帰還の「還」だ。しかし、「還」は返還のそれだった。
── 北の曠野で
    一人抗う男は
    叫び続けた。
     我に
    山河を
    返せ。 ──
 読み終えてブックカバーを外すと、こう大書きされた帯が現れた。不明を恥じつつ該当部分を探す。
 〈まるで幼な子がたどたどしく筆を執ったような文字が、墨痕淋漓として、純白の壁に書き並べられていた。
 ホアンウオホーシャン 我に山河を返せ。 〉
 これが「天子蒙塵」第二巻(講談社、今月7日発刊)の主題だ。帯にはこうある
◇父・張作霖を爆殺された張学良に代わって、
 関東軍にひとり抗い続けた馬占山。
 1931年、彼は同じく張作霖側近だった張景恵からの説得を受け
 一度は日本にまつろうが──。
 一方、満州国建国を急ぐ日本と、
 大陸の動静を注視する国際連盟の狭間で、
 溥儀は深い孤独に沈み込んでいた。◇
 黒竜江省公署省長室に残された墨痕の主(ヌシ)は馬占山だ。わが故地を掠奪した満州国への果たし状である。
 「第一巻」が蒙塵の天子が悲哀を独白する筋立てだったのに対し、「第二巻」は蒙塵の天子を搦め捕る謀略が通奏低音だ。それだけに戦前史が絶妙に切り取られ、俯瞰し顕微されていく。史実に即しつつ空想を容れる歴史小説から、史実を捌きつつ意味を解(ホド)ていく史伝文学により近接しているともいえる。だが、決して肩苦しくはない。当代随一のストーリテラーだけあって物語る巧さは群を抜く。そして随所にアフォリズムが象嵌されている。いくつかを挙げる。
 〈軍隊を一個の生命体と仮定すれば、それを構成する細胞がかつての痛みを忘れたあたりで、本来の指向性が甦るのである。そもそも軍隊は戦争をするために存在する。本質的な存在理由はほかになく、その指向性の発揮すなわち戦争を抑止する要素は、軍隊自身の持つ記憶と良識にすぎない。〉
 戦争への「指向性」。軍事の本質はこれだ。唐突だが、憲法9条第2項はこの属性から袂を分かつためだった。「軍隊自身の持つ記憶と良識」に裏切られ続けたためだ。人類史に高々と先駆けた金字塔だった。帰るべきはこの原点ではないか。

 〈発想は天才的です。作戦参謀としても、すこぶる有能であると思われます。しかし、けっして実務家ではありません。石原の起案した作戦を実行した者は破滅します。なおかつ、その理論はきわめて魅力がありますが空想的です。誰彼かまわず馬鹿よばわりして、協調するということがありません。要するに、頭はいいが人間が駄目なのです。〉
 ある人物が永田鉄山に石原莞爾の人物評を語るところである。鉄山については、奇しくも先月の拙稿「日本会議 番外編」で触れた。昭和軍部のキーパーソン2人がくっきりと描かれていく。とても小説の主人公になれる人物ではないが、確実に昭和史の舵を切った人間ではあった。
 鉄山が暗殺される相沢事件を扱ったのは『天切り松 闇がたり』第四巻「日輪の刺客」であった。視点が違うゆえか、今回は文字通りの「統制」役として好位置で描かれている。「頭はいいが人間が駄目」とは、石原に限らず普遍の人物観だ。今や老醜を晒す同姓の同類もいるのはいるが。

 〈ふたたび注目を集めながら陸軍大学校前の停留場に降り立ったとき、軍人が国民から敬せられる悪い時代になったと、吉永はつくづく思った。〉
 「軍人が国民から敬せられる」のは「悪い時代」だという。時代の分水嶺をどこに引くか。含蓄のある言葉だ。

 〈役職にあるから役人なのではない。役に立つから役人なのだ〉
 もちろん国民の役に、だ。特定の政党や団体の役に立つ非役人ばかりが多すぎないか。

 〈心ならずも対立なされた、西太后陛下と光緒皇帝陛下。不平等条約を結び続けた李鴻章。売国奴と呼ばれた袁世凱。国民ひとりひとりに呼びかけた宋教仁。そして、見果てぬ中原の虹をめざして長城を越えた張作霖──〉
 以前述べたように、浅田文学の歴史物はいつも滅ぶ側に視点がある。清末に例をとれば、こうなる。センチメンタリズムなどでは毛頭ない。作者の慈眼と解すべきだろう。
 
 〈玲玲は夫の手を引いて歩き出した。天子様や太上老君のお遣いではなく、禹王の生まれ変わりでもないけれど、雲にいちゃんは誰よりも偉いと思った。
 だって、天子様にも老子様にも禹王様にも、おちんちんは付いているのだから。雲にいちゃんはその大切なものと引き換えに、昴の星を掴んだのだから。〉
 この巻の大団円だ。変な言い方だが、わりと硬派に綴られてきた物語がついに「泣かせの次郎」の本性を顕す。しかも「雲にいちゃんは……昴の星を掴んだ」は長い長い物語をたった1行に約めたアブストラクトである。
 術中に嵌まったか、文字が霞むほど眼(マナコ)が潤んだ。作者の言葉が蘇る。
「はっきり申し上げたいのは、『蒼穹の昴』で立ちどまってしまった読者は不幸だということです」
 運よく「不幸」は免れた。 □ 


千の欠片の

2016年12月12日 | エッセー

 千億ほどではないにせよ、千言万語を費やして、それでも一字千金夢物語、千切れ千切れて千鳥足、千度の駄文をこねくり回し、千日優に越えてはみても、千歳飴の縁起もあらず、千客万来ともいかず、千辛万苦は尽くせども、千貫のかたに編笠一蓋、値千金まったく無縁、千変万化の才もなく、雀の千声鶴の一声、愚者の千慮に一得あらず、千尋の深み、千畳の広がり、共になく、千里臨むも霧の中、やっと迎えた千回目、お立ち寄りの皆々様には迷惑千万かけまくり、いいかげんにせんかい(千回)、でも面の皮だけ千枚張り、惚れて通えば千里も一里、またもや挑むか千里の行(コウ)、欠片の旅はまだつづく。(『千づくし』にてお粗末さま)
 苦節、屈折10年と10ヶ月、3,913日、十分な一昔でした。マドンナとの再会、一度の手術、二度の入院、朝日新聞の転載、リタイアメント、娘の嫁入り……個人に限っても持て余すほどの出来事でした。それなりの感慨はあります。“なんやかや言うても”続けてみるものです。生きてきた足跡の一端は留められたかもしれません。
 「千」は、「人」「年」と同韻の文字だそうです(白川静「字統」)。やはり、ずっしりと「年」旧(フ)り、数多の「人」が去来するはずですね。
 「千」と人で千人。かつて銃後の女たちは「千人針」をつくり兵士に持たせました。忌まわしい歴史です。04年、戦後60年近くも経ちとっくに死語になっていたのに、サマーワに派遣される自衛隊員に再び贈られました。今年、南スーダンに赴く隊員には代わりに布製の千羽鶴を預けるそうです。イラクで届いた願いが今度も叶うかどうか、気鬱になります。
 3桁区切りでは、カンマが入って大台に乗ります。トポスが撥ねるということでしょうか。浅識、非才にはブレイクスルーは期待薄です。
 「千」の記号はkで、Kではありません。M、G、Tが国際承認される前から定着していたからです。ギリシャ語の単位をフランス語風に変えたらしいのです。1k回でknockoutとならねばよいのですが。

   きらきらと千の欠片の雪の跡

 “よこはま物語”さんが千回を記念して贈ってくださいました。「きらきらと」なんて過分なお褒めに与り、恐縮のいったりきたりです。「欠片」は長く使ったハンドルネームです。たしか、“fulltime”さんの命名でした。ぴったりでした。「千」も「雪」も忘れずに読み込んでいただいて、感謝に堪えません。
 今稿ばかりはこれ以上は事々しくなりますので、これで擱(オ)きます(偶の「ですます調」で肩も凝りましたし)。3月1ヶ月間のブランクはあったものの、今年中千回になんとか辿り着けました。やれやれです。しかし、「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に“伽草子“の 種は尽きまじ」です。小休止したら、また性懲りもなく犬の遠吠え、与太話を書きつづけていくつもりです。変わらぬご愛顧を伏してお願い申し上げます。
 では今宵、ひとり、玉箒で祝うとしますか。 □


999

2016年12月08日 | エッセー

 本ブログは今回で999回目となる。『777』ならパチンコだが、『999』ときても「銀河鉄道999」ぐらいしか浮かんでこない。とんと馴染みも懐かしみもない世界だ。ダイゴの歌は記憶にあるが、何の感慨もない。そこで、「9」だけ取り出して愚案を巡らす。
 桑田流にいえば、“なんやかんや言うても”「第九」だろう。特にこれからの時期だ。Xmasソングと「第九」がないと年が越せぬ。かといって、「第九」自体が年末をテーマにしているわけではない。年末に結びついたのは戦後まもなくの困窮時代、本邦楽団の年越し対策であったようだ。確実に客が入る曲で年末に演奏会を催す。合唱付きだからオケと共に合唱団も潤う。年が越せる。ポピュラーな事情が呼び寄せたクラシックの登場。人はパンのみに生きるにあらずとの難題が見事にアウフヘーベンされたというべきか。
 実は「第九」については2度触れてきた。08年12月「迷走、迷想 200回」では、
〈 社会には権力の暴風。四面楚歌の渦中でベートーベンが自らを鼓舞しつつ、精神の大いなる自由を謳いあげたのが「第九」だった。 〉
 と綴った。11年12月にはそのまま「第九」と題して
〈 モーツァルトが宮廷にとどまったのに対し、ベートーベンは世界を手挟んだ。別けても「第九」が抱える普遍の命題は時代も超えた。今もって聴く者の魂を鷲掴みにする所以だ。 〉
 としつつ、話はジョン・レノンに跳ぶ。
〈 ベートーベンは音楽を哲学した。ジョン・レノンは音楽で哲学したといえなくもない。“Revolution 9” での “number nine” の連呼は充分に哲学的だ。単なる音楽的遊びが億万の人びとの耳朶に残るはずはない。 “number nine” は「第九」と翻字しておかしくはないだろう。 〉
 あのノイズの随(マニマニ)に揺蕩うように浮沈する“number nine…number nine…”というジョンの囁き。年に何度か、日常のふとした間隙に蘇ることがある。音楽にはなんとも抗しがたい力があるものだ。
 ジョンは1980年12月8日、NYダコタ・ハウスの入口で凶弾に斃れた。今日で36年が経つ。奇しくも“パールハーバー”。忘れがたい日が重なる。
 さて、“だいきゅう”と読めば「第九」には憲法第九条がある。憲法9条については番度拙文を書き殴ってきた。こちらは年末といわず、一年中のマターである。「第九」が緊縛の足枷になっているアンバイ総理にとって、「9」は最悪の忌数であろう。それが二つも並ぶ憲法第『99』条。公務員の憲法尊重擁護義務規定である。いわば憲法の扉に掛けられた錠だ。数年前、こともあろうに、愚かにも、彼はこれをこじ開けようとしてしくじった。
──第九十九条
 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。──
 行政の長がこれを破れば、自ら獅子身中の虫に成り下がる。夢寐にも忘れてはならぬ掟だ。
 「第九」 第4楽章 『歓喜の歌』は次のように始まる。
   〽おお友よ、このような旋律ではない!
    もっと心地よいものを歌おうではないか
    もっと喜びに満ち溢れるものを〽
 この冒頭部分はシラーの原詩にベートーヴェンが書き加えたものだ。実に壮大で荘厳だ。つづくシラーの格調高い詩の中に、
   〽自然は口づけと葡萄酒と 
    死の試練を受けた友を与えてくれた
    快楽は虫けらのような者にも与えられ
    智天使ケルビムは神の前に立つ〽
 と、意外にも「虫けら」というどぎつい言葉が出てくる。激情が迸り、自由を抑圧するものに辛辣な飛礫を見舞ったのだろう。杞憂とはしりつつ、いや、杞憂であれと願いつつアンバイ君ならばのトンデモ解釈をすると、「このような旋律ではない」とは、第9条? 「もっと心地よいものを」は「美しい国」か? 「もっと喜びに満ち溢れるものを」は「一億総活躍社会」だとでも? 万が一そうだとすれば、「快楽は虫けらのような者にも与えられ」と贈らねばならぬ。なにを馬鹿なと嗤うこと勿れ。「緊急事態条項」の画策は実質的な錠前外しではないか。因みに、自民党の憲法改訂案では現行の<改正>を次章に押し遣り、第“9”章をこれに書き換えている。一点突破の悪巧みに誑かされてはなるまい。ひょっとして、アンバイ君の耳には“number nine…number nine…”が呪詛に聞こえるのであろうか。いやいや、聴いたこともないか。
 「おお友よ、このような旋律ではない!」は抑圧への拒絶だ。楽聖が「第九」に託したメッセージはそれだ。憲法の「第九」は戦争への拒絶だ。一敗地に塗れた先達が世界に宣し、後継に託したメッセージだ。「第九九」は鉄桶の盾だ。改めて、そう心したい。
 私事だが、「第九九九」の次は3桁区切りのカンマが入る。大台である。□


真珠湾と魚雷

2016年12月06日 | エッセー

 旅順港を塞ぎ、集結したロシア艦隊を海陸から殲滅し制海権を握る。日露戦争の旅順口攻撃にヒントを得て、山本五十六は真珠湾攻撃を着想したそうだ。港に停泊するアメリカの主力艦隊を奇襲し、魚雷で一網打尽にする。建艦には1、2年掛かるから、その間に東南アジア各地に飛行場を造り、制空権を確保する。そういう作戦だった。
 不沈戦艦「武蔵」も魚雷が致命傷になったと、先日NHK特番で報じていた。なにせ魚雷は艦砲射撃を避け1000メートルも離れたところからでも攻撃できる。弾薬の量も多く破壊力は強大だ。その魚雷、1864年にオーストリアで生まれた兵器だ(実際は英国人が開発)。今でこそ内陸国だが、当時は海を版図に含む大帝国だった。その後改良が重ねられ太平洋戦争開戦前には、日本は船からではなく航空機から投下できる高性能魚雷を世界に先駆けて実現していた。九一式魚雷といい、高度20メートル、時速333キロメートル、海底の浅い港湾でも荒海でも発射できた。この九一式が真珠湾で威力を発揮した。なによりこの頃の海軍航空兵は中国大陸への渡洋攻撃により高い技倆を身に付けていた。ゼロ戦もある。加えて鹿児島湾を真珠湾に見立てて浅海での魚雷投下の特別訓練もしていた。なぜなら真珠湾は水深12メートル、浅いからだ。通常、魚雷は着水すると60メートルぐらい沈み込み、それから浮き上がっていく。従前の投下では海底に突き刺さって役に立たない。
 唐突だがここで、日本近現代史のオーソリティ、敬愛する加藤陽子東大教授の卓見を徴したい。氏は、なぜ米海軍が真珠湾に戦艦を集結させていたのか、長い間不思議だったという(意外と軍事オタクのような疑問)。蛸壺のようなところで攻撃を受ければ全滅の恐れがある。
〈 日本側は必ず奇襲先制攻撃をしかけてくる国であるということは、英米側によく理解されていた。日本との戦争は、日本からの先制攻撃によって始まるということは予測されていた。・・・真珠湾は浅い。戦艦は水面から船底まで7メートルあれば停泊させられますから、ここに停泊させるのは合理的です。そしてもっと合理的だったのは、真珠湾は浅いので魚雷は全然役に立たないはずだ、こうアメリカ側は考えていました。つまり、アメリカ側も、日本の技術に対して、侮っていた部分がある。海底スレスレまでしか沈まないように、そうっと魚雷を落とす技術などありえないと思っていた。そこなのです。浅さに安心して、魚雷ネットなどの十分な防備をしていなかった。やはり、相手の能力の軽視は、どの国家の軍隊にもあるのですね。 〉(朝日出版社「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」から抄録)
 勝負の核心は魚雷への対応にあったということだ。直後、ルーズベルトは「アメリカ合衆国にとって恥辱の日」といった。恥辱は魚雷がもたらしたともいえる。
 今月下旬本邦宰相は米国大統領と共に真珠湾を訪うと伝えられた。広島でのオバマ・スピーチのお返しに、
「75年前の薄曇りの朝、空から魚雷が舞い降り、米国は一変しました。閃光と炎の壁がこの港を破壊し、日本が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです」
 とでも演説するのであろうか(あの甲高い早口で)。因みに、
「71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです」
 が、米大統領の演説冒頭のパラグラフだった。自然現象のようだと悪評を受けた部分だ。等価交換なら、謝罪は入れないだろう。海面すれすれから投下され浅深度で艦腹を爆撃する魚雷は決して自然現象ではあるまい。今月中旬の対ロ領土交渉の不調を見越した予防線、挽回策、拉致問題はじめ実質的成果が見えない外交のダメージコントロールか。そんな見え透いた茶番でなければよいのだが。“パールハーバー”に似て奇襲がお好きなようだ。九一式よろしく抜群の安定性で潜って迫って、ドカーン。憲法改正の真の狙いから、おさおさ警戒を解(ホド)いてはなるまい。“やってる感”の目眩まし。狙われているのはまちがいなく本邦国民だ。落とし損ねて青々と広がる真珠湾の浅海を爆砕せねばよいのだが。 □


新語・流行語大賞を評す

2016年12月03日 | エッセー

 いよいよ師走。恒例のユーキャンによる「新語・流行語大賞」が発表となった。一一(イチイチ)を評してみたい。
■ 大賞 「神ってる」 緒方孝市監督、鈴木誠也選手(広島東洋カープ)
 本ブログの開始直後06年3月、「野球 大発見!」なる愚案を呈した。正味のプレー時間はわずかで大半が長考に次ぐ長考だと。一部を引く。
〈 一試合2時間として、その30%が、正味のプレー時間・・・ああ、そうか。あの残り『1時間24分』は『長考』なのだ、と俄に合点がいったのである。としてみれば、グランドのプレーヤーは『盤上の駒』か。なるほど、そう捉えればオモシロくなってくる。プレーの一齣づつに間を配して、観客にまで『長考』をさせてくれる実に親切な造りになっているのだ。 〉
 “スポーツの将棋バーション”、“将棋仕立てのスポーツ”といったところか。つまりは知恵比べだ。アタマのスポーツだ。それを「神憑(ガカ)る」とはなんということか。発想がおかしい。そのような物言いをして思考停止していては野球の名に悖る(思考停止が赦されるのはナガシマさんだけだ)。だからとどのつまりで負ける。日本シリーズでテッペンに『上(カミ)ってる』といかなかったのだ。向こうは知将。アタマで負けた。したがって、大賞には不適格。せいぜい“Bad Word”大賞だ。
 以下、 「トップテン受賞語」
■ 「ゲス不倫」 週刊文春編集部
 当人たちも報じる側も同じくゲスだろうに。本年9月の拙稿「同じ穴の狢」から。
〈 芸能リポーターなるものの醜悪さ。あれは真っ当な生業といえるのかどうか。他人のゴシップを聞きかじっては糊口の道とする。河原乞食に群がる蝿の類いだと断じた友人がいた。宜なる哉。あの徒輩の筆先や舌先にいかなる社会正義が掛かっているというのだろう。他人の不幸は蜜の味、覗き見や噂話の下衆の腋の下を擽っているだけではないか。 〉
 まあ、反吐が出るようなこの語感自体が「蝿の類い」にふさわしいともいえようが。
■ 「聖地巡礼」 冨田英揮氏(ディップ代表取締役社長兼CEO)
  パワースポット人気も依然高い。この現象をどう捉えるか。先日も引いたが、再度齊藤 孝氏の洞察を紹介したい。
<最近ミュージシャンは、CDが売れなくなって、前より一層ライブに力を入れるようになったといわれています。こんなインターネット隆盛の時代だからこそ、かえって唯一無二のライブ空間が見直されているのです。これもまたライブの一種といえるかもしれませんが、アメリカをはじめ海外では、講演会の需要が高いと聞きます。
 ライブ空間は、いわば祭りのようなものです。奏者や演者、そして会場に一緒にいる人々の熱気を肌で感じ取り、その空気と一体になることで自分の心も身体も高揚します。そうした非日常のライブ空間を日々の暮らしに取り込むということは、命を活性化させるうえで、とても大事なことだと思います。それはいわば、命の洗濯ともいうべき贅沢な時間なのです。>(朝日新書、先月刊『年をとるのが楽しくなる教養力』から)
■ 「トランプ現象」
 当確直後、愚考した。「超速報 蒙古襲来!!」 先月9日。はたして……。
■ 「PPAP」 ピコ太郎(シンガーソングライター)
 人後に落ちぬミーハージジイである。見逃すはずはない。“冷徹”な分析を試みた。10月「“PPAP” 団塊の世代的読み解き」 爾来、瘧のように目と耳をあの歌と振りが襲う。だが、後続作品は生憎期待に外れた。
■ 「保育園落ちた 日本死ね」 山尾志桜里氏(衆議院議員)
 3月、「ブログの衝撃と訓話の不愉快」で取り上げた。インパクトは大賞級なのに、なぜ選に漏れたか。変な気遣いはこの賞自体を貶める。「大賞落ちた ユーキャン死ね」だ。
■ 「(僕の)アモーレ」 長友佑都選手(伊・インテル)、平愛梨(女優)
 特段の感慨ナシ。好きにしたら。
■ 「ポケモンGO」 株式会社ナイアンティック、株式会社ポケモン
 11月、「現代のトーテミズム」で基本的なお復習(サラ)いをした。
■ 「マイナス金利」 日本銀行
 本年、本稿で散々っぱら書いてきた。主なものは次の通り。
 2月「欠片流パラフレーズ」/3月「梯子」/8月「平成の富国強兵」/前稿「ついに博打か?!」 ……と。中でも「欠片流パラフレーズ」で、『マイナス金利 ⇒ やらずぼったくり』とやったのは我ながら上出来だった気がする。
■ 「盛り土」 受賞者辞退
 9月の愚稿「一強はつまらない」から。
〈 核心的原因は石原にある。・・・知事就任以前からの計画であったにせよ、議会の議決があったにせよ、『なんやかんや言うても』豊洲を主導したのはだれか。工事契約書はだれの記名押印なのか。たとえ盲判であろうとも、下位者による代理決済であろうとも、最終決定者を特定するものが署名であり押印である。『なんやかんや言うても』、最終責任者はそのようにして表明される。・・・一切の責任をとる。血祭りに上げられても文句はない。万般を一身に引き受けて深く頭(コウベ)を垂れ、不徳を恥じ、九牛の一毛なりとも罪滅ぼしに努める。叶わねば、金輪際世間に顔を晒さぬ。・・・ 〉
 先月末、後藤雄一元都議が石原元都知事と舛添前都知事、岡田元市場長に対し、盛り土をしなかったことで生じた損失の補填を求める訴訟を東京地裁に起こした。工事契約書に押印した石原元都知事と起工書に押印した岡田氏に都が「埋め戻し・盛り土」に支払った工事代金として61億円。他30億で、締めて91億円を請求している。当然であろう。大いに納得できる。「九牛の一毛なりとも」、私財を擲て。いや、一毛どころか、二毛、三毛、えーい、牛九頭ぜんぶ差し出せ!
 それにしても「受賞者辞退」は考え落ちだ。辞退の場合、受賞者を明かさないらしい。受賞者「不詳」とせずに「辞退」としたところが、実に巧みな計らいだ。小池都知事ともいえるし、石原ともいえる。猪瀬や舛添では小者過ぎる。まさか豊洲の盛り土そのものではあるまい。いや待て、豊洲のど真ん中に『聖地巡礼 2016流行語受章の土』(「地」ではなく「土」)とでも大書きした看板を立てるのも一興ではないか。きっと篤信の巡礼者が訪(オトナ)う。

 本年6月、「決定!! “2016流行語大賞”」と題して愚慮を巡らした。「魔法の言葉=『新しい判断』を “2016流行語大賞”に強く推したい。これが、稿者の新しい判断である。」と。だが、『ノミネート30語』には入ったのだが、大賞は逃した。残念ではあるが、「新しい判断」だったのだろう。
 かくして、年は暮れる。有名なフレーズを捩れば、ことばは世につれ世はことばにつれ、か。可笑しくもあり、悲しくもありだ。 □


ついに博打か?!

2016年12月03日 | エッセー

 大店の馬鹿息子が傾いた家業を立て直そうとさんざん銀行から借りまくった。でも、追っつかない。遂には街金に手を出したが、これも焼け石に水。大のお得意さんからはそっぽを向かれ、ええい、ままよと有り金はたいてギャンブルで一攫千金を狙った。
 まあ、そんなところだ。日銀を使った金融政策も効き目なし。禁じ手のマイナス金利。これだって上手くはいかない。つまりはアホノミクスの破綻。加えて海の向こうの大店に袖にされた。悲しいかな、TPPが潰えたのだ(PPAPは世界を席捲したのに)。突然のIR法案は、これが引き金にちがいない。まるで潜伏していた病原菌が突如発症したように。
 罹患は2年前。国際観光産業振興議員連盟の最高顧問だったアンバイ君はシンガポールを訪れ、カジノを視察していたく感じ入り「日本の成長戦略の目玉になる」と宣うた。だから潜伏期間2年を経ての発病である。ついに博打に手を染めるのだ。
 もともと「シンガポール化」は日本の趨勢だと、内田 樹氏は言う。
〈 「世界で一番ビジネスがしやすい国」だと言われるシンガポールをモデルにして日本の制度も全部作り替えればいいじゃないかと思っている人たちが現在の安倍政権の熱烈な支持層を形成しています。特定秘密保護法とか、集団的自衛権の閣議決定とか、自民党改憲案の「非常事態」の適用による独裁制の合法化とか、あるいは学校教育法改定による学校の「株式会社化」などもすべて「日本のシンガポール化」の流れだと言ってよいでしょう。だから、彼らを「右傾化している」と呼ぶのは見当違いなんです。彼らは別に戦前の大日本帝国のような日本を作りたいんじゃない。シンガポールみたいにしたいだけなんです。金儲けだけに特化した社会の仕組みにしてほしいので、民主主義は邪魔なだけなんです。 〉(「日本戦後史論」から)
 勘違いしがちなのだが、ビジネスでは抜きん出てもシンガポールは決して民主主義国家ではない(建前に反し実質は)。独立以来50年、一党独裁体制が続いている。初代リー・クアンユー首相からの「開発独裁」だ。言論をはじめ、集会・組合結社の自由が制限され、『明るい北朝鮮』と異名をとるほどのトップダウンによる国家主導体制である。アンバイ君と波長が合うはずだ。
 マネーゲームをカジノ資本主義と呼ぶが、もはやカジノはメタファーではなく正真の鬼っ子となるのであろうか。そこで、得手に帆掛けて奇想を跳ばしてみた。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である。
 マックス・ヴェーバーは、プロテスタンティズムの禁欲的労働が資本主義を駆動した、と論じた。一見逆説的だが、元を辿ればプロテスタンティズム自体が逆説的だ。それはプロテスタンティズムがカトリシズムに抗して生まれたからでもある。以下、四捨五入しギリギリ丸めて記す。
 教会での告解や寄付、果ては贖宥状は神との取引であり神を冒瀆するものだ。神の絶対性を護るため、カルヴァンは予定説を唱える。救われるか否かは神のみぞ知る。あらかじめ予定されていて、人間の祈りや善行で予定は変えられない。神は人為の及ばない絶対者だ。つまり神への奉仕による救いを説き、教会信仰を強いるカトリックはインチキだと糾弾した。天国に迎えられるか否か、神がお決めになることが人間に判るはずはない。極めてラディカルだ。となると、「救いの不確実性」がでてくる。信仰が救いを保証しない。となれば自暴自棄になるか悪事に走るか、ケ-セラ-セラか。まず真面目な者なら大変な恐怖と不安に落ち込む。
 ここでカルヴァンはもの凄い回生策を打つ。神への奉仕(因)による神の救い(果)という因果を逆転させたのだ。救いという結果を示せれば、神への奉仕が達成され天国に選ばれたる者である証となる、と。救いの結果とは、隣人愛に生きる神の如き振る舞いである。果を体現できれば因は逆説的に証明できる。コペルニクス的転回だ。
 では、隣人愛の振る舞いとは何か。ここでもカトリシズムをひっくり返す。元来、働かずにいられた楽園を原罪によって追われたゆえの労働は天罰であった。勤勉や世俗の成功に宗教的価値はない。蓄財は忌むべき、賤しきことだ。しかし、カルヴァンは違うという。職業は神の与えた使命だとする「職業召命説」である。これで労働は天罰から奉仕へと変わった。またも逆転だ。浪費や贅沢を目的としない禁欲的労働は神の召命に適い、隣人愛の振る舞いとなる。だから富は神の祝福であり、蓄財により次の生業(ナリワイ)を拡げていくことが賞されていく。禁欲と勤勉、世俗的成功に重きが置かれていく。かくて資本主義は羽ばたいた。これがマックス・ヴェーバーの洞見である。
 そこでだ。キリスト教では諸派によりギャンブルの是非は別れる。それは措く。どうでもいい。イシューは「禁欲的労働が資本主義を駆動した」とすれば、はたして『欲望的遊楽』は資本主義を駆動するだろうか、ということだ。可とするなら、如上のマックス・ヴェーバーによる『プロ倫』は完全に論理破綻する。敢えていうなら、楽園への回帰、幼稚な先祖返り、悲しい退嬰化であろうか。プロテスタンティズムにより駆動した資本主義がカトリシズムをさらに遡り、挙句『創世記』にまで戻るとしたら完璧な自己崩壊ではないか。しかしなぜ、シンガポールは健在なのか。IR、隆盛なのか(近年、そうでもないというが)。それは歴史のパースペクティヴだ。早晩、瓦解する。なぜなら、『欲望的遊楽』は資本主義を駆動しないからだ。キリスト者にあらずとも知れきったことではないか。それに日本が追随してどうする。なにより、博打に“成長戦略”を賭ける事自体が博打ではないか。すでにしてアホノミクスの連中は重篤なギャンブル依存症と診ていい。ギャンブル依存症536万人の筆頭にちがいない。この点、直前にまたも逮捕されたAクンが実に印象的に重なる。絶妙なタイミングに一驚を喫した。なお、依存症への脳科学からの分析は中野信子先生の高説を引いて一稿を呵しているので瞥見願いたい(14年5月「Aクンの勘違い」)。
 今国会3度目の強行採決。アンバイ君が気持ちを込めて歌いかける。
   〽迷わずに SAY YES 迷わずに
 たぶん音程は外れているだろうけれど。 □