さすがアンバイ君が見込んだ才女である。今月25日衆院予算委員会でも実にそつがない当意即妙の答弁であった。ただそれが大きな墓穴を掘ることになったとは当の本人がまったくお気づきではなかった。それが憐れである。今まで何度も徴してきた思想家・内田 樹氏の達識を引きたい。
〈「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」 この古諺は官人というのは、「潜在的なドロボウ」とみなされているから、そのつもりで挙措進退を心がけるようにと教えている。あなたたちは「いつでも容疑者」なのだから、そのつもりで常住坐臥、ふるまい方に人一倍気を付けなさいと言っているのである。
通常の法諺は「疑わしきは罰せず」であるが、役人や政治家にはこの原理は適用されない。官人は「疑われたら罰される」。「疑われたら、おしまい」という例外的なルールが適用されるのは、官吏や政治家は「市民」ではないからである。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう。官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。レフェリーたる公人は「ゲーム」に参加することは許されない。
本人が「私は知りませんでした」といくら言い張っても、「知っていたと想定された」場合、それは「知っていた」と同じことである。なぜなら、公人とはまさに「想定される」という仕方でのみ機能する社会的装置だからである。
公的過程とは、「ほんとうは何が起こっているか」ではなく、「何が起こっていると想定されているか」という水準で展開する。これが「李下に冠を正さず」の古諺に託された人類学的洞見である。「知性があると想定し」、「正しい決断を下す判断力があると想定し」、「高い倫理性を備えていると想定」した上で、私たちは彼らに権力と情報を集中させることに同意している。だから逆に言えば、政治家は実際に有能である必要も有徳である必要もない。「有能有徳であるように見えれば」それでOKなのである。官僚は清廉である必要も能吏である必要もない。「清廉にして怜悧であるように見えれば」それでOKなのである。民は「太っ腹」である。〉 (「期間限定の思想」から)
この才媛は「官人は『疑われたら罰される』。『疑われたら、おしまい』という例外的なルール」についてまったく無知であった。瓜田に履を納れた刹那、すでにOUTなのだ。瓜田とは知らなかったとすれば無知が重畳するだけだ。恥の上塗りともいう。
さらに、そつがない当意即妙の答弁は李下に冠を『正している』というパラドックスに搦め捕られているという認識がまったくない。狡猾な盗人ほど言い訳は巧い。辻褄が合うほど冠を『正している』ことになる。これは致命的落ち度であった。だって、「他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかない」からだ。推定有罪に立つ以上、申し開きという「私権を認めるわけにはゆかない」。加えて「高い倫理性を備えていると想定」し、「有能有徳であるように見えれば」それでOKとする民の「太っ腹」をも裏切っている。罪深き所業だ。
併せて、アンバイ君が残したネポティズムの悪弊を指摘せざるを得ない。いかに伝来の慣習であろうとも、「他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかない」からだ。スッカスカ君は紛れもないその忠実な継承者である。付言すると、総理記者会見での『名』司会。記者には『迷』惑だったそうだが。あれは容赦のないマウンティングともいえる。『マウンティングおばさん』発見だ。
次に7万4千円である。高禄を食む霞ヶ関のトップ官僚が、なぜそんな『低廉な』接待を受けたのか? という疑問だ。欲を掻くのは人間の性(サガ)だが、高級官僚にとっては7万幾らかは子どもに与える駄菓子程度でしかない。本来なら、「子ども扱いするな!」と捨て台詞のひとつでも吐いて席を蹴るところだ。ところが彼女、彼らは易易として受けた。なぜか? それは彼女、彼らが『駄菓子』に目が眩んだからだ。その程度の『子ども』であったからだ。という訳は、成り上がり者は金など欲しない。貢がれるトポスを獲得したことに目が眩む。大人は地位との差引勘定ができる。危うきに近寄らず、だ。それができない者を子どもという。憐れだが、成り上がり者は退嬰化する。彼女、彼らは成り上がり者だったのだ。氏素性定かならぬ民草が刻苦勉励の暁に成り上がる唯一のコースは霞ヶ関官僚の道である。
再び内田氏の洞見を徴したい。
〈文化資本を獲得して社会的上昇を遂げようと望む人間が、どれほど禁欲的な努力によって教養やマナーを身につけても、「努力して身につけた」という一点において、その文化資本にははじめから「二流品」というタグが付いてしまっている。これは不条理なまでに屈辱的な経験である。そういう屈辱を味わい続けた人間がどういうふうにしてその不満を解消するか。それを想像することはそれほどむずかしくない。彼らは文化資本を獲得するために努力をしなかった人間、あるいは努力したけれど自分たちほどには獲得できなかった人間たちを徹底的に「見下す」ことでその屈辱を解消しようとするだろう。「生まれつきの貴族」は「庶民」を見下したりしない(そもそも眼中にないんだから)。しかし、「成り上がり貴族」は「自分より下の人間」を探すことに熱中する。「成り上がることを切望しながら、それを達成できなかった人々」こそは、彼らの「恥ずべき自画像」だからである。〉(「街場の現代思想」から抄録)
「生まれつきの貴族」は文化資本をもたない「庶民」を「見下したりしない」。ノーブレス・オブリージュが受肉化している。「二流品」という「タグ」がついた俄貴族、「成り上がり貴族」に限って「庶民を見下す」。貢がれるトポスを誇示することで「庶民を見下す」。そのために「『自分より下の人間』を探すことに熱中する」。それが利害関係者である。
かくして霞ヶ関は夜の帳に包まれ、虎ノ門界隈の高級レストランはさんざめく。その内、きっと……。嗚呼。 □
わが鄙を流れる大きな川沿いの道を少し遡ったところ、それはまるで梅の盛りに割り込むように咲いていた。名を河津桜という。大島桜と寒緋桜の交雑種で、紫紅(シコウ)と早咲きを特徴とする。七十余年前、静岡県河津町の住人が河津川河畔の雑草から原木を偶然発見した。それが名の由来となった。増殖され、やがて「町の木」ともなったが、樹勢劣化、病害虫、短い樹間による生育障害に見舞われ、土壌決壊の恐れが指摘されるに至った。そしてついに今世紀直前、河川法により河川区域での植樹が禁止された。不遇といえば不遇、薄幸な桜である。
わが雛の川津桜は十数本程度の櫛比が二列。明らかに植樹されたものだ。遠近(オチコチ)で春の先駆けよろしく今を盛りの梅、梅、また梅。そこに分け入り、そうはさせじと捨て身の陣破り。わが身の不遇を一気に晴らそうとするか。と、無粋な連想が跳んだ。
奈良時代、花見とは観梅であった。
東風吹かば匂ひをこせよ梅の花主なしとて春なわすれそ
菅原道真が自らの不遇を梅に託した高名な歌だが、平安初期でも梅は春の先陣であった。
諸説あるが、「さ」は穀物の霊、「くら」はその降臨の座。これが桜の語源という。田植えの前に催した豊作祈願の神事が花見の来由らしい。
空前絶後、史上最大の花見は慶長三年三月秀吉が主宰した「醍醐の花見」だ。京都醍醐寺三宝院裏の山麓に七百本の桜を植え、花見御殿を設け茶会、歌会が盛大に繰り広げられた。召し従えた女房女中衆約千三百人。二回の更衣が命ぜられ、計三着を新調。衣装代だけで三十九兆円も費やされたそうだ。慶長の役敗戦の鬱憤晴らし、あるいは虚勢を張ったか、痴呆の兆しか、見方は別れる。しかし平安貴族文化への空前絶後、史上最大のアンチテーゼだったといえなくもない。
近年、「醍醐の花見」とは似ても似つかない薄汚く小賢しい野心によって企てられた観桜の宴があった。八重桜であったため、季節違いの河津桜は難を免れた。それにしても、数奇な本邦文化に泥を塗り、侮蔑し尽くしたこの花見。「美しい国、日本」に名を借りた日本への不埒で下卑な冒瀆でしかない。 □
17日付朝日新聞。
〈藤井二冠、高校中退 「将棋に専念、気持ち強くなった」
日本将棋連盟は16日、藤井聡太二冠(18)=王位・棋聖=が名古屋大学教育学部付属高校(名古屋市)を1月末日で退学したと発表した。藤井二冠は「タイトルを獲得できた事で将棋に専念したい気持ちが強くなりました」とのコメントを出した。
棋士は10代でプロ入りすることも多く、将棋に専念するため高校を中退する例が珍しくない。〉
「珍しくない」とはいうが、それにしても後ひと月余である。なんとも勿体ない、そう独り言ちた。同感の士は多いはずだ。
そこで愚案した。彼の決断はその棋風そのままではないのか。彼の将棋について先輩棋士は語る。
「私の常識では評価できない。何が起きたのか分からないほどの強さだった」
と同時に、
「将棋を始めたばかりの子がやりそうな手」
だとも評する。要は常人を遙かに超えているということだ。時に見せる『奇手』。AIが6億手の中からやっと『最善手』と判断したこともあった。羽生善治氏は藤井将棋を『光速の寄せ』と括る。
だから藤井二冠の決断は傍目には「何が起きたのか分からない」し、「子がやりそうな」振る舞いで、AIを凌駕する『高速の寄せ』があったのではないか。どこに寄せたのか? 曇を抜いて遥か高々と屹立する棋界の頂への登仙。そこしかあるまい。
天才・藤井。頭の中を覗いてみたいが、代わりのIQは計測したことがないそうだ。因みに羽生氏は150。おそらくそれを上回る値であろう。それよりも、社交性の低さと驚愕すべき集中力の高さからアスペルガーを指摘する声は少なくない。もちろん藤井二冠にそんなことはないが、エジソンもアインシュタインも学校では落ちこぼれだった。天才のカテゴリーには同類が際立って多い。きっと、藤井二冠には巷間さんざめく「勿体ない」は理解不能であるにちがいない。
もっと多くの学識をとの意見もあろうが、学歴はなくともそこら辺に数多いる「東大王」の学識なぞあっという間に斥けるだろう。なんせ、「東大王」とはモノが違う。
と、愚案の末は快哉。聡太くんに大拍車だ。 □
■ 本気で発信する気はあるのか?
「いよいよ新型コロナウイルス対策の『切り札』と言われるワクチンの接種が始まるので、ベネフィットとリスクを正確に理解した上で、多くの方に接種して頂くことを期待したい。」
河野太郎“ワクチン接種”担当大臣の2月16日の会見。「しっかり発信」が十八番だが、果たして「ベネフィット」が判る国民は何割いるか? 特に接種2番手の高齢者は厳しい。ペダンティズムであろうか、意を発したいのであれば、満遍なく届く言葉を使うべきだ。そういうお前の投稿もずいぶんカタカナ語が多いなとツッコミを入れられそうだが、公人の会見と市井のディレッタントでは立場が違う。
■ すったもんだで橋本聖子
かつてシンキロウ前会長は「組織委員会は興行元」と語ったことがある。本質を穿った発言だった。IOCは国連の下部組織でも公的機関でもないただの民間団体だ(この件については19年11月の拙稿「憎まれ口3つ」で述べた)。その下請けがJOCであり組織委員会である。くだくだ条件など付けずに、興業なんだからいっそ知名度抜群の松田聖子でいいじゃないか。
■ 「を」入れの氾濫
本稿でも引いた言語学者の野口恵子氏が敬語の過剰な多用が謙譲語の混乱を招いたと批判している。「○○様とお会いをいたしました」は「お会いいたしました」でいい。最近、この傾向が政治家や官僚に際立って多い。
〈新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見
緊急事態宣言の対象に7つの府県を追加すること『を』決定いたしました。〉(首相官邸HPから抜粋)
「追加すること『に』決定いたしました」ではないか。
〈閣議の概要について申し上げます。一般案件等80件、政令、人事が決定をされました。〉(昨年10月2日、官房長官会見)
〈それほど大きな時短『を』協力していただいたわけではないのかなと思います〉(本年1月29日、西村内閣府特命担当大臣会見)
これも『に』だろう。
馬鹿っ丁寧が度を超して、付けなくていい「を」を付ける。安全運転のつもりが飛んだ墓穴だ。ビジネス言語が国政の場で濫用される。コマーシャルベースそのままだ。会社は潰れたって責任は有限。一国は潰すわけにも合併するわけにもいかない。責任は無限だ。背景にはなにより、政治が市場原理に呑み込まれ株式会社化しているという趨勢がある。昨年12月の愚案「ウソつきはアベシンゾウのはじまり」で呵した通りである。
■ 『うっせぇわ』
女子高生シンガー“Ado”のデビュー曲。Youtube配信以来約5ヶ月、再生回数は優に6500万回を超える。小中学生就学生が絶唱し、わ(若)けー連中絶叫する。
〽うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ! あなたが思うより健康です!
なんとも攻撃的だ。コラムニストのオバタカズユキ氏は内容には共感できないものの、「ドスの効いた低音から繊細でソフトな高音まで、何種類もの発声法を使い分ける豊かな表現力が、聴く者の感情を揺さぶってくる」と歌唱には好評価を与える。
団塊のこの爺は歌声と内容の双方を絶賛する。もちろんコロナの鬱憤が共振しているのだろうが、70年代フォークが二重写しになる。装いは新しいものの、吉田拓郎が『君去りし後』で牙をむいた「味噌汁みたいな恋唄」が瀰漫するミュージックシーンは今もって変わりはない。『人間なんて』の果てしないリフレイン、spirit of resistance。後生畏るべし、ではないか。
■ あっぱれ! 島根県知事
「東京都や政府の対応が変わらない限り、知事として(県内の)聖火リレーの中止を検討する」
理由については、
「感染拡大を問題のない範囲で抑える対応が東京都というエリアでできていない。(五輪をきっかけに)再び感染拡大が生じる可能性が高い。現状では五輪を開催すべきでなく、そのプレイベントである聖火リレーも県として協力することはできない」
と涙ながらに訴えた。差し違い覚悟、開催中止を公言したところに凄味がある。一寸の虫にも五分の魂。痩せ腕にも骨。蛞蝓(ナメクジ)にも角。保守王国で中央に楯突く、その意気やよし。
アンバイ君のレガシーづくりとカネに塗れた五輪など中止どころか、返上すればいい。アスリートたちには当該種目の世界大会で覇を競ってもらい、それをIOCとして金銀銅のメダルを授与する。それでいいではないか。
■ ワクチン有効性95%の誤解
「100人打ったら95人が発症しなかった」はまちがい! 以下、Yahoo newsより引用。
〈有効率とは「ワクチンを受けていない場合の発症者数を100として、その人たちがワクチンを受けていたら発症者数はどのくらい減るか?」という意味だ。ワクチンを受けたことで発症者は100から90に減るのか、50に減るのか、あるいはもっと減るのか。これが有効性となる。
ファイザー社の公表している臨床試験の結果を例に説明をしてみたい。 臨床試験に参加した約4万3000人を均等に2つに分けたと仮定すると、それぞれ感染して発症した患者の人数は、ワクチンを打たなかったグループでは162人だが、ワクチンを打ったグループでは8人と劇的に少なくなっている。この数字で有効率を計算すると、計算式は以下のようになる。
有効率=1-(8 ÷162)=0,9506≒約95% 〉
したがって、「ワクチン接種の発症率が、非接種発症率より95%減った」が正確な言い方。心理的効果や自然治癒を除くためプラセボと比較する。でなければ比較ができない。
永田町のお化け屋敷も、働き具合を調べるにはプラセボが要るのだが、いつの間にかプラセボだらけになっちまったようだ。
■ これもプラセボかい!!
大村愛知県知事リコール署名43万5千筆の内8割36万2千筆が偽造と判明。首謀者はあの高須クリニックの高須克弥院長。お得意のヘリコプターにでも乗って運んだものか、一部はなんと佐賀県で偽作された。その他アルバイトも使い、県民の名をひたすら書き写させたらしい。なんせ同じ筆跡が次から次と並んでいたそうだ。プラセボ署名を平気で提出する医師とはオツムがどうなってるのか、生物学的興味をそそる。
ネトウヨを自称するこの院長、東浩紀氏の「あいちトリエンナーレ2019」がよほど気に障ったものか。尻馬に乗った河村たかし市長は事がバレると他人事のような対応。
名古屋城の金鯱が「おみゃーら、それはにゃーぞ」と呟いたとか呟かなかったとか。
そういえばまたぞろ自民党にプラセボ議員が現れた。今月10日、白スカ先生が麻布「高級ラウンジ」に若い女性を伴って入店。こういうのは入店じゃなくて入院した方がいい。
てなことでデドックスはできたようだ。失礼いたしやした。 □
発病以来20数年間、施術回数24回。凄絶を極める病との戦いの末に畏友は逝った。すぐに追っつくとは言い条、なんとも口惜しい。
3歳年下ではあったが、彼もまた人後に落ちぬ拓郎のファンだった。手術のたび、局部麻酔のオペや術後のICUでのBGMには決まって拓郎を請うた。担当医も看護師も、数々の拓郎の曲が耳朶に残って心去り難いという。建物を堅固にする補強材から「筋金入り」は生まれた。周りをも拓郎ワールドに惹き込んだ彼こそ筋金入りと呼ぶに相応しいファンだ。
昨秋入院する際には後の段取りを家族に言い渡し、葬儀場の下見をして葬送の曲まで決めていたそうだ。すでに肚を括って、病院の門を潜ったにちがいない。葬礼の会場を満たしたのは、
〽 私は今日まで生きてみました
『今日までそして明日から』だ。
〽 そして今 私は思っています
明日からも こうして生きていくだろうと
「明日からも」がこころに重い。遣り切れないほど重い。切るに切れぬほどせつない。
青春の生意気な達観が「明日から」がない痛烈な現実に、今、否応なく向き合う。開き直ったか、それとも次の生を開悟していたか。棺の顔は安らかだった。
ファンとは古来「贔屓」と呼んだ。「盛んに力を使う」の謂をもつ中国語だった。本邦では「重いものを下で支える」との意味が加わった。“fan”はファナティック(fanatic)の略語だ。似てはいるが、下支えを含意する贔屓が好ましかろう。
同道した幾たびかのライブが目に浮かぶ。彼はいつも仰けからのスタンディングだった。生き様に重なる。
〽 僕等の夢は 思いのままに
歩き続けて 行っただろうか
・・・・
欲しかったもの達に 届いたのでしょうか
走り抜ける風を つかめたのでしょうか
弔いの帰り道、『アゲイン』が頻りに浮かんだ。いつも通った曲がり角に来た時、だれかの手を離れた風がそっと傍らを走り抜けた。……まぼろしか。
振り返ると、寒空のもと道はしんとしていた。 □
シンキロウ爺さんのマウンティングについては前稿で述べた。同類である一階の上爺さんがどうレスを返したか、ここを書き足しておきたい。それは見事な連係であった。以下、報道から。
8日の記者会見──
〈二階幹事長は「森会長には周囲の期待に応えてしっかりやっていただきたい」と語り、辞任の必要ないと強調。さらに森氏の発言を受けたボランティア辞退の動きを「瞬間的」とし、「どうしてもおやめになりたいということだったら、また新たなボランティアを募集する、追加するということにならざるを得ない」と語った。〉
9日の会見──
〈二階幹事長は、自らの前日の発言について「特別深い意味はない」と語った。改めて森氏の発言は不適切か問われたが、「内閣総理大臣を務め、党の総裁であられた方のことをあれこれ申し上げることは適当ではない」と答えるにとどめた。〉
さすがは一階の上爺さん。堂々たるマウンティングである。ところがに三羽ガラスの片割れ・アッソー爺さんは、
「国益に沿わないことははっきりしている」と指摘したそうだ。テメーの子分どもが銀座の夜遊びで処分された直後ゆえ殊勝な発言に留めたのか、なんとも腰が引けている。一階の上爺さんの発言については言及なし。
ここまでは予測の範囲内であった。一方、心胆を寒からしめたのは次の2氏だ。
山下泰裕 JOC会長(63)──
〈森会長をたしなめる動きがなかった点について、「『ん?』と思った部分もあるが、指摘する機を逸してしまった」と回答〉
したそうだ。これは聞き捨てならない。いうまでもなく山下泰裕といえば世界的に高名な柔道家である。機を逃さぬが武道の骨法ではないのか。それを「機を逸してしまった」では申し開きができぬ。柔道をスポーツ一般と同等に扱うおつもりなのか。それは違うだろう。
平成20年、中学校で柔道を必修化した目的を文科省はこう述べている。
〈武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化であり、相手の動きに応じて、基本動作や基本となる技を身に付け、相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です。また、武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です。〉(文科省HPより)
「固有の文化」であり、「相手の動きに応じ」「攻撃」「防御」すると謳う。機を逸したとは、柔道は実社会では役に立たないと山下氏が宣言しているに等しい。
野田聖子自民党幹事長代行──
シンキロー発言には「いまの世界の時代の枠組みからすると間違った発言だ」と批判したものの、当の一階の上爺さん発言には「言い間違いというか、うまく伝えられなかったのではないか」と述べるにとどめた」そうだ。これもおかしい。お馴染みの幹事長記者会見の絵面(エズラ)を想起してほしい。いつも傍らに控え、守りを固めている。山下氏同様、「『ん?』と思った部分もあるが、指摘する機を逸してしまった」のであろうか。それとも『ん?』とも気づかなかったのか。だとすれば、両爺さんへの対応に公平を欠く。いままで女性活躍担当大臣を歴任してきたのは何だったのか。辻褄が合わないではないか。今の親分には何も言えないのだとすれば、ジェンダーフリー以前の人倫に悖る。
……てなわけで、オリンピックにまたしてもケチが付いたお話でした。 □
先月23日、「マウンティング爺さん」と題してアッソー爺さんと一階の上爺さんを取り上げた。ここに来て、もう一人、大物がやにわに現れた。シンキロウ爺さんだ。
引用した内田 樹氏の言説をおさらいしておこう。
① 自分は偉いので例外的な扱いを要求できると思っている幼児的なオヤジ
② ネタは普通の人なら社会的制裁を受ける非常識なことであれば何だっていい
③ 自分は社会的制裁を受けないという事実を人々に誇示したいだけ
④ 図々しくて下品という以外ない
この4つがマウンティング爺さん」の際立った特性である。
① はシンキロウ爺さんを会長に据えたアンバイ君自身がそうである。桜を見る会がその典型であった。「幼児的」については後で。
② はちょいと込み入っている。現役世代には非常識であっても爺さん世代には常識的であるからだ。「草食系男子」という同性を呑め込めないと同等に「肉食系女子」をも呑み込めない世代であるからだ。かつての「神の国」発言は論外として、今回のネタは世代に起因するといえなくもない。世代を超える偉人は滅多にいない。ましてや、それをこの爺さんに望むのは無い物ねだりだ。
③ の思惑は外れたとみていい。だが、ここに来てリコールはできないだろう。その意味では狙い通りだ。首相としての実績は皆無だったにしても、人脈や調整力のリソースは侮れない。会長の立場が決してお飾りではないことを忘れてはいけない。
④ この爺さん、「面白おかしくしたいから聞いてるんだろ?」と謝罪会見で逆ギレした。内田 樹氏はこう言う。
〈腹の据わった政治家なら、ジャーナリストに痛撃されても「いや、これは一本取られた」と苦笑して済ませてくれるかも知れませんけれど、当今の政治家にそんな度量は期し難い。他人に批判されると「切れる」という点では中学生とあまり変わりがありません。〉(「コモンの再生」から抄録)
① の「幼児的」とはこのことだ。加えて、加齢による頑迷がある。KYも避けがたい。そう開けて通すのも人権的配慮であることを当のジャーナリストは心得ておいた方がいい。ただこの爺さん、アッソー爺さん、一階の上爺さんと違い謝罪はした。渋々であろうが、それはした。そこは嘉したい。
繰り返すが、シンキロウ爺さんを会長に据えたのはアンバイ君である。それを不問に付してはならない。任命責任は免れない。後任にアンバイ君をとの声があるそうだが、飛んでも八分歩いて十分。藪蛇も極まれりだ。口では「すべての女性が輝く社会づくり」なぞと嘯きながら、やってることはこれだ。マスコミはなぜそこを突かない。中途半端もいいとこだ。
さて、② で「肉食系女子」を引き合いに出した。そのような衡量自体が上から目線であり、今や非常識だとのクレームを受けるかもしれない。パターナリズムの異臭を与えそうだ。しかし、稿者とて団塊の世代の欠片である。時代を超える偉人の素質は毫も持ち合わせない。はっきり言って、古き良き時代のパターナリズムに郷愁を抱く1人だ(同類は多い。多分)。それに第一、「草食系」というコピー自体15年前にある女性編集者が創案したものだ。後、男子・女子がくっ付いて定番化した。これらの乱暴なカテゴライズは女性が先鞭をつけたともいえる。言い訳ではなく、歴史的事実として……。
因みに「シンキロウ」とは田中真紀子女史による命名である。蜃気楼は空気が層をなして温度差がある時に発生しやすい。世間ズレした実態なきものと扱き下ろしたのであろう。巧い! この爺さん、今もそのまんまといえそうだ。 □