以下が基本形である。
A:ラッスンゴレライ ラッスンゴレライ
ラッスンゴレライ 説明してね
B:ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん ラッスンゴレライってなんですの?
説明しろと言われましても 意味わからんからできまっせーん
A:ラッスンゴレライ ラッスンゴレライ
昨日の晩飯 ラッスンゴレライ
B:ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん ラッスンゴレライって食べ物なん?
晩飯ゆうてもジャンルはひろい 肉 魚 野菜 どれですの?
A:ラッスンゴレライ ラッスンゴレライ
買ってる犬がラッスンゴレライ
B:ちょっと待てちょっと待ってお兄さん 嘘はついたらいけませーん
買ってる犬がとか言うてたけど お兄さん犬こうてへんや~ん
A:ラッスンゴレライ ラッスンゴレライ
キャビア フォアグラ トリュフ スパイダーフレッシュローリングサンダー
B:ちょちょちょっと待ってお兄さん ちょっとー! お兄さん!
そこラッスンゴレライちゃいますのん?
意味わからんからやめてゆうたけど もうラッスンをまってマッスン
A:スパイダーフレッシュローリングサンダー スパイダーフレッシュローリングサンダー
電車の中でスパイダーフレッシュローリングサンダー
B:ちょちょちょちょっと待ってお兄さん! だからラッスンゴレライゆうてーなぁ。
スパイダーフレッシュローリングサンダーってプロレス技かなんかですの?
A:スパイダーフレッシュローリングサンダー
サウジアラビアの父さんとインドからきた母さんの間に生まれたお前の名はラッスンゴレライ
B:ちょちょちょっと待ってお兄さん おれサウジとインドのハーフちゃう
日本の父 日本の母 その間に生まれたオレはジャパニーズピーポー
A:飽きたからもうおしまい!
B:ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん……
年明けから一気にブレークした“8.6秒バズーカー”のネタである。ラップとダンスと漫才のハイブリッドとでもいおうか、耳について離れない。近頃手拍子を打ちながら「ラッスンゴレライ」と連呼しては、家人に白い目で見られている。クマムシの「あったかいんだからぁ」もあるが、深さがまるで違う。「あったかい」といってみても、温かいか暖かいかのどちらかでしかない。それがどうしたというのか。一昨年の「今でしょ!」などという、エコノミックアニマルが突如息を吹き返したかような身も蓋もない下世話な言葉より「ラッスンゴレライ」がどれだけ美しく深遠であることか。ロハでアメリカの傭兵を引き受けたご褒美にあめ玉をしゃぶらせてもらう(両院合同議会で演説をコくそうな)どこかの首相の英語スピーチ(母国語で語らないところがいかにも隷属的だ)などとは比較にならない高尚ささえ漂う。だから、早いがもうすでに今年の流行語大賞はこれに決まりだ。
さて、その意味だ。
“8.6”がヒロシマで、Lusting God laid light が「ラッスンゴレライ」だという超無理筋もある。出自は反日だとの都市伝説風のあらぬ誤解も乱れ飛んで、遂に封印するらしい。まことに惜しい限りだ。実は、意味はない。ネタに呻吟する中で、たまたま浮かんだフレーズらしい。オノマトペか合いの手の類いといえる。参考までに、以下の頭の体操をお願いしたい。
◇ある晴れた日に、ある船が飲料水に困って小さな島に接岸した。この島には、正直族と嘘つき族とがいて、正直族はかならず正直に話し、嘘つき族はかならず嘘をつく。が、見かけ上はどちらとも区別がつかない。また、日本語はわかるが、この島の言葉しかしゃべれない。そこへ上陸した船員が一つの泉を見つけた。しかし、この水、はたして飲めるかどうかわからない。ちょうど一人の土人がいたので尋ねてみた。
「きょうはいい天気だね」─「メラターデ」
「この水は飲めるかい」─「メラターデ」
この「メラターデ」という言葉は、島の言葉の「はい」か「いいえ」のどちらかというだけはわかっているのだが、はたして、この水は飲めるだろうか。<制限時間・1時間>◇(光文社、多湖 輝「頭の体操」2より)
「メラターデ」の意味は詮索不要だ(きっとデタラメの逆)。「ラッスンゴレライ」と同類である。「雨降りの日」でも、否定の問いかけでも構図は同じだ。カギは正直族にせよ嘘つき族にせよ、2つの問に同じ言葉を返していることだ。言葉の両義性を逆手に取った“体操”である。この伝でいくと、如上の揣摩憶測はこの「頭の体操」にまんまと嵌められた好個の例といえる。
拙稿から内田 樹氏の卓見を孫引きする。
〓内田 樹氏が『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)で、氏が名付けた「あべこべことば」を語っている。
◇例えば、「いい加減」。「湯加減どう?」「お、いい加減だよ」というときは「程度が適当である」ということですね。「いい加減な野郎だな、お前は」というときは「程度が不適当である」ということですね。挙げればきりがありません。でも、これは日本語だけじゃないんです。古今東西世界中のどんな言語にも、まったく正反対の意味をもつ語というのがあります。◇
では、なぜか。
氏は「コミュニケーションにおいて意思の疎通が簡単に成就しないように、いろいろ仕掛けがしてある」という。その典型が「あべこべことば」だ、と。これは意外な展開だ。
◇コミュニケーションを駆動しているのは、たしかに「理解し合いたい」という欲望なのです。でも、対話は理解に達すると終わってしまう。だから、「理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい」という矛盾した欲望を私たちは抱いているのです。コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやりとりすることそれ自体ではないのでしょうか? おそらく、コミュニケーションはつねに誤解の余地があるように構造化されているのです。うっかり聞き間違えると、けっこう深刻な影響が出るように、ことばはわざとわかりにくく出来上がっているのです。私たちがコミュニケーションを先へ進めることができるのは、そこに「誤解の幅」と「訂正への道」が残されているからです。◇(昨年10月「『陰性』!?」から抄録)〓
なにより証拠に、
A:飽きたからもうおしまい!
B:ちょっと待ってちょっと待ってお兄さん……
と捌け際、Aは「絶対教えん」と言う。「『理解し合いたいけれど、理解に達するのはできるだけ先延ばしにしたい』という矛盾した欲望」を極めて端的に表している発言といえよう。
もう一つ。言葉の空洞化。情報量とは裏腹に言葉が痩せ衰えていく刻下の事況。“スタンプ”はその好例だ。「ラッスンゴレライ」は言語がスタンプ化する病徴であり、同時に病識でもあるのか。後者だとしたら、シニカルな警鐘といえなくもない。だから、なおのこと流行語大賞にふさわしい。 □