伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アン ミカの意味

2021年07月05日 | エッセー

 テレビでの第一印象が悪かった。聞けばモデルだという。そのくせ、一端の口を利く。芸名なのかアン ミカとはへんてこりんな名前だ。聞くところによれば、韓国済州島からの移住者で極貧から身を起こし今や大層なセレブらしい。
 大阪府立高校を卒業しフランスへ移住。パリコレデビューの後、韓国延世大学に留学。さらに韓国名誉広報大使となり、アメリカ人の実業家と結婚。モデルの他にタレント、ジュエリー・ファッションデザイナー、化粧品プロデュース、エッセイ執筆や講演、シンガーとマルチな活躍と、おまけに資格が21。その才媛ぶりには舌を巻く。
 興味深いのがボンビーガール時代のエピソードの数々。いくつかまとめてみる。
  4畳一間のアパートで7人暮らし。トイレと風呂は共同で、家主が留守の間に急いで済ませていた。
 夜中3時にリュックを背負って手にビニール袋。子どもたちだけで3駅分を歩いて、市場へ。売れ残りを恵んでもらった。
 その時のスイカの味が忘れられず「スイカが食べたい」というと、母親が取っておいたスイカのタネを出してくれ、ずっとしゃぶっていた。スイカの皮は身体を洗うのに使った。
 鼻を骨折した時は夜中病院に行き、入り口前にドクターを呼んでただで処置を聞き、割り箸を副え木にして自力で治した。
 もちろんテレビなし。家は2度全焼の憂き目に。中学生の時、母親をガンで亡くしさまざまなバイトで家族を支えた。
 友人とお好み焼き屋に行った際には金がないため、ひとり醤油を焼いた。「(焼いた)醤油ってペリペリペリってやるとすごいおいしい」と美味そうに食べた。おまけに、興味を示した友だちのお好み焼きとトレードした。
 などなどだ。壮絶というか、驚嘆し、呆気にとられる。多少盛ってはあるだろうが、貧すれば鈍するどころか貧にして楽しむである。レジリエンス、ここに極まれりだ。
 揣摩するに、彼女は事の半分を語っていない。差別だ。彼女だけが例外的に差別を受けなかったはずはない。漫画家のヤマザキマリ氏と脳科学者 中野信子氏との対談でこんなやり取りがあった。
〈ヤマザキ 人はやはり不条理をどれだけ感じてきたかで、その成熟度が変わってくると思うんです。寧を許されない環境に生まれれば、子どもは無知を極めていくか、成熟するかどちらかしかないんじゃないかと。
中野 養子に出された子のほうが知能が高いというリサーチがあります。
ヤマザキ たとえば、とっさに思いつく例で言うと、スティーブ・ジョブズとレオナルド・ダ・ヴィンチは、ふたりとも私生児でした。ジョブズは養子として育てられ、レオナルドは養子ではないですが直接的な母の愛情は受けず、自分たちが一般的ではない、理不尽な環境に生まれた、ということを子どものころから容赦なく自覚させられてきたわけです。〉(「「生け贄探し──暴走する脳」」から抄録)
 アン ミカの驚異的なレジリエンスには不条理とそれへの応戦という力学が働いたのではないか。語らない半分にはそれが潜んでいると見ていい。
 彼女に限らない。同じ半島の出身者は理不尽な差別を受けてきたし、今もって受け続けている。彼らは異境でどう生き抜いたか。思想家 内田 樹氏は今年初めの講演会でこう語った。
〈ユダヤ人は(アメリカの既存社会にとっての)ニューカマーとして排斥されたが、既存の産業ではない金融とジャーナリズム、ショービジネスを作り出し自立していった。
 彼らは黒人に同情しない。ユダヤ人のように人種差別を乗り越えて成功すればいい、そう主張する。だから、未だにブラックライブズマター止まり、つまり入口止まりなのだ。〉
 同じ被差別者であっても「ユダヤ人は黒人に同情しない」。黒人奴隷は15世紀大航海時代以来だが、ユダヤ人が祖地を追われたのは2千年前に遡る。迫害への応戦は中世では金融だった。シェイクスピアは『ヴェニスの商人』にそれを描いた。近代アメリカではそれにジャーナリズムとショービジネスが加わった。アン ミカの同族はジャーナリズムは措くとして、金融とショービジネスはそのまま符合する。アン ミカの極貧カムアウトにはユダヤ人に通底する民族的誇りがあると見ていい。稿者が第一印象で捕らえたある種の高高しさはそれではなかったか。彼女は配偶者に日本人を選ばなかった。縁は異なものとしても、視線はこの小さな国を遥かに飛び越えていた。そう見ていい。
 元気のない日本人をインスパイア。アン ミカの意味はそれだ。 □