伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

芸は身を滅ぼす

2009年06月30日 | エッセー
 06年10月27日、わたしは以下のように苦言を呈した。いや、愚癡をこぼし、能書きをたれた。

〓〓いまは亡き国民歌手・三波春夫は言った。「お客様は神様です」と。(略)叩き上げの芸人にしてはじめて言える言葉であろう。いま、かれらは客をなんと呼ぶか。「一般人」と言って憚らないのだ。そして、自らを「タレント」と称する。タレントの原義は才能である。裏を返せば、場違い、勘違いの選民意識が臭ってこないか。「セレブ」などとカタカナで丸めたとて同じことだ。余計臭う。
 一体いつから、こんな逆転現象が生まれたのか。徳川初期、京都の四条河原で興行したことから歌舞伎役者を「河原乞食」と呼んだ。芸人の起源である。生産に携わらない『虚業』のゆえであっただろう。時代は下り、近代、現代にいたりマスメディアの発達とともに逆転は露わになる。特にテレビメディアの浸透が拍車をかけた。さらには芸の稚拙化、一般化、大衆化がすすみ、客との境も揺らいでいる。または、大衆芸能や座敷芸、素人芸がテレビメディアに入り込んできた、という見方もできる。テレビは舞台と客席の段差を取り除き、同じフロアーにしてしまった。プロとアマ、ジャンルの違い、まさにバリアフリーだ。〓〓 (「お客様は神様です!」より)

 3年経った。 …… 事態はいよいよ病膏肓である。かつて全盛を誇った『バラタレ』から、『バカタレ』をまじえつつ、今や『お笑い(芸人)』がテレビメディアに跳梁跋扈している。いな、完全に席巻しているといってよい。
 バラエティーはもちろん、クイズ、旅、ドラマ、トーク、歌、ものまね、はては報道、教養まで、見かけない番組はない。
 背景にはネットを軸にしたメディアの構造変化がある。煽りをくってテレビ業界は長期低落傾向にあり、経営的問題に向き合わざるを得なくなった。コストダウンとくれば、一番手っ取り早いのは人件費の削減だ。そこにお笑いの起用、多用が生まれた。なにせ彼らは何でもやる、かつ安い。とっかえひっかえ使い捨て可、供給源は余るほどある。視聴率も稼げる。かくて渡りに船となった。
 膏肓の一端を挙げると ―― お笑いの歌唱をお笑いが審査する、お笑いによる『余興大会』。芸人ではないお笑いの家族までがしゃしゃり出て、『学芸会』を演ずる『超悪ノリ』家族団欒番組。楽屋落ちを白日の下に晒し、ネタ替わりに笑い倒す与太ばなしトーク番組。馬の骨を棚に上げて、半生記なるものをドラマ仕立てにする無理矢理紅涙絞りまくり成功譚。はては時事問題のコメンテーター。毛色の違う感性が重宝されるのではあろうが、洒落のめすのがお笑い芸の本道のはず。血相変えて語るほど、艶消しになってしまう。とんだお笑い種(グサ)だ。軽薄短小、極まれりだ。極まった末が、総裁の座をねだるすげー元お笑いが出てきた。どこかの政党もえらく虚仮にされたものだが、何のことはない、赤絨毯への踏み台にされる某県県民はすげー可哀想だ。人寄せパンダのとんでもない勘違い。洒落にもなんにもならない。いままだ梅雨の真っ最中、お化けの出る時季でもあるまいに …… 。
 もとより職業に貴賎はない。職業選択の自由は基本的人権のひとつであり、日本国憲法第22条第1項に高らかに謳われている。しかしそれでもなお、分(ブン)はあるだろう。自由は常に義務に裏書きされているからだ。だから越えてはならぬ範(ノリ)があるのではないか。なぜなら、「お客様は神様」である。キミたちのつまらぬ芸に笑ってくれ力を与え給うた神々を足蹴にし冒涜しては人の道を外れる。大いに外れる。『お笑いの、お笑いによる、お笑いのための』番組程度ならまだよい。資源の無駄遣いにはなるが、見なければいいだけのことだ。毒性は薄い。それぐらいの外れなら目をつぶろう。だが、外れついでに、外れ先に総理のイスを用意せよとは、いくらなんでもお天道様が赦すまい。そんなことのために神々は谷町をしてくれた訳ではあるまい。

 先日、本棚を片付けていたら、黄ばんだ「KAPPA BOOKS」がポロンと落ちた。荷物は担いでも験(ゲン)は担がないのだが、なにやら因縁めいてつい開いてみた。
 三島由紀夫著「葉隠入門」(昭和42年、光文社刊)である。懐かしさのあまり、滂沱の涙に眩(ク)れながら読み返した。

 頃は江戸中期である。「『葉隠』は太平の世相に対して、死という劇薬の調合を試みたものであった。」(前掲書)「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」が、その「調合」された「劇薬」の正体である。
 それはさて措き、40余年振りに釘付けになった箇所がある。

〓〓芸は身を滅ぼす
 芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるる様に心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つなり。この当り心得べき事なり。(聞書第一)
 『葉隠』が口をきわめて、芸能にひいでた人間をののしる裏には、時代が芸能にひいでた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。
 現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡(でく人形)となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。
 現代はテクノクラシー(技術者の支配の意)の時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクション(機能)にみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると、『葉隠』の芸能人に対する侮蔑は、胸がすくようである。〓〓

 太平の世にはアナロジーがあるらしい。三島の時代観は著者・山本常朝のそれにぴったりと重なっている。
  ―― 芸は身を滅ぼす ―― のである。
 為政者、権力側というトポスを今に準(ナゾラ)えれば、もののふ(武士)とは政治家であろうか。主君たる民草のために一命を捧げるのが、もののふの本義である。ただその一心だけでよい。ほかには、何も要らぬ。「一芸」に身も心も囚われて、本義を忘れてはならぬ。「芸者」になってはならない。芸はもののふの身を滅ぼす。 ―― そう常朝は、太平ならばこその「劇薬」を処方したのだ。
 芸能者が一芸に長ずるのは当然である。ならばこその芸能者である。しかし、もののふはちがう。芸を捨てねばならない。「心懸くべき」は、「何某は侍なりといはるる」ことだ。現代のもののふにメタモルはしたものの、いまだに芸が抜け切らぬどころか、芸を振り撒いて恥じぬ元お笑いクン。今度はどこの人寄せパンダになるおつもりか。
 アナクロニズムと嗤うなかれ。知名度にほだされてタレント議員なるものを量産し、起立要員として使い回し、やがて用済みにする。永田町自体が「芸」に血道を上げて、挙句、身を窶(ヤツ)してきたのが、あの町の偽らざる歴史ではないか。ために、あの町の劣化は見るも無残だ。さらに性懲りもなく、今度はお笑い議員が御所望なのであろうか。もののふどころか、お笑いが赤絨毯で蠢動する日がやがて来ないとも限らない。
 「芸は身を助くる」など、よその国の夢物語だ。 □


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ジーパンにTシャツ

2009年06月24日 | エッセー
 74年大晦日、第16回「レコード大賞」授章式。受賞曲は「襟裳岬」、作曲者・吉田拓郎はジーパンに下駄履きで登場した。なんとも胸のすく出立ち。テレビ画面に向かい快哉を叫び、拍手を送ったものだ。
 権威を嗤い、皮肉り、洒落のめす。虚仮にされてきた若者文化が、アンシャンレジームに意趣返しをした歴史的場面であった。ジーパンに下駄履きは、明確なメッセージを帯びた装いであった。

 しかし、これはどうだろう。6月18日付朝日新聞「声」に載った投稿である。
〓〓授業参観 親の服装見て驚く   無職 吉岡賢一(山口県岩国市 67)
 2人目の孫が小学校に入学して初めての参観日。仕事が休めない父親、産後で動けない母親の代役で、じいちゃんが保護者として出席する羽目になった。二十数年ぶりの授業参観。かなり緊張した。服装にも気を使い、ネクタイまでは締めないが、正装に準じる装いで臨んだ。
 そんな私の服装がまるで場違いな感じがするほど、教室にはジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿のお父さんやお母さんであふれていた。まるで運動会の見物か、スポーツ大会の応援団を見るようだった。
 少なくとも参観日とは「子供たちが学びあう教室という場に、保護者が同席する」という位置づけを忘れてはならない。「時と場所と場合」に合わせた服装や心構えを、大人が態度で示すことも、大きな教育力になるのだと思う。
 しつけや人間としてのマナーなど、家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならないと思う。〓〓
 親子ともに『見せ場』であった参観日は、もはや昔日の面影を失ったらしい。「お父さんやお母さん」の「ジーパン、半ズボン、Tシャツ、ポロシャツ姿」に、特段のメッセージ性はなさそうだ。窮屈なフォーマルは避けようとの申し合わせがあった訳ではなく、集団によるデモンストレーションでもなく、まったくの『普段気』での『普段着』のようだ。聞けば、全国おしなべてそうらしい。こちらのジーパンにTシャツは、カジュアル化の象徴、日常性以外のなにものでもない。
 目くじら立てるほどのことではないかもしれぬが、一方ではモンスターペアレンツの跋扈が報じられる。この二つ、なにやら通底してはいないか。

 モンスターは洋の東西を問わないらしい。6月20日の朝日新聞から抄録する。
〓〓暴言親から審判守れ ―― 英国サッカー、年に数千人辞職
 サッカーの母国、イングランドで年に数千人もの審判が辞めている。大きな問題となっているのが、ジュニアの試合で観戦する親たちが浴びせる暴言だ。状況を変えようと1人の指導者(マル・リーさん)が始めた草の根の運動が輪を広げている。 
 「プレミアリーグで選手が大金持ちになったのを見て親たちが欲深くなった」とリーさん。子どもの成功への過度な期待が、審判への攻撃的な態度につながるとみる。
 危機感を持ったFA(イングランド・サッカー協会)は昨年から審判への敬意を高める「リスペクトプログラム」を始めた。リーさんの運動と同じようなロープで仕切る方法も取り入れた。アイルランドは協会自体が今春からリーさんの運動に加わった。〓〓
 
 さて、次は日本のモンスターペアレンツだ。いくつかを列挙してみる。
◆「子供を朝起こせ」 「学校で汚れたので洗濯してくれ」 「劇の主役や習字の評価を高くしろ」 「風邪で休んだので給食費を返せ」
―― 笑ってはいけない。実例である。
◆わが子が注意されたことに逆上して職員室に乗り込み、延々とクレームをつける
◆子共同士の喧嘩に介入し、相手の子共を非難する長大な文書を学校に持ち込んで処罰を要求する
◆わが子がリレー競技の選手に選ばれないのは不自然だとクレームをつける
◆子供がプリントを親に渡さなかったことを、教師の指導のせいにする
◆「わが子を学校代表にして地域行事に参加させろ」
◆「○○小学校○年○組の○○という児童はクラスの迷惑なので学校に来させないでくれ」といきなり都道府県の教育委員会に匿名で要求する
―― ここまでくると、もう悲しくなる。
◆児童が石を投げて学校の窓ガラスを割ったにもかかわらず「子供の投げた石がぶつかったくらいで割れるガラスが悪い」
―― そして、極め付きだ。
◆自分の子供が風邪でテストを受けられないので、代わりに自分が受けると言ってやって来る

 いかかであろう。あくまでも氷山の一角、ほんの一例である。先日紹介したひったくり警官を捕(トラ)まえた高校生ではないが、「世も末……」と頽(クズオ)れそうになる。
 しかし、まだある。驚いてはいけない。なんと、「モンスターペアレンツ保険」なるものがあるのだ。正式には「教職員賠償責任保険」という。教員側の落ち度による賠償と、訴訟を起こされた場合の訴訟費用を負担する。東京都を例に取ると、07年で公立校の3分の1の教職員が加入しているという。00年以降、激増らしい。
 背に腹は代えられぬ事情もある。06年1万校を対象にした調査によれば、3割が「深刻」、5割が「やや深刻」、合計8割がダメージを受けている。矢面に立つ教員が精神を病んだり、自殺さえ頻発している。だから、このような保険の出現は緊急避難ともいえる。
 ではなぜ、化け物は現れたか。
 校内暴力が吹き荒れた時代に学齢期を過ごしたために、教師への敬意に欠ける。あるいは過剰な消費者意識、つまり同じ負担なら同等の対価であって当然という意識。この意識が暴走して、教育サービスと商品取引との区別が付かなくなる。また地域の人間関係の希薄化によって、不満がストレートに学校に向かう、などが主な論点である。その中で、次の宮台真司氏の指摘は出色だ。

〓〓モンスターペアレンツも、クレーマーも、共通して、「全体を顧みない理不尽さ」や「社会的期待に対する鈍感さ」や、そうした意味での「常識外れぶり」などが問題にされているわけです。我々の日本社会が、そうした「常識」を支える共通前提と、それを支えてきた〈生活世界〉を、〈システム〉(役割&マニュアル的なもの)によって空洞化させてしまった以上、そうした成育環境で育ったがゆえに共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増えるのは、そもそも仕方ないのです。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」から)

 つまり化け物とはいっても、生まれるべくして生まれ、出るべくして出ているのである。決して異界から迷い込んだのでもなく、薮から棒の突然変異でもない。
 「共通前提によって行動を少しも制約されない人たちが増える」から、「家庭教育の教師となるべき保護者が、傍観者になってはならない」との「声」投稿者の憤りが生まれ、越えがたい断層が横たわる。 ―― 〈生活世界〉が〈システム〉によって空洞化された結果、「常識」を支える共通前提が喪失した ―― だから、授業参観というフォーマルが一挙にカジュアル化してしまったのだ。ジーパンにTシャツが登場する所以である。これはモンスターペアレンツと通底どころか、コインの裏表ではないか。

 炯眼は相通ずるものらしい。養老孟司氏も同じ病巣を剔抉している。まことに恐縮だが、元日付の本ブログから孫引きさせていただく。
◇◇ 初春 丑尽し
【牛にも馬にも踏まれぬ】 子供が無事に成長することの喩え。
〓〓今ではマンションのような小さな共同体の管理も基本的には管理会社に任せます。住民が何かを一緒にやることはほとんどなくなっています。理事会で決めるのは管理会社に何をやらせるかということです。便利といえば便利。しかし手抜きだともいえます。現在の多くの社会的な問題というのはそういうことの集約です。 (中略) 手抜きの弊害がもっとも見られるのが教育です。人間がどうしてもせざるを得ないことのひとつが教育です。だから教育基本法をいじろうとか、会議で何とかしようとかしているのでしょう。しかし、国がかりで大勢集まって議論するよりも、自分が子どもの面倒をどれだけ見るかのほうが、よほど大切です。私は常々「問題なのは少子化じゃなくて少親化でしょう」と言っています。子どもが減ったのではなく、親になりたい人が減ってしまっただけのことです。要は手間をかけたがらない人が増えたということです。しかし手間を省いたら成り立たないことというものがあります。生き物の面倒をみることが典型です。子どもの教育が駄目になった根本はそこです。〓〓(新潮社 「養老訓」から)
 「手間を省いたら成り立たない」のは、「生き物の面倒をみること」である。これはズバリだ。「問題なのは少子化じゃなくて少親化」これも養老節の冴えだ。正鵠を射るとはこのことだ。◇◇

 少々強引だが、宮台氏の〈システム〉を養老氏の〈便利といえば便利。しかし手抜き〉(養老氏の持説では「都市化」と呼ぶ)に、〈生活世界〉を〈手間を省いたら成り立たないこと〉に言い換えれば、符節は一致する。
 「少親化」は深刻だ。即効薬はない。今まで抜いてきた手間暇を、飽かずかけていくしかあるまい。そこで、極めて示唆的な次の一節。宮台氏が同書で、いじめに関して語ったところだ。
〓〓周囲に「感染」を繰り広げる本当にスゴイ奴は、なぜか必ず利他的です。人間は、理由は分からないけれど、そういう人間にしか「感染」を起こさないのです。人間は、なぜか、利他的な人間の「本気」に「感染」します。〓〓
 これはスゴイ。こういう視座をもつこと自体が凄い。並ではない。「感染」とは「感化」に置換可能だ。
 ソクラテスの時代から、「感染」は『シビレエイ』が引き起こした。まずは自らの『絶縁体』を取り除くことからはじめたい。 □


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鳩ぽっぽ 主水

2009年06月18日 | エッセー
 限りなく影薄く、ぼそぼそと呟くことをもってその生存を確かめ得る官房長官。暑苦しいくらいに押し出しよく、矢継ぎ早にカマしつづける総務大臣。静と動、場合によっては死と生、暗と明、黙と騒、薄と厚、まことに両面合わせ持った面白い内閣であった。あった、というのはその一方が欠けたからだ。欠けたいきさつについては周知のことゆえ、記すまでもなかろう。
 水に落ちた犬を打とうというのではない。ただこの場合、自らカッコよくダイビングしたように勘違いしている向きがある。そこは正しておきたい。なにせ世論調査なるものは、くっきりと勘違いの画を描(カ)いている。泣いて馬謖を斬るの美談を避けたい兄鳩は、斬る相手が違うと色めき立つ。血は水よりも濃い、か。
 
 総務省のHPに前大臣の記者会見の概要が載っていた。

〓〓正義の物差しというものを持っていたい。つまり、このことが世の中にとって、国民一般にとってプラスであるか、マイナスであるかというのは、私の一番の物差しなのですよ。〓〓
 草クンには「最低」とカマし、こんどは「正義」でカマした。どうだ、文句はあるまい、とばかりに。
 さて、「正義」とはなにか。百人いれば百通りの正義がある。だがなによりも、古賢に範を求めよう。アリストテレスは能力に応じた公平な分配を正義とした。かんぽの宿の売却についてのあれこれは、一見これに適うかに受け取れる。しかし、木を見て森を見ない愚もある。雇用の継続を呑んで、ピンからキリまでポンとまとめ買いしてくれる篤志家は、この御時世そうそうあるものではなかろう。長期スパンの損得を秤に掛け、一時も早く身ぎれいになりたいという判断もあったのかもしれない。事は高度な経営判断だ。腰掛け大臣のぶら下げる「物差し」が融通無碍とはいえまい。
 一方、プラトンは国家の成員が各々の責務を果たし、全体として調和が保たれることをもって正義とした。こちらはどうだろう。責務を果たしたために、全体の調和が乱れては元も子もないのではないか。ここに来て「君側の奸」が御大の判断を誤らせたと言い出しているが、内閣の意志に反したことは明らかだ。
 千歩譲ってアリストテレス的正義には適うかもしれぬが、プラトン的正義には悖る。彼がこのアンビヴァレンスに懊悩したとは、ついぞ聞かない。ましてやマイクの槍衾に大見得を切って、「 To be or not to be that is the question」と呼ばわったという報道にも接してはいない。

 つづいて、こう述べる。
〓〓正義という言葉はどうして使うのかと言われたならば、私はこう申し上げたい。つまり、不正かどうかというのは、警察、検察、司法の問題ですから、野党は、不正、法律違反であるとして、昨日も追加して御二人、つまり計三人でしょうか、刑事告発をしているわけでしょう。ただ、私は司法判断をする人間ではありませんから、不正とは言えないから不正義と申し上げている。〓〓
 まず指摘しておきたいのは、「不正かどうかというのは」「不正、法律違反」「不正とは言えないから不正義」である。ひょっとしてテープ起しの間違いかとも訝ったが、そうではないらしい。これは小学校レベルの間違いではないか。「不正」とは「不正義」、道義・正義に反することを意味する。この大臣は、「不正」と「不法」の区別がつかないらしい。上記3カ所の「不正」はすべて「不法」と言い換えねば、意味が通じない。
 難点は、「私は司法判断をする人間ではありませんから、不正とは言えないから不正義と申し上げている。」の部分だ。彼はもとより司法にではなく、行政府に身を置く人間である。法をファシリテイトする立場だ。にもかかわらず、「不正(=不法:筆者注)とは言えないから不正義と申し上げている」とはどういうことか。つまりは、司法で裁けないから行政権を使って司法の代替をすると宣言しているのである。明らかな戯言(タワゴト)、世迷い言である。オーバー・テリトリー、甚だしき越権行為である。プラトン的正義とも、アリストテレス的正義とももはや無縁の代物だ。与太でしかない。
 これではまるで、「必殺仕置人」気取りではないか。ただこちらの主水は、金の代わりに票がお望みだ。『道具』はもちろん、『捺さずのハンコ』である。これで日本のメガ会社のトップの首だって飛ばせる、そう主水は踏んだのか。
 ところがどっこい。豆鉄砲を食ったのは、やはり鳩ぽっぽであった。 □


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難点、難題

2009年06月11日 | エッセー
 少々古くて駄文ではあるが、07年9年26日付本ブログ「欧米か!?」を引用したい。(抜粋)

◇◇団塊の世代は戦後民主主義教育の洗礼を受けた。戦争をくぐり抜けやっと訪(オトナ)った真っ当な民主主義がまばゆく見える世代に、教えられた。彼らにとってそれはアプリオリに尊貴であり、動かし難い到達点であり、不磨の至宝であった。
 以下、余話として ―― 。
 わたしが高校生だった時の話だ。友達の家で彼の父親と話すうち、談たまたま政治形態に話題が及んだ。わたしが「哲人政治」を宣揚すると、父上は烈火のごとく怒り始めた。バカかと言われれば、はいそうですとは言えない。今より3倍は不正直だった。論争などという上等なものではない。単なる罵り合いに終始した。今にして振り返れば、父上にとって戦後民主主義は相対を峻拒する遥か高みの絶対の正義であったのだ。逆鱗に触れるどころか、足で踏み付けてしまったのであろう。若気の至りであった。いやはや面映ゆい。

 遥かむかしの青臭い話だが、いまだに問題意識は変わっていない。民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。野中広務氏が彼を「独裁者だ」とこき下ろしたのは、民主主義の眩さを忘れない良識の抗弁ともいえる。
 なんとも民主主義は不自由なものだ。特に代議制民主主義はそうだ。チャーチルは言った。「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」と。そのご本人も、大戦の終了直前総スカンを食う。総選挙で敗れ首相の座を明け渡すことになる。戦時の宰相と平時のそれとを峻別されたのだ。だから一層この発言は重い。 
 前述の「問題意識」については、稿を改めて語りたい。◇◇

 稿を改めず2年が過ぎた。ディレッタントの浅知恵、世迷い言の域を出るものではないが、歴年のテーマに触れてみたい。実は先般、ある書に大いに啓発されたのだ。

 こんな堅い本がなぜ売れるのか。発売2カ月で10万部を超えたという。シャープで歯に衣着せぬ物言いとラディカルな思想性が、この論客を際立たせているのであろうか。「バカの壁」の衝撃を彷彿させるし、佐藤優氏にも感じる小気味のいいカタルシスがある。 ―― 社会学者 宮台 真司著「日本の難点」(幻冬舎新書)である。
 学者はありがたい。常人なら『思考停止』を強いられる『印籠』に、真っ向切り込んでくれる。

 かなり荒っぽいが、先述の「問題意識」は<モダン VS ポストモダン>と置換できよう。モダニズムとは近代主義、淵源はデカルト、フランス革命まで遡る。強引な括り方をすれば、中世の非理性から理性へ、王政から民主制へ、であろうか。民主主義が至上の社会原理とされる。
 ポストモダニズムは20世紀に芽吹いた。脱近代である。複雑化した社会で、価値の多様性を尊重しようとする動きだ。超ぶっちゃけて言うと、『ナンデモアリー』の世界観である。
 宮台氏は同書で次のように述べる。(一部、抄録)

〓〓〈生活世界〉を生きる「我々」が便利だと思うから〈システム〉を利用するのだ、と素朴に信じられるのがモダン(近代過渡期)です。〈システム〉が全域化した結果、〈生活世界〉も「我々」も、所詮は〈システム〉の生成物に過ぎないという疑惑が拡がるのがポストモダン(近代成熟期)です。
 ポストモダンでは、第一に、社会の「底が抜けた」感覚のせいで不安が覆い、第二に、誰が主体でどこに権威の源泉があるのか分からなくなって正統性の危機が生じます。不安も正統性の危機も、「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求を生みます。〓〓

 独自の言語世界から紡がれる言葉の群れに圧倒されるが、要はチャップリンの「モダン・タイムズ」を想起すれば事足りる。「底が抜けた感覚」とは、どうにもならない失望感の謂(イイ)か。問題は「正統性の危機」である。多様性を是認すると、代償として主体と権威の正統性が揺らぐ。氏の使わない言葉で表現するするなら、「大衆化」だ。かつ「悪しき」大衆化だ。「みのもんたレベル」の跋扈である。

〓〓飢餓地域での遺伝子組み換え作物を用いた安全保障、拡がりつつある不妊化現象に抗う生殖医療やそれが必然的に孕む出生前診断など優生学的観点、資本主義にどのみち不可避な証券化技術など、原理的な意味でイエスかノーかでは回答不可能な問題が拡がりつつあります。〓〓

 原理的に明答できない問題群がポストモダニズム時代の足元にはころがっている。だから、 ―― 「俺たちに決めさせろ」という市民参加や民主主義への過剰要求 ―― つまり向かい側にすれば、ポピュリズムへの陥穽が待ち構えることになる。

〓〓社会には、移ろいやすい庶民感覚や生活感覚を当てにしてはいけない領域、状況に依存する感情的反応から中立的な長い歴史の蓄積を参照できる専門家を当てにすべき領域が、確実に存します。それを毀損すると、逆に庶民感覚や生活感覚に従う「市民政治」自体が疑念の対象になってしまいます。〓〓

 氏はその典型として司法を挙げ、裁判員制度に異を唱える。そして、以下のような状況を迎える。

〓〓自己負担化を含む後期高齢者医療制度の必要、解雇規制撤廃の必要、法人税率切り下げの必要などは、専門家にとっては自明なことですが、あえて素人向けの新聞や雑誌でそれを書く人は少なく、まして政治家はそんな不人気なことは言えない。ならば官僚も口を噤むようになります。
 これが、「民主的決定の非社会性ゆえの市民政治化」です。言い換えると、統治権力のエリートたちが「民主的決定に任せますよ」と念押ししつつ、心の中で「どうなっても知らねえよ」と眩くような状態です。
 民主的決定であれば内容が正しいなどということはあり得ません。社会の複雑化によって、それはますますあり得なくなります。だからといって、エリートに任せればうまくいくというわけでもないということです。何もかもよく分からなくなればなるほど、民主的決定に任せるしかなくなります。これが「民主主義の不可避性と不可能性」です。〓〓

 とどのつまりをいえば、「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」とのチャーチルの言になる。だが、そう嘯いて木で鼻を括っていられるほど時代は甘くない。不可避で不可能、このアンビヴァレンスを越えねばならぬ。女郎の誠と卵の四角を是が非でも捜し出さねばならぬ。

〓〓どのような意味で民主主義が「不可避」で、また「不可能」なのかを理解すれば、素朴な「右」も素朴な「左」もあり得なくなります。
「民主主義の不可避性と不可能性」ということは、裏を返せば「エリート主義の不可避性と不可能性」あるいは「バターナリズム(温情主義ないし父性的導き)の不可避性と不可能性」ということと、表裏一体です。〓〓

 女郎の誠と卵の四角を裏返せば、「エリート主義とバターナリズムの不可避性と不可能性」が顕れてくる。とりわけバターナリズムは期せずして「哲人」を連想させるが、それでは我(ワガ)田に水を引きすぎるか。
 氏の結びはこうだ。

〓〓どうすればいいか。見栄えのいい答えはありません。科学哲学者力ール・ポパーのいうピースミールエンジニアリング(部分工学)を使って「様子を見つつ」ソーシャルデザインを進めるプロセスプランニングしかありません。そして、「様子を見る」プロセスそのものを民主的に開き、そこでの社会学的啓蒙を通じて「民主主義を社会的なものにする」しかないのです。〓〓

 ぼちぼち行くしかあんめー、という話だ。パーもアンダーもない、ましてやホールインワンなぞあるはずがない。刻んで、刻んで、OBさえ叩かなければ …… 、そんなところだ。前掲の「民主的決定の非社会性ゆえの市民政治化」 ―― 不人気ゆえに必要な政策が打てない。揚げ句は社会が膠着し疲弊する。その愚をどう避けるか。
「エリート主義あるいはバターナリズムの不可避性と不可能性」に無理遣り通底させるとすれば、「欧米か!?」で述べた「臨調」方式の『疑似哲人』政治か、小泉流『劇場化』政治であろうか。どちらも禁じ手、もしくはそれに限りなく近似したものだった。
 また、 ―― 「様子を見る」プロセスそのものを民主的に開き、そこでの社会学的啓蒙を通じて ―― にはより深い処方、主(アルジ)たり得る民衆への脱皮、民度の向上への指向が窺える。
 ともあれ、「民主主義を社会的なものにする」ことは至難だ。複雑系の社会で民主主義を真っ当に機能させることは、現代のかかえる最大のアポリアといえる。 …… またしても長考に入らざるを得なくなった。ピースミールを喰らいつづけるしかあるまい。凡愚にはキツイ道程(ミチノリ)だ。 

 宮台 真司。姜 尚中氏への粛正発言、小沢一郎礼賛、重武装論などなど、ある種の軽さは感じつつなお注視すべき鬼才ではある。 □


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「出来事」番外編

2009年06月07日 | エッセー
 二つある。一つは、
● 草 剛君 復活(5月28日) 
―― である。4月29日付本ブログ「いいひと。」で触れた以上、結末を記さないわけにはいくまい。
 28日は録画収録で、画面に出てきたのはあくる29日(金)の「笑っていいとも!」であった。冒頭に挨拶。「このスタジオの空気が、ぼくの生活の一部だと分かりました」とうれしさを語る。実に率直だ。
 この回も、そして次回もキチンと背広姿で出演した。プロダクションの指示かどうか、ともかく悪くはない。
 29日、金曜日恒例の「川柳」のコーナー。妻の尻に敷かれる夫の心境とのお題に、彼はこう詠んだ。
 「あの頃は こんなにお尻 重くない」(記憶不鮮明)
 爆笑があがる。もちろん選には漏れる。お題の意味が解ってないのではとの揶揄に、「知った上で」と抗弁する。だが、半分怪しい。
 ホントに、「いいひと。」だ。こんな人を罪人にしてはいけない。
 検察は不起訴とした。不起訴でも嫌疑不十分の不起訴ではなく、起訴猶予のそれであった。嫌疑不十分を期待していたが、まことに残念である。一方、自民党二階派のパーティー券問題の方は嫌疑不十分で不起訴となった。(6月1日)検察も所詮、行政権の片割れでしかないのか。つい、ぼやいてしまった。
 「よかったんじゃないですか。頑張ってもらわなければ。経験を糧にして、どんな復活をするか国民は期待しているんじゃないですか」これは、かのハトぽっぽ総務大臣のコメントである。キミに言ってほしくはないよな。な、草クン。

 二つ目は以下の通り。
■ 岡山のひったくり>容疑の警官は盗犯係
〓〓岡山市で4日夜、無職女性(75)から財布をひったくったとして愛媛県警松山南署刑事1課巡査部長、野村尚史容疑者(29)が窃盗容疑で現行犯逮捕された事件で、野村容疑者を取り押さえた高校生2人が5日、取材に応じた。野村容疑者はひったくり事件などを担当する盗犯係主任。2人は「世も末だ」などとあきれた。
 私立関西高3年、伊井飛鳥君(17)と1年の宝来隆太郎君(15)。帰宅途中に「どろぼう」という女性の悲鳴を聞いて自転車で追跡し、取り押さえた。野村容疑者は「財布を返すから放してくれ」と頼んだが、2人は上着のすそを離さず、携帯電話で110番通報したという。宝来君は「無我夢中で、怖さはなかった」、伊井君は「警察官と聞いてびっくりした。世も末だなあと思う」と話した。
 愛媛県警によると、野村容疑者は02年4月に採用され、08年4月から松山南署刑事1課盗犯係主任。県警は5日未明に記者会見し、平岡公明・首席監察官が「盗犯係をしている刑事がこういった事案を引き起こしたことは大変遺憾」と陳謝した。〓〓(6月15日 毎日新聞)
―― 6月の出来事だが、番外として入れる。盗っ人が「番外」な立場の人物であるし、伊井君のコメントがこれまた「番外」におもしろかったからだ。筆者、しばらく笑いが収まらず難儀をした。
 これから「世」に出ようとする高校生に、「末だなあ」と言われる「世」とはなにか。U字工事の益子クンではないが、「ごめんね、ごめんねーー」では済まないぞ、これは。 □


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2009年5月の出来事から

2009年06月03日 | エッセー
<政 治>
●民主党の小沢代表が辞任表明
 西松建設の違法献金事件の批判に抗しきれず(11日)
●民主党の新代表に鳩山由紀夫氏
 岡田克哉氏を破り、02年2月以来の復帰(16日)
―― 一心同体だと言ってきた元幹事長が、何らの責任も問われず領袖の跡目を襲う。これは明らかにおかしい。一度は身を引くのが常道であろうし、世間一般の常識ではないか。そのことについて論議になったと聞かない。実に変な話だ。与党もマスコミも指摘しない。形式論だというかもしれないが、永田町から形式論を除いたら、一体なにが残るのか。
 投票権もない人々を相手に街頭演説をするなどという御為ごかしの茶番はいいとしても、肯んじ難い代表選びであった。

●09年度補正予算成立
 15兆円超の経済対策を盛り込む。消費者庁設置関連法も成立(29日)
―― 予算委員会での政府答弁からすると、10兆円超の国債を追加発行することにより、国民1人当たり約8万5000円の借金を背負う計算になる。今年度末には国の債務残高は900兆円を超える。『借金王』だと自虐した故小渕首相の時が300兆だったから、約10年で3倍増したことになる。日本の個人資産は1000兆とも1400兆ともいわれる。政府資産は600兆円だそうだ。だから大丈夫という話もあるが、債務がこんなに倍々ゲームでくると、デフォルトの不安が過(ヨ)ぎる。経済音痴の杞憂であってほしい。
 消費者庁については、先月触れた。

<経 済>
●GDP戦後最悪の落ち込み
 1~3月の国内総生産は実績15.2%減(20日)
―― GDPが約500兆。その15%は75兆円である。前項ともつながるが、75円でも、75丁でもない。関西国際空港の総建設費が約1兆円だったから、1年で関空75個分のダウンだ。そう譬えると、にわかに絵面が浮かんでくる。これはただ事ではない。

<国 際>
●核不拡散条約(NPT)再検討会議準備会合
 米国が核軍縮に転じたことを歓迎(4~15日)
―― 4月5日、オバマ大統領は、プラハで歴史的演説を行った。骨子は次の4点。
 ① 米口核軍縮の推進と核不拡散条約(NPT)の強化
 ② 核兵器のない世界を目指す
 ③ 包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効
 ④ 唯一の核使用国としての道義的責任
 歴史的なのは④だ。「使用した側」の道義的責任に言及したアメリカ大統領は史上初だ。「核のない世界を目指す」、「核ゼロ」宣言である。
 伏流水ともいうべきものは07年にあった。この年1月、「ウォールストリート・ジャーナル」にキッシンジャー、ペリー両元国務長官ら共和・民主両党の長老政治家4人が、「核兵器のない世界へ」と題する論文を寄稿した。核抑止論は時代遅れであり、危険で非能率だと指摘。別けてもテロ集団には抑止論は無効であり、アメリカこそが核兵器廃絶を主導すべきだとした。すぐに、マクナマラ元国防長官などが強い賛意を表した。いずれもかつての抑止論の主役たちである。言わずもがなではあるが、『保安官』ブッシュは完全にこれをネグった。
 背景には、軍事技術の進展でハイテクを使った通常兵器の抑止力が飛躍的に上がり、核兵器のプレゼンスが劇的に薄れたという形而下的事情がある。だがそのような身も蓋もない見方は、① ③ のとてつもない至難さを考えた時、余りに皮相的との譏りを免れまい。
 将来の歴史書に「2009年4月5日」がゴシック表記され、ターニング・ポイントだったと解説されることを切に希う。もちろん併記される「バラク・フセイン・オバマ・ジュニア」も特大ゴシックで。

●北朝鮮が地下核実験
 06年10月に続き(25日)
―― 矢継ぎ早のエスカレートを見ると、核とミサイルを交渉カードとしてではなく、位置づけを変えてきている節がある。つまり、国家目標へのステップとしてである。2012年、金日成生誕100周年を「強盛国家の大門を開く」年にするというのが当面の、そして喫緊の大目標である。有り体にいえば、『王朝』を永遠ならしめる軌道を敷くことだ。「将軍」の健康不安もあり、世継ぎ問題もある。端緒は極めて内政的ではないか。
 この辺りの見極めを的確にする必要があるが、なにより怖いのは『軽挙妄想』の輩だ。こうなると決まって、「敵地先制攻撃論」をはじめとして「核武装論」まで賑やかになる。ブラフにしても、敵に塩を送ることになる。
 ともかくキチンとしたストラテジーを練り上げる必要がある。6者協議はスキームであり、安保理決議はタクティクスだ。ストラテジーが先立たねばならぬ。 …… 核とミサイルに勝てるのは「自由の風」だ。断じて核とミサイルではない。

<社 会>
●足利女児殺害事件、受刑者とDNA不一致
 再鑑定で判明、再審開始の公算大(8日)
―― DNA鑑定の精度は諸説あるが、今や約5兆人に1人の確率だ。地球の総人口をはるかに凌駕する。であるなら、大きな懸念が生じる。死刑制度の是非だ。再審の問題ではない。足利事件は無期懲役だったからまだ救えるが、これが死刑だったら取り返しはつかない。再審なぞ意味はなくなる。
 さらに、証拠価値が高ければ高いほど厳重な管理が要請される。冤罪を生む可能性だってある。『印籠』扱いされることで、恐るべき思考停止が引き起こされかねない。
 愚考ではあるが、春秋の筆法であってほしい。

●漢検の前正副理事長親子を逮捕
 架空の業務委託で協会に損害を与えた背任の疑い(19日)
―― 漢字を食い物にした親子だ。公益法人の仮面を被り、知的探求心や向学心に付け入った点で二重に赦しがたい。年末恒例の「今年の漢字」なぞ、今振り返れば噴飯ものだ。
 所轄官庁の文科省は何をしていたのか。どっちもどっちだが、日本人はもっとまともだったはずだ。どこでボタンが掛け違ったのだろう。なにより、文化への「背任」でもある。

●裁判員制度はじまる
 重大な事件の刑事裁判に市民が参加。審理は7月ごろから(21日)
―― 何度も取り上げてきた。深い虚脱感があるが、かくなる上は一時も早く廃止に追い込まねばなるまい。
 反対論の中で、社会学者・宮台 真司氏の論点は出色である。以下、紹介する。
〓〓あえて言います。なぜ司法の正統性が民主主義であってはいけないか。理由は、移ろいやすい民衆の感情から法原則を隔離するためです。そうした隔離がなされていない場合、たまたまの民意で重罰に処されるなど法的裁定の恣意性が際立ち、法的信頼が損なわれ、遵法動機も失われてしまいます。法的裁定の適正性を担保する仕組が大幅に欠落した日本の裁判員制度が、とりわけ司法の正統性の本義に反すると僕が考えるのはこの点です。
 繰り返すと、感情原則から法原則を隔離するための有効な手段に欠けるのです。司法の裁定を、人々の意見を寄せ集めた合意に基礎づけてはいけないのです。〓〓(「日本の難点」幻冬舎新書から)
 「司法の正統性が民主主義であってはいけない」これは鋭い。手垢のついた「市民感覚」なる言葉に騙されてはならない。

<哀 悼>
●忌野清志郎さん (日本を代表するロックシンガー)58歳。(2日)
―― 58、やはりアラカンは大きなヤマかもしれない。前項で述べた通り、拓郎の肺ガンも58歳であった。 …… 冥福を祈るのみ。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□

 
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