伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

狩るは紅葉

2011年11月29日 | エッセー

 なぜ「狩」というのだろう。桜にはつけない。花は見る、だ。 

  紅葉狩 

 山野に出張(デバ)るから、狩猟に準えた。雅(ミヤビ)の代に、貴顕が手折り愛でたから。彼らにとって手ずから折るとは、狩りほどに野趣であった。
 いずれも外れてはいまい。
 

 一望の山々が衣を替える。見晴るかすかぎりが紅蓮に燃え立つ。指呼の間に迫った冬将軍に焦土作戦を仕掛けているのか。
 四季の連なり。その端境には攻防の戦(イクサ)がある。深雪(ミユキ)もついに春陽の包囲網に締め上げられて尽き、梅雨の前哨戦は炎夏の鮮やかな勝利に帰する。それとてひたひたと忍び寄る錦秋に搦め捕られ、いつしか夢の跡となる。
 
 目を凝らせば、山は一色(ヒトイロ)の紅ではない。あらんかぎりの色彩が、見えざる意匠によって華麗な錦絵に刷り込められている。衣は扇情的な、極彩色だ。葉緑素の分解は自然(ジネン)の調色板(パレット)で、ただならぬ混乱をきたしたにちがいない。巧まざる絵師のごとしだ。
 
 花見なら庭でもできる。紅葉狩りはそれでは叶わぬ。外界(ゲカイ)に出(イ)でねば、狩ろうに狩れぬ。黄葉の華麗と、狩の野情。ふたつを撚って、紅葉狩のひとことに紡ぐ。それにつけても、日本語の見事さよ。

   騎馬一人 従者五六人 紅葉狩   正岡子規

 病に蝕まれつつあるなか、弟子を連れ秋の野を逍遥するみずからの姿であろうか。それとも、願望を詠んだか。狩の野情が凝(コゴ)る一句だ。
 
 時は今だ。燃え尽きるまでに訪(オトナ)わねばならない。
 狩りに出たのにこちらの心根を猟(カ)られ、腑抜けになってしまうほど、秋つ葉に身を浸してみたい。□


老害

2011年11月28日 | エッセー

 司馬遼太郎著「覇王の家」から引く。(◇部分、以下同様)

◇家康は功労のある譜代の者にもわずかしか領地をやらず、無類の吝嗇家といわれた。(中略)
 家康は関ヶ原の一勝で天下をとったあと、これに協力した豊臣系諸候には気前よく大領をわけあたえた。この家康の勘定の矛盾は、譜代のひとりである大久保彦左衛門が、終生口ぎたなくののしっていたことだが、しかし彦左衛門程度の頭では家康の吝嗇な性格はわかっても、家康の政治的算数はわからなかったのであろう。(中略)
「わしが三河、遠州、駿河といった譜代の侍どもに薄く報いたのは、ゆえのあることだ。かれらを大大名にしてしまえば、みずからその富力を恃んで、江戸の将軍を軽んずるようになる。かれらを薄禄にとどめておけば、貧なるがためにたがいに気心をあわせて江戸を仰ぎみるようになるからである。徳川の世がつづくもつづかぬも、譜代の臣の結束いかんにあり、すべてそのためである」
 譜代の臣は薄禄だが、外様大名よりは格は上であるとし、さらに幕閣の政務はすべて譜代の臣にとらせるという名誉をあたえ、外様大名は大封をもつとはいえ天下の政治に対する参政権をあたえないということで差別をした。譜代大名は薄禄とはいえ、この差別つくることによって大きな優越感をもつのである。◇
 
 これはつとに知られた話だ。親藩、譜代、外様の配置といえ、270年の長遠な天下は家康の深謀遠慮に源を発する。「譜代の臣の結束」を画竜点睛とし、布石の限りを尽くす。
 さらに死の十数日前諸候が集められ、最後の別れが伝えられる。

◇家康は大内記にいう。(引用者註:榊原 照久)
 大内記は、それを本多正純と土井利勝にいうのである。この両人が、(引用者註:隣室に控える)諸大名に御言葉として伝えるのだが、家康はこの二人のうち伝令の役については、
──大炊頭(土井利勝)がやれ。
 という細部まで命じた。(引用者註:家康は元来指図は大きく細部はいわなかった)しかしながらこのときは家康は伝達役まで指名したのである。このことは家康に近侍してその謀略の相談相手になった本多正純の政治生命の消滅を暗示し、一方、徳川家きっての俊才官僚として秀忠の政務役をつとめている土井利勝の将来のかがやきを意味した。秀忠をあくまで立てようとする家康は、死にあたって秀忠の官僚を優位に置いたのである。◇

 死に臨んで、なおこれほどに周到であった。徳川の永世のため、「秀忠をあくまで立てようとする」細心の配慮である。つまりは命を削って後継の道を拓き、固めていったのである。天下人として万能であったがために、徳川の永世を勝ち得たのではない。勝ち得べく、命の限り万の能を使い、使い尽くしたのだ。歴史的な業績や個人的な嗜好はあるが、同じく覇王である信長も秀吉も家康に遠く及ばないのは後継という一点である。その秘密を、司馬遼太郎は次のように抉る。

◇臨終までの十数日間、医師がいかにすすめても、
「それはむだだろう」
 と言い、その後はいっさい薬を用いようとはしなかった。家康が一種の悟りに達していたというよりも、元来がそういう男であった。かれは自分という存在を若いころから抽象化し、自然人というよりも法人であるかのように規定し、いかなる場合でも自己を一種放下したかたちで外界を見、判断し、動いてきたし、自分の健康についてもまるでそれが客観物であるかのように管理し、あたえるべき指示をかれ自身がかれの体に冷静にあたえてきた。家康の深奥に秘密があるとすればこのことであり、かれの一代はこのことから成立しているといってよく、さらにはどうみても英傑の風姿をもたず、外貌も日常もそして才能もごく尋常な人物でしかないこの男が、その深部においてきわだって尋常人と異なっているところの一点であり、この一点しかなかった。その一点がその生命まで作動していて、このあたりで薬はもう無用だろうと思うと、二度と服用しなかったのである。◇

 自己肥大から最も遠かったといえば木で鼻を括るようだが、家康の天才はそこにこそあった。夜郎自大でおかしくない環境にいながら、なお自己を客観視する。それだけで桁外れに非凡ではないか。象徴的な一文がある。

◇家康は口数のすくない男だったが、ひとの話は全身を耳にするような態度できくところがあった。どんな愚論でも辛抱づよく聴いた。家康はよく言う、愚かなことをいう者があってもしまいまで聴いてやらねばならない、でなければ聴くに値することを言う者が遠慮をするからだ。◇

 事の真偽はともあれ、裁判沙汰にまで及ぶ球団会長と代表との擦った揉んだ。会長の老いの一徹とはいえようが、とても老驥伏櫪ではなかろう。老いの繰り言、老いの木登りがいいところか。老馬の智ならば、まわりが唸るはずだ。それどころかお白州にまで出張(デバ)ろうというのだから、八十の三つ児などでは更々ない。この会長に悲しいほど決定的に欠落しているのは、「後継という一点」である。

 比較の対象になぞならぬのは端から百も承知だが、いつもの癖であらぬところへ想が跳ねてしまった。この会長、名前に「恒」の字がある。次世代への「つね」ではなく、自世代のそれにちがいない。□


ちゃぶ台返しか?

2011年11月26日 | エッセー

 本屋での立ち読み中、冒頭の
──日本の反ナショナリズムの思潮は少々奇妙に映る。反ナショナリズムは一般には体制批判的でリベラルな知識人の旗印になっている。しかしそれを少し近くでみると、反ナショナリズムという立場そのものが、肥大化した自意識による付和雷同の結果であることがよくわかるのだ。あたかも反ナショナリズムの立場でないとまともな知識人として認められないことをみんな恐れているかのように。──
 の部分に違和感を感じた。しかしパラパラとめくるうち、
──私がナショナリズムを肯定するのは、基本的に「国家は国民のために存在すべきであり、国民の生活を保障すべきである」と考えるところまでだ。もしナショナリズムが「日本人」というアイデンティティのシェーマ(図式)を活性化させて、「非日本人」を差別したり「日本的でないもの」を排除しようとするなら、私はそのナショナリズムを明確に否定する。──
 に至った時、棚に戻さず買うことにした。

  新・現代思想講義 「ナショナリズムは悪なのか」(NHK出版新書 本年10月発刊)

 話題作だ。著者は萱野 稔人(カヤノ トシヒト)、哲学博士。現在、津田塾大学准教授である。ナショナリズムは古くて新しいイシューだ。それに背を向けることが、今以上に「体制批判的でリベラルな知識人の旗印」であった時代の空気もよく解る。なによりその風の中で長じてきた。本ブログでも何度か触れてきたテーマだ。とりわけ団塊の世代にとってはかつて深刻に、なお今も向き合いつづける問いかけではなかろうか。
 摘記してみる。小見出しは独自に付けた。

◆グローバル化によりナショナリズムが顕在化している
 グローバル化の波に乗って国民国家を超えていけば何かすばらしい世界がやってくるにちがいないといった多幸症的な見込みは、時代によって完全に打ち砕かれた。
◆ナショナリズムは民主主義のモーターとなった
 ナショナリズムは「国家はわれわれ国民によって国民のために運営されなくてはならない」と主張することで、歴史のなかで民主主義を確立し普及させる大きなモーターとなった。
◆暴力の独占
 政治にはつねに、自発的に同意しない場合にはどうするか、という問題がつきまとう。そこにこそ政治の本質があるといってもいいぐらいだ。国家が物理的強制力の行使と切り離せないのもそこに理由がある。
 「国家なき社会」が実現されうるとするなら、強制的な権力はなくなるかもしれないが、その代わり、内面の同質化への圧力はものすごく強くなる。内面に対する同質化圧力によってがんじがらめになってしまう。
◆パトリオティズムならいいのか? 
 国家を想定しない地域主義としてのパトリオティズムならいいとする立論によってナショナリズムを超えることはできない。単に国家の問題を回避するための方便にすぎない。
 ナショナリズムにパトリオティズムを対置することでナショナリズムを超えた気になっている思考を批判している。政治権力をどうするかという問題を抜きにして、ナショナリズムを超えようという議論はそもそもなりたたない。
◆国家はなくせない
 国家をなくすためにすら国家を反復しなくてはならないという逆説。国家をなくすことがいかに不可能か。
 ネーションの同質性に国際的な多様性を対置しても、けっして主権のロジックを超えられない。
◆ナショナリズムの起源
 文化的に同質な単位への組織化は、郷土愛や同朋意識といった、人間の心のなかの「一般的な基層」によってはけっして説明のつかないものだ。人間集団を文化的に同質的な単位へとまとめあげる、もっと大きな社会編成の力を考えなくてはならない。それが産業化だ。
◆ファシズムに向かわないために
 国民国家はかならずしもファシズムに向かうわけではない。特定の経済的条件と経済政策が要因となってファシズムに向かう。
 国民国家をファシズムに向かわせる最大の要因は、国内市場の拡大を重視することで逆にその国内市場の衰退を放置したり加速させたりしてしまうような経済政策にある。戦前の日本でも、国内経済の崩壊によって貧窮化した民衆がファシズムを推進する大きな力になった。したがって、国民国家がファシズムへと向かわないようにするためには、国外市場の拡大を重視することで国内経済の脆弱化を放置ないしは加速させてしまう経済政策を進めないようにすることが必要となる。つまり、国内経済を保全するというナショナルな経済政策が、国民国家をファシズムに向かわせないためには不可欠なのだ。  
 反ナショナリズムの論者たちは、国内経済を保全するような政策をナショナリズムだと批判することで、結果的にナショナリズムがファシズムへと激化するような社会的条件を放置してしまう。あげくのはては、グローバリゼーションこそがナショナリズムを超える道だということで、国内経済の崩壊と表裏にある国外市場の拡大を重視し、ファシズムが生成する社会的条件をみずから準備してしまうのだ。反ナショナリズムの限界がここにある。反ナショナリズムがナショナリズムを逆にファナティック(狂信的)なものへと悪化させてしまうという限界だ。


 「ファシズムに向かわないために」は、長い引用をした。先日記したTPP反対の主張に通底するからだ。
 ともあれ、気鋭の学者だ。尖り過ぎる嫌いなしとはいわぬが、斬れ味はすこぶるいい。目から鱗というよりおかしな言い方だが、ちゃぶ台返しのような忸怩たる爽快感があった。上記以外にも、非暴力の可能性や国家権力と戦争の変容についても述べている。新書ではあるものの、中身の分厚い啓発の一書だ。

 拙稿を引きたい。
〓〓東大大学院教授の姜 尚中氏は「愛国の作法」(朝日新書)の中でこう述べる。
  ~~ 美しい風土、美しい言語、美しい文化の共同体が、そのまま国民になるわけではありません。そのためには、一定の政治的意志をもって国家を形成し、その憲法体制を通じて国民の共通の課題や利益(公共の福祉)の達成を図ろうとする国民に「なる」必要があるのです。それは、社会契約論にみられるように、一定の作為(フィクション)による政治的空間の形成を不可欠としています。 ~~
  幕末、ひとり勝海舟のみが「国民国家」を構想した。それなくして列強の進攻を食い止める術はない、との危機意識からだ。国家の統一と国民の創出。勝の畢生の事業となった。
 司馬遼太郎は言う。
  ~~ 国民国家というのは、国民一人ひとりが国家を代表していることを言います。家にいても外国に行っていても、自分が国家を代表していると思い込んでいる人々で構成されている国家を言うのです。(朝日文庫「司馬遼太郎 全講演」より) ~~
 学者の語り口と作家のそれとはかくも違うものか。口ぶりはちがっても言わんとするところは同じだ。「国民」は人為である、ということだ。明治維新の直前、イタリアが統一された時、政治家マッシモ・ダゼリオは奇しくも言った。「イタリアはできた。今度はイタリア人をつくらなければならない」。そして民族主義運動に火が付く。フランスは革命の後、傭兵制に代えて「国民軍」をつくることで国民国家への道を開いた。日本は維新後、徴兵制を敷き西南の役で官軍にこれを当てる。皆兵制が「国民」を産むことになる。事情は同じだ。よくも悪くも、人為の極みに「国民」は誕生した。次のフェーズにいけるのかどうか。EUは世紀のトライアルだ。〓〓(07年2月「誰だ、それは?」から)
 先般の浜先生も、この萱野氏もEUには懐疑的だ(上掲書に直接の言及はないが、論旨から推して)。しかし人類史に誕生していまだ2世紀余とはいえ、この先も国民国家のままでいいとはいえまい。現にグローバリゼーションとのアンビヴァレンツは解き難い。「暴力の独占」という抜き難い与件にも容易に解はなさそうだ。そうした冷厳な現実を、本書は突きつける。だが、そのアポリアの克服にこそ人類の進歩が懸かっているともいえる。呻吟しているとはいえ、「EUは世紀のトライアルだ」と信じたい。A・トインビーに倣えば、「挑戦と応戦」にしか未来はないからだ。□


贈る言葉

2011年11月23日 | エッセー

 いきなり贈る。


 私は、博打で身を滅ぼすことがないと断言できます。ただ単に「根がセコいから」というわけじゃありません。私なりには、「博打とは何か」を理解しているからです。
 読者の皆さんにも、身を滅ぼしてほしくない。ですから、口うるさい説教オヤジの最後の能書きを、今から黙って聞いてください。
 まず、博打を「遊び」と考えるか、それとも「人生を賭けた勝負」と考えるか、それを最初にハッキリ決めてください。「遊び」なら、遊びなりのレートで、負けても笑って済ませられる額にとどめるべきです。
「勝負」と考えるなら、ぞんざいにやらず、徹底的にマジメに競馬を勉強してほしい。マジメに研究した人間だけが勝てるとは言いませんが、「勝つ資格がある」のは間違いありません。また、そういう取り組み方をした人だけが、博打で金銭感覚を身につけられるのです。下手の横好きでやっていると「博打をしたつもりになれば……」と、他の金つかいも荒くなり、身を滅ぼします。
 私の周りで「勝負」を何十年も続けている人は例外なく、本業でも成功している人です。つまり、「人生そのもの」でマジメに好成績を収め、同じ姿勢で博打に臨んで初めて勝つ資格が得られるのです。(徳間文庫「絶対幸福主義」から)


 浅田次郎日本ペンクラブ会長の言葉である。届け先は、もちろん大王製紙前会長の井川意高氏である。しかし、もう遅い。だが、世の博打好きには頂門の一針たり得る。まさに他山の石だ。
 「『勝負』を何十年も続けている人は例外なく、本業でも成功している人です」とは核心を突く。今年6月の社長退任は業績不振の引責だったし、特別背任が逮捕容疑である以上、「本業でも成功している」とはとてもいえまい。それにしても、絵に描いたようなどら息子の放蕩三昧である。「エリエール」には『風の妖精』という意味を込めたそうだが、これではとんだ『ガセの養成』。典型的な後継者づくりの失敗だ。「売家と唐様で書く三代目」である。落語では大店の跡取りに、決まってこのタイプが出てくる。まことに落ちた話だ。

   〽暮れなずむ町の 光と影の中
    去りゆくあなたへ 贈る言葉
    悲しみこらえて 微笑むよりも
    涙かれるまで 泣くほうがいい
    人は悲しみが 多いほど
    人には優しく できるのだから〽
     (武田鉄矢 作「贈る言葉」から)
 かなり臭い詞ではあるが、これもついでに届けよう。鉄格子の部屋で、「涙かれるまで 泣く」時間はたっぷりあるだろうから。
 ちなみに、わたしはギャンブルをしない。数十年前に二度パチンコに行った限(キ)りだ。麻雀も競馬も競輪も係わりない。博才も勝負運もないのは判っているからだ。宝くじも買ったことがない。買わねば絶対に当たらないのは解っているが、籤運がないのは百も承知だから買わない。なにより、金がない。これからはエリエールのティッシュで鼻をかむたびに、金運にも恵まれなかったことに感謝せねばなるまい。もっとも、ブランド・イメージを保つため量販店には置かないエリエールを使う機会はあまりないが。
 
 人生はギャンブルだという。いや、人生はギャンブルではないともいう。おそらく真実の二つ態(ナリ)の表現であろう。さらに学問でさえ、野口英世は一種のギャンブルであると言ったそうだ。未知に歩み込む以上、投機であるにちがいないからか。ならば、「『勝負』と考えるなら、ぞんざいにやらず、徹底的にマジメに競馬を勉強してほしい。マジメに研究した人間だけが勝てるとは言いませんが、『勝つ資格がある』のは間違いありません。」とは、博打好きか否かを問わず万人にとっての、それもかなり担うに重い「贈る言葉」ではないか。□


こじつけ

2011年11月17日 | エッセー

 こじつけ。漢字で書くと「故事付け」。文字通り、旧来、伝来の謂れに無理やり関連付けることである。その謂れがない場合、本ブログで頻出する「奇想」となる。牽強付会にちがいはない。
 さて来年の十干十二支をこじつけてみたい。豊かな想像力と多少の経験知はあるにせよ、干支自体が中国伝来の故事付けである。ただ西暦のような通年標示がなかったため、60年サイクルの干支はその代用として実用には供された。ともあれ故事付けにこじつけるのだから、遊戯に近い。
 明年は、十干で壬(ミズノエ)、十二支で辰、したがって干支では壬辰(みずのえたつ・ジンシン)となる。辰とは「ふるう、ととのう」の字義から、草木の形が整った状態を指すという。敷延して、正義感と信用の年であるそうだ。なんだか、こじつけようもないほどこそばゆいが(大王製紙やオリンパスの騒動は今年でよかった。来年なら身も蓋もない)。「龍」は覚え易くするために音を採って、想像上の動物を配したらしい。壬とは陰陽五行説で妊に通じ陽気を身ごもる、また水のように自由に適応することをいうらしい。二つが組合わさり、干支で壬辰というわけだ。
 壬を含む干支が6、辰を含むものが5種類ある。そのうち高名なのが、「壬申の乱」と「戊辰戦争」ではないか(「壬辰」ではなさそうだし、近代以降は干支を冠さなくなった)。双方、血腥い。
 「壬申の乱」については、かつて本ブログで触れた。
〓〓672年(壬申 ミズノエサル)、日本古代最大の内乱が起こる。しかも骨肉の争いである。645年の大化の改新から27年。白村江の戦いをはさんで内外動乱の時代である。
 大海人は有能で強(シタタ)かだったらしい。シャーマニスティックで、それゆえにカリスマ性を併せもっていた人物である。
 骨肉の争いは叔父方の勝利で終息する。翌年2月、大海人は飛鳥を都とし、即位する。天武天皇である。
 乱による旧大氏族の凋落を機に、天武は権力の集中を図る。皇親政治を敷き、天皇制の確立へと向かう。やがて、白鳳文化が花開く。〓〓(06年6月「奇想! 壬申の乱」から抜粋)
 当時、秋篠宮家に男児が誕生し皇位継承が話題になっていた。そこでつい、1300年以上も昔に奇想が跳ねた。まさかいまどき乱はないが、センシティブ・イシューではある。

 戊辰戦争については、司馬遼太郎に興味深い論述がある。


 戊辰戦争は、日本史がしばしばくりかえしてきた“東西戦争”の最後の戦争といっていい。
 古代はさておき、日本社会がほぼこんにちの原形として形成されはじめた平安末期に、西方の平家政権が勃興した。当然ながら、東方はその隷下に入った。
 それをほろぼした東方の鎌倉幕府が、西方を従え、関東の御家人が、山陰山陽から九州にかけての西方の諸国諸郷に守護・地頭として西人の上に君臨した。
 南北朝時代は、律令政治を再興しようとした後醍醐天皇(南朝)が、いったんは関東の北条執権をほろぼしたから、一時的に”西”が高くなったが、結局は北朝を擁する関東出身の足利尊氏が世を制した。東方の勝利といえる。
 織田・豊臣氏は西方政権であった。しかしそれらのあと、家康によって江戸幕府がひらかれ、圧倒的な東方の時代になった。
 戊辰戦争は、西方(薩摩・長州など)が東方を圧倒した。しかしながら新政府は東京に首都を置き、東京をもって文明開化の吸収機関とし、同時にそれを地方に配分する配電盤としたから、明治後もまた東の時代といっていい。(「街道をゆく」33から)


 最後の“東西戦争”とは、なんとも雄大な着想である。爾来143年間、いまだに東京が「配電盤」であり続けているのは少なくとも進歩とはいえまい。では、『大阪都』か。いや、待て。その前に、電源をどこに求めるのか。振り返ってみれば、維新このかた猛烈なショートを起こしたことがあったにせよ、電源はいつも米国ではなかったのか。TPP騒ぎに顰みつつ、黒船以来の腐れ縁だと嗤ってばかりはいられない。そろそろ、大きな絵を描き始めてはいかがであろう。
 
 片や古典的な国のかたちが整い、片や近代的な国のかたちに転じた巨大な結節点であった。迎える明・「壬辰」は、いかなるエポックを刻むのか。あとひと月と少し、こじつけでは済まなくなる。□


野太い声だ!

2011年11月11日 | エッセー

 実際にはボソボソとお話しになる。大きな声でもない。しかし中身は実に野太い。 TPPに、なぜ反対なのか? 
 えーカッコしーでビックリ・マークの某外務大臣や、舌っ足らずで寸足らずの某経産大臣などのチマチマとした賛成論。または利いた風な口をきくエコノミストやアナリストたち。さらには情報不足、時期尚早などといった、これまたチマチマとした反対論。平成版百姓一揆の尻馬に乗る某元農水大臣。それらこれらを鎧袖一触する野太い『荒野の叫び声』を放たれているのが、浜 矩子先生である。
 貿易のブロック化を危惧する観点からの反対である。視野が大きい。広い。高い。男勝りである。御時世であろうか、比するに世の男どもはまことに情けない。重箱の隅はつつけても、大きな絵が描(カ)けないのだ。なにより国会論戦の貧困なこと。浜先生の爪の垢でも煎じて飲んでほしい。
 「TPPはアメリカから押し付けられた『貿易不自由化』である。TPPは相当に声高な悪魔のささやきではないか」(「成熟ニッポン、もう経済成長はいらない」朝日新書)なんとも切っ鋒一閃、問題の本質を剔抉して痛快ではないか。
 以下、ネットでのインタビューを引用する。
◆囲い込み型の貿易取り決めというものそれ自体が問題だ。危険だ。たとえ中身ははっきりしていようがいまいが、日本にとって失うものが少なかろうが、囲い込み型の貿易協定には組しない立場を日本はとるべきだ。
◆日本が有利か不利かは、「自分さえよければ」の考え方である。その発想を飛び越えて、手を結び合っていかなければグローバル経済はうまく成り立っていかない。
◆「日本車が売れるか、韓国車か」といったレベルで突っ込んでいけば、結局細切れ分断の市場ぶんどり合戦に落ち込んでしまう。そのことが30年代の悲劇(第2次世界大戦)を招いた。
◆保護主義の応酬合戦を経て戦争をしてしまった。その反省から、GATTが生まれWTOに発展した。
◆原則を貫いて、たとえアメリカがそっぽを向いても、反対を叫び続けるしかない。

 第1次世界大戦後の世界大恐慌を機に、世界はブロック経済体制へと向かった。列強が経済的な分断を強める。それぞれにブロックを形成し、自らのブロックを守りほかのブロックへ進出を図る。それが世界大戦へとつながっていった。
 歴史に安手の繰り返しモデルを探るべきではないが、教訓は深く読み取らねばならない。前車の覆るは後車の戒めであるからだ。浜先生の憂慮と発想はそこにある。
 また、尊敬する経済学者・野口悠紀雄氏もTPPには反対の立場だ。貿易自由化はWTO主導でいくべきだとのスタンスである。特に──農業ばかりの不利が取り沙汰されるが、工業製品も有利とはいえない。もともとアメリカが輸入工業製品に課している関税は低いので、日本の対米輸出は増えない可能性が高い。関税ではなく、貿易にダイレクトに影響するのは為替水準である。──と指摘されている。虚を突く一撃だ。宜なる哉である。
 
 お二人とも、視座が大所高所かつ巨細漏らさずである。なにもかも見境なく口に入れて、一国の経済が腹を下す『トイレでピーピー』=TPP(尾籠で恐縮)では大いに困る。目指すは、日計足らずして歳計余りあり、ではないか。「歳計」とは世紀であり世界である。
 今夕、野田首相はついに交渉参加を表明するらしい。かくなるうえは浜先生の野太い声に和して、さらに『荒野の叫び声』を高めなくてはならぬようだ。□


二つの皮肉

2011年11月10日 | エッセー

 皮肉とは、禅の修行レベルをいう「皮肉骨髄」に由来する。文字通り骨髄は深く、皮肉は浅い。今はアイロニーとして使うが、原義は表面的理解のことだ。当然、骨髄に至る本質的理解がその先にある。
 一つ目は、今年7月IMFの専務副理事に元中国人民銀行副総裁【朱 民】氏が就任したことだ。
 44年、ブレトン・ウッズ体制が成って西側資本主義国の国際通貨体制が整った。翌年IMFは同体制をサポートするために、世界銀行やガットとともに設立された。つまり国際通貨基金の出自は資本主義で、かつその守護神である。後、ブレトン・ウッズ体制が終焉しても国際金融機関としての重責を担い続ける。今秋のユーロ危機に際しても、ギリシャに続きイタリアにも深くコミットしている。そこのナンバー3あるいはナンバー4である。もちろん、欧州勢が座を占めてきた先例を破っての人事だ。
 今や国連の専門機関になっているとはいえ、かつての資本主義の守護神に社会主義国・中国が名を連ねる。大いなる皮肉といえなくもない。だが「骨髄」を忘れてはならぬ。
 改革開放後、中国はまぎれもない資本主義に変貌した。翻訳すれば、「社会主義市場経済」とはすなわち資本主義だ。しかし、これとて皮肉に過ぎない。約(ツヅ)めていえば、「社会主義」とはすなわち中国主義だ。断っておくが、中国式社会主義などという浅薄な意味ではない。ましてや大国主義といった風(カゼ)でもない。かつては、毛沢東または共産党を見て中国を見ずに乗り遅れた哀れな勢力もあった。中国主義が資本主義を鎧う、決してその逆ではない──これで皮肉を抜けたか。
 2012年問題は中国も迎える。代替わりとともに、原点回帰は必ず起こる。

 二つ目は、タイの洪水である。微笑みの国が水浸しで、今や顰みの国である。引けば収まるほど、簡単な浸水ではない。観光はもとよりアユタヤ工場群がえらい打撃を受けている。回復には少なくとも半年はかかるという。
 インラック首相、就任早々の大きな試練だ。反タクシン派に勝利した途端、今度は水攻めである。選挙でもって一日にして決着がつく話ではない。この夏バンコク中心部を占拠した15万にも及ぶ赤シャツの群衆は、北部農村地帯から大挙してやって来た。そこを支持基盤とする首相にとって、同じ北部から押し寄せる水魔はなんとも皮肉だ。
 チャオプラヤー川は、1200キロにわたってタイを北から南へ縦走する。チャオプラヤー・デルタは世界有数の稲作地帯である。開発による熱帯雨林の急速な減少が背景にあるとはいえ、また大河川を随所に抱える地形であるとはいえ、さらに雨期であるとはいえ、なんとも脆弱なインフラである。
 少し古いが、本ブログを引く。(「2008年11月の出来事から」)
〓〓四捨五入していえば、この国の政争は都会と農村の争いである。タクシンの流れを汲む現政権が農村を、空港を占拠した反政府勢力が都会の利権を代表する。まさに国が二分される争いだ。
 振り返ってみれば、戦後日本も同じ轍を踏んでもおかしくはなかった。農村から人を都会に吸い込み、地方との格差が生まれた。ただ国を二分するまでには至らなかった。おもしろいというか、うまかったのは政治的発言力を地方に厚く配した点である。ほかにも要因はさまざまあるが、戦後日本の大いなる知恵であった。〓〓
 この時空港を占拠したのは黄色の反タクシン派で、攻守が逆だった。赤と黄色の対峙は、この国の南北問題である。ただし「南北」の中身が逆で、所得格差は南3に対し北1にもなる。つまりは政争に明け暮れ、開発に目を奪われて、この国にとって最もベーシックな水対策というインフラが遅れたのではないか。農業と工業の並立という時代のニーズに対応した国土設計のビジョンが手薄になったのではないか。いや、これとてまだ皮肉に止(トド)まる。
 安価な土地と人件費を目当てに、工場移転を図ってきた日本をはじめとする先進諸国の開発攻勢。これを等閑視するわけにはいくまい。この国の南北問題は世界の南北問題の入れ子構造になっているのだ(南北が逆ではあるが)。これが皮肉のその先ではないか。

 二つの皮肉。愚考は的を外しているかもしれぬ。だがアイロニーだけで済ませておけば、気は楽だが事は見えぬ。試みに、ない頭を振り絞って案じてみた。□


短命は続く

2011年11月07日 | エッセー

 もう聞き飽きたことだが、先日のG20にしてもサミットやAPECでも日本代表の顔が毎度ちがう。当たり前だが、たんびに内閣が変わっているからだ。中身が同じなら目先が変わってよさそうなものだが、そうは問屋が卸さない。外からの眼はそれほど甘くない。それはさて措き、どれぐらい短いのか。
  47年新憲法下の初代第1次吉田内閣から現・野田内閣まで、64年間で50の内閣が誕生した(改造内閣は含めず、数次にわたる実質的組閣は含めて計算すると)。平均15カ月、1年と3カ月である。まことに短命だ。
 おもしろいのは、旧帝国憲法下での内閣を同様に計算すると、61年間に46の内閣で、平均16カ月、1年4カ月になることだ。こちらもまことに短い。
 これには明治憲法が抱える宿痾ともいうべき構造上の欠陥があった。「国務大臣単独補弼制」だから、首相といえども他の大臣と同格に過ぎない。罷免権をもつ現行憲法とは雲泥の差だ。かつて、竹下内閣の後継に重鎮の伊藤正義氏(故人)を担ごうとする騒動があった。氏は「表紙だけ変えても中身が変わらんでは駄目だ」と峻拒したが、むしろ旧憲法下でこそふさわしい評だともいえる。後、このフレーズは幾度も繰り返された。戦後政治史上の名言のひとつであろう。
 さらに天皇大権のもとに、実際の差配をする議会、内閣、枢密院、参謀本部・海軍軍令部が並立するかたちをとった点だ。並立ゆえにこれらの国家機関同士の利害が対立した場合、調整、統御するシステムがなかった。対立は力関係に委ねるか、分裂に至るかしかなかった。ために、関東軍は独走した。
 首相の選任についても明治憲法には明文規定がなかった。時として現実の勢力関係を踏まえない元老院の意向が働き、当然のごとく早々に潰え去った。
 戦後、新憲法が布(シ)かれ国のかたちは変わった。旧憲法の悪弊はことごとく除かれたはずだ。さきごろは政権交代も成った。しかし、内閣は短命のままである。いな、ここのところ病膏肓ともいえる。なぜだろう? 
 日本の御家芸である軽薄短小を率先垂範しているのか。あるいは、日本人は飽きっぽいのであろうか。戦前と比するに、システムに責めを負わせるわけにはいかない。となれば、やはり国民的資質に原因があるのか。「表紙だけ変え」るアドホックで、致命的な分裂を避けようとする民族固有の歴史的性癖か。その時々にさまざまな要因が複合しているのであろう。その「さまざま」を一々にピックアップする能は、筆者にはない。あるいは、ひょっとしてこれぐらいがこの国の内閣に頃合いの命数なのであろうか。
 日本人の寿命はダントツで伸びてきたのに、内閣ばかりは短命が続く。メルケル女史のふくよかな御尊顔を拝するたびに、憂いは深い。□


二つの大震災

2011年11月06日 | エッセー

 吉村 昭著「関東大震災」(73年文藝春秋社刊、大震災50年後)。さすがは名著である。筆致は正確で、冷静だ。時間の経過に沿いつつ、主要な事柄を軸に大震災の全貌がまとめられている。緻密な資料分析と豊富な証言の収録をもとに鮮烈なドキュメントが展開されていく。しかしそこに描かれるのは『絵に描いたような』地獄図絵である。
 主なものを挙げてみると──
■ 今村説 VS 大森説
 地震学の第一人者・大森博士と気鋭の今村博士。18年前の「50年以内大地震発生」の今村説に、大森が全面否定で対立する。学会の権威が人心を大きく揺さぶった。
■ 大火災の発生
 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾を震源域とするマグニチュード7.9の大地震が発生。凄まじい家屋の倒壊とともに直後から大火災が起こり、1日半にわたり猛火が首都を蹂躙した。東京市域の44パーセントが焼き払われ、全戸数の65パーセントが全焼した。まさに火の海である。
 特に注目すべきは、手にした荷物、持ち出した家財へ火の粉が降り注ぎ引火したことだ。これが延焼に加勢する結果となった。
■ 本所被服廠跡 3万8千人の死者
 陸軍省本所被服廠跡地で起こった惨事は、大火災を象徴する地獄図絵であった。2万坪を越える空き地に4万人が家財とともに避難していた。そこに四方から火炎が襲い、なおかつ3回も大旋風(竜巻か?)が起こって、夥しい死体の山が築かれた。その死者数は東京全市の実に55パーセントに当たる。
「敷地内は人と家財で身動きできぬほどになった。火の粉が一斉にふりかかりはじめると、一瞬、家財や荷物が激しく燃え出した。炎は、地を這うように走り、人々は衣服を焼かれ倒れた。その中を右に左に人々は走ったが、焼死体を踏むと体がむれているためか、腹部が破れ内蔵がほとばしった。」(上掲書より抜粋、「 」部分以下同様)
 焦熱地獄が現出したとしかいえない。その他、川も池も死体で埋め尽くされた。
■ 朝鮮人来襲説 
 関東大震災とは対になって語られる惨劇だ。最初に東京で湧いたのは、大地震発生後わずか3時間。「社会主義者と朝鮮人が協力し放火している」という流言が、人びとの口から口へ伝播し東京、横浜はもとより全国に広がった。
 社会主義運動の活発化と弾圧。庶民に広がる運動家への忌避。朝鮮人圧迫に向けるよる日本人の冷淡と内部に潜む一種の罪の意識。それらが結び付いたと筆者は視る。
 一旦は沈静化したものの午後7時ごろ、今度は類焼中だった横浜市本牧町付近で息を吹き返した。しかも「朝鮮人放火す」と、純粋に朝鮮人のみを加害者とした流言であった。最も甚大な被害を受けた横浜からの避難民によって、瞬く間に東京へ流入していった。
 もちろん、まったく根拠のないデマであった。警視庁、政府も関東戒厳司令部も一時的には幻惑されたが、最後は何度も布達を出し鎮圧に努めた。
 また当時唯一の報道機関であった新聞も、巷間の流言をそのまま記事にして伝え朝鮮人来襲説を煽るという一大醜態を演じた。
■ 自警団
 前項と関連する。東京はもとより関東隣県にまで自警団がつくられ、完全に流言に乗せられた朝鮮人刈りが横行した。各地で酸鼻を極める殺傷が繰り返され、無法地帯と化した。2千6百余人の朝鮮人が虐殺され、間違えられて60人弱の日本人も被害に遭っている。大震災の、というより日本史に一大汚点を残したといえる。
■ 列車輸送
 政府は飢餓状態の罹災者に地方への脱出を奨励した。しかし鉄道網は破壊され、唯一東北線だけが比較的軽微な被害であった。海軍による海上輸送も行われたが、主力は鉄道。駅は殺到した人びとが他人を引きずり下ろしても乗り込もうとしたり、乗車させまいとしたり、怒声が飛び交い狂騒の修羅場と化した。屋根にしがみつく者、窓枠に身体を縛りつける者、中には車台の下に潜り込んで車軸にしがみつく者もいた。顛落事故や感電死、窒息死が相次いだ。さらには被災地からの人びとの拡散が朝鮮人来襲のデマをまき散らす結果も呼んでしまった。
■ 大杉栄事件
 大震災に乗じた憲兵隊員による犯行であった。亀戸警察署事件と同じく、社会主義運動への血の弾圧であった。大杉夫妻と6歳の甥が殺害された。さすがに子殺しに国民の非難は高まったが、軍法会議は無罪を含む軽微な刑を言い渡して幕を閉じた。
■ 死体処理
 収容所で2日間放置し、引き取り手のない遺体を、薪を積み油をかけて露天焼却。東京市では、その数4万8千。普段の倍の賃金で雇われた作業員延べ8千3百人、糞尿運搬車、塵芥運搬車延べ320台が動員された。
「各収容所からは、死体を焼く煙が死臭とともに立ちのぼった。黒煙は上空をおおい、日没後も炎が夜空を赤々と染めていた。」
「本所被服廠跡は、壮大な墓所であった。四万の死体が散乱し、地表のあらわれている部分はほとんどなかった。遺体の群は雨にたたかれ、残暑の激しい陽光にさらされて、一斉に腐臭を腐臭を放ちはじめていた。遺体には蛆がうごめき、敷地はおびただしい蝿の乱舞に包まれていた。」
 言葉を失う惨状だ。
■ バラック街
 東京市では10月初旬までに2万3千戸のバラックが建てられた。しかし雨露を凌ぐだけの粗雑なもので、人びとは1人1畳以下の空間に押し込められた。共同炊事場は劣悪、ドラム缶の入浴しかなく、排泄物の処理は間に合わず土中に浸みだした。戸外で用便する者も多く、バラック街は悪臭に満ちていた。逆に救援物資があり無料で住めることに安住し、怠惰になり風紀の紊乱も見られた。12月になると、寺院、学校、縁故先に寄食していた人びとが追い立てられるようにバラック街に移ってきて、さらに住環境は悪化した。吹き込む寒気で呼吸器疾患の病人が激増し、その他多くの病気が蔓延した。東京市も改善の手を打ったが成果は乏しく、長く捨て置かれた。
■ 犯罪の多発
 本所被服廠跡では指輪を死体から指ごと切り落として持ち去ったり、金歯を抜いたりする窃盗が頻発した。焼け跡に放置された金庫などからは貴金属が盗み取られ、集団による掠奪事件も続発した。また避難民に配布すると言って、徒党を組んで民家や商店に押し入り強奪を働く者もいた。さらに郵便局員を装って家を訪ね、通帳が消失したので作り替えるからと通帳の番号を聞き出し、郵便局では印鑑を消失したと欺して預金を引き出す知能犯も多くいた。
 女性を誘拐して売春婦として売り飛ばす犯罪。救援物資を公官吏が横領する事件。混乱に付け入った意趣返しやいたずら半分の放火。嬰児の置き去り。バラック街での博打に使う賭け金ほしさの盗み。混乱期を利用して暴利を貪る悪徳商人。またそれに対する打ち壊しの暴動。などなど、人心は荒みに荒んだ。──
 
 読み始めた動機でもあるが、ついつい今年の東日本大震災と比較してしまう。88年前のことだ。1世紀と経ってはいない。なのに誤解を恐れずに言うと、今回はなんと冷静で沈着で整然たる対応であったことか。世界が示した讃嘆も頷ける。
 ただし福島第1原発は除外だ。初めての経験だったこともあるが、余りにもお粗末な政府首脳の対処には声も出ない。今般成立した画期的な「国会原発事故調査委員会」の厳正な検証を俟ちたい。付言すると、同調査委は政府から独立して国会に置かれ、民間有識者10名で構成されて、国勢調査権に基づく調査が可能だ。まことに画期的である。調査権を行使してカンちがい君の愚考、愚行も炙り出してほしいものだ。この法案を主導した自民党の元官房長官・塩崎恭久は名を高からしめたというべきだろう。

 本題に戻ろう。読み進むうち、大きな疑問が湧いてきた。関東大震災と東日本大震災。繰り返すが、双方は1世紀も跨がない。しかし数世紀の隔たり、異国の観がするほどに対応は違う。『疑問』とはそのことだ。
 【今村説 VS 大森説】については、雲泥の差がある。学者の学問的見解は後景に退いて、観測機器や分析能力は飛躍的に発展した。気象庁や地震予知連絡会を中心にした体制も格段に整備された。「緊急地震速報」までが可能とはなったが、3.11は予測できなかった。ただ東海沖地震の発生確率が今後30年以内87%だと発表されて、人心が動揺することはない。学習効果が働いているのか、その逆か。
 【大火災の発生・本所被服廠跡 3万8千人の死者】については今回の場合、火ではなく水だった。宮城県石巻市の大川小学校の例はあるが、本所被服廠跡のような大集団が避難先で落命する悲劇はなかった。
 ひとつ気になるのは、手荷物のことだ。寡聞ではあるが、近ごろ避難時の手荷物、家財についてはほとんどなにも注意はないようだ。車が主体だから問題ないのか。広域な大火災の場合、一考を要するのではないか。
 【朝鮮人来襲説】に類する事例は、今回皆無に近い。ラジオ放送の開始は2年後の1925年だった。当時は新聞しかなく、マスコミの普及は今日とまったく様相を異にする。なにせ、津波が襲う様子を全国がテレビでリアルタイムで観ていたのだ。ネット、ケータイなど情報事情もまるっきり違う。隔世そのものだ。
 さらに、韓流ブームである。ブームどころか、文化として根づきつつある。朝鮮人に関する限り、流言の生まれる土壌はすでにないとみたい。こちらも隔世した。
 【自警団・大杉栄事件】はどうか。公共による公安やガードマン・システムが長足の進歩を遂げている。いろいろあっても、日本は世界一安全な国だ。「見回り隊」はあっても、狂気の徒党はなかった。それどころか、多種多様で溢れるようなボランティアの人並みは大正大震災にはなかった。
 大杉栄事件については、完璧に時代が違う。
 【列車輸送】も同じく、騒擾はなかった。モータリゼーションして、輸送の形態そのものが変化している。東京でも整然と道を行く帰宅難民の群があったし、駅で騒動もなかった。東北でも逃げる車が輻輳して事故や狂態が起こったという報は聞かなかった。3・11と比するに、民族が入れ替わったかの観がある。
 【死体処理】は、今回ずいぶん丁寧になされたのではないか。大正大震災のような荒っぽい措置はなかった。自衛隊の働きも奏効した。
 【バラック街】は、今で言う仮設住宅だ。掘っ立て小屋とマンションほどに違う。お上のお恵みと行政サービスの違いがある。目線が逆になった。時代も国の仕組みも変わった。その如実な証明でもある。
 【犯罪の多発】は、まったくの様変わりだ。フクシマ周辺が空になって空巣が起こったようだが、大正大震災とは比較にならない。スーパー、コンビニから飲料水ペットボトルが消えた程度で、悪徳商人の横行も押し入り強盗も皆無だった。繰りかえすが、民族が入れ替わったのではないかとあらぬ疑いを挟みたくなる。

 二つの大震災を単純に比較はできない。だがその対応は『疑問』を呈するほどに違う。地獄図絵はあったが、人的対応に限っていえば『絵に描いたような』それではなかった。約(ツヅ)めていえば、大変な「進歩」だ。
 関東大震災はもtより、東京大空襲、敗戦後の大混乱、阪神淡路大震災などの学習効果か。新憲法下での国のかたちのちがいか。人心、民度の向上か。逆に、民族的活力の衰微なのか。
 今年5月の本ブログから抜粋したい。
〓〓ヒントになるかどうか。内田 樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」(文芸新書)から引用したい。

 ローレンス・トーブはイランのイスラム革命やベルリンの壁崩壊を予言したことで知られる未来学者であるが、彼の未来予測は人類の歴史がある種の「成熟」の歴程を不可逆的にたどっているという確信に依拠している。「人類は進歩しているだろうか?」という問いをポストモダン期の知識人は一笑に付すだろう。もちろん科学技術は進歩した。しかし、この戦争と虐殺と差別と迫害の連鎖のどこに人間性の成熟のあかしをお前は見ることができるのか、と。
 トーブはこのようなシニカルな評価を退ける。十九世紀以後の歩みをたどってみても、人間たちは人種的・性的・宗教的な差別や、植民地主義的収奪や奴隷制度をはっきり「罪」として意識するようになってきた。これらの行為はそれ以前の時代においては必ずしも「罪」としては意識されていなかったものである。たしかに依然として人は殺され続けているし、富は収奪され続けているが、そのような凶行の当事者でさえ、その「政治的正しさ」や「倫理的な根拠」について国際社会に向けて説明する義務を(多少は)感じている。これは百年前には存在しなかった感情である。
 そのことから見て、人類は霊的に成熟しつつあり、人間性についての省察を深めつつあるという見通しを語ることは許されるだろう。そうトーブは書く。「時代ごとの進歩の速度にはばらつきがあり、少しの進歩も見られない時期もあった。けれども、人類が全時代を通じて、物質的ならびに霊的進歩を遂げてきたことを否定することはむずかしい。 〓〓
 「昔の伝でなぜいかない?」と題し、核廃棄物の宇宙処理を愚考した稿である。『疑問』の解答が、引用最後の一節であると信じたい。さらに専門家による学術的な比較分析も期待したい。比べてみれば、新たな発見がある。発見は前進のエネルギーとなる。□


新種のカニ

2011年11月02日 | エッセー

 今や判り切ったことだが、蟹が釜に投げ込まれて湯掻かれることではない。蟹と“カマ”が合体するという世紀末的悪夢でもなく、かといって蟹が蒲鉾にメタモルするわけはなく(擂り潰せば可能でそのような商品もあったらしいが、今やそんな酔狂は誰もしない)、蒲鉾が蟹のそっくりさんを演じたのが“カニカマ”である。だから『カマカニ』が穏当のような気もするが、語呂は悪い。
 発祥は石川県七尾市。73年に水産加工メーカー・スギヨが売り出した「珍味かまぼこ・かにあし」が第1号である。蟹の身は入っていない。スケトウダラの擂り身に天然着色料と食品添加物の香料で色と香りを付け、蟹エキスで味付けされている。
 社長が昆布から人工クラゲを作ろうとして失敗。その失敗作の食感にヒントを得て人工カニ肉を着想したそうだ。失敗は成功の母だ。今やスギヨは従業員700名、年商は160億を超える。
 他社も追随し、海外にも広く普及した。日本食ブームにも乗って消費量は拡大し、寿司、サラダ、サンドウィッチ、パスタ、鍋、天麩羅などに多用されるようになった。ところによると、“もどき”ではなく一個の独立した食材としてのステータスを獲得している。インドではこれで財を成した起業家もいるそうだ。スギヨは負けじと高級カニカマ「香り箱」を開発。風味、食感はもとより、身のほぐれ方まで本物そっくりだと評判だ。しかも練り製品売り場ではなく、本物のカニと同じく鮮魚売り場に並んでいる。もう、「カマボコ界の青木隆治や~」ではないか。先日瞥見したTV番組では、蟹のベテラン仲買人が見分けるのに四苦八苦していた(ついに見抜きはしたが)。
 ちなみに、荊妻の自慢料理はこれを使ったカニコロッケである。
もちろん、本物の蟹はまったく入っていない。ために、極めて廉価である。ここだけの話だが、自慢は上手いが料理は下手だ。唯一の例外がこれである。悪い癖でどんな料理も、おいしいでしょ! と『拷問』されるのだが(時には、喰う前に)、これだけは素直に『自白』する。一世を風靡したお助け料理人・平野寿将の手になるレシピである。手間は掛かるが、これは美味い。子どもたちも長じてなお、これをお袋の味と勘違いしている。美しい誤解である。(作ったのは母親なのだから、それでいいのか? でも、普通は味噌汁だったり煮物なのだが。コンビニの弁当と言わないだけ、まだいいか。)
 個人的な嗜好をいえば、ステーキよりもソーセージ、刺し身よりも蒲鉾を好む。要は食材の原形を留めないものがいい。練り製品こそ、文明人の食すべきものと信じている。だからユッケ騒ぎは、こともあろうに生肉を食すという非文明的所業に下った天罰である。

 それにしても蒲鉾ではなく、なぜフェイクを作るのか。発売当初インチキ呼ばわりされたのを逆手に取り、アイディア商品として押し通した。キャッチコピーは「カニのようでカニでない」。実に見事な切り返しだ。その機転と勝負勘はひとえにスギヨの社長個人に帰せられるだろうが、面白半分に牽強付会を試みてみたい。
 注目すべきは、カニカマが石川県で産声を上げたことだ。加賀百万石は外様の雄藩である。前田家は徳川にひたすら恭順を示すため、武張ったことをせず文に精を出した。金沢は「天下の書府」と称された。3代藩主利常は鼻毛をわざと伸ばし、阿呆を装った。将軍家との姻戚外交にも注力し、お家の存続を至上とした。だから加賀の文化、工芸は長大なストラテジーを背負(ショ)っていたといえる。過日取り上げた「武士の家計簿」は、対幕府工作の出費に呻吟する加賀藩なればこその苦汁も描かれている。ともあれ目論みは叶い、前田家は幕末まで安泰を保った。維新をくぐり激動の時代が続いたが、400の星霜を経巡るうち、その国家的(一藩挙げての)文化、工芸の伝統は人びとの血肉と化し風土と和したのではないか。
 穿っていえば、社長は食い物を作ってはいない。カニカマは、彼にとってひとつの工芸品ではないか。注ぐ情熱はそれに限りなく近い。第1号の命名「かにあし」はいかにも即物的で、シズルにも通じるマニアックな風(フウ)がある。加賀藩伝来の文化的血統が疼いたといっては言い過ぎか。フェイクはすでに超えているといえなくもない。少なくとも彼は、「カニカマ」という名の新種の“カニ”を世に送り出したことだけは確かだ。□