伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

古い靴下

2009年07月29日 | エッセー
 オーソドックスを『オールドソックス』と言う先輩がいた。古くなっても靴下を洗っては履き続けることならば、何となく意味が通じなくもない。気弱な性格ゆえ、微笑みながらそのまま聞き流したものだ。
 『一把一絡げ』を連発する先輩もいた。十把一絡げの言い違いだ。一把ならどうしたって一絡げしかあるまいと心中で突っ込みを入れながらも、やさしい性格のためか、いつもじっと項垂(ウナダ)れていた。
 偉そうなことはいえない。筆者だってそうだ。雰囲気を、『ふいんき』とかなり長じるまで取り違えていた。ある時「ふいんき」と発言して、雰囲気の淀みに気がついた。もしやと字引を繰ってみても、その語句がない。漢和辞典からやっとたどり着いた。いまのワープロなら入力したとたんに、間違いを指摘してくれる。便利なものだ。だが近ごろでは、『ふいんき』はまちがいのまま定着しつつあるそうだ。
 最近はアナウンサーだって、平気で「耳ざわりのいい音ですねー」などと言う。「とんでもありません」は明らかに誤用なのだが、これも市民権を得つつある。
 例を挙げれば切りがない。世の中、言い違い、読み違い、聞き違い、勘違いはつきものだ。アラビアの格言に「人間は間違いの息子だ」とある通りである。さすればわが宰相の「未曾有」違いなど、目くじら立てるほどのことではない。
 ただ同じ間違いでも、時として歴史を動かすことがある。
 89年の11月、東ドイツ政府が突如、旅行の全面自由化を発表した。この報に歓喜した東西ベルリン市民が検問所に殺到し、壁によじ登りハンマーで壁そのものを壊し始めた。あの映像は記憶に鮮明だ。 ―― ベルリンの壁崩壊である。28年に亙りベルリンを分断し、多くの悲劇を生んできた東西冷戦の牢乎たる砦は潰えた。
 実はこれも、事の起こりは言い違いだった。
 東独共産党書記長から記者会見用に渡されたペーパーを、報道官が読みちがえたのだ。明くる日からを本日只今からと誤読し、さらに出国手続きが依然必要であるという部分を読み飛ばしたのだ。
 もっとも85年のゴルバチョフ書記長登場以来の東欧自由化のうねりは底流していた。引火性が上がっていたところに、マッチを投げ込む結果となった。また東ベルリンの市民は自国のテレビ報道では動かず、西独のそれで行動を開始したというおまけまで付いた。東独はすでに自国民から信を失っていたといえる。
 イデオロギーが人間を呪縛する時代は終焉した。壁の崩壊はその象徴だった。あれから、20年である。実にさまざまな出来事が、世界に重なり起こった。イデオロギーの後には、箍(タガ)を外された民族の血が噴き上がり、軛(クビキ)を離れたファンダメンタリズムが暴走し、野に放たれた欲望がマネーゲームに狂奔した。壁が除かれて開いた視界は、またも陰った。
 人の世は、なかなかオーソドックスにはいかない。『古い靴下』であろうと、洗っては履き続けるしかないということか。 □


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星の王子さま

2009年07月24日 | エッセー
 太陽が蝕まれる、ように見えるから日蝕または日食という。「食」は「蝕」の通用字だ。月の場合が月食、星同士なら星食、掩蔽ともいう。天球の妙技だ。太陽の大きさが月の400倍、なんと距離も400倍。奇蹟の一致である。当然、直線上に並ぶと太陽は丸ごと蝕まれる。
 今世紀最長の皆既日食が7月22日、観測された。大変なフィーバーだった。日食ハンターなるものも登場し、インドから中国、トカラ、奄美、硫黄島沖にいたる皆既日食の帯には日食ツアーが組まれた。当日の天候が明暗を分け、トカラの悪石島では暴風雨で散々な目に。大枚214万円のツアー料金を返せという呻きまで出ている。片や、硫黄島沖では晴天のもと6分間の皆既日食が満喫できた。ともかくも上を下への大騒ぎであった。
 その感興を「天と地と人の一体感」だとする人もいる。「宇宙の中にいる自分をこれほど実感させてくれるものはない」という。だがかつては天変地異の一つであったし、ヒンドゥーではいまでも天の凶相とされる。いずれにせよ、いまや予測し得る例外的出来事に立ち会える運気に人は酔うのかもしれない。しかも天を舞台に何十年振りの、希少な機会だ。
 前回は46年前だった。ガラスに墨を塗って準備した憶えがある。ただ、それを観た記憶はない。なんとも不思議だ。悪天候だったのか、体調が悪かったのか。杳として知れない。
 こんどはちがった。一天にわかにかき曇り、重く垂れ込めた白い雲を透かして上弦の月のような日輪を見た。しかも、これだけ雲が厚ければ問題なかろうと勝手に決めこんで肉眼で見た。部分日食でも、稀有なる天球の妙技に変わりはない。臨場にこころがときめいた。三日月ならぬ『三日日』でさえこうだ。想像するに、硫黄島沖の洋上では凄まじい感動が弾けたにちがいない。
 同級の淑女たちから連絡があった。今回は見そこねたが、次は「天体ショー」を必ず観るわよ、と。なんとも意気軒昂である。次は26年後だ。女性の平均寿命でいけは、かの淑女たちは滑り込みセーフだ。だが、地球という「星のお婆さま」になっている。たぶん …… 。いや、きっと! 
 わたしといえば、「そのころは、どこかの星で観てるだろうよ」と応えておいた。しかしそこに太陽のような恒星と月のごとき衛星が奇蹟のサイズと距離に位置し、千載一遇の運気があればのはなしだが …… 。
 でも負け惜しみをいえば、こちとらピチピチの「星の王子さま」だい! □


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ルビコンを渡る

2009年07月19日 | エッセー
 平均寿命が過去最高を記録したそうだ。男が79歳、女が86歳。特に女は24年連続で世界一だ。これは人類史的快挙であろう。男女の平均を83歳とすると、還暦はその72パーセント。まだざっと3割残っている勘定だ。
 西暦はまだない。元号は度々変わる。経年が表現しづらい。そこで、先人は干支を使った。十干と十二支とを組み合わせた干支は60種類ある。つまり60年暦ができた。寿命からいっても、そのくらいが時代把握に頃合いだったのであろう。その暦が振り出しに還るから還暦だ。振り出し、つまり赤ん坊に還るので赤いちゃんちゃんこを着せ、赤いずきんに、赤い座布団となる。また赤は魔除けの色とされるから、併せて末永い健康を祈る意味も込められた。
 別名、本卦還り。易の八卦で初回を本卦というところからきた。「大還暦」もある。還暦が2周、つまり120歳である。それは言葉の弾みと訝る向きもあろうが、ギネスに登録されている最高齢はフランス人女性の122歳である。ホルモン分析の結果、ヒトの寿命の限界は120歳だとする科学の知見もある。だから、ひょっとしたら大還暦が普通になる時代がくるかもしれない。もっともそれまで長生きはできまいが。

 昭和30年代から満年齢表記が一般化し、還暦も数え年が本来だが満で勘定するようになった。だから4月以降、五月雨式に同級の輩(トモガラ)が還暦を迎えている。残念ではあるが、本卦還りをすることなく生者の列を離れた者もいる。わたしも生きていれば、早晩迎える。
 戦後すぐの頃でさえ、男の平均寿命は50歳であった。だから還暦には希少価値があった。言挙げもされ、祝い、祝われたのではないか。いまは上記の事情だから、決して稀少ではない。かつ団塊の世代だ。圧倒的多勢である。加えて元気であり、ほとんどが現役である。余計、「一巡した」実感には乏しい。大多数が「年不相応」な還暦に面映ゆく対面しているのではなかろうか。

 評論家の池上彰氏の話 ―― 「むかし戦争がありましたよね」と大学生が言うので相手をしていると、どうもおかしい。なんと、彼の言う戦争とは「湾岸戦争」のことだった。 ―― そんな時代だ。なにかにつけ、第二次世界大戦が時代の分水嶺になった時代は終わりつつある。特に団塊の世代は「分水嶺」の灰燼の中で生まれた世代だ。その世代が『戦争を知らない子どもたち』と歌われたことが、もはや懐かしい過去となった。いまは新手の『戦争を知らない子どもたち』の時代となった。還暦の感慨極まれりのエピソードではないか。
 
 一巡はしたものの、さしたることを成し得なかったひとめぐりであった。それどころか、齟齬と蹉跌の繰り返しであった。素封ともならず、権勢とはほど遠く、論功行賞では常に埒外にあり、世に記録も記憶も、豪邸も美田も残しはしなかった。子孫は残したものの、それは生物学的な継承を超えるものではない。まことに跛行、蛇行のごとき来し方であった。
 そして2巡目。残りは、あと3割。長いか、短いか。一体、いつまでか。そんなことは判らない。解らないのが妙味でもある。養老孟司氏の伝でいけば、どんな名医だってテメーの命日は知る由もない。だから、3割と勝手に決めるのも手だ。となれば、隠居を気取る暇(イトマ)はない。ここは一番、ルビコンを渡ると肚を据えるしかあるまい。カエサルに倣えば「賽は投げられた」のである。「終わりよければすべてよし」だ。 □


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旅順の悲劇

2009年07月15日 | エッセー
 NHKが2年越しで「坂の上の雲」を撮っている。司馬遼太郎はこの作品の映像化を禁じていたはずだが、どうなったのだろう。事情の変化があったのか。みどり夫人が了解したのであろうか。
 それはともかく、戦況の推移とともに朝鮮半島周辺の制海権が緊要のボトルネックとなる。つまりは旅順が戦いの帰趨を決する要衝となる。旅順港に潜むロシア艦隊を殲滅しなければ、最大の脅威であるバルチック艦隊を迎え撃つことができないからだ。海軍は、陸軍に旅順の攻略を要請する。立ちはだかるのは鉄壁の旅順大要塞。難攻不落の巨大なる砦である。
 「坂の上の雲」<旅順>の章はこう始まる。

    ◇    ◇    ◇    ◇    
 旅順の港とその大要塞は、日本の陸海軍にとっての最大の痛点であり、ありつづけている。
 東郷の艦隊は、悲愴を通りこしてこっけいであった。かれらは陸軍が要塞をおとさないため、なおもこの港の口外に釘づけにされ、ロシアの残存艦隊が出てきて海上をあらしまわることをふせぐための番人の役目をつづけている。大戦略からみてこれほどの浪費はなく、これほど日本の勝敗に関してあぶない状態はなかった。
 ――バルチック艦隊はいつ出てくるか。
 という報は、欧州からの情報はまちまちでまだ確報はない。無いにしても、
「早ければ十月に日本海にあらわれる」
 という戦慄すべき説もおこなわれていた。(略)
 東京の大本営も、あせりにあせった。
「乃木ではむりだった」
 という評価が、すでに出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事をおこなったのは東京の最高指導部である以上、いまさらどうすることもできない。更迭説も一部で出ていた。しかし戦いの継続中に司令官と参謀長をかえることは、士気という点で不利であった。
「あの作戦では、士卒を大量に投じては旅順のうめ草につかっているだけで、旅順そのものはびくともしていない。いったいなにをしているのか」
 という批評も、大本営では出ていた。驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった。(略)
 かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束になって殺された。
 しかも乃木軍の司令部はつねに後方にありすぎ、若い参謀が前線にゆくこともまれで、この惨状を感覚として知るところがにぶかった。この点、この攻囲戦の最後の段階で、児玉源太郎がこの戦線にあらわれたとき、まずこの点に激怒した。児玉は乃木に対しては寛容であった。乃木にはただ全軍を統御するというだけが、期待されていた。
 が、実際作戦をおこなうべき伊地知参謀長以下の参謀に対しては痛罵した。一参謀があまりに戦況を知らないというのでその参謀懸章を、衆人の前でひきちぎったこともあった。
    ◇    ◇    ◇    ◇    

 旅順攻囲戦を担ったのは満州軍所属の第3軍。司令官は乃木希典、参謀長が伊地知幸介であった。
 要塞の攻略は坑道戦が常道であるが、乃木にも伊地知にもその経験も基礎知識もなかった。8月の第1次総攻撃では、10万発以上の大砲撃を加えたのち突撃を繰り返すという稚拙な戦術を採る。結果は戦死5千、負傷1万の大敗。ほぼ1個師団分の損耗である。
 のち戦法を変え、2カ月をかけて塹壕を掘進し敵保塁を次々と攻撃、奪取。10月に第2次総攻撃となる。本国から取り寄せた大型榴弾砲も威力を発揮して旅順港へ砲撃を加えたものの、要塞の突破には至らず。戦死千名。またも敗走となった。
 10月、ついにバルチック艦隊が極東に向け出航。巨像が動いた。大本営に戦慄が走る。矢の催促に陸軍は、第3軍に精鋭師団を投入。11月、第3次総攻撃を開始する。突撃隊を募って要塞への決死の奇襲攻撃に挑むものの、逆に集中砲火を浴びて敗退、計画は頓挫する。事ここに至り、第3軍は攻撃目標を要塞正面から203(ニヒャクサン)高地に変える。203高地の攻略は要塞、軍港双方への攻撃の急所であった。海軍参謀秋山真之の発案ともいわれ、乃木、伊知地には何度も具申されていたことだ。しかし頑迷な彼らは無視し続けてきた。
 敵陣の一点に総力を注ぐものの、203高地の戦闘は難渋を極める。見かねた満州軍総参謀長児玉源太郎が来陣し、直接指揮。12月4日、203高地占領、ロシア旅順艦隊は全滅した。戦死者5千5百。年を跨いで1月、ついに旅順要塞が落ちる。戦局に展望が開いた。
 
 なぜ、屍累々の惨状を招いたのか。一敗地に塗れるほどの惨敗を喫したのか。引用文中で司馬が語るように「命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さ」はあったものの、やはり「乃木軍の最高幹部の無能」こそ元凶にちがいない。児玉が激怒した「司令部はつねに後方にありすぎ、若い参謀が前線にゆくこともまれで、この惨状を感覚として知るところがにぶかった」のは、前線の兵にとって不運で悲惨でありすぎる。
 勝負感に疎い愚昧な将に率いられる軍団こそ哀れである。なんと言い繕っても悲劇が俟つだけだ。
 『真夏の旅順要塞』? ―― 奇想、天外より来(キタ)るの類(タグイ)であればよいが …… 。 □


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ふたたび茨の道へ

2009年07月13日 | エッセー
 以下は、前稿へのcocoaさんのコメントである。
〓〓番外編
 日本女子バレーを常に牽引し、このブログでも何度か取り上げられました、「シン」こと高橋みゆきさんが6月30日で所属のNECを退団しました。報道では「高橋引退」となっていますが、本人は「心と身体を休めるための『休憩』」と言っています。翌7月1日からはあのエイベックスに所属。ブログも開設されコメントの数も桁外れで、バレーを離れてもその人気は変わりません。コートとはまた違った高橋みゆきさんの活躍に期待したいです。〓〓
 なにを隠そう(すでにバレーバレーだが)、わたしは年甲斐もなく人後に落ちぬミーハーである。このコメントに心動かぬはずはない。

 真鍋ジャパンはSHINを切った。竹下、杉山にはオファーし、杉山は辞退した。真意は判らぬ。深謀があったのであろう。確かにすでにSHINはフィジカルな限界を越えていた。かつて語った『カズ型』『ヒデ型』でいえば、これを潮(シオ)に彼女は後者を選んだ。
 おそらく大きく舵を切るだろう。ひょっとしたら芸能界デビューかもしれない。
 ホームページを観ると、すっかりメタモルした彼女が映っている。かつて本ブログで、わたしは次のように記した。(06年9月1日付「排球の佳人たち 」より)
〓〓躍動する彼女たちは美しい。渾身の一撃を放つ刹那がまぶしい。一球を逃すまいと地に全身を擲つ。五体が滑空し、魂が迸る。彼女たちはコートに跳ね、撃ち、奔り、そして舞う。
 女子バレーボール ―― 東京オリンピックはすでに神話である。モントリオールも隔世の彼方だ。爾来、永い低迷が今日までつづく。だが、つねに彼女たちは美しく舞い続けた。
 私を虜にして止まぬ女子バレーの魅力とは、躍り動く妖艶さだ。なまなかな動きではない。常人をはるかに凌駕する素質に、容赦ない鍛練の磨きがかけられている。大作りではあるものの至極普通の容姿が、コートに身を移したとたん垂涎の佳人へとメタモルフォーゼする。並な女優の比ではない。しかも、寸毫も粧(ヨソオ)わぬ化身だ。秘術にちかい。
 秘術はその尋常ならざる動きにあるにちがいない。遥か高みにまで研ぎ澄まされ、緩急を自在に織りなす動きが、巧まずしてこの世ならぬ美を生み出す。これは女性アスリート全般に言えることだ。競技中の容姿、動きの只中を切り取った顔(カンバセ)はすべて例外なく美しい。現し身は見事に化身している。躍動の色香だ。〓〓
 これで2度目の引用である。誠に恐縮の行ったり来たりである。だが上記の伝を引き継ぐとなると、「排球の佳人」から「ブラウン管の佳人」か。
 しかしそれにしても、「ブラウン管」とはいかにも古い。すでに石器時代のことばだ。恥ずかしい。「液晶画面の」か、「プラズマ画面の」か。「有機EL」「レーザー」「FED」「SED」 えーい、要するに「テレビ画面の」である。それの「佳人」が登場することになるのであろうか。

 養老孟司氏はいう。「情報は変わりません。でも私という実体は、歳とともにひたすら変わってしまいます。変わるのが人間なのです。」(PHP新書「逆さメガネ」より) 
 先人たちは元服をはじめ、折あるごとに名乗りを変えた。否応のない実体の変化を知っていたから、名前という不変の情報を実体に即したのだ。現代は、情報が可変であり人間は不変であるという多いなる錯覚が瀰漫している。
 SHINの転身や、よし! である。

 西洋の諺に、「一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。一生幸せでいたいなら、正直でいることだ。」とある。
 「正直」とはつまり、自分に偽りなきことであろう。だとすれば、夢を追うに若(シ)くはない。山本周五郎の言。
「この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、自分の生きたいように生きるほうがいい。」
 ただヴィジョナリー、つまり夢を実現する人たり得るには茨の道を踏み越えねばならぬのは万古に不易だ。それもある意味ですでに常人にはなし得ないヴィジョナリーとなった彼女が、さらに別の道程を目指すとなると。

 おしゃれをしても爽快感は一時(イットキ)、さりとてストレス解消にお買い物に興じたとてせいぜい一週間。ではでは年相応に身を固めても、ハネムーンは一月(ヒトツキ)と決まっている。ならばとしおらしく「家」に収まったにせよ、ハッピーライフは一年が関の山。ええい! ままよと、「一生」の「幸せ」に挑むSHIN。
 茨の道に幸多かれと祈る。ひたすら祈る。 □


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2009年6月の出来事から

2009年07月09日 | エッセー
<政 治>
●自民、世襲制限先送り
 国会議員の世襲制限は実施時期を明記せず(4日)
―― たとえばアメリカで世襲が問題になったとは聞かない。保安官・ブッシュにしたって、世襲だからいけないという論議はついぞなかった。所詮は当人の資質と仕事ぶりの問題であった。
 機会の平等を奪うという側面は確かにあるが、日本が抱える政治の問題を「世襲」に極小化、矮小化してはなるまい。木を見て森を見ずの愚を犯してはならない。目眩ましに引っ掛からぬように要注意だ。喫緊のイシューはもっと外にある。

●温暖化対策の中期目標決まる
 2020年までに温室効果ガス排出量を05年比15%減に(10日)
―― 次の宮台真司氏の指摘には、正直、まいった。
〓〓最近「環境問題のウソ」を暴く本や言説がブームです。僕は爆笑します。「温暖化の主原因が二酸化炭素であるかどうか」はさして重要ではないからです。なぜなら、環境問題は政治問題だからです。そうである以上、「環境問題のウソ」を暴く本が今頃出てくるのでは、15年遅すぎるのです。環境問題が政治問題(集合的決定に向けた動員の問題)だとは、最終的に出力される国際的決定が内容的に正しいか否かに関係なく、最終決定に関わる位置取りが国際社会での(その他の政治問題を含めた)政治的影響力に直結するということであり、その意味で国益に直結するということです。そうした政治的なゲームでは、「何が真実か」ということより「何が真実だという話になったか」がはるかに重要です。社会学者のマックス・ウェーバーが喝破する結果責任の言葉通り、「何が真実だという話になったか」に有効な影響を与えられなかった以上、今頃何を言っても「負け犬の遠吠え」です。〓〓(幻冬舎新書「日本の難点」から)
 全面的に賛成はしかねるが、見落としていた観点である。虚を突かれた。環境問題は、すでにパワーゲームになっているのだ。ならば、もっともっと日本を高く売らねばなるまい。環境「超」優等国の実績を引っ提げて、徹して高飛車に出るべきではないか。姿勢は高く目標値は低く、これだ。

●骨太09を閣議決定
 年間2200億円の社会保障費抑制を見送り、歳出改革のトーン後退(23日)
―― 好悪と手法は別にして、小泉改革は方向性としては間違ってはいなかった。だんだんと骨太どころか骨抜きにされていく。終(シマ)いには出汁も取れない小骨になってしまう。

●鳩山民主党代表が「虚偽献金」認める
 故人らの名義で計2177万円。代表辞任は否定(30日)
―― 麻生総理はさかんに「故人」と「個人」を並べてオヤジギャグを連発するのだが、これがいっこうに受けない。
 昭和20年代には、彼らの祖父同士が熾烈な政争を繰り返した。料亭での密談、寝返りの応酬、除名に懲罰、分党しまた復党、さらに新党結成。昭和30年の自民党の結成まで、「吉田学校」と「鳩山梁山泊」の『ヤクザ』まがいの壮絶な権力闘争が続いた。
 それからすれば、小粒で平和的になったものだ。孫と言えば、DAIGOや影木栄貴(エイキ エイキ、漫画家、DAIGOの姉)もいる。こちらは『カタギ』で献金とも政争とも縁はなく、いたって文化的でなおかつ上手に「おじいちゃま」を使っている。「名門」のお二方も見習ったらいかがか。

<社 会>
●全盲の辻井伸行さん優勝
 米バン・クライバーン国際ピアノコンクールで(7日)
―― 目が見えたらなにを見たいかとの質問に、「お母さんの顔が見たい」と応えた。父は「はやく『全盲の』がとれて、『ピアニスト』になることが目標です」と。双方とも、今年一番の輝きをもった言葉だ。煌めく言の葉に久方ぶりに接して、こころが洗われた。

●ラブホテル経営の宗教法人が所得隠し
 休憩料をお布施と偽ったと国税局が指摘(9日)
―― 前項とは逆に、今年一番不快な言葉であり事件だ。『拝観料』ではなく『お布施』、観光ではなく信仰を『偽装』するところが、いかにもあざとくあこぎだ。

●郵便不正事件で厚生労働省局長を逮捕
 証明書偽造の疑い。部下に発行催促か(14日)
―― 局長は否認のまま送検となったが、「政治案件」との言がどうにもひっかかる。裏に何かが蠢いてはないか。事実だとして、優秀なる局長がわざわざ危ない橋を渡るはずはない。検察よ、もっと踏み込め。巨悪を眠らせてはならぬ。

●西松建設前社長の初公判
 東北の公共工事で小沢事務所が「天の声」と検察が指摘(19日)
―― 以前にも触れた。野党にあろうとも、彼には自民党の核心部分のDNAが受け継がれている。いまだに「古典的手法」を振り回していたとすれば、その「古さ」に唖然とする。

●セブンイレブンに排除命令
 販売期限が迫った弁当の値引き制限は不当と公取委(22日)
―― 決してセブンイレブンの肩を持つわけではないが、販売システムの問題とは別に、老舗が培ってきた企業文化が齟齬をきたしたとみることもできる。いつでも、新しいものが、不足なく揃うという「金看板」が拡大による店舗数の増大、他店との競合によって立ち行かなくなったのではないか。つまり、かつては完売に近いサイクルで回っていたものが売れ残るようになった。または、値引きしてまで売らない老舗の沽券に執着したのか。いずれにせよ、企業文化とその適正規模、企業経営のあり方、文字通り鼎の軽重が問われているのではないか。
 もしこれが何百年と続く京都の老舗漬物屋だったらどうだろう。「うちの品物はそないな安物とちがいます。勝手に値引きするような店にはもう卸しまへん。」で、お仕舞いではないか。公取委の出番はないはずだ。

●「脳死は人の死」可決
 臓器移植法改正のA案が衆院通過(18日)。参院で審議入り(26日)
―― 参院で審議中で、決着には至っていない。養老孟司氏は、かつてこう述べている。長い引用だが、赦されたい。
〓〓「生死の境目」「死の瞬間」が厳格に存在しているというのは勝手な思い込みに過ぎない。人が本当にどの時点で死んだのかというのは実は決定できない。「臓器移植法」を見ると、そのことはよく表れています。そこには「脳死は死である」とは書いていないのです。単に脳死状態の患者からは臓器を移植してもよいということしか書いていない。
 臓器移植法は色々と難しく書いてはいますが、要は「脳死は死ではないが、臓器移植は可である」ということだったのです。ここにこそ日本の社会の特徴がよく出ていたのです。「脳死は死だ」という断定を避けないと、村八分を規定するルールにひっかかってしまう。共同体のルールに抵触します。全員一致じゃないのに、そんなことを決めてはならない。しかし臓器移植は進めていきたいとなると、結局、この答えにならざるをえない。こんな非論理的なルールは多分よその国でやろうとしたら大喧嘩になります。しかし、日本ではこれで通用した。死んでいるかどうかはっきりとはさせないけれども、そこから臓器を取ることは認める、としたのだから随分乱暴です。脳死が死か死でないかということを決めることと、臓器移植とは関係がないというふうにした。それはどこか、江戸時代にタテマエとは別に実態に則して「」という存在を作ったやり方にも通じるような気がします。このように、共同体のルールで済ませていたことを表に出して明文化すると、論理的に破綻してしまったり、厄介なことが起きたりということはいろいろあります。〓〓(新潮新書「死の壁」より) 
 「共同体のルールで済ませていたことを表に出して明文化すると、論理的に破綻してしまったり、厄介なことが起きたりということはいろいろあります。」まさに今がそれである。袋小路に入りつつある。しかし法治国家である以上、法整備は必要だ。なんとも難儀である。

<哀 悼>
●マイケル・ジャクソンさん
(82年のアルバム「スリラー」で売り上げ世界記録を樹立し「ポップの帝王」と称された米歌手)50歳。(25日)
―― ビートルズ世代の「欠片」としては、『付き合い』がさほどない。したがって、感慨もほとんどない。ムーンウォークが彼の独創だとは、いまにして知った。
 それはともかく、アメリカのセレブにはどういうわけか横死、頓死が多い。ケネディーも、モンローも、米国人ではないがレノンもそうだ。超大国ゆえに印象が増幅されるのか、単なる勘違いか。死ぬほど暇な時に、考えてみようか。 

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。すでに触れた話題、興味のないものは省いた。見出しとまとめはそのまま引用。 ―― 以下は欠片 筆)□

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福島克也 君について

2009年07月03日 | エッセー
 浅田次郎氏のサイン会でのこと。頼めば誰々様へと脇書をしてくれるとのこと。メモ用紙に友人の名を記して渡した。
「んっ」、氏の筆が止まった。介添えの秘書を振り返る。「先生、同じですね」と彼が呟いた。
「いやー、奇遇、奇遇です」
 すかさず「友達です」と応える。氏は「へえー、そうですか!」とにっこりほほ笑み、握手で応じてくれた。

 浅田次郎著「きんぴか」は、桁外れにおもしろい。リボルバーのように爆笑の連続撃ち。笑い疲れたころ、驟雨のように泣かしてくれる。半分はヤクザの世界を描いているのだが、これがなんとも明るく滑稽である。ピカレスクを謳うものの通途の勧善懲悪ではなく、ピカレスク本来のユーモラスな風味を過剰に敬承して限りなくコメディーに近いともいえる。
 希代のストーリーテラーに掛かると、裏街道は堂々たる幹線道路に変貌し、日陰者は国民栄誉賞に輝き、奇人・変人はフツーの人に、異人は偉人に、性格異常者は品行方正なる模範市民に、病人は健常者に、ボケはまともに、そして犯罪者は英雄となる。ミスターマリックなぞは高が知れている。ぜんぶタネありではないか。(そのタネが判らないのがなんとも悔しいが …… )ところがどうだ。浅田御大はタネも使わず、ネタだけをペン先に乗せて、奇想天外、驚天動地、前代未聞の大ウソ、いや荒業をビシビシと決める。「泣き」の次郎は世を憚る仮の名、「笑い」の次郎こそ、その正体だ。といいたいのだが、それもウソらしい。
 なにせこの作家、「 学者は真実を追究しなければならない。しかし小説家は嘘をつくことが仕事である。」(「つばさよ つばさ」から)と公言する未曾有の正直者だ。正直の度が過ぎて、本心が掴めない。まことにややこしいお人である。

「きんぴか」に登場する人物は、一人を除きみな荒唐無稽である。苔むしたギャグだが、「そんなヤツ、おらんやろー?!」のオンパレードである。
 坂口健太 ―― ムショ帰りのヒットマン。度胸右に出る者のない相当に時代錯誤の、チャキチャキの江戸っ子ヤクザ。
 広橋秀彦 ―― 大蔵省トップキャリアから大物代議士の秘書に転身。末は総理かと嘱望されたが、一身に罪を被り政界から消えた超秀才。
 大河原勲 ―― 坂口以上にアナクロでありながら、大義なき湾岸政争への派遣に抗って一人で武装蜂起した和製ランボー。元自衛官。筆者、お得意の分野だ。
 この三人が主役である。これだけでもかなりアブノーマル、アンビリーバボである。小説にしか棲息し得ない人種である。
 向井権左ェ門 ―― 泣く子も黙る凄腕の元刑事。三人のフィクサーである。警視総監とは闇市育ちの同期の桜。この道一筋。豊富なコネを使い、退職後も辣腕を振るう。
 阿部まりあ ―― 五千人を殺したと豪語する救急救命室のベテラン・ナース。医者もヤクザも震え上がる「血まみれのマリア」。病室では自分が法律だと嘯く。ななんと、坂口といい仲に。
 岩松円次 ―― 関東に蟠踞する広域暴力団・天政連合会内金丸組組長。文士崩れで才覚も人格もない。ただ配下には恵まれ、資金は潤沢。五代目総長の座を狙う。
 田之倉五郎松 ―― 天政連合会若頭。ナンバー2であり、岩松のライバル。地位に反して品性劣り、子分は烏合、始終ドジばかり踏んでいる。
 新見源太郎 ―― 四代目天政連合会総長。ボケか偽装か定かならぬ展開の果てに、大団円、跡目相続で大英断を下す。
 その他、政界の暗部を暴いて暗殺される新聞記者。世界的ネットワークを軽々と破る天才ハッカー少女。離縁された広橋ののちに、婿に入った風采の上がらぬ医者。ところが、あのマリアが舌を巻いた現代版赤ヒゲ。向井に愛の鞭で打ち据えられ、邪道から立ち直る切れ者課長刑事。町金(マチキン)も恐れおののく芸術的踏み倒し名人の借金王。任侠映画に脳髄まで染められ、カネでのし上がる土地成り金ヤクザ。 …… などなど、実に多才、多芸、多種、多様。京の生鱈、天こ盛りである。

 さてその中で、先述の「除いた一人」こそ誰あろう、「福島克也」君なのである。
 金丸組若頭。主役ではないが、重要な脇役である。坂口の弟分で、全3巻に通じて登場する。ヤクザにしておくのはもったいないほどに真面目、かつ紳士である。日常の言語はごく普通の標準的日本語で、ここぞという決め時を除いては裏世界の手荒なお言葉はめったに出ない。掌の先には合計10本の指が欠けるところなくきっちりと揃っており、いつも背広にネクタイ、紳士の鑑である。ハンドルを握ると、とたんに人格が野獣に豹変するが、それ以外は極めて平和的だ。
 忠実で知的で、手堅く、気が利き、義に堅く情に厚い。とても有能、できる男である。繊細かつ大胆、決断が速い。万を超える構成員の大組織を、金融から建築、ソフトウェアーまで扱う「金丸産業」として切盛する社長であり、盆暗親分に代わり、組を実質的に束ねるオーガナイザーである。
 高級住宅街に居を構え、娘の弾くピアノの音が優雅に流れ、家人は彼を「パパ」と呼ぶ。裏と表、見事な使い分けである。
 時代が読める彼の理想は、ヤクザの集団をそっくりカタギの事業集団に変えること。天下に一点の曇りなき、世の王道を歩む近代的ヤクザにメタモルフォーゼすることだ。

  …… そんなわけで、周りがあまりに突出した人物だらけであるせいか、彼が唯一『まとも』に見えるのである。「そんなヤツなら、おるかもしれーん?!」である。
 現身(ウツシミ)の福島克也君はいかがであろう。
 これが上記の特徴にぴったりと符合する。まるで『移し身』のようだ、といえば事は簡単だが、そうは問屋が卸さぬ。卸さぬもなにも、そうだとしたらわたしとは今世、袖振り合いもしないに決まっている。自慢ではないが、半世紀以上をカタギひとつに決めて生きてきた。第一、作中の人物とアナロジーを一々に詮索しても意味はない。ただ、不惑を越えて急にメタボになった胴回りと欠損した指がないこと、紳士風の挙措、情に厚い性格、裏街道ではなく裏道を好んで歩くクセは似てなくもないが …… 。

 ウソで固めた虚偽と同様に、ウソで固めた真実もあるのではないか。ウソの上塗り、重ね塗りで輝く、ウソのような至宝もあるのではないか。塗師こそ、小説家の天職だ。「きんぴか」とは、ウソの世界で織り成される目眩(クルメ)く人間の輝きをいうに違いない。あの金バッジではない。眩しくて正視できないから、この小説家はウソで包(クル)んだ。数多いウソの中でも、これは「ぴかいち」の出来栄えである。なにより、オーラスを包む霧のような寂寥感はただのピカレスクではないことを雄弁に語っている。

 ついつい読みそびれて、とうとう2年。この2日間で一気呵成に読了し、感想に替えて本稿を綴った。
 これで若頭が加わり、福島克也君が二人。両人とも「きんぴか」の、かけがえのない友人となった。 □


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