伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アナロジーの予感

2015年02月28日 | エッセー

 多分そうではないかと、一報を聞いた時の嫌な予感は外れていなかったようだ。
 捜査関係者が「IS(註・「イスラム国」)の事件を彷彿とさせる」といったそうだ。首を横様に切りつけたいくつもの傷、頸動脈に達するほどの深い刺し傷、抵抗できぬように緊縛したのであろう結束バンド、無体な命令拒否への仕打ち、SNSでの遣り取り、そして出血性ショック死、隠滅を図ったか衣服の焼却……。模倣というにはあまりに惨い。しかも、とてつもなく杜撰だ。この命の軽さは、一体なんなのだろう。“川崎”の向こうに仄見えるISの薄闇に歩み込んでみたい。
 作家の高橋源一郎氏は、朝日新聞の『論壇時評』(今月26日付)にこう綴っている。
◇「人質事件」をきっかけに、いわゆる「イスラム国」に関する論考が夥しく現れた。「狂信的テロ集団」と呼び、「非人間的」と糾弾する声も多い。ほんとうに彼らは、想像を超えた「怪物」なのか。田原牧は、違う、という。
 「彼らは決して怪物ではなく、私たちの世界がはらんでいる病巣の表出ではないか」「彼らをまったくの異物と見なす視点には、自らの社会が陥った“狂気”の歴史に対する無自覚が透けている」
 田原は、こうも書いている。
 「彼らがサディストならば、ましだ。しかし、そうではない。人としての共感を唾棄し、教義の断片を無慈悲に現実に貼り付ける『コピペ』。この乾いたゲーム感覚ともいえるバーチャル性が彼らの真髄だ。この感覚は宗教より、現代社会の病的な一面に根ざす」
 だとするなら、わたしたちは、この「他者への共感」を一切排除する心性をよく知っているはずだ。「怪物」は遠くにではなく、わたしたちの近くに、いま日常的に存在している。◇(抜粋)
 自らも中東での取材、投獄経験があるジャーナリストの田原 牧氏(女史?)は「怪物ではなく」「世界がはらんでいる病巣の表出」だという。中1の命を手玉に取った彼らもまた、「怪物」でも異物でも、異端でもない。日本が「はらんでいる病巣の表出」ではないか。原発事故でも目が覚めない経済合理への執着。カネが命を駆逐する狂気──。敗戦でも目が覚めない戦前的価値観への執着。命の上に夜郎自大の大義を据えようとする狂気──。そう深刻な反省を突きつけられていると目が覚めねば、13歳の命は浮かばれない。
 つづく「バーチャル性が彼らの真髄だ」との指摘、これは透察だ。バーチャル性が極まり、足を掬われたところに「人としての共感」が根こそぎ遺棄される。血の通った人間が、血の流れるモノへと化していく。「サディストならば」、生身の相手がいる。その分、まだ「ましだ」。モノとしてしか遇されなければ地獄でしかない。宗教的病理というより「現代社会の病的な一面」であるバーチャル性。川崎の加害少年たちも、このバーチャル性の瘴気に蝕まれていたのではないか。養老孟司流にいうなら、「脳化社会」の成れの果てが突きつけられているのかもしれない。
 「教義の断片を無慈悲に現実に貼り付ける『コピペ』」とは、ファンダメンタリズムの本質を抉る洞見である。人間のために説かれた教義が人間を手段に貶める倒錯。動的な現実を硬直した教義理解で捨象してしまう狭窄。『コピペ』とは言い得て妙だ。人類が抱える宿痾ともいうべきファンダメンタリズム。この最強の敵との戦いが、今世紀、本格化しているといえなくもない。立ち向かうには知性のパフォーマンスを上げるしかない。つまりは、教育だ。加害少年たちに引き寄せ前稿を受けるとするなら、「学びからの逃走」にどう処するか。緊要なアポリアだ。
 容疑者とされる少年たちがISをロールモデルとしたかどうか、それは判らない。しかしアナロジカルな性行は窺える。ならば、ISの闇が入れ子のように彼らをも絡め取ったといえば舌禍の譏りを免れぬであろうか。
 ともあれ凍えるような厳冬の多摩川河川敷に散った男児の無念は、生者がしっかと受け止めねばならぬ。命に替えて示してくれた「怪物」を見据え、成敗の実を上げることこそが何よりの供養にちがいない。 □


笑い事ではない

2015年02月26日 | エッセー

──太宰治の文学作品を一つあげよ。
 中学校の試験問題である。解答の中に次なるものが発見された。
 [だまれ メロス]

 しばし爆笑が止まらなかった。いやはや、参った。
 聞きかじりのうろ覚えで、ボロが出たか。あるいは「だまれ」と洒落たか、教師への当て付けをしたか。どちらにせよ、定番図書をきっちり読んでいないことは確かだ。
  爆笑 テストの珍解答 500連発 VOL.8』(株式会社 鉄人社)
 本屋でふと目に留まり、立ち読みで500連発笑うわけにもいかず買ってしまった。下手なお笑いよりよほどおもしろい。早速バックナンバーを注文すると、VOL.6まで絶版とのこと。惜しい。ならば、ネットででもと考えている。
 鉄人社が全国から“本物”の珍解答を募り編集したものだ。絶句し、頭を抱える親が続出したらしい。こっそり、いくつかを紹介してみよう。

──冬休みの思い出を書きましょう。
 これは小学校。なんと答は拙い文字で、
  [とくにない。]
 と書いてあった。小学生にしてこの取り付く島のなさはどうだろう。おそらく先生は天を見上げたに相違ない。
 次も小学校。同類だ。

──「ひょうしき くらべ」の ぶんしょうに ついて かんがえましょう。
  (1) この ぶんしょうを よんで きみは おもしろいと おもいまいたか。おもしろく ないと おもいましたか。(まるをつけましょう)
    [ おもしろい   ○おもしろくない]
    (2) きみは なぜ (1) のように おもったのでしょう。
    ぶんしょうの どんな ところから そう おもったのか、 りゆうをかきましょう。
     [そんなの どおでもいい]

 二の句が継げぬ。悔し紛れに、「どお」は「どう」と書くんだよとでもいうほかはあるまい。そこで前項を含め、にわかに想起されるのが内田 樹氏の名著『下流志向』である。
◇「学びからの逃走」は先人の民主化と人権拡大の営々たる努力の歴史的成果としてようやく獲得された「教育を受ける権利」を、まるで無価値なもののように放棄している現代の子どもたちのありようを示す言葉である。彼らはこの「逃走」のうちに「教育される義務」から逃れる喜びと達成感を覚えているように見える。◇
 「とくにない」と「どうでもいい」に、「学びからの逃走」を窺知するのは取り越し苦労であろうか。
 なかには、中学生にしておくのは勿体ない迷答もある。

──次の英文を適切な日本語にしなさい。
  That’ too bad!
答 [雑で悪いか!] 

 これは唸る。“That’”を「雑」とするセンスは捨てては置けない。おまけに“ too”を「か!」に置換する巧みさ。そこいらのお笑い芸人をはるかに凌駕している。稿者のあの頃を振り返るに、隔世どころか国籍の違いすら感じる。担当の先生には「それは大変ですね」と心から申し上げたい。
 クオリティーは落ちるが、同類をもう一つ。

──英単語の意味を答えよ。
  salmon
答 [逃亡者]

 これは高校生。「サルモン」と読んだのであろう。捻っているというより、捻くれている。前項の中学生の爪の垢でも煎じて飲んだほうがよろしい。
 無知なのであろうが、きっとからかい半分にちがいないと無理やり納得したい珍答。
 
──戦後になって日本が高度成長期に突入すると、地方の農家の人々が冬場は都市部へ
  (   )に出ることが多くなった。
  (   )に当てはまる言葉を入れよ。
 中学社会の問題であろう。答には、
  [夜遊び]
 とあった。もちろん正答は[出稼ぎ]である。次は高校から。

──恐竜が滅んだ原因として考えられるものを一つあげよ。 
答 [滅んでいない]

 アポロ11号ヤラセ説を頑なに譲らないオヤジもいるから、あながち難ずることもできないが……。
  次の二つは中学生。繰り返しになるが、「からかい半分にちがいないと無理やり納得」したい。

──相対性理論を発表したのは(    )である。
答 [偶然]

──三角形は、どんな形でも内角の角度の合計がすべて同じになる。それは何度か? 
答 [また今度]

 最後に、同類とは言い難い珍答を一つ。
 
──夏目漱石の小説『吾輩は猫である』は、書き出しが題名と同じく『吾輩は猫である』で始まるが、その次に続く文章を記せ。
答 [借金はまだない]

 これも中学生だ。聞いたことはあるのだろう。だが読んではいない、きっと。ひょっとしたら、目にした程度か。それにしても、なぜ「借金」なのか。「まだない」とは、今後必然的に「ある」という前提に立つ。深刻に事情を詮索してみたくなる。
 “500連発”には、圧倒的に中学生が多い。かつ、「相対性理論を発表したのは ( 偶然 )である」に類する珍答が多い。もしおちゃらけでないとしたら、“KY”ならぬ“BY”(失礼、稿者の造語・文脈が読めない)ではないか。科目と前後の出題を考え合わせれば、何を訊いているかは判るはずだ。そこが不調であるのは知識ではなく、知性の退嬰といえなくもない。
 『珍解答』8巻の巨大な数。無知を嗤うのは容易いが、大きなアポリアが潜在しているように感じられてならぬ。全国規模で、しかも世代を継いで、子どもたちが「学びからの逃走」を繰り返している。『salmon』を呼び戻さねば、この国が立ち行かなくなる。 □


『ブラック ォァ ホワイト』

2015年02月24日 | エッセー

 そのまま書き写せば、

   BLACK
    OR
  WHITE
  ブラック ォァ ホワイト

  がタイトルである。今月20日、新潮社より発刊された浅田次郎氏の新作である。
 双方後には、“DREAM”が続く。“BLACK”と“WHITE”はそれぞれ”HAPPY”と“UNHAPPY”を象り、それはまた“BLACK”と“WHITE”に続く“PILLOW”の別によって齎される。もちろん“夢”とは希望の謂ではなく、睡眠中のそれだ。
 高層マンションの最上階で語られる夢物語。なにやら『沙樓綺譚』の結構に似ている。だが語り手は一人、かつ名士でもない。還暦を少し過ぎた元商社マン。真偽定かならぬ実話ではなく、まったくの夢だ。『沙樓綺譚』とは大いに異なる。
 日本屈指の総合商社で、世界戦略の尖兵として奮闘するビジネスパーソン。サラブレッドでありながらも繰り返す浮沈を追いつつ、シチュエーションが変わるごとに“BLACK”と“WHITE”が一対で紡がれていく。だから読者は(少なくとも稿者は)気安く、自分なりの夢診断なぞと並行しつつ読み進む(のはずだ。少なくとも稿者はそうだった)。ところが、夢語りは最終章で『綺譚』を超える悍しい大団円を迎える。夢と現(ウツツ)があり得ない結節を成し遂げる。夢と現の禁断の抱合。読者の気楽な夢は微塵に砕かれ、夢ならぬ現へ、現ならぬ夢へ読者は固く緊縛されて、物語は畢る。
 今更ながら、この稀代のストーリー・テラーに脱帽だ。漱石から百余年、“平成の『夢十夜』”であろうか。しかし『夢十夜』がフロイティズムの好餌にされてきた轍を踏むまいとしたのか、このテラーはほんの少しの諧謔を塗してフロイトに白旗を揚げさせている。


 フロイトの提唱した理論を思い起こした。その伝で言うなら、抑圧されたエモーションが、都築君に多彩な夢を見させたことになる。並はずれて自尊心が強く、感情を露わにしない彼は、フロイト理論の得がたい標本にちがいない。
 しかし仮に、フロイト自身が彼の精神分析に携ったとしたら、いくつかの夢を興味深く採取したあと、突然出現する思いがけぬ事件に、ペンを投げ出したはずである。
 いや、そうする前に謹厳な顔をしかめて、こう訊ねるだろう。(それは夢かね。それとも現実かね)と。
 都築君は「現実です」と答え、とたんに精神分析は終了する。

 「都築君」は夢の語り手だ(件の元商社マン)。「思いがけぬ事件」とは、前述した禁忌の吻合である。あとはいわない。名作に翻弄される愉しみを奪っては万死に値する。付け加えるとすれば、作者自身を重ねるように「還暦」がキー・コンセプトであること。ポスト団塊の世代が見(マミ)えた戦争の残滓と社会の変遷が各所に象嵌され、彫りの深い洞察が加えられている。
 内田 樹氏と高橋源一郎氏の対談を再度引用したい。
◇高橋:(今生きている共同体がすべてではない。もしかするとすぐ隣に、あるべき共同体が存在するのではないか、壁1枚向こうに)自分のリアルにフィットした共同体があるっていう幻想によって生きている。
内田:浅田次郎もそうだよ。浅田次郎の小説も、すごく幽霊が出てくるの。その幽霊は、壁の1枚向こう側にいる。自分たちの日常の論理や、言語が通じないんだけど、非常に親しいものなんだ。それとの関わり合いを構築していくことが、人間の生きていく意味なんだ、っていう。村上春樹と浅田次郎だけだよね、作品の幽霊出現率が9割超えてる作家って。
 哲学もそうなんだよ。フッサールの超越論的主観性も、ハイデッガーの存在も、レヴィナスの他者も、全部幽霊なのよ。もうそれは世界共通というか、人類普遍のことであって。手触りがあって、これが現実だと僕らが思ってる現実が、本当は現実の全部じゃなくて。その周りにカッコがある、自分たちの“現実性”みたいなものを成立させている外側があるってことは、みんな知ってるの。外側には回路がある。その回路から入ったり出たりするんだけど、そこに出入りするものっていうのは、こちらの言語には回収できないし、こちらのロジックでも説明できない。でも、明らかにあるの。そのことをちゃんと書いてる人たちが、やっぱり、哲学でも文学でも、ずっとメインストリームなのよ。 ◇(「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」から抄録)
 夢もゴーストも「生きている共同体」つまり現に対峙すれば、「壁1枚向こう」の「共同体」であるといえる。だから同じではないか。してみれば、この作家は「幽霊出現率」「9割超え」から、夢出現率10割の高みへ至ったといえなくもない。
 さて今宵、わが愚昧なるオツムを預けるのは“ブラック ォァ ホワイト”? いやいや、なんとも無粋な薄緑色である。これじゃ、碌な夢は叶わない。 □


最高指揮官の権限<補足>

2015年02月19日 | エッセー

 前稿後段で日本版NSCについて、「『建議することができる』とは、オーソライズかエクスキューズか。実態的にはカムフラージュではないか。」と述べた。この「カムフラージュ」を補足しておきたい。
 稿者の知る限り、日本版NSCを統帥権の文脈で捉えたのは白井 聡氏が初めてではないか。白井氏は本ブログで何度も紹介した当年38歳、『永続敗戦論』で名を馳せた気鋭の政治学者である。昨年7月発刊の「日本劣化論」(ちくま新書)で、「(特定秘密保護法や)日本版NSCにしても指揮系統の統帥権を確立するということだから、一連の安全保障政策は自立を、それは突き詰めれば対米自立を目指すものだということになるはずです。」と述べている。
 「統帥権」とは軍隊の最高指揮権をいう。明治憲法では第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定されていた。後、この条文から軍部エリートが「統帥権の独立」を拈出した。解釈改憲である。「独立」とは、司法・立法・行政の三権から干渉されないということだ。司馬遼太郎は「『統帥権の独立』という魔法の杖をおもちゃにして、国を破滅させた」と終生糾弾しつづけた。
◇陸軍参謀本部というのは、はじめはおとなしかった。明治四十年代に、統帥権を発見した。天皇は軍隊を統率するという憲法と、わが国の軍隊は云々、という勅諭とを根拠にして統帥権ができる。つまり、三権分立を四権にしてしまう。それだけではなく、他の三権を超越する。それは軍縮騒ぎの時に出てくる。参謀本部は陸軍省ではないわけです。省の軍人は行政官ですからね。参謀本部は全部天皇の幕僚なんです。少佐参謀も中佐参謀も幕僚(スタッフ)ということでは同格。宮中の女官と同じなんです。だから、言葉が女官みたいに「お上」ですね。ふつうわれわれ民草は「天皇陛下」とかいわされているのに、彼らは「お上」という。しゃれたこんな女官しか絶対使わない言葉づかいをする。そうすると天皇は無にして空だから、幕僚そのものに権力があるということになってしまって、たとえば辻政信が全部かき回すことになっていくわけでしょう。「師団長が何を言うか」と言われれば、師団長も黙ってしまう。◇(司馬遼太郎対話選集「日本文明のかたち」から)
 06年姜 尚中氏は自著『愛国の作法』(朝日新書)で、司馬史観を引いて統帥権を論断している。
◇「国体」は、何かを意味するというよりは、むしろその意味されるところのものが不変であり、「不可侵」であることを示すことにその最大の機能があるような「記号」だったとも言えます。 以後、昭和史は滅亡に向かって転げ落ち、統帥権は「無限・無謬・神聖という神韻を帯びはじめ」、三権に超越して、「日本国の胎内にべつの国家 ― 統帥権日本」(司馬遼太郎『この国のかたち』四)を作り出すことになります。
 司馬遼太郎が、『この国のかたち』を連載するキッカケになったのは、そうした宿痾に対する止みがたい疑念を抱えていたからです。司馬はそれを日本の近代史における「鬼胎」と名付けています。あるいはもっと大胆に「別国」とさえ言ってはばかりませんでした。「昭和五、六年(一九三〇、三一年)から敗戦までの十数年間の“日本”は、別国の観があり、自国を亡ぼしたばかりか、他国にも迷惑をかけ」(『この国のかたち』四)てしまったというわけです。日本という森全体を「魔法の森」にしてしまった、その魔法がどこから来たのかということです。その秘密を「統帥権」という魔物に見いだしたことは知っての通りです。◇(広辞苑に依れば、「鬼胎」とは① おそれ。心配すること ② 「奇胎」とも書き、子宮内の胎児に異常を起こす病 の2義がある。引用に出てくる鬼胎」はおそらく② を踏まえた司馬の造語ではないか)
 白井氏はそれほどの「魔物」の胎動を日本版NSCに観取していたといえる。さすがに鋭い洞見である。
 国家安全保障会議設置法には、総理に附議の責があり、NSCに建議の権があると謳っている。しかし、同法3条では議長は内閣総理大臣と定めている。それでは余りにも手前勝手ではないか。つまり、第三者機関ではない。言わば、お手盛りだ。だから、前稿で述べた「絶大な権限」の「カムフラージュ」だと断じざるを得ない。
 司馬が蛇蝎の如く忌み嫌った「統帥権」がゾンビとなって平成の世に跋扈しようとしている。もう「鬼胎」は懲り懲りのはずだ。 □


最高指揮官の権限

2015年02月17日 | エッセー

 承前である。
 資質が問題になるのは当然、権限に適うか否かである。前稿で引用した「自衛隊法 第二章 指揮監督 第七条」の後をみてみよう。

(幕僚長の職務)
第九条 統合幕僚長、陸上幕僚長、海上幕僚長又は航空幕僚長(以下「幕僚長」という。)は、防衛大臣の指揮監督を受け、それぞれ前条各号に掲げる隊務及び統合幕僚監部、陸上自衛隊、海上自衛隊又は航空自衛隊の隊員の服務を監督する。
2 幕僚長は、それぞれ前条各号に掲げる隊務に関し最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する。

 シビリアンコントロール下では、制服組のトップである幕僚長は「防衛大臣の指揮監督を受け」、「最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する」とある。部隊へのゴーサインは幕僚長には出せない。では、誰か。「第六章 自衛隊の行動」に定めがある。
  
(防衛出動)
第七十六条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃(以下「武力攻撃」という。)が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。この場合においては、武力攻撃事態等における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律 (平成十五年法律第七十九号)第九条 の定めるところにより、国会の承認を得なければならない。
2 内閣総理大臣は、出動の必要がなくなつたときは、直ちに、自衛隊の撤収を命じなければならない。

 危局に際して自衛隊を使うか否か、判断は時の首相が行う。最重要である防衛出動命令は首相の専権事項なのだ。防衛大臣でも、統合幕僚長でも、陸海空各幕僚長でもない。時の首相一人のみである。では、治安出動はどうか。

(命令による治安出動)
第七十八条   内閣総理大臣は、間接侵略その他の緊急事態に際して、一般の警察力をもつては、治安を維持することができないと認められる場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。
2   内閣総理大臣は、前項の規定による出動を命じた場合には、出動を命じた日から二十日以内に国会に付議して、その承認を求めなければならない。ただし、国会が閉会中の場合又は衆議院が解散されている場合には、その後最初に召集される国会において、すみやかに、その承認を求めなければならない。
3   内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があつたとき、又は出動の必要がなくなつたときは、すみやかに、自衛隊の撤収を命じなければならない。

 2 と 3 を括弧で括って約めると、治安維持のために自衛隊に出動命令を出せるのも時の首相である。首相の専権事項である。他に日米安保条約に基づく「施設等の警護出動」命令も総理大臣に限られる。ただ第八十三条で、災害派遣については防衛大臣に権限が認められている。
 ともあれ自衛隊が本邦でのリーガル(とされる)で唯一無二最高最大最強の軍事的能力を有する事実を勘案すれば、米国大統領が核ボタンを握るに比肩しうる絶大な権限である。それを付託するに適う資質であるか。前稿では、そこを問うたのである。
 加うるに、「日本版NSC」と呼ばれる「国家安全保障会議」の設置も忽せにできない。
  「国家安全保障会議設置法」には、

2条  内閣総理大臣は以下のことについて国家安全保障会議に諮らなければならない。また、武力攻撃事態等、周辺事態及び重大緊急事態に関し、特に緊急に対処する必要があるときは必要な措置について内閣総理大臣に建議することができる。
国防の基本方針
防衛計画の大綱
防衛計画に関連する産業等の調整計画の大綱
武力攻撃事態等への対処に関する基本的な方針
自衛隊法第3条第2項第2号の自衛隊の活動に関する重要事項
その他国防に関する重要事項
国家安全保障に関する外交政策及、防衛政策の基本方針並びにこれらの政策に関する重要事項
その他国家安全保障に関する外交政策及び防衛政策の基本方針並びにこれらの政策に関する重要事項

 とある。「諮らなければならない」とは、前述の権限に箍を嵌めるものではあるまい。なにより、「命令権」の行使には触れていない。むしろ「建議することができる」とは、オーソライズかエクスキューズか。実態的にはカムフラージュではないか。「武力攻撃事態等への対処に関する重要事項/周辺事態への対処に関する重要事項」とは、なんとも不気味だ。
 佐藤 優氏と手嶋龍一氏は対談「知の武装」(新潮新書)で、こう述べている。
◇佐藤:日本版NSCをひとことで言えば、究極の有事に遭遇して、日本が戦争に突き進むのか否かを決める機関といっていいでしょう。
手嶋:安倍内閣がお手本にしているアメリカ版のNSCが果たしている役割をみれば、その機能は一目瞭然です。“National Security Council”即ち、国家安全保障会議は、米ソの冷戦が、現実のものになりつつあった一九四七年に創られました。その役割は、大統領が軍事力の行使を命じるか否か、その重大な決断を補佐して誤りなきを期するのが責務でした。◇
 一昨年11月、この会議は置かれた。なんだか、外堀を埋められたような気がしてならない。不落と謳われた大坂城は、家康の詐略によって外堀を埋められた。夏の陣での陥落はこれで決まったといってよい。歴史は繰り返さぬが、アナロジーは学ぶに如くはない。気鬱だが、またも前稿と同じフレーズで締め括りたい。
 今度は“極悪”とラベリングされぬよう、衷心より希う。 □


最高指揮官の資質

2015年02月16日 | エッセー

 今月10日、政府はISILによる人質事件について検証委員会を立ち上げた。初動、情報収集、省庁間の連携、首相演説などを検証するという。結構なことだが、誰も言いそうにない(言ったところで実現はしないが)検討項目を提起したい。
 「自衛隊法」第二章<指揮監督>にはこうある。 

(内閣総理大臣の指揮監督権)
第七条  内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

 自衛隊の最高指揮官は時の首相である。これは忘れてはならない。首相は政治的資質と同時に、軍事的資質も問われる。ここは等閑にできない観点ではないか。刻下の事況を鑑みるに、決して外せない要用である。先月の拙稿『羊の皮は御免だ』で触れたように、人質に取られていると判っているのに当該地域に出張る。揚げ足を取られるに決まっている支援宣言をする。拙稿を引けば、「こういう外交感覚は『ヤンキーのノリ』としか名状しがたい」。かつ、自衛隊最高指揮官としての軍事的資質に問題はないのか、それを問うべきではないか。これが追加したい検討項目である。
 内田 樹氏は、武道家としてこう述べる。
◇武道って、斬りかかられたときにどうよけるかを訓練すると思ってる人が多いけど、兵法というのは、そもそも人に斬りかかられるような人間関係を取り結ばない、そんな危うい事態に遭遇しないようにするためにはどうすればいいかを訓練することなんです。だから、武士の心得は「用のないところへは行かない」「ケンカを売られても買わない」。江戸時代の武士は、刀を抜かない。ひとたび鞘を払ったら我が身は切腹、お家は断絶。そういう縛りの中で、なお剣を抜く稽古をするわけです。刀を抜かなきゃいけない場面には絶対に遭遇しないように刀を抜く稽古をする。だから、敵をつくらない、自分の足を引っ張ったり意地悪する人をつくらない。自分のまわりに味方をつくっておいて、誰かが悪さしようとしても、それを味方の誰かがあらかじめ除去してくれるようにしておく。そういう総合的なものなんです。武道の神髄は「天下に敵なし」です。◇(角川書店「日本の文脈」から)
 「剣を抜く稽古」を抑止論だと短絡しないでいただきたい。兵法が抱える「刀を抜かない」こととのディレンマを語るのが主眼だ。
 「天下に敵なし」を「武道の神髄」とする如上の「武士の心得」を、氏素性の異なる首相に要求するのは無理筋ではある。しかし、首相の選出は自衛隊最高指揮官の選出でもある。繰り返すが、これは夢寐にも忘れるわけにはいかない。
 はたして首相に一言九鼎の心組みはあったのだろうか。あるのだろうか。A級戦犯被疑者の孫という出自に纏わる様々なトラウマを割り引いても、『ヤンキーのノリ』以外のものは見つけにくい。振り返るに、「用のないところへは行かない」「ケンカを売られても買わない」心得はあったのだろうか。あるのだろうか。「自分のまわりに味方をつくっておいて」、「悪さ」を「味方の誰かがあらかじめ除去してくれるようにしておく」ストラテジーはあったのだろうか。あるのだろうか。なにより、「鞘を払ったら我が身は切腹、お家は断絶」との覚悟はあったのだろうか。あるのだろうか。なにも安倍家の話ではない。03年から6年に亘ったイラク派遣で、帰国後20人の自衛隊員が自殺している。いまだにストレス障害を抱える多くの隊員もいる。鞘を払わずとも、帯刀するだけでこれだけのことが起こる。ましてや、鯉口を切ろうかという。どれほどのことが起こるか。「切腹」や「断絶」とはそのことだ。
 さて、どうするか。ポピュリストが一番恐れるのはポピュラリティーである。当座は世論調査にオブジェクションを投影させる。これは意外と効くはずだ。選挙が王道だが、間拍子がよくない。それに、なにもかも白紙委任の口実にされそうだ(現にされている)。さらに、ドラスティックな指向性として次の論攷を徴しておきたい。再び、内田氏を引く。
◇アメリカの有権者は表面的なポピュラリティに惑わされて適性を欠いた統治者を選んでしまう彼ら自身の「愚かさ」を勘定に入れてその統治システムを構築しているんです。アメリカの有権者たちは、統治者はしばしば「廉直でもないし、能力もない」ということを熟知しているのです。ですから、統治についての問題は、いかにして賢明で有徳な政治家に統治を託すかではなく、いかにして愚鈍で無能な統治者が社会にもたらすネガティヴな効果を最小化するかに焦点化されているのです。
 アメリカのシステムは「ベネフィットを増やす」ことよりも「リスクをヘッジする」ことの方を優先しているわけです。人間をどう賢明で有徳に育てるかよりも、人間の愚かしさがもたらす現実の災厄をどうやって最小化するかを気遣っているわけで。ここには成熟したというよりはむしろ老成した人間理解が感じられます。◇(「街場のアメリカ論」から抄録)
 国民にとっての不運、それは指導者に恵まれぬ事態だ。かつて鳩ぽっぽ首相を“最低”、カンちがい首相を“最悪”と呼んだ。今度は“極悪”とラベリングされぬよう、衷心より希う。 □


“エンドレス・ソング”

2015年02月12日 | エッセー

 先日のこと、ラジオから福山雅治の『家族になろうよ』が流れてきた。

   〽「100年経っても好きでいてね」
    みんなの前で困らせたり
    それでも隣で笑ってくれて
    選んでくれてありがとう

    どれほど深く信じ合っても
    わからないこともあるでしょう
    その孤独と寄り添い生きることが
    「愛する」ということかもしれないから

    いつかお父さんみたいに大きな背中で
    いつかお母さんみたいに静かな優しさで
    どんなことも越えてゆける
    家族になろうよ

    あなたとなら生きてゆける
    しあわせになろうよ〽 (抜粋)

 一家団欒、なんとも幸せな歌だ。だが、心が寸毫も動かない。メルヘンだとしても、四十路を越えた男の口の端に掛かるとなんだか気持ちが悪い。どうしてこういう脳天気な歌が作れるのだろう。むしろそれにたじろいでしまう。
 そこで突如、『ファミリー』(作詞・作曲 吉田拓郎)が鮮やかに蘇った。

   〽怒れる時 あらば その怒りを
    いずこへ 向けるだろう
    悩める時 あらば その悩みを
    いずこへ 向けるだろう
    喜ぶ時 あらば その喜び
    いずこへ 向けるだろう
    悲しむ時 あらば その悲しみ
    いずこへ 向けるだろう〽

 1980年のリリースである。拓郎、34歳の作品だ。1975年に核家族化は頂点に達する。日本社会は家族から弧族(朝日新聞の造語で、世間や身内との繋がりが切れて、ただ一人で暮らす人)へ急速に移りつつあった。「いずこ」であるべき「ファミリー」があちこちで消えていった。だから、

   〽My family my family
    ひとつになれない お互いの
    My family my family
    愛を残して 旅に出ろ〽

 との慟哭へ連なる。続くフレーズも同様だ。

   〽恋人できたらば その微笑
    いずこへ 向けるだろう
    病に倒れたら その痛みを
    いずこへ 向けるだろう
    勝利をつかんだら その激しさ
    いずこへ 向けるだろう
    人生語るなら その情熱
    いずこへ 向けるだろう〽

 そして慟哭は絶叫へと変わり、

   〽My family my family
    誰にも話せない 語れない
    My family my family
    一人であることに 変わりなし
    My family my family
    笑顔の中にも 悲しみが
    My family my family
    爱を残して 旅に出ろ〽

 という血を吐くような絶唱が延々と繰り返される。ライブ音源で8分を越える。問題の掬い方、ギリギリまでシンプルに削った詞とメロディーといい、蓋し大作である。
 枝葉(エダハ)をとことん刈り詰めた詞と、印象的で心中にまっすく打ち込んでくるメロディー。しかもそれがエンディングに入ってなお、果てもなくリフレインされる。因みに、歌詞カートは中央に“・”だけを記した行が7行つづく。
 仮に“エンドレス・ソング”とでも名付けようか。もちろん物理的制約上終わりはあるが、ロジカルにはエンドレスに構成されている。そういう曲が、拓郎のクロニクルに4曲ある(失念したものもあるかもしれないが)。
 先ずは、余りにも有名な『人間なんて』(作詞・作曲:吉田拓郎)。中津川フォークジャンボリーで、2時間近く奏された。次に『アジアの片隅で』(作詞:岡本おさみ)。これが12分越え。四つ目に『王様たちのハイキング』(作詞・作曲:吉田拓郎)。これも7分を越える。
 浅識ゆえ、他のミュージシャンに“エンドレス・ソング”を知らない。わずか4曲とはいえ、このことはもっと着目されていい。
 碩学の知見を徴したい。
◇ヨーロッパ文化においては、音楽を芸術の一ジャンルとしながらも、倫理や精神、さらには創造性の原点としてとらえる思想が、今日にも受け継がれている。それは、「音楽」の語源にも象徴されている。「music」という語それ自体は、知的表現と不可分な意味合いを持つ言葉であって、「音」という意味は持たない。ここが、日本語で「音楽」という時に想起されるものリズムや音程といったイメージとの違いかもしれない。芸術の神ミューズから直接降り立つもの。命にかかわるもの。古来、音楽を奏でること、音楽を聴くことは、生の本質であるとさえ考えられていたのである。◇(茂木健一郎「すべては音楽から生まれる」<PHP新書>から抄録)
 音楽は美の表現を超えた精神性をもち、「生の本質である」とは胸座を揺さぶられるほどに深い洞見ではないか。だから音楽は時空を超える。民族も国境も、世紀も跨ぐ。
 では、「生」とはなにか。
  『動的平衡』で名を馳せる生物学者であり、群を抜く知的パイオニアである福岡伸一氏は自著「せいめいのはなし」(新潮社、12年刊)でこう述べる。
◇生物に内在する動的なふるまい、それでいて恒常性を保つありかたに着目して生命を定義する立場を私は採っています。動的平衡というのは、生命のありよう、自然の振る舞い方について、たえまなく要素が変化、更新しながらもバランスを維持する系(システム)のことで、私が提言しているコンセプトです。◇
  生命は流れであり、絶え間なく入れ替わりつつ平衡がとれているとする生命観である。
 同書では「動的平衡」を受けて、内田 樹氏がこう応じている。
◇経済って、本質的に動的平衡なんじゃないかな。経済活動の本質って、一言で言えば、ものがグルグル回っていくことでしょ。商品や貨幣が回っているのを見て、商品や貨幣それ自体のうちに運動力が内在していて、自力で回転しているんだと思っている。でも、ぼくは違うと思う、商品や財貨やサービスや情報はそれ自体では運動できない。グルグル回すためのシステムが必要なんです。
  「価値のあるもの」をやりとりするために人間たちは経済活動を始めたわけじゃないとぼくは思うんです。別によその地方の珍しい物産や特産品が欲しいとか、海の人が山の野菜を食べたいとか、山の人が海産物で動物性タンパク質が必要だとか、そういった生理的な要求から交換が始まったわけではなくて、「交換をする主体」となりうるためには無数の人間的条件がクリアーされなければならない。だからこそ交換が始まった。つまり、経済活動というのは人間を成熟させるための装置だったというのがぼくの理解なんです。そう考えていくと、いわば人間を生きさせるために、あるいは人間の成熟を促すためにこそ、人間は経済活動を自ら作り出したのではないかと。◇(抄録)
 目眩くような展開である。後書きで福岡氏は「内田先生はえらいなとお会いするたびに思う。見るたびに、『ああ、先生はえらい』と、こう両手を合わせて合掌してしまいます(笑)。」と記している。まことに言い得て妙だ。
 「グルグル回っていくこと」「『価値のあるもの』をやりとりするため・・・じゃない」「人間を生きさせるために、人間の成熟を促すため」をキーセンテンスとし、それを下敷きにすると“エンドレス・ソング”が少し見えてきそうだ。
 エンドレスとはまさに「グルグル回っていくこと」に他ならず、「枝葉をとことん刈り詰めた詞」は繰り返されるうち意味は忘却される。「価値のあるもの」を脱して、「人間を生きさせるために、人間の成熟を促すため」のアイテムへと変位する。つまりは福岡氏のいう「動的なふるまい、それでいて恒常性を保つありかた」という生命のありようを、「生の本質である」音楽が再生、もしくは擬制するものこそ“エンドレス・ソング”ではないか。「生命のありよう」に最も近似した表現といってもいい。でなければ、聴くものをしてあれだけ酔わせるはずがない。
 当然、凡庸なミュージシャンに叶う仕業ではない。あの圧倒的な歌唱力なくして、オーディエンスを誘起することはできない。ともあれ、件(クダン)の4曲は本邦ミュージック・シーンに高々と聳える金字塔にちがいない。 □


「確認」しすぎでしょう

2015年02月10日 | エッセー

 ヘンな日本語については飽きるほど触れてきた。だが、まだ飽きてはいない。またしても賽の河原で石を積む。
 「確認」についてだ。
 どこかの店で、
「○○はありますか?」
 と訊く。
「お調べします。少々お待ちください」
 これはいい。だが、
「確認します。少々お待ちください」
 これがどうにも解せない(たまに「ご確認します」もある)。違和感、大ありだ。この手の応答が増えている。それに漢字二文字の音読みでは、会話が固くなる。およそ4、5年ぐらい前から気になり始めた。
 広辞苑によれば、「確認」とは「たしかにそうだと認めること。また、はっきり確かめること。」とある。あくまでも与件を対象とする。与件に対して認め、確かめることだ。先述の例でいくと、存否の質問には与件がない。というか、面倒ないい方をすると「あるかないか」そのものがセットで与件である。それを確かめると与件そのものの「あるかないか」でしかない。これではトートロジーだ。つまり存否の質問に応えるには「確認」はトポスが違い、不適切である。八百屋で肉を求めるようなものだ。
「△△の電話番号を教えてください」
 に対して、
「確認します。少々お待ちください」
 これにははっきりと違和感を覚えるはずだ。なにせ、与件がない。やっぱり、
「お調べします。少々お待ちください」
 であろう。
 察するに、「調べる」との誤用が瀰漫しているようだ。そこから派生して、「問い合わせる」「質問する」や「点検する」にまでウィングが広がっている。
 なぜだろう。「思う」を代表例とする多義語化のゆえであろうか(06年11月の拙稿「『おかずを思う』か?」で取り上げた)。それとも、言葉の省略・省力化と踵を接するボキャ貧現象であろうか。
 そこでいつもの癖(病気に近い)で、突飛な仮説を立ててみた。
 今年の正月旧友と語らううち、「当節は正月が正月らしくない。昔のように街がシンとしていない。元旦でもコンビニは開いてるし、二日にはもう新年セールだ」などという話になった。要するに、晴と褻が截然たる区別を失ったのではないか。ハレとケは柳田國男が提示した日本人の伝統的な世界観だ。儀礼、祭、年中行事の非日常を「ハレ」、日常生活を「ケ」とし、近代に至ってその区別がどんどん曖昧になっていると指摘した。ぶっちゃけていうと、フォーマルとカジュアルが入り混じっているということだ。
 テレビを見るといい。一番人気のあるのはバラエティ。その証拠に、どの局も同工異曲が目白押しだ。別けても、役者や芸人による楽屋落ちに類する与太話だ。晴に属する者達が平気で褻を売る。この奇っ怪な晴が茶の間の褻に「日常」的に象嵌される。柳田の指摘も極まれりだ。
 無理筋だが与件のあるものを褻(日常は与件に満ちた世界だ)、ないものを晴とするならば、「確認」は褻の言葉といえなくもない。与件を認め、確かめるのは少なくとも日常性を担保する振る舞いである。
 晴れと褻が混淆した刻下において、言葉もまた出処を過つ。尤も、こんな奇想こそ最たる例だと返されれば二の句が継げぬ。だが、世は早晩「確認」だらけになりそうな勢いだ。ここはひとまず立ち止まって「確認」してみるに如くはない。 □


後知恵の愚案

2015年02月05日 | エッセー

 凡愚の後知恵、転んだ後の杖を記す。
 その前に、滑舌が悪いのだろう(ひょっとしてこちらの耳が悪いのか、多分それはない)。何度聞いてもアンバイ君は「あいする」と発語している。国とは認められないので“ISIL”と呼ぼうと、米国に倣って自民党が申し合わせた。「あいしる」だ。「あいする」では「愛する」と、あらぬ誤解を生む。ともあれ、ご注意願いたい。
 言葉は心を響かす。だから、言葉尻を論うのではない。心を問うているのだ。もう一つ。「皆さんとともに哀悼の誠を捧げ、ご冥福をお祈りしたい」と、アンバイ君は語った。これはおかしい。「哀悼の意」ではないのか。「哀悼」を強調しようとしたのか。「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して、哀悼の誠を捧げるとともに、尊崇の念を表し、御霊安らかなれとご冥福をお祈りしました」との靖国参拝談話と同じだ。「誠」とは偽りなき忠実な心をいう。自分の心情を言挙げするのも変な措辞だが、なんか大時代でライトな語感を纏う言葉だ。「御英霊」として奉りわが失態を糊塗しようとしているのか、それとも『アゲアゲのノリ』(前々稿で触れた)で自称『積極的平和主義』なるものを鼓吹しようとしているのか。気懸かりなワーディングである。
 ついでに、「許しません」。これは驚いた。今までだと、「許されない」だ。主語が違う。トップリーダーは感情表現には特段に配慮すべきだ。それができる「大人」の中の大人であるはずだ。『アゲアゲのノリ』としかいえない。前々稿の繰り返しになるが、「言語道断」とは言語の道を絶つとの謂である。言葉が通じない事況をいう。交渉もできない、道理の通じない「言語道断」の事態に措かれていたのは他ならぬ君ではなかったのか。さしずめ犬の遠吠えに近い。
 「罪を償わせる」。これも同列だ。ニューヨーク・タイムズ紙は「過激派の暴力に指導者が直面した際、こうした報復の誓いは西側では普通だろうが、対立を嫌う日本では異例だ」と報じた。『アゲアゲの』すげぇー『ノリ』だ。鳩が鉄砲玉を喰らったのは、海外メディアも同じらしい。
 さて、本題。ない知恵を振り絞って考えた。
 納税者1人が約350円ずつ負担して身代金200億円を払うべきだった。政党助成金よりも少額だ。なんなら、各政党が助成金の6割ちょいを返納して用立ててもいい。でもどうせ渋るだろうから、アッソー財務相が緊急記者会見でもして特別納税を訴える。「皆さん、たった350円で2人の命が救えるんです!」と、例の浪曲師擬きの渋い声で語りかける。だってアンバイ君は「人命第一」と宣うたではないか。命を救うことがファースト・プライオリティーのはずだ。あれは社交辞令、まさか枕詞だったのか。
 77年ダッカ・ハイジャック事件では、時の福田赴夫首相は「人の生命は地球より重い」と超法規的措置を採って身代金を差し出した(加えて、政府高官を以て人質の身代わりまで用意した)。後、措置の責任を取って法相は辞任している。ところがつい3年前アンバイ君は当時を振り返り「西独は特殊部隊を送ってテロリストを全員射殺した。日本は憲法を改正せずできなかった」と、この措置に疑問を投げかけている。となると、あれは一種のレトリックと解していいのかもしれない。
 この際だ、百歩も千歩も譲ろう。「人命第一」というなら、2ヶ月も前から身代金の要求はあったのだから段取りは付けられる。もたもたしているから、要求額が100倍にもなった。ともかく、身代金を払う。交渉ルートもへったくれもない。マスメディアを通じて大々的に発表すれば確実に届く。そうすれば、ISILがただの犯罪集団であると世界にプロパガンダできる。
 この案には必ず、テロに屈することになるとの批判が起こる(あるいは、一笑に付される)。だが、テロとは暴力をもって政治的目的を果たすことだ。身代金を出したからテロに屈した、と短絡はできない。むしろ「テロに屈しない」という広言が思考停止を誘発し、自縄自縛に陥ったのではないか。政治的狙いにまんまと嵌まることがテロに屈することだ。ここが大事な視点である。金銭目的はテロではなく、単なる金ほしさの犯罪だ。そこを突くのだ。金を出すことでポリティカルな狙いを相殺する。「人命第一、金の要求には応じます。しかし人道支援は続けます」。そう大々的に世界にアピールする(もちろん事後だが)。これは高等戦術といえるかもしれない。アンバイ君には荷が重かろう。彼には『アゲアゲのノリ』がよほど容易いだろう。しかし命と金ではどっちが大事か、自明である。ならば迷うことはなかったはずだ。それに何より枢要な点だが、少なくともルサンチマンの連鎖を生むことはない。これこそがテロの起因である。最低限そこは抑えられる。長いスパンで捉えるなら、連綿たる憎悪の繋がりを絶つことがより平和に資するのは明らかだ。当然、欧米は非難するだろう。しかし、欧米流以外にも別のアプローチがあると示すことは意義が大きい。なぜなら、欧米流は一つとして成功例を持たないからだ。そうではなく、身代金支払いでISILから人質を取り戻した例がフランス、ドイツ、スペインであったやの報道があることは付記しておく。
「私たちのように未完成な人間に、何もかも完璧にこなせるわけがない。私たちにできるのは、その時その時の妥協点を探ることである。」
 誰あろう、ガンジーの言葉だ。こういう極めて実践的で縦横なパフォーマンスこそ時代を変える人の智慧であったことは肝に銘じておいていい。
 次に予想される批判は、一度身代金に応じれば同種の事件が繰り返されるというものだ。世界中で日本人が標的にされる、そういうだろう。しかし、これも短見だ。双方の武力攻撃がエスカレートし戦火が拡大して発生する災難と、より高まったセキュリティと危機意識の元でテロが反復するポテンシャルとを比較考量すれば圧倒的に前者が大きい。尤も、世界を蔽うリスクは身代金の有無や多寡で変わるものではないともいえる。支払いに応じた国と応じなかった国と、その後の発生に有意な差があっただろうか。
 稿者の愚案は一顧だにされないだろう。だが、日本政府がたった2人の命すら救えなかった事実は永劫に消えない。「自己責任」とは言うまい。なにせ今回、政府は一度もこの言葉を発していない。つまりは大見得を切った。その割には竜頭蛇尾に終わった。それが悲しい。 □


『燃えよ綱』

2015年02月01日 | エッセー

 司馬遼太郎『燃えよ剣』から

         他国では考えられないことだが、この武州では、
        百姓町人までが、あらそって武芸をまなぶ。
         いったいに武侠の風土といっていいが、いま一
        つには武州は天領(幕府領)の地で、大名の領
        国とはちがい、農民に対する統制がゆるやかだった。
         自然、百姓のくせに武士をまねる者が多く、どの
        村にも武芸自慢の若者がおり、隣村との水争いな
        どにはそれらの者が大いに駈けまわって働いた。
         その勇猛果敢ぶりは、三百年の泰平に馴れた江
        戸の武士のおよぶところではない。


        「役目は、将軍家の警固だよ」
         上総介のいうところでは、近く、将軍家が京へおの
        ぼりになる。
         京は、過激浪士の巣窟だ。毎日、血刀をもって反
        対派の政客を斬りまくっている。将軍の御身辺にど
        のような危険があるかもわからない、武道名誉の士
        を徴募するというのである。
        「それは」
         近藤は、感激した。
        「まことでござりまするか」
         このときの近藤の感激がいかに深いものであった
        か、現代のわれわれには想像もつかない。将軍とい
        えば、神同然の存在で、二百数十年天下すべての
        価値、権威の根源であった。浪人近藤勇昌宜は、
        額をタタミにこすりつけたまましばらく慄えがとまら
        なかった。歳三がそっと横目でみると、近藤は涙を
        こぼしていた。事実近藤にすれば、一生も二生も
        ささげても悔いはない、という気持だった。

 薄茶に褪色した文庫本に見当を付け、捲ってみると如上の二節が目に飛び込んできた。近藤も土方歳三も出自は武州の百姓であった。彼らは身を焦がさんばかりに武士を憧憬し、ついに武士以上の武士となった──。それが司馬の見立てである。近藤たちは三百年の太平に弛緩した武士群に分け入り武術、忠義ともに武士たらんと努め、結句日本史上に屹立した武者振りを塑像するに至った。そう司馬は物語を紡いだ。エピゴーネンが時としてプロトタイプを超える。人の世の妙であり、綾でもあろう。
 突飛なようだが、白鵬のことだ。
 初場所、大鵬の記録を塗り替えた。それはいい。だが、中身が悪い。かつ、行儀も悪い。
 昨年夏場所では、優勝の一夜明け会見をボイコット。今場所では、稀勢の里戦での物言いに疑義を呈し審判を口汚く罵った。千秋楽では入場が遅れ、先行の取組仕切り中に審判の前を横切るという前代未聞の失態を演じた。遠藤戦では、「遠藤コール」の大合唱に激情して張り手、搗ち上げの荒技を連発した。ほかにも不要なだめ押しなど、顰蹙を買う場面が続出している。
 「日本人以上の日本人」と言われてきたこの相撲取りが、あろうことか「品格問題」を起こしている。そこで、冒頭の引用となった。
 09年1月の拙稿「悪童が帰ってきた!」で触れたが、朝青龍は「日本人」の対極にいた。「品格」を嘲笑うように悪童に徹した。稿者はそこを評価した。比するに、白鵬は「日本人以上の日本人」たろうとした。「エピゴーネンが時としてプロトタイプを超える」やもしれぬところまで至っていたといえる。ところが、大記録を前にエピゴーネンに逆戻りし始めたのではないか。
 双葉山や大鵬のビデオを観て勉強してきたというが、おそらく区区たる技の学習に過ぎなかったのではなかろうか。大鵬の夫人納谷芳子さんは白鵬の審判批判に対し、大鵬の連勝が四十五で止まった戸田戦での誤審を振り返ってこう語った。
「テレビで見ていた私たちは悔しかったんです。宿舎で帰りを待って『お疲れさま。絶対勝ってたのに…』と言ったら『そうなんだよ』とは言いませんでした。『そういう風に見られる相撲を取ったのが悪いんだ』と言ってました。逆に私たちが励まされました」
 まことにロールモデルは超えがたく、大きい。協会のお叱りなぞ吹き飛ばすほどの大鉄槌ではないか。
 ついでにいえば、懸賞金を受け取って押しいだき拝むような仕草。あれはいけない。謝意は手刀だけで十分だ。鳥目を離れたところに勝負の真髄はある。少なくともそういう虚構で土俵は設えられている。勝者にその場で直接現金が手渡されるプロスポーツは、もちろんアマも含めて大相撲以外にはあるまい。ならば余計楚々たる振る舞いであらねばならぬ。敢えて執着を見せず、枯淡であること。これは彼がなろうとしている「日本人」の一典型である。
 日本人の習俗は大概が江戸期に形作られている。浅田次郎氏が清の弁髪に起源を持つと推論する「髷」も江戸期に完成した。維新、文明開化が太古となった今、ウィッグではなく正銘の髷を冠して堂々と街中を歩けるのは関取を措いて外には皆無だ。かつ周囲は違和感を覚えるどころか、あこがれの的となる。まさに江戸時代が歩く。妙な話だが、実におもしろい。さらに土俵入りには刀(竹光だが)、行事は誤審時の切腹に使う脇差し(こちらは真剣)を帯している。これほどまでに日本人の原型的習俗に忠実な世界は、万邦広しといえども大相撲だけではないか。巨大なタイムスリップといえなくもない。
 これといったライバルがなかったとはいえ、三十三回優勝の大記録は大いに嘉したい。しかし、『相撲界の近藤勇』はそう容易くはない。三十四回目の優勝より、実はこちらが難関だ。『燃えよ綱』はいまだ高々と中天に掛かったままだ。 □