伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

悪童が帰ってきた!

2009年01月26日 | エッセー
 1月18日付の朝日新聞 スポーツ欄に次の記事が載った。
〓〓朝青 品格なき7連勝 ―― 張り手に激怒 協会野放し
 鬼の形相だ。朝青龍が勝利を喜ぶどころか、相手と一緒に飛び出した土俵下で怒りの表情でにらむ。視線の先には、敗れた嘉風がいた。
 嘉風が言う。「めちゃめちゃにらまれました。絶対(横綱を)見ないようにした。お客さんは『あいつは何、にらんでいるんだ』と何度も言ってました」
 また、品格を問われてもおかしくない行動だ。支度部屋では仏頂面で無言を貫いた横綱。原因はおそらく張り手で顔をたたかれたことだ。
 敗色濃厚だった。立ち合いで先手をとれずに、顔を右から思い切り張られ、懐に飛び込まれた。慌てて首投げを見せたが、決まらない。再び、押し込まれて土俵際へ。何とか、体を開いて逆転した。
 勝負の後ににらむのは見苦しい。だが、それも失いかけていた闘争心の復活かも知れない。武蔵川理事長(元横綱三重ノ海)も逆境での奮闘ぶりには脱帽だ。「危ない場面が2回あったのによく残った。しのいで白星につなげているのはすごい」
 理事長は「にらみ」については「何だったの」とごまかした。インターネットヘの書き込みで逮捕された容疑者について、横綱が「殺してやる」と言ったことも、師匠の高砂親方(元大関朝潮)を注意する方針だったが、当面は見送る雰囲気。7連勝が、協会の対応さえも軟化させている。引退危機を遠ざけ、周囲を驚かせる土俵っぷりと問題行動。朝青龍が「らしさ」を取り戻しつつある。〓〓
<補足 ―― 初日、インターネット掲示板に「これから国技館に行って朝青龍を殺す」という書き込みが載った。警視庁は厳戒態勢を敷いて警備。捜査の結果、15日、北海道に住む29歳の男を脅迫容疑で逮捕した。>

 朝青龍についての朝日の論調は、かねてから厳しい。やたら品格をあげつらう。しかし、たぶんそれは筋違いであろう。少し古いが06年の7月21日付の本ブログを抄録したい。(☆部分)

☆江戸時代、相撲はショーアップされた娯楽であった。歌舞伎に並ぶ大いなる娯楽であった。江戸版の「プロレス」であったともいえる。今でこそ大銀杏一本だが、かつては何でもありだった。それぞれに髪型を工夫して客の目を引いた。なかには、櫛をさした力 士までいた。頭突きなどという野暮な手は使わないとのアピールだったそうだ。さらに、白粉をぬった力士までいたらしい。もう、プロレスと変わりない。
  雷電は土俵上で相手を投げ殺したというし、土俵外でも素人に死人が出る大乱闘をしでかしている。不知火なぞは馬子と喧嘩になり、怪力でその首を引き抜いたという。プロレスラーも真っ青だ。
 観客も同類。「喧嘩の下稽古」だといって、客席で喧嘩を売る連中もいた。相撲見物に行って五体満足で帰るのはだらしない、という手合いがそこら中にいた。土俵の上でも客席でも血の雨が降ったという。だから、見物は女人禁制、お上は何度も相撲禁令を出している。
 以前、小錦が「相撲はケンカだ」と言って顰蹙を買ったが、小錦こそ本質を捉えていたのだ。彼はただのデブではない。☆(「露鵬 乱心」から)

 しかし今はちがうのだ、という向きもあろう。ならば ――

☆相撲が「国技」になったのは明治中期である。維新直後には存亡の危機に見舞われた。その後さまざまな曲折を経て、見世物からスポーツに『メタモル』していった。次第に伝統が強調され、様式美が、倫理性が求められた。朝日新聞が言うところの「精神性の高さ」「伝統精神」である。悪いことではない。時代は進歩するからだ。しかし、まだ120年程度。維新から勘定しても140年分の伝統でしかない。江戸時代はそれに倍する。いや、それ以前もある。古事記まで遡ればざっと10倍にもなる。きっかけさえあれば先祖返りするのは当たり前だろう。☆(同前掲)
 問題は「きっかけ」である。「先祖返り」のトリガーになったのは、外国人力士にちがいなかろう。異国の血が日本文化の古層を呼び覚ましたとなれば、アマルガムの一典型といえるかもしれない。(付言すると、まことに残念なことに露鵬は昨年9月、おクスリで解雇された。)
 きっかけは、分けても朝青龍である。相撲始原の地を出自とするから、なおさら遡及力が働いたのかもしれない。剥き出しの敵愾心。ガッツポーズ、にらみ、眼付け、だめ押し、暴言、脱線行為。横綱の「品格」を問う声がかまびすしい。もはやヒール扱いだ。朝日でさえ、見出しに「悪童」や「悪漢」と掲げて憚らない。
 だが、あるテレビ・プロデューサーは、「ウルトラマンが登場するには、まず町を破壊する怪獣が必要。朝青龍は、そんな愛される悪役ではないか」と語る。いいところを突いている。現に今場所は視聴率がうなぎ登りだった。
 かつて、横綱 大鵬は「憎いほど強い」と評された。しかし、憎かったわけではない。強さの形容として「憎い」が冠されただけだ。朝青龍はちがう。「憎く」て、かつ「強い」。その「憎い」部分が批判に晒されている。曰く、「品格」である。前掲の「露鵬 乱心」は、わたしなりのオブジェクションであった。つまり、相撲はエチカではない。「ケンカだ」。
 90年代末からミレニアムをはさんで若貴時代の沸騰が過ぎ、武蔵丸が引退してからの約4年間、一人角界を担ったのは横綱 朝青龍だった。担うだけではない。相撲をおもしろくした。そのおもしろ味とはすなわち、格闘技としてのDNAを呼び覚ましたことにある。江戸の民草が快哉を送ったのと同根のものを平成のわれわれに届けてくれたのではないか。とすると中興の祖とはいわないまでも、好き嫌いは抜きにして史上特筆すべき横綱ともいえる。

 彼は優勝インタビューで、「帰ってきました!」と一声を放った。帰ってきたのは朝青龍だけではない。『悪童』との二人三脚の凱旋だ。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


一億総バカ化?! 

2009年01月19日 | エッセー
 病膏肓に入るといっても強ち的外れではないだろう。何度も触れてきたが、また書く。 ―― 昨今のテレビ事情についてである。
 『一億総白痴化』は52年前の大宅壮一の名言だ。「紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと並んでいる」と評した。大宅がいまいれば何と言うだろう。悲しいかな第一、「白痴」自体が変な言葉狩りで消滅している。(そのことについては、06年12月11日付本ブログ「ドストエフスキーの白地??」で取り上げた)さしずめ、『一億総バカ化(か?!)』といったところか。当時はまだ走り始めたばかり。いまは、まさに大宅の言そのままの情況になっている。その慧眼に畏れ入る。
 テレビはメディアの牙城から退きつつある。前々稿「レイディオ宣言??」で述べた通りだ。日本でも合従連衡があるかもしれないし、気がついたらNHKだけという次第もなきにしもあらずだ。
 わけてもイシューはお笑いの跳梁跋扈だ。お笑い芸人の見境のない多用と、番組自体の節操のないお笑い化だ。前者にはコストダウンの経営的事情が背景にある。後者は茂木健一郎氏いうところの「『大衆というバケモノ』が野に放たれた」文化的貧困に起因する。

 カラオケにも通底するが、芸人への垣根が限りなく低くなっている。ほとんど芸と呼べない余興の類が全盛だ。ものまねのものまねまでがネタになる。お笑い芸人による ―― クイズ、ゲーム、ものまね、運動会、カラオケ、バラエティー・、ワイドショー出演、旅行・グルメのレポーター、裏話、楽屋落ち、お涙頂戴の苦労ばなし、与太ばなし、教養講座の聴講、果ては時事問題のコメンテーターまで、番組のほぼ全域をカバーしている。呆れ果てるのは、お笑い芸人の親まで駆り出しての乱痴気騒ぎ。親も親だ。受けねらいの芸もどきを得得と繰り出す。悪乗りも極まれりだ。もはや「舞台に上がる」という感覚ではなく、芸人も観客も同じフロアーにいる。しかも交じり合っている体(テイ)だ。それがそのままテレビ電波に乗る。
 芸そのものはどうか。いまや5分を越えるものは稀だ。「爆笑レッドカーペット」「エンタの神様」「お笑いメリーゴーランド」などなど、主要キー局のお笑い番組は軒並み1分前後の細切れ、数珠つなぎ。いきおい、あの手この手のギャグの連続、インパクト勝負、まともな芸などできるはずはなかろう。
 いただけないのは、お笑いくんのコメンテーター。アマルガムをねらっているのか、庶民の代表のつもりか。その道のアナリストに交じって、通り一遍の能書きをたれる。視聴者を馬鹿にするにもほどがある。報道番組ならば、それなりの作り方をしてほしい。決して奇を衒う必要などないのだ。
 籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人。もとより職業に貴賎はない。しかし分(ブン)はあるはずだ。越俎の罪は荘子の誡めだ。お笑いくんに期待するのは世の有り様(ヨウ)を解説してもらうことでも、庶民の代表になってお上に物申していただくことでもない。芸で笑わせてほしいだけだ。世直しなら、お上を洒落のめす話芸こそが真骨頂のはずだ。それを報道・時事番組にまでしゃしゃり出たのでは生臭くていけない。場違い、筋違い、勘違いも甚だしい。ザ・パンチなら「頼むから死んで~」「来世は人間に生まれて来ないで~」とカマすところか。(付け加えると、こんな不穏当なフレーズがギャグになるまで事態はすすんでいる。わたしは嫌いでもないが……)
 それにトークが高じたのか、お笑い芸人たちの与太ばなしの類が隆盛だ。可笑しければそれでいいのか。二束三文の私生活を切り売りして食いつないでいるとしか聞こえない、見えない。あれは決して芸ではないだろう。芸人を名乗るなら芸で勝負せよ、といいたい。
 どれもこれも局側の安易な視聴率稼ぎのなせる業だ。概していえるのは、笑いが健全ではないこと。お笑いくんたちをモルモットか、おふざけの人身御供として酷使している。失態、醜態、奇態を見せて笑いを誘う。こんな嘲笑が健康な精神を育むだろうか。子どもたちに真っ当な精神風土を与えるだろうか。ニーズがあるから作るのだろうが、そんなスパイラルからは早々に脱したいものだ。

 もう一つ、番組のお笑い化。かつて紹介した(07年11月20日付本ブログ「千慮に一得」)茂木健一郎氏と波頭亮氏との対談「日本人の精神と資本主義の倫理」(幻冬舎新書)から引用する。
〓〓茂木 日本の貧困はテレビのタレントたちに対抗する軸がないことに尽きるわけで、「あんな連中どうでもいい!」と言う人がもっといてもよいし、そういう人がもっとビジブルでなければならない。
波頭 メディア論で知られるマーシャル・マクルーンが、今から五〇年ほど前に「テレビは恐ろしい」と言ったけれど、彼のいう恐ろしいことが恐ろしいままに起きてしまっているのが、いまの日本かもしれません。誰かが踏ん張っていないと民主主義が衆愚政治に成り下がってしまうのと同じように、レベルの高いものに対する敬意を誰かが抱き続けていかないと、分かりやすいものだけ正しいことになってしまいます。分かりにくいものの正しさやそれに対する敬意が社会から消失してしまうでしょう。
 今、日本のテレビではお笑い芸人が報道番組のキャスターをしたり、政治の批判までしているけれど、お笑い芸人は漫才で観客を笑わせるスキルに長けた人でしょう。欧米なら、そういう人物が政治の批判をしても、説得力を持ちません。料理や園芸で人気を集めた「カリスマ主婦」のマーサ・スチュワートがブッシュを批判したり、イラク戦争について発言したりするキャスターとしてテレビ番組をやることはたぶんありえない。ところが、日本では庶民感覚という錦の御旗を振りかざして、お笑い芸人やタレントさんが行政や政治家をこき下ろしている。この現象もどこかおかしい。〓〓
 民放に顕著なのは女子アナのタレント化。近ごろは男のアナウンサーまでもが便乗している。アナウンサーの失敗までがネタになって番組を構成する。おまけにNG賞まで決める。八百屋が不揃い野菜を売るのとは訳が違う。あちらは品質に変わりはないが、こちらは座興にもならぬ。色物、際物、半端物。こんなものしか売り物がないほどに貧困は極まっている。
 量産されるローレベルの笑いに対し、逆転現象も露骨だ。つまり作られたお仕着せの感動、無理やりのお涙頂戴である。だから「24時間マラソン」に駆り出された萩本欽一は、歩いてでも完『走』せざるを得なくなる。まことに珍妙な成り行きである。そういえば、15人(組)の歴代ランナーのうち8人(組)がお笑い芸人である。笑いと涙のシナジーであろうか、それほど高級な意図ではあるまい。意外性と話題性の、単なる視聴率稼ぎに過ぎまい。
 高(タカ)がテレビ、然(サ)れどテレビである。「高が」とは日常性であり、「然れど」とはその豪腕である。「テレビは恐ろしい」の依って来る原泉である。つまり大衆性だ。つねに大向うを相手にするテレビの宿命的生い立ちである。当然、外連は避けられない。外連の核心は「見せる」とういうことだ。
 汚職事件があって、拘置所に収容される。上空からヘリが撮る、バイクが併走して撮る。深夜のニュースでは、人気が消えた検察庁をバックに眩しいほどの照明の中でレポートする。すべては「見せる」ための外連だ。報道にとっての必然性はまったくない。「見える」のではない。「見せる」のである。有り体にいえば、「見える」ように「見せる」のだ。
 番組のお笑い化はバラエティーに際立つ。バラエティーの原義は多様性である。日本人が鍋物を好むがごとく、現今の主流である。というより、番組の多くがバラエティー仕立てになってきた。タレント、俳優、アナウンサー、アナリスト、知識人まで、すべての出演者がひとつの鍋で綯い交ぜになっていく。お笑い芸人も、もちろん混じる。味は、えぐいお笑い連のそれに引きずられる。安住アナのおかしみは、ごった煮鍋の中でギリギリ自らの味を守ろうとする具材、さしずめ絹ごし豆腐の自己主張にあるともいえる。( テレビの「豪腕」「大衆性」については、別に稿を起こすつもりだ。)
 16世紀、グレシャムは言った。 ―― 悪貨は良貨を駆逐する。同じ寸法の時間なのに『悪貨』ばかりが跋扈する。その愚をどう避けるか。ただいとつ、処方はある。視聴率だ。見なければいいのだ。昼のワイドショーが消えたように、見なければ淘汰される。生殺与奪の権はこちらにある。これを忘れてはなるまい。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

2008年12月の出来事から

2009年01月12日 | エッセー
【政 治】
●内閣支持率が22%、麻生政権2カ月で急降下
 朝日新聞の全国世論調査で、前回の37%から急落。「どちらが首相にふさわしいか」という質問でも、民主党の小沢代表が麻生氏を初めて上回る(6、7日)
―― 選挙の顔として担がれたのに、ネガでしか使えなくなったということか。ぜひ選挙ポスターにはアッソーくんの大写しの顔を、陰画にしてドーンとレイアウトしてはいかがか。
 マスコミも「支持率」などという得体の知れないものを振りかざさない方がよい。それより、「民度」をもっと丹念に調べるのが先決ではないか。アッソーくんも、「アッソー」と言っていればいいのだ。ポピュリズムに一等にあいそうな政治家が、ポピュリズムから最も遠い位置に立つ。皮肉でもあり、名を残すチャンスでもある。

●福岡で初の日中韓サミット
 世界的な金融危機に共同で対処することや、北朝鮮の核問題で緊密に連携していくことなどで一致(13日)
―― 洞爺湖サミットよりも意義は大きいかもしれない。アジアの将来展望、21世紀の世界を考える上でも「小さな一歩、大きな飛躍」だ。
 07年3月27日付本ブログ「人格ということ」で、政治学者・姜 尚中氏の著作に触れた。
〓〓「在日」の意味を問い続ける遍歴の果てに、彼は「東北アジア」に活路を見いだす。彼の境界が飛躍した刹那だ。東北アジアに散在するコリアン系マイノリティー、つまり祖国以外に「在」る同胞は三百万人もいる。『東北アジア共同体』という次の歴史のフェーズを展望する時、その「重要なネットワークのひとつが、『在日』である」と彼は語る。これは決して夢物語ではない。現に、「東アジア共同体構想」に向けて模索ははじまっている。
 さらに、「日本が一体どこに帰属するのか」というプリミティヴな問いかけ。脱亜入欧は百年を超えた。もはや夜郎自大は赦されない。地政学というレベルではなく、真摯な歴史への問いかけが俟たれる。作為された民族観の呪縛を断ち、国家のDNAが解き明かされたなら、日本の立ち位置は自ずと見えてくる。〓〓
 アッソーくん肝煎りのこのトライアングル、どうか大きく育ててほしい。

●渡辺喜美・元行革相が造反
 衆院本会議で、民主党提出の衆院解散要求決議案に賛成(24日)
―― 地盤・看板・鞄の三バンに不自由しない二世議員のパフォーマンスであろう。現に追随者も広がりも見えない。真意からの言動であってもパフォーマンスと見られ、政争の具に供されるのが赤絨毯の怖さだ。桑原、くわばら。

【経 済】
●新車販売、39年ぶり低水準
 11月の国内新車販売台数(軽自動車を除く)が前年同月比27.3%減の21万5783台になったと発表(1日)
―― 先月の「出来事から」でも触れた。繰り返すと、〓〓きっかけは金融危機だが、底流は産業構造の変化だ。ここはしっかり押さえておきたい。単に経営の舵取り、技術開発だけの問題ではない。油を使わない車を造れば片がつく代物ではない。自動車産業が主座から退いていく。〓〓となる。
 当面の対策だけではなく、長いスパンのグランドデザインが必要だ。

●ソニー大規模リストラ
 国内外の従業員1万6千人を09年度末までに削減すると発表(9日)
―― ソニーに限らず大企業は、キャノン、トヨタをはじめとして数兆円を超える規模の内部留保を持つ。リストラ、派遣切り対策に使えとの声が上がっている。そこで引き合いに出されるのが、マネジメントの祖、「知の巨人」とも謳われたピーター・ドラッカーである。
 彼は企業は社会的公器であるとした。人びとの生計を支え、社会との接点となり、自己実現の舞台であると。利潤はその目的を実現するための手段であり、自己目的化を否定した。つまり儲けは手段、目的ではない、と。
 となれば、未曽有の危機に企業がどう対処したか、そこに社会的公器としての会社の『品格』が顕れる。さあ「世界の」ソニーよ、どうする。掛け値なしの大勝負だ。

【国 際】
●各国がクラスター(集束)爆弾禁止条約に署名
 ノルウェーで日本を含む94力国が署名して閉幕(4日)
―― 大量保有国のアメリカ、ロシア、中国が未参加である。また電子式自爆装置を備える最新式は除外されている。しかし、「オスロ・プロセス」の大きな成果だ。長い海岸線の防衛を理由に腰の重かった日本は、最後に参加に踏み切った。来年度予算には2億円を計上し、廃棄に動く。大いに多としたい。
 目を和ませる花房ならいいが、こんな「花房」は御免被る。

●イスラエルがガザ空爆
 イスラム過激派ハマスが支配するパレスチナ自治区ガザへの攻撃開始(27日)。民間人を含め多数の死者
―― 一刀両断にはいかないイスラエル・パレスチナ問題だが、今回ははなはだイスラエルの旗色が悪い。戦局ではなく、国際世論である。アメリカでさえ、安保理決議に反対ではなく棄権で応じた。
 何度も述べてきたことだが、また繰り返さざるを得ない。武力の応酬は憎悪の連鎖を生むだけだ。国連が力をつけるしか解決の道はない、と。

【社 会】
●ホンダがF1撤退を発表
 金融危機による急激な景気悪化で(5日)
―― K1やM1は元気がいいのだが …… 。

●千葉・東金の女児殺害で逮捕
 女児の遺体を遺棄した容疑で現場近くの無職の男(21)を逮捕(6日)。その後、殺人容疑で再逮捕(26日)
―― 東金には幼なじみの友人がいる。昨夏、同窓会で会ったばかりだ。こんな物騒なことでニュースに登場するとは驚きだったが、地元の彼はもっと驚いただろう。事件後の集団登下校に、たすきを掛け小旗を持って付き添ったのであろうか。だとすれば、見守り隊のおじさんもこれでお役御免か。
 仕事の不如意が引き金らしいが、これも「だれでもいい」事件のひとつか。糾明が望まれる。
 房総半島、九十九里平野にある気候温暖な歴史の地と聞く。いちど行ってみたい。

●京都家裁の書記官逮捕
 振り込め詐欺に利用された口座の凍結解除に絡み、埼玉県警が書記官の男(35)を偽造有印私文害行使の疑いで(7日)
―― 名前も官職も覚えてはいないが、「振り込み詐欺」を「振り込め詐欺」に呼び名を換えたのは警察庁の幹部であった。なかなかのセンスである。
 「込み」であれば納得ずくのニュアンスがある。「込め」だと強要されている語感だ。だから、騙されているのではないかと注意や再考を喚起できる。そんなねらいだった。
 ところが、飼い犬に噛まれたのでははじまらない。わが家の柴犬は飼い主の「よし」が掛かるまでは絶対にエサを食わない。エサを前にして、涎をたらしながら必死に耐える。
 かの木っ端役人は、間違いなくわが家の柴犬に劣る。

●広島女児殺害、差し戻し
 無期懲役とした一審・広島地裁判決を広島高裁が破棄・同地裁に審理を差し戻し(9日)
―― 元旦の拙稿「初春 丑尽し」のうち、【九牛一毛】をぜひ御一読願いたい。

●駒沢大、理事長を解任
 資産運用で始めたデリバティブ取引で、約154億円の損失を出して(18日)
―― 学府でもデリバティブ、学府でも失敗。なにやら悲しいものがある。

●浜岡原発2基、廃炉へ
 耐震補強工事で運転中止中の1、2号機の廃炉、代替の6号機の新設を決定(22日)
―― 要するに、直すより安上がりなのだ。問題は、大量に発生する放射性廃棄物だ。与太話の一種ではあるが、07年2月28日付本ブログ「奇想、天外へ!」で触れた。

●NHKの新経営委員長決まる
 福山通運の小丸成洋社長に(22日)
―― 新任者の課題は、「テレビの地上デジタル完全移行の円滑な実施や、新年度から始まる中期経営計画の遂行の監視」だそうだ。後段はいいとして、前段は聞き捨てならぬ。不倶戴天の敵ではないか。前稿で「レイディオ宣言??」したばかりだ。どうしよう? まずは、「福通(フクツウ)」を使うのはよそう。荷の送りはもちろん、受け取りも止めよう。と、それは「ちがうか!」 …… これは「ものいい」のギャグだった。

【哀 悼】
●加藤周一さん(評論家)89歳(5日)
―― 写真だけではあるが、ぎょろ目が印象的だった。正眼から斬りおろす一刀の冴えは震えるほどに感動的であった。たとえば、
〓〓 教科書の検定意見を事実上修正
 沖縄戦の「集団自決」をめぐる検定問題で、文部科学省は教科書会社6社から出ていた訂正申請を承認。いったん消えた「軍の関与」が復活した(26日)
  ―― 評論家の加藤周一氏は「軍の命令があったかなかったかという細かい点に解消されてしまっている気がする。肝心なのは軍の責任であり、どういう状況が人びとを追い込んでいったかだ」と述べる。集団自決などという日常性から最もかけ離れた行為が、一片の軍令などで唐突に起こるはずがない。問題は、沖縄を『捨て石』にした「状況」である。そこだけは絶対に外してはならない。画竜点睛である。(本ブログ、2007年12月の出来事から)〓〓
 「九条の会」で、小田実氏と並んで会見に臨んだ写真も忘れがたく、心に残る。 …… 合掌。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

初春 丑尽し

2009年01月01日 | エッセー
 丑年が明けた。あまり能はないが、年の初めは「ウシづくし」でいきたい。

【汗牛充棟】 蔵書が非常に多いこと。
 ポピュラーな四字熟語である。養老節をひとつ。
〓〓昔はどこの小学校にも読書しながら薪を背負って歩く二宮尊徳の銅像があったものです。そんなに本が好きなんて感心な話だ、だから偉くなったんだ、というのはあくまでも後世の解釈です。実際にはどうだったか。本好きにもほどがあるぞ、ということで尊徳は身を預かってくれたおじさんに読書を禁止されてしまったのです。お馴染みの薪を背負って本を読んでいる姿の由来はここにあります。つまり、目を盗んで読むしかなかったから、外で働きながら読んでいたのにすぎません。「尊徳は本に毒されている。何を考えているかわからない」と当時の大人に思われていたのです。当時の世間の常識は「本なんか読んで何の役に立つのか。体を一生懸命使って働いて、ギリギリで生きていかなきゃならない。本なんか読んだらそこがおろそかになる」というものでした。
 あくまでも読書は自分で考える材料にすぎないと考えています。つまり本は結論を書いているものではなく、自分で結論に辿り着くための道具です。私自身は本について、「本屋さんとは、精神科の待合室みたいなものだ。大勢の人(著者たち)が訴えを抱えて並んでいる」と思っています。〓〓(新潮社 養老孟司著「養老訓」から)
 母校には、いま尊徳像の台座だけが残っている。像はどこへいったのだろう。わたしが小学生だったころには、確かにあった。つい想『像』してみる。でも台座があるから、像はなくとも台無しにはなっていない。
 それにしても、養老節はたまらなくおもしろい。あれは盗み読みの元祖、ながら族の走りだったのか。そういえば、授業中の盗み読みは高校時代に始めた。数学の時間に古文を、化学の時に英文など。これがスリリングで結構いける。睡魔撃退の秘策であった。しかし、尊徳さんのように大成の肥やしにならなかったのはなんとも無念だ。
 後段は鋭い。「考える材料にすぎない」は頂門の一針。「精神科の待合室」は言い得て妙だ。

【牛飲馬食】 大量に飲み、大量に食べること。
 決して、牛乳を飲み、馬肉を喰(ク)らうことではない。牛馬のごとくに、である。浅田 次郎御大の「勇気凛凛ルリの色」には、「ウーロン茶の牛飲」が頻出する。下戸の御大はアルコールの代わりにこのお茶を、牛のようにお飲みになる。そしてケーキの馬食である。この洋菓子についての深い造詣と溢れる蘊蓄が随所で語られる。浅田流牛飲馬食が頃合いに登場し、全編のアクセントを打つ。同書はかなり以前、06年8月24日付本ブログ「キケンな本」で紹介した。酒にせよケーキにせよ、牛飲馬食が身体(カラダ)によかろうはずはないが、このエッセーはそんなものよりはるかにキケンである。なぜキケンか、読めばすぐに了簡できる。
 牛飲がさらに昂ずると、「鯨飲」という。 これはもう底無しだ。一般に鯨は地球上で最も大きな体躯を有する。ところが、餌は逆に小さな小さな「グリーンピース」が好物だとか。お供はもちろん『海の警察犬』。ことしも悶着が起きるのか。

【牛後】 牛の尾。転じて、巨大なものにつき従う者。
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」は定番だ。ひとつの反骨・在野精神であろう。ひょっとしたら今年、与党の諸氏はこの成句を突き付けられるかもしれない。鶏口となって矜持を保つか、はたまた牛後に甘んじ悲哀を託(カコ)つか。正念場が土壇場となり、愁嘆場とならぬよう心されたい。

【牛車】 主として平安時代に貴族が乗った、牛に引かせた車。
 意味はともかく、その昔古文の試験でよくお目にかかった。「ぎっしゃ」とはなかなか読めなかった。やはり「ぎっ『ク』しゃ『ク』」しながら、都大路を往来したのであろうか。
 貴くない庶民はひたすら歩いた。日本ではつい150年前までは、みんな歩いた。有閑の貴い人たちだけが「ぎっ『ク』しゃ『ク』」した。馬も、狭く起伏が多いわが国土では大衆化しなかった。その他大勢は、ともかく歩いた。だから常に、荷をできるだけコンパクトに軽量にする必要に迫られた。それが日本人の「縮み志向」の背景にある、と語る日本の識者がいる。「縮み志向」とは、韓国の李卸寧氏の持説である。折り畳み傘、ウォークマン、箱庭、軽自動車、はては短歌、俳句、なんでも「軽・薄・短・小」にするのは日本の御家芸だ。
 さらに、李卸寧氏は、韓国と中国に比して日本人だけが縮み志向を持つという。そして日本は縮んでいる時に成功し、拡がろうとすると必ず失敗するらしい。秀吉の文禄・慶長の役しかり、太平洋戦争また然り、であると。
 もしも牛車が大衆化していたら、今の日本は違った国になっていただろう。次項ともつながるが、牛車は歩くよりも遅い。国民性も大らかで、円やかであったに相違ない。

【牛歩】 歩みが遅いこと。
 「戦術」と付けば、国会でお馴染みのあれだ。あれは止まってはいけないそうだ。だから、変な足踏みをして時間を稼ぐ。赤絨毯の妖怪どもが体力勝負を挑む。まことにちんけで滑稽な図である。
 
【九牛一毛】 たくさんの中のほんの少しの部分。取るに足らない、問題にならないこと。
 出典である司馬遷の書に、「仮令(タトイ)僕(ワレ)法に伏し誅を受くるも、九牛の一毛を亡(ウシナ)うが若(ゴト)し」とある。遵法を訓(オシ)えたものであろう。決して命の軽さをそやしたのではない。それにつけても、裁判員制度である。いよいよ本年から始まる。天下の愚策である。歴史の汚点かもしれない。本ブログで、いままで何度もオブジェクションを呈した。小論なぞはネグられても構わぬが、人命を、人ひとりの一生を九牛一毛にしてはなるまい。この上は、可及的速やかに制度の廃止へ向け世論が喚起されることを切に望む。
 昨年12月9日、広島高等裁判所が、05年に起こった女児殺害事件で、ペルー国籍の被告に対する控訴審判決を出した。無期懲役の1審の判決を破棄し差し戻す内容である。差し戻しの理由は、「第1審は裁判の予定を優先するが余り、公判前の整理手続きを十分に行わずに終結させた」としている。
 これは重大だ。この裁判は1審の地裁段階で、裁判員制度の予行練習として日数短縮を命題に取り組まれた。急ぐあまり、検察側の挙証に瑕疵があった。そこを高裁が衝いた。裁判員制度のもとでは5日間が目安とされる。職業裁判官だけで行った今回のようなケースでも、「急いては事をし損じる」のである。ましてや市井の民が加わる。先行きに強い不安を抱かざるを得ない。「過たば即ち改むるに憚る勿かれ」孔子はそう訓える。

【風馬牛】 自分とは無関係なさま。
 「風」とは求愛の雄叫び。それも届かぬほどに離れてしまえば、詮無い。または、馬のそれは牛には関わりないとの来由も。どちらにしても、意味するところは同じだ。
 牛馬だけではない。人間界にもこの類が急増している。「どうでもいい」 ―― 昨年は拙稿で何度か触れた。主因は想像力の欠如である。ということは、万物の霊長が牛馬に近づきつつあるのか。

【牛驚くばかり】 ものの色が非常に黒い様子。
【牛掴むばかり】 まったくの暗闇。
 上記二つは牛の体色に由来する。しかし、牛は黒とばかりはいえない。赤い牛もいる。「赤牛」である。全国で熊本と高知にしかない渇毛の和牛である。熊本産は「肥後の赤牛」、「熊本・阿蘇のあか牛」とも呼ばれ、人気を誇る。熊本県畜産会のHPから引用する。
〓〓小型の在来和牛にスイス産のシンメタール種を交配し、黒牛に勝るとも劣らない「あか牛」が誕生しました。
 あか牛は、大自然の中でよく運動をし、太陽の光を十分吸収した牧草をたっぷり食べています。だから健康的で余分な脂肪が少なく、やわらかく、まろやかな味があり、牛肉本来の風味が生きています。 〓〓
 草を食(ハ)む牛の色が黒から赤に変わり、県境をまたいで熊本に入ったと判るそうだ。先日、取り寄せて試食してみた。看板に偽りなし。わたしのような肉嫌いでも難なく喰えた。つまり憎々しく、いや肉肉しくないのだ。 …… と、来年は5度目の年男、『赤牛』になる自分に気付き箸が止まった。これじゃあ共食いだ。いや、待て待て。同じ喰われるなら、同類の血肉となるこちらの方が供養というものかも知れぬ。美味につられて、つい小理屈を捏(コ)ねた。

【牛と芥子は願いから鼻を通す】 牛が鼻輪を通されて自由を失うのは、牛の天性が招いたものであり、人が芥子で鼻を刺激されて困るのも、その人が自分で望んで口にしたためだということ。自ら望んで災いを受けること。
 「牛は願いから鼻を通す」とも使う。鼻からの連想であろうか、辛子が引き合いに出されるとは、なんとも突飛でおもしろい。
 香辛料一般にひろげて考えると、調味、消臭と同時に防腐、殺菌の効能がある。ヨーロッパは肉食で、かつ奥行きがある。運搬や保存に香辛料は欠かせなかった。古代ローマの時代から東洋にこれを求めた。今なら石油に匹敵する、国家の存立を支える重要な資源であった。そして、大航海時代の呼び水となる。
 スペインの王命を承けて西回りでインドを目指したのがクリストファー・コロンブスである。だから、アメリカ大陸の発見は「辛子」なくしてはなかった話だ。彼は辛子を「願い」、大洋を貫き「通す」命懸けの困苦を招いた訳だ。
 今月20日には、オバマ氏が新たな大航海へ出帆する。米国が願う『辛子』を、果たして採れるか。『鼻を通す』肚はすでに定まったと視る。

【牛に経文】 いくら説き聞かせても、何の効果もないことの喩え。
【牛に対して琴を弾ず】 牛に対して琴を弾いてもなんにもならない。いくら高尚なことを説き聞かせても、志の低い愚かな者にはなんの役にも立たない。 
 この二つはほぼ同じだ。愚か者に準(ナゾラ)えられるのでは、「モー、いや!」と言いたいところだろう。
 この二つの成句、東京のトライアングル地帯、永田町と霞ヶ関それに虎ノ門に跋扈する連中を指したものであろうか。と言えば、牛に怒られそうだ。ちなみに永田町には国会があり、霞ヶ関は官庁街、虎ノ門には特殊法人が集中する。

【牛に食らわる】 人に騙される。欺かれる。 
 どうもウシさんには失礼な句がつづく。犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬に噛みつけばビッグニュースになる。その伝だ。
 前述の『霞ヶ関』に関して ―― 元小泉・竹中改革の知恵袋であった東洋大学 高橋 洋一教授が、近刊「お国の経済」(文春新書)で以下のように語っている。 
〓〓財政問題にしろ、金融問題にしろ、いろいろと細かい数字やデータ、経済理論をめぐる論争はあるけれど、そういった問題の裏には、官僚の無惨な失敗とか意図的な情報隠蔽があるんだよ。政治学者の飯尾潤さんが、「日本の統治構造 官僚内閣制から議院内閣制へ」(中公新書)という本で言っているけれど、私が増税派と闘ってきて感じたのは、本当に日本は「官僚内閣制」だなってこと。「内閣」っていうのは国民の代表たる「国会」(議院)の信任があってはじめて成り立つし、逆に「国会」から不信任されると総辞職せざるを得ない。だから、私たち国民が「国会」を通じて、「内閣」も「官僚」も動かしている。民主主義の根幹にかかわる制度ですよね。でも実は違うの。「官僚が大臣や国会議員にいろいろと取り入って、「内閣」や「国会」を上手にコントロールしている。官僚が右手に「内閣」、左手に「国会」で双方コントロールし、支配している。〓〓
 「官僚主権」については、昨年4月26日付本ブログ「『四権』?国家」で述べた。年金記録問題をはじめとしてここ数年、国民は面恥(ツラハジ)のかかされ通しだ。「『霞ヶ関』に食らわる」のはよい加減にしたい。

【牛に引かれて善光寺参り】 たまたま他人に連れられて、ある場所に出向くこと。自らの意志からではなく、他人の誘いでよい方向に導かれること。
 昨年は『聖火に引かれて善光寺』の当てが外れた。去年4月、「善光寺が聖火リレーの出発地点を辞退、チベット問題に配慮」との見出しが各紙に載った。チベット問題ではなく、騒動、もしくはとばっちりを怖れての辞退であったろう。
〓〓「牛にひかれて善光寺」という。『聖火にひかれて善光寺 』とはいかなくなった。どころか、善光寺がチベット問題でひ(退)いてしまった。善光寺は何にひかれたのだろうか。〓〓
 昨年の「4月の出来事から」(08年5月5日付本ブログ)より、駄文を『引』いてみた。

【牛にも馬にも踏まれぬ】 子供が無事に成長することの喩え。
 ふたたび、養老節。
〓〓今ではマンションのような小さな共同体の管理も基本的には管理会社に任せます。住民が何かを一緒にやることはほとんどなくなっています。理事会で決めるのは管理会社に何をやらせるかということです。便利といえば便利。しかし手抜きだともいえます。現在の多くの社会的な問題というのはそういうことの集約です。 (中略) 手抜きの弊害がもっとも見られるのが教育です。人間がどうしてもせざるを得ないことのひとつが教育です。だから教育基本法をいじろうとか、会議で何とかしようとかしているのでしょう。しかし、国がかりで大勢集まって議論するよりも、自分が子どもの面倒をどれだけ見るかのほうが、よほど大切です。私は常々「問題なのは少子化じゃなくて少親化でしょう」と言っています。子どもが減ったのではなく、親になりたい人が減ってしまっただけのことです。要は手間をかけたがらない人が増えたということです。しかし手間を省いたら成り立たないことというものがあります。生き物の面倒をみることが典型です。子どもの教育が駄目になった根本はそこです。〓〓(新潮社 「養老訓」から)
 「手間を省いたら成り立たない」のは、「生き物の面倒をみること」である。これはズバリだ。「問題なのは少子化じゃなくて少親化」これも養老節の冴えだ。正鵠を射るとはこのことだ。

【牛の一散】 普段は決断の鈍い人でも、場合によっては急に逸(ハヤ)り進むことがある。【牛の籠抜け】 鈍感な者が素早くしようとすることの喩え。また、鈍重な者はものごとを行なうのに不手際であることの喩え。
 毎年7月、スペインで「牛追い祭り」がある。街中(マチナカ)に放った牛を、大勢で闘牛場まで追い立てる。ところが牛を取り囲む人たち、特に前方の人たちがいつの間にか牛に追われる羽目に。だから実態は『牛に追われ祭り』である。当然、ケガ人続出となる。いつもこの時期、テレビニュースでお目にかかるあれだ。
  …… 人間どもに寄って集(タカ)ってやいのやいのとせっつかれ一散し、人混みを軽業よろしく籠抜けしようと一目散。かわいそうだが、突いたり、撥ね飛ばしたり、蹴飛ばしたり。オイラだって、好きこのんで『モー進』しているわけじゃあない。御免なすって!  …… そんな図だ。視るだに奇っ怪である。

【牛の糞】(うしのくそ) ①牛の糞(ふん)は、表面は固そうに見えても内側が柔らかいことから、表面は剛直に見えるが、内側は柔らかい人。特に、女にとって油断のならない男のこと。②牛の糞が段々になっているところから、ものごとには順序や段階があるということの喩え。③ぐるぐる巻きに結った女性の髪形。
 なんとも初春には不相応なことばかもしれない。③にいたってはなおさらだ。たとえが悪すぎる。でも、おもしろい。① ②は日常の空間から消えて久しい。余程の田舎でも、路上にこれを発見するの至難だ。いまや「探検」の対象である。「油断のならない男」はいまだに散見するが …… 。

【牛の角を蜂が刺す】 角を蜂や蚊が刺しても牛は痛くも痒くも感じないように、ものごとに対してなんとも感じないこと。 
 「角」では、
【角を矯めて牛を殺す】もある。わずかな欠点を直そうとして、全体を駄目にしてしまうこと。
 同じ角でも、相当に意味合いがちがう。前者は「石地蔵に蜂」ともいうように、牛よりも蜂に主眼があるようだ。せっかくの伝家の宝刀もポイントを外すと何の効果もない。反対に急所であれば、絶大な威力を発揮する。その昔、『蟻の一刺し』で座を負われた某国の宰相がいた。20年も前の話だ。

【牛の寝た程】 金銭を大量に積み上げた様子。 
 現代版「風が吹けば桶屋が儲かる」はなしを紹介する。
〓〓変動相場制のもとでとうして財政政策が効かないか。財政政策をやるときには国債を発行して公共投資をするのが一番典型です。国債を発行して民間から資金を集めると、金利が高くなる。金利が高くなると為替は円高になる。金利が高くなって円高になると、公共投資をして内需を増やす一方で、円高になるから輸出が減る。そうすると公共投資の増が輸出減で相殺されちゃう。輸出減の一方で輸入が増えるということは、他国の輸出増になるわけでしょう。要するに公共投資の効果は他国の輸出増になっちゃうんです。というのを、マンデルとフレミングという二人の経済学者が編み出したので「マンデル・フレミング理論」という名前がついている。二十年以上、いろいろな風雪に耐えて、一九九九年にはノーベル賞もとった理論だから、実にしっかりした正しい理論です。ところが日本ではこの世界の常識が知られていないから、みんな景気対策というと財政出動でしょう。もちろん、理論的には、金融政策はパーフェクトに効いて、財政政策は全然効かないんだけれど、現実にはちょこっとは効きます。〓〓(高橋 洋一著「お国の経済」から)
 つまり、 《 公共投資 → 国債発行 → 金利高 → 円高 → 輸出減・輸入増 → 公共投資増が輸出減で相殺 》 という連関である。100年に一度の緊急事態とはいえ、再び国債発行が30兆を超える。まさに、牛の寝た程の国債だ。養老孟司氏によると、「金とは、それを使う権利」である。国債は、将来世代からその「権利」を奪い取ることだ。「金を稼ぐのに教養はいらないけれど、金を使うには教養がいる」これも養老氏の言だ。実に深い。
 29年の世界恐慌に対し、時の高橋是清蔵相は大規模な財政支出に打って出た。一時(イットキ)のカンフルにはなったものの、効果は限定的に終わった。あれから80年。「マンデル・フレミング理論」は空論ではないはずだ …… 。
 オバマの掲げる「グリーン・リカバリー」のような壮大な発想は、島国・日本では無理か。いや、知恵は無限だ。そう信じたい。

【牛は嘶き馬は吼え】 ものごとが逆さまでねらい通りにいかないことの喩え。
 今年中には、総選挙がある。国会の逆さまがどうなるか。いかさまでなければ、逆さまでもいいではないか。
 ほとんど触れられない逆さまがある。選ばれた責任は声高に語られるが、選んだ責任はほとんど不問に付されている有り様(ヨウ)だ。マスコミがそうだ。国民に向かい、「あなた方が選んだのだからしょうがないでしょ」とは言わない。中山某の失言は取り上げても、選んだ某県民のレベルは問われない。大向うに媚びることしか知らないマスコミは、ある種のいかさまではないか。
 先述の【牛にも馬にも踏まれぬ】で引用した「養老訓」の中で中略した部分をここで引用する。
〓〓本気で首長を選ばないから、あとになって「こんないいかげんな人とは思わなかった」となるのです。選ぶときに手抜きをしたツケです。〓〓

【牛は牛連れ】 類を同じくする者が相伴うことのたとえ。
 ところがわが家、「牛は豚連れ」である。旅は道連れ、世は情け。下にも置かず、座敷に上げて慈しんできた。ために、このごろは股擦れができるほどに栄養が行き届き、なんとも連れ回すのに骨が折れる。そのうち逆転して、「豚は牛連れ」にならぬよう、用心、用心。

【牛部屋の吹き矢】 牛部屋で吹き矢を吹き誤ると、牛が興奮して危険であることから、十分慎重に行動しなくてはならないことの喩え。
 昨年は病付きで開け、病み挙句で閉じた。病因は、暴飲、暴食、暴煙、それに暴言だ。ことしは牛の尻に矢が当たらぬよう、少飲、少食、『卒煙』、それに寡黙を旨とせねばなるまい。少飲、少食は続行中。卒煙は、いまのところ復学の予定なし。問題は四つ目。これはかなりきびしい。死ねというに近い。ならばこそ、『伽草子』で暴言、虚言、妄言を連ねるとするか。御一同様、どうぞお付き合いを。

【牛の涎】 だらだらと長く続くことの喩え。
 ふぅー、長い! 足掛け4年。本ブログのことだ。また、今回の拙稿でもある。正月早々、牛だらけでは胃がもたれる。モー、これぐらいにしておこう。

 おぉーと、申し遅れました。
 皆さま、新年明けましておめでとうございます。今年もご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆