伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

見てきたような絵

2016年10月26日 | エッセー

 白い波頭(ナミガシラ)が横様(ザマ)に並び、幾重にも押し寄せる。荒れた海を傍らに見ながら車を走らせている時だった。同乗していた友人が北斎の『神奈川沖浪裏』を話題に持ち出して、あれは実物を見て描(カ)いたにちがいない、と言い始めた。そんなはずはない、第一あんな大きな波の海に漕ぎ出せるわけがない、波の向きと富士山とが直角の構図であるのもおかしいだろう、と応じた。
 世界で最も高名な本邦美術作品の一つと称される『冨嶽三十六景』の一景である。ゴッホが賞嘆し、ドビュッシーが交響詩『海』を書いた。多くの欧州芸術家の魂を大いに触発した浮世絵である。
 インパクトはやはり波、特大の波だ。巨濤が荒れ狂いのたうつ刹那、波頭が幾つもの鷹の爪となって空(クウ)を掴む。その荒々しい様だ。「講釈師見てきたような嘘をつき」という。その伝でいくなら、「浮世絵師見てきたような絵を描(エガ)き」であろうか。ならば、友人が「見てきたような」絵だというのも頷ける。
 津波か。しかし、北斎存命中に神奈川で津波は発生していない。波長も短い。あの大波は津波ではない。時化にしては大きすぎる。台風なら航行はどだい無理だ。ただ寛政年間に「肥後迷惑」と呼ばれる津浪被害が発生している。だが、肥後に北斎の足跡はない。伝聞に接したかもしれぬが、それを基に描いたとしたらまさに「見てきたような」である。いずれにせよ、「実物を見て描いた」はずはないのだ。
 ところが、話はこれで終わらない。ハイスピードカメラで波の先端を撮影すると、『神奈川沖浪裏』の波頭にそっくりだという。“鷹の爪”である。肉眼を超える視覚が捕らえる実物のもう一つ向こうの実物。それを北斎という天才の眼が確かに見ている。巨濤は抽象的でもデフォルメでもなく、須臾の姿が極めて写実的に描(エガ)かれているのだ。だとすると、やはり「見てきたような」絵だ。
 そうなれば友人の短慮を咎めてはみたものの、世界は見えているようには存在していないのではないかと、疑念が湧いてくる。常人には見えない世界を見る科学者の目、芸術家の目、技芸者の目、そして哲学者の目。世界は幾通りにも見える。ワークシェアならぬヴィジョン・シェアだ。ありのままとは、おそらくそれらを総動員した複眼をいうのではないか。集合知ならぬ集合眼だ。
 すべての生物種の半分以上は昆虫である。かつ4億数千年前、陸上植物の出現に相前後して誕生した。恐竜の時代より遙か以前、陸上動物の先駆けとして長遠な歴史をもつ。そのためか種の多様性が極めて高く、水陸さらに寄生と、あらゆる場所で生息する。その特徴的な感覚器官が複眼だ。4億年超を生き抜いた秘密は、フィジカルな脆弱性を補完した複眼にあるのではないか。人類のサバイバルにとっても示唆的だ。視覚に止(トド)まらない。思考、複眼思考である。見たいものしか見えない、見ようとしない単眼思考は人間の類的寿命を縮めるのではないか。視野狭窄は躓く。
 『神奈川沖浪裏』とはよく言ったものだ。浪を捲って裏をありありと見せてくれる。天与の目にして初めてなせる業だ。してみれば、世界を唸らせた「絵に描いたような」天才が「見てきたような絵を描(エガ)き」となろうか。 □


死者の声が聞けるか!?

2016年10月20日 | エッセー

 ざっと3箇月になる。あの事件以来、間歇してきた思案がある。
 発生すぐに『障害者施設事件』と題する拙稿を上げた。「彼が病んでいたかどうかは知らない。だが、病んだ時代を表徴しているとはいえる」と書いた。時代はなにを病んでいるか、だ。
 17年前、石原慎太郎は都知事就任間もなく障害者施設を訪問し、
「ああいう人ってのは人格があるのかね。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状況になって......。おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」
 と感想を述べた。明らかに植松聖に通底する。現に、ある文芸誌で
「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味でわかるんですよ。大江(健三郎)なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさんを持ったことが、深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」
 と語っている。この類いの確言だ。ナチスのT4に踵を接する思念だ。時代の病症の、それも重篤なひとつにちがいない。
 病因は察しが付く。コマーシャリズムの成れの果てだ。石原は「西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないか」と見当違いで薄っぺらな知見に託けているが、解りやすくいえば商売の邪魔になるということだ。分け前が減るといいたいのだ。もちろん石原の夜郎自大な自尊、慢心が「深層のベースメントにあって」発言を裏打ちしているのは疑いようもない。そこには弱者へ向ける眼差しも、生命の唯一無二性への信憑も、息遣いや心音に耳を澄ます敬虔な身構えも哀しいほどない。高尚を装ったヘイトスピーチ以外のなにものでもない。しかしこの「切り捨てちゃう」という忌むべき邪念は意外にも根深い。まるで宿痾のように根治を拒む。
 確かに棄老伝説はある。『楢山節考』も夙に高名だ。だが民間伝承であり、明瞭な史的エビデンスがあるわけではない。なにより忘れてならぬのは悲劇として描いているのであり、姥捨て自体を微塵も肯んじてはいないということだ。だから棄老の因習をもって植松や石原にエクスキューズを与えることはできない。
 「なにを病んでいるか」、つまりは病根だ。
 昨年9月、名大女子学生が知人老女の頭を斧で殴打して殺害した。高校の時は劇物を飲ませて同級生を殺害しようともしていた。調べに「人を殺してみたかった」と供述したそうだ。事件を受けて姜 尚中氏は『悪の力』(集英社新書)で、彼女に「決定的に欠落しているのは具体的な身体性の感覚」であり「他者は単なるマテリアル、つまり物質にすぎません」と綴った。
 これは示唆に富む。生命感が失われ他者がマテリアルと化す。肥大化した観念が身体という埓を超える。幼児のごっこ遊びは笑えるが、長じてのそれは危険極まりない。では、肥大化するのはどういう観念か。姜氏はナチスを例に、「誇大妄想的な自己肯定感」と病的な自己「空洞感」だという。前者は「自らを天使のようにピュアなものに浄化したいという願望」となり、後者は「想像を絶するような破壊行動」として出現する、と。T4を振りかざした植松聖の言動はこれと軌を一にする。『悪の力』から1年を待たずに凶行は繰り返された。それほどに根深い。
 姜氏はさらに続ける。
<現代には、薄っぺらで実のない原理主義がいたるところに出没しています。民族原理主義、宗教原理主義、市場原理主義、さまざまな原理主義が私たちの周囲に台頭しています。特定の化粧品や健康食品などに憑かれたようにのめり込む、あるいは、片時もスマホを手離せない、情報をチェックせずにはいられないというような強迫的状況も、原理主義的な偏愛と言えば大袈裟でしょうか。原理主義というと、私たちは、何かに夢中にのめり込んでいる姿を思い浮かべますが、その背景にあるのは、じつは何も信じられないという空虚感です。何も信じられないからこそ、これだけを信じていないと生きていけないと思い込む。そうなったときに原理主義が立ち現れるのだと思います。>(上掲書より)
 また上掲書についてのインタビューで、
「グローバルリズムが進むことによって、選択の自由、そして自己責任という考え方が一般化しましたよね。つまり他人を信じるとバカを見る、自分だけを信じなさい、あるいは信じられるのはお金だけだ、と言われ続けているわけです。だけどやっぱり、何も信じないという生き方に人間は耐えられない。原理主義というのはこれだけを信じればいいという考え方ですから、楽なんですよ」
 とも応えている。姜 尚中氏に拠れば、病根はこの辺りか。腑には落ちるが、未だ少しの隔靴掻痒の感。そこで、徴したいのが内田 樹氏の論攷である。
<人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣を持つことで、他の霊長類と分岐した。「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。>(「街場の現代思想」から縮約)
 「死者の声が聞こえる動物」とは言い得て妙だ。チンパンジーが仲間の死体を持ち去ったという特異例があるにはあるが(撤去しただけ)、人間以外の霊長類は同類の死体には見向きもしない。置き去りにする。単なる物体に過ぎない。「死者の声が聞こえる」のは人類の属性といえる。別の著作ではこう語る。
<「葬制を持つ」ということは、言い換えれば「死者の発揮する恐るべき力能」を知ったということである。誤解を恐れずに言えば、それが「人間になった」ということである。人間を類人猿から最初に分かったのが葬礼であるとするなら、「死者の発揮する恐るべき力能」についての知が人間性の核をなしているということになる。>(「他者と死者」から縮約)
 人間性のコアに「『死者の発揮する恐るべき力能』についての知」がある。俗にパラフレーズすると、祟りがあるかもしれないとする畏怖だ。植松にも石原にも同類のものは毛筋ほども窺えない。あるのはマテリアルにしか見えない他者ばかりだ。勘違いしてはならない。「死者の声を聞く」とはオカルティズムではない。霊力、憑霊でも口寄せでもない。そうではなく、不可視な世界にまで及ぶ想像力だ。
 人類600万年の歴史で、宇宙からの帰還はできても死後からの帰還者はただの一人もいない。これからもいない。おそらく死者は数百億を下るまいが、“体験者”は皆無だ。臨死体験はとば口との往来ではあっても、死後の体験ではない。死後は究極の不可知であり、死者とは永遠の不可解なのだ。死の恐怖とはそれだ。ならば謙虚であるべきではないか。五感を研ぎ澄まし、全知全能を尽くして向き合うべきだ。そのような心身の構えを「死者の声」を聞くといいたい。
 「『死んだ人間』がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると『感じる』ことのできる」感性である。つまりは、この本性が人間の「人類学的定義」だ。
 となれば「時代はなにを病んでいるか」は、人間が原初的な意味において人間性を失いつつある病症、と置き換えられる。「他者がマテリアルと化す」とは、人間が人間ではなくなりつつある退嬰、もしくは逆進化の過程に入ったということだ。人間が「人類学的定義」から外れつつある。人間としての本能的な欠落を抱えるに至った──。極論は承知の上だが、よほど腑に落ちる。原理主義の瀰漫、結果としての生命の軽視、手段化は人間の種としての危機ともいえる。病識をそこに措かないと根治は不能ではないか。
 かといって、大仰に構えなくともよいだろう。先ずは自らに問いかけてみたい。繰り返すが、霊力ではない。想像力だ。死者への謙虚な居住まいだ。故人となった肉親でいい。生者の列を離れた友人でもいい。「死者の声が聞けるか?」と。 □


辺境のボブ・ディラン

2016年10月17日 | エッセー

 ボブ・ディランへの授章を日本の文脈で愚考してみた。15日の朝日新聞は、
〓吉田拓郎さんは「もし、あの時にボブ・ディランがいなかったら、と考える。ボブ・ディランがいたから今日があるような気もする」とのコメントを発表。また、泉谷しげるさんは「ボブ・ディランがノーベル文学賞、この違和感がたまらない。不思議な感じがする。それも含めて楽しめばいいじゃねぇか」とコメント。〓(抜粋)
 と報じている。
 「気もする」とは向こうを張っているようでもあるが、外形的(動機、スタイル)にはディラン以外にあり得ない。しかし実質的にはBEATLESのポピュラリティを準ったという以外ない(『結婚しようよ』の帰れコールを想起すれば足りる)。曲想には似たものがあったが、後の展開は明らかにBEATLES張りだ。双方の間(アワイ)を跨げばこういう物言いになるのだろう。ディランの日本公演でオーディエンスの一人として拓郎は滂沱の涙を流したと聞く。だから鼻っ柱でこう言ったのではあるまい。
 片や泉谷の発言は異色のようではあるが、ディランの本質を捉えている。数多のコメントの中で出色だった。発表直後のコンサートでディランは賞には一言も触れなかったらしいし、スウェーデン・アカデミーもコンタクトが未だ(14日現在)取れないそうだ。稿者も一報に接した時、受けるかな、が第一印象だった。
 碩学 内田 樹氏の炯眼を徴したい。代表作『日本辺境論』で、日本の侵略戦争について以下のように述べる。
<日露戦争後、満韓で日本がしたことは「ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと」を想像的に再演したものです。本質的には「キャッチアップ」なのです。
 日本のナショナリストたちが提言しているのは「他の国が『こんなこと』をしているのだから、うちも対抗上同じことをすべきである」という提言だけです。それだけです。他国がしていることにシステマティックに遅れることだけをわが国の外交戦略の機軸として提案している。
 事情は左翼でも変わりません。日本が彼らの求める「世界標準」に準拠していないことに不満なのです。すでに存在する「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。>(縮約)
 戦争に限らない。辺境ゆえの「本質的には『キャッチアップ』」は本邦太古よりの宿命的軌跡ではないか。どう抗弁しようとも2千年近い間、常に中華にキャッチアップしてきた。国づくりも文明の享受も光源は中華にありつづけた。文化はその後の意匠でしかない。辺境である日本はずっとそのような位相にあった。早い話、未だ嘗てこの国は文化は生んでも、文明を発出したためしがない。辺境であるゆえだ。
 維新後、中華は文字通りの中華から欧米、別けてもアメリカに変わる。東端から西端に変位しても辺境に違いはない。キャッチアップの対象は変わってもキャッチアップという宿命的軌跡は同等だ。俗にパラフレーズすると、中心・先端のエミュレーションである。後塵を拝する。「知らずば人真似」だ。ただ、それが「顰みに倣う」うちにやがて「鵜の真似をする烏」になると奈落が待つ。内田氏が明察する通りだ。
 戦後、キャッチアップの客体としてアメリカは劇的に存在感を増した。『属国』のゆえであろうか。「『世界標準』に準拠」は闡明に“アメリカがスタンダード”となり、市井の文化レベルに及ぶ。石原裕次郎の登場は“和製プレスリー”としての安っぽいキャッチアップであったし、ロカビリーやアメリカンポップスも同じ文脈であった。しかし戦前からの反米・嫌米感情は消しがたく伏流していた。60年・70年安保闘争の激しさは牢固たる反米感情を抜きにしては説明しがたい。さらに、70年代後半に事況は輻輳してくる。再度、内田氏の洞察を引きたい。
<日本はベトナム戦争の後方基地として、侵略に加担し、特需で経済成長の恩恵に浴していた。その受益者であることについての疾しさがあって、それが激しいベトナム反戦・反米闘争というかたちをとった。ところが、七五年にベトナム戦争が終わると、その反米気運が一気にしぼんで、たちまち親米的な空気が日本社会に拡がっていった。
 ベトナム戦争で悪化したアジア一円におけるアメリカのイメージの転換戦略において、最大限に活用されたのが、アメリカのカウンターカルチャーだった。もともとアメリカの中においても、ベトナム反戦を唱えるリベラルの運動は根強かった。キング牧師の公民権運動、マルコムXやモハメド・アリのブラック・ムスリム、ヒッピームーブメント、アメリカン・ニュー・シネマ、反戦フォークといった政治的・文化的な“カウンター”がホワイトハウスと軍産複合体をはげしく批判していた。ベトナム戦争が終わるとそれまで“カウンター”だったものがメインカルチャーに取って代わって、「自由と反抗の精神こそがアメリカだ」ということになった。若者たちは掌を返したように親米的な消費活動に熱中した。>(内田 樹×白井 聡『属国民主主義論』から縮約)
 新しい“中華”としてのアメリカがベトナム戦後、イメージ一新のため戦略的に活用したものが「カウンターカルチャー」であり、西端の辺境である日本はそれを生得的にキャッチアップした──括ればこうなるか。ならば、フォークソングの受容も同じ文脈といえる。“和製プレスリー”と違いはない。外形的にはそうだ。“和製ディラン”だ。しかし不可避な違いがあった。それが“カウンター”だ。同じホットドッグでも、こちらには毒が入っていた。プロテスト性である。プレスリーのやんちゃではなく、ディランのプロテストだ。反戦・反体制へ向かう毒だ。70年代の若者たちに共振を起こした音源はこの毒にちがいない。少なくとも「ベトナム戦争が終わる」まではそうだった。ところが少しのタイムラグで梯子を外された。「メインカルチャーに取って代わ」る戦略に搦め取られる。“和製ディラン”たちは舞台を去り、「BEATLESのポピュラリティを準った」者たちだけが残った。その意味ではディランから乖離する。そういういきさつを一絡げに「気もする」と、拓郎は言ったのではないか。
 ただし、拓郎のプロテスト性はミュージックシーンで弾けた。「テレビの歌はインチキではないか」とのプロテストがそれだ(先月の拙稿『70歳のラブソング』で触れた)。ステロタイプな中身のお仕着せ。サイジングされた一方的な充行。それらを“インチキ”と彼は斬り捨てた。十全に“カウンター”ではないか。たかが業界という勿れ。スチューデントパワーは潰えても、ミュージックシーンはドラスティックに変貌した。「時代を変える」とは手垢の付いたフレーズだが、その名に値する実例は極めて少ない。
 さてキャッチアップだが、ロックには曲が音楽であるための十分条件だ。詞は必要条件に止(トド)まる。ディープ・パープルにはインストゥルメンタルの名曲が多い。だが詞のないフォークはあり得ない。詞が必須だ。ロックはそのままエミュレートできるが、フォークはそうはいかない。原語のままだと、非ネイティブにはメッセージが届かない。プロテスト性は詞に託されるからだ。ところがこれは意訳であっても至難だ。言語の壁が立ちはだかる。原曲をコピーするか、外形は纏いつつ邦語で創作する以外ない。その中で、邦語をデフォルメしてロックに乗せ、メッセージ性を持たせるという離れ業をしてみせたのが桑田である。奏功した折衷策ともいえよう。だが、フォークには通用しない。詞を属性とするからだ。
 “カウンター”に話を戻そう。泉谷の「違和感」はこれに発する。プロテストが権威にオーソライズされるちぐはぐを語っている。フォークの「舞台を去り」俳優への華麗なる転進を果たした泉谷が言うのも違和感はあるが、確かに平仄が合わない。かつて受けたアカデミー賞はミュージックシーンの栄誉であり、ノーベル賞とは次元が異なる。人類網羅的な権威だ。平和賞ではなく、文学賞であるのは救いではあるが。政治的配慮に満ちた平和賞ではイグノーベル賞になってしまう。
 むかしボブ・ディランの真似をして広島から山陰へ放浪の旅に出たと、今月3日のライブで拓郎は語った。お小遣いを貰い、旅先から安否を電話する。なんとも妙ちくりんな旅だった、と。「あの時にボブ・ディランがいなかったら」、きっと放浪の旅を真似たりはしなかったであろう。だが、「ボブ・ディランがいたから」音楽の旅は確かに始まり、いま半世紀を越えている。キャッチアップは成ったといえなくもない。 □


“PPAP” 団塊の世代的読み解き

2016年10月12日 | エッセー

 自分で言うのもなんだが、人後に落ちぬミーハーである。刻下、嵌まりまくっているのがピコ太郎くんのPPAP。なぜ、年甲斐もなく心を奪われるのか。団塊の世代のひとりとして読み解いてみたい。歌詞は以下の通り。

Pen-Pineapple-Apple-Pen/PIKO-TARO
  〽ppap
   I have a pen.
   I have a apple.
   ummm
   Apple pen!

   I have a pen.
   I have a pineapple.
   ummm
   Pineapple pen!

   Apple pen!  Pineapple pen.
   ummm
   Pen-pineapple Apple-pen!〽

 “ppap”はタイトルの頭文字(歌詞の最終フレーズでもある)を連ねたものだ。まあ、それだけのこと。
 “I have a pen.” これがいい。なんとも、いい。
 中学に上がって、はじめて英語なるものを学んだ。今は愚かにも小学校から始める。団塊の世代は国がこの天下の拙策に走る遙か以前の就学だったために、犠牲にならずに済んだ。時代の僥倖といえる。小学校での英語教育の不埒については、13年12月「おつむもペラペラ」で取り上げた。是非、参照願いたい。
 ともあれ記憶は定かではないが、教科書の最初は“This is a pen.”ではなかったか。なんにせよ、“pen”は初出の単語だった。あるいは、長じて英語の不得手を笑い飛ばす際にこのフレーズを使ったのかもしれない(漫才のギャグにあったか?)。いずれにせよ、習い初めの言葉とフレーズは記憶の古層を擽(クスグ)る。懐かしい。それを四十(シジュウ)年配のおっさんが手振りを交えて(ダンスだから当たり前だが)発語する。余計に郷愁を誘うのだ。
 “I have a apple.” これがまた、いい。“an”じゃないところが涙腺を擽る。わたくしなぞ、「母音で始まる言葉に付ける不定冠詞は……」には悩まされた。なんて英語は七面倒臭いんだ、と嘯いたものだ。今、このおっさんもかつてのように間違えた。これは泣ける。いや、ひょっとするとわざとネグったか。そんなものはどうだっていいんだ、とばかりにボケをカマした。だとすると、これは痛快事だ。グローバリゼーションを洒落のめす一撃である。
 “ummm”の前にはペンでリンゴを刺す振りが入る。これはなんだろう。この発想は常人の閾値を超える。わたしなぞはウィリアム・テルぐらいしか出てこない。まさか息子の命を賭けてまで勝ち取らねばならない自由があるとアピールしているわけではあるまい。“pineapple”も同様に突き刺す。かくて、
 “Apple pen!”“Pineapple pen!”は成る。単なるストレス解消か。あのAppleへの恨みか。んー、謎だ。70年代のゲバ棒と機動隊の盾か。でも、あれは突き通せなかった。やはり、謎だ。ペン繋がりでいくと、パイロット万年筆。死んだ巨泉の「みじかびの、きゃぷりぴとれば、すぎちょびれ、すぎかきすらの、はっぱふみふみ」は団塊の世代には馴染みのCMコピーだ。出鱈目のようだが、それでも意味は取れる。短い、キャップ、取る、すぐ、すらすら、書く、文(フミ)と。しかし、“Apple pen”“Pineapple pen”は言語明瞭意味不明だ。商標ではもちろんない。
 “ppap”はアクセスが数億回(下世話には広告収入は数億に上ると囁かれる)、サウジアラビアをも含む世界各国に拡散しているという。人類的な受けは当然この振りをも含む。もしかすると、ペンとリンゴの合体で異種の融合を暗示するのか。ダイバーシティの表徴か。んー、これも外れていそうだ。そんな大仰なものではなかろう。判らなさがいいのかもしれない。意味を探ろうとする不遜を嗤っているともいえるし、あなたの人生と同じくさしたる意味はないのさといなしているともいえる。はてさて、ウィリアム・テルならなんと答えるか。
  “pineapple”“apple”の連想、尻取り擬きか。ラップのノリか。付け加えると、発音は『パイナッポー』であり『アッポー』である。“プル”ではない。“ポー”だ。ネイティブである。この気遣いが痛々しい。団塊の世代は教室で“ポー”と教わった記憶がない。“プル”だった。BEATLESAPPLEレーベルも“プル”だったし、あのAppleも“プル”だ。御親切にもネイティブで歌ってくださる。その配慮が涙を誘う。“ポー”で隠して“an”で隠せず。このちぐはぐが堪らなく健気ではないか。
  “Pen-pineapple Apple-pen!”はいかにもラップだ。和製ラップが体質に合わない団塊の世代(わたくしだけかも)にも、ここまでなら許せる。なんせ日本語ではない。
 リズムとメロディー、それに振り付けも中毒性が挙げられている。最後の決めポーズなどは「やってしまった。ごめんなさい」、なにやらカマっぽい。
 芸名は古坂(コサカ)大魔王というらしい。古参の芸人で、シンガーソングライター・ピコ太郎と名乗る。TVに引っ張り出されて揉みくちゃにされ、一過性で終わりにならぬか心配だ。拙稿でも取り上げた鼠先輩、ムーディ勝山、8.6秒バズーカと同じ轍を踏まぬよう願いたい。特にワイドショーは敬して遠ざけるべきだ。“Apple pen!”“Pineapple pen!” 謎のままがいい。
 新しそうで、なぜか懐かしい。団塊の世代にとっては郷愁の“ppap”。耳にこびりついて離れない。“Pen-pineapple Apple-pen” さあ、ご一緒に。 □


拓郎の秋

2016年10月07日 | エッセー

 10月3日午後6時30分小糠雨に包まれるなか、東京国際フォーラム・ホールAは堂宇を揺さぶる轟きと交錯する極彩色の稲妻で幕を開けた。
 吉田拓郎 LIVE 2016
 “LIVE2014”とバックはほとんど変わらない。新曲はひとつだけ(多分)。先月の拙稿『70歳のラブソング』で触れた“ぼくのあたらしい歌”は披露されなかった(未完成なのか)。つまり、音は同じだ。
 変わったのは声だ! 
 同稿で「古希、確かに声量は落ちた。哀しくはあるが……」と綴ったのは完全な杞憂に終わった。僅か1ヶ月、なにをしたのだろう。キーを少し上げたのか、テクニカルな操作か。いや、ちがう。声量そのものが“2014”を遙かに凌ぐのだ。“70歳”のそれではない。若い! なにせ2時間余を休みなく歌い通した。そこいらの月並みなレジェンドを遠く寄せ付けない歌いっぷりのよさ、見事さである。57歳で患った歌い手としての致命的な病を考え合わせると、ミュージック・シーンの快挙、金字塔ともいえよう。レジェンドというなら、これぞ正真のレジェンドだ。
 50歳を直前にしたコンサートで、彼は「いよいよ大台に乗る。でも僕たちの仲間で、かまやつひろしさん以外にお手本はいない。どうしたものか」と嘆いた。NHK・SONGSで語った「若者たち」──「テレビの歌はインチキではないか」と疑問符を突き付け、「力を持ち始めた」あの若者たちが壮と老の狭間にさしかかった戸惑いであった。あれから20星霜。今、かまやつが病に伏す中、拓郎自身が最良のお手本となった。それを世に宣したのが今回のLIVEではなかったのか。「live」は生(ナマ)という以外に生き抜くとの謂をもつ。ならばこその“LIVE2016”、生きて生き貫いての2016年。だが、まだ畢りはしない。未だ以て『人生を語らず』だ。
 生(ナマ)だと、どうか。齊藤 孝氏は近著で次のように述べる。
<最近ミュージシャンは、CDが売れなくなって、前より一層ライブに力を入れるようになったといわれています。こんなインターネット隆盛の時代だからこそ、かえって唯一無二のライブ空間が見直されているのです。これもまたライブの一種といえるかもしれませんが、アメリカをはじめ海外では、講演会の需要が高いと聞きます。
 ライブ空間は、いわば祭りのようなものです。奏者や演者、そして会場に一緒にいる人々の熱気を肌で感じ取り、その空気と一体になることで自分の心も身体も高揚します。そうした非日常のライブ空間を日々の暮らしに取り込むということは、命を活性化させるうえで、とても大事なことだと思います。それはいわば、命の洗濯ともいうべき贅沢な時間なのです。>(朝日新書、先月刊『年をとるのが楽しくなる教養力』から)
 拓郎のCDが売れなくなったからライブという訳ではない。「唯一無二のライブ空間」で「祭り」に参入する。「非日常の」空間で「命を活性化させ」、「命の洗濯ともいうべき贅沢な時間」を享受する。それが“LIVE”だ。「年をとるのが楽しくなる」極めて有効な「教養力」の一つである。となれば、オーディエンスにとってこそ得難きライブではないか。
 変わったのは声だった! 
 それも2度。それも声自体が消えた。マイクミュートではない。歌声が途絶えた。最初はマイクから離れたように見えた。歌詞を忘れたか。しかし、様子が違う。感極まって声が出せなくなったのだ。明らかに周章しつつ必死で自らを鼓舞している。寸時ではあるが、挙動はそのように窺えた。
 MCで「他の人には言わないで。恥ずかしいから」と語り、前回、初演の市川でも同じことが起こったと告げた。前代未聞だ。まったく、らしくない。といって、怒(イカ)っているわけではない。実は稿者、1曲目で嗚咽した。まったく、らしくない。こちとらだって大病を捻伏せてライブ(生きるの意)した。聴く方だから気楽ではあるが、万分の一なりとも心情は共有できる、いや、できる気にはなれる。だから、「らしくない」がえらく刺さる。
 と述べると、それは単に老化による前頭葉機能の低下で感情のコントロールが効かなくなったからだとの声が返るだろう。ここでは敢えて科学的知見に異議は呈しない。代わりに、開き直る。橋本 治氏の卓見を引こう。
<今の年寄りは自分が「年寄り」であることを認めたがらないが、昔の年寄りは簡単に認めた──そこが大きく違う。昔の年寄りは、自分に対する扱いが悪かったり手抜きだったりすると、「年寄りを粗末にするな!」と怒った。昔の年寄りが年寄りであることを簡単に認められたのは、「若い」ということに対して価値がなかったからですね。若いということに価値があるのは女だけで、男の「若い」は「稚い」で「稚拙」で「青い」だから、たいして価値がない。>(15年10月刊、新潮新書『いつまでも若いと思うなよ』から抄録、以下同様)
 まことに腑に落ちる。ところが、「若いということに価値」がある時代が訪れる。それを拓いたのは昔の若者たち、つまりは「今の年寄り」であった。別けてもミュージック・シーンのトップランナーは誰あろう、拓郎ではなかったか。
  〽古い船には新しい水夫が
    乗り込んで行くだろう
    古い船を 今 動かせるのは
    古い水夫じゃないだろう〽 (『イメージの詩』から)
 ほんの一例である。このようにして「新しい水夫」は群がり奔った。
 橋本氏は続ける。
<昨今の「年寄り扱いをするな」ばやりの背景には、その人達の生きてしまった時代が「新しさ」と「若さ」一辺倒だったことも大きく影響してると思いますね。「若くない」と認定されたら時代の第一線から追い払われる──そういう心理があるから、「自分はまだ若い、年寄りなんかじゃない」と思いたがるんでしょうね。物事の基準が「若い」というところにあるから、そこから離れられない。「離れたら終わりだ」という気があるから、「老いる自分」が認められない。そのような時代状況が「戦後」には延々と続いて来て、「老いる」というのは、その上り調子の若さとは正反対の方向にハンドルを切ることだから、なかなか呑み込めない。>
 してみると“LIVE2016”には登場しなかったものの、「『老いる自分』が認められない」状況を脱し老いを正面に見据えた『歩こうね』は時代に先駆けた名曲といえる。リリースは09年、拓郎還暦の年であった。だが、当今の年齢感覚からすると老人とは言い難い。定年だって延びている。拓郎が語るように老成していた当時の若者は、そのまま老成し続けてきたのかもしれない。歳相応、それも一時代先を切り取る。これは並みな才能ではあるまい。リバイバルやリメイクは誰にでもできる。過去の遺産で食いつなぐ者や、「基準が『若い』というところにあるから、そこから離れられない」徒輩は掃いて捨てるほどいる。しかし、「上り調子の若さとは正反対の方向にハンドルを切ること」は断じて容易くはない。その難事が達成されつつあるといえよう。
 そして迎えた“LIVE2016”。「なかなか呑み込めない」フェーズで孤軍奮闘する様々な思念が去来したにちがいない。なによりフィジカルな反応が歳に即応した。それがあの、らしくない感情の昂ぶりだ。至極、真っ当なことではないか。
 どの曲だったか。覚えていない。こちらとて海馬機能は人並みに低下している。だが、曲は関係がない。夕飯に何を喰ったか覚えていないのは問題ではない。夕飯を喰ったか否かを忘れることが問題なのだ。歌声が消えたか、否か。そこを記憶に深々と刻むかどうか。10.3東京国際フォーラムはあの刹那の無声にすべてが凝っていた。 □


再び、かちあげ 禁止に!

2016年10月03日 | エッセー

 あまり、いや、ほとんど語られていないことだが、豪栄道快挙の裏には忘れてはならない惨苦があった。以下、本年5月28日のサンスポを引く。
〓豪栄道 顔面骨折
豪栄道、顔面骨折していた・・・夏場所12日目の白鵬戦で負傷
大相撲五月場所(夏場所)12日目、白鵬の右手が豪栄道の左目にヒット=両国国技館(撮影・小倉元司)
 大相撲の大関豪栄道(30)が左眼窩(がんか)壁を骨折していることが27日、分かった。現在、東京都内などの複数の病院で検査を受け、手術を含めた今後の治療方針を決める。
 豪栄道は19日の夏場所12日目に横綱白鵬(31)と対戦。立ち合いで左目付近に白鵬のかち上げを受け負傷。同日夜に病院で診察を受け、骨折が判明した。だが、勝ち越していなかったため、師匠の境川親方(53)=元小結両国=と協議の上、千秋楽まで土俵をまっとう、9勝6敗で場所を終えた。
 関係者によると28日の元関脇若の里(39)=現西岩親方=の「引退相撲」は土俵入りだけ参加。取組は回避する。境川親方は7月の名古屋場所(10日初日、愛知県体育館)について、「(現時点では)出場へ向け最善の努力をする」と話した。〓
 「最善の努力」の甲斐あって出場はしたものの名古屋場所では負け越し、角番で今場所を迎えることとなった。だから、快挙は生半ではない。特大の称讃に値する。なにかを慮ってか、この一件を語らないマスコミは実に変だ。公平を欠き、卑怯でもある。
 上記の12日目は5月19日で、奇しくも同日『かちあげ 禁止に!』と題する拙稿を上げていた。その一番は観てはいただろうが、それほどの大怪我とは知る由もなかった。なんらかの暗示を受けていたのかもしれない。抄録する。
<反則負けになる禁じ手は規則で定められている。──握り拳で殴る。髷を掴む。前たてみつを掴んだり横から指を入れて引く。胸、腹を蹴る。など──である。話はかち上げだが、初めの「握り拳で殴る」と如何ほどの違いがあるのだろうか。使いようによって肘は「握り拳」と同等の破壊力を持つ。いな、それ以上かもしれない。限りなく禁じ手に近い。いっそこの際、「本来のかち上げではないと断じ得る」エルボー紛いのかち上げは禁じ手にすべきではないか。いやむしろ当今の大型化した関取の体格変化に鑑み、かち上げすべてを禁じ手にしてはどうか。頸から上だけは鍛えようがないからだ。このままかち上げが野放しになるなら、大相撲本来の偉丈夫が激突するど迫力や小よく大を制する技の妙味が後退し、急所狙いの安っぽい格闘技に成り下がってしまう。>
 ある空手家は次のように指摘する。
◇打撃力はスピードと重さに比例する 
◇体重が直接打撃に伝わる 
 そのため、肘の打撃力は膝蹴りの十倍以上になる。
◇距離が短く見にくい
◇腕でブロックしても肘の打撃には負ける
 そのため、防御が困難。
◇脳への打撃、神経が集中する部位への攻撃は危険すぎる。
 空手でさえそうだ。たとえ土俵上であっても、意図的にこれを使うとすれば傷害の罪に当たるといえなくもない。
 内田 樹氏と中沢新一氏が対談『日本の文脈』(角川書店、12年刊)で、相撲についておもしろい見解を述べている。
<内田:朝青龍はモンゴルの人ですから、あの人の相撲は格闘技なんですよね。そこが違ったんじゃないかな。相撲は格闘技じゃないですよ。他者との出会いをめぐる神事であり、伝統芸能であり。
中沢:プロレスでもK-1でもそうだけど、格闘技では選手の個体性がくっきりしている。でも、相撲の場合は「なんとか山」とか「なんとか海」とかでしょう。
内田:あ、そうですね。神風とか朝潮とか、名前が自然現象ですもんね。
中沢:フランス語で「なんとか・ドゥ・ブルゴーニュ」とか言うのと同じでしょう。
内田:ドイツ語の「なんとか・フォン・どこそこ」とか。
中沢:地名の前に自分の名前をつける名乗り方って、「土地の地霊の代表者としてやってますよ」ってことで、個体性はなくなる。神社に奉納する相撲は完全に儀礼ですね。山とか川とか風とか、自然現象同士が取り組む。>
 「格闘技じゃない」のだから、格闘技でさえ躊躇するかち上げは封じるべきだ。奉納の名に悖り、儀礼の格式をも台無しにする凶行だ。ぜひとも、かちあげ禁止に! 日本相撲協会の良識に期待したい。
 さらに、「名前が自然現象」とは膝を打つ視点だ。「土地の地霊の代表者として」「自然現象同士が取り組む」のが相撲の祖型ということか。四股名は古代の国見に通じ、土地の美を賦詠する意義も含むとみていい。ところが、当今は「なんとか・ドゥ・ブルゴーニュ」が減った。「土地の地霊の代表者」が少なくなり「個体性」が露わになったはずだが、その割には個性的な取り口が影を潜め取り組み以外でのパフォーマンスが目立つ。遠藤や髙安も早く四股名を名乗って、「なんとか・フォン・どこそこ」を闡明にした方がいい。でなければ、ブレークスルーは遠のくかもしれない。
 四股名は元「醜名」であった。醜男(シコオ)の醜、醜いではなく逞しいの謂だ。やがて四股と合体した。してみると「豪栄道」は土地の匂いはしないまでも、醜名にはよほど近い。
 「一年を二十日で暮らすよい男」と詠われた江戸の世、落語『佐野山』で人情相撲が伝わる横綱谷風梶之助がいた。優勝21回、63連勝の大記録を誇る、これぞ並ぶ者なき正真のレジェンドである。この横綱谷風が身長188センチ、体重160キロであったそうだ。片や、豪栄道は身長183センチ、体重160キロ。なんと、ほとんど同じだ。これを偶然の一致にしておいてはもったいない。まさか人情相撲は望む可くもないが、“へんてこりんな横綱”から受けた深傷を越えて掴んだ栄冠は桟敷の人情を大いに揺さぶる。『ダメな大関』をとっとと返上して、さあ、綱取りだ。 □