伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

羊の皮は御免だ

2015年01月29日 | エッセー

 渦中である。気は重いが、何点か雑感を記す。
 一報に接した時の第一印象は、「ヤンキーが調子こいて碌でもないことをするからだ!」であった。ヤンキーとは人質ではない。アンバイ君のことである。なぜ彼がヤンキーか。今月6日付の拙稿『こどもの気分』で述べた。そこに引いた精神科医にして批評家の齊藤環氏は、ヤンキーの特質として「アゲアゲのノリと気合い」を挙げている。総選挙大勝の「アゲアゲのノリ」で“世界の平和に貢献しよう”(お得意の常套句)と、外務省の制止を振り切って「気合い」を入れて中東へ乗っ込んだらしい。
 「昨年11月に行方不明事案の発生を把握した直後に、官邸に(情報)連絡室、外務省に対策室を立ち上げ、ヨルダンに現地対策本部を立ち上げた」
 これはアンバイ君の国会での答弁である。問うに落ちず語るに落ちるだ。こういう外交感覚は『ヤンキーのノリ』としか名状しがたい。さらに、語るに落ちたこの答弁は内政感覚においても『ヤンキーのノリ』そのものではないか。前記の拙稿に引用した平川克美氏の「『俺は偉い、俺は正しい、俺をもっと尊敬しろ』という自我肥大化した人間の滑稽さ」の言が鮮やかに符合する。内輪に向かって張ってみせた虚勢が場合によって墓穴を掘るやもしれぬとの慎重さが皆無だ。例に漏れず、それほどこのヤンキーは軽い。
 「今回の件は、安倍さんがわざわざあっちに出掛けて行って、周辺国への援助を約束した。人道援助といっても、戦争での一番大事な輜重、補給になるわけで、戦闘行為と同じ。相手側にとっては宣戦布告と同じだ。相手からすれば敵と見なされるのは当然だ」
 これは1月25日NHK「日曜討論」での小沢一郎氏の発言である。如上の答弁は、「わざわざ」に内実を与える恰好の言質である。人質立て籠もりの隣家に親が乗っ込んで、警察に差し入れに来たぞ、と呼ばわるようなものだ。センシティヴな問題に処するセンシヴィリティの致命的な欠落は、『自我肥大化』した『ヤンキーのノリ』と言う以外説明がつかない。なお敢えて合理的な理由を探そうとすれば、ライトな連中が反対者に浴びせる「平和ボケ」であろうか。この十八番をライトなリーダーであるアンバイ君にそっくり返せば、寸分違わず嵌まるではないか。
 ついでにいうと、小沢氏の発言も決して褒められたものではない。武力行使を含む国連の平和活動は合憲だとし、国連決議に基づき自衛隊を海外派遣できる「普通の国」になるべきだというのが氏の持論だ。ならば「普通の国」の遙か手前ですでにこの有り様であることを考えると、晴れて「普通の国」になれた暁には百人千人単位の“人質”を覚悟せねばなるまい。持論の先にある現実は棚に上げて敵失だけは論う。まことにマキャベリストの面目躍如ではないか。
 もう一つ。政府は想定問答で──米国主導の軍事作戦に自衛隊が密接に協力すれば、敵対する勢力から攻撃される可能性が高まり、日本人は日常的に「テロの脅威」に直面するのではないかとの懸念に対し、むしろ、テロ事件を受けて安保政策の方向性を曲げれば「我が国がテロに屈したとも受け止められ、かえってテロを助長する可能性もある」──と、反論を用意している。これは巧妙だ。まさにその「安保政策の方向性」そのものが喫緊のマターではないのか。集団的自衛権をはじめあたかも既定路線のように、あるいは既成事実のように言い包める。瞞されてはなるまい。
 次は、「積極的平和主義」についてである。アンバイ君のストックフレーズだ。しかし、言葉の意味が解っていない。
 ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥング氏の創見である。「戦争のない状態」を“消極的平和”とし、戦争はもちろん暴力や貧困、差別のない状態を“積極的平和”と定義した。水面下の氷山を含めて“氷山”と呼ぶように、「平和」をより“積極的”に捉え行動を起こそうという趣旨である。“ワイド・レンジ”ともいえるし、「人間の安全保障」に連なる概念でもある。ところがアンバイ君をはじめ政府の面々が使う「積極的」は“アグレッシブ”との意味合いで、軍事力の行使も厭わない攻めの平和構築との謂である。「世界の保安官」を自任するアメリカンスタイルともいえる。ここにも「アゲアゲのノリと気合い」が窺える。自衛隊による邦人救出や、米軍主導の有志連合への参加を志向するものといえよう。『攻撃型平和主義』とでも呼ぶ方が実態に近い(形容矛盾だが)。ただし、これはひとつとして人類史に成功例がない。ひとつとして、だ。その深刻な自省を踏まえて、ヴァージョンアップした「積極的平和主義」こそ憲法九条ではないのか。ヤンキーの頭は学習機能が壊れたワープロなのであろうか。番度、一から入力せねばならない。まことに使い勝手が悪い。
 「許しがたい暴挙であり言語道断」とは、今回何度もアンバイ君が口にする言葉だ。去年たしか憲法の解釈変更に際し、彼が浴びた批判だった。因果応報というべきか。彼はいま、「言語道断」というしかない状況に立たされている。「言語の道」を絶たれ、手も足も出ないのだ。国内でこそ言語道断の狼藉を働くことができても、国外には通じない。むしろ言語道断の手痛いしっぺ返しを喰らう。「積極的平和主義」などと、分際を弁えぬヤンキー染みた「アゲアゲのノリ」なぞ止しにした方がいい。事件の意味はそう取るべきだ。万が一にも「安保政策の方向性」とやらの追い風に逆用してはならない。渡りに船、奇貨可居など、とんでもない「暴挙」である。そこはしっかりと監視していきたい。「積極的平和主義」が羊の皮を被った狼になってはならない。そんな干支は御免だ。 □


三たび 小保方、ガンバレ!

2015年01月23日 | エッセー

 初回は昨年の4月3日であった。以下、抄録。
『小保方、ガンバレ!』
〓「快楽をもたらす物質『ドーパミン』が大量に分泌」されるのは、「生物的な快楽を脳が感じるとき」だけではなく、「ギャンブルやゲームに我を忘れているとき」もである。後者はつまり「何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐ」ことを先導し、ヒトが「自然の脅威を克服し、進化してきた」結果を招来した。大仰にいえば、『おもしろがる』には人類の進化が懸かっているわけだ。
 鬼の首を取ったように繰り返されるエビデンスと科学者倫理。
 これは完全に後世の偽作らしいが「それでも地球は動く」を借りて、「それでもスタップ細胞はできる」はどうだろう。捨て台詞には持って来いだ。〓
 「おもしろがる」は人類の進化を駆動する。それを失ってはならない。つまりは、そう咆えた(届いてはいないが)。
 二度目は1週間後であった。以下、抄録。
『再度 小保方、ガンバレ!』
〓欲目ではなく、実に堂々とした立派な会見であった。肚が据わった、まことに高高とした応戦であったといえる。
 ある情報番組でアンカーが「理研がせっついた研究発表だったのに、なんだか可哀相だった」と発言したのを受けた解説の先生が、「それは次元が違う。科学的証明とは話を分けて考えなければいけない」と宣っていた。これには呆れた。学会の発表会でもあるまいに、超最先端の専門的知見が記者会見ごときで披露できるはずはない。専門用語を繰り出せば、煙に巻くなの怒号が浴びせられるのは必定だ。会見は、事の成り行きを説明するために開かれたものだ(会場費は小保方女史の自腹だそうだ)。学者同士の、学問上の質疑応答ではない。件の先生は一見正論に聞こえて、実は会見の意味を『分けて考え』られない無思慮を晒している。木に縁りて魚を求む。駄々っ子にちかい。この程度の知的レベルが世をミスリードする。やはり、テレビは怖い。〓
 寄って集(タカ)って芽を摘む。踏んづける。蹴飛ばす。報道に名を借りたイジメだ。そう咆えた(届いてはいないが)。
 コロラリーはES細胞の混入で幕引きだそうだが、では誰の仕業か? 迷宮入りらしい。まさか本人ではない。それは断言できる(なぜなら、かわゆい妙齢の才媛はウソを吐かないというオジさんの人生経験によって頑強に裏付けられた不抜の信念による)。そこで、3回目のエールを送ることにする(オジさんは結構しつこい)。
 碩学、武田邦彦先生の力を借りる。先生は昨年末、『NHKが日本をダメにした』と題する著作を上梓した(詩想社新書)。NHKになぜ、どういう義憤を抱かれたのか。日頃の御主張からNHKと相性が悪いのは容易に察しがつく。同書で先生は、佐村河内事件、福島原発事故、家電リサイクル法、それに十八番の地球温暖化問題などについてNHKをコテンパンにやっつけている。そのうち主要な論件が、「STAP細胞事件に見る低レベルな報道姿勢」と題する章だ。
 サブタイトルだけを列挙する。
①  報道より1年以上前から始まった「論文」と「特許」への動き
②  同内容の特許を出している理研が、研究者を否定する不可解
③ 「ネイチャー」掲載が決まるまでの水面下での動き
④ 周到に準備されたであろうメディアへの発表
⑤ 報道当初より科学的成果より「人物」に焦点を当てた扱い
⑥ 論文公表から短時間で問題点を指摘できた人物の謎
⑦ 実験ノートなど本当はなくてもいいものだ
⑧ 論文の書き方が「不出来」と「内容の価値」は別だ
⑨ そもそも基礎的研究では「正しさ」など問われていない
⑩ 科学的研究では、コピペも責められることではない
⑪ NHKの本来の存在意義が失われたSTAP事件
⑫ 間違った画像は「研究の核心部分」などではない
⑬ あまりにも質の悪い「クローズアップ現代」の放送内容を検証
⑭ こんな短時間に論文の欠点を指摘することは不可能に近い
⑮ 研究者を守る立場の理研がなぜ、ウソをついてまで責めるのか
⑯ パパラッチに成り下がったNHK
 視点の多さに驚くが、なかでも⑨ は刺激的だ。本文を抄録する。
◇地動説でも、ロケットを宇宙に打ち上げて太陽系を見たわけではなく、小さな望遠鏡で星の動きを見て、惑星の動きは計算してみると太陽の周りをまわっていないとつじつまが合わないと言っているだけだ。でも最初はそれからスタートして、いろいろな観測をみんなでして、次第に新しい発見が完成していく。最初から「正しいかどうか」などを問うたら学問は成立しない。その意味で、STAP細胞は本当か?という質問は科学の進歩にとってきわめて危険である。
 20世紀の最高のノーベル賞と言われる、ワトソン・クリックのDNA論文は、同じ『ネイチャー』に掲載されたものだが、「ノート」で、わずか1ページ。実験方法も(彼らは自分のデータを使ったのではなく、他人のデータがほとんどだったが)、詳細な説明もない。しかし、DNAは二重らせんだ、それが生命の源だという画期的な着想だった。江崎玲於奈博士も、たしかフィジカル・レターに簡単な2ページの論文を投稿してノーベル賞を受賞している。◇
 そして、以下が画竜点睛だ。
◇人間の着想の素晴らしさというものは、詳細がキチンと書かれていることではない。書かれている内容が間違いを含んでいるということでもない。そこに示された考えが「これまで人類がほとんど考えたことではない」というのを少しの事実から導き出すことである。それは不確かであり、危ういものではあるが、その後、多くの人が関心を持ち、だんだん膨らみ、やがて巨大な発見や人類の福利に役立つものである。「こうしたらできる」とか、「他人が追試してできるような記述」とか、まして「80枚のうちに2枚ほど図を間違って貼った」などということは問題にはならない。◇
 アイザック・ニュートンの箴言がしきりによみがえる。
「私は、海辺で遊んでいる少年のようである。ときおり、普通のものよりもなめらかな小石やかわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに。」
 『おもしろがる』「少年のよう」な目の輝きが、目くじら立てた『エビデンスと科学者倫理』にマスキングされてはいないか。「大海」を前にした好奇と謙虚。科学の原初にある心組みが二つ乍ら置き去りにされてはいないか。
 ⑩ については「『人間の知恵の産物』のうち、単なるデータや、アイデア、思想や感情を表現したもの以外、学術など以外は、『誰が実験しても、誰が書いたり、出版したりしても』なんの制約もなく共通に使用してもよい」と、著作権法の理解を明示している。
 ⑫ についても「画像の加工について『やってはいけないこと』を前提にしていますが、画像を論文に掲載する目的は、論文で示したことを画像という手段で論理をたてることであり、『加工してはいけない』という不文律のようなものがあるわけではない。加工によって具体的にどのような誤解を招いたかが問題で、加工自体には何も問題がないのは論理としても理解される」として去なしている。
 ⑮ は見落とされていた重要な指摘だ。「中心的な専門家4、5人が1年ほど綿密に見てわからないものを、関係外の人が1、2週間でわかるはずもない。つまり、(昨年)1月29日にSTAP論文が掲載されることをあらかじめわかっていて、またこの論文の不備や小保方さんの研究の欠点もわかっていて、あらかじめ指摘する準備を整えていたとしか考えられない」と、闇の存在を示唆している。
 ⑯ はあまり知られていない。「(昨年)7月27日、『NHKスペシャル』に使う映像を撮るため、バイクで追跡、ホテルに逃げ込む小保方さんを2人の屈強な男性のカメラマンが挟撃して小保方さんを追い詰め、さらに女子トイレに逃げ込んだ彼女を、女性の取材班がトイレの中まで入って監視するという行動に出た。この過程で小保方さんは全治2週間のケガをした」と記している。「報道に名を借りたイジメ」は、ついに奈落まで堕ちていたのだ。
 ともあれ、これで本邦は貴重な頭脳を海外へ流出することになるだろう(たぶん)。昨年の熱狂は嘘のように、マスコミは沈黙を続けるだろう。だが、オジさんは信じる(きっと武田先生も)。いつの日か、リターンマッチに颯爽とあなたが登場することを。 □


世間と節度

2015年01月20日 | エッセー

 フランスのある識者が「フランスで『私はシャルリーではない』とは自由に言えない。二重基準だ。表現の自由はどこだ」と語ったそうだ。民衆が自らの血で権力から勝ち取った「表現の自由」はフランスの生命線である。イスラムにも絶対の禁忌がある。シャルリー・エブドが両者の全面対決を誘(イザナ)った。
 そこで、想起されるのが養老孟司氏の次の洞見である。
◇世間と思想は補完的だ。それなら世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなるはずである。同じ世間のなかでは、頭の中で世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど、「思想的」なのである。ふつう「現実と思想は対立する」と思ってしまうのは、両者が補完的だと思っていないからである。これは思考には始終起こることである。男女を対立概念と思うから、極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じように、ウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。私は、「反対語」という、ありきたりの概念はよくないと思う。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。◇(ちくま新書「無思想の発見」から)
 快刀乱麻、いかにも養老節だ。土地、人種、階層、言語、宗教などの素因が雑駁で大風(オオブリ)な社会では「世間の役割が小さい」のは当然だ。「世間の出来が悪い」から、思想という大縄を打って統べるしかない。両者は一見対立関係に見えるが、実は補完関係にある。ここが氏の達識である。
 してみると「思想」が圧倒的に大きいフランス社会では、開けて通したり頃合いに済ませたり場合によっては聞かなかったことにするといった「世間」が極小化されているといえなくもない。
 いま、「表現の自由」「言論の自由」は錦の御旗だ。衝撃的事件ゆえであろう。しかし一方で、「言論の暴力」が忘れられてはいないだろうか。不特定多数に被害が及ぶ言論の暴力は、物理的暴力よりもはるかに範囲が広く深刻だ。心を傷つけ、蝕み、尊厳を踏みにじり、生きる力を奪っていく。卑劣で狡猾で陰鬱な暴力だ。シャルリー・エブドがそうだったというのではない。だからテロリストに正当性があるというのでもない。そうではなく、「言論の自由」の大きな旋風が「言論の暴力」に盲いる結果を招来してはならないといっているのだ。錦の御旗は時として思考停止を強いる。いわんや大風に激しくはためいている時はなおさらだ。心せねばなるまい。
 括りに、養老氏の透察にも通底する内田 樹氏の論究を引いておきたい。
◇私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々はいささか警戒心を欠いているように私には思える。◇ (文春文庫「邪悪なものの鎮め方」から)
 「争いの無限連鎖」を停止することはファースト・プライオリティだ。そのためにどちらか一方が「節度の感覚」を持てるかどうか。論理的に「正しくない」選択ができるかどうか。論理的に正しくはなくとも、歴史的に正しい選択はある。「『被害者意識』というマインドが含有している有毒性」がどれほど強いか、かついかに非生産的であるか、もうそろそろ肝に銘じてもいい。 □


『限界集落株式会社』 2/2

2015年01月18日 | エッセー

 タイトルはそのままだが、続編である『脱・限界集落株式会社』について書く。
 商店街の衰亡を語る時、気鋭の社会学者・新 雅史氏の『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書、12年5月刊)を避けるわけにはいかない。本稿では12年9月に「再びアーカイブ」と題して取り上げた。臆面もなく、拙稿を抄録してみる。
〓「商店街とは二〇世紀になって創られた人工物である」
 まずは、この一節に驚かされた。以下、要録してみる。
○城下町の市、門前町が「商店街」の起源ではない。中小の商店が集えばそれだけで自動的に「商店街」になるわけではない。商店の連なりだけには還元できないシンボル性(引用者註・離農者の受け入れ)をもった「商店街」が、第一次世界大戦後に形成された。
○近世の商家が奉公人を交えた疑似血縁組織で世襲される「イエ」であったのに対し、商店街の担い手は「近代家族」であったため、家族という閉じたなかで事業がおこなわれ、その結果わずか一、二世代しか存続できないようになった。
○バブル以降、地方に財政投融資がばらまかれることによって、郊外型のショッピングモールが跋扈した。さらに追い打ちをかけたのがコンビニだった。
○コンビニは、「商店街」という理念とまったく異なっていた。「横の百貨店」が、コンビニという「万屋(ヨロズヤ)」が登場することによって、たばこ屋・酒屋・八百屋・米穀店などの古い専門店は、その存在意義を奪われた。〓
 身も蓋もないがつまりは、人工物である限り社会的変移に応じて変態するということだ。まことに冷厳で鰾膠も無い理屈だ。
 だが、『脱・限界集落株式会社』はその「社会的変移」が1回転しているところに着眼した。ここがツボだ。前稿で「後作では、前作とは逆の発想で仕舞た屋商店街の活性化を試みる。だから、『続・』ではなく、『脱・』と冠しているのではないか」と述べたのはその謂である。中身は作品に当たっていただくほかないが、1回転した社会的変移が少子高齢化のフェーズであってみれば、駅前商店街こそもう一度ジャストフィットする「人工物」たり得るのではないか。そういう解を提起している。むしろ前作よりも示唆的だといえる。
 一方、経済成長に対置する「定常経済」のモデルとして商店街を捉える視点もある。平川克美氏はこう語る。
◇「商店街というのは、定常経済が基本なのだと思います。定常モデルとは、成長しないモデルです。成長はしないが、そのメンバーがそれぞれの場所に棲み分けながら、社会全体が持続してゆくことを優先します。共生のための様々な取り決め、暗黙の了解、共同体を守るための互助的な制度があって、地域の人々が持続的に生活していける場を育成していくことが重視されているわけです。人口が減少し、老齢化している日本は、世界に先駆けて定常モデルの可能性を探るべきだろうと思うのですが、成長モデルの中で生まれたすべてのシステムはこの流れを受け入れることができません。とりわけ、利益の配当を期待する株主から資本を集める、株式会社というシステム(株式公開会社)は、定常モデルでは成立が困難なのです。◇(内田 樹編、晶文社「街場の憂国会議」から)
 極論すると、商店街の商店同士でモノ・カネが行き交えば成長はないが生活は維持できる。それが定常経済ということだ。極小の自立経済圏である。
 経済成長から定常経済へ、平川氏はパラダイムシフトの緊要を訴えている。半端ないビッグマップである。もう少しスケールダウンしたマップを描くのは経済学者の浜 矩子先生だ。
◇日本は非常に個性的な地方自治体からなる国である。都市国家として成立する地域が数多く存在し、それらを明確な独自性のある連合体に改組し、グローバル・ジャングル的発想で変身を遂げることができれば、世界にとって驚くべきロールモデルになるだろう。猛烈なペースで発展し、世界の最先端にいるグローバル時代の成熟国家に一番乗りしている日本がやることに意味がある。
 政府の財政は悲惨な状況にあるが、企業や家計が大幅に資産超過にある日本の国富は8000兆円にもなる。フローはすっかり落ちぶれたが、今の日本は間違いなく世界有数のストック大国である。豊富なストックを分配するために知恵を絞るのが、ストック大国のあるべき姿だ。フローを生む経済ではなくなったのだから、失われた成長を求めてもはじまらない。むしろ豊かなストックを分配することで、失業者や非正規雇用者など社会的弱者を救済し、疲弊しきった地方経済に喝を入れてシャッター商店街を蘇らせる。中央政府の権限を地域に分散し、日本が開かれた小国からなる、活力に満ちた連合体に変貌させる。これほど成熟度を増した経済では、成長率は結果であって目標ではない。だが、成熟度にふさわしい豊かで、賢い分配の構図を構築できれば、結果的に成長率が高まることはあり得るだろう。
 ストック大国であるにもかかわらず、日本を覆うフローへの幻想は「新成長戦略」という言葉に象徴される。このようなものを立案して成長率を高めようとしているのはいかがなものか。ファウストのように「永遠の若さ」を手に入れようとするあさましい発想だ。◇(11年11月刊、宝島社新書「恐慌の歴史」から)
 直近の報道によると「国富」は9200兆円を超え、やがて1京に迫ろうとしている。僅か3年で1200兆円も増えた勘定だ。まさに“超”の付く「ストック大国」である。そろそろ成長神話から覚めて、国家規模の商店街を構想してもいいのではないか。ところが当今はすっかり先祖返りした永田町と霞ヶ関が鼻面を取って引き回し、本邦はこともあろうにひたすら今来た道を逆走しているようにしか見えない。どうか『脱・限界集落株式会社』を『脱・限界“国家”株式会社』に読み替えて再考を願いたい。蛇足ながら、国家の「株式会社化」については本ブログで何度も内田 樹氏の論攷を引いて触れてきた。
 テレビドラマ化はぜひ後作から、あるいは後作だけにしてほしいものだ。後の祭りだが……。

<跋>
 前稿で触れた「消滅可能性都市896のリスト」について、引用書の中で増田寛也氏は「人口予測は、政治や経済の予測と比べて著しく精度が高いと言われており、大きくぶれることはない。過去に出された推計値と実際の数値を比べれば、むしろ若干厳しい数字に向かうと予想される」と記している。子供や孫の住む世が“消滅都市”だらけになる。もうその時はいない、そんなことをいう脳天気こそとっとと消滅してほしい。どうせ浮かばれないだろうが。 □


『限界集落株式会社』 1/2

2015年01月14日 | エッセー

 『限界集落株式会社』が、今月31日から毎週土曜日5回連続でNHK“土曜ドラマ”で放送される。反町隆史や谷原章介らが出演する。
 以下、原作についてネットから転載。
〓『限界集落株式会社』  著/黒野伸一 小学館 2011年11月発刊
 ルールは変わった。新しい公共がここに!
 「限界集落」、「市町村合併」、「食糧危機」、「ワーキングプア」、「格差社会」などなど日本に山積する様々な問題を一掃する、前代未聞! 逆転満塁ホームランの地域活性エンタテインメント!!
起業のためにIT企業を辞めた多岐川優が、人生の休息で訪れた故郷は、限界集落と言われる過疎・高齢化のため社会的な共同生活の維持が困難な土地だった。優は、村の人たちと交流するうちに、集落の農業経営を担うことになる。現代の農業や地方集落が抱える様々な課題、抵抗勢力と格闘し、限界集落を再生しようとするのだが……。
 老人、フリーター、ホステスに犯罪者? かつての負け組たちが立ち上がる!!ベストセラー『万寿子さんの庭』の黒野伸一が、真正面からエンタテインメントに挑んだ最高傑作! 新しい公共がここにある。〓
 作者のプロフィールについては、
〓黒野伸一 クロノシンイチ 1959年、神奈川県生まれ。
 06年、『坂本ミキ、14歳。』(文庫化にあたり『ア・ハッピーファミリー』を改題)で第一回きらら文学賞を受賞し、デビュー。二作目の『万寿子さんの庭』が、幅広い世代の女性の指示を受けロングセラーを続けている。他の著書に『長生き競争!』、『幸せまねき』がある。〓
 と紹介されている。
 今どき珍しいハッピーエンド・ストーリーである。文学的価値が高いとは言い難いが、テーマの社会的緊要度は極めて高い。だから話題を呼んだのであろう。昨年には、つづきが出た。以下、同様に転載。
〓『脱・限界集落株式会社』著/黒野伸一 小学館 2014年11月発刊
TVドラマ化原作、待望の続編!!
 多岐川優が過疎高齢化に悩む故郷を、村ごと株式会社化することで救ってから四年の歳月が経った。止村は、麓にある幕悦町の国道沿いに完成したショッピングモールとも業務提携するほど安定的に発展していっている。
 そんな中、かつて栄えていた駅前商店街は、シャッター通りになって久しかったが、コミュニティ・カフェの開店や、東京からやってきた若者たちで、にわかに活況を呈していた。しかし、モールの成功に気をよくした優のかつての盟友・佐藤の主導で、幕悦町の駅前商店街の開発計画が持ち上がる。コミュニティ・カフェを運営する又従兄弟を手伝っている優の妻・美穂は、商店街の保存に奮闘するが、再開発派の切り崩しにあい、孤立していく。
 開発か、現状維持か? 日本のそこかしこで起こっている問題に切り込む、地域活性エンタテインメント! 信州、東北で大ヒット、17万部突破シリーズ待望の続編です。〓
 「限界集落」とは、過疎により65歳以上の高齢者が住人の5割を超え社会的共同生活が立ち行かなくなっている集落をいう。そこをどう救うか。大括りにいうと、前作では一村丸ごと六次産業化することで限界の淵から蘇った。後作では、前作とは逆の発想で仕舞た屋商店街の活性化を試みる。だから、『続・』ではなく、『脱・』と冠しているのではないか。
 こういう話柄となると、マエストロは藻谷浩介氏を措いて外にない。昨夏、氏がU、I、そしてJターンの専門誌“TURNS”で、「脱東京」をテーマに内田 樹氏と対談をしている。その中に以下のやり取りがある。
◇内田:いま地方へ向かいはじめた人たちは、東京でなにか起きたら死ぬだろうということが、なんとなくわかっているんでしょうね。このまま東京に住んでいたらやばいと、身体的に察知して。
藻谷:そもそもいまの若者は、仕事があるから田舎に行くのではなく、田舎に住みたいから移住先で仕事をつくっていますね。生活費も安いですし、食いっぱぐれはありません。◇
 生き残りのセンサーが大東京のカタストロフィを探知する──いつもながら、内田氏の洞見には膝を打つ。受けて藻谷氏が指摘する仕事と田舎の順逆。これが当今のトレンドである。前記2作品は、この「田舎に住みたい」若者たちがキーパーソンとなる。ただ「限界」への解が「株式会社」でいいのかどうか。たとえば内田氏の次の論攷を徴すれば、にわかには肯んじ難い。
◇「帰りなんいざ」と向かうことのできる「山河」がある。これは日本国民が最後にすがることのできる国民資源です。これからの日本人が国民としての尊厳を保ちながら、生き延びる道は、シンガポール化(引用者註・水、エネルギー、食料など生きるための資源をすべて外国から調達、そのため経済成長を国是とする)ではなく、「山河の再生」という方向だろうと私は思っています。藻谷浩介さんが『里山資本主義』で活写したように、若者たちの地方回帰・自給自足・文化的発信力の回復という動きはいま列島各地で同時多発的に起きています。
 これからの日本は超高齢化のあとの急激な人口減と経済縮小の段階に入ってゆきます。これは回避できません。そのときにどう生きるか。そのときに頼るべきモデルは江戸時代の定常経済にあると思います。「ぬるい社会」をどう制度設計するか、そういう大ぶりの国家ヴィジョンが今こそ必要であると私は思っています。◇(「潮」1月号から)
 世の行く末を俯瞰する叡智は「江戸時代の定常経済」を下絵にビッグマップを構想する。比するに、“古典的手法”(向後、そうなるにちがいない)ともいうべき「株式会社化」でハッピーエンドでは余りに安手ではないか。「日本に山積する様々な問題」が一寒村の成功譚に極小化されているともいえよう。ビッグマップに拡大すれば、たちまちぼやけてしまう画素の粗いディスプレー。稿者の率直な読後感である。
 「脱東京」は「東京一極集中」へのアンチテーゼである。その一極集中はどのようなアポリアを孕むのか。昨年後半からセンセーションを巻き起こしている一書がある。元総務大臣の増田寛也氏編著『地方消滅』(中公新書、14年8月刊)である。昨年5月に自らが発表した「消滅可能性都市896のリスト」を肉付けしたものだ。
「総面積で全国の三・六%を占めるにすぎない東京圏に、全国の四分の一を超える三五〇〇万人弱が住み、上場企業の約三分の二、大学生の四割以上が集中し、一人当たりの住民所得では全国平均の約一・二倍、銀行貸出金残高は半分以上を占める」(同書より)
 その一極に、実は巨大なピットホールがある。
◇大都市圏は「若者流入」で人口増となったが、流入した若年層にとって大都市圏は、結婚し子どもを産み育てる環境としては必ずしも望ましいものではなかった。地方から大都市圏に流入した若年層の出生率は低くとどまっている。これは、全国的な初婚年齢の上昇などに表れているように、結婚しづらい環境があるだけでなく、地方出身者にとっては親が地方にいるため家族の支援が得にくく、またマンションやアパートに住む若者にとっては隣近所のつきあいも希薄であるといったことが理由と考えられている。大都市圏での出生率低下は、日本に限らず多くの国で報告されている共通の現象であるが、とりわけ日本では、大都市への「若者流入」が大規模に進んだため、日本全体の人口減少に拍車をかける結果となったのである。
 東京圏は二〇四〇年までに現在の横浜市の人口に匹敵する「三八八万人の高齢者」が増え、高齢化率三五%の超高齢社会となる。生産年齢人口は六割まで減少するうえ、人口一〇万人当たりの医師数や人口当たりの介護施設定員数も低いため、医療、介護における人材不足は「深刻」を通り越し、「絶望的」な状況になる。その結果、辛うじて地方を支えていた医療・介護分野の人材が地方から東京圏へ大量に流出する可能性が高いのである。◇(同上)
 「大東京のカタストロフィ」が数字的エビデンスによって克明に詳述され、打開の方途が提言されている。蓋し、警世の好著といえよう。ビッグマップの好個の一例でもある。しかし件(クダン)の『株式会社』とは違い、なかなかハッピーエンドとはいかない。現実は常に茨の道だ。
 さて、テレビドラマはどうか。くだくだしい理屈は棚に上げて、「逆転満塁ホームランの地域活性エンタテインメント」を観るも一興か。
 続編については次稿で述べたい。 □


平成の狂歌

2015年01月09日 | エッセー

 狂歌とは社会を風刺した短歌である。権威権力を皮肉り、洒落のめす。中世に淵源をもち江戸中期に隆盛を極め、近代に至って衰えた。
 先月の拙稿「2014流行語大賞を評す」から再録する。
──泰平の眠りをさます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず
 黒船来航に動顛する世相、別けても幕府を揶揄し洒落のめした狂歌の名作である。高価なお茶である“上喜撰”を蒸気船に、“四杯”を軍艦四艘に掛けている。吉田松陰も「アメリカガのませにきたる上喜撰たった四杯で夜も寝ラレズ」と、直筆で記録していたそうだ。──
 紅白でのサザン。さしずめこれは『平成の狂歌』ではないか。以下、1月6日付の朝日新聞から抄録する。
〓サザン「ピースとハイライト」は政権批判? 解釈で波紋   
 ちょびひげを付けた桑田佳祐さんがテレビ画面に映し出された。歌ったのは「ピースとハイライト」
 世界各国の言葉で「平和」という文字が映し出された映像が流れる中、桑田さんは少しおどけたように歌った。
 ♪都合のいい大義名分(かいしゃく)で
 争いを仕掛けて
 裸の王様が牛耳る世は……狂気
 この「都合のいい大義名分」を、集団的自衛権行使容認のための憲法解釈変更に重ね合わせて聴いた視聴者らがネットで反応した。曲名を「平和(ピース)と極右(ハイライト)」と読み替えたり、「裸の王様」を安倍晋三首相への揶揄と受けとめたり――。
 ツイッターなどにはこの歌の「解釈」を巡って賛否の投稿が相次いだ。
 「安倍政権の極右旋回へのプロテスト(抗議)と戦争への危惧」「素晴らしい(安倍政権への)カウンターソング」。一方では「今後一切サザンは応援しない」「日本に対するヘイトソング歌う為に紅白でたわけか」というツイートも。
 「ちょびひげを付けた」のはヒトラーを擬したのだろうが、「極右(ハイライト)」は当たらない。英題は“Peace & Hi-lite”だから、煙草の名前だ。右翼なら“right”だ。“Peace”がテーマだから、「もっと日の当たる場所」という謂の“Hi-lite”を繋いだらしい。語呂もいい。“right”に掛けたというのは無理筋だ。「裸の王様」がアンバイくんとはとてもうまい。「都合のいい大義名分」を憲法解釈変更に準えるのもいいセンスだ。さらにこの曲のリリースが13年6月だったことを考え合わせると、「大義名分」を『かいしゃく』と訓んだ桑田の先見の明に畏れ入る(偶然とはいえ)。「解釈」が問題になる1年も前だ。
 「日本に対するヘイトソング」とは、これも言い得て妙。“light”で“right“なオツムが、覿面“light”で“right“な応えを返す。公式通りで拍子抜けするほどだ。
 サザン復活の記念アルバムに「ピースとハイライト」とともに収録されていたのが「蛍」である。映画「永遠の0」の主題歌である。ラッシュを見て感激し、作ったという。稿者と同様、騙された口だ。彼も泣いたそうだ。ちょうど一年前「流涕を慙ず」と題して、拙稿で不明を恥じた。両曲のアンビバレンスについて彼に訊きたいところだが、とりあえず不問に付しておこう。
 「狂」には、権威を否定するとの字義がある。狂歌とはそれだ。「おどけたように歌った」のは狂態を装ったのであるし、「ちょびひげ」は「狂」の表徴にちがいない。大向うに対し「ここから先は桑田ではありません。どこかの狂人が歌います!」と、須臾にしてメタモルの合図を送っているのではないか。桑田の歌いっぷりにはいつもそんな仕掛けがあるように感じられてならない。狂歌を狂人が唄う。煙(ケム)に巻くのはオーディエンスではなく、洒落のめす相手だ。
 一年納めの間際、平成の狂歌にひと時こころが躍った。 □


こどもの気分

2015年01月06日 | エッセー

 年明けから言葉尻を捉えて、金棒を引く。
 昨年末、宮崎県で鳥インフルが見つかった。記者会見で菅官房長官は「総理の御指示により」万全の対策を講じる旨語った。
 「御指示」とはなんだろう? 官房長官といえば女房役である。まさか、「夫の御指示により今夜はライスカレーにします」などとは言うまい。社員が社外に向けて「社長の御指示」や「社長は御不在」なぞと言わないのと同じだ。皇室でもあるまいに、このなんとも過剰な丁寧語はなんだ。長官のリテラシーに齟齬をきたしているなにかを、つい勘ぐりたくなる。
 文筆家の平川克美氏は、
◇「俺は偉い、俺は正しい、俺をもっと尊敬しろ」
 自己評価と、客観的な評価がかけ離れていることに、気がつかないというのは、自我肥大化した人間の滑稽さであり、悲しさですが、最近の日本を見ていると、なんだか最大限虚勢をはって、その分だけ孤立感を深めている自我肥大化したこどもを見るような思いがします。これはかなり厄介な病です。◇(晶文社「街場の憂国会議」から)
 と語る。「最近の日本」を「こども」と評しているのだが、そのまま「最近の日本」の“顔”にも同断といえる。先月の拙稿『総選挙に異議あり』でも、その幼児的ビヘイビアについて触れた。子どもといえば、07年夏突然の政権放擲に民主党の仙谷由人氏が「あんな子どもに総理大臣なんかやらせるからだ!」と呼ばわった一撃が蘇ってくる。もっとも民主党政権もただの「あんな子ども」たちに過ぎなかったのだが。
 長官の措辞はきっと「総理の御指示」ではないだろう(だったら、末世も極まれりだ)。回りが忖度しているにちがいない(実はこれが権力の忌むべき行使のありようだ)。いかにもトップダウンで陣頭指揮を執っている風を印象づけようとしているのではないか。昨夏ゴルフ中に起きた広島での土砂災害への対応のまずさを反省してのことでもあろう。しかし、先ずは厚労大臣ではないか。なんでもかんでもトップが仕切ったのでは小さな親切大きなお世話、事の軽重が霞んで文字通りの狼“少年”になりかねない。
 上掲書でコラムニストの小田嶋隆氏は、震災以来の社会の導因を歴史的必然や経済的法則ではなく、「時代の気分」だと観る。
 別けても安倍首相の気分。氏は、「安倍さんは、うかれている」という。首相が「躁状態に似た気分の変動の中にいる可能性」を指摘し、
◇安倍さんは、「鬱憤を晴らす」ことや「快哉を叫ぶ」ことや「溜飲を下げる」タイプのビヘイビアに傾いていて、しかも、どうやら、節目節目で、その種の「毅然とした」態度を見せておくことで、若い世代の支持を集められると考えているフシがある。で、その、場当たり的な「毅然」パフォーマンスが、現実にシンパの喝采を集めていることも一面の事実ではあるわけで、だからこそ「気分」の政治は恐ろしいのである。◇
 と憂慮する。さらに時としてみせる小児的な態度などを挙げながら、
◇以上の出来事からわかるのは、宰相再任以来、安倍さんが、「早口」で、「軽率」で、「攻撃的」で、総じて「気分の変わりやすい」状態にあることだ。さらに言えば、安倍首相の態度からは、多動、多弁、行為心迫(何か行動しなければと追い立てられている状態)、作業心迫(何か作業しなければと追い立てられている状態)、観念奔逸(気が散って、次から次へと話題や考えが変わる状態)といった、躁病患者の諸症状を疑わせる特徴が、随所に読み取れるわけで、そう思ってみると、事態は、真に憂慮すべき局面に来ているのかもしれないのである。◇
 と警鐘を鳴らしている。コロラリーは以下の通りだ。
◇キャッチフレーズにしてからが、そもそも、「気分」以上のものを表現していない。事実、「日本を取り戻す」と言う時の「日本」が、いったいいつの時点の、どの「日本」であるのかを、安倍首相は、一度たりとも自分の言葉で説明していない。ついでに言えば、「取り戻す」のが、何なのかについても、説明は皆無だ。「取り戻す」と宣言している以上、かつての「日本」の中にあった「何か」が失われたことを証明せねばならないはずだし、その「何か」が具体的に「何」であるのかを、明らかにしないと話の筋道が通らない。しかしながら、この点についても、安倍さんはついぞ言葉にしたことがない。「新しい日本」というスローガンも、その意味するところは、一貫して謎のままだ。これでは、午前2時のコンビニの駐車場にタマっているヤンキーが、
「やるぜ!」
 と言ってるのと少しも変わらない。
「オレもやるぜ!」
「オレもだ。なんかやる気になってきた」
「何をやるんだ?」
「知らねえし」
「わかんねえし」
「そういう質問ムカつくし」
「やめるし」
 わかった。質問はやめる。追及も断念する。
 好きにしてくれ。
 安倍さんにとっては、あれこれうるさく質問したり説明を求めたりせずに、ただただ純真なまなざしでついてくる者だけが、美しい国のメンバーだということなのだろう。気分が国を作るというのは、そういうことだ。
 私はごめんだ。私は、自分の国に住む。◇
 つまりは3.11以来の鬱屈した「時代の気分」に乗じる形で「気分」の安倍政治がある。早い話が、アベノミクスなるものもほとんどが「気分」だ。そのネーミングからしておちゃらけ。「“異次元”の金融緩和」も、わざわざ大仰な措辞に及ぶのは「気分」を煽ろうとする小細工だ。実態はなにも動いてはいない。GDPというエビデンスを突きつけられびっくらこいて、「やるぜ!」のノリで大義なき「気分」の解散を打った。もちろん、9月から極秘裏に準備を進めていたらしいことをもって「気分」に非ずともいえよう。だが、手練れの官僚が数値の推移を注視すれば7―9の予測ぐらい朝飯前だ。むしろ踏み留まって冷静な分析と適確な対策を練ることこそ王道のはずではないか。下拵えがどんなに緻密であろうとも、牛丼の注文を突如「気分」でパスタに変えられたのでは厨房は白ける。だから国民の半分は「気分」が乗らず、投票所に行かなかった。挙句が小選挙区制の力学で圧勝に終わる。なんとも切ない。
 夜郎自大は「こども」の属性である。平川、小田嶋両氏の論攷に通底するのは「こども」だ。暮れになって、あああれはやっぱり金棒引きだったと嗤われることをひたすら願うばかりだ。 □