伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「虹の魚」に似て

2007年10月29日 | エッセー
 吉事にはあまり働かぬが、凶事には意外と予感が兆すものだ。昨秋、本ブログにわたしは次のように記した。

 ~~意外にも、四季は春からではなく冬から始まる。東洋の古(イニシエ)の智慧は人生に準(ナゾラ)え、そう教える。 ―― 少年時代が冬。芽吹きの前、亀の如く地を這い力を蓄える時、玄冬だ。20歳から40歳までが春。青龍が雲を得て天翔(アマガケ)る、青春である。続く60歳までは夏。朱雀が群れ躍動する朱夏、盛りの時だ。そして、秋。一季の稔りを悠然と楽しむ白虎、白秋を迎える。(中略)
 一期一会、祭りは跳ねた。もう「つま恋」はない。永い「祭りのあと」が始まった。白虎となった彼は存分に白秋を味わうに違いない。~~(06年9月30日付「秋、祭りのあと」)
  
 ところが「祭りのあと」を迎えることなく、彼は奔(ハシ)り続けた。「朱雀」に、あるいは「青龍」へと遡行するかのように……。

 「虹の魚」
 枯れ葉ごしに山の道をたどってゆけば
 水の音が涼しそうと背伸びする君
 底の石が透ける水に 右手ひたせば
 虹のように魚の影 君が指さす
  虹鱒よ身重の身体で
  虹鱒よ川を逆のぼり
  ほとばしる命を見せてくれるのか
 青春とは 時の流れ 激しい流れ
 苦しくても 息切れても 泳ぐしかない
 苦しくても 息切れても 泳ぐしかない

 渓を渡る橋の下は養魚場だね
 網で川を右左にせきとめてる
 人は何てひどい仕打ち するのだろうか
 魚たちはここで 長い旅終えるのか
  虹鱒よ身重の身体で
  虹鱒よ川を逆のぼり
  ほとばしる命がくやしいだろうね
 青春とは 時の流れ 激しい流れ
 打ちのめされ 傷ついても 生きるしかない
 打ちのめされ 傷ついても 生きるしかない
 (作詞 松本隆/作曲 吉田拓郎)

 古い曲だ。まさに彼が「青龍」であった時の作品である。この曲を、死魔を超え、「つま恋」を翌年に控えた05年のコンサートで久方ぶりに歌った。

   苦しくても 息切れても 泳ぐしかない
   打ちのめされ 傷ついても 生きるしかない

 絶唱であった。病臥より還り来った清新な歓びと不退の意気込みを託したのであろうか。「では、青春の曲を …… 」とさりげなく紹介したが、それは旧懐ではなく今を歌ったにちがいない。虹鱒の遡上にも似て、白虎でありつつもなお青龍たらんとする胸奥の炎(ホムラ)を。
 『つま恋』でもこの曲は入った。続く昨秋のコンサートでも。さらに、今年の7回のコンサートでも大団円のアンコール曲として歌われた。徒事(タダゴト)ではなかろう。むしろ、わたしには痛々しくさえあった。「祭りは跳ねた。もう『つま恋』はない。永い『祭りのあと』が始まった」はずなのに、なお『祭りのあと』を迎えない彼の倦まぬ奮迅に畏れ、かつ惧れた。 ひとりのファンとして、オーバーワークを案じた。

 そして、予兆は当たってしまった。正確を期すため、中止発表をそのまま引用する。 
 ~~Life is a Voyage【吉田拓郎】TOUR2007"Country" ツアーは、8月21日(火)サンシティ越谷市民ホールよりスタートし、その後『喘息性気管支炎』のため8月24日(金)パルテノン多摩から9月24日(月・祝)なら100年会館大ホールまでの計8公演を延期、振替公演とさせて頂きましたが、9月30日(日)の熊本市民会館よりツアーを再開し、10月17日(水)瀬戸市文化センターまでの計6公演(サンシティ越谷市民ホールを含むと計7公演)を実施してまいりました。
 9月30日(日)熊本市民会館からの計6公演を実施後、医師の再診察を受けたところ、「『慢性気管支炎』に『胸膜炎』を併発のため約3ヶ月の加療を要する」、との診断を受け、本人及び主催・制作サイドと検討の結果、10月23日(火)実施予定の徳島文化センター公演より、振替公演の最終公演である2008年1月23日(水)岸和田市立浪切ホールまで計19公演を中止とさせて頂くことになりました。
 コンサートを楽しみにして頂いておりましたお客様には大変ご迷惑をおかけ致しますこと深くお詫び申し上げます。~~

 過去数え切れないコンサート・ツアーの中で、中断はあっても中止は初めてである。早速、彼はコメントを出した。
 ~~本当に申し訳ありません。
 今年は何やら体のバイオリズムのようなものが最悪のようであります。ライブを楽しみにしていてくれた皆さんには心から謝らせてください。僕自身も今回のカントリーは初めての街が多く新鮮な構成など、とても楽しみにしていただけに残念でなりません。志なかばで矢折れてしまいました事を無念に思います。この際あせらずに40年に及ぶ蓄積された悪玉達を追い出す日常を送ろうと決心いたしました。わがままな吉田をどうぞお許しください。我が街の空より皆様の健康と幸せをお祈りいたしております。
2007年10月22日   吉田拓郎~~

 「わがままな吉田」のままが、いい。「白虎となった彼は存分に白秋を味わ」っていいのだ。彼にはその資格が十全に備わる。
 「志なかば」のプルアウトに軫恤しつつ、快癒を祈る。…… ひたすらに祈る。□


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山頂にて

2007年10月23日 | エッセー
 優に十年は超えるだろう。久方ぶりに山頂に立った。山頂といっても、僅か五百メートル。重畳たる山脈が海との際(キワ)に残した大地の皺、もしくは丘疹か瘡(カサ)のごときものだ。
 四百メートルまでは車で行ける。あとの五分の一は前傾姿勢を要するほどの勾配に喘ぎながら、雑草がわずかに踏み固められた道らしきものを辿る。山と呼ぶに面映ゆく、登山と言うに憚られるが、頂からの眺望には見応えがある。
 わが町を一望するスポットであり、当然ながらこの町の天頂でもある。古(イニシエ)の歌人に詠われた由緒ある山だとも聞く。しかし今では山頂に大きなパラボラアンテナがそそり立ち、付近の峰々にも様々な中継用のアンテナが点在する。とても詩心を誘う風情ではない。だが逆に、山頂から見下ろすパノラマはほどよい詩情を醸す。

 遠景には海が展(ヒラ)ける。白い絵の具を刷毛で散らしたような波頭(ナミガシラ)が間歇する。緩やかな海岸線が海を遠巻きにし、秋の伸びやかな空が水平線に溶け込む。
 山並の懐から長途を流れ来った大きな川が羇旅を終える。河口からやや溯ると裳裾を曳くように蛇行する様は、天女の昇天と見紛うほどに華麗だ。
 橋が何本か懸かり、道路が渡り鉄路が跨ぐ。工場の高い煙突が屹立し、白煙がたなびく。町のシンボルだ。
 いくつかの学校が見え、それぞれに長円の校庭を備える。大造りの病院が据わる。丘が町を大小に区分けし、屋並が群れる。近景には小山が連なり、鉄塔が聳え、高圧電線が走る。
 三層に分かたれたパノラマを仄(ホノ)かな霞が覆い、全景はパステルに和(ナ)ぐ。
 
 安上がりでかつ簡易。穴場だ。この町に住まいながらこの天頂を踏まぬは不心得も甚だしいなどと、手前勝手を呟きながら山を下りた。

 ジョージ・マロリーがニューヨーク・タイムズのインタビューを受けた時、「Because it is there.」と応えた。「そこに山があるから」と訳され、名言となった。格言、箴言ともされる。後に否定されるが、エベレストに初登頂したとされたこの登山家に、記者は「なぜエベレストに登るのか」と訊いた。だから、正確には「it」とはエベレストのことである。おそらく彼は軽く去(イ)なしたにちがいない。ところが瓢箪から駒だ。「it」は世界最高峰という特異性を捨てて「山」という通途の名詞となり、この名言を不動の地位に押し上げることになった。
 そこで、無謀を承知で超弩級の牽強付会を試みる。 ―― 人はなぜ、山に登るのか? についてである。
 
 人間の身体能力は一つを除いて、あらゆることを為し得る。二足歩行はもちろんだ。走ることも、泳ぐことも、潜水も可能だ。跳ねるのも、木に登るのも道具を使わずして為し得る。ひとつひとつに長じた動物はいるが、あれもこれもとはいかぬ。人類ほどオールマイティーではない。万物の霊長たる所以は知的能力だけではない。身体的能力の汎用性においてもそれはいえる。だが、ただひとつ。「飛ぶ」ことは叶わない。こればかりは道具を使っても為し得ない。ハングライダーは風に乗るだけで、鳥のように飛ぶわけではない。飛ぶことばかりは機械に委ねるしかない。
 山に登るとは、これではないか。飛べはせぬとも、上空の気を吸い風を受け、鳥の目を獲得することはできる。鳥瞰である。宙を舞い、空を飛ぶ。人が類(ルイ)として永久に奪われた能力だ。その絶対の不可能への憧憬(ショウケイ)と焦燥が、人をして大地の高みへと誘(イザナ)うのではないか。飛ぶことの代替行為としての登山。つまりはこれが「山に登る」理由ではないか。だから、マロリーは「Because I can't fly.」と言うべきだったのかもしれない。

 病膏肓と嗤われるだろうが、山頂で胸一杯に吸った秋風が、そのような妄念となって去来した。□


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KY

2007年10月16日 | エッセー
 労働安全管理の技法が拡がったのか、と誤解してしまった。「空気を」のK、「読めない」のYで、「KY」という。転じて、「空気を読め!」にも使う。ことし、急伸張した。
 旧来のKYとは「危険を」のKと、「予知する」のYで「KY」だった。労働災害を防止するための活動のひとつである。実際に作業をする人たちがみずから、これから取り掛かる作業に潜む危険を予知し、対策を講じるというものだ。与えられる受け身の安全策ではなく、自分で考え、自分で手を打つ。いわば「ころばぬ先の『知恵』」である。働く場から事故を防ぐ有力な手立てである。
 まさか若者たちが、日常的に「危険予知」を実践しているわけではなかろう。訊いてみて誤解は解けた。
 いまや定番の「H」だって、「変態」のイニシャルだ。大正時代の女学生が作ったらしい。イニシャルを隠語のように使うのはよくあることだ。最近は複数の文節のそれぞれを取って使う場合が増えている。

 さて、以前紹介した「江戸しぐさ」の越川禮子氏が次のように述べている。
  ~~いつの世もそうですが、その場の雰囲気を読めない人はいるものです。「空気が読めない」などともいいますが、要は、状況が把握できない人。いまどういう状況か、まったくわかっていない、観察力のない人ともいえるでしょう。
 以前、知り合いのお通夜で故人の過去の行状を長々と話している人がいました。よく聞くと、どうも故人の失敗談ばかり話している様子です。自分がいかに故人と親しかったかを誇示しているようでしたが、その内容は耳障りなことばかり。通夜の席は、たしかに故人を偲び、その思い出を語る場ではありますが、語りすぎてはいけません。周囲にいる人も、初めは耳をそばだてていましたが、だらだらと長話になるにつけ、あからさまに不快感を表していました。
 その人は、たぶんリタイアされている人で、現役時代はそれなりの地位があったのでしょうか、誰も注意もしません。もちろん当の本人も、そんな周囲の空気を読めません。場所柄をわきまえず、本当に野暮な人だなという印象だけが強く残りました。
 江戸の「バカ」というのは、TPOをわきまえない人をさしたといいます。「こんな場所でそんなことを言う奴がいるか、バカ者」というわけです。まさに、通夜のその客こそ「バカ者」。まったくTPOをわきまえていません。
 江戸しぐさには、「本を読むより、人を見よ」という教えがあったそうです。いまこの人は何を考えているか、どう思っているかなどをよく観察して、判断しなさいということです。その場の雰囲気を読むというのは、まさにこのことではないでしょうか。この場にいる人たちは、どう思っているのだろうか、このひとつのことを考えるだけで、空気は読めるはず。人を見、自分はどう見られているかを思えば、私たちが野暮な人と思われることはないのでしょう。~~(日本文芸社「野暮な人 イキな人」から)

 江戸の代においても、KYはバカで野暮だと嫌われた。決してイキではない。野暮天のKYだ。と、なにやら旧来型のKYと似てこないだろうか。旧型は労働現場の災害を防ぐため、新型は人間関係の軋轢を防ぐため。どちらも不都合、不利益を事前に回避するための知恵だ。このこじつけは結構いけるかもしれない。近ごろは新型KYについては仲間付き合いに限らず、職場での会議をはじめ実務面でも多用されるようになっている。

 ところが、一月三舟である。今月14日、朝日新聞の「声」欄に以下の意見が寄せられた。
  ~~「KY」に見るいじめの風潮  大学生(鹿児島市21歳)
 「KY」という言葉が若者の間ではやっている。「空気(K)が読めない(Y)」ということである。
 私の周りでもよく笑いのネタで使われている。しかし、この言葉に私は違和感を覚える。なにか社会のゆがみが反映されているように思えるのである。
 「空気が読めない」とは、大多数からもれた人を指すのである。変わった人間、少数派を排除しようとしていると、とらえられないだろうか。ニュースではいじめの問題が取り上げられ、弱いものいじめはいけないと、叫ばれている。にもかかわらず、世間には空気を読めない人をバカにするという風潮がある。そこには弱者切り捨て、格差社会といった問題が浮き彫りになっているのではないだろうか。
 こういった言葉がはやり、笑いのネタとなっているということ自体、矛盾を含んでおり、私は居心地の悪さを感じる。私たちは人間として、もう一度道徳というものを考える必要があるのではないだろうか。~~

 いやはや、頂門の一針である。「癖ある馬に乗りあり」という。癖のある馬でも調教次第だ。上手の手にかかれば、「癖馬」が駿馬となる。言葉も同じ。『癖ある言葉』も使い方次第で光る。だが、癖玉を不用意に投げると、ストライクを取るどころかビーン ボールになってしまう。「声」にあるように「居心地の悪さを感じ」させるようでは、それこそKYではないか。野暮ではないか。「KY」と言い募る当の本人が野暮天もいいとこ。「癖ある馬」に振り落とされて、おまけに蹴られて、赤っ恥だ。□


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奇想! 「鉄人28号」

2007年10月12日 | エッセー
  ♪♪
  ビルの街にガオー
  夜のハイウェイにガオー
  ダダダダダーンと弾がくる
  バババババーンと破裂する
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 団塊の世代には涙が出るほど懐かしい曲だ。特に、「テーツジン にじゅうーはーちごー」は耳朶にしっかりと残っている。「アトム」と双璧だった。いままた半世紀を経てプレステ2にも登場する。
 昭和30年代、少年たちをとりこにした横山光輝の作品である。帝国陸軍が死中に活を求めて開発した秘密兵器・巨大ロボット、それが鉄人28号であった。戦後になって突如発見されるところから物語は始まる。鉄人に意志はない。操るには操縦器が要る。悪にも善にもなる。「いいも悪いもリモコンしだい」なのだ。「ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先」だ。リモコンを巡る争奪戦。少年探偵・金田正太郎と悪人どもの熾烈な戦いが繰り広げられる。そしてついにリモコンは金田少年の手に。勝負は決まった。「ビューンと飛んでく鉄人28号」。自在に鉄人を駆使し、悪人どもをなぎ倒し人びとの平和を守る。と、そのようなストーリーだ。

 9月26日付け本ブログ「欧米か!?」で、「前述の『問題意識』については、稿を改めて語りたい。」と述べた。その「哲人政治」についてである。テツジン28号は親父ギャグではない。いつもの奇想である。

 プラトンが「国家」で哲人政治を構想した時、脳裏には師匠ソクラテスの死があったに相違ない。民主制が『人類の教師』を血祭りに上げた。陶片政治の迷妄と狡猾、衆愚が政治を覆う恐怖、ポピュリズムの詐術。「民主」のアポリアであり宿痾でもある。それらがデモクラシーへの強烈なアンチテーゼとなった。
 プラトンは語る。
  ~~哲学者たちが国々において王となって統治するのでない限り、あるいは現在、王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつ充分に哲学するのでない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでない限り、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸の止む時はないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。~~
 善のイデアを了知した哲人が為政者となるか、為政者が哲人となるか、どちらかでなければならぬ。「哲人王の思想」である。一人の哲人が、と誤解する向きもあるが、英語では「rule of philosopher kings」。複数形である。原義は小集団を想定している。しかも並の哲人ではない。「王」、哲人中の哲人でなければならぬ。
 たしかに当時は直接民主制であった。しかしそれは立論の正当性を減殺しない。直接・間接を問わず、「民主」それ自体がアポリアなのだ。むしろ、直接制だからこそ問題は浮き彫りになったといえる。
 社会構造の複雑化や、人権の拡大で市民が増えたことが間接制、つまり代議制の起因であるとされる。物理的事由だ。当然、間接制にもアポリアは属性として残る。市民すべてが哲人であれば、なにも問題はない。理想ではあっても、現実は夢想に停まる。ならばどう考えるか。
 そこで発想を変えてみてはどうだろう。間接制についての間尺を取り直してみる。宿痾に対する次善の処方箋としての間接制、哲人政治の一変形と見るのだ。「選良」というではないか。だから直接制と代議制は分母の違いによるものではない、直接制の発展形が代議制ではない、と捉えられないか。たとえばITが極大化して直接制の物理的制約を超えられたとしよう。はたして代議制は無用となるであろうか。ギリシャの市民が毎度アゴラに集い討議し議決していたように、億万の民が毎度ITで討議し議決する。それで「民主」の抱えるアポリアは解消されるだろうか。むしろアポリアが極大化するだけではないか。つまり、代議制は直接制の代替物ではないと考えた方がいい。両者は位相を異にする。
 哲人政治の導入は至難にして絶望的だ。ならば、似たものはできないか。歴史の試練に晒されつつ、人知が暗々裡に生んだ亜流、それが代議制ではないか。プラトンの理想を現場の知恵が咀嚼したのではないか。しかし、である。代議制はあくまでも亜流であり、似たものだ。いつなんどき、物真似が本物になりすますかもしれぬし、似て非なるもの、魚目燕石に堕さぬとも限らぬ。そう愚考を巡らした時、奇想、天外より来ったのである。

  ♪♪
  ある時は正義の味方
  ある時は悪魔の手先
  いいも悪いもリモコンしだい
  鉄人 鉄人 どこへ行く
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 だから、『リモコン』だ。鉄人28号のリモコンだ。「ビューンと飛んでく」怪力ゆえに、28号が『哲人』だと勘違いしてはいけない。「ある時は正義の味方 ある時は悪魔の手先」となる『鉄人』でしかない。「いいも悪いもリモコンしだい」だ。だからリモコンが『哲人』でなくてはならぬ。金田正太郎くんの手に握られていなくてはならない。たしかに鉄人28号は人類の一大傑作である。出来がいいだけに、時として人は『哲人28号』などと買いかぶってしまう。あるいは鉄人が哲人の物真似を演じることもある。真贋が見抜けずに騙されてしまう。だから、『リモコン』だ。代議制は所詮『鉄人』でしかないと括っておこう。

  ♪♪
  手を握れ正義の味方
  叩きつぶせ悪魔の手先
  敵にわたすな大事なリモコン
  鉄人 鉄人 早く行け
  ビューンと飛んでく鉄人28号
  ♪♪
 わたしてならぬ「敵」とは何か。マスコミの喧噪に聞き逃している声はないか。掻き消されている呟きはないか。刷り込まれた先入主はないか。仕組まれた誘導はないか。マスコミは両刃(モロハ)の剣だ。使い方を過てば、わが身を切り刻んでしまう。白紙委任は己を滅ぼす。それこそが敵だ。テレビ・ポリティクスは今やこの国を席巻している。
 19世紀初頭、フランスの政治思想家トクヴィルは、新興国・アメリカの先駆的民主政治を現地に渡り克明に調べ上げた。結論はこうだ。 ―― 民主政治とは「多数派世論による専制政治」である。多数派世論は新聞によって作られる。操作された大衆世論が政治を左右し、社会は混乱する。それを防ぐには、宗教者、学識者、長老政治家などの「知識人」が不可欠だ。民主政治は大衆の教養、生活の水準によって決まる。 ――
 200年後を見透した慧眼である。哲人政治への志向とも読める。9.11以降に見せたアメリカの迷走は、世界を舞台にした現代の『専制政治』ではないか。
 習い、性と成るである。ふたたび奇想、天外より来る。『鉄人29号』の登場だ。
 先日の禿筆を繰り返そう。
  ―― 民主主義制度はまことに鈍重だ。いかにも歯痒い。時には隔靴掻痒でもある。国鉄を民営化するには「臨調」を擁した。三権を超えるものがない以上、いかな中曽根氏とて『疑似哲人』政治を援用する他なかった。郵政を民営化するには政治を『劇場化』して、小泉氏自らが『疑似哲人』を演じる他なかった。もともとこの制度では須臾の間に大きな舵は切れないからだ。 ――
 良薬を好んで嚥む者はいない。苦いからだ。山頂の眺望は愉しみだが、切所を越えねばならぬ。さて、どうする。やはり、『鉄人29号』だ。
 28号を超える29号を構想せねばならない。「臨調」は29号の試作機だった。「経済財政諮問会議」は28.2号機といったところか。しかし、「教育再生会議」は屋上屋の失敗作だった。29号製作は相当に難しい。だが、『世論政治』とポピュリズムは一卵性双生児だ。世論は時として民意の仮面を被る。はたして世論は正確無比にして無謬であろうか。世論は「陶片」と背中合わせ、いな一瞬にして現代の陶片と化すのではないか。『民主のアポリア』は忽ちにして一国をも落とす陥穽となる。だから28号を超える29号は必要なのだ。(世論については、今年2月12日付け本ブログ「うへぇー! 世の中、ゴミだらけ」でオブジェクションを呈した)
 「賢人会議」と呼んでもいい。いっそ「哲人会議」と名乗るもいい。明確な形で国政の中にシステマナイズすべきだ。ただ29号は単なる諮問機関ではない。28号を縛る力を持つ。だから、時の政権にとっての御用会議にならない構造も考えねばならぬ。設置のテーマと時期についても熟考を要する。根拠法は必須であろう。「国民投票法」を改訂して最終的な裏打ちをするのも一案だ。哲人政治の擬態としの代議制に、より真正に近い形のシステムを援用する。トクヴィルが喝破したように「民主政治は大衆の教養、生活の水準によって決まる」以上、つまりは代議制が擬態に停まる限り、『アポリア』は克服できないからだ。
 
 本稿を終える前に、一点付け加えねばならない。故小田実氏は代議制に抗して別のアプローチを企図した。直接民主制への回帰だ。デモはその最大の典型であった。氏にとってデモは通途の抗議やアピールではない。直接民主政治そのものだった。おそらく氏は代議制の擬態を知り抜いていたにちがいない。だから「市民」の復活を叫んだ。市民をして「29号」を構想したといえるかもしれない。

    敵にわたすな大事なリモコン
    鉄人 鉄人 早く行け

 いまに甦るあの勇壮な一節。リモコンだけは離すまい。□


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2007年9月の出来事から

2007年10月07日 | エッセー
■ 年金横領は3億円超
社会保険庁が、同庁や自治体の職員による横領が99件に上り15件は告発していなかったと発表(3日)再調査で件数は更に増えた。
  ―― 『水戸黄門』には悪いが、『悪代官』はゼロに等しかった。江戸時代270年を通じて官僚の不祥事は極めて希であった。『印籠』は必要なかったし、『全国行脚』も無用であった。事実、していない。戦をしなくなった武士は、選民であるがゆえの内面的な練度を高めていった。道徳的頽廃は彼らが歴史から遠ざかるにつれて進行した。
 「ノブレス・オブリージュ」(高貴なる者に義務あり)とまではいかずとも、せめて 「天網恢々疎にして漏らさず」程度の倫理性をどうもたせるか。もはや対症療法では埒が明かない。マスゾエくん、「小人のざれ事」と大見得を切るのもいいが、ここは一番、小人を大人にしてやる方策を考えることも忘れないでほしい。

■ 安倍首相が辞意
インド洋での海上自衛隊の給油活動継続に「職を賭す」と語りながら、小沢民主党代表との党首会談が不成立。「力強く政策を進めていくのは困難」と記者会見で表明(12日)
  ―― 水に落ちた犬を打つつもりはないが、海外の目は知っておいたほうがいい。

ワシントン・ポスト「生けるしかばね」
ニューヨークタイムズ「自らを『闘う政治家』と表現したが、「明らかに闘う度胸を持っていなかった」
インディペンデント「『権力のおごり』の教科書だ」
イタリア・プブリカ「前任者がもたらした進歩をすべて無駄にした」「若い才能と目されていたのに、彼の内閣はへまと素人的振る舞いにさいなまれていた」
イギリス・BBC「翼が短かったタカ」
朝鮮日報「運もなかったが、危機管理、内閣統率はどうしようもない水準との評価を受けた」
中央日報「最後までちゃんと判断できなかった」
東京在住外資系ヘッジファンド社長「武士道ではない、チキン(=臆病者)だ」

 岡目八目である。よく見えている。いまや、外国の評価を気にしないでいい時代ではない。株価でさえもが敏感に反応する。
 片や、国内だ。一国のトップが『一抜け』することは、まずなにより教育上宜しくない。『演説拒否』『登院拒否』、これでは『登校拒否』を議論する資格はなかろう。「教育再生」が金看板だった内閣にしては、まことに子供じみた幕切れだった。先日引用した仙石氏の一撃が的を射ていたというべきか。

■ 全国商業地16年ぶり上昇
国土交通省発表の7月1日時点の基準地価で平均が前年比1.0%上昇。住宅地もほぼ横ばいまで回復(9日)
  ―― 地価はデフレ脱却のメルクマールにはなる。が、微妙で深刻な問題だ。「土地」といえば、『司馬遼太郎の鬱屈』が想起される。晩年にいたるまで氏は「異形な時代」だと警鐘を鳴らし続けた。戦後、土地に対する「公」意識が薄れた。水や空気と同じように土地は本来、公的な制約を持つ。だから私有地といえども何をしても自由とはいかない、と。特に投機の対象とすることに憤った。そこから派生する民族性の変質やモラルの崩壊を憂えた。巨匠の炯眼を忘れてはならない。

■ 福田内閣が発足
衆院で福田氏、参院は小沢氏を首相に指名。両院で指名が異なるのは9年ぶり。安倍内閣の閣僚17人中15人が残留(25、26日)
  ―― 9月26日付け本ブログ「欧米か!?」で取り上げた。選挙ばかりが能ではない。ここは日本版「コアビタシオン」と捉え、政治的修養を積むことが生産的だと語った。
 付け加えると、これで力をつけるのは間違いなく与党だ。「姉女房は身代の薬」というではないか。
 さて、カネの問題。参考までにアメリカの例を挙げると、すごいのは「身体検査」にFBIが乗り出すこと。歳入庁も加わり3カ月をかけて調べ上げる。家族の言動、特に現政権に対する批判はなかったか、知人についても同様に査問される。ヘルスチェックは勿論、21歳以後のすべての所得と収入源、財産、所属する機関、各種の支払いに滞納はないかまで、丸裸にされる。さらに上院の公聴会で質問にさらされ、本会議で過半数の賛成を得てやっと承認という運びになる。国情の違いがあるとはいえ、日本はいったい何周遅れだろう。

■ 時津風親方らが弟子に暴行
大相撲の序の口力士、斉藤俊さん(当時17歳)が死亡した問題で、親方と兄弟子らが愛知県警の調べに暴行を認めていたことが発覚(26日)
  ―― 床山を含め約800人の世界である。事はヒエラルヒーの底辺で起こった。論議は喧(カマビス)しい。が、一点気になる動きがあった。
 なぜ、文科省がしゃしゃり出る。財団法人日本相撲協会は公益法人として文科省の管轄に属す。それは判る。政権発足直後で大向こうを意識したのかもしれない。だが、捜査が進行中の段階でお上が乗り出すのはおかしくはないか。この点の是非が論議されていないように見受ける。捜査に予断を強いることにもなる。なにより相撲取りといえどもリヴァイアサンには叶いっこないと、小芝居を見せられているようで気持ちよくはない。
 それにしてもあの謝罪会見は見物だった。理事長ほか3名頭を下げたが、あの角度は土俵で負けて下がる時のお辞儀の角度だ。通常見受ける謝罪の礼より明らかに浅い! 腹がつっかえて90度にはならないのかもしれないが……。

■ ミャンマーで大規模反政府デモ 
燃料費値上げを機に立ち上がった僧侶らに市民が加わり、一時10万人規模に。軍事政権の武力弾圧で日本人カメラマン長井健司さんが死亡(27日)。軍政は制圧を宣言。死者計10人と発表(29日)
  ―― 危険な紛争地域から大手報道各社が撤退し、穴をフリージャーナリストが埋めるという構図が背景にあるらしい。
 なにやらポスト・バブルの日本経済の歩みと二重写しになってくる。収益構造の改善には人件費の削減が一番とばかり、大企業は正規雇用を削りに削った。当然、非正規や有期の雇用が激増する。すでに全労働者の3割を超える。パートやアルバイト、派遣労働者、フリーターが巷に溢れた。格差が生まれ、痛みが拡がる。ついには、ワーキング・プアなるものまで生まれるに至った。
 危険地帯の報道と同列には論じられない。勿論、そうだ。しかしどこかで通底しているような気がしてならない。撃ち倒されても離さず突き出されたビデオカメラ。あれは決して死後硬直ではない。瞭(アキラ)かな意志が宿っていた。

■ 沖縄で11万人抗議
沖縄戦で日本軍が住民に「集団自決」を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が開かれる(29日)
  ―― 12年前の米兵による少女暴行事件の抗議集会参加者が8万5千人。それをはるかに上回る。一番ショックを受けているのはアンバイくんではないか。慶応病院の病室は揺れたはずだ。窓がガタガタ鳴ったにちがいない。おそらく……。
 「戦後レジーム」どころか「戦」そのものが問われたのだ。しかも同胞の犠牲である。教科書検定調査審議会がどうのこうのという問題ではない。
 さあ、みなさん、ご一緒に! 「あー、そんなの関係ねぇ! そんなの関係ねぇ!」 逃げるな! 文科省。

<番外編>
■ 秋刀魚、一推し!
  ―― ことしは秋刀魚が豊漁で安い。海流の変化で漁場が近づいたからだ。船の燃料費からして大違いである。
 ガスレンジでは無粋だ。猫の額ほどの庭に、七輪を持ち出して焼いた。わが家のささやかな秋の定番である。服に匂いが染みるほどの濛々たる煙だ。あの周囲を圧する威勢のいい煙と、食欲を刺激して止まぬ焼け焦げる油の匂いと音。屋内では味わえない醍醐味だ。
 この嘉肴、なにゆえ垂涎を誘うのか。おそらく太古からのDNAが蠢いているにちがいない。岩宿の旧石器時代が3万年のむかし。そこから勘定しても、家屋の中で煮炊きを始めたのはついこの間である。アウトドアなどと洒落てみても、所詮は先祖返りの一種だ。もっとも岩宿は内陸ゆえ、秋刀魚は焼かなかっただろうが……。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。見出しとまとめはそのまま引用した。 ―― 以下は欠片 筆)□


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控えのカナ

2007年10月02日 | エッセー
 大それたテーマに挑んでみる。竜頭蛇尾は覚悟の前である。どうか、お付き合いを。

 玉容について、である。万代不易のテーマだ。その一端を探ってみたい。
 搦手から ―― 。

 かつてナガシマさんがハラくんに打撃のコーチをした時のこと。
「腰のあたりをグーッと、ガーッとパワーでプッシュして、ピシッと手首をリターンするんだよ」
 ほとんど解読不能のオノマトペの連続である。それをまたハラくんは克明にノートに採っていたという。なんともほほえましいというか……。
 さて、養老孟司著「まともバカ」(大和書房)から引用する。

  ~~身体の所作のような無意識を、意識で説明するのはほとんど矛盾なのです。そもそも説明できないから無意識なのであって、そんなことを説明してもしようがない。~~
 その「矛盾」に挑むと、ナガシマ流となる。宜(ムベ)なる哉(カナ)。ましてや天才のそれだ。「説明してもしようがない」のである。

  ~~戦後、われわれはとくにそういった身体表現、無意識的表現を強く消してきました。しかし、普遍的な身体の表現は、完成すれば必ずどこにでも通じるはずのものなのです。
 二本差しでちょんまげを結って威臨丸から降りた人たちがサンフランシスコを歩いたときに、アメリカ人は誰も笑わなかったと思います。それが型です。~~
 徳川三百年を掛けて作り上げた「型」、それが武士の所作であった。ところが、日本の戦後はひたすら「意識化」の歩みだった。氏は「脳化社会」ともいう。氏の表現を借りれば、「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる」社会だ。「こうしても、こうならない。ああしても、ああならない」場合は不具合といい、故障という。制御不能の無意識、自然を徹して排斥する社会である。

  ~~意識的表現に比べて、こういった無意識的表現というのは、非常に身につきにくいものです。それを本来担っていくのが日常の生活です。われわれは畳の上の生活から急速に椅子とか床の洋風の生活に変化させてきました。日常の行住坐臥の所作からできあがってくるような、そういった身体表現としての文化を、もう一度つくり直さなければならない段階におそらく来ています。~~
 「身体表現を取りもどす」と題する章の一部だ。別の著作の中では、「私のいう都市化、いわゆる近代化とは、すべてを意識化していくことです。それを私は脳化社会と呼びました。すべてを意識化しようとしても、個人でいうなら、身体は最終的には意識化できません。」と述べている。(「逆さメガネ」より)意の儘にならぬのが身体である。では、「身体表現、無意識的表現」をいかにして獲得するか。「日常の行住坐臥」がひとつ。そしてもうひとつが強制的な刷り込み、すなわちスポーツである。

 唐突だが、駄文を引用したい。昨年9月1日付け本ブログ、「排球の佳人たち」より。
  ―― 躍動する彼女たちは美しい。渾身の一撃を放つ刹那がまぶしい。一球を逃すまいと地に全身を擲つ。五体が滑空し、魂が迸る。彼女たちはコートに跳ね、撃ち、奔り、そして舞う。
 私を虜にして止まぬ女子バレーの魅力とは、躍り動く妖艶さだ。なまなかな動きではない。常人をはるかに凌駕する素質に、容赦ない鍛練の磨きがかけられている。大作りではあるものの至極普通の容姿が、コートに身を移したとたん垂涎の佳人へとメタモルフォーゼする。並な女優の比ではない。しかも、寸毫も粧(ヨソオ)わぬ化身だ。秘術にちかい。
 秘術はその尋常ならざる動きにあるにちがいない。遥か高みにまで研ぎ澄まされ、緩急を自在に織りなす動きが、巧まずしてこの世ならぬ美を生み出す。これは女性アスリート全般に言えることだ。競技中の容姿、動きの只中を切り取った顔(カンバセ)はすべて例外なく美しい。現し身は見事に化身している。躍動の色香だ。 ――
 武道の「型」にも一脈通ずるが、「身体表現」の極みを「型」という。ならば、オリンピック・レベルのアスリートの動きはすべてが「型」だ。そこに美しさが弾ける。醜女(シコメ)はひとりとしていない。身体表現の極みに、「秘術」は成る。いまや、「垂涎の佳人」はアリーナの中にこそ住まうのかもしれない。

 小林秀雄の炯眼を頓首、拝借したい。
 能「當麻」を観て、

  美しい「花」がある。「花」の美しさといふ様なものはない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい。前者の動きは後者の動きより遙かに微妙で深淵だから。(「無常といふこと」から)
 
 肉体の動きという具体に即して美はある。美を抽象することは空に絵を描くに等しい、と氏は訓(オシエ)えてくれたのだ。点睛の一句である。

 さらに前掲の禿筆を続ける。
  ―― 大山加奈が控えにいる。哀切な目をしている。その表情はすばらしく魅せる。コート上の加奈にも増して、これがいい。控えの彼女を瞥見することは、私のひそかな愉しみでもある。 ――
 これが本稿のタイトルであり、テーマでもある。『控えのカナ』、あの「哀切な目」はいったい何だろう。コートへの意欲と哀願が糾(アザナ)われた視線だ。かつ、叶わぬ悲嘆を滲ませた哀しい眼差しだ。だから……、男の琴線に触れぬわけがなかろう。仄めく色香に酔わぬはずはなかろう。「控え」とは、アリーナ内陣に区切られた、哀切の結界だ。佳人でありながら薄命を背負えば、すでにそれでドラマだ。ドラマは涙腺を刺激する。ああ……。
 と、ここまで書いて筆を置く。荷が重すぎた。まさに竜頭蛇尾、郢書燕説と、嗤っていただこう。□


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