伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

テレビ会議

2020年04月30日 | エッセー

 SNSの LINE とも Facebook とも Twitter 、 Instagram とも無縁である。荊妻のLINEでたまに大阪の娘や孫とビデオ通話をするぐいか。端っからつながり症候群を避けるために手をつけなかった。しかし愚妻は熱心である。特にLINEの“無料”にほだされて嵌まり込んでいる。
 テレワークのWeb会議にヒントを得たのか、ここ1ヶ月はLINEのビデオ通話を使って5・6人と女子会、有り体にいえばおばはんの井戸端会議をおやりになっている。禁足令へのカウンターパンチなのか、もう一人の住人とのストレス発散のためか。おそらく後者であろう。外に出ないため素っぴんでいることが多く、久しぶりに慌てて化粧したというメンバーもいたそうだ。努力は嘉するが、きっと結果にさして違いはあるまい。
 そんな折、数日前のTVニュースで介護施設がテレビ電話を活用している様子を報じていた。感染防止のため施設を訪問できない、訪問しても直接面会できない(面会場所までの移動が困難)。そこで、自宅や施設の受付に隣接する部屋からテレビ電話をすることに。と、これが驚きの効果を生んでいる。入所するお年寄りもその家族も、画面を見た途端表情が一変し瞬時に和む。2・3の例を紹介していたが、みんなそうだ。なんだか、こっちまで嬉しくなってきた。
 京大総長でチンパンジー研究の第一人者である山極壽一氏は野生のゴリラと共に暮らし、重要なことを学んだという。
 〈ゴリラはいつも仲間の顔が見える、まとまりのいい10頭前後の群れで暮らしている。顔を見つめ合い、しぐさや表情で互いに感情の動きや意図を的確に読む。人間の最もまとまりのよい集団のサイズも10〜15人で、共鳴集団と呼ばれている。サッカーやラグビーのチームのように、言葉を用いずに合図や動作で仲間の意図が読め、まとまって複雑な動きができる集団である。〉(「ゴリラからの警告『人間社会、ここがおかしい』」から)
 なんだゴリラを引き合いに出すのかという向きもあろうが、DNAで隣接する類に人類の本来的あり方を見いだしても決して不思議ではない。「共鳴集団」は「顔を見つめ合い、しぐさや表情で互いに感情の動きや意図を的確に読む」ことで作られる。言葉ではないのだ。
 〈信頼関係をつくるには視覚や接触によるコミュニケーションに勝るものはなく、言葉はそれを補助するにすぎない。〉(同上)
 接触については今月17日の拙稿「一味郎党 余聞」で中野信子氏の卓説を紹介した。その接触が許されないなか、表情一変の秘密は視覚にあったといえよう。テレビ電話、面目躍如である。
 躍如といえば、近ごろの“STAY HOME”を尻目にテレビ井戸端会議に興ずる面々は忘れていたお隣さん、つまりゴリラさんのDNAが躍如として蘇っているのかもしれない(少なくとも山の神に限っては見た目がそっくりである)。ともあれ、絶滅危惧種からは最も遠い存在であることは確かだ。 □


コロナの大功名

2020年04月25日 | エッセー

 まだ早いかも知れない。だが、誰も言わないうちにフライングゲットする手もある。狙うは功名独り占めだ。
 今月9日の小稿「コロナの空騒ぎ」で、強権を使わずとも本邦には同調圧力による「翼賛」があるとの佐藤 優氏の指摘を受けて次のように綴った。
 〈先月の愚稿「ジャメヴュ」では次のように語った。
《なにより恐るべきは、このショックに付け込んだ強権的で独裁的な政治手法が露わになったことだ。トップの号令一下集団的統治が行き渡る。そんな非民主化を夢想する政治勢力が僅かばかり抱いていた慎みをかなぐり捨てて大手を振る。なにをしても許される彼らにとって垂涎の事況が眼前にある。いや、あり続けてきた。》
 さらに前稿「だいじょうぶだぁ」では、こう畳み掛けた。
《やおら緊急事態宣言に至った運びとは随分違うように受け取る向きもあるかもしれない。しかし振り返っていただきたい。専門家の意見も訊かず、今井補佐官と2人だけで謀った全国一律臨時休校要請の不如意。あの前非を悔いているにちがいない。ここは渋々の体(テイ)でいこう。強権のイメージ払拭だ。急いては事を仕損ずる。急がば回れ。》
 だが、これは短慮だった。「翼賛という手法」があった。まことに賢人の言は重い。〉
 「集団的統治」の中身と「事を仕損ずる」の「事」とはなにか? ズバリ、改憲である。
 大括りすれば、こうだ。
 TOKYO2020の祝祭的興奮の中で改憲への流れを一気につくり出し来年国民投票、9条改定を成して退陣の花道とする。
 この胸算用がコロナショックによって潰えようとしている。今のところ、劇的に終熄する可能性はほとんどない。来年の五輪さえ危うい。対応の鈍さ、不手際への批判は経済のシュリンクに伴ってより一層強まるだろう。一部にコロナショックでアベノミクスが頓挫したとする見解がある。とんでもない責任転嫁だ。姜 尚中氏は今月のAERAでこう反論する。
 〈アベノミクスの限界が明快に出たところに新型ウイルスが重なり、アベノミクスの失敗が露わになったと見るべきではないでしょうか。全てを新型ウイルスのせいにするのは、消費税の導入からハッキリした日本経済の落ち込みをすり替える見方になりかねません。〉
 余談ながら、辛口の論評で知られる朝日新聞編集委員の高橋純子氏が先日アンバイ君をこう切って捨てた。
「安倍話法の特徴は、責任が『ある』とは言っても『取る』とはめったに言わないこと。」
 まことに宜なる哉、言い得て妙である。
 さて、先月4日拙稿「一寸の虫 9」でこう呵した。
 〈規模の大小を問わず、国家権力を超える権力は国内には存在しない。超えるのは2つ。1つは他の、より強大な国家権力。もう1つは自然現象、天変地異である。
 ナチスは連合軍によって潰えたし、ポルトガルは大地震によって世界の覇者から引きずりおろされた。
 アンバイ君がどんなに一強を誇示し、独裁を欲しいままにしても道理は同じだ。新型コロナはさしずめ天変地異か。一強を超える自然の猛々しい力を見せつけている。付け焼き刃の「やってる感」なぞで太刀打ちできる相手ではない。〉(抄録)
 この「天変地異」こそコロナショックではないか。アンバイ君のシナリオにとっては寝耳に水、大番狂わせだ。俗信、迷信と嗤うなかれ。スピリチャルな与太を飛ばしているのではない。この世には人知が及ばない因果関係が、確かにある。車に撥ねられた。歩道を歩いていたまさにその刹那、なぜ運転手は余所見をしたのか。誰がその因果関係に明晰なエビデンスで応じ得ようか。「天変地異」とて同様だ。だが、手掛かりはある。
 17年5月「首相が憲法違反!!」と題する稿で柄谷行人氏の洞見を紹介した。
 〈哲学者・柄谷行人氏の著作「憲法の無意識」(岩波新書)。憲法の関連書籍は数多あるが、平易でかつこれほどの衝撃力をもった言説はそうはあるまい。日本人ならば必読の書といって言い過ぎではなかろう。
 柄谷氏は、憲法九条には日本人の強い「無意識の罪悪感」が凝っているという。その罪悪感とは維新以来、Pax Tokugawana 『徳川の平和』を破ってきた道程への悔恨であるとする。戦国を抜け築き上げた徳川300年の泰平を崩壊しつづけた歴程。さらに、破局的に潰滅させた太平洋戦争。フロイトを援用しつつ、通途の論説を遙かに超える歴史的鳥瞰に基づいた「無意識の罪悪感」を克明に描いている。だから Pax Tokugawana こそが憲法九条の「先行形態」である、と。アメリカの理想を托し、押しつけられたのではない。さらに単なる戦争への反省からでもなく、九条は Pax Tokugawana を現代に引き写したものだと解明していく。〉
 よって、俗信、迷信との嘲笑には日本人の深層心理に凝った「無意識の罪悪感」こそ「天変地異」の正体なり、とでも反しておこう。
 百害あって一利無しのコロナショックだが、その「一利」がバカでかい。改憲阻止の一利であり、これぞ大功名だ。神は見通し、天に眼、天網恢々疎にして漏らさず、である。
 「改憲」とは、そのまま記すると憲法改『悪』。憲法改悪へ暴走する国家権力。そのディフェンスとして興起した「天変地異」。悪『大』なればこそ、撃退は『大』功名だ。 □


K君からのメール

2020年04月23日 | エッセー

 数日前、暫くぶりにK君からメールが届いた。
「おはようございます。世の中、コロナ。体調はいかがでしょう?」
 K君は保育園からの莫逆の友である。09年12月の小稿「K君への詫び状」にご登場いただいたことがある。園児の頃、砂浜で戯れるツーショット写真を逸失したお詫びであった。
 短い近況の後、
「芦野宿の飯盛旅籠で一泊。」
 とあった。芦野宿は栃木県北部、かつての奥州街道4番目の宿場町であり、今も湯治場として繁盛している。が、今の今はコロナ騒動で閑古鳥が鳴いているだろう。関東圏に住まうK君はひょっとしたらそこを狙ったか、と次の「飯盛旅籠(めしもりはたご)」で合点が行った。飯盛旅籠とは普通の平旅籠とは違い、飯盛女が給仕以外のサービスを供する旅宿であった。もちろん今はない。今はないが、渋る石川乙次郎を青山玄蕃が無理やり誘い込んだ『流人道中記』に登場する旅籠である。K君はそれに絡めたにちがいない。拙稿を読んでくれているK君は同書を繙いて、芦野温泉で投宿したという次第だ。『流人道中記』は、今月6日の拙稿「この男、切腹拒否につき」で紹介した。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」、まことに簡にして要を得るお手本のようなメールだ。
 続いて、
「次の日は  蔦温泉で  上弦の月をみながら 一杯。」
 これはすぐ判る。15年12月、岡本おさみ氏への弔辞として綴った「訣辞に替えて」で触れた蔦温泉だ。『旅の宿』が生まれた宿である。
   〽熱燗徳利の首
 をつまんだ
   〽 浴衣のきみ
 がいたのかどうかは与り知らぬが、なんとも恨めしい、いや羨ましい。
 さらに、
「最後の日は三厩でマグロを。」
 とくれば、『流人』の目的地、奥州街道最北の宿場三厩(みんまや)である。「マグロ」は言わずとしれた大間マグロ。初競りでは2億円近い値がつく。津軽海峡が産する「黒いダイヤ」だ。豪勢この上もない。なんだか、喉から手が出そうだ。
 垂涎の後に、
「コロナおさまったら、同窓会旅行 やりたいものです。」
 「同窓会」とは古稀祝いの暗喩かもしれない。K君の今度の旅は彼自身の古稀祝いだったのか。いずれにせよ、元気であれとの激励と受け止めた。そして最後に、
「流人道中記良かった。」
 とひと言。浅田次郎と吉田拓郎に因んだ旅は、そう締め括られていた。「心に逆らうこと莫(な)し」、同時代を生きた莫逆の友に快哉を叫びたい。
 さらに付け加えるなら、「コロナ」である。K君の旅が首都ロックダウンの只中を突っ切ってのそれだったことだ。中学生の頃か、巨大なドームが都市をすっぽりと覆う完全に人工的環境の都会を描いた未来図に目を奪われた記憶がある。同じではないが、ロックダウンは都市を極大な密室にするものだ。なんのことはない、超大型の「三密」を作るに等しい。だから、感染はいっかな熄まない。こんな当たり前が判らないほどパラノイアは深刻である。K君はそのパラノイアを足蹴にしたとも、ひょいと躱したともいえる。ならば、痛快極まりない道行きだったといえる。
   〽 ああ風流だなんて
 そう、風流でもあるのです。『風』邪の『流』行を尻目に懸けるなんて、最高の風流です。 □


一味郎党 余聞

2020年04月17日 | エッセー

 毎年暮れになると町内で忘年会を催す。困るのがメニューだ。バーベキューや焼き肉は会場の公民館を燻し匂いを残す。それに年寄り向きではない。では季節がら鍋物をと候補に挙がるが、若い主婦層が決まって反対する。他人と同じ鍋をつつくのが嫌だというのだ。1年とは短いようで長いのか。毎年、この遣り取りが繰り返される。 
 8年前の4月、「一味郎党」と題する愚稿を投じたことがある。
 〈パーティーとは宴会の謂であり、仲間、政党も表す。宴会を布衍して俗な日本語にパラフレーズすると、一味郎党、一味徒党となろうか。一味はほかに味を加えないことであり、平等、仲間へと意味が膨らむ。同じ味、同じ鍋を喰らうゆえに一味郎党となったのだ。〉
 どうも先の若い衆(シ)には、そこのところが解らないらしい。生理的に受け付けないと仰せになっては、二の句が継げない。
 中野信子先生は脳科学の立場から次のように語る。
 〈オキシトシンは、良好な対人関係が築かれているときに分泌され、闘争心や恐怖心を減少させます。オキシトシンはスキンシップで脳内に分泌されます。握手などの簡単な皮膚への刺激でも分泌されるのですが、食事をするときにも出るのではないかという説もあります。消化管も上皮細胞なので体の外ではあるのです。一緒に食事をし、その場で良好な関係になっていく過程で、オキシトシンの分泌が増える傾向があるのです。職場の同僚でも、チームメイトでも、一緒の場にいるときに食事をするということが絆を深める上で重要であるということです。〉(本年3月刊「毒親」から)
 「消化管も上皮細胞なので」とは、口から肛門までは体内に内臓されているのではなくめくれて体外とつながっているということである。つまりは内側に延長されたスキンだ。だから一緒に「食事をするということが」スキンシップとなり、オキシトシンが分泌され「絆を深める」。ところが、残念ながら世の流れは逆に見える。
 一見別の話のようだが、以下に引く少子化についての内田 樹氏の洞見は深いつながりを感じさせる。
 〈子どもを持つかどうか決めかねている人が一番不安に思っているのは、結婚して、子どもを産んで、育てていく過程で、自分が成熟していくことそれ自体なんじゃないかと思う。結婚して、子どもを産み育てると、それ以前の自分が見慣れていた世界と風景が一変してしまうことに対する恐怖があるんじゃないか。「大人になる」ことへの恐怖ということだ。
 今の若い人たちは、「世の中の仕組みはもうわかった」という前提を採用している。だから、結婚して、子どもを産むことで、「世界の見え方が変わってしまう」ことを恐れているんじゃないか。だから、無意識にブレーキをかけているんじゃないか。「自分が変わること」への不安と恐怖がなんだかあるように見える。〉(19年、夜間飛行刊「沈黙する知性」から抄録)
 「結婚して、子どもを産み育てる」とは、これ以上ない最も濃密なスキンシップだ。既知の世界観が一変することへの恐怖がそれに「無意識にブレーキ」をかける。このパラドックスは一体何なんだろう。採用する「『世の中の仕組みはもうわかった』という前提」とは、市場原理が受肉化されたものであろうことは察しがつく。出産・育児が銭勘定以外の価値観を否応なしに迫るからだ。生命の素の遣り取りは儲けを超える。人間が類としての存在の誕生に直接向き合う時、「自分が成熟していくこと」を迂回はできない。子どもには子どもを産み育てることはできないからだ。けれども世の流れは逆に見える……。
 前掲書で中野先生は以下のように続ける。
 〈(オキシトシンには)一方でネガティブエフェクトも知られています。それは、集団の外に対して偏見を持つようになる、というものです。集団の中の人を過剰に高く評価するけれども、よそ者に対しては不当に厳しい目を向ける。これを「外集団バイアス」といいます。〉
 「外集団バイアス」というダークサイド。これではないか。人類学知の二項対立を止揚する脳科学の知見。鍋嫌いと出産忌避が二つながら腑に落ちた。
 まさか壇蜜さんまでいけないとはいうまいが、刻下かまびすしい三密御法度から想が跳ねた。 □


コロナの空騒ぎ

2020年04月09日 | エッセー

 憲法22条には「居住移転の自由」「職業選択の自由」などが定められている。
『何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。』
 「国籍」は措く。イシューは「居住、移転及び職業選択の自由」だ。裏返せば、「公共の福祉に反」する場合にはこれらの基本的人権が制限されることになる。
 新型コロナウイルスに関し、佐藤 優氏も同等の認識を示しつつ特措法が<移動の規制>に抑制的な理由を2つあげている(都知事はアクティブでオフェンシブだが)。1つは違憲の疑い。訴訟は避けたい。2つ目に、同調圧力による代替だ。
 特措法は都道府県知事により外出自粛要請、施設の使用制限に係る要請・指示・公表等ができるとするが、「緊急事態宣言」には罰則を伴う外出禁止命令や強制力(罰則規定)をもって交通機関をストップさせるような都市封鎖を実施できる規定はない。
 問題は2つ目だ。佐藤氏はこう述べる。
 〈法律や条例が存在しなくても、国や都道府県が自粛を呼びかければ、法律や条例に相当する効果がこの国ではあるからです。行政府が国民の同調圧力を利用するという手法です。これは、基本的に翼賛と同じ発想です。翼賛とは天子(皇帝)の政治を補佐することですが、これは強制されません。人々が自発的に天子を支持し、行動するのです。新型コロナウイルス対策の過程で、無意識のうちに翼賛という手法が強まっている危険を軽視してはいけません。〉(AERA今週号「ウイルスと移動規制 強まる翼賛の危険」から)
 大日本帝国憲法発布勅語に謳われた「臣民翼賛ノ道ヲ広メ」の「翼賛」である。まさに「人々が自発的に天子を支持し、行動する」との謂である。
 「翼賛」はなぜ「危険」なのか。それは同調圧力が呼ぶ思考停止だ。より端的にいうと、戦争への流れだ。戦を望む者はいない。しかし細流であっても、一端作られた流れは容易に大量の水を引き入れ、抗い難い太い流れへと変わる。思考停止の連鎖は集団パラノイアを誘発し、干戈へは一瀉千里だ。デジャヴュ、いつか来た道だ。なお人権との関連でいうと、感染・発症者への対応には最高度の人権感覚を持って臨むべきだ。今のままではまるでかつてのハンセン病患者の隔離政策と見紛うばかりだ。無知による過去の惨い人権侵害を繰り返してはなるまい。極論と嗤うなかれ。
 〈物事は単純化して表現することで、その本質が明確になる。空気抵抗や摩擦や物体の大きさなど、時と場合によって異なる要因を無視しなければ、物理法則が発見できないのと同じである。〉(梶谷真司著「考えるとはどういうことか」から)  
 との哲学者の達識がある。ならばかつての「鬼畜米英」を「新型コロナ」に置換すれば、「欲しがりません 勝つまでは」も「竹やり」も「戒厳令」もありとなる。同調圧力はそれほどに怖い。
 先月の愚稿「ジャメヴュ」では次のように語った。
 〈なにより恐るべきは、このショックに付け込んだ強権的で独裁的な政治手法が露わになったことだ。トップの号令一下集団的統治が行き渡る。そんな非民主化を夢想する政治勢力が僅かばかり抱いていた慎みをかなぐり捨てて大手を振る。なにをしても許される彼らにとって垂涎の事況が眼前にある。いや、あり続けてきた。〉
 さらに前稿「だいじょうぶだぁ」では、こう畳み掛けた。
 〈やおら緊急事態宣言に至った運びとは随分違うように受け取る向きもあるかもしれない。しかし振り返っていただきたい。専門家の意見も訊かず、今井補佐官と2人だけで謀った全国一律臨時休校要請の不如意。あの前非を悔いているにちがいない。ここは渋々の体(テイ)でいこう。強権のイメージ払拭だ。急いては事を仕損ずる。急がば回れ。〉
 だが、これは短慮だった。「翼賛という手法」があった。まことに賢人の言は重い。
 加えて、前稿では「インフルエンザとの対比から空騒ぎに警鐘を鳴らす」武田邦彦氏に触れた。
 〈多勢を誇る敵軍陣地への敵前上陸。孤軍奮闘に胸が痛む。マッドサイエンスでは決してない。エビデンスは明確、傾聴に値する。いや、聴くべきだ。〉
 そう書いた。確かに灰汁の強い異論、反論、オブジェクションである。しかし異論を鰾膠も無く排斥し単色化する社会は脆い。内田 樹氏の言を引こう。
 〈生物の進化というのは複雑化ということです。単細胞が分裂して、二つになり、四つになり、複雑な機能を備えた生物になる。個人の成熟もそれと同じことだと僕は思います。成熟というのは複雑化ということなんです。〉(「しょぼい生活革命」から)
 武田氏については評価が両極化するが、少なくとも「複雑化」の一ファクター・一アクターであるとはいえる。ひょっとしたら賑やかしかもしれないが、トリックスターも立派な「複雑化」の立役者だ。単色化された世の中よりもよほど健全だ。稿者の掛け金は文句なく武田氏に置きたい。武田氏の言説に基づけば、前稿で触れたさんまの「恋のから騒ぎ」を洒落て『コロナの空騒ぎ』といえなくもない。コロナの「騒ぎ」ならともかく、それに便乗する『空』騒ぎこそが騒ぎの核心的アポリアである。
 因みに、「新型コロナ」というのだから「旧型コロナ」もある。1960年代に発見されて以来、約8代に及ぶ。「新型」ではあっても、決して「新種」ではない。優に半世紀を超える付き合いだ。前稿では、ウイルスが生命の進化にとって不可避であるとの福岡伸一氏の重い言を紹介した。
 つまりは、首相や都知事の十八番「人類がコロナに勝利」するとの発言がいかに的外れで大言壮語か。緊急事態宣言の中で、首相はこう述べた。
 〈最も重要なことは、何よりも国民の皆さまの行動変容、つまり行動を変えることです。専門家の試算では、私たち全員が努力を重ね、人と人との接触機会を最低7割、極力8割、削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができます。〉
 「行動を変える」べきは誰か。官邸官僚との「接触機会を最低7割、極力8割、削減することができれば、」政治不信の「増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができ」るのではないだろうか。当然削減した7・8割は国民との「接触機会」に振り向ければの話だが。
 結びにポスト・コロナを予見する内田 樹氏の明察を引きたい。
 〈ポスト・コロナ期については「アメリカの相対的な国威低下と中国の相対的な国威向上」である。トランプ大統領は秋の大統領選という短期目標を優先して、米国の有権者以外、誰も喜ばない自国ファースト政策を選択した。一方、習近平主席は国際社会に「中国の味方」を増やすというもう少し先を見越した政策を選択した。軍拡や「一帯一路」への協力要請よりも、医療支援を通じて国際社会に中国に対する信頼を醸成することの方が安全保障上の費用対効果がよいということに中国は気がついた。米中のこの先見性の予測はポスト・コロナ期に予想以上に大きな影を落とすだろう。〉(AERA今週号から抄録)
 本邦トップリーダーによる場当たりの「先見性の予測はポスト・コロナ期に予想以上に大きな影を落とすだろう」ことは間違いない。

※勝手ながら後半部分を加筆、訂正し、併せて改題しました。 □


だいじょうぶだぁ

2020年04月07日 | エッセー

 昨年3月、福岡伸一氏の達見を徴しつつ「進化へのコピーミス」と題する愚稿を上げた。以下、要約。
 〈期間に諸説あるが、数年のうちには60兆の細胞はすべて新陳代謝される。そのつど遺伝子が受け継がれていくのだが、時としてコピーミスが起こる。すると、異常な細胞が生まれ増殖を始める。これがガンの起こりだ。
 だがコピーがノーミスであると、「生命にとって致命的なことが起こる」という。それは「進化の可能性が消えてしまう」ことだ。だから、「あえてコピーミスの修復を完璧には行わず、常にミスの可能性を残している」と。これは肺腑を衝く洞観ではないか。
 誤解と不遜を怖れずにいえば、進化のパイオニアである。未踏のフロンティアを征く魁である。しかし、それは常に命の遣り取りを伴う。だから、「進化という壮大な可能性の仕組みの中に不可避的に内包された矛盾」でもある。〉
 今月3日朝日への寄稿で、氏から再び「肺腑を衝く洞観」を供していただいた。もちろん、ウイルスについてである。以下、要約。
 〈(福岡伸一の動的平衡)ウイルスという存在 生命の進化に不可避的な一部
▼ウイルスは利他的な存在。
▼感染は宿主側が極めて積極的に、ウイルスを招き入れているとさえいえる。
▼進化の結果、高等生物が登場したあと、はじめてウイルスは現れた。
▼高等生物の遺伝子の一部が、外部に飛び出した。つまり、ウイルスはもともと私たちのものだった。それが家出し、また、どこかから流れてきた家出人を宿主は優しく迎え入れているのだ。
▼ウイルスこそが進化を加速してくれる。
▼親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。
▼病気をもたらし、死をもたらすこともありうる。しかし、それにもまして遺伝情報の水平移動は生命系全体の利他的なツールとして、情報の交換と包摂に役立っていった。
▼病気や死をもたらすことですら利他的な行為といえるかもしれない。病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。
▼根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない。〉
 特に、ウイルスが遺伝情報を【水平方向】に伝えているという部分は目から鱗だ。生き残りのためには多様性が不可欠であるし、それにもまして進化とは複雑化の謂なのだから。
 だから敢えていいたい。大騒ぎはよしとしても、抑えるべきは空騒ぎである、と。
  シェイクスピアによる『空騒ぎ』は誤解が生んだ騒動が氷解する喜劇だ。騒ぎの割に実入りがない教訓である。オーバーリアクションは無益であるとの誡めでもある。
 余談ながら、10年くらい前さんまをMCとしたトーク番組があった。中身は素人の独身女性を相手にした与太話であったが、「恋のから騒ぎ」という番組タイトルが洒落ていた。コロナショックの引き合いに出すのは不謹慎だが、駄じゃれで洒落のめすのも巷の知恵と聞き流してほしい。
 聞き流せないのが、武田邦彦氏による情報発信である。今、YouTubeを通じて盛んに行っている(「武田邦彦 コロナ」でググればたちまちお出ましになる)。インフルエンザとの対比から空騒ぎに警鐘を鳴らすものだが、最近はNHK批判を軸に論陣を張っている。多勢を誇る敵軍陣地への敵前上陸。孤軍奮闘に胸が痛む。マッドサイエンスでは決してない。エビデンスは明確、傾聴に値する。いや、聴くべきだ。比するに、イス一つ分を空けて鎮座し、聞いたふうな能書き異口同音に垂れるTVコメンテーター諸氏。なんと彼らが尻軽に見えることか。
 ついでに言っておこう。全国民一律ばらまきをスルーしたのは、かねてより否定してきたベイシックインカムに酷似するからだ。要請と保証はセットでの声を黙殺したのは社会主義の匂いを嫌うからだ。アンバイ君を支える右派が体質的に違和感を覚えるからだ。先月25日の拙稿「ジャメヴュ」で、
 〈なにより恐るべきは、このショックに付け込んだ強権的で独裁的な政治手法が露わになったことだ。トップの号令一下集団的統治が行き渡る。そんな非民主化を夢想する政治勢力が僅かばかり抱いていた慎みをかなぐり捨てて大手を振る。なにをしても許される彼らにとって垂涎の事況が眼前にある。〉
 と記した。やおら緊急事態宣言に至った運びとは随分違うように受け取る向きもあるかもしれない。しかし振り返っていただきたい。専門家の意見も訊かず、今井補佐官と2人だけで謀った全国一律臨時休校要請(先月3日「一寸の虫 8」で述べた)の不如意。あの前非を悔いているにちがいない。ここは渋々の体(テイ)でいこう。強権のイメージ払拭だ。急いては事を仕損ずる。急がば回れ。あのほとんどなんの効果もない布製の安マスクは垂涎を隠さんためか(あー、汚ネー)。
 東京五輪はいつの間にか「福島復興」から「人類がコロナに勝利した証」にすり替えられている。アンバイ君がそう打上げ、厚化粧さんも追随している。一体どういう了簡だろう。
 「根絶したり撲滅したりすることはできない。私たちはこれまでも、これからもウイルスを受け入れ、共に動的平衡を生きていくしかない」との碩学の叡智など耳に届かぬのか。今から5年も経てば、あの時のバカ騒ぎはから騒ぎだったと気づく時がきっと来る。不織布には目も呉れず布マスクで鼻先を空けて口を覆う不様な面容は、志村の“バカ殿”を追悼しているとしか映らない。そんなことより、呼ばわってほしいひと言がある。そう、『だいじょうぶだぁ』 □


この男、切腹拒否につき

2020年04月06日 | エッセー

 最終頁の中ごろに(了)の文字が視界に入った途端、残り五、六行が拭う端から流れ出る涙で読めなくなった。
  浅田次郎 「流人道中記」 上下(中央公論新社、先月刊)
 昨年は「天子蒙塵」の第五作目を心待ちにしていたのだがすっと躱され、代わりに掛けてきたのがこれだ。
 「道中記」か。稀代のストーリーテラーが易きに傾いだかと、疑念が過った。
 旅日記なら話は天こ盛りにできる。なにせ旅だ。脈絡を考えずに人物を繰り出し、起伏を踏まえつつ大小の変事を設えられる。当代随一の膂力を誇るこの作家なら朝飯前だ。すっと躱された手管をそう読んだ。
 しかし雲を抜く太山(タイザン)の頂が山裾からは見遣れぬように、下衆の勘ぐりは上衆(ジョウズ)の英邁には遥かに及ばぬものだ。読み進むうち、見事なドラマツルギーにわが浅慮は完膚なきまでに打ち砕かれた。
 物語は横軸と縦軸の不条理に別たれる。原文を借りよう。
 横軸とは
「貧乏は人を駄目にする」
 である。
 縦軸とは
「われら武士はその存在自体が理不尽であり、罪ですらあろう」
 であり、 かつ縦軸とは
「流人と押送人」であり、
 大団円での、その逆転である。
 中央公論新社の公式ツイッターには以下のように紹介されている。
 〈万延元年、旗本の上司大出対馬守の讒言により姦通の罪を着せられた旗本青山玄蕃に奉行所は切腹を言い渡す。だがこの男の答えは一つ。
「痛えからいやだ」。
 玄蕃には蝦夷松前藩への流罪判決が下り、押送人に選ばれた十九歳の見習与力・石川乙次郎とともに、奥州街道を北へ北へと歩んでゆく。口も態度も悪いろくでなしの玄蕃だが、時折見せる所作はまさに武士の鑑。親の仇を探し旅をする男、無実の罪を被る少年、病を抱え宿村送りとなる女……。道中で行き会う、抜き差しならぬ事情を抱えた人々は、その優しさに満ちた機転に救われてゆく。
 この男、一体何者なのか。そして男が犯した本当の罪とは?〉
 一昨年の七月から昨年九月、読売新聞で好評を博した連載小説である。浅田氏は同紙に次のような「連載開始の言葉」を寄せた。
 〈史料に残りえなかった歴史を書きたいと思い続けている。小説家にしか許されぬ仕事だからである。そのためには、残りえた史料をなるたけ多く深く読み、名もなき人々の悲しみ喜びを想像しなければならない。
 たとえば、流罪とされた者はどのように護送されたのであろうか。島流しでも所払いでもなく、預(あずけ)とされた武士はどのような手続きを経て、誰と、どこへ向かったのであろう。〉 
 「どこへ向かったのであろう」……。もちろん奥州街道最北端の寒村それ自体ではないだろう。武士の世が果てるところ、「横軸」と「縦軸」の不条理が糾われ新たな世の曙光によって包(クル)まれ出ずる歴史の切所ではなかったか。でなければ、背景に万延元年を撰ぶはずはなかろう。青山玄蕃とは、その切所に身を投じた一人格ではなかったか。「誰と」とは、縦横の不条理に容赦なく苛まれる石川乙次郎。押送人である以上、錆び付き朽ちかけた時代の核心・江戸に帰参せねばならない。ならば、石川こそ置き去りにされたも同然ではないか。「大団円での、その逆転」とはその謂だ。
 終幕、玄蕃はついに本心を吐く。                              
 〈「武士」とは何か、「家」とは何か、と。
 考えてもみよ、乙次郎。
 武士である限り、家がある限り、この苦悩は続く。すなわち、武士はその存在自体が罪なのだ。
 大出対馬守は敵ではなく罪障であった。しからば俺は、武士としてその罪障を背負い、武士道という幻想を否定し、青山の家を破却すると決めた。青山玄蕃の決着だ。〉(一部割愛)
 文字を掬せなくなった「残り五、六行」とは、これだ。 □