10年10月の本ブログ「あー、そこの君はどう考える?」から一部を引いてみる。
〓【教授】それぞれ、心臓、肺、肝臓、膵臓、腎臓の臓器移植を待つ5人の患者がいるとしよう。移植以外に生き延びる術はない。君は医者だとしよう。困った。と、隣の部屋で五体満足な男が居眠りをしている。さて、どうする?(場内、笑い) 彼から5つの臓器を取り出して移植するかい? そうすれば、1人の命と引き換えに5人の命を救うことができる。賛成する人は?
うーん、ほとんどいない。みんな反対なんだね。先程の質問、ブレーキの効かなくなった電車が工事をしている5人の所へ突進しようとしている。知らせる方法はまったくない。だが、手前に別の引き込み線がある。そこに入ることはできる。しかし、そこでも1人が工事をしている。君が運転手だとしたら、どちらにハンドルを切る? これには、賛否が分かれた。でも今度は反対する。2つの質問は、どこが違うのだろうか?
ほかに意見のある人は? あー、そこの君。どうだ?
【学生】ぼくは、5人の患者のうち1人が死んだら、その患者の残る4つの臓器を移植して4人を助けることができると考えます。
【教授】なるほど! 実にすばらしい考えだ。 …… ただし、1つだけ難点がある。君の意見が、私の哲学的な質問を台なしにしたことだ。(場内、哄笑)
この調子で授業が進む。教授とは、もちろんマイケル・サンデル=ハーバード大学教授。「白熱教室」(東大安田講堂で)の一齣だ。〓
『白熱』に火照りながらも、後半部分で抗ってもみた。以下、抜粋。
〓流暢な英語での受け応えは、さすが東大生であった(一部は日本語)。かつ、堂々としている。レスポンスも速い。しかし、内容に若干の未消化が残る。
前半の設問については、「正義」が舶来の概念である点が不問にされている。司馬遼太郎を引こう。
◇裏切りと寝返りというのは、キリスト教国に育ったひとびとが日本史を理解する上で、解釈にくるしむところであるらしい。ただ歴史の上からみれば、裏切りや寝返りという行為は、対決が激化するとき、一種の生態的な調整作用に似た働きをして、流血の量をよりすくなくした、ともいえなくもない。◇( 「街道をゆく」18 越前の諸道 から)
西洋でいう“不正義”が、「一種の生態的な調整作用に似た働きをして、流血の量をよりすくなくした」という価値観が存在しうること。これは、次元の異なる観点の提示となる。
また、宋学、儒教における五常の「義」 ―― 欲望を追求する「利」との対立概念 ―― から「収入の格差自体は不公正」か否かを捉えてはどうか。そこから東西思想の比較へと思索は深まるかもしれない。あるいは、
◇世間と思想は補完的だ。世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなる。私は、「反対語」という、ありきたりの概念はよくないと思う。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。それを「欧米には立派な思想があるが、日本にはない」と思うのは勝手だが、おかげで自虐的になってしまうのである。◇(養老孟司 著「無思想の発見」から)
との炯眼を踏まえれば、より本質的な意味で「わたしの哲学的な質問を台なしに」する応じ方があったのではないか。
せっかくの東洋世界での講義である。サンデル教授の土俵をひっくり返すとまではいかなくとも、大揺れに揺するぐらいの対応、ないしは反抗を期待したのだが …… 。断っておくが、講義のテーマは事前に判っていたのだし、ハーバードでの教室はつとに有名なのだから準備はできたはずだ。〓
あれから2年半。「わたしの哲学的な質問を台なしに」どころか、根刮ぎにする言説に出会った。内田 樹氏だ。それは、岡田斗司夫氏との対談集「評価と贈与の経済学」(徳間書店、本年2月刊)の中であった。(以下、同書から)
内田:真の勝者は誰か? よく聞かれるんです。「危機的状況を乗り越えるために正しい選択をするにはどういう能力がいるんでしょう?」とか。でも実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れなんですよ。AかBのどちらかを選んだら生き残る、どちらかを選んだら死の、というような切羽詰まった「究極の選択」状況に立ち至った人は、そこにたどり着く前にさまざまな分岐点でことごとく間違った選択をし続けてきた人なんだから。それまで無数のシグナルが「こっちに行かないほうがいいよ」というメッセージを送っていたのに、それを全部読み落とした人だけが究極の選択にたどり着く。「前門の虎、後門の狼」という前にも進めず、後ろにも下がれずという状況に自分自身を追い込んだのは誰でもない本人なんだよ。
岡田:ぼくも講演会で「どうやれば決断力が身につきますか」って聞かれたときに、 「決断を迫られてるのはもう負け戦だから」って答えています(笑)。
内田:ほんとにそのとおり! 正しい決断を下さないとおしまい、というような状況に追い込まれた人間はすでにたっぷり負けが込んでいるの。
サンデル教授に「こっちを選ぶと五人死んで、こっちを選ぶと一人死ぬ、さあ、どちらを選びますか?」っていう問題があったけれど、そういう決断をするように追い込まれるってことは「間違った決断」を連続的に下し続けてきたことの結果なんだよ。それは「問題」じゃなくて、「答え」なの。そんな決断しかねる窮地に直面するはるか手前で、そういう羽目に陥らないようにするために、何をしたらいいのかを考えなくちゃ。「いざ有事のときにあなたはどう適切にふるまいますか?」という問題と、「有事が起こらないようにするためにはどうしますか?」という問題は、次元の違う話なんです。
岡田:自分の二人の子どもが溺れてしまった。男の子と女の子どっちを助ける? そんなことになるなら湖に行くなって(笑)。
内田:たぶんアメリカ人には危機的な状況を「予防」するっていう発想が乏しいんだと思う。国民文化として。「すでにトラブルが起きた」というところから話がはじまる。では、こういうときにどういうふうにふるまうのが適切でしょうか、というケーススタディは実に熱心に行うし、そういうときの反射速度はめちゃめちゃ速い。でも、そもそも「どうすればトラブルが起こらないようにできるか」ということには知恵を使わない。例えばWTCのテロのあと、アメリカは手際よく軍事的なリベンジを果たしたわけだけれど、そんなことに手間暇をかけるくらいなら、どうして「アルカイダをテロにまで追いつめないためにはどうすればいいか」について知恵を惜しんだのか。そっちのほうが予算的にも何万分の一で済む話でしょ。いつも強気で相手を責め立てて、窮鼠猫を噛むところまで追い込んで、反撃されると危機的状況に巧みに対応できる反射神経を誇る。これってもう「アメリカの病気」なんだと思う。銃もそうでしょ。「誰かが銃で脅してきたらどうする」からはじまるわけで、人を銃で脅しておのれの欲望を達成しようとするような利己的なマインドはどうすれば抑制できるかということにはまるで手間暇をかけない。
さすが、というべきか。決してナショナリスティックな意味合いではなく、なんだか一種の爽快感を覚える。やっぱり内田先生のモンだ。合気道の間接技のような決まり具合だ。
──実は、そんな問いをしている時点でもう手遅れ
「究極の選択」に立ち至った人は、間違った選択をし続けてきた人
それは「問題」じゃなくて、「答え」
次元の違う話
アメリカ人には危機的な状況を「予防」する発想が乏しい──
どうだろう、この切れ味は。問題ではなくてそれが答えだ、には快哉を叫びたくなる。もちろんサンデル教授の意図は、「究極の選択」を迫ることで哲学的思索に誘(イザナ)うことだ。その手法は斬新で高い評価に値する。しかし「次元の違う話」なのだ。
どう「違う」のか。内田氏は危機への対処と予防の違いを言っているのだが、穿てばもう一つ違う。想像するに、前記の教授の意図を踏まえると、内田氏のオブジェクションを筋違いあるいは横紙破り、もしくは茶化しだと感じる向きがあるかもしれない。実は、そこだ。
サンデル教授の主題は「正義」であり、内田氏のそれは「勝負」なのだ。氏の言説に「生き残り」という語句が頻出するのは、何よりの証憑である。少し飛躍すれば、仏典に登場する「毒矢の喩え」(毒の成分を知ることより、先ず矢を抜け)にも通底する。
教授になくて内田氏にあるもの、それは武道家の感覚、勝負感ではないか。なにより合気道は敵をつくらず、敵を無力化することを目的に掲げる。となれば、教授の設問に対する最も率直で最もふさわしい解は内田氏の言ではないか。だから、上記の「哲学的な質問を台なしにした」学生の回答もあながち捨てたものではない。現場感覚のある、当を得たソリューションといえなくもない。むしろ類型的には現に実行されているのではないか。だから、そのまま往(イ)なしたのは残念だった。うまくいけば、次元の違いが明らかになったかもしれない。ただし、教室は白熱どころか鼻「白」んだであろうが……。
2年半の隔靴を終えて、やっと直に掻痒できた。 □