伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

キケンな本

2006年08月24日 | エッセー
 わたしは鰻が好きではない。恒例に従って年に一度だけ、土用の丑の日に食す。たしかに旨い。旨いが、あくる日も食う気にはならない。次は来年だ。
 おしなべて川魚はだめだ。なによりあの特有の臭いが耐え難い。鰻は、こってりのタレで鼻を騙し舌をごまかして一気に食う。鮎もだめ、山女もだめ、どじょうなどはもってのほかだ。川魚に舌鼓を打ったことなど一度もない。鰻以外は食ったことがないのだから。
 先日、知己からある本を無理強いされた。拙宅まで持参して、「読め」と言う。「直木賞」系統の作家は読まない、と訳もなく決めていた私は戸惑った。しかし、厚意を無下にすることもできない。しぶしぶ開いて、目を落とした。これがいけなかった。
 1章目を読んだところで、ふと我に返った。「これは彼に返すわけにはいかない」本屋に直行し、同じものを買って本棚に収めた。読み続けたのは、もちろん借りた本である。
 おもしろい作家だ。自らを、高卒マイノリティーと宣言し、世にも珍しい体育会系作家を自認する。自衛隊で心身を鍛え、マルチ商法で潤い、取り立て屋で鳴らした。小説よりも奇なりの半生を歩んだ人物である。
 小説よりも奇なる事実を綴るには相当な筆力がいる。下手をすると、小説以下に身を落としてしまう。外連味芬芬の毒気をまき散らす駄文との、紙一重の勝負だ。ところが、この遅咲きの作家は白刃をかいくぐり見事な戦勝を刻んだ。
 これほど自虐に巧みな作家を知らない。この本は、自虐のオンパレードでもある。ストリーキングの話が出てくるが、なにあろう、この著作自体がストリーキング・エッセーである。よほど捨て身でかからねば、こんな芸当はできるものではない。ただし、自虐はあっても『他虐』はない。寸毫もない。だから読める。だから面白い。
 かつ、この手にありがちな斜に構えたところがない。拗ね者の繰り言がない。極めて論旨明晰、主張は素直の一語に尽きる。そして驚くなかれ、経歴からは想像し難いのだが、かなり純な「平和主義者」である。そういう作品もいくつか物にしていると聞く。
 さて、表題「キケン」について。私は自室で読んだから難を免れたが、人前、人中、人込み、特に電車の中などでこれを読むことは「キケン」この上もない。本能に負けて抱腹絶倒しては、あらぬ誤解を受ける。『アブナイ』人が正体を隠すために本を読む振りをしている、ととられて通報されるかもしれない。逆に、本能に逆らって笑いを堪えては、身体に異常を来す。排便、放尿、放屁、ゲップの類いと同じで、出すべきものを囲い込むとロクなことはない。(なんか、この物言いは伝染の兆しあり)必ず自宅で、しかも家人を遠ざけて読むことをお勧めする。いや、断乎、主張する。
 斎藤孝氏が著作の中で次のように述べている。
―― 「ノンフィクションは読むがフィクションは読まない」「クラシックは好きだけれど歌謡曲はダメ」というふうに、ジャンルで好き嫌いを言わない。どんなジャンルでも、頂点の人たちを見ていくと、胸にくるものがある。浪曲も「広沢虎造はいいな」と楽しむことができる。頂点をなすものは、ジャンルの高級低俗にかかわらず楽しい。「そういうのは興味ない」と排除して狭めていくのではなく、受け入れる。すると好きなものは広がっていくのである。どんな領域であれ、いちばんいいものは尊重することだ。オリンピックレベルになると、たとえマイナー競技の選手でも、トップにはそれなりのきらめきがあるものである。世界を広げていくために頂点のものを知っていくと、目が開かれていく。 ―― (光文社新書「座右のゲーテ」から)
 やはり、食わず嫌いは身のためにならぬか。えい、やっ! と、気合で食えば、川魚の旨さが解るようになるであろうか。なにも海の魚が「芥川賞」で、川魚は「直木賞」だ、などと言っているのではない。こころが震えれば、どちらも同じだ。海魚であれば刺し身は滅法好きだが、光り物の刺し身はノーサンキュー。鰻は苦手だが、穴子には目がない。焼き肉は大嫌いだが、すき焼きは大好きだ。論理一貫しないこの偏食が人格に偏向をもたらしてきた。あるいはその逆か。先妣の小言が聞こえる。「好き嫌いしないで、なんでも食べなきゃーダメだよ」
  ―― 浅田次郎 著「勇気凛凛ルリの色」(講談社)を読んで。  3年2組 団塊の欠片。□

DOGは『いぬ』と読む?

2006年08月20日 | エッセー
 まず、以下をご一読願いたい。
 ―― 漢字が日本に入ってきてから数百年の間に、それを日本語を書きあらわす文字として使うために、日本人はいくつもの加工をほどこした。まず、漢語をそのままとりこみ、日本語のなかにまぜて使った。これは、いまの日本人が日本語のなかに西洋語をまぜて使うのとおなじことだ。つまり、「天」とか「仁」とか「礼」とかの単語、あるいは「学校」とか「教育」とかの複合語を、そのままの形でもちいたわけである。つぎに、漢字を、その意味によって直接日本語で読むことにした。たとえば「山」という字、これを音でサンと読んでいたのであるが、この字の指すものは日本語の「やま」に相当すること明らかであるから、この「山」という漢字を直接「やま」と読むことにしたのである。これは相当奇抜な所業であり、また一大飛躍であった。みなさんは、「山」という字を「やま」と読むのはアタリマエと思っていらっしゃるから、それを奇抜とも飛躍ともお感じにならぬであろうが、ここに mountain いう英語がある。これはマウンテンとよんで山のことだとみなさん習っていらっしゃるだろうが、英語の mountain を直接「やま」と読むことにしよう、dog を「いぬ」と、cat を「ねこ」と読むことにしよう、となったら、これは相当奇抜で飛躍的でしょう。そういう大胆な、見ようによってはずいぶん乱暴なことをやった。ただし、dog を「いぬ」、cat を「ねこ」と読むことにして、dog,cat の本来の読みを捨ててしまったわけではない。それはそれで、ドッグ、キャットとして受け入れた。話を漢語にもどすならば、「犬」を「いぬ」、「猫」を「ねこ」と読むことにしたけれども、「犬」は「ケン」、「猫」はべウ(ビョー)という本来の読みも保存したわけだ。そこでこの両者を区別して、「ケン」のほうを「音」とよび、「いぬ」のほうを「訓」とよぶ。「音」というのは「その字の発音」ということ、「訓」というのは「その字の解釈、意味」ということである ―― (「漢字と日本人」高島俊男 著 文春新書)
 日本人は創造性はないが模倣と応用には優れる、とよく言われる。三大発明にはじまって、人類益に供するほどの発明を日本人はなしたことがない。ただ、受容の独創性というものがあるとすれば、「訓読み」こそはそれであろう。筆者は「奇抜な所業であり、また一大飛躍であった」と述べているが、私に言わせれば『世界に冠たる歴史的大発明』である。ちなみに、朝鮮では漢字はすべて音読みとして受容している。
 漢字を取り入れたことで、日本人は思考の幅を一気に広げた。抽象的な概念を苦もなく表現できるようになった。「仁」はモノではない。孔子の独創になるこの倫理は和語では手に余る。さらに、訓読みが日本語をどれほど豊かにしたことか。送り仮名までつけて日本語に同化させてしまった。外来の言語を自国文化にソフトランディングさせる。この一大文化事業を、いにしえの先達は実に巧みにかつ見事に成功させた。「いぬ」を捨てれば、たちまちに日本語は萎える。「古池や蛙飛び込む水の音」。「かわず」ではなくて、「ケイ」では体を成さない。つまりは、和語をかなぐり捨てては日本文化は窒息してしまう。取るか、捨てるか。二者択一ではない、双方とも活かす日本人の珠玉の知恵だ。 
 漢字の導入には副産物もある。同音異義語の山だ。日本人生得の発音癖によるものでいかんともしがたい。中国人のように複雑な発音ができないのだ。当然、聞き分けもできない。同じ音に聞こえる。「小・少・庄・尚」すべて違う発音なのに、日本人にはどれも「ショー」に聞こえた。だから山になった。
 しかしこれとても、負の遺産ではない。学者によると、日本人は外国人に比して脳を2倍使っているそうだ。日本人の脳は仮名読み部分と漢字読み部分を別々に持っている。同時に二つの言語を操っているようなものだ。巧まずして『脳トレ』になっている。
 先述の「文化大事業」、明治期にも行われた。洪水のような洋才の流入である。和語はもちろん、漢語にもない。創るしかなかった。フィロソフィーは「哲学」に化けた。「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」などなど、大量に生産された。「歴史」や政党の「党」などのように、中国へ逆輸入されたものもある。「文明開化」には先人の奮闘が裏打ちされている。
 そして、現代 ―― カタカナ語の氾濫が指摘されて久しい。昨今はカタカナどころか、生な横文字が溢れている。大滝秀次ではないが、「お前の話はつまらん!」となる。だが、これはやむを得ないことかも知れない。グローバル化のスピードがかつてとはまるで違う。
 グローバル化を冗談めかした定義がある。ダイアナ妃に事寄せて ―― 「英国のプリンセスは、エジプトのボーイ・フレンドと一緒に乗っていたドイツ製ベンツがフランスのトンネルのなかで壁と衝突、事故死を遂げた。原因は、日本製のホンダに乗って追っかけてきたイタリア人のパパラッチを避けようとして、スコッチ・ウィスキーを飲んで運転していたベルギー人のドライバーが、スピードを出しすぎたからだ。アメリカ人の医師がブラジル産の医薬品を使って、緊急手術を行ったが、遂に亡くなった。そのニュースをIMBクローンのパソコンと韓国製のモニターからマイクロソフトのウィンドウズを開き、台湾製のマウスを使って読んだネチズンは、オランダ産の花をインターネット・ショップで注文して、お葬式に贈った」これは余談。
 さらに、英語の浸透もある。適切な訳語がなく、そのまま使った方がニュアンスも誤りなく伝わる、ということもある。日本人のお家芸を繰り出す間もないのだ。フィルターなしで直に流入している。洋画でも、味のある邦題はとんと消えた。ほとんどがそのままのタイトルだ。
 なにはともあれ、米国より先に中国の知遇を得たことは日本にとって幸いであった。逆であったら、DOG は音読み「ドッグ」、訓読み「いぬ」となっていたことだろう。わが家にはことし年男の柴犬がいる。私がこの世で唯一わがまま勝手に振る舞える相手であり、意に逆らえば蹴飛ばすことのできるたった一つの存在である。音読み「ドッグ」なら、奴は柴『ドッグ』か。はたまた、「柴」は音読みで何だ? 難儀なことである。□

たかがジャンケンと言うなかれ!

2006年08月14日 | エッセー
 書評などとは分を超える。紹介をさせていただく。 ―― 「ジャンケン文明論」新潮新書(2005年4月 初版)。著者は、李 御寧(イー・オリョン)<梨花女子大名誉教授・韓国初代文化相>。少し古いが、おもしろい本だ。こんな秀作を自分だけで楽しんでいたのでは、慳貪の責めを免れまい。もちろん、お読みになった方にとっては大きなお世話だが。
 「切符『売り場』」はおかしい! と、いきなり切り込んでくる。ツカミはOKだ。客からすれば『買い場』でなければならぬ。「教室」も「教科書」も同じ。生徒が主体のはずだ。「学室」であり、「学科書」と呼ぶべきだ。主客が逆さまになっているのに気づかない。 ―― 虚を突かれた、心地よい衝撃を覚える。
 返す刀で西洋流のパラダイムに切り込んでいく。「エレベーター」。英語の意味は「上げる」。これはおかしい。ネーミングにはパラダイムが忍んでいる。当然、エレベーターは降りる。「昇る」だけをメイン・コンセプトにし、「降りる」をネグレクトした西洋文明のパラダイム、二項択一の二元論の歪さを見抜いていく。
 「エレベーターの文明コードでは、葛藤と革命の激しい闘いが、永久に繰りかえされるしかない。むしろそのほうが歴史を発展させるエンジンとみられ、調和と融合はかえって文明の停滞を起こすブレーキ装置のように思われる。」卓見である。鋭い洞察である。
 ものごとを決める時、西洋ではコインを投げる。二つに一つだ。アジアではジャンケンをする。三つに一つ、とはいかない。勝負はつねに相対的だ。 ―― 「石は鋏に勝ち、鋏は紙に勝ち、紙はまた石に勝つ。金、銀、銅のメダルのような垂直的階層構造とは異なった丸い形の循環構造になる。一人勝ちも、一人負けもない。『三すくみ』の力関係では、絶対的に強いものは存在しない。」これが、本書のメイン・コンセプトである。ジャンケンはアジア的叡知の象徴として取り上げられる。
 「『三すくみ』の力関係」とくると、諸葛孔明の「天下三分の計」を彷彿させる。21世紀はBrics(ブラジル・ロシア・インド・中国)の時代と言われる。アメリカの名はない。超大国・アメリカとて永遠ではない。栄枯盛衰は歴史の定めだ。いま、アメリカの知性のトップたちは、次の世界秩序へのソフト・ランディングを模索しているという。ローマ帝国の興亡は貴重な教訓となる。塩野七生おばちゃんの出番かもしれない。この方、なにせカイザルと『想像結婚』された凄腕。並の学者ではない。これは余談。
 「東のジャンケンと西のトッシング・コイン ―― 物から人へ、実体から関係へ、択一から並存へ、序列性から共時性へ、極端から両端不落の中間のグレイ・ゾーンに視線を換えると、暗い文明の洞穴の迷路から、なにか、かすかな光が見えてくる。」トッシング・コインが表徴する西洋の文明コード=実体・択一・序列性・極端からアジアのそれへ。関係・並存・共時性・中間。著者はそこに文明の隘路からの脱出を探っていく。
 韓国きっての知日派だけあって、日本文化への該博ぶりには舌を巻く。特に次の一節、「近代産業文明ではノイズは妨害者であり、不安な不招客である。だがジャンケン・コードの文明では、逆にノイズを取り入れることによって、自分を乗り越える。バイオリンの音はノイズを切り取って美しい音の必要な部分だけを残すが、日本の琴や韓国の伽耶琴の音は、自然にノイズを含めるように仕掛けられているのが特徴になっている。筆とペンを比べてみれば自明なことだ」。どうだろう。胸のすく展開だ。掠れや墨の飛沫、濃淡は書の味わいだ。ペンが掠れたら、取り替えるしかあるまい。私はこういうのに弱い。恍惚だ。かといって、小学校以来、筆を握ったことはないが。
 ジャンケンへの奥深い探求、そこからの縦横な広がり。書きすぎると新潮社への営業妨害になる。ただもう一つ、これだけは。
  ―― 文化とはノモス(法律・制度)の世界とは違って、政治イデオロギーの国の手では止められない。「韓流」は、体制が違う中国にも先進国のトップに立つ日本にも流れていく。韓国は二〇〇四年に入って、日本の大衆文化にたいして全面開放を宣言し、日本では『冬のソナタ』が空前のヒットになり、韓国のテレビ・ドラマや映画などの「韓流」が猛烈な勢いで茶の間に流れ込んだ。今までの世界の大衆文化の流れは、ハリウッドとシリコン・バレーが手を組んだシリウッドであった。日本であれ韓国であれ、その中身を覗くと、せいぜいハリウッドのアジア・バージョンと言われてきた。だが冬ソナや、『チャングムの誓い』(テジャングム)はハリウッドものはいうまでもなく、日本、韓国のトレンディ・ドラマでも見られないものだ。とくに冬ソナはベッド・シーン一つも見当たらない純愛ストーリーだ。だから冬ソナのパワーは古いアジアの心に残っていた、文化遺伝子が目覚めさせたものとしかいえないものだ。幼い子供を失くしたときは、「とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら」とうたい、夫を失ったときは「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」と悲しんだ千代女の涙は「ハン(恨)五百年」を歌う韓国の心と同じものだ。よく「失われた十年」と言っているが、それに比べるとその十倍もの長いあいだ失われた百年の脱アジア時代があった。今ようやく古いアジアにもどり隣人の心とふれあうと、もう玄界灘の高い波は存在しなかったのだ。ハリウッドの映像と音では埋めることができない空虚の中に流れ込んだのがつまり韓流だということだ。「ヨン様」の顔は、きめ細かく清潔さがあり、「きれい」だ。線が太く荒削りの韓国型というよりは、日本タイプだといえる。変な話だが、日本の俳優にはあまり見られない「日本型」の顔だ。雰囲気からは礼儀ただしい人、ファンを家族と呼んでいる儒教のふるさとの人だ。つまりアラン・ドロンはあまりに遠く、木村拓哉はあまりに近い。日常性と幻の真ん中にヨン様とジウ姫が現れたのだ。長い間日本人は、西洋にたいしては劣等意識をいだき、アジアの周辺の人たちには優越意識をもって差別してきた。冬ソナの「韓流」は、この二つのコンプレックスの霧をみごとに吹っ飛ばした、ということだ。 ――
 「ヨシ様」に狂奔するオバタリアン。わが家にも一人いる。いつも睡眠薬代わりにテレビをお使いになるのに、なぜか、どーゆう訳か、韓流ドラマに限っては、一睡もなさらない。ブラウン管を穴が空くほど凝視なさるのである。深夜だというのに。
 ということもあり、私は「韓流」に辟易し懐疑的であった。半分は嫉妬も入っていたのかも知れない。なにせ「ヨシ君」、かつての私の面立ちによく似ている。とは、衆目の一致するところだ。ともかく、この論考は頂門の一針であった。
 ジャンケンから「ヨシ様」まで。実に面白い本である。まだの方、是非ご一読あれ。□

夏、祭りのあと

2006年08月09日 | エッセー
 祭りは夏だ。四季にわたるとはいえ、やはり夏だ。地を焦がす熱は高揚をいやまして煽り、宵闇を抜ける一陣の涼風は汗ばんだ体を撫でる。この季節の猛りと、時として見せる優しさが祭りにはふさわしい。
 歳月が棒のように伸びた日常の繰り返しなら、人は定心を失うにちがいない。どこかにアクセントを入れねば、凡人には耐え難い。節を刻みながら竹が伸びるように。褻事(ケゴト)を脱し晴れ事に参画するのが祭りだ。
 しかし、日常ならざることに祭りの属性がある以上、やがてそれは終焉を迎える。でなければ、人の世が成り立たぬ。

 岡本おさみは詠った。
              「祭りのあとの淋しさが
               いやでもやってくるのなら」
                        (「祭りのあと」作曲:吉田 拓郎 1972年)
 詩人は祭りそのものではなく、祭りのあとに目を凝らしている。祭りと向き合うのは、いつも祭りのあとだ。
 旅も、日常を離れることにその属性があるといえる。
 だから、「襟裳岬」でも
              「日々の暮らしはいやでも やってくるけど
               静かに 笑ってしまおう
               いじけることだけが 生きることだと
               飼い馴らしすぎたので
               身構えながら 話すなんて
               ああ おくびょう なんだよね」
                  (作詞:岡本 おさみ/作曲:吉田 拓郎 1974年)
と、おなじ言葉で受けている。詩人の目は旅のあとに向けられる。
 そうだ。「いやでもやってくる」 ―― 。祭りのあとには淋しさが、旅のあとには日々の暮らしが。
 祭りのあとは「たとえば女でまぎらわし」、旅のあとは「静かに笑ってしまおう」。そこには寂寥と向き合う二人のおとこがいる。ふたりはやがて化身し、ひとりの吉田拓郎となる。
 この2曲の間はわずか2年でしかない。奔流のような2年が偲ばれる。祭りのあとになにがあったか。おとこは激流に抗って泳ぎきったにちがいない。傷を負いながら、現世(ウツシヨ)の年輪を刻んだに相違ない。でないなら、この2曲の移ろい、つくりごとにしても出来すぎだ。
 醍醐味は、祭りのあとにある。

 ≪祭りのあと≫ 
祭りのあとの淋しさが
いやでもやってくるのなら
祭りのあとの淋しさは
たとえば女でまぎらわし
もう帰ろう もう帰ってしまおう
寝静まった街を抜けて

人を怨むも恥ずかしく
人をほめるも恥ずかしく
なんのために憎むのか
なんの怨みで憎むのか
もう眠ろう もう眠ってしまおう
臥待月の でるまでは

日々を慰安が吹ぎ荒れて
帰ってゆける場所がない
日々を慰安が吹き抜けて
死んでしまうに早すぎる
もう笑おう もう笑ってしまおう
昨日の夢は冗談だったんだと

祭りのあとの淋しさは
死んだ女にくれてやろ
祭りのあとの淋しさは
死んだ男にくれてやろ
もう怨むまい もう怨むのはよそう
今宵の酒に 酔いしれて

いわゆる一つの宗旨替えか?

2006年08月02日 | エッセー
 私には数十年来の持論がある。ある意味で、持病でもある。「巨人解体論」だ。荒唐無稽と嗤うことなかれ。深くプロ野球を愛すればこその主張だ。 
 2003年にスト騒動があった。10月、終生深く敬愛して止まない先輩から手紙が来た。ジャイアンツ・ファンを辞めるとの宣言であった。早速、返事を送った。以下、その一部である。

 ―― ―― まずは、おめでとうございます、と祝辞を送ります。ジャイアンツ・ファンをお辞めになったこと、慶賀の至りです。夢想から覚めて、やっと正気にお戻りになったわけです。これほどの慶事はありません。
 むかし、「巨人・大鵬・卵焼き」と言いました。知的レベルの低い種族をこのように揶揄、もしくは叱咤したのものです。しかし「大鵬」は消えて久しく、すでに歴史上の人物。卵も最近は値崩れして至極当たり前の食材となり、「卵焼き」なぞガキだって見向きもしません。だがただひとつ、「巨人」だけがしぶとく生き残っているのです! 淘汰の法則を嘲笑うかのように。
 これは、まったく自然界の法則に反します。天に唾するものです。こんな理不尽なことが許されてよいものでしょうか。この世に正義はないのか。神は、仏はいないのか。アラーだって、『あらー』って嘆くこと必定です。
 プロ野球を体のいい『できレース』にしたのは、どこのどいつですか。1強11弱とかなんとか、他の11球団をテメーんとこのファームにしちまったのは、どこのどいつですか。「最後はあのユニホームを着たい」などとほざく脳タリンを、バナナのたたき売りならぬ、たたき買いしたのは、どこのどいつですか。とどのつまりは、日本のプロ野球をまとめて大リーグのファームに成り下げてしまったのはどこのどいつですか。
 金に糸目をつけず、時にはルールの網を巧みにすり抜け、すり替えて(江川某などというのがいましたね。今はタレントの合間にわけの分からない解説なぞをやっていますが……)傍若無人な球団運営をしてきたのは、どこのどいつですか。潤沢な資金にものをいわせ、いい選手ばかりを買い揃えて勝ちまくる ―― 青少年に拝金主義の悪習を無形の内に植え付けたのは、どこのどいつですか。「寄らば大樹の陰」 ―― 大企業や有名学校、はては大政党、大都市などなど、日本人から独立独歩の気風を奪い去ったのは、どこのどいつですか。
 いま、はっきりと言いましょう。私は「アンチ・ジャイアンツ」なのです。それも年季の入った、筋金入りの、体質化した、もう完全に生理として ―― 。ですから、あのチームが勝った日には食欲が落ちるのです。連勝すると頭痛がするのです。3連勝でもした日には寝込んでしまうのです。
 唐突ですが、白状します。長嶋は好きです。自己撞着ですが、敢えて言えば「罪を憎んで人を憎まず」ですか。愛すべき人です。それだけに、あのチームの巨悪を隠してしまった不作為犯としての責めは負うべきですが……。
 好きだっただけに、あの一言を耳にした時には、怒り心頭でした。裏切られましたね。マウンド上での引退の挨拶 ―― 「長嶋は去っても、巨人は永遠に不滅です」。耳を疑いましたね。やっぱり、あの人も汚染されていたのか、とね。明があれば暗があるのですよ。あのチームがどれだけ他人の犠牲の上に、みずからの栄達をほしいままにしてきたことか。千年の恋も一気に冷めました。これでは、「罪を憎んで、人も憎む」です。
 ここいらで、少し落ち着きましょう。なにせ、あのチームの話となると、正義感の強いボクは冷静でいられなくなるのです。深呼吸をして、……と。
 大事なことは、近視眼でもなく、遠視眼でもなく、正視眼。マクロのスパンを持ちつつ、ミクロの視点も忘れない。そういうスタンスです。
 文中、「屈辱的なシーズンに耐えたファン」とありました。これ、『巨人病』の症例です。「屈辱的」と感じるのは、自らをもって尊しとする夜郎自大のゆえです。なぜ、自らを相対化する謙虚さをもてないのか。全解説者が優勝予想のトップにあげていたにもかかわらず、また子どもでも分かる秀抜な戦力をもちながら優勝を逃したのは、いつにかかって監督の非力、非才、無能のゆえです。それ以外のなにものでもないのです。そのように事実を事実として冷厳に押さえておくことから始めないと、パラノイアが情に任せて言葉らしきものをまき散らしているだけになってしまいます。
 原監督の「辞任」か「解任」かをめぐる分析はジャーナリステック・レベルでは面白いかもしれませんが、所詮は「高崎山」のイザコザ程度のこと。猿の世界に人間界の写し絵を見る生物学的趣向の域を出ません。「サルだって反省するのだぞ」と言えば、多少の教訓にはなるかもしれません。群れから追われたサルは、一生片隅で生きていくのです。原が本当に「潔い」のなら、某グループから去るのではなく、球界から去るべきです。
 私の持論は「巨人解体」です。あそこの選手を他球団に分けて、一リーグにする。これこそ、日本プロ野球再生の直道です。夢想ではありません。これしか生き残る道はないのです。―― ――

 3年前である。またしても、原である。またしても、同じ雲行きである。勝てないのだ。長嶋さんでも、「アイム 失礼、失敗は成功のマザー」とは言わないだろう。「メイクドラマ」どころか、「メイクミラクル」でも「ミラクルアゲイン」でも起こらないことにはどうにもならない。まったく惨憺たる低迷だ。本来の意味で、プロ野球を面白くないものにしている。より多くのチームが混戦を繰り広げる。これが面白いのだ。本当に罪な球団だ。
 だから、私の年来の主張も危うくなってきた。解体は不要ではないか。 ―― 金持ち、必ずしも勝者ならず。戦力、必ずしも勝敗の鍵ならず。セレブリティー、必ずしも実力にあらず。盛者は必衰。これは、是非とも青少年に伝えたい価値観ではないか。現代社会への強烈なアンチテーゼではないか。
 かつて、長嶋さんが原に打撃の指導をした。「腰をグーッと、ガーッとパワーで持っていって、ピシッと手首を返す」「ビューと来たらバーンだ」。天才の技が言葉になるはずがない。だから、ナガシマ語で表現するしかない。しかし驚くことに、原の「極意ノート」にはこの発言がそのまま書かれていたという。原の純朴を讃えるべきか。愚鈍を哀れむべきか。いずれにせよ、世の中には言葉にならない何かがあることを教える話だ。若い世代に伝えたい、『いわゆる一つの』逸話ではないか。 解体論から解体不要論へ。いな、存続論へ。ここらで、宗旨替えでも考えようか。アイム 失礼! □