伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

太鼓持ちの目が泳いだ

2019年05月30日 | エッセー

 今月27日、迎賓館で日米首脳会談が開かれた。冒頭長い挨拶を交わした後、大統領は日米貿易交渉について「おそらく8月に両国にとって素晴らしいことが発表されると思う」と発言。その時だ。首相の目が泳いだ。虚を突かれたような表情を浮かべ、刹那天井を見上げると暫く瞬きを何度も繰り返した。
 今回の幇間外交の全てが凝縮された一齣であった。
  先月末ホワイトハウスで行われた日米首脳会談では、5月下旬の訪日を念頭に「(貿易協定交渉は)順調に進んでいる。訪日までに合意することも可能だ」と大統領は語っていた。その「訪日まで」が「5月下旬の訪日」にずれ、さらに今回8月までのモラトリアムを与えられたというわけである。前日、大統領はツイッターに「7月の選挙まで待つ」と書き込んでいた。しかも election にSが付いて elections となっていて、衆参ダブル選を勘ぐった面々もいた。ツイッターなら私的な呟きで済ませられるが、先の発言は公式な場でのそれである。ゴルフに大相撲、炉端焼きに宮中晩餐会などなど、下にも置かぬおもてなし、大盤振る舞い(一説には2500億円とも)のとどのつまりがこれである。TVのワイドショーなら、雛壇全員がフロアめがけてずっこける場面だ。
 これが事前に官邸が危ぶんでいた“トランプ爆弾”かもしれない。側近は火消しに躍起となったが、本来ならこのモラトリアムは「密約」に値する合意事項である。ところがいとも簡単に身も蓋もなく暴露された。明らかに大統領は遥か太平洋を越えて本土へ向け発語した。おもてなしを逆手に取った抜け目ないディール、あるいは典型的なドア・イン・ザ・フェイスともいえる。ドアインザフェイスとは、“shut the door in the face”(門前払いする)から来たビジネス用語。最初に難度の高い要求を出して相手に一旦拒否させておき、それから徐々に要求水準を下げていく手法をいう。首相はこれに搦め捕られたか。道理で目が泳いだわけだ。
 さらに付言すれば、首相十八番の“忖度”が空しく潰えたシーンでもあった。こちらの金棒はあちらでは無益である。あちらの鬼さんは金棒なぞまどろっこしいとばかり、いきなりガンをぶっ飛ばすらしい。さらにさらに。令和最初の国賓とは聞こえがいいが、なんのことはない、天皇の政治利用であるといえなくもない。まあいいとこ、即位便乗の政治ショーではある。
 あの日、迎賓館から「すっからかん」と太鼓の音(ネ)が聞こえてきたのは空耳だったろうか。 □


異様な対応

2019年05月29日 | エッセー

 黒塗りの霊柩車が校門から出ていく。ヘリから送られる映像……。もちろん、夢だ。寝つけなかった昨夜、見た。
 以下、杞憂を記す。
 〈不審者情報の共有強化を指示 首相、川崎死傷事件受け  事件を受け、政府は関係閣僚会議を開いた。安倍首相は、事件の全容解明のほか、警察や学校が把握した不審者情報を共有する仕組みを強化し、子どもの安全確保に活用するよう、閣僚らに指示した。「登下校時に子どもが集まる箇所などの点検を再度行い、警察官による重点的な警戒、パトロールを行うとともに、地域住民による見守り活動などとの連携を密にしてほしい」と話した。〉
 朝日の報道である(抄録)。異様ではないか。ほとんど未解明の段階で一国のトップが前面に出て、こうまで即断し指示を出す。「不審者」とは何なのか。どういう基準で誰が決めるのか。彼は不審者だったのか。明確な殺意とターゲットをもった計画犯だったのか。もしそうなら不審者とは呼べない。まだなにも判ってはいない。即断に過ぎるのではないか。また「情報を共有する仕組みを強化」からは相互監視社会、管理社会へのバイアスが臭ってくる。続く発言も安全確保に名を借りた警察国家への志向が見て取れるといっては穿ち過ぎであろうか。
 ともあれ危機に即応する「やってる」感の演出は願い下げだ。本来なら捜査当局の調べを受けて閣僚会議をもち対策を指示すべきだし、当面の対応は警察庁が矢面に立つべきだ。秋葉原事件でもそうだった(福田康夫首相)。ボトムアップであるべき事の順序が逆だ。権力者はその行使にセンシティブであるべきだ。トップダウンの常態化がこの順逆を等閑視させているとすれば、事件は二重に悲惨だ。
 警察国家とは、警察権が強大で、国民の自由や生活を圧迫している国家をいう。杞憂とはそのことである。
 事件の約3時間後、海自護衛艦「かが」の巨大エレベーターがスルスルと下降しトランプ、安倍両夫妻が颯爽と格納庫に降り立った。「かが」はこれから改修され事実上の空母になる。米国製F35B戦闘機を搭載する。先月同類の空自F35Aが墜落したばかりだ。原因は未だに解明されてはいない。原因究明を督促する首相の発言は寡聞にして知らない。F35Bは1機147億円もする。そんなことは忘れさせるような見栄えのする演出である。
 一国の安全保障と子どもの安全確保とはトポロジーが違う話だ。だが、バイアスの向きが同等で妙な演出が気に障る。だから杞憂を誘われた。 □


文鎮と財布

2019年05月27日 | エッセー

  今月22日付朝日から抄録。
 〈6万円の恩人に「お礼言えた」 沖縄の高校生、記事きっかけに再会
 那覇市の高校生が市内で航空券代をなくし、途方に暮れていた時、連絡先も聞かず現金6万円を渡してくれたのは、見ず知らずの男性だった。後日、「お金を返してお礼が言いたい」と新聞記事で呼びかけると、埼玉県の男性と判明。21日に沖縄で再会した。なくした財布は別の駅で保管され、6万円は手元に戻ってきた。崎元さんはお金を返し、「直接お礼が言えてほっとしています。自分も困っている人に声をかけられるような人になりたい」と語った。〉
 殺伐たるニュースが溢れる中、心温まる報道であった。だが、もっと心を引きつけられた記事があった。同日の琉球新報から抄録。
 〈おじの葬式に参列するため、那覇空港に向かう途中で財布をなくした沖縄工業高校2年の崎元颯馬さんが、貸し主の猪野屋博医師と再会を果たした。崎元さんは猪野屋さんに6万円を返し、手作りの文鎮をプレゼント。猪野屋さんは「もう無くさないでね」と言って新しい財布を送った。〉
 6万円の返却は単なる金の貸し借りだ。貸した、返した。それで終わり。わが琴線に触れたのは「手作りの文鎮」。利息代わりなどといってもらっては困る。それに「新しい財布」である。この粋な計らいは決して小言代わりなどではない。この美談の核心はこれではないか。
 20世紀初頭、フランスの社会・文化人類学者のマルセル・モースが提唱した「贈与論」によれば、モノを与え返すのは敬意を互いに与えることにつながるとされる。他者を受け入れ、集団間の戦いを防ぐためだ。だから贈与に対する返礼義務を怠ると、集団内で権威や社会的な地位を失う。さらに興味深いのは、この世にある全てのものの真の所有者は神々や霊であり贈り物には霊的な力が宿るとされてきたことだ。施しの原点はそこにあり、現代の社会制度を賦活させる駆動力として期待を寄せた。
 モースは贈答文化を論じているのではない。それは早とちりだ。そうではなくて、人間社会の成り立ちについて語っている。──被贈与者が贈与者に対して感じる反対給付義務は「この世にある全てのものの真の所有者は神々や霊」であることに発する。だから返礼義務をネグレクトすると「真の所有者」からの報いを受けざるを得ない。──オカルティズムではない。西洋の叡智が捉えた人間性についての鋭い一洞見である。してみれば、返礼義務は他の生物には見いだせない紛れもない人間の属性であり、人間のみが成し得る振る舞いということになる。ならば、贈与を受けて反対給付義務を感じない者は人類学上人間ではない。そうなる。もちろんモノだけの贈与ではない。生を享けたこと自体、すでに大いなる贈与だ。その意味で贈与は否応なく一方的にはじまる。育まれ、教えられ、励ましを受け、叱咤され、さまざまな出会いの中で形なき精神的な贈与もふんだんに受ける。贈与は物心両面に亘る。かつ反対給付は贈与者当人である必要はなく、モースが「施し」といったようにむしろ第三者に返礼されることで贈与と返礼のループは無限に廓大していく。
 返礼を東洋の徳目にパラフレーズすると「報恩」となろう。「反対給付義務への不感」は「忘恩」であり、悖徳とされる。死語に近い「恩」ではあるが、人類の発生以来洋の東西を問わず人間性のコアでありつづける。
 「手作りの文鎮」は返礼義務の象徴である。返“金”義務の追銭ではない。そんなものが琴線に触れるはずがない。第一、不等価にちがいない(たぶん)。「自分も困っている人に声をかけられるような人になりたい」と高校生は語った。「第三者に返礼」である。「新しい財布」は「贈与と返礼のループ」が駆動を始めた象徴だ。この爽やかな「美談の核心」には当今憎悪の無限ループに陥っている世のありさまに対する痛打がある。そう観たい。 □


100倍くらい??

2019年05月22日 | エッセー

「行けるかどうか分からないが、あえて質問していいか。その行事は日本人にとって、スーパーボウルと比べてどれくらい大きいものなんだ?」
「だいたい100倍くらいだ」
「それならば間違いなく行こう」
 はじめ乗り気ではなかった即位後初の国賓として招待を決めたのはこの遣り取りであった。なんだか悲しくなってくる。「その行事」とは新天皇即位を指す。トランプには日本への歴史的理解が恐ろしいほど欠けている。マッカーサーの苦渋や決断などおそらく知識としてももたないのではないか。今や世界屈指の反知性主義者であってみれば、宜なる哉でもある。それにしてもまったくのディール感覚である。値札がつかないと判断できない。あるいは、「どれくらい大事なものか?」と質問したという報道もある。しかし、五十歩百歩。抽象的価値をスーパーボール何個分と具象化しなければ理解できないとは子ども並みだ。いや、子どもが小使いをせびるのと同じかもしれない。
 トランプ流とはディールである。取引だ。損得付くの商行為である。ドア・イン・ザ・フェイスは十八番だし、、権柄尽く、力任せ、合意なしの泣き寝入りだってある。交渉とは違う。交渉とは利害関係を対話と議論で調整し合意を得ることだ。交渉が取引よりトポロジーはより高位にある。「外交取引」とはいかにもディグニティーを損ねる。理想や大計からは呆れるほど径庭がある。でも、それがトランプ流である。だから値札を訊ねる。
 アンバイ君の返答にも呆れる。「100倍」とは何を根拠に言っているのか。鳥目の話だとすると、スーパーボールのブランド価値は夏季オリンピックを凌ぐ5億8千万ドルといわれる。約641億円だ。天皇即位関連費用は166億円と見積もられている。3.9倍でしかない。尤もNFL総体の年間売り上げは16年が約1兆4千億円だから、これなら100倍に近い。だが、あのオツムで瞬時にそこまでの知識と計算能力を繰り出したとはとても信じ難い。腰だめで言ったに相違ない。それに、「だいたい」とはなんなんだろう。大凡(オオヨソ)、なにを概括しているのだろう。「出任せで言えば」と同じ意味としか認められない。そんな能天気でいいのか。真に天皇への崇敬があるのなら、「モノでは計れない価値がある」と即答すべきではなかったのか。アンバイ君の卑しい心根が語るに落ちた問答であった。
 一国の政治が株式会社化している。株式会社に見立てた政治が横行している。
──株式会社はそもそもそれ自体行政府そのものである。社長は宰相。社長スタッフは首相官邸か。法務部はあっても配下の諮問機関に過ぎない。株主総会は立法府と比肩しうるが、年1の行事と化して行政府(=株式会社)の対抗にはなり得ない。立法府を取り込んだ行政府が独裁であるから、株式会社は生来的に独裁である。官邸が打ち出す政策が新商品であり、次の選挙での得票が売り上げに当たる。議席占有率は株価だ。──
 以上の見立てが内田 樹氏の卓説である。事は政治に限らない。教育、医療など、あらゆる社会制度のモデルになりつつあると警鐘を鳴らす。
 〈世界の統治者たちの「CEO化」の特徴は、トップダウンを好むということです。CEO化した政治家たちの特徴は「次の選挙」を「マーケット」だと見なすことです。そこでの対立候補との得票数差が「マーケットにおけるシェア」と同定される。本来であれば、政策の成否はそれが現実化されて、さまざまな歴史的な風雪に耐えた後に事後的に検証されるはずのものです。でも、CEO化した政治家たちはそんなに待つ気はない。結果はいますぐ出されなければならない。〉(「最終講義」から抄録)
 トップダウン、次の選挙がマーケット、短期的結果、加えれば支持率という「株価」への過剰な反応。トランプとアンバイ君は瓜二つだ。というか、大親分とポチだ。今週末にはその大親分がおいでになる。どんな“幇間”外交が繰り広げられるのか。国技館では正面枡席から腰掛けてご覧になるという。破格の待遇だ。優勝力士には大統領杯を土俵上で授与の予定。待ってましたとばかり、『日本スゴイ』が吹聴されるだろう。さすがは子分だ。支持率狙いの小賢しいパフォーマンスである。だが、そんなことで貿易交渉で目こぼしを、などと期待しない方がいい。ことディールでは、あちらの方が100倍くらい上手だ。右上手投げは大親分の得意技である。 


amazon からの不明商品

2019年05月20日 | エッセー

  昨日のこと、amazon から着く予定の書籍を待っていたところだった。届きはしたが、本1冊にしてはえらく重い。開けてビックリ、レトルト○○カレーのセット。注文した覚えがない! もしやamazon を騙った新手の押し売りか。貧窮を哀れんだ天の差配か。なにせ送り主がどこにも書かれていない。届け先の氏名、住所、電話番号はまちがいない。爆薬を煮込んだルーが過熱とともに辺り一面を一瞬で吹き飛ばす仕掛けか。イスラムを冒涜した記憶はないし、テロるほどの値打ちのある人間ではない。ならば一体、これはなに?
  とりあえず厳重に保管して、営業日の今日を待って“調べ”を開始した。心当たりに連絡するも、すべて外れ。遂に配送センターで注文番号を頼りにトレース。行きつ戻りつ、やっと発注者が自らの氏名他を入力せずに発注したことが判明。それが誰かはお教えできませんが、先様にメールで事情をお知らせしますとのことで“調べ”は終わった。後刻、友人から電話が入った。数日前、彼はメールでカレーの件を知らせていたという。読み落としたか。というか、体調不良で食欲がないと聞いた彼が好物のこれなら喰えるだろうと、先日カレーを届けてくれたばかりだったのだ。だから心当たりから外していた。まことに恐縮の行ったり来たり。丁重にお礼を述べて、一件落着となった。
 不思議なことに交易は沈黙交易から始まった(14年3月の小稿『妻はクロマニヨン人?』で触れた)。しかしもっと不思議なことにそれは不等価交換であった。
 他集団との境に何か贈品らしき物が置いてある。当方にはないものなので、価値がよく判らない。でも何か返さねばならない。思案の挙句に、ともかく何か値打ちの物を置く。そうすると、今度は先方が何かを返してくる。何度も繰り返されていくうちに、それぞれの品物の価値が判明してくる。このデコボコした不等価交換が交易のループを起動させた。もしも端っから等価の交換であれば、ループは1回で終わったはずだ。25万年前のクロマニヨン人から、そのようにして交易のダイナミズムは生まれたといえる。
 内田 樹氏は、不等価交換こそ沈黙交易の本質であるとする。そして、ネットショッピングや通販の隆盛は沈黙交易への回帰でありその新ヴァージョンであるという。
 〈店で買うより割高の、それも不要不急の品物を、買わずにはいられないというこの衝動はどこから来ると思いますか? 通販が本質的なところで沈黙交易的だからだと私は思います。無言でお金を送金すると、無言で品物が届けられる。相手がそういうふうに見えないものであればあるほど、私たちは「交換を継続したい」という、どうにも抑えがたい衝動を感じてしまう。理由は不明。でも、クロマニヨン人以来、ずっと人間はそうなんです。それに第一、どうして社名が「アマゾン」なんです? 変でしょう? もっとも先端的なネットビジネスの会社名が、どうして世界でもっとも深い密林地帯を流れる川の名前なんです? なんで「ハドソン・ドットコム」とか「セーヌ・ドットコム」じゃないんです? アマゾン・ドットコムの創業者はおそらく自分たちのビジネスが本質的なところでかつて密林の奥でインディオたちが行っていた沈黙交易と同質のものであることを直感していたんだと思いますね。〉(「先生はえらい」から抄録)
 送り主不明のamazon商品。密林から黙って届けられた。その友愛に等価の返礼は見つけ難い。不等価交換でどうかご勘弁を。 □


追悼 The 女優

2019年05月17日 | エッセー

  京マチ子といえば「羅生門」である。抜擢された新進の女優が自ら眉を剃り落としてまで挑んだ。有名な逸話である。
 〈京は、初めての衣装合わせに眉を剃り落として臨んだことについて、「私、眉毛が太いんです。だからカツラを使わす自分の毛で結い上げて根かもじ(添え髪)を足した時に、何かやっぱり現代的な顔になっちゃうのね。舞台なら眉毛はつぶぜるけど、映画ではできないし、それで少しずつカットしてたら、ああ、これはスッポンポンに落とした方がいいなと思ってゾオッとそっちゃったんですの」と述懐。黒澤は京の熱心さを自伝の中で、「何しろ、私がまだ眠っている枕許に台本を持って坐り、『先生、教えておくれやす』と、云うんだから驚いた」と振り返っている。〉(朝日新聞 黒澤明DVDコレクション―マガジンより抄録)
  長く黒澤組でスクリプターを務めた野上 照代さんはこう懐かしんだ。
 〈映画に出なくなった後は舞台でお芝居をしていましたが、しんどかったようです。自宅でも車いすを使っていたようで、動かなくなったのは残念だったでしょう。 
 姿を見せなくなっても、女優というのは毎日鏡を見ているような人たち。年をとると、あまり公には出てきたくないものです。年をとるのは当たり前ですが、女優はそうはいかない。
 5月に入ったころの電話が最後になりました。入退院しているということで、「もうあかん、もうあかん」と言っていました。
 早稲田大学演劇博物館に「京マチ子記念特別展示室」ができたり、今年に入って「京マチ子映画祭」で出演作が上映されたりしましたね。そこにも姿は見せませんでしたが、自分が出た映画を見てくれるのは、とてもうれしかったようです。〉(5/16朝日から抄録)
 美人、かつ妖にして艶。The 女優であった。山田洋次監督は「奇跡のような美しさと気品」と讃えた。生涯役者に生き、かつ独身。歿年95歳。「羅生門」での成功はあえて語るまでもない。
 もうひとり。黒澤の戦後第1作「わが青春に悔なし」でヒロインを演じた原節子だ。日本人離れした美女中の美女。御嬢様から悪女までを演じ切る、こちらもThe 女優であった。ところが京マチ子とは違い、黒澤にはこてんぱんに叱られた。ピアノの当て振りがうまくできない。
 〈「何回やっても出来ないのです。とうとう黒澤さんは『なんだ役者じゃねえか、こんなことが出来ないのか』と怒鳴りました。私は監督さんに初めて怒鳴られてカーッとしましたが、考えてみれば私が出来ないばっかりに、スタッフの方たちも待っていてくださるのだと思うと、『なんで私はだらしがないんだろう』と自分の不甲斐なさが情けなくなりました」と回想。黒澤さんは許してくれまぜん。『少しでもいいものにしよう』と考えて、監督が死物狂いでねばってくださるのです。それまではそんなにまで叩かれたことがなかっただけに、びっくりもしましたが、本当に嬉しく思いました」と黒澤に対する感謝の言葉を残している。〉(上掲マガジンより抄録)
 こちらも生涯独身。京より4歳年上だが、歿年は同じく95歳。4年前のことであった。2人とも紛れもない美形。スター中のスターだ。今大向こうを唸らせるこれほどの傾国がいるだろうか。
 古(イニシエ)の審美眼を継承する(と自負する)最後の世代(団塊の世代)の端くれとして概観するに、A瀬Hなぞ馬面過ぎてお二方の足元にも及ばぬ。馬面美人というカテゴリーは想定し難い。Y倉Rは顎が張りすぎている。女寅さんなら間に合うだろうが。T下Yは出っ歯が気になるし、Y田Yは甲羅から突き出たカメの顔のようで薄気味悪い。若い時は期待できたが、F田Kは最近のっぺりしたペルソナのようだ。AおいWは鼻が空を向いているし、A村Kはかわいいが飛切りの美人とまではいえず実姉が背後霊のようにチラつく。老いてもなお美貌を誇るY永Sは団塊の世代にとってはヒロインでありつづけるが、相変わらずのだいこんである。ほかは似たり寄ったり。小粒が犇めいている。なぜか? おそらくそれは戦後の世の移ろいに同期している。
 豊かになるということは選択肢が増えるということと同定できるだろう(モノに限れば)。商店の棚が品揃え豊富で選り取り見取りになる。ヒット商品が先導するにしても、やがて細かい差異化が始まる。インスタントラーメンの歴程を想起されたい(チキンラーメン1種は今千種を超える)。多品種少量生産が趨勢的になる。つまり商品サイズの謂ではなく、“小粒”化である。コンシューマーの多様性に応じて小粒化していく。前記の「小粒が犇めいている」現況はこのようにして生まれた。投網の目は細かいほどより多くの魚を掬う。ただし雑魚や外道も応じて増えるが。
 多品種少量生産は否応なく飽和を迎える(商品も企業も)。すると、どうなるか。コンシューマーの囲い込みを始める。その際、極めて有効な方法が商品をいじらせることだ(インスタントラーメンの絶品アレンジは掃いて捨てるほどある)。マニアックを連鎖的に育て、擬似的な生産者に仕立てる。これが小粒化の次のフェーズである。そのようにしてAKB48は生まれた。「次のフェーズ」を小賢しく読んだA元Yはいわば現代の置屋である。刻下「会いに行ける」が自己撞着を起こし、スターは払底するに及んでいる。
「蒼穹にある幻像のスターは、地に降り立ってはならない。メディアがいかに煽ろうとも、天空の星々は大衆に塗れてはならない」
 かつて小稿に書き殴った駄文である。令和に入った途端、正銘のThe 女優が逝った。蒼穹には新たな双子座が輝くにちがいない。 □


ガードレールと初期設定

2019年05月12日 | エッセー

 〈中学生だったころ、ひとつの大きな謎を抱えていた。なぜガードレールは歩道の外側にあるのか。
 当時「交通戦争」と呼ばれた時代で、まだ歩車道を別つブロックもなく、白線が引かれただけの道路が大部分だった。もちろん歩行者でしかなかったわたしは、ならばなぜ道路の端にそれを作るのか、むしろ歩道を区切る白線上に設置すべきではないか、と引っ掛かっていたのだ。
 長じて、謎は解けた。あれは歩行者ではなく、車を守るための設備なのだ。撓んで衝撃を吸収し、かつ車が道路から飛び出さないような構造になっている。さらに自ら車を運転するようになってからは、もしも歩道の白線上にあれば走りにくく返って危ないと得心するようにもなった。まことに身勝手なものだ。
 だが、やはりガードレールは合点が行かぬ。「車社会」という転倒のスタンスが車をガードするレールを生んだにちがいなかろう。車にも命は乗っているが、歩行者も命だ。どちらが交通弱者かは言うまでもない。歩車道の完全分離ができない以上、ガードすべきは弱者ではないか。〉
 11年10月の小稿『ガードレールの謎』から引いた。「交通戦争」から半世紀余を経て、「『車社会』という転倒のスタンス」は歩行者寄りに随分スタンスを移してきた。しかし、まだアポリアのままだ。
 字引には「ガードレール等の道路用防護柵の設置の主目的は、進行方向を誤認した車両の路外逸脱防止、車両乗員の傷害や車両の破損の最小化、逸脱車両による第三者への人的・物的被害の防止、車両の進行方向復元である」と記され、第三者への被害防止はプライオリティが低い。認識は未だそのあたりに止(トド)まっている。
 〈警察庁の栗生俊一長官は9日の記者会見で、大津市で8日に起きた保育園児死傷事故に関し、「諸外国に比べ歩行者が犠牲になる割合が非常に高いのが実情だ」と述べ、通学、通園路のガードレール整備などの歩行者安全対策を関係機関と進める考えを示した。〉(5月9日、産経ニュース)
 ガードレール必要論があちこちで持ち上がっている。もちろんそれはそうなのだが、肝心なのはその設置位置だ。如上の拙稿で述べた点である。早い話、歩道の外側では歩行者にはなんの意味もないのだ。現に、大津の事故現場の対岸にある歩道では外側にガードレールが設置されている。この場合、「木を見て森を見ず」の方が望ましい。欲をいえば、警察庁長官には微に入り細を穿つコメントがほしかった。老婆心ながら、必要論のピットホールには気をつけたい。
 今回、保育畑に長い荊妻は意外な反応を示した。コースが悪いという。保育士が適切に配置され注意を怠らなかったとはいえ、なぜあえて交通量の激しい道を選んだのか。そう宣うのだ。園長を号泣させたメディアスクラムの罪科は赦しがたいが、ふむ一理ありそうだ。
 で、内田 樹氏の次の言葉が浮かんだ。
 〈堤防が決壊したあとに、濁流から鮮やかに逃れる超絶的な能力よりも、堤防の「蟻の穴」をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする配慮の方がより武道的です。人類史のほぼ全期間、人間は災厄を事前に感知する力を高めることで、生き延びてきました。「武道的」な生き方の方こそが、もともとは人類の初期設定なんです。「武道的」でなくても生きてこられたここ半世紀ほどの日本の方が人類史的には例外なんです。でも、残念ながら、もうそういう時代は終わりつつあります。僕たちは来るべき時代に備えて、「初期設定」に立ち返る必要がある。僕はそう考えています。〉(「武道的思考」から抄録)
 高齢者による逆走、歩行者の乱横断、煽り運転などなど、少なくとも路上では「『武道的』でなくても生きてこられた」時代は明らかに変容しつつある。現今、路上は魑魅魍魎が跋扈する太古のジャングル状態と化している。「『蟻の穴』をみつけて、そこに小石を差し込んで、洪水を起こさないようにする」という「人類の『初期設定』に立ち返る必要」こそが喫緊の要事である。ハードではガードレール、ソフトでは「武道的初期設定」──。双方が問われている。 □


岡目八目

2019年05月07日 | エッセー

 マーティン・ファクラー。元ニューヨーク・タイムズ東京支局長で、現在は独立系シンクタンク 日本再建イニシアティブ(船橋洋一理事長)で主任研究員兼ジャーナリスト・イン・レジデンスを務める。慶應や東大に留学し漢文や経済学を修めた後、20数年間アジアを中心にジャーナリストの道を歩んできた。
 09年から西松建設事件を報道。検察の捜査のあり方や当局発表を無批判に報じるだけの記者クラブのあり方を鋭く批判した。
 12年、東日本大震災に際し政府の隠蔽や失策を追求しピューリッツァー賞のファイナリスト(最終選考対象)にノミネートされた。
 15年にはISによる邦人人質殺害事件に関する本邦マスコミの対応を強く批判。 「日本のメディアの報道ぶりは最悪だと思います。事件を受けての政府の対応を追及もしなければ、批判もしない。安倍首相の子どもにでもなったつもりでしょうか。保守系新聞の読売新聞は以前から期待などしていませんでしたが、リベラルの先頭に立ってきた朝日新聞は何をやっているのでしょう。もはや読む価値が感じられません」
 と切って捨てた。
 16年2月、「安倍政権にひれ伏す日本のメディア」を上梓。政権によるメディア支配の実態を曝いた。同年5月小稿で『政権にひれ伏すメディア』と題して、同書を取り上げた。
 そして本年4月、満を持して世に問うたのが新刊「米国人ジャーナリストだから見抜いた日本の国難」(SB新書)である。
 紹介サイトにはこうある。
──バブル崩壊で始まり「失われた30年」を過ごし停滞と閉塞感の中で時が流れた平成日本。フェイクニュースと極論、偏向に満ち溢れる平成末期。長年の低成長とデフレがもたらした「貧困・分断社会」という現実、そしてポピュリズムが生み出した民主主義の危機。この国をミスリードしてきた官僚や政治家、マスコミの在り方という問題だけでなく、国民を欺き続け盲目的な国民が多い構造こそ問題の根源にある。いま、「政治」「経済」「外交」「メディア」「教育」「生活」と、どこをみても「問題だらけ」で、国難レベルの危機にあるわりには危機意識が足りていない人が多いのも現実である。日本在住20年、知日家ゆえに国難・崖っぷちの日本を憂う米国人ジャーナリストが、 日本に住む私たちが気が付かないいまの日本の実態に迫り、ポスト平成への提言までも行う1冊。──
 「だから見抜けた」という割には首を傾げたくなる部分もある。だが、無粋な反論はしない。彼の「日本を憂う」は本物と信じるから。代わりに、「だから見抜けた」いくつものイシューの中から意外や意外を3つ紹介したい。
◇「KonMari」が全米席巻──「片づけ」というソフトを展開した日本(上掲書のサブタイトル、以下同様)
 戦後物作りのハードで先行し、平成に入りソフトで後れを取った日本──。大括りにすればそうなる。ところがどっこい、欧米から「ウサギ小屋」とバカにされた住環境ゆえに「Spark Joy」(「ときめき」の訳語)が生まれ、「KonMari~人生がときめく片づけの魔法~」が誕生した。今や「世界で最もクリエイティブな国」と評されている。
 〈「Kon Mari」という単語は、「超片づけ」を意味する新しい英語として通じる。彼女は「部屋をきれいに片づける」という日常的な家事を、見事なまでにイノベーティブなソフトとして展開したのだ。〉(上掲書より)
 ソフトでの見事な巻き返しである。12年1月、拙稿で彼女に触れた。
 〈大枠は「断捨離」に似ているが、なんといっても『ときめき』がキーワードである。「片づけはマインドが9割」と説く。触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかが、捨てるか否かの見極めどこだと力説する。〉(「“断捨離” と “ときめき”」)
 「Spark Joy」とは言い得て妙だ。ゲームソフトではないソフト。家事に異次元の「Joy」を「Spark」させる。ひょっとしたら、刻下アメリカで最も著名な日本人は「Kon Mari」かもしれない。
◇戦前のアメリカは「世界の警察官」ではなかったという事実
 〈太平洋戦争勃発前のアメリカ軍の規模は、国際社会の中でまったく大きくなかった。アメリカ陸軍の戦力は世界第17位、陣容は17万5000人でしかない。戦力の規模はポルトガルとブルガリアの中間だ。アメリカ空軍の戦力は世界第20位、陣容は1万9000人程度でしかなく、古い戦闘機が数百機あるだけだった。アメリカ軍の中で唯一強かったのは海軍だけだ。〉
 緒戦で「唯一強かった」海軍を叩く。「是非やれと言われれば半年や1年は随分暴れて御覧に入れる。2年3年となれば全く確信がない」と宣言した山本五十六は彼我の戦力を的確に見据えていたといえよう。「2年3年と」経たずして、アメリカは急速に軍備を増強する。基盤的工業力が段違い桁違いなのだ。「2年3年」どころか、翌年6月のミッドウェー海戦以来、日本は坂道を転げ落ちる。反面、「世界の警察官」に“なってしまった”アメリカは冷戦を背負い込み、世界経済の屋台骨を自任してはみたものの、当今「アメリカ・ファースト」を叫ばずにはいられなくなっている。まことに盛者必衰の感ありだ。
◇自衛隊に「外国人部隊」が編成される日も遠くはない
 これには意表を突かれた。
 〈3OO万人体制の中国軍がすぐ隣で控える中、現状の自衛隊の勢力だけでは中国に対抗しようもない。少子高齢化はこれからますます進む。徴兵制に替わる代案として、外国人部隊を自衛隊内に編成する可能性もありうると私は思う。(外国人がアメリカ軍に入り、アメリカ国籍を取得するように)今後は人手不足の自衛隊に、外国人を積極的に受け入れる道もあるのではないか。災害救助に従事し、有事の際には最前線で戦って日本を守る。そうやって5年間過ごした人には、ご褒美として日本国籍をプレゼントする。貧しい途上国で暮らす人にとっては、自衛隊員として給料をもらって働き、そのうえ日本国籍をもらえればありがたい。しかも自衛隊は、アメリカと違って戦後一度も戦地で戦闘に従事していない。PKOや、インフラの整備、後方支援だ。世界で最も命を落とすリスクが低いリーズナブルな軍隊だし、外国人の応募者は多いと思う。「在日米軍基地の撤退」「外国人部隊の誕生」というシナリオこそ、現実的に描き始めるべきではないか。日本人だけで自衛隊と日本の防衛を維持するのは、もはや難しい時代になりつつあるのだ。〉
 荒唐無稽と聞き流されそうだが、存外瓢箪から駒かもしれない。日本の人手不足を充足するには700万の外国人労働者が必要だとの資産もある。そうなれば、日本人の定義が問い直されるだろう。「第3の開国」どころの話ではない。現政権に果たしてそれほどのグランドデザインが描かれているのかどうか。自衛隊明記の改憲論にしがみついて自衛隊そのものの存続を失念しているのではないか。少子高齢化は自衛隊とて例外ではない。長期に亘って採用計画を下回り、17年には年齢制限を6歳も引き上げ32歳にしている。じわじわと深刻化する採用難は、防衛省内では「静かなる有事」と囁かれているそうだ。してみれば、「外国人自衛隊員」はあながち似ぬ京物語ではないのだ。
 傍目から観ると碁盤の八つ目先を見通せる。だから、岡目八目という。マーティン・ファクラーは見事な岡目である。 □


「そして、バトンは渡された」

2019年05月05日 | エッセー

 ふと帯に目が止まった。
──私には父親が三人、 
   母親が二人いる。
    家族の形態は、十七年間で
    七回も変わった。
    でも、全然不幸ではないのだ。──
 手に取ったのは、2019年『本屋大賞』受賞作「そして、バトンは渡された」(文藝春秋)だった。何々賞と名の付く作品はほとんど読まないのだが、「父親が三人」と「七回も」にいつもの鼻先思案が引き込まれた。著者は瀬尾まいこ。元中学国語教諭で、01年から数々の賞を受けている。
 紹介サイトにはこうある。
 〈高校二年生の森宮優子。
  生まれた時は水戸優子だった。その後、田中優子となり、泉ヶ原優子を経て、現在は森宮を名乗っている。
 名付けた人物は近くにいないから、どういう思いでつけられた名前かはわからない。
 継父継母がころころ変わるが、血の繋がっていない人ばかり。
 「バトン」のようにして様々な両親の元を渡り歩いた優子だが、親との関係に悩むこともグレることもなく、どこでも幸せだった。〉
 「父親が三人」。その三人とは、
〈水戸   産みの親。母は天国に、父はブラジルにいる(らしい)。
 泉ヶ原  威厳有る、お金持ちの義父。でも少しお人好し。
 森宮   一流企業で働きながら、男手一つで優子を育てている。〉
 と、帯にある。
 「七回も」は水戸家で2回、中に1回はさんで、泉ヶ原家で2回、森宮家で2回。いずれも「若くて美人でおしゃれな義母」(帯)・梨花が授けてくれたものだ。「授ける」はいかにも不似合いに感じられようが、「どこでも幸せだった」秘密を知れば納得がいただけよう。
 大団円で森宮が語る。

「梨花が言ってた。優子ちゃんの母親になってから明日が二つになったって」
「明日が二つ?」
「そう。自分の明日と、自分よりたくさんの可能性と未来を含んだ明日が、やってくるんだって。親になるって、未来が二倍以上になることだよって。明日が二つにできるなんて、すごいと思わない? 未来が倍になるなら絶対にしたいだろう。それってどこでもドア以来の発明だよな。しかも、ドラえもんは漫画で優子ちゃんは現実にいる」

 物語の核心であるが、稿者の鼻先思案はそこではない。先月の小稿『オヤジは説明できない』で引いた橋本 治氏の洞見が頻りに過ったのだ。
〈もう「家」そのものが実質的な機能を失っている以上、一人の支配者、一人の統治者であるような家長に、全体を統率する力は宿らない。・・・・もう一人の人間に権力を預けて「指導者」と言うのをやめて、代表者が複数いてもいいあり方を検討すべきではないのでしょうか。〉
 梨花にとって家父長制としての「家」は思慮、慣習の片隅にもない。「実質的な機能を失っている」。父親は不思議にも三人。「代表者が複数」だ。とすれば、この作品は橋本氏の「最後の指南」へのアンサーではないか。
 著者は期せずして橋本氏から「そして、バトンは渡された」……と、ぎなた読みをしてみた。 □


チコちゃんと修くん

2019年05月02日 | エッセー

  チコちゃんとは、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」のチコちゃんである。今やNHKの人気番組となった『チコちゃんに叱られる!』のメーンキャラだ。この番組、2月には『笑点』や『イッテQ』を抑え娯楽部門で視聴率トップとなった。
 これまで多くの民放の番組はNHKの番組を原型にして作られてきた。具体例はすぐには浮かばぬが、そんな気がする。TVメディアの先駆けがNHKであったのだから当たり前だが、近ごろは民放によるオリジナル番組が増え、むしろNHKが跡追いするケースも出てきている。そのひとつがこれだ。先行するのはもちろん『林先生の初耳学』である。『チコちゃんに叱られる!』は、『林先生の初耳学』に対するアンサー番組だ。修君については、小稿で「知識をネタにした御座敷芸、トリビアルな物知り居酒屋談義」と何度も扱き下ろし来た。現に、全問をググってみたことがあるが、すべて異説も含めてアンサーが返ってきた。つまりは、その程度なのだ。幼児が国旗をすべて判別できる。凄い、と驚く。その程度である。知識というより技芸に類する。そこから既知への今日的問い掛けがなされるわけでも、新たな知が模索されるわけでもない。なんらの知性も起ち上がってはこない。早い話が知識の切り売りにしかすぎない。だから、座敷芸だといった。
 チコちゃんは修君の厭みを5歳の女の子で躱している。加工してあるが、声は関西お笑い芸人の木村祐一、キム兄だ。さすがにツッコミは絶妙、返しは臨機応変である。修君のドヤ顔は煙の噴射と例の決め台詞に転じられている。雛壇に並んだ芸人やタレントがひれ伏し修君が御満悦なのに対して、チコちゃんの代わりに女子アナの大御所・森田美由紀氏が「今こそ全ての日本国民に問います」「そんなことも知らずに、やれ○○だとか、○○などと言っている日本人のなんと多いことか」と、完全に上から目線で問いかけ難じる。着ぐるみやCGを駆使してペダンティズムを薄めた分だけここはなんともストレートだ。
 とはいえ、どちらも日常的でトリビアルな疑問が投げかけられる。解答者は頭を抱え、空を仰ぎ、地団駄を踏む。やがて示される正答にあっけにとられる。と、ここまでは同じなのだが、そこから先が違う。両者の決定的違い、それはワンストップであるかどうかだ。修君は板書までして知見の限りを提示する。ワンストップだ。チコちゃんはツー、スリーへと巡る。一端答えた後、専門家を訪(オトナ)い確証を得、さらに深掘りしていく。ここだ。ここが両者を別つ。碩学・内田 樹氏の言を徴しよう。
 〈「知識」についていえば、私が持論としているように、そんなものはいくらためこんでも何のたしにもならない。必要なのは「知識」ではなく「知性」である。「知性」というのは、簡単にいえば「マッピング」する能力である。「自分が何を知らないのか」を言うことができ、必要なデータとスキルが「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を知っている、というのが「知性」のはたらきである。学校というのは、本来それだけを教えるべきなのである。古いたとえを使えば、「魚を食べさせる」のではなく、「魚の釣り方を教える」場所である。〉(「おじさん」的思考」)
 修君には「マッピング」がない。彼自身がマップと化している。片や、チコちゃんは 「どこにいって、どのような手順をふめば手に入るか」を示す。どちらが「知性」の名にふさわしいか。如上の洞見に照らせば瞭らかだ。
 てなわけで、チコちゃんと修くん、チコちゃんに軍配を上げるほかあるまい。 □