伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

犯人 潜伏中

2021年09月28日 | エッセー

 凶悪な犯人がいる。全国に捜査網が敷かれた。このままではヤバイ。しばし身を隠す。当然だろう。ほとぼりが冷めたころ、同じ犯行をまた始める。至極当たり前の成り行きだ。
 コロナにも生き残りが至上命題だ。その命題を共有する無数のウイルスを一人の凶悪犯だとすると、同等の対応をするはずだ。
 ならば、ワクチンの成果だと誇るのは早い。危機意識が浸透し行動が抑制されたためと自賛するのも浅慮だ。なにせ相手は相当に手強い凶悪犯なのだから、潜伏は巧妙を極めるにちがいない。だから専門家でさえ感染急減の要因を特定できず、謎だという。
 人類が絶滅させ得たウイルスは天然痘以外ない。その事実を忘れて「打ち勝った」などと能天気な与太は飛ばさないほうがいい。宣言解除が選挙狙いであることは明らかだ。下手な猫騙しに掛かっては墓穴を掘る。
 飲食業は濡れ衣を着せられた。ロックダウンの生贄にされた。見せしめの公開処刑に供された。溜飲を下げたのは行政で、胃液が飽和しストレスを抱えたのは下々であった。若けーもんたちの路上での杯盤狼藉は形を替えた抗議デモだった。
 1年前、緊急宣言なるものは幻想だと記した。案の定だ。とどの詰りが集団免疫の獲得が決め手となる。ワクチンはその当て馬だった。いや、ワクチンの語源は雄牛だから当て牛か。なんにせよ、集団免疫は宣言ではなくワクチンというブツ(物)が生んだ。幻想が生んだものではない。
 明日は総裁選。変な話だが、一国の宰相が決まる。T市は疫病退散祈願にみんなで靖国に行こうと言いかねないし、K田はカネだカネだとばら撒きしかねない。N田は暗いことばっか言うなとマスコミを叱りそうだし、K野はワクチンをてめーの手柄にしかねない。N田が仄めかすだけで、永田町の汚物処理は誰も明言しない。またも忖度かい! コロナより質(タチ)が悪い巨悪を見逃していいのか。感染対策ならアンバイコロナ対策が最優先だ。
 言っておくが、ウイルスに忖度は効かない。少なくとも4、5年掛けて集団免疫を拵(コサ)えていくほかあるまい。手配犯に恩赦を与え、社会復帰させるように。 □


横綱 威風堂堂

2021年09月27日 | エッセー

 いつも口籠もりながらしゃべっているようだが、実は言葉を慎重に選んでいる。頭の中で推敲している。その間(マ)ではないか。昨日の優勝力士インタビューではとくにそうだった。横綱伝達式で述べた「品格」との口上に『照』らし合わせるかのように。
 驚くべきことに、彼はモンゴル国内の数学オリンピックで中学生の時から出場し、金メダル1回、銀1回、銅2回を手にした理数系優等生であった。40分で40問を解き、4桁かける4桁の計算も余裕でできた。高2から飛び級で技術大学に進学。スポーツに無縁だったが、17歳の時日本に観光で訪れ大相撲の虜になった。鳥取城北高校に編入学し、やがてプロに。記憶力も天才的で、初土俵から各場所の自分の勝敗をすべて覚えているそうだ。よく力士が口にする「一日一番」は彼の場合四六時中考え抜いた末のことで、「出たとこ勝負」とはまるっきり違う。
 7月場所千秋楽を受けて、拙稿『哀しみの千秋楽』に「9月場所では、擬い物ではない本物の横綱が土俵に上がる。今度は国技館。今から勇姿が楽しみだ。」と記した。期待は過不足なく叶えられた。「大あっぱれ」である。同時に、先場所前に語っていた「長くはできない」の覚悟も、膝に抱える宿痾とともに一場所刻みで前景化していくだろう。横綱照ノ富士の栄光は「長くは」ない終末からの逆算で与えられる。明晰な頭脳に恵まれた彼ならばこその、「哀しみ」と引き換えの覚悟である。
 片や、想定外の覚悟に追い詰められた横綱がいる。現役の醜名を冠せられる一代年寄を狙っていたらしいが、この慣習そのものが廃止となる雲行きだ。白鵬部屋はもうできない。白鵬改め「黒鵬」と名乗っても時遅し。となると年寄株だが、空いているのは「間垣」だけ。それを狙っているらしい。士分に取り立てられた近藤勇が武士以上に武士らしく振る舞おうとした過剰適応。それが想起され、なんとも浅ましい。
 数学博士へ至るかも知れなかった軌道から超急旋回して大相撲へ。華々しい躍進から挫折、奈落へ。そして奇蹟のリベンジ、威風堂堂たる横綱へ。小説よりも奇なり、である。日本相撲協会は横綱照ノ富士と偶会し得たことに謝すべきであろう。 □


バカがいないバカな時代

2021年09月24日 | エッセー

  岩波国語辞典 第八版によると──
ばか
①知能の働きが鈍いこと。利口でないこと。また、そういう人。「馬鹿とはさみは使いよう」(使いようによっては役に立つの意)「馬鹿の一つ覚え」(ある一つの事を覚えたのを得意がって、それが当てはまらない時でもいつもそれを言い立てること)「馬鹿にする」(軽く見る。あなどる)「馬鹿になって(=ばかになったつもりで我慢をして)やりすごす」「馬鹿にならない」(あなどれない)▽その度合に着目する時は「馬鹿さ」が使える。「おのれの馬鹿さに腹が立つ」
②まじめに取り扱うねうちのない、つまらないこと。また、とんでもないこと。「馬鹿なことをしたものだ」「馬鹿を見る」(つまらない目にあう)。冗談。「馬鹿を言う」
③役立たないこと。きかないこと。「ねじが馬鹿になる」
④《「馬鹿に」の形で、また接頭語的に》普通からかけ離れていること。度はずれて。非常に。「馬鹿に暑い」「馬鹿正直」「馬鹿丁寧」
⑤「ばか貝」の略──
 とある。団塊の世代に馴染みの梶原一騎『空手バカ一代』の「バカ」は④の派生ではないか。①の「馬鹿の一つ覚え」も外れてはいないが、<一途にひとつの道を貫く>意味にはちがいなかろう。②や③でないことは確かだ。だって、「バカ空手」も「空手がバカになる」も意味をなさない。
 <一途にひとつの道を貫く>ことをバカと仮定すると、昨今はそのバカが消えつつある。
〈林家木久扇の事務所が訴えられる 「木久蔵ラーメン」商標巡り
 落語家、林家木久扇(旧名・木久蔵、83)が考案した「林家木久蔵ラーメン」を製造販売する福岡市の販売会社がこのほど、商標権の期限が切れているのに対価を支払わされたなどとして、木久扇の事務所を相手取り約4200万円の損害賠償を求め福岡地裁に提訴した。〉(今月19日Yahooニュース)
 このラーメンは①には該当しない。能がなければ作れないのだから。②は商標権が設定されている以上、除外。③は売れていたのだから、当てはまらない。しかし、カンニング竹山は「まずくないよ、ただ、おいしくもないけど」と評したが。⑤は具に入っているかどうか知らないが、スルー。となると、残るは④。「落語バカ」のはずが、「ラーメンバカ」にのめり込んだ報いと受け取るほかあるまい。
 『葉隠』に山本常朝はこう記した。
〈芸は身を助くると云ふは、他方の侍の事なり。御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり、侍にあらず。何某は侍なりといはるる様に心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つなり。この当り心得べき事なり。(聞書第一)〉
 三島由紀夫は『葉隠入門』で、この一段をこう繙いている。
〈芸は身を滅ぼす──『葉隠』が口をきわめて、芸能にひいでた人間をののしる裏には、時代が芸能にひいでた人間を最大のスターとする、新しい風潮に染まりつつあることを語っていた。
 現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡(でく人形)となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。
 現代はテクノクラシー(技術者の支配の意)の時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクション(機能)にみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。それと照らし合わせると、『葉隠』の芸能人に対する侮蔑は、胸がすくようである。〉
 「芸は身を滅ぼす」とは「侍バカであれ」との誡めである。余芸は「侍」という「総合的な人格」形成を蔑ろににする。蔑ろにするものを「侮蔑」する痛快を三島は「胸がすく」といった。
 「害になる事と得心したるとき、諸芸共に用に立つ」とは特例条項である。有害の認識あるならばこの限りに非ず、と太っ腹を見せたものだ。それゆえ三島はこの部分をスルーしたのではあるまいか。
 ともあれ武力が無用となった太平の江戸中期にあって、特権階級たる武士は「侍」という孤高の人格を創り上げることにしかレゾンデートルはなくなった。その企ては300年の徳川時代に完成を遂げ、次代へと傾(ナダレ)れ込んでいった。維新は侍たちによって成し遂げられた。
 現代はどうか。官人、公人は私権を放棄することを条件に市民の上位者となった。ならば、現代の「侍」と呼んでよかろう。だから彼らには「公僕」という市民への奉仕以外の余芸は赦されない。裏返せば、余芸で選択されるのも、選択するのも間違っているし有害である。銀幕のスターの人気度と政治家の支持率はまったくの別物である。
 さらに「侍バカであれ」に捻転を加えると、「専門バカであれ」に変ずる。侍のいない時代、「英雄視」される「野球選手やテレビのスター」が特権階級に成り上がる下克上が起こった。今や、④「ひとつの道」を貫くことが「侍バカであれ」と同義となったのである。
 落語家ならば落語を磨け。「落語バカ」ならラーメンなぞ商うはずがない。そのはずがないことをするからしっぺ返しを喰らった。そういう話ではないのか。元より職業に貴賤はなく、選択も自由だ。そんなことを言っているのではない。バカがいないバカな時代を密かに嘆いている。 □


“水曜日”と“イグノーベル”

2021年09月22日 | エッセー

 自らの不明を恥じTBSにお詫びせねばならない。『水曜日のダウンタウン』を18年6月『刻下、究極のテレビ番組』と題した拙稿で「テレビ劣化の究極形」と散々扱き下ろし、以来2回も悪態を吐いてきた。もちろん、一番の贔屓番組であるゆえである。
 ところがどっこい、ふと閃いて調べてみると上手がいた。それも世界規模の。
 “Ig Nobel Prize ”「イグノーベル賞」である。“Ig”とは否定で「恥ずべき、不名誉な、不誠実な」との謂になるが、「本気のジョーク」が最適か。
 嘘か実か(嘘に決まっている)、ノーベルの親戚イグネイシアス・ノーベルという人物の遺産で運営されているという。ただし、受賞式場のハーバード大学までの旅費、宿泊費は自己負担。賞金もなしだが、業績にちなんだ副賞は贈られる。例外的に15年から3年間、10兆ジンバブエ・ドルが贈られたが、当時はハイパーインフレでゼロドルに等しかった。これも洒落の一種だろう。
 実はそのイグノーベル賞、日本人が常連なのだ。このところは15年連続で受賞している。今年は歩きスマホが他の歩行者と衝突する実証研究をした京都工芸繊維大学の村上久助教ら研究チーム4人が「動力学賞」を受賞した。助教といえば大学のヒエラルキーでは下から2番目の低位。学問の下流をサーチライトで照らし出すところがこの賞の妙味かも知れない。
 91年の第1回平和賞はエドワード・テラー、水爆の父が選ばれた。理由は「最初のスター・ウォーズ計画の提唱者であり、我々が知る『平和』の意味を変えること(核抑止論)に、生涯にわたって努力した事績に対して」とされる。痛烈な揶揄が光る。
 95年、心理学賞は渡辺茂、坂本淳子、脇田真清の慶應大学3氏。ピカソとモネの絵画を見分けられるようにハトを訓練し、成功したことに対して。
 20年、材料工学賞はメーティン・エレン氏ら7名。ヒトの凍った大便から作ったナイフが機能的ではないことを実証したことに対して送られた。機能的なうんちナイフとは、一体どのような機能を有しているのだろうか? 
 もうここまで来ればお分かりであろう。『水曜日のダウンタウン』を遙かに超える荒唐無稽のコンテンツは笑劇いや衝撃である。Webで受賞歴を検索するのはお薦めだ。時間を忘れるほど面白い。
 同賞が際立った学問的成果や文化的業績に結びついたどうかは寡聞にして知らない。『水曜日のダウンタウン』とて同等だ。本邦の芸能水準をどれだけ押し上げたかは答え難い。しかし、セレンディピティということがある。
 医学博士岩波 明氏の著作を徴したい。
〈セレンディピティという言葉がある。素晴らしい偶然に出会うことや、予期しない新たな発見をすることを意味するが、英国の小説家による造語である。この言葉は、『セレンディップの3人の王子』というペルシア童話にちなんでいる。セレンディップとは現在のスリランカのことである。実際の科学における革新的な発見や創造は、地道な努力から生まれたものはほとんどない。しかし、セレンディピティが出現するためには、単なる偶然だけでなく、それを受け止める知性と聡明さが必要である。拡散的な思考方法を得意とし、決まりきった手順に従うことをよしとせず、自らの興味を推進する傾向の大きい発達障害、とくにADHDの特性を持つ人は、セレンディピティに遭遇する頻度が大きいと考えられる。(「天才と発達障害」から抄録)
 セレンディピティには「それを受け止める知性と聡明さが必要」との指摘は緊要ではないか。瓢箪から駒はオープンマインドから生まれる。実利を追うのではない。その開かれた姿勢を忘れまいとするセレモニーこそイグノーベル賞であろう。
 となると、『水曜日のダウンタウン』の看板スター・クロちゃんは瓢箪から出てきたエロい熊か。これからどう化けるか。イグノーベルの視点からは格好の研究対象だ。 □


テレビニュースがヘン

2021年09月21日 | エッセー

 最近、嫌(ヤ)な事に気づいたので春秋の筆法を奮ってみたい(今のところ、同種の見解は寡聞にして知らない)。
 TVのニュース(ワイドショーではない、通常のニュース)、そのタイトルである。
▽NHK・ニュース7「地価コロナでどう変化」
▽TBS・news23「最新技術走れる義足を子どもに」
▽日テレ・zero「東京感染300人台…減少ナゼ」
▽フジテレビ・ニュースα「洋服を捨てずに染めるSDGS×老舗の工房」
▽テレ朝・報道ステーション「中国の不動産大手が破たん危機…日本経済影響は?」
 今日のニュース番組からいくつか拾ってみた。いかがだろう? なんか、週刊誌のタイトルに似てないだろうか。NHKは定番に近いが、かつてなら(いつからが「かつて」かは措いて)「コロナによる地価変化」となるところだ。少なくとも「どう」は入らなかっただろう。他の民放はおしなべて週刊誌に相似している。週刊文春は近ごろ止めたが、中吊り広告がデジタルディスプレーになったとはいえ、キャッチーなフレーズが並ぶ。あの手法だ。Webサイトでアイキャッチ画像を使う手管にも通底する。今ごろでは新聞の見出しも類似してきた。
 驚くのは中身に報道の基本である5Wが揃わない場合があることだ。まさかアナウンサーが誰かさんのように読み飛ばしたのではあるまい。Why は報道時点で不明なのは解るが、治安のためか何のエクスキューズもなく  Where が最後まで出てこないニュースをたまに見る(ウソのような本当の話)。これなぞは一体報道する意味があるのか疑わしくなる。それに現場中継。織田裕二は「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起こっているんだ」と叫ぶが、それは刑事さんの話。報道はなにも現場でマイクを握って中継する必然性はない。そんな臨場感より各方面からの情報を持ち寄って『会議室』で付き合わせ、チェックを加える慎重さの方が緊要であろう。情報伝達のテクは格段に進歩しているのだから、インテリジェンスの腕を上げるように心がけてはどうか。
 ナゼ、こうなったか? 理由は簡単だ。テレビ離れである。特に20台以下は約4割がテレビを見ない。彼らの情報源はWebである。それにTVニュースが寄せてきているのではないか。「ヤな事」とはそれだ。
 別の言い方をすると、Webにより世界が広がっているようで狭くなっている。スマホにせよPCにせよ本来がプライベートなツールだからだ(文字通り、PCのPはPersonalのP)。スマホのタップ入力は仲間内のチャットには向いていても、敬語・謙譲語や複雑な感情、込み入った論理的情報を遣り取りするには不向きだ。勢い、感情を定型化した絵文字を使う。メンタルもロジックもさっぱりと置いてきぼりをくう。メールを研究する日大文理学部・田中ゆかり教授は上記の「不向き」な理由を、「論理の流れが感情の流れより『速い』からである。親指ぴこぴこではロジックの速度をカバーできない。」と語っている。(内田 樹「街場の読書論」から孫引き)
 ツールという物理性に制約されない精神性はないはずだ。すると、何が生まれるか。逆説めくが、「群衆」である。アンチテーゼを捨象して自らのバイアスが優先する。街中を見れば瞭らかだ。種々雑多な人間が行き交っている。あれは社会学的には群衆ではない。人の群れでしかない。多人数が共通の関心を持ち一時的に集合した非組織集団であり、明確な目的のないまま衝動的な行動に走る、それが「群衆」である。
 今月20日のEテレ「100分de名著」はフランスの心理学者ギュスターヴ・ル・ボンの名著『群集心理』が教材だった。プレゼンターは『わかりやすさの罪』を世に問うた武田砂鉄氏。以下、番組HPから要録する。
〈「イメージ」によってのみ物事を考える群衆は、「イメージ」を喚起する力強い「標語」や「スローガン」によって「暗示」を受け、その「暗示」が群衆の中で「感染」し、その結果、群衆は「衝動」の奴隷になっていきます。これが「群衆心理のメカニズム」です。
 インターネットやSNSの隆盛で、常に他者の動向に注意を払わずにはいられない私たち。その影響で、現代人は自主的に判断・行動する主体性を喪失し、極論から極論へと根無し草のように浮遊し続ける集団と化すことが多くなりました。
 扇動者は精緻な論理などを打ち捨て、「断言」「反復」「感染」という手法を使って群衆たちに「紋切り型のイメージ」「粗雑な陰謀論」「敵-味方の単純図式」を流布していきます。
 武田さんはル・ボンの分析はSNS全盛時代における民主主義の限界やポピュリズムの問題点を鋭く照らし出しているといいます。そして現代の視点から『群集心理』を読み直し、「単純化」「極論」に覆われた社会にあって「思考し問い続ける力」を保っていかなければけないと警鐘を鳴らします。〉
 「イメージを喚起する力強い「標語」や「スローガン」は、ヒトラーの常套手段であった。「断言」「反復」「感染」の忠実な実行者だった。冒頭に提示した「キャッチーなフレーズ」に近似してはいないか。加えて武田氏は、【敵味方の二分法や「何度もお答えしておりますように」や「繰り返しになりますが」は「断言」「反復」「感染」に通じる】話形だと分析した。これも稿者の問題意識に酷似している。【 】部分に留意願いたい。名指しは避けたものの、「あんな男」の正体はこれだ。
 対抗手段は「思考し問い続ける力」だ、と武田氏は言う。膝を打つ卓見である。
 刻下、TV局はネットとの融合という大きな業態変更に直面している。もっとヘンにならないよう、その矜恃と見識に期待したい。 □


総裁選がおもしろい

2021年09月18日 | エッセー

「麻生が止めているという話を作って書いてあったけど、オレは最初から『やるなら、しっかりとやれ』と。負けると後々面倒くさいから。ちゃんとやるなら、やることやらないとだめよと激励はしましたけど」
 アッソー・マウンティング爺さんのこの発言には膝を打った。 
 「負けると後々面倒くさい」は、爺さんの2010年総選挙での大敗、政権明け渡しに準えているのではないか。「やることやらないと」は、てめーの政権が無能、無策で短命に終わったことへの反省か。50年間不動だった自民党政権がズッコケたのは、アッソー政権の時だった。河野のあんちゃんも親分に倣って幕引き役か。実に意味深だ。失言爺さんが語るに落ちたというべきか。
 コップの中の嵐と高踏を決め込むのは浅慮だ。気鋭の政治学者白井 聡氏は歯に衣着せずこう言う。
〈安倍政権を支持してきた人たちや、その勝利を支えた無関心層は「自分たちがいったい何をやってしまったのか」を真剣に考える義務があります。腐った政権を長年、奴隷根性と無関心によって支持し、一方で反対する人を冷笑やアカ呼ばわりで非難する。そんな精神風土がずっと続いてきた。〉(20年4月の「AERA」から抜粋)
 辛辣だが、「奴隷根性と無関心」はコインの裏表だ。総裁選は実質的に宰相の選出でもある。投票権はなくとも、踵を接する衆院選でジャッジできる。無関心でいていいはずはない。無関心は未必の故意ならぬ『未必の不作為』ともいえよう。
 5年前の旧稿を引きたい。
〈大相撲が俄然おもしろい。なぜか。白鵬がいないからだ。勝利至上でおまけに過剰同化のへんてこりんな横綱が消えると、如実に場所は活況を呈する。
 広島が25年振りのリーグ優勝。カネに飽かす球団・巨人が下手をコクと、こんなに野球はおもしろくなる。広島自体が強くなったにしてもだ。勝ち負けはカネでも、もちろん人気でも、運でも、ひょっとしたら素質でもないという人生の滋味を訓えてくれたかもしれぬ。なにより、それぞれの一強がどれだけ双方をつまらなくしていたか。改めて判る。
 プロスポーツ同様、永田町も一強はよくない。さらにいえば、碌な事はない。〉(16年9月「一強はつまらない」から)
 無理やりな我田引水と嗤う向きもあろうが、「碌な事はない」は投稿からなお5年も続いたのである。広島は浮沈を経て今、振り出しに戻っているが、白鵬の不在は数多くの感動的ドラマを生んだ。自民党内の一強も同然だ。一強が後退すると俄然おもしろくなる。スポーツと次元は違うが、結構アナロジカルではある。この場合、「おもしろい」とは原義通りに「おも」(面)即ち目の前が「しろい」、明るくはっきりすることである。明度が上がればコントラストも際立つ。暗も浮き彫りになる。国民の安全に資すること大である。
   秋深き隣は何をする人ぞ
 芭蕉の遺作である。病のため句会に行けぬもどかしさを詠んだとされる。この総裁選と妙に重なるから「おもしろい」。 □


高市はん ぶぶ漬けでも

2021年09月14日 | エッセー

 今月6日放送の日本テレビで、高市早苗は
「靖国神社参拝は一人の日本人として信教の自由のもとに役職に関わらず続けて参った。決して外交問題ではない」
 と語った。2つ、本質的誤謬がある。
 1点目は「一人の日本人として」──。思想家内田 樹氏の洞見を引きたい。
〈官吏や政治家は「市民」ではない。市民の人権を保護する規則は彼らには適用されない。だって、当然でしょう。官吏や政治家は他人の私権を制限する権能を持たされているのである。他人の私権を制限する権利を持つ者に、他の市民と同じ私権を認めるわけにはゆかないではないか。レフェリーたる公人は「ゲーム」に参加することは許されない。〉 (「期間限定の思想」から抄録)
 高市は「公人」である。私人たる「一人の日本人」であるはずがない。公人となった刹那からそうだ。1日24時間、365日、隙間無くそうだ。だって彼らがつくった法律は二六時中私人を拘束しているのだから。高市には「一人の日本人」として「信教の自由」を享受する権利はない。その認識が致命的に欠けている。高市には公人たるの基本の基が解っていないと断じざるを得ない。
 極論と嗤う勿れ。単純化した極論は思索の骨法である。
「物事は単純化して表現することで、その本質が明確になる。空気抵抗や摩擦や物体の大きさなど、時と場合によって異なる要因を無視しなければ、物理法則が発見できないのと同じである。」
 と語るのは京大教授梶谷真司氏である(「考えるとはどういうことか」から)。
 2点目は「外交問題ではない」──。「役職に関わらず」とは首相を指す。本邦の宰相がA級戦犯が合祀された靖国神社に参拝すれば中韓と激しいフリクションが生じることは目に見えている。本来反対すべきアメリカが沈黙するのはそのフリクションが日中韓の分断に資するからだ。アメリカの沈黙を見誤ってはならない。政治家の仕事とは国益を最大化することである。あの安倍でさえ行かなかったのに、敢えて国益を損ずるのは政治家のサボタージュか無知でしかない。
 サボタージュと無知の正体は、中韓との外交問題は『外交問題に含まれない』という認識である。身の毛もよだつ差別が裏打ちしているのか。『そんなもの、相手が勝手に騒いでいるだけだ』と言いたいのだろう。悲しいほど想像力を欠いている。先方の立場に身を置いて思案するのが大人の知恵である。他責を強弁するのは子どもだ。なんとも未熟である。
 問題が問題とされていないのだから、問題はないことになる(ややこしい)。最強の反知性主義だ。デカが理詰めでチンピラを問い詰める。応えに窮して最後は「それがどうした!」と開き直る。その伝である。
 奈良は京都のお隣さん。本当の京都人ならそんな無粋はしないそうだが、当方運よく京都人ではなく無粋なので「ぶぶ漬け伝説」を持ち出そう。
「高市はん、ぶぶ漬けでもどうどす?」 □


善場・高市 対決

2021年09月12日 | エッセー

 今月5日の拙稿「ぶっちゃけて言えば」でこう呵した。
〈T市早苗。日本会議の大立て者にして、最古参の安倍ガールズだ。あのいかにも巫女然とした面容が怖い。安倍が推すらしい。安倍のゾンビか! あー、キモい!〉 
 案の定だ。物価上昇目標2%の達成を目指す『サナエノミクス』はアベノミクスの、「新たな日本国憲法制定に力」は安倍の悲願の忠実な継承である。安倍が女ゾンビとなってルサンチマンを晴らす。やっぱり、怖い! 
 その女ゾンビとTBS「報道特集」のキャスターを務めるフリーアナウンサー膳場貴子が対決した。正確を期すため、Yahooニュースをそのまま引用する。
〈元NHKアナウンサーで現在はTBS「報道特集」のキャスターを務める膳場貴子アナが8日、自民党総裁選に立候補した高市早苗前総務相の出馬会見に出席。厳しい質問で迫った。
 質疑応答で指名された膳場アナは「TBS報道特集の膳場です」と名乗ると、高市氏は初めてその存在に気付き「あ、膳場さんですか。こんばんは」と思わず、驚きの声を上げ、笑顔を見せた。
 膳場アナは「こんばんは」と早口で応じたあと、「政権構想では、経済的な弱者や格差の解消にほとんど言及されていないので、どういうお考えなのか是非、おうかがいしたいと思います」と質問すると見せかけ、「ちなみに、高市さんは2012年の『創生』日本の研修会で、社会保障を考える文脈でこういうことをおっしゃってます」と続けた。
 そこから「『さもしい顔をしてもらえるものはもらおうとか、弱者のフリをして、少しでも得をしようと、そんな国民ばかりいたら日本が滅びる』こういう風に発言してらっしゃいます。あの、困窮する国民をどういう目でみてらっしゃるのか、確認をさせてください。その上で、この発言について弱者への視点が欠けている不安、批判の声があるが、どう受け止めているか聞かせて下さい」と迫った。
 人気アナの戦闘モードに、最初は笑顔だった高市氏も次第に表情はこわばった。「恐らくその発言は、民主党政権の期間中に、生活保護の不正受給が非常に多かったという問題にどう取り組むか、という議論を自民党の「創生」日本の有志でしていた流れででの発言だと思う」と注釈。さらに「現在も残念ながら新型コロナウイルスで痛んでいる事業者のみなさまへの支援の不正受給があるけれど、あのころ、いろんな方法で生活保護の不正受給をするという方がいた。でもこれはみなさまの大切な税金ですので、私はこうした福祉は公正公平が原則であるべきと思っている」と話した。
 続けて、「本当に努力しても働けないときは働けない。ケガをして入院して働けなくなる方もいる。急に自分が務めていた会社がつぶれてしまって、そのあといくらハローワークに通っても仕事がない。年齢的にもなかなかしんどいとか、そういう方もいる。それから難病を抱えてらっしゃって、短い時間しか働けないという方もいる。介護や子育てをしながら働いてる方もいる。一つはベビーシッター減税や家政士を使った場合の代金を税額控除が一番いいのでしょうが、補助金、クーポンという形もある。しっかり支援をしていきたい」と政策を述べた。
 また「子供の貧困対策も重要」とし「中所得の世帯を対象に第2子3万円、第3子以降6万円の現金給付というものを確立する。高等教育の無償化も、第2子の所得要件を緩和、第3子以降は要件を撤廃をする。育児休業時の実質手取りをさらに引き上げていく」など生活困窮問題などへのさまざまな政策を並べることで、回答した。
 その上で、「私に対して非常に色がついていると見られるというご指摘だが、これが私です。私は私の信念を持って、政策を発信してまいりましたし、実行もしてきた。今のありのままの私を、みなさまがどう評価していただけるのか、あんなんじゃダメだぞと言われるのか、そのまま自然体でいていいんだよと言って下さるのか、それは分かりませんが、これまでのことも含めてこれが私でございます。わりと素直な方で、同僚議員のアドバイスにも柔軟に対応してきた方です」と情感に訴えた回答でかわした。〉(9月8日23時半配信)
 「これが私です」「自然体」は態のいい開き直りではないのか。色がついた「私」や「自然体」に疑義を呈しているのにトートロジーに誘い込む。「先ほどから何度も申し上げているように」を常套句に煙に巻く安倍流そのものだ。戦前志向勢力は女性に違和感を抱くどころか、「天照大神の再来」と持て囃すネトウヨもいると聞く。拙稿で「巫女然とした面容が怖い」と評したように、それほど彼らの琴線に触れる「巫女然」たるものがあるといえる。思考停止した脳みそには屈折した感性しか残ってはいないのだから。
 善場家は「世田谷三大地主」のひとつ。下北沢の地を開墾した一族である。父親は商社勤務で、7歳まで当時の西ドイツで過ごした。東大医学部健康科学・看護学科卒。
 高市早苗は熱心なT理教信者で裕福な両親の元で育つ。在米経験もあるが、強い戦前志向を持つ。黒い噂は数多い。神戸大学経営学部経営学科卒。
 学歴で決まるわけではないが、俚諺は氏より育ちと訓える。両方備われば文句なし。勝負は明らかであろう。 □


Windows 11

2021年09月09日 | エッセー

 Windows 11が間もなくリリースされる。6年ぶりのバージョンアップである。アンドロイドの取り込みはもとより、クラウドコンピューティングへのとば口だという。クラウド化が成ると、サーバー、ストレージ、データベース、ソフトウェアなどがユーザー側に不要となる。クラウドでソフトを使い、データはクラウドに預ける。こちらはすっかり身軽になる。オンデマンドの、またはミニマリズムの究極形だ。おそらくPCの外形も大きく変化するだろう。携帯がガラケーからスマホに移行したように。
 さて酢豆腐はそのくらいにして、引っかかるのはなぜ「cloud」なのか、だ。Windows 95まではログオン画面に雲はなかった。ソフトの小窓が雑然と並んだ無粋な画面だった。それが95で突如変身した。PC史上の一大画期であった。
 「cloud」とは曇、大群、集団をいう。比喩的に、全体像が掴めない茫たる塊を指す。「World Wide Web」は蜘蛛の巣。今の呼び名は「ネット」が主流だ。でも「ネットファンディング」ではなく、「クラウドファンディング」と呼ぶ。資金を投ずる危うさが後者のイメージに近いためか。雲を掴むというではないか。
 ネットと言いクラウドと言っても、その実態は地上に散在されたサーバー群である。ならば、「リゾーム」が的確ではないのか。根茎、「リゾーム型」には水平・横断的関係の中で多様な価値観が交わり新たな創造をしていくとの謂がある。だが、目線が潜るより大空を仰視した方が断然晴れやかだ。やはり、空と雲に如くはない。なんせ、Windowsは世界への窓なのとから。
 11はまだ玄関口である。フルバージョンのクラウドまでにはまだ時間がかかる.最大の関門はセキュリティーである。こちらもウイルスとの熾烈な攻防は避けられない。「with コロナ」の伝は通じない。政府の対策や如何に。バラバラの縦割り行政は雲を掴むように頼りない。
 Windowsとは直結しないが、刻下サイバー空間では一国の存亡が掛かった熾烈な攻防が繰り広げられている。「サイバー戦争」だ。「cyber」はサイバネティクスの略。通信・制御工学の学際を跨ぐ学問を指す。「電脳」とも訳される。サイボーグ、通信、交通、犯罪などフィジカルでシステマティックな意味合いが強い。それゆえか、争い事に冠せられるようになった。
 この「サイバー戦争」が瓢箪から駒なのだ。その高度化に伴い核抑止論を無力化しつつある。
 内田 樹氏は米軍は戦闘管理ネットワークを攻撃するサイバー攻撃で中国に一歩先んじられ、戦略の根本的な見直しを強いられているという(「コロナと生きる」)。一見戦争の垣根が低くなるようにみえるが、核のボタンが押せなくなるかもしれないパラドキシカルな展開だ。しかし、そこには「絶対悪」を封じ込めるポテンシャルが秘められている。
 人道に反する毒性は温存されたままではあるが、次善の策、緊急避難にはなる。金勘定からも5000億円超もするイージス艦よりもコスパは飛躍的によくなる。人道などという高見を期待できない本邦政府なぞは疑似餌で釣るほかない。早晩役立たずになるイージスやステルス、ミサイルを売りつける米政府はもっとあくどいが……。
 ともあれWindows 11は衆望を担いつつ世界に羽撃く。湧き出ずる雲居を突き抜け、どんな蒼穹を見せてくれることか。健闘を祈る。 □


蟋蟀

2021年09月08日 | エッセー

 晩夏になると、自室の外でコオロギが鳴く。
 ジー、ジー、ジー。ジー、ジー、ジー。ジー、ジー、ジー…………
  囂しい。
 枕草子はきりぎりすと呼んで、趣ある音色(ネイロ)と愛でる。
「虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。きりぎりす。はたおり。われから。ひを虫。螢。」(第41段)
 だが、無粋な者には騒々しいばかりだ。ただ、秋の到来は告げてくれる。白秋は四季の括り。畢生に準えるのは哀しい。それでもなお、終わるのではなく、畢っていく。せめて錦秋を纏いつつ畢りたいものだ。
 蟋蟀。蟋も蟀も渦巻きの形をいう。螺旋はやがて芯で果てるし、法螺は果てに音(ネ)を放つ。凝縮と拡散。巧い名付けだ。往く季(トキ)と来る季を縮め拡げて、季節の端境を謳いあげる。
 「Abbey Road」 の 『You Never Give Me Your Money』で、コーダから次のイントロまでコオロギの音(ネ)を長々と差し込んだのはP.マッカートニーだった。あの集(スダ)きを恋歌と識ってのことだったか。天才のお遊びは天啓に似る。
 ズームインすると怪異な容態をしている。後脚が長く太い。跳躍するためだ。なんと前脚間接部に耳があるという。複眼のギョロ目。細く伸びた触覚のひげ。まるで宇宙探索機のようだ。
 この星に昆虫が現れたのは6億年前。今や100万種、動物種の7割。地球は昆虫の星でもある。だからであろうか、人類未踏の星に最初に乗っ込む探査機がコオロギに近似しているのは……。空想と妄想はつい綯い交ぜになる。だが、愉しみにはなる。
 食用に供するムーブメントがある。食糧難の切り札だという。餓死に直面してもなお御免蒙りたい。カニバリズムとはいわぬまでも、うっすらと似た神経が逆立つ。少なくとも文化的蛮行ではある。
 居所を確かめようと外に出てみた。ピタッと鳴き止む。お得意の擬死であろうか。家主と同じく鳴りを潜めたか。 □


if文

2021年09月06日 | エッセー

 占領下の米軍を除き、日本に外国軍が入ったことは肇国以来一度もない。正確にいうと、米軍は国同士の戦いの末完敗した結果だ。そうではなく、内戦に外国軍が介入した事例はかつて皆無であった。
 幕末の倒幕・佐幕両派とも兵器の購入や軍事的アドバイスは受けたものの、直接的な軍事同盟や軍事介入はまったくなかった。討幕側にイギリス軍、佐幕にフランス軍が派兵され代理戦争と化し泥沼化する。そういう最悪のシナリオは避けられた。中国や朝鮮半島の歴史に比し、これは驚嘆に値する。と同時に同族とはいえ、自前のリソースのみで戦い、一方は勝ち一方は負ける。その健気さは誇るべき歴史ではないか。徳川300年が造り上げた武士という人間の一典型が示した高々とした矜恃であったろうか。感謝しておかしくはない。アフガンの混乱を目の当たりにして、その感を一層強くする。
 9・11の意趣返しにオサマ・ビンラディンと率いるアルカイダを殲滅するため、アメリカは軍事侵攻した。目的は達したが、今度はアルカイダを保護していたタリバンが正面の敵となった。結局は内戦に介入する破目に。一度はタリバンに勝利し民主化は進んだが、新政府が腐敗し民心が離れる。踵を接してタリバンが復活。再びアフガンはタリバンの手に。しかし駐留20年、米軍の死者は2万2千人にも及ぶ。厭戦気分も満ちる。公約にも掲げた以上、混乱には目をつむってでも退くほかはない。と、そんな経緯である。
 幕末、日本も同じ道を辿ったかも知れない。思想家内田 樹氏の卓見を徴したい。
〈「歴史に『もしも』はない」と言う人たちは、今ここに存在する現実はすべてひとしなみに同じ歴史的必然性を持ち、同じ重量、同じ厚みを持っていると言いたいのでしょうか。でも、僕はそういう考え方には同意できない。「もしも」ある出来事が起きた場合に「それから後にまったく変わってしまったもの」と、「それから後もあまり変わらなかったもの」があるからです。僕はそれを「弱い現実」と「強い現実」というふうに言い分けるようにしています。この「強い現実」と「弱い現実」を識別することは知性にとってきわめて重要な作業だと僕は思います。でも、ほとんどの「自称リアリスト」はすべての現実に等しい現実性を賦与している。存在するものは存在する、以上終わり。それが彼らの現実認識です。現実をその現実性の濃淡によって識別するというようなことを彼らはしません。〉(「街場の戦争論」から抄録)
 「存在するものは存在する、以上終わり」は思考停止とも、反知性主義ともいえる。最も知的負荷が掛からないから楽ちんではあるが、道を過つ危険性は最も高い。それでいいならどうぞご自由にであるが、当方は御免蒙る。歴史にif文を挿入して再考するのは将来に道を過たぬためだ。
 自衛隊機の派遣はズッコケた。散々アメリカのお先棒を担いできた報いだ。大国ぶって外国の内戦に介入すると、どういうしっぺ返しが来るか。かつて「弱い現実」を「強い現実」と取り違えた結末だ。幕末、攻守共に「強い現実」を正確に捉えた聡明な日本人、『真正のリアリスト』はどこへ行ったのか。日露戦争以来、この国はif文を置き忘れて来たようだ。 □


ぶっちゃけて言えば

2021年09月05日 | エッセー

 ぶっちゃけて言えば──
▼7月8日の拙稿『あれはデモだ』で「菅政権は確実に滅ぶ。」と断じた。その通りになった。別に驚くことはない。
▼「あんなくだらないヤツ」はその器ではなかった。なんにもできなかったのはフリーズしたから。潰れるのは当たり前。
▼戦後最悪の政権は安倍で、戦後最も下らない政権は菅だった。
▼「岸田が五月蠅いからあんた辞めてよ」と一階の上に迫ったら、「だったらお前も辞めろ」になった。多分。
▼かつて政権からずり落ちたのは麻生マウンティング爺さんのせいだった。今さらどうこう言う資格はお前にはない。
▼五輪で盛り上げて政権浮揚。そうは問屋が卸さない代わりに、コロナが卸さなかった。
▼パフォーマンスお得意の河野のあんちゃん。舌足らずの回らぬ舌をグルングルン動かして言語明瞭意味不明のアナウンスをしても、すぐ飽きられることだろう。
▼涙ぐむなんて下手な小芝居付きで、小泉のあんちゃんが辞任を迫ったらしい。浅田次郎御大の最新作『兵諫』にピッタリ。だから、並みな作家ではないと申し上げている。
▼あほワイドショーは政局で持ちきり。例の官邸のポチ・T崎某も引っ張りだこ。「驚きました」なんて、てめーの無能を曝け出し。とっくに要はない。
▼途端に手を挙げるトリックスターたち。塗炭の苦しみが待ってるぞ。(巧い駄洒落?)
▼筋論だかなんだか知らないが、煮え切らないI破某。なんのことはない。勝負勘がないだけだ。それになにより勝ち運がない。かわいそう。
▼T市早苗。日本会議の大立て者にして、最古参の安倍ガールズだ。あのいかにも巫女然とした面容が怖い。安倍が推すらしい。安倍のゾンビか! あー、キモい! 
▼国難といいながら、総裁選のお祭り騒ぎ。所詮、コロナは政争の具か?
▼安倍・菅政権で8年8ヶ月。外交・内政すべて袋小路。張りぼて・目眩まし政治の総括がまず先だろう! ── 
 上記が悪口、罵倒の類いとして品性に欠けると仰せになる向きには、以下の内田 樹氏の達見を翫味願いたい。
〈例えば、相手を罵倒するとか、ひどいことばを発して傷つけるということがあったとしますね。でも、そのことばを発したあとで、顔色が良くなってきて、ご飯もおいしく食べられて、快食、快便、快眠となってきたとすれば、そのことばは生存戦略上言うべきことばだったんだと思います。逆に、言ったあとに気分が悪くなったなら、それは言うべきではなかった、と。(「健全な肉体に狂気は宿る」から)
 断っておくが、悪口、罵倒の対象はすべて上位者である。同位・下位者を槍玉に挙げたことは今までただの一度もない。今回も、もう書いているうちから顔が火照り、腹が減って、おまけに眠くなった。早めの昼寝をしようかな。□


英王室か!

2021年09月04日 | エッセー

 5月の拙稿から。
〈圭くん・眞子さん かわいそう
 私見を述べるなら、婚約相調わない理由は内在的には宮内庁の怠慢、外在的にはアンバイ政権のアパシーだ。
 こんなことはいち早く宮内庁が動いていればとっくに片付いている。まず公になる前に情報を掴んでなければいけない。そうすれば、内々に処理できる案件だ。隠すのではない。次善の策であっても事を進めるための方便だ。大人の知恵だ。それを事もあろうに、先般の小室文書に眞子さんが関与していたと仄めかした宮内庁幹部がいた。もう何をか言わんやである。
 政権中枢も助力すべきだった。しかし、その形跡はない。なぜか。外在的にアンバイ君がアパシーを決め込んだからだ。皇位継承に無関係な婚約なぞ関心が無い。関心があるのは「21世紀の大日本帝国づくり」のみである。あるいは、「理想的家族の典型」に下手に容喙して保守層の反発を喰らうことを回避したのかも知れない。なにせ「あんな男」でも狡知は働く。〉
 晩夏にいたり、事は動いた。
 要録すると、朝日新聞は次のように報じた。
〈眞子さま、年内結婚で調整 儀式なし・一時金辞退意向 小室さんと米で生活
 結婚の延期発表から3年半。小室さんが米ニューヨーク州の法律事務所に就職する見通しとなり、2人で同州で生活する基盤が整ったとみられる。眞子さまは婚姻届を提出して皇籍離脱した後、年内にも米国へ移ることで調整が進んでいる。結納にあたる「納采の儀」や天皇、皇后両陛下にあいさつする「朝見の儀」など、女性皇族の結婚時に通例行われる儀式は行わない方針。関係者によると、結婚への賛否を問う声や、新型コロナを踏まえたという。戦後、初めての事例となる。皇室経済法で定められた満額1億を超える一時金は財源が税金で、母親をめぐる「金銭トラブル」への批判もあることから、受け取ることを辞退する考えを持っているという。〉(9月2日付)
 民草の一人として慶賀に堪えない。同時に別種の感慨がある。それはイギリス王室化である。
 今年2月19日の報道から。
〈英王子夫妻、王室を「最終離脱」 公務復帰せず、女王に伝達
 昨年3月に英王室の主要公務から引退したヘンリー王子と妻メーガン妃がエリザベス女王に対し、「最終的な離脱」の意思を伝えた。王室が19日発表した。「引退」については1年後に見直しが行われる予定だったが、夫妻は公務に戻らず、王室の活動から完全に離れることを決めた。これにより、夫妻が務めてきた軍の名誉職や慈善団体などのパトロン(後援者)の役職を返上する。〉(時事ドットコムから)
 「経済的に自立する」と公言し、今、アメリカの高級住宅地に住んでいる。
 高級住宅地かどうかは別にして、移住先はアメリカ。元々2人の結婚はかなりイレギュラーであり。結婚後もトラブルが続いた。しかもメーガン妃の父親との確執もあった。
 新婦と新郎、父親と母親を置換すれば、かなり強いアナロジーが浮かび上がる。つまりはイギリス王室化だ。それで、今稿のタイトルはタカトシ風に捻ってみた。
 戦前志向の諸氏には納得いくまいが、「人間宣言」が75年を経て一つの結実を見たと捉えたい。特に双方とも俗なトラブルを抱えつつも、恋路を駆け抜けたところが胸に迫る。「別種の感慨」とはそのことだ。この趣旨の論調は寡聞にして知らない。だから、敢えて呵した。 □


「だらだら」のすゝめ

2021年09月03日 | エッセー

▽人間形成をする場は学校だけではない。まずは、「学校のみが学びの場」という思い込みをなくしてみてはどうだろうか。
▽今、「子どものための学校ではなく、「学校のための子ども」になっている。
▽共生とは同化ではない。それぞれが自分の価値観を持ったまま、お互いに協調していける道を探っていくことだ。
▽視点の持ち方は、「スラム、かわいそうだね」ではなく、「よくこんなところに人間が寝てるな、よく食べる場所をつくれているな。一体どうやって?」ということではないか。
▽日本は、「使える人間」をつくるための教育制度が中心になっているようだが、それは、「本人が満足できる人生を送る」という教育とは全く異なるものである。
▽日本には、偏差値が高いほうが優秀で幸せになる確率が高いという価値観がある。

 ほんの数例であるが、実に高々とした見解であり警句でもある。頂門の一針ともいえよう。
  京都精華大学──「自由自治」「人間尊重」を建学の精神として1968年に設立された4年制私立大学。学生数約3800名。国際文化学部、芸術学部、メディア表現学部など7学部を擁する。日本初のマンガ学部設置で知られる。校歌・校章なし。国旗掲揚、国家斉唱もなし。相次ぐ不祥事に揺らいだ時期もあったが、今着実な再興を遂げつつある。
 前述の洞見はこの精華大・学長によるものである。名はウスビ・サコ、西アフリカに位置するマリ共和国の出身、55歳、黒人男性。目を見張るような偉丈夫である。
 1985年に中国留学の後、91年大阪へ。日本語学校で学び、京大研究室に所属。2000年、京大で工学博士号取得。01年精華大講師、翌年日本国籍取得。13年同大文学部教授・学部長に就任。そして18年、学長に選出された。
 氏の研究テーマは「居住空間」「京都の町家再生」「コミュニティ再生」「西アフリカの世界文化遺産の保存・改修」など。社会と建築空間との関係性を多様な視点から調査研究を進めている。共著書に『知のリテラシー文化』(ナカニシヤ出版)、『現代アフリカ文化の今15の視点から、その現在地を探る』(青幻舎)などがあり、先述引用の
  『サコ学長、日本を語る』
が昨年7月朝日新聞出版から上梓された。本著の肝は「だらだら」、頻出ワードは「なんでやねん!」。奇しくも京都出身の“おいでやす小田”とカブるが、どちらが先かは定かでない。もう一つの十八番が「ええやんか」。これは「だらだら」と同意語である。さすが“上陸地”が大阪だっただけに関西弁が抜き身を収める按配よき鞘になっている。東京の言辞であれば、刃傷沙汰はまちがいなかった。地の利というべきか。
 その「だらだら」について、学長はこう語る。
〈果たして日本人には、本当の意味でだらだらしたり、何もしないでポーッとしたりする時間はあるのだろうか。だらだらできないような国民性。常に将来につながることをやっていないとダメだという空気。何かの役に立っていなければ生きられないようなプレッシャー。就職が全てだという思い込みや、社会のシステム。それらのことと、引きこもりや自殺というのは、全てつながっているのではないか。日本人よ、もっと肩の力を抜こうぜと、私は言いたい。〉
 チコちゃんの「ボーっと生きてんじゃねーよ!」を全面否定! 「ボーっと生きてねーじゃーねーかよ!」と叱られる逆転。なんと爽快な。日本人への鋭い警鐘であり、貴重な提言である。これが本著の画竜点睛とみたい。
 片や、「キッチリする」面もある。帰化は学長にとって日本永住の意志表示ではないという。
「国籍を取ったけれど、日本文化と同化はしていないということだ。私はマリ人であり、マリ文化を持った日本国籍の人間だと自覚している。日本の多様化を体現する例として私がいると思っている。」
 冒頭の「共生とは同化ではない。それぞれの価値観を持ったまま、協調」することの体現であろう。有言実行の人だ。
 本書の<解説>で内田 樹氏は、
〈サコ先生の言う「だらだら」というのは、「査定されたくない」「格付けされたくない」「意味づけされたくない」という積極的な志向のことなんじゃないかと僕は解します。〉
 と繙いている。逃げではないのだ。「積極的な志向」である。画竜点睛の中身はこれだ。
 外国人の眼から見た日本論・日本人論は飽きるほどあるが、学界の真っただ中で自らも奮戦しつつ日本を語る人は希有であろう。読んで損はない一書である。
 括りに驚天動地の実話を紹介したい。
〈マリの村落部では親が先生に賄賂を渡すことがある。目的は、「うちの子の成績を悪くして学校をやめさせてほしい」というものだ。成績でこけない限り学校教育は続く。つまり、「こけさせればいい」のだ。一生懸命学校に行かせるのではなく、むしろ一生懸命学校をやめさせようとする。なぜかというと、マリでは多くの人が、学校以外に人間形成の場があるということを知っているからだ。〉(抄録)
 所詮はてめーのプライドのため、突然変異でもしない限りてめーの能力を忠実にコピーしているわが子を学校に丸投げし、何かにつけてねじ込む毒親、モンスターピアレントが聞けば腰を抜かすにちがいない。
 サコ学長はキッパリと断言する。
〈教育とは、偏差値でも識字率でもない。教育は何のためにあるのかというと、個人を幸せにするためである。幸せとは何か。その基準は、それぞれの国や地域、民族、個人によって違い、そこには決まった概念もイメージも、正解もない。〉
 二言目には「あなたのためよ」と宣う毒親ではないと言い張る病識なき毒親諸氏よ、なんか反論があるか?  □