伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

健さん 異見

2014年11月26日 | エッセー

 先ず、ありきたりなことを書く。
 背(セイ)が高くて、二枚目で、かつ渋い。一途で生真面目で、ストイック。分け隔てなく礼節を尽くし、目配り、気配りは心の襞に触れる。謙虚で寡黙、さらにシャイ。滅私に徹し忠義に篤い。ひたすら忍耐を貫き、遂に暴発することも辞さない……。老若男女、右から左まで、各界、位階の如何を問わず、健さんへの讃辞と弔辞は今も途切れることなく続く。
 追悼番組に忘じ難き場面があった。遺作がクランクアップし帰途に就く時、群衆から「健さまー」の声が掛かった。「さん」ではない。それを聞いて、高倉 健とはおそらく日本人が共有し得た最後の『国民的ロールモデル』ではないか、と愚案が湧いた。ありきたりといいながら随分突飛な着想と嗤われそうだが、“ありきたり”を追っかければそこにいく。いわば『現代の二宮尊徳』である。少なくとも団塊の世代までは、郷愁とともにくっきりと瞼に浮かぶあの立像、二宮金次郎だ。
 刻苦勉励し、自ら国家へ献身する理想的な国民像。つまりは国民的ロールモデルとして、山縣有朋らがこの江戸後期の農政家を担ぎ出したらしい。新しい時代の亀鑑が旧世代から導出されたのは皮肉ともいえるが、息せき切って奔る明治国家のブリコラージュともいえよう。ヒーローはいつの時代にもいるが、ロールモデルはそうはいかない。
 一転、戦後は不在が続く。外からはエコノミックアニマルと揶揄されたが、煎じ詰めればロールモデルなき狂騒はそこに至るほかはなかったのだろう。お上からの下達などできるわけはなく、亀鑑からは隔絶していくのが世の流れであった。だがアメリカナイズし、やがてグローバライゼーションする中で、極めて日本的な価値観を帯したロールモデルが密かに冀求されてきたのではないか。それが、健さんだ。文化勲章はそのオーソライズであった。

  さて、これからはありきたりでないことを書く。
 前稿で「12年10月『微かな違和感』と題して、"足を洗"った後のメタモルフォーゼについて愚慮を廻らせた」と述べ、拙稿を引いた。臆面もなく、また引く。
〓唐突な引き合いを出そう。「寅さん」だ。数年の差はあるが、ほぼ同時進行した作品だ。設定も役柄もまったく違うとはいえ、寅さんに「なった」渥美 清と花田秀次郎に「ならなかった」高倉 健と、二様(フタヨウ)の役者人生はそのものが大きな演技といえなくもない。それにしても、不思議なシンクロニシティーだ。そういえば「寅さん」とはいっても、「清さん」とは言わなかった。「健さん」とはいっても、「秀さん」とは言わなかった。振り返れば、絶妙な使い分けだったかもしれない。〓
 テレビCMのコピー「不器用ですから」は、健さんそのもののキャッチコピーとなっている。しかし如上のメタモルを勘案すると、決して不器用とはいえない。むしろ、器用だ。「寅さん」に喰われた渥美 清こそ不器用ではないか。現に「寅さん」開始以降、渥美 清は20数作品に出てはいるが、評判は芳しくなく成功したとはいえない。比するに、世に棹さす健さんの鮮やかな変身。これを器用といわずして、なんとしよう。両者のクロニクルを並べれば一目瞭然だ。不器用を代名詞にできるほど器用な役者を、まさか不器用とは呼べまい。それにしても秀次郎の「死んでもらいます」と、対するに冗談とも取れる生命保険のCM。おまけに「不器用ですから」とのコントラストには目が眩む。
 話はまだある。前言を翻すと、健さんは不器用な役者である。不器用の意味は、多彩ではないとの謂だ。役柄はいつも同類である。再びクロニクルを繙けばすぐ解る。本人も語ったように前科者の役どころがほとんどだ。「幸福の黄色いハンカチ」は象徴的であろう。穿てば、花田秀次郎出所後のメタファーともいえる。さらに穿って、戦前の日本が犯した前科を背負っていたと深読みしてはどうだろう。生年の昭和6年は紛れもない戦前だ。柳条湖事件から満州侵略が本格化した年だ。アウトローゆえの罪科。断罪。重い業を抱えての再起。健さんのクロニクルはそのまま昭和史のシンクロニシティーだといえば戯れ言に過ぎようか。
 括りに、智者の洞見を徴したい。内田 樹氏は『日本霊性論』(NHK出版新書)で、こう語っている。
◇人間たちが集団的に生きるようになって、最初にできたのは、メンバーたちの間で起きた利害対立の調停のための「裁きの制度」だったと思います。等権利的なメンバーの間で紛争が起きた場合に、誰かしらが理非を決さなければならない。では、その資格を持つのは誰でしょうか。それは個人を超えた、集団的な規範を深く内面化したと想定される人物です。「裁き人」は集団的な規範を内面化しています。個人としての「自分ひとりの利害得失」とは別に「集団としての利害得失」を考量することができる。おのれの中に公私の分裂を抱え込んでいる人です。
 「義理と人情をはかりにかけりゃ」という『唐獅子牡丹』の歌はうっかり聞き逃してしまいそうですけれども、「自己利益」と「公共の福祉」の間での葛藤を語っているのです。このふたつの原理の間で葛藤できるということは、この人がすでに分裂を抱え込んでいるということです。私人としてはこうしたいが、公人としてはこうせねばならない。そういう分裂に苦しむ人間だけが「裁き人」たる資格を有している。公私の矛盾に引き裂かれている状態に耐えうる人間、それが「裁き人」であるための最初の条件だったと僕は思います。◇
 「公私の分裂を抱え込んでいる人」「公私の矛盾に引き裂かれている状態に耐えうる人間」とは「大人」と同意であろう。自戒を込めていうと、近年めっきり「大人」が少なくなった。希少種なればこそのロールモデルとして健さんが体現したものは、その「大人」ではなかったか。ついでに想像を逞しくすれば、「不器用」とは「大人」のメトニミーにちがいなかろう。 □


さらば、青春

2014年11月19日 | エッセー

 思い出の青春には嘘が混じる。美しく糊塗せずに、たれが自らの青春を語れよう。たとえば次の一文など、涙を堪えずして読めはしない。

◇僕は全共闘運動というのは基本的に反米ナショナリズム運動、「攘夷」の運動だったと思っています。幕末から始まった「攘夷」運動の、これもまた何度目かの「アヴァター」だったのでした。
「夷狄を打ち払う」というスキームを与えられると、日本人の政治的幻想はいきなり過熱する。それは明治維新から、二次の世界大戦、六〇年安保闘争、全共闘運動……と変わることがありません。特に一九六七年から六八年にかけて、新左翼が登場したときに、その「攘夷」的本性は際立ったと僕は思っています。
 それは直接的には「ベトナム反戦闘争」でした。そのとき、アメリカは世界最強の軍隊を以て、インドシナ半島を襲い、農民たちを殺し、森を焼き払っていました。これを見て日本人たちは、深い「疾しさ」を覚えずにはいられなかった。二〇年前に日本人がスローガンを呼号するだけで、結局無条件降伏した「本土決戦」の幻影をそこに見たからです。
 太平洋戦争当時よりさらに強大な軍事力を備えたアメリカ軍を相手に、貧しい武器でベトナムの人々は戦っている。日本人ができなかったことを彼らはしている。しかるに、日本はその戦いを支援するどころか、アメリカの軍事行動を後方支援し、ベトナム特需で潤ってさえいる。そういう日本人のありようを「恥ずかしい」と思う感受性がベトナム反戦運動には深く伏流していたと僕は思います。
 ご存じのとおり、新左翼の学生たちはきわめて徴候的な表象をまとって登場しました。六七年の羽田闘争と六八年の佐世保闘争がランドマークになる事件ですけれど、注意すべきは、それがどちらも「港」が舞台だったということです。羽田空港から佐藤栄作がベトナムに行く、佐世保港にエンタープライズが入港する。それを阻止する。いずれにせよ、「港」はアメリカがわが国に出入りする回路なのです。そこを「塞がなくてはならない」と新左翼の若者たちは考えた。
 そのときに彼らがどんな格好を採用したか、みなさんご記憶でしょう。
 ヘルメット、ゲバ棒、旗。
 これらは記号的には、兜、槍、旗指物を表象していたのだと僕は思います。これはほとんど戦国武将のいでたちです。新左翼の運動は、記号的には、幕末の志士の攘夷行動を再演していた。僕はそう思っています。
 ですから、新左翼の運動の大学における展開形である全共闘運動が際立って自己処罰的だったのも当然だろうと思います。
 全共闘運動のもっとも突出したスローガンは「大学解体」と「自己否定」でした。自分たちが今いるこの場所、プチブル学生たちが温室の平和を亨受しているこの場は破壊されなければならない。学生たちはその特権を剥奪され、路上に放り出され、無能で非力な赤裸な人間として、それにふさわしい処遇を受けなければならない。「大学解体・自己否定」とは言い換えれば、「私たちを処罰せよ」ということです。そのような自己処罰的なメッセージが全共闘運動を貫いていた。そのときの「我々」というのは、要するに「日本人は」ということだったと思います。戦後二〇年の対米従属と経済成長至上主義で贖った、この「卑しい平和」を恥じるナショナリスティックな心情がこの運動の情緒的な高揚を担保していたのでした。
 全共闘運動は数年間で、破壊すべきものを破壊し尽くして消え去りました。とりあえずアメリカはベトナムで敗北しました。ベトナム人民の勝利は日本人の「疾しさ」をいくぶん緩和させたのかもしれません。◇(内田 樹著小学館文庫『街場のマンガ論』から)

 なんと温かいことばの群れであろう。
 向こう見ずな「『攘夷』的本性」の奥に「疾しさ」を掬し、頼まれもしない「『本土決戦』の幻影」を代替したと準える。後継した全共闘運動に谺した「大学解体・自己否定」に、攘夷の果ての「自己処罰的なメッセージ」を擬する。さらに、運動の底に「『卑しい平和』を恥じるナショナリスティックな心情」を了する。
 「プチブル学生たち」の軽挙妄動にこれほど宥和に満ちた理路を通してくれた言説が、かつてあっただろうか。寡聞にして他に例を挙げ得ない。
──「網走番外地」(65年)で野性味いっぱいに高度経済成長時代の日本のムードと任侠という世界を融合させ、映画全盛時代のなか、ポスト鶴田浩二として東映の看板スターを担い続けた。が、70年代、40代の働き盛りに、東映の路線変更と共に、ヤクザ映画から"足を洗う"。──
 と、朝日新聞はプロフィールに書いた。間違ってはいないが、余りにもステレオタイプに過ぎよう。“高度経済成長時代の日本のムードと任侠という世界を融合させ”たとはいかにも舌足らずではないか。あの時、若者が“ヤクザ映画”に足を限りに向かったには訳があった。世の動きに最もセンシティブでリニアに応じる世代が「戦後二〇年の対米従属と経済成長至上主義」に突きつけたアンチテーゼこそが、“日本のムード”の実質ではなかったのか。人熱れで噎せ返し煙草の煙が充満する埃っぽい池袋の深夜劇場で俄に轟いた雪崩の拍手こそが、見覚えたト書きに送った合いの手こそが“融合”の証ではなかったのか。“任侠という世界”とは「自己処罰的なメッセージ」、つまりは「大学解体・自己否定」の写し絵ではなかったのか。半世紀にも及ぶ星霜を経て、いま、健さんに酔った青春の日々が脳裏を駆ける。
 拙稿では、過去二度健さんに触れた。
 一度目は12年10月「微かな違和感」と題して、"足を洗"った後のメタモルフォーゼについて愚慮を廻らせた。
〓唐突な引き合いを出そう。「寅さん」だ。数年の差はあるが、ほぼ同時進行した作品だ。設定も役柄もまったく違うとはいえ、寅さんに「なった」渥美 清と花田秀次郎に「ならなかった」高倉 健と、二様(フタヨウ)の役者人生はそのものが大きな演技といえなくもない。それにしても、不思議なシンクロニシティーだ。そういえば「寅さん」とはいっても、「清さん」とは言わなかった。「健さん」とはいっても、「秀さん」とは言わなかった。振り返れば、絶妙な使い分けだったかもしれない。〓
 二度目は昨年12月「健さんの含羞」と題して、文化勲章受章について管見を記した。
〓候補に挙がったとの報道を聞いた時、おそらく受けないだろうと推測した。しかし自儘が通るほど周辺の与圧は生中ではあるまい。映画俳優としては初の受賞だ。余計逃げられはすまい。だから、たっぷりと含羞を帯びつつ晴れ舞台に臨んだとみたい。
 式でのお辞儀。なんと綺麗なお辞儀であったことか。82歳が素で頭(コウベ)をキリリと垂れる。男の含羞をその挙措ひとつに包んで。
 翌々日の茶会は風邪気味のため欠席した。含羞のあまり体温に不調を来したのであろうか。下衆の勘ぐりだが、これで帳尻は合った。正直、稿者は妙に安心したものだ。〓

 嬉しくもないが稿者はこの月、行政区分上の「高齢者」となった。その直前、スターは生者の列を離れた。訃報を聞いた刹那、青春が一陣の風のように記憶の彼方へ吹き去った。

 合掌。(哀悼に代えて) □


焼酎の水割り

2014年11月15日 | エッセー

 先日、居酒屋でのこと。麦焼酎の水割りがどうも薄い。芋に替えても、やはり薄い。再び、麦に。確かに薄い。 
 お姐さんを呼んで、薄いからもっと濃くしてと言うと、
「マニュアル通りに入れておりますので、焼酎は増やせません。どうしてもとおっしゃるなら、水を減らしましょうか」
 ときた。
 帰りの道々、荊妻は憤懣やるかたないようで、マニュアルどうのこうのは店側の事情だから客に言うべきではない、と息巻く。ほかの銘柄に替えてみましょうかとか、もっとほかに言い方があるだろう、と畳み掛ける。ごもっともだ。しかし、稿者は違う。実は、お姐さんの一言に「一本取られた」と感じ入っていたのだ。
 焼酎を増やさず水を減らしても、全体の量は減るものの濃くなるのは同じだ。揚げ足を取られるとはこのことだろう。いや、参った。荊妻は単純だともいえるが、お姐さんは口が減らなかったものの客は確実にひとり減らした勘定になる。
 この突然の解散(きっと)も、なんだかあのお姐さんの口振りと似てはいないだろうか。2年前の3党合意を前提にするなら、焼酎という名の消費税を増やす代わりに社会保障たる水を減らしますよ、といっているに等しい。あるいは水割りを濃くしてくれという切なる生活向上の願いを逆手に取ったか。つまりは、誤算のアベノミクスでいっかな増えない給与という焼酎の代わりに消費税なる水を減量して一時(イットキ)の目眩ましに出たか。
 無理筋では、消費税率を据え置けば消費が上向いて景気が良くなり税収全体は増えるとの見方もある。薄い水割りも杯を重ねれば、そのうち酩酊できるとでもいいたいのか。
 何にせよ、ドーピング経済としか呼べないアベノミクスが破綻を来たしはじめていることは確かだ。第一次内閣を放り投げた時、民主党の仙谷由人氏が「あんな子どもに総理大臣なんかやらせるからだ!」と言い放った。またもや、「あんな子どもに、二度も総理大臣なんかやらせるからだ!」とならないとも限らない。まさか、失策した“アベノミクス焼酎”を“国民プール”にぶちまけて水割りを造ろうなんていう算段ではあるまいか。そんなものはだれも呑まないことだけは請合いだ。
 ノーベル賞を受章した中村修二博士が自著(三笠書房「考える力、やり抜く力 私の方法」)で、発想の転換に触れている。物を燃やして得ていた光を、燃焼に不可欠な空気を抜いた真空で生じさせる。このエジソンによる逆転の発想が世界を変えた。さらに発想は転換し、熱に因らない電子を使った発光ダイオードへと光の大革命が起こった、と。
 経済のありようも、いま根底的なパラダイムシフトが問われている。本年5月の拙稿「我が解を得たり!」で紹介した水野和夫氏の「資本主義の終焉と歴史の危機」が恰好のメンターであろう。問題は現政権が「終焉」に対して無意識であることだ。未だ成長神話に縛されている。発想がそこから一歩も半歩も抜け出せないでいる。白熱灯段階で無為にして無策であるともいえる。まことに一刻は度し難い。
 青色発光ダイオードの材料として世界中がセレン化亜鉛を本命とするなか、中村博士はあえて見向きもされなかった窒化ガリウムを選ぶ。世界の常識に非常識な挑戦をした。博士はこう語る。
「確かに窒化ガリウムは、セレン化亜鉛に比べて可能性はゼロに近いとか、無謀だとか言われているけれども、それはセレン化亜鉛を用いるのが、世界中の常識となっているからにすぎない。そのうえ、常識と言われながら、いまだにセレン化亜鉛では成功していないではないか。ならば、セレン化亜鉛は世界の常識なのではなく、ただ単に思い込みにすぎないだろう。そんな常識など、ひょっとすると考慮に入れる必要などないのかもしれないのだ。人はその常識にまどわされて、何の疑問もなくセレン化亜鉛を選択してしまっているだけなのだろう。ならば、『ゼロに近い』と言われている窒化ガリウムを選択して青色発光ダイオードに挑んだとしても、何ら不思議はないはずなのだ。しかもこの材料なら、どこの大手企業も、ほとんどやっていない。だから、もしも製品として完成させることができれば、日亜化学の独自の製品として圧倒的に売れるだろう、私はこのように考えたのだった。」(上掲書より)
 「セレン化亜鉛は世界の常識なのではなく、ただ単に思い込みにすぎない」。セレン化亜鉛を成長神話に擬すれば、極めて示唆的ではないか。経済成長の先にあるフェーズに一番乗りせざるを得ない日本。『ゼロに近い』挑戦が実を結び、「日亜化学の独自の製品として圧倒的に売れる」。日本が世界に先駆けて人類史的地平を拓く。一週遅れの『戦争ができる国』を妄想するより比較を絶して崇高ではないか。
 焼酎の水割りからえらい遠くに話が飛んだ。水を減らして濃くしたって、客の足は遠のく。政治だって同じだろう。 □


腑に落ちない話

2014年11月08日 | エッセー

 1位  三井住友フィナンシャルグループ       0.002%
 2位    ソフトバンク                                      0.006%
 3位    みずほフィナンシャルグループ         0.09%
 4位    三菱UFJフィナンシャル・グループ       0.31%
 5位    みずほコーポレート銀行             2.60%
 6位    みずほ銀行                                      3.41%
 7位    ファーストリテイリング                   6.92%
 8位    オリックス                                        12.17%
 9位    三菱UFJ銀行                                 12.46%
10位    キリンホールディングス                     12.50%

 さて、何の順位だろう? ぶっちゃけ、儲けのうちからいくら税金を納めているか、その割合の低い順である。
 1位の三井住友フィナンシャルグループは純利益1479億円のうち、なんと300万円しか納税していない。だから、0.002%になる。といって、脱税ではない。
 これは国税庁出身で中央大学名誉教授の富岡幸雄氏の調査結果だ。税制のオーソリティである。今年9月に発刊された文春新書『税金を払わない巨大企業』で詳説している。先月読んで、衝撃を受けた。紹介が遅れたが(既読の方には河童に水練)、消費増税が詮議されるタイミングには丁度いいかもしれない。
 富岡氏は13年3月期で税引前純利益が600億円以上の大企業(資本金3億円以上、従業員300人以上)のうち、実効税負担率が32%以下の企業を35社リストアップした。見ての通り、超有名企業がズラリと並ぶ。別けても、銀行と持ち株会社がほとんどだ。列挙は省くが、11位以下も錚々たる企業が軒を争う。住友商事が12位13.52%、16位丸紅219.31%、日産自動車が20.45%で18位、トヨタ自動車は30位27.90%と並ぶ。
 上位10社で税引前純利益が合計2兆4千億円、法定正味税率を38%とすると、9100億円となるが、実効税負担率は平均7%で1640億円でしかない。35社全体でみると、税引前純利益が合計約9兆円。法定正味税率38%だと約3.2兆円になるところを実効税負担率は平均20%で1.8兆円しか支払っていない。大企業35社で約1.4兆円が国や地方の財布に入らず、35社の懐に納まっている勘定だ。「公平・中立・簡素」という税の三原則に照らしても、料簡できる話ではない。
 なぜそうなるのか。上掲書を徴していただければ合点は行くが、要するに課税ベースを“合法的に”脱法ギリギリまで縮減しているからだ。同書では“手口”を9つ挙げている。別けても凄まじいのは、「受取配当金益金不算入制度」である。国内他社の株を保有して得た配当金を、利益に算入しないでもいいという制度である。子会社や関連会社は、100%「法人間配当無税」。それ以外の企業でも50%が益金不算入である。海外の子会社については95%が益金不算入。つまり5%にしか税金が掛からない。産業振興、海外展開の推進に導入したものであろうが、世界3位の経済大国になってまでも既得権益が残っている。
 富岡氏はこう訴える。
◇(03~11年度までの9年間で、資本金10億円以上の巨大企業は65兆5495億円の受取配当金を得ているが)この制度を利用した課税除外分は48兆979億円あり、このうち巨大企業が約9割の42兆4538億円を占めました。この受取配当金を課税対象にすれば、国税の法人税だけで12兆4830億円もの財源がまかなえたはずでした。2014年に消費税が5%から8%に増税されましたが、内閣府は増税による消費の落ち込みがなければ、4兆円の税収増を推計していました。受取配当金を課税対象にした場合の法人税額は、増収税推計額の実に3倍以上の金額です。ということは、巨大企業の受取配当金を課税所得にすれば、増税をする必要などなかったのです。◇(上掲書から)
 なんとも大いに腑に落ちるではないか。
 さらに租税特別措置法による優遇税制にも触れ、資本金100億円超の巨大企業703社で6307億円に及ぶ減税の恩恵を受けていると指摘している。租特適用法人95万4505社の減税総額の3分の2を、0.3%しかない巨大企業が占めている。こちらはなんとも腑に落ちない。
 前々稿で触れた『あべこべことば』の伝でいけば、正反対に“腑に落ちない”御仁がほかにもいる。上記7位のファーストリテイリングは、757億円の純利益に対して52億円しか納税していない。しかるに、
「日本では法人税の実効税率は40%にもなる。ドイツ、イギリス、中国や韓国は20%台。これでは競争できるはずがない。ただでさえ高い日本の税率をさらに上げようという意見さえある。企業に『日本から出ていけ』といっているのと同じだ」
 と、柳井 正会長は呼ばわる。ところが、同社は前記のように税率は6.92%に過ぎない。富岡氏は「ドイツ、イギリス、中国や韓国の法人税率(20%台)の3分の1以下なのです。『競争できるはずがない』とおっしゃるわりには、柳井氏は日本でトップの大富豪です」と切り返す。
 よく知られるように、会長は「世界同一賃金」「年収100万円も仕方ない」「グロウ・オア・ダイ(Grow or Die)」などと揚言して憚らないお人だ。司馬遼太郎風にいえば資本主義の『鬼胎』に類する人物といえよう。冬に備えてHEATTECHがあるにはあるが、なんだか袖を通しにくくなってきた。
 関連して、同書ではグローバル企業への税制の不備、対応の遅れも取り上げている。「日本を棄て世界で大儲けしている」と手厳しく弾劾する。
 法人税率はシンガポールが17%、イギリスが23%と低い国もあれば、アメリカでは40%を超える州もある。その中で、日本は如上の通りだ。決して高いとはいえない。むしろ、低い。それでも、現政権は憑かれたように下げようとする。なぜか? 稿を替えて触れたい。片やバナナの叩き売りの如き円安誘導。両両相俟って、果たして公言したようなトリクルダウンは起こったのか。法人税制の特典は昨日今日の話ではない。起こるとしたらとっくに起こっている。だから、トリクルダウンの不発は毛筋ほども疑えないと確言できる。
 ともあれ35の大企業から法定正味税率38%を忠実に徴税するだけで1.4兆円が増収可能だ。繰り返すと、「巨大企業の受取配当金を課税所得にすれば、増税をする必要などなかった」のである。その他“手口”を塞いでいけば、消費税を上回る増収となるかもしれない。
 軍事費(防衛費)を除けば予算は潤沢にあるとはK産党の十八番だった。近年では「思いやり予算」の削減とは言うが、大上段の論をあまり聞かない。いかがなすったのだろう。むしろ法人税見直しにシフトした政策を並べている。稿者としては、期せずして意を強くする次第だ。また法人税制をキチンと見直せば、それこそがかつてM主党が騒いだ“埋蔵金”ではないか。
 そんなことをすれば企業は海外へ逃げる、というオブジェクションはお決まりのように起こるだろう。だが、上位10傑のうち大半を占める銀行は海外へは渡れない。よその国では商いにならない。それに大企業はすでに海外に越して荒稼ぎをしている。「配当金益金不算入」がある限り、本邦としては笊で水を受けるようなものだ。富岡氏は、多国籍企業は今や無国籍化し対抗する国家群とのタックス・ウォーズが勃発しているという。いつまでもあると思うな親と金、である。無国籍でゼロ・タックスを狙うマヌーヴァがいつまで保つか。世の中、それほど甘くはあるまい。
 蓋し、警世の書である。目から鱗である。驚き桃の木山椒の木、である。金は好きだが、“税”の付いたのはお嫌いの方(まあ、そうでない異人には逢った例しはないが)にいま一推しの好著である。 □ 


源の在処

2014年11月01日 | エッセー

 「嶽」と「岳」を同字とし字面だけで勘定すると、「御嶽山」は全国に二十六もある。読みは、「おんたけさん、みたけさん、みたけやま、みたきさん、みだけやま、おたけやま」と各種だ。標高は百三十一メートルと一番低い愛知県の日進御嶽山から、三千六十七メートルの最高峰を誇る木曽御嶽山まで、これもさまざまだ。千メートルクラスは三つ。
秩父御岳山の千八十一メートルと九百二十九メートルの武蔵御嶽山(ミタケサン)、それに木曽御嶽山である。舞台はこの内、東京都青梅市にある武蔵御嶽山だ。
──奥多摩の御嶽山にある神官屋敷で物語られる、怪談めいた夜語り。著者が少年の頃、伯母から聞かされたのは、怖いけれど惹きこまれる話ばかりだった。切なさにほろりと涙が出る浅田版遠野物語ならぬ御嶽物語。
 と、双葉社のコピーは誘(イザナ)う。先月25日、つい一週間ほど前の新刊である。

   神坐す山の物語 (かみ います やまのものがたり)

 昨年十月から今年六月まで「小説推理」に連載された短編七本を纏めた作品である。昨年十月の『黒書院の六兵衛』(昨年十一月の拙稿「届かない手紙」で触れた)に次ぐ新刊小説である。

    伯父に家伝の験力が備わっていたかどうかは知らない。すでに鎮魂術や狐
   払いの罷り通る時代ではなかっただが、養子であった祖父にそうした力がな
   くとも、祖母の血を通じて伯父にそれがもたらされていたと、考えられなく
   もない。むろんその伝でいうなら、母を経由して私の中にその血が享け継が
   れていたとしても、ふしぎはないのである。(同書より)

 浅田次郎氏はエッセイの何カ所かで、母方が武蔵御嶽神社の嫡流であると記している。少年は験力の一分(イチブン)を帯していた。当主である伯父をはじめ幾人かが同類で、眼下に拡がる大東京を見晴るかす都の域内とは信じられぬ鄙の山巓で、綺譚は七度(タビ)語られる。つまりは、見えないものが観え、聞こえない音が聴こえ、触れ得ない手に導かれ、起こり得ないことが顕わになる話だ。
 「綺譚」とはいったが、オカルティズムと去なすのは浅慮に過ぎよう。そうではなく、この稀代のストーリーテラーが掬してくる源(ミナモト)の在処(アリカ)を諷喩したものと受け止めてはいかがか。
 ゴーストは浅田文学のドラマツルギーではない。むしろ、メインモティーフではないか。内田 樹氏と高橋源一郎氏との語らいに、こうある。
◇高橋 今生きている共同体がすべてではない。もしかするとすぐ隣に、あるべき共同体が存在するのではないか、壁一枚向こうに。自分のリアルにフィットした共同体があるっていう幻想によって生きている。「そういう共同体を提示しろよ」っていうのは、いわば近代的な考え方だよね。今は、あるものの形を提示するんじゃなくて、あるものがない、という形で提示することしかできないのかもしれない。
内田 浅田次郎もそうだよ。浅田次郎の小説も、すごく幽霊が出てくるの。その幽霊は、壁の一枚向こう側にいる。自分たちの日常の論理や、言語が通じないんだけど、非常に親しいものなんだ。それとの関わり合いを構築していくことが、人間の生きていく意味なんだ、っていう。村上春樹と浅田次郎だけだよね、作品の幽霊出現率が九割超えてる作家って。◇(「どんどん沈む日本をそれでも愛せますか?」より抄録)
 『浅田版遠野物語』は「壁一枚向こう側」の「幻想」を描き出す。「非常に親しいもの」で、「それとの関わり合いを構築していくことが、人間の生きていく意味」であると諭すために。まさにこの『怪談めいた夜語り』とは、血族との「関わり合いを構築」するために紡がれたといえるのではないか。もう少し先を追おう。
◇内田 いつも文学の最優先のテーマが幽霊であるのと同じように、哲学もそうなんだよ。フッサールの超越論的主観性も、ハイデッガーの存在も、レヴィナスの他者も、全部幽霊なのよ。もうそれは世界共通というか、人類普遍のことであって。手触りがあって、これが現実だと僕らが思ってる現実が、本当は現実の全部じゃなくて。その周りにカッコがある。自分たちの“現実性”みたいなものを成立させている外側があるってことは、みんな知ってるの。外側には回路がある。その回路から入ったり出たりするんだけど、そこに出入りするものっていうのは、こちらの言語には回収できないし、こちらのロジックでも説明できない。でも、明らかにあるの。そのことをちゃんと書いてる人たちが、やっぱり、哲学でも文学でも、ずっとメインストリームなのよ。
高橋 で、近代文学はそうじゃないよね。
内田 近代文学は違うんだ?
高橋 うん。近代文学は「この世界」が中心だった、この、目に見える世界、これをどうするかっていう問題を扱ってきたと思う。
内田 わりと、我々の共同体も、実はそうなんだよね。死者たちの思いっていうものを継承したり、彼らの夢をつないでいったりっていうような形で、死者の声を聞く、あるいは恨みを聞きとっていく。それを、まだ生まれていない次の世代に送っていくって考えた場合に、きわめて平凡な、内田家累代之墓みたいなところっていうところにも、死者の声と、まだ来たらぬ子孫の声みたいなものが、輻輳してるわけで.平凡な共同体といえども、他者を含まずには成立しないんだよ、やっぱり。◇
 この遣り取りを徴すれば、新刊は作家浅田次郎の出自を繙くとともに、浅田文学の「源の在処」を明かしたといってさして外れてはいないだろう。精華とはいいがたいが、エポックメーキングではある。
 いつものことで言わずもがなではあるが、さすがは当代随一の『言葉使い』(08年11月の拙稿「現代の『言葉使い』」で述べた)の手になる作品だ。豊饒な言辞と精緻で巧みな筆致が、文字通りの神さびた世界を余すところなく描ききる。酔える。酔わせてくれる。至福の酔狂だ。
 九月末気象台の予測すらないままに、木曽御嶽が咆えた。大惨事となった。名を同じゅうする山である。鎮魂のためであろうか、新作はその翌月に発刊された。仕組んでできることではない。浅田氏の験力であったかもしれない。 □