伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

ひかぬが華か

2006年07月29日 | エッセー
 風邪をひいた。尋常ならざる高熱で、3日間寝込んでしまった。嗤われそうだが、高熱といっても37.4度。なにせ平熱が低く、かつ、ついぞ熱など出たことがない。記憶する限り、ここ5、6年風邪で臥したことがない。夏風邪だからと『定説』を振りかざす向きもある。梅雨明け前であることを理由に『定説』に該当しないと強弁してみたが徒労に終わりそうだ。
 そもそも梅雨は春か、夏か。筆者としては、この際、春に入れてほしい。それが叶わぬなら、梅雨に明確な市民権を与え、四季と言わず五季と呼んでほしい。ユーラシア大陸の東端に位置し、その位置ゆえにわが国は絶妙な季候を織りなす。わずか四つの季節で括るにはもったいなくはないか。世の有徳の方々に告ぐ。「春、梅雨、夏、秋、冬。五季の移ろい」と言おうではないか。日本文化のためだ。
 それにしてもだ。季節外れの風邪はなにかと面倒だ。まず、家人との折り合いが付けにくい。筆者は寒い。しかし、家人は暑いという。天の邪鬼である。かつ我が儘である。狭い家だ。同室で床に就かざるを得ない。苦渋の選択だ。季節がどうあろうと、筆者は寒いのだ。古い唄に「こころ一つで、温かくなる」とあった。住居は狭くとも、心は広くありたいものだ。
 W杯以来、睡眠に障害をきたしていた。夜寝る、という極めてノーマルなサイクルが崩れていた。これが風邪に追い風となったようだ。微少ではあるが床ずれができるくらい寝た。しかし、爽快感のある眠りではない。錘に引きずられて眠り、錘を引きずりながら目を覚ます。何度繰り返しても、錘の呪縛は解けない。かの発明王・エジソンは、睡眠は人間にとって無駄なもの、と考えていたそうだ。ナポレオンも寝なかった。天才は睡眠をねじ伏せるのか。凡人には叶わぬことだ。まさに、夢のまた夢だ。
 タバコの味が変わる。ほしくなくなる。ついには、吸えなくなる。「男の嗜み」から遠ざけられる。口は呼吸と食事という即物的な働きと発音という知的な働きを担う。たまに噛みつくという武器になることもあるが、それは極めて希だ。しかしそれだけでは万物の霊長としては物足りない。紫煙を燻らすという、より高次な働きを求めるべきだ。悪態をつくために口はあるのではない。息をするためだけでも、モノを喰らうのみでもない。もっと高級な使い方をしてあげなければ口が可哀想だ。
 もう一つ、接吻があった。日本でこれを大々的に為した人は坂本龍馬らしい。偉人はすべてにプログレッシブだ。学者によると、脳が身体の器官を意識する割合は口(特に唇)が圧倒的だそうだ。手足とは比較にならないくらい割合が高い。肝臓などはゼロだ。少しでもあれば二日酔いを防げるだろうに。つまり、脳みその中は口だらけといってよい。恍惚はここに起因する。
 ともあれ、肺ガンの主因はタバコ、などという石油メジャーの流したデマゴーグに紛動されることなく、男なら、厳としていたいものだ。「嗜み」を忘れたら男が廃れようというものだ。
 それが、できない。いかんともしがたい。扁桃腺が腫れて、空気さえ通りづらい。早く健康になってタバコが吸いたい、と切に願い続けたものだ。
 体温が1度上がっても大変、地球温暖化も同じなんです。これは、よく聞く話だ。節々が痛む。ただでさえ回転の遅い頭脳が失速した独楽のようにフラフラになる。食欲が落ちる。すべてに不調和をきたす。たしかに1度の上昇でさえ耐え難い。だから地球の温暖化に擬える。しかし、うまい話には気をつけた方がいい。立花隆氏によれば、今地球は寒冷期に向かっているという。温暖化とは逆の話だ。現に、南極の中心部では氷が厚くなっているという観測結果もある。温暖化はガイアの自己調節機能ではないか、との意見もある。46億年のリズムは人為を凌駕して流れる。はたして人知が及ぶか。
 ただ、この鬼の霍乱(この度、このように『診断』してくださった『名医』がいる。感謝に堪えない)に限っていえば、十分に人知の射程内だ。体温計の37が、なぜ赤字で表記されているのか。尋常ならざる数値なのだ。体温の上昇が確実に心身を蝕む分水嶺だ。風邪はひかぬが華だ。□

露鵬 乱心

2006年07月21日 | エッセー
 露鵬 ―― 東前頭3枚目、ロシア出身、大嶽部屋。大相撲名古屋場所、7日目に問題を起こした。大関・千代大海との対戦後、土俵下で睨み合い、言い争った。お辞儀もせずに(そのように見えた)下がった露鵬は、こんどは風呂場のガラスを割る。審判委員から注意されると、取材陣のカメラマンを怒声とともに殴って怪我をさせた。協会は露鵬を三日間の出場停止処分とした。監督責任を問われた親方は3カ月間10%の減給処分となった。
 朝日新聞は、「礼に始まり、礼に終わる。そんな心構えはすでに死語」か、と嘆いた。「土俵が泣いている」とも憤った。「闘志を極限まで高めながら、勝負がついた瞬間にその激情を静める。相撲の魅力は、そうした精神性の高さを追い求めることにもある」とも諭す。そして、外国出身力士への伝統精神の継承を訴えた。
 今や、幕内力士の3分の1は外国人である。彼らは一様にハングリーだ。異国の、しかも特殊な世界。半端な心組みでは勤まらない。体格も圧倒的に勝る。高見山の愛くるしい脆さに同情していたころとは隔世の感だ。「日本の国技」などと嘯いている間に、主役はすっかり海外勢に委ねられている。国技を外国人が支えている。
 これは、はたして危機か。以下、その回答になるかどうか……。
 かつて土俵上の力士は能面のようであった。幼いころ、私は違和感を抱きつつ観た。勝っても、負けても無表情なのだ。表情が動かない。そこへいくと、昭和のプロレスの方がよほどに人間臭かった。過剰なほどに人間的であった。高じると、出血まで演じてみせた。
 江戸時代、相撲はショーアップされた娯楽であった。歌舞伎に並ぶ大いなる娯楽であった。江戸版の「プロレス」であったともいえる。今でこそ大銀杏一本だが、かつては何でもありだった。それぞれに髪型を工夫して客の目を引いた。なかには、櫛をさした力士までいた。頭突きなどという野暮な手は使わないとのアピールだったそうだ。さらに、白粉をぬった力士までいたらしい。もう、プロレスと変わりない。
 雷電は土俵上で相手を投げ殺したというし、土俵外でも素人に死人が出る大乱闘をしでかしている。不知火なぞは馬子と喧嘩になり、怪力でその首を引き抜いたという。プロレスラーも真っ青だ。
 観客も同類。「喧嘩の下稽古」だといって、客席で喧嘩を売る連中もいた。相撲見物に行って五体満足で帰るのはだらしない、という手合いがそこら中にいた。土俵の上でも客席でも血の雨が降ったという。だから、見物は女人禁制、お上は何度も相撲禁令を出している。
 以前、小錦が「相撲はケンカだ」と言って顰蹙を買ったが、小錦こそ本質を捉えていたのだ。彼はただのデブではない。
 相撲取りは並の体格ではない。小兵力士といえども、並ではない。だから、元々が異種なる人びとなのだ。江戸の民草にとっては外国人と変わりはない。現在に至って、今度は本物の外国人が参入してきた。さらに偉丈夫である。まさに異種である。
 文化もちがう。身体だけが土俵に上がるわけではない。ガッツポーズも増える。能面にも表情が加わる。日本人力士にも時代の反映はある。闘志が剥き出しになることもある。朝青龍の荒っぽい仕草や目線にブーイングが起こったこともある。しかし、江戸相撲の猛々しさはこの比ではない。比ではないが、なにやら似てきたともいえる。外国の血が相撲に先祖返りを引き起こしつつあるのか。
 江戸幕府は現状維持に徹した政権であった。時に過剰でもあった。大きな川には橋を架けない。軍勢の移動、もちろん江戸を目指しての移動を封ずるためだ。加えて、民衆の無力化を謀った。なおかつ、生かさぬように殺さぬように、である。相撲が民草の生気の発散になれば好都合である。しかし、それが度を超えた。まかり間違ってお上に向けられてはならない。だから、禁制を敷いた。一国の権力者が土俵の上で「感動した」と絶叫するほどに能天気ではなかったのだ。
 相撲が「国技」になったのは明治中期である。維新直後には存亡の危機に見舞われた。その後さまざまな曲折を経て、見世物からスポーツに『メタモル』していった。次第に伝統が強調され、様式美が、倫理性が求められた。朝日新聞が言うところの「精神性の高さ」「伝統精神」である。悪いことではない。時代は進歩するからだ。しかし、まだ120年程度。維新から勘定しても140年分の伝統でしかない。江戸時代はそれに倍する。いや、それ以前もある。古事記まで遡ればざっと10倍にもなる。きっかけさえあれば先祖返りするのは当たり前だろう。
 協会も国技の名に胡座をかいている余裕はない。外国人力士で部屋を継承しているのはいまのところ高見山のみだ。力士と親方とは別物である。異文化の坩堝だ。力士はできても、親方もできるとは限らない。もうすでに、現役時代に大関までとどかなかった日本人の親方が増えつつある。このままいくと、屋台骨は歪なものになる。
 露鵬をスケープゴートにして片付く問題ではない。国際化には問題はない。時代の趨勢だ。伝統、と言うなら、維新以前の方がはるかに長い。だからプロレスに戻れと、アナクロニズムを鼓吹しているのでもない。相撲が国技の高みにありつづけるためには、もう一度脱皮が必要だ。若貴で話題を作れば事足れりといった生易しいものではない。直面する時代の波は維新期に匹敵する。生き残りがかかっている。大袈裟ではない。時代と四つに組まねばなるまい。
 相撲の勝負はあっという間だ。これほど短い時間で決着の付く競技は外にない。億劫の精進を刹那に凝集する。いかにも日本的だ。文化の華だ。□

下手の言い訳

2006年07月15日 | エッセー
 私は写真が下手だ。写真も、というべきか。描くことも、そして書くこともである。このような駄文、キツネ文の類を書き連ねていると、なおさら才能の貧困にたじろぐ。
 豊饒な風景を撮っても、でき上がりは極めて貧相なものになってしまう。写真には人格が投影されるという。ならば、諦めもつく。つくが、欲もある。人格高かからざると私には確言できる友達なぞでも、上手い写真を撮る。内心、嫉悪する。破れかぶれで、時には写真そのものに抗ってみたくなる。
 ―― あのとき見た風景が、こうして小さな一枚の小下絵に凝集するまで、彼の脳裏を、数しれぬほどの風景の微妙な変相がとおりすぎた。切りとられてきた自然の一部が示す均衡は、にせものの均衡だった。なぜならその均衡はどこかで見えない全体に委ねられているからだ。自然全体の均衡から盗みとられながら、そしてその大きな均衡を模写しながら、どこかしら全体に犯されていたからである。画家の任務はまず嘱目の風景から、こうした全体に蝕まれ犯された部分、全体の投影をさぐり出し、それを切り除いて、一旦崩れてしまったかにかにみえる残りの部分から、新しい小さな画面の全体の均衡を組立て直すことである。そこにこそ絵画の使命があり、写真はどこまで行っても、自然の全体の投影を免れることができなかった。 ―― (三島由紀夫「鏡子の家」)
 三島の厖大な芸術論の一端である。浅慮を恐れずに言おう。屏風絵を考えるといい。自然と同じ大きさの画布はない。切りとって新しい均衡を組立て直すしかない。そこに人間の創意がはたらく。だから、松が枝に雲がかかるのだ。
 盆栽とておなじだ。自然を縮小模写しているのではない。新しい自然を造っているのだ。
 写真は自然の全体の投影を免れない。宿命の制約だ。だから、写真は。と、写真に抗うよすがにしていた。しかしそうではないのではないか。思慮が短兵急に過ぎる。三島は写真を無下にしているのではない。実は、上手い写真はそれを逆手にとっているのではないか。そう気づいた。
 絵画は自己完結の世界である。という意味は、画布の内側に世界を創る。外側は現身の虚空にすぎない。
 写真は外側に向かって完結する。免れない全体の投影を加えてこそ全うする世界だ。ここだ。下手は内側で完結させようとする。そこに間違いが生ずる。なにもかも収めようとして、虻蜂「撮」らずになっているのだ。
 だから達人にはファインダーさえも、時として不要になる。刹那だけが勝敗の切所だ。となれば釣りに似てくる。待ち構えて、当たりの来た瞬間に勝負を賭ける。その時、彼は芸術家の顔をしているにちがいない。
 それにしてもだ。御託は並べても、一向に腕は上がりそうにない。ここらで見切りをつけて、釣りにでも転向しようか。□

異論? 反論? オブジェクション? <余録>

2006年07月13日 | エッセー
 お気づきでしょうが、NHKでは「天気予報」といわず「気象情報」といいます。ズルいでしょう。「当局といたしましては、気象に関する情報を提供しているだけで、決して予想をしているわけではありません。外れたなんと、文句をおっしゃっても、それはお門違いです」とまあ、こういうことです。お役所の″逃げ ″とまったく同じです。
 事々左様で、「英語でしゃべらナイト」なんていう番組の名前は、本当におふざけですねー。『……ないと(いけません)』のダ洒落で、くだらない国賊ものの英語教育を進める文科省におもねり、そのお先棒を担いでいます。ですから、善良な市民はだまされてしまう! 『夜』しか使ってはいけないものだと誤解してしまう。ですから、夜な夜な、英語を使える場所を求めてさまよい歩くことになる。挙げ句、比国撫子に『エイゴを学ぶために』または『学んだエイゴを試すために』高い授業料(酒代とも言いますが)を払うハメになってしまう。まったく人騒がせな放送局であります。
 あー、それから、NHK教育TVで、以前「尺八講座」をやっていたような、いなかったような。もうひとつ、『釈』然としませんナ。

 あと、一人二人、リクエストもありましたので、追記しておきます。

仲間由紀恵……☆☆ 小生、au歴13年。本当の『お仲間』であります。仲間は情が移って、語れません。が、敢えて言えば、「割り引きは要らねーから、『仲間』を付けて売ってくれ」! というところでしょうか。
和田アキ子……★★★ 大昔の番組でやっていた「ゴッド姉ちゃん」を引きずる形で、いつの間にか『姐御』格になってしまいました。周りがおもしろがってそうしているのですが、能天気なことに本人、お気づきでない。ほとんど不可能に見えた結婚は果たしたものの、石女で終わるのでしょうナ。歌だって、今や、うまい歌手はひしめいています。ドスの利いた声が好きなら男性歌手を聴けばいいのであって、その面でも需要は限られます。男の後輩タレントを呼び捨てにし、悪し様にするところに、ある種のカタルシスを感じる向きもあるかも知れません。しかし、それは一種の変態でしょう。ところで、『H』とは、大正時代の女学生ことばからきたらしい。『変態』のHだそうです。とすると、この手合いこそHそのものではないでしょうか。そういうわけで、いまや、歌手として扱うには無理があります。それで、<女性タレント>に分類しました。
細木数子……★★★∞ わが家の家訓、第一条は「このババアがテレビに出たら、即チャンネルを変えよ!」であります。5秒以上映るとブラウン管が腐るのです。液晶でも、プラズマでも、持って10秒。たちまち色化けし、最後にはまったく映らなくなり、異臭を放ちます。こういう化け物を取り締まる法律はないのでしょうか。だって、公序良俗に反するでしょう。おちゃらけで楽しめるほどに知力、分別のある人ならいいのですが、真に受けるバカがいるんですよ。いまや、完全にマスコミのパラサイト、テレビの虚仮威し、ブラウン管のシロアリです。その毒性たるや、和田アキ子の比ではない。魔裟斗に授けたK-1必勝策がどこかのお宮に参ること。ホリエモンには「あなたにとって今年はいい年になりますよ」だって。 ―― 須くこの程度なのです。騙されてはいけません。鼻糞(言葉がきれいで、すみません)ほどの人生経験を振りかざし、他人の人生を裁断するなど、まともな神経の持ち主ではありません。不遜極まりないことです。何様のつもりなのでしょうか。星占いかなんか知りませんが、よく当たるかどうか知りませんが、どんな名医だってテメーの命日は解らないのであります。見事に占いの裏をかき、占い師の鼻を明かすことにこそ人生の醍醐味、妙味があるのではないでしょうか。エヘン! 「気を付けよう エレベーターと 細木のゴタク」お粗末。□

異論? 反論? オブジェクション?

2006年07月11日 | エッセー
 まったくの私見である。個人的な付き合いなぞあろうはずもない。マス・メディアを通してしか知る由はない。筆者の色眼鏡を通して見た評価である。ウェブのタレント名鑑から、筆者の知らないメンバーを除いて取り上げた。漏れがあるかもしれないし、勘違いもあるかもしれない。ただ、数の多さには呆れた。(星は黒・白三つでつけた)
【女性アイドル・女優】   
上戸 彩……☆ カワイイかな? やがて消えるでしょう。
深田 恭子……☆☆ 近年珍しい美形だが、唄はヘタ。最近、美貌に翳りが。
小倉 優子……☆☆☆ コリン星からやって来た王女。二十歳を超えてなおこのキャラで売るとは頭が下がる。
広末 涼子……★★ 筆者の美観からいえば、決して美人ではない。こんなののどこがいい?
篠原涼子……★★★ 篠原ともえと間違えられてイヤな顔をしたことがある。お前が何様だ。エラの張った女に美人はいない。
篠原ともえ……☆☆☆ 溢れる才能を韜晦するおちゃらけはすばらしい。筆者、この手の軟体動物に異様に惹かれるのだ。
木村 佳乃……☆☆☆ 顔は十人並みだが、芸人根性は群を抜く。
竹内 結子……☆ 結婚が早すぎる。スターというものが分かっていない。「春の雪」の稚拙な演技はそれなりによかったが。
安達 祐実……☆☆ お笑いとくっつくのが当節の流行り。なにを感化されたのか、一緒に舞い上がってるおっかさんと合わせて、星二つ!
小雪……☆ 妖艶さにもっと磨きをかけるべきだ。
上原 多香子……★ なにがしたいんだか。旗幟不鮮明。
菅野 美穂……☆ 将来性はある。演技派の道を行け。
米倉 涼子……★ こんなの決して美人じゃない。エラが張ってるだけだろ。
宮沢 りえ……☆☆ 風霜が肥やしになりつつある。大成するかも。
田中 麗奈……☆ 悪くはないのに、伸び悩み。
石田 ゆり子……★ 美人じゃないんだから、芸を磨かねば。
ともさか りえ……★ 名前の割りには印象の薄い子だ。
財前 直見……☆ いい味を出してきてる。
松下 由樹……☆☆ 高橋みゆき(バレー)に似ているところがいい。(どっちが似ているのかは別にして)
観月 ありさ……☆ 団子っ鼻に大きな図体。愛嬌はある。
松 たか子……☆ これは美人じゃないでしょう。演技力は親の血で、まずまずか。
鈴木 杏樹……★ 印象が薄い。身体はデカイが。
江角 マキコ……★★ スタイルが売りなら、早く消えた方がいい。
斉藤 由貴……☆ 演技派で大成する可能性がある。
富田 靖子……☆ 人畜無害性を売りにすることだ。
牧瀬 里穂……★ 一時の輝きはもうない。
常磐 貴子……★★ なんだか消えたみたい。
今井 美樹……★★★ こんなのを美人だなどと褒めそやすから図に乗るんだ! 唄だって、どこがいい! ユーミンのミス・コピーにしかすぎない。 
加藤 紀子……☆ 拓郎に曲を貰っておきながらヒットさせることができなかった。まずそれを懺悔して再出発せよ。
田中 律子……☆ 悪くはないのだが、この手の顔は年取ってからが問題だ。
遠藤 久美子……☆ 可もなく不可もなくか。
山本 未来……★★ おとっつぁんの道を嗣ぐならいいが、方向がちがうのでは。
小林 聡美……☆☆ 宣伝なんかでお茶を濁してないで、本格派女優の道をゆけ。
大塚 寧々……☆ 大河には向いてるかも。
国生 さゆり……★ このままなら、おばさん路線か。
斉藤 慶子……★ なにをしたいんだか。
内田 有紀……☆ 消えてしまったのかな。
南野 陽子……☆ 元アイドルがどうおばさんになっていくのか、見物だ。
美保 純……☆☆ 消えてしまうには惜しい。寅さんでははまり役だった。
鷲尾 いさ子……★ 顔は十人前。まあ、こんなもんか。
西田 ひかる……★ 単なるバラタレで終わるのでしょう。
永作 博美……☆☆ 将来性あり。
松嶋 菜々子……☆ 団子っ鼻が美人の部類に入る御時世か。演技は大根。どうでもいいか。
沢口 靖子……☆ 輝きを持続できてこそ大女優。まだまだ足元にも及ばない。
藤原 紀香……☆ 一見美形。でも、どこかこわれてる。K-1の解説者にでもなったら。
原田 美枝子……☆☆☆ 巨匠・黒澤が見いだした演技派。「乱」での根津との絡みは絶品だった。
室井 滋……★★ 美形でないわりには味が薄い。
黒木 瞳……☆☆ 悪くはないけど食傷気味。
高島 礼子……☆☆ 美形に入れてもいいけど、唄はドベタ。
浅野 温子……☆☆ 3枚目を演じると右に出る者はいない。
田中 美佐子……☆☆ 名脇役か。
大竹 しのぶ……☆☆ 天然ボケはつとに有名だが、シリアスな演技との落差がいい。天性の役者かもしれない。
天海 祐希……★★ 美人でもない大女のどこがいいのだろう。
かたせ 梨乃……☆☆ 寅さんのマドンナに抜擢されたころは光っていた。
名取 裕子……★ 名に反し、名を残せるほどの者ではない。
山口 智子……☆☆ 筆者のタイプである。もっと出てこい。
浅野 ゆう子……☆ 全盛期は過ぎたか。
風吹 ジュン……☆ 路線不確か。
由美 かおる……☆☆ 団塊の世代だ。あの元気は化け物に属す。いや、忍者か。
萬田 久子……☆ ワンオブゼム。
片平 なぎさ……☆ 最近、存在感が希薄。
真野 あずさ……★ なんてことない。鳴かず飛ばずだろう。
古手川 祐子……★ 一時は期待したのだが。
東 ちづる……☆ あの程度の顔ではこの程度か。
田中 裕子……☆☆ 大成の片鱗あり。
賀来 千香子……★ もう消えたのでは。
薬師丸 ひろ子……☆☆ 第二の小百合か、と期待したものである。ヘンな唄うたいとくっついたのが間違いか。
小泉 今日子……☆☆ 演技でもいけるか。しかし、筆者ぐらいの世代では、いまだにキョンキョンのイメージが邪魔をする。
中山 美穂……★ たいしたことないのに。
森下 愛子……☆☆☆ 何も言うことはない。言ってはならない。
大島 さと子……★★ こんなおばさんでも使えるのかな。
中井 貴恵……☆☆ 貴一よりは断然上だ。素質は相当にある。
あいはら 友子……★★ 芸人というより商人では。
芦川 よしみ……★ もうとっくに旬は過ぎている。
沢田 雅美……☆ 脇役に「名」がなかなか付かない。
伊藤 蘭……☆☆ 女優としても成功の部類では。
増田 恵子……☆☆ 年に一回、是非復活を。月1でもいい。
松金 よね子……☆ 舞台がいい。
根岸 季衣……☆ 脇役として悪くはない。
高橋 ひとみ……★ 顔も芸も中途半端だ。
安田 成美……☆ 毒はない。ないからおもしろくない。
南 果歩……☆ 顔は好みではないが、演技は買い筋。
熊谷 真美……★ もうインパクトはない。
松田 美由紀……★ 遺産でクってるのか。
山咲 千里……☆ 雰囲気がおもしろい。
荻野目 慶子……★ もはや存在感はない。
岸本 加世子……☆☆ 俳優としての大成を目指すなら仕事を選んだ方がいい。
清水 由貴子……★ なかなか消えないところはしぶとい。
叶 和貴子……★ 使い道があるのか。
藤田 朋子……☆ まあ、こんなもんだろう。あまりにも色がなさすぎる。
石田 えり……★ もう少し美人なら。
浅田 美代子……☆☆ 天然ボケも芸の内だ。歌唱力は空前絶後。前人未踏だ。
岡田 奈々……★ どうでもいい。
池上 季実子……★ もう少し美人ならなんとかなったかも。
市毛 良枝……★ 山には登れても、スターダムには登れずじまいか。
田中 好子……☆☆ もっと年とればもっとよくなる。生き残り確実 
岡江 久美子……★ 面倒臭い。
坂口 良子……★ カワイコちゃんがこうしてただのおばさんになる、標本か。
藤田 弓子……★ おばさんにも役目はあるか。息の長いのは天下一品。
秋野 暢子……★ 寄る年波には敵わない。抵抗はムダ。
藤谷 美和子……☆☆ 忘れそうで忘れられない。
千堂 あきほ……★ 旗幟が鮮明でない。
田中 美奈子……☆ 一途さを感じないけど。
浅茅 陽子……★ 過去の人か。
加賀 まりこ……☆☆ 存在感は半端ではない。
原 日出子……☆ 低迷状態か。
島田 陽子……★ 往年の輝きはない。
藤 真利子……★ 鳴かず飛ばずか。
多岐川 裕美……★ 美人でもないのに生き残ってはきた。
東 てる美……☆ 元アイドル、これでも。
朝加 真由美……☆ デビュー時のインパクトを保つのは至難の業か。
高橋 惠子……☆ 話題は呼んだが、そこそこにおさまってしまって。
星野 知子……☆☆ 知性派。俳優なぞやらずにいたら。
木内 みどり……★ まだいるのかな。
遙 くらら……☆ 好みの部類だ。
中田 喜子……★ 一般的すぎて。
吉沢 京子……★ なかなか「一直線」にはいかないものか。
久本 雅美……☆☆ いつも日常と非日常、ギャグと演技のスレスレ、ギリギリを走っている。エッジファンドならぬ、エッジタレントだ。
神保 美喜……★ 顔がねー。
篠 ひろ子……☆ 最近は影が薄い。
中野 良子……★ オーラは消えた。
高瀬 春奈……★ なんだかねー。
梶 芽衣子……☆ 昔の予感はなんだったのか。
酒井 和歌子……★ 順当に老けただけか。
由紀 さおり……☆ 声と顔の老化をめぐる研究材料にはなる。
小川 知子……★★★ こんなのはもう要らない。
いしだ あゆみ……☆ 好きなタイプではないが、寅さんに免じて。
夏木 マリ……★ もうすっこんでたほうがいい。
大地 真央……★★ サンバは踊らないのかね。
秋吉 久美子……☆☆ 加賀まりこの路線を行くのか。
桃井 かおり……☆☆ 数少ない演技派ではある。
藤山 直美……☆ ひたすら、おとっつぁんを目指すべき。
渡辺 えり子……★ 暑っくるしい。
倍賞 千恵子……☆☆☆ 女優でも歌手でも、なかなかこういう人は出ません。実はTV版の「さくら」は長山藍子だった。咲き切らなかった桜が、この人で見事に咲いた。
倍賞 美津子……☆☆ かつて三島由紀夫が絶賛した女優。
松坂 慶子……★★ 演技も歌もへたなくせにもてはやされる。たまにこんなのがいる。
三田 佳子……☆ 一時大きなヤマをつくった。家庭教育がねー。
吉永 小百合……☆☆☆∞ 団塊世代の非サユリストは国賊以外の何物でもない。タモリのサユリストはつとに有名だが、25年間、「テレホンショッキング」にはお出ましになったことがない。もしそうなったら、その時点で番組終了だ。しかし、なにはともあれ、年を取らない人だ。言い方を替えれば、年相応にこれ以上ない美人だ。その意味で、「化け物」である。
岩下 志麻……★★★ こんな大根が大きな顔ができるのは職権乱用に当たる。
浅丘 ルリ子……☆☆☆ この方もある意味の「化け物」である。正直、正視するのは怖い。だが、「リリー」はこの方以外に演じ得る者はいない。
浜木 綿子……★ 医者よりもやはり芸者が似合う。
宮本 信子……☆☆ 見せる女優だ。ホントにうまい。
吉田 日出子……☆☆ 老けてからは薄味になったようだ。
野際 陽子……★ ヌエの如き存在か。
木の実 ナナ……☆☆ 達者を地で行く人だ。
樹木 希林……☆☆☆ 「役者」である。本当の、心からの役者である。今は絶えてなき役者である。無形文化財だ。
市原 悦子……☆☆ 家政婦にしておくのはもったいない。
泉 ピン子……★★★ 何を勘違いしているのか。演技派のつもりらしい。かつ、ご意見番も気取っている。河原乞食風情がタイゲーにしろ、と言いたい。
司 葉子……★★ もう化石です。
小山 明子……★ あのダンナですからねー。いまは講演がお忙しそうで。
小林 千登勢……★ 半分、化石でしょう。
梨花……☆☆ もとモデル。さすがに、TVの素顔とモデルの写真とでは天地雲泥の違いがある。まるで別人だ。こういうのがプロだ。化け方が半端じゃない。
中原 ひとみ……★ CMタレントでしょ。単なる。
野川 由美子……☆ 大阪弁に徹してほしい。
波乃 久里子……☆ 血筋か。巧まない色香がある。
池波 志乃……☆ 妖艶な魅力があったが。
五月 みどり……★ 一週間に十日来い、なんて無理だよ。
大谷 直子……☆☆ 素質は十分、最近不調か。
山本 陽子……☆ 美形であった。それだけであった。
長山 藍子……☆ TV向けの至極一般的な俳優か。
白川 和子……☆ 銀幕のころを知らない。
松尾 嘉代……☆☆ 昔は凄みが利いていた。
中村 メイコ……☆ 生き字引か、歩く化石か。
三崎 千恵子……☆☆☆ 「男はつらいよ」全48作すべてに出演は歴史的快挙!
富司 純子……☆☆ 名前は変わっても、お竜さんに変わりはない。
十朱 幸代……☆☆ 「お姉さんといっしょ」なんて、古いなー。この年にしてこの美貌。怪物の一種か。
岸田 今日子……☆☆ 怖いモノ見たさについ見てしまう。
栗原 小巻……☆ どうしているんでしょうか。
吉行 和子……☆ ビブラートのかかったあの独特の声。存在感がある。
森 光子……★★★ 大物に仕立てる周りが悪い。万事は棺を蓋いて事定まるであろうに。この程度の演技派ならいっぱいいる。こんなに苦労してきたんですよ、などと本物ならおくびにも出してはならない。そんなことで勝負するのは邪道だ。役者なら舞台の上で勝負せよ。
中村 玉緒……☆☆☆ 元祖・天然ボケ。ついにダンナを超えた。
若尾 文子……☆☆ 団塊の世代にとっては垂涎の存在だった。
池内 淳子……★★ かつては「国民的人気」をさらった。筆者、この手合いが嫌いなのだ。
佐久間 良子…………★ もう用はないだろうに。
岸 恵子……☆ ヨーロッパの雰囲気を漂わせる特異のキャラクターだ。
新珠 三千代……☆☆ 人格を感じさせる女優だった。
ふーっ。しんどい。□

裏山に歴史あり

2006年07月06日 | エッセー
 この町の、かつて中心街だったところに筆者の家があった。小学校を卒業するまで住んでいた。いまは更地になっている。裏手に小さな山が蹲っていた。高さが20メートルほどで、周囲が約200メートル。丘とも呼べないような地表の瘤だ。それでも頂には猫の額ほどの平地があり、苔むして傾いだ数基の墓があった。頂上からは古い街道を挟んだ町並みが見渡せる。その山は「だんと山」と呼ばれていた。「だんと」の意味なぞ考えたこともなかった。
 年上も年下も団子になってその山で遊んだ。春になると、頂上に小屋を造って要塞に見立て、戦争ごっこに興じた。上級生が木の枝を巧みに使って俄普請する。その手際のよさに憧れたものだ。冬になると、麓の防空壕に入った。外は木枯らしでも、中は土のぬくもりがあった。奥行きは10メートル。さほどの深さではない。だが、防空壕という特殊な穴に入る時には、いつも緊張感が伴った。聞かされてきた「戦時中に」という説明が耳朶に甦った。いつも長居はしなかったように記憶する。
 そこは江戸時代の天領の西端に位置していた。戦国の代では争奪が繰り返された。徳川が天領とし、周囲を譜代が固めた。それでも、藩ざかいでは境揉めがあったという。まことに地面に対する執着は根深い。境は筆者の家から300メートルほど離れた山の中腹にあった。くに境であったことを示す石碑が一つ、ぽつねんと建っている。いまは同じ郵便番号の区域だ。
 名所、旧跡、史跡は数多い。国中にある。それぞれに歴史が宿る。耳さえよければ、語りかけてくる声を聞くこともできる。しかし、そこに住まいすることは稀だ。もちろん、地籍の問題がある。地形が変わることもある。なにより、何方に生を受けるか。偶然でしかない。
 140年前、維新の攻防があった。天領ゆえに討幕側の標的となる。だが、外護の譜代がいる。当然、戦闘は苛烈を究めた。激戦の史跡が点在する。しかし、武器に雲泥の差があった。徳川270年のタイムラグをそのまま体現した様相である。火縄銃に、片やライフル銃。鎧兜に、身動き自在な筒袖。勝負はついた。隣藩は焦土作戦をとって退却する。天領は苦もなく接収となる。討幕軍は300年近く懐中してきた怨念を、ここに晴らした。以後3年間、この天領の一角に討幕軍が駐屯することになる。陣を構え、450人の兵が睨みを利かした。
 筆者がそこを離れて40年も過ぎたある日のことだ。懐かしいだろうと、知人からパンフレットが送られてきた。流行りの町おこし用につくられたものだ。古地図風に町並をイラストレートしてある。目を凝らすと、あの山が描かれている。説明書きには、山頂の墓は駐屯兵のものと記されている。駐留した陣営はその山を背負って広がる。つまり、かつての拙宅の反対側になる。
 溜め息が漏れた。歴史がすぐ側にあった驚き。知るに遅すぎた口惜しさ。ともあれ、近似値に属する歴史だ。近代を開いた維新回天。さまざまな支流が注ぎ込み、歴史の大河となっていく。あの山一帯に起こった事どもも、その枝流れのひとつだったに違いない。
 さて、「だんと」の由来だ。賊軍の斬首が行われたと聞く。「断頭」の語尾変化か。ただ、処刑場に自軍の兵を葬るのはおかしい。刑場は維新の前からか。それにしては、天領の中心地から離れ過ぎる。説明によると、墓は病死者のものだ。ならば、戦死者の墓前で首を落として無念を晴らしたという筋書きもない。パンフレットには、あの山の名前も名の由来も書かれてはいない。古老に聞くには、遅きに失した。いまは杳として知れない。
 司馬遼太郎の「街道をゆく」にこうある。
 「地名には言霊が宿っているだけでなく、私どもの先祖の暮らしや歴史が刻印づけられていると思っている」
 地名を探れば、刻印された暮らしや歴史を偲ぶことができる。先人への供養の一つにもなる。「だんと」の来由は漠として取り留めがないものの、微かな血の臭いから容赦ない歴史の断面が窺える。さらに、進駐を受けた側にも恟恟たる暮らしがあったに相違ない。いずれもあの山一帯に起こった歴史の事どもである。
 司馬遼太郎の秀抜な隻句が忘れられない。
 「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である」
 やがて「今」が歴史になった時も、やはり「人間で、賑やかすぎるほどの世界」と語られるに決まっている。ならば、われらも賑やかにいきたいものだ。□

ぞろ目にはかなわない!

2006年07月04日 | エッセー
 前稿の延長。フルタイムさんのコメントに応える。オトコはいかようにしてオトコとなるか、『巨匠』の力を借りよう。以下長い引用となるが、御容赦願いたい。

■ なぜ男は概念的世間に振り回されるのか。生物学的に見た場合、哺乳類については女性のほうが安定していることと関係があります。男女の違いは性染色体によります。女性がX染色体二つ(XX)で構成されているのに対して、男性はX染色体とY染色体を一つずつ持っています(XY)。Y染色体が働くことによって性腺というところに精巣が出来る。これは女性の場合は卵巣になるところです。この性腺のもとを性腺原基といいます。これが精巣になるか卵巣になるかは胎生期の7週目に決まってくる。それ以前の段階では、解剖学的に見たときに男と女の区別はありません。胎児の外見も爬虫類みたいなものです。
 7週目にY染色体が働くことによって、原基が精巣になる。一般に睾丸と呼ばれるところが出来るわけです。出来上がった精巣は抗ミュラー管ホルモンを分泌します。このホルモンによってミュラー管という器官が萎縮します、ミュラー管は子宮と卵管のもとになるものです。これが萎縮するために男には子宮と卵管が出来なくなります。それまではミュラー管が男の体内にもきちんとあるのですが、わざわざホルモンで殺すのです。このあと男性ホルモンが生殖器の原基を男の生殖器の形に変えていきます。その時に男性ホルモンが働かないと、女性の生殖器になります。こうして皆さんが持っているような性器ができあがるのです。
 つまり男性は女性をわざわざホルモンの作用でいじって作り上げたものです。元になっているのは女性型なのです。これが非常に重要な点です。女性の場合、染色体はXXとなっていますが、そのうち一方が働けばいいということがわかっています。だから女性の場合のXは一方がすべての細胞で不活性化(簡単にいえば働かなくなるということ)しているのです。男性の場合は、Xは当然働いていて、そのほかにYが加わって働く。働くといってもYはごくわずかなことしかしません。基本的には、性腺原基を精巣に変えるだけです。睾丸をつくり、子宮、卵巣をなくしてしまう。そうして外部が変わると男性ホルモンが分泌されるようになる。
 ということは実は人は放っておけば女になるという表現もできます。Y染色体が余計なことをしなければ女になると言っていい。本来は女のままで十分やっていけるところにY染色体を投じて邪魔をしている。乱暴な言い方をすると、無理をしている。だから、男のほうが「出来損ない」が多いのです。それは統計的にはっきりしています。「出来損ない」というのは何も勉強が出来ないとかそういうことではありません。偏った人、極端な人が出来ると言ってもいいでしょう。生物学的にいろいろなデータをとると、両極端の数字のところには常に男が位置しています。身長、体重、病気のかかりやすさ、何でもそうです。良く言えば男性の方が幅広いとも言えます。しかし、たとえば畸形児のような形で出産直後に死んでしまう子も男の方が多い。一方で女性のほうがまとまる性質にある。まとまるというのは、安定した形になる、バランスがいいということです。
 身体の特徴に限らず、さまざまな極端な社会的行動も男が多い。異常犯罪の類の犯人は男のほうが多いし、暴力犯罪にしても男が女の十倍です。別に実際に力があるかどうかなんて関係ありません。例えば運動のほうでいえば、女性よりも男性の記録が勝る。これも極端だからです。大抵の場合、男女一緒にすると男が勝ってしまう。もちろん普段の運動をみれば男の方が短期の瞬発力はあります。重いものを持たせれば男の方が強い。しかしおそらく遠泳のように持続的に体温を奪われるようなとき、エネルギーが必要なときは女性が強い。マラソンは女子のほうが強くなる可能性がないわけではない。イチロー選手や松井秀喜選手など極端に運動能力が優れた男性はたくさんいます。
 ということは正規分布を前提にすれば、極端の方向性が正反対の男の子が同じくらいいたことになります。たとえばそういう子は生まれた直後に亡くなっているかもしれません。実際に男の子の方が病気がちで育てにくいという経験則は知られていますが、その理由はここにあるのです。つまり生物学的にいうと女のほうが強い。強いということは、より現実に適応しているということです。それが一番歴然とあらわれるのは平均寿命です。身体が屈強なはずの男よりも女の方が長持ちします。現実に適応しているからです。 
 現実に適応しているということは、無駄なことを好まないということです。女性で虫を集めている人はほとんどいません。虫好きの世界は男専科です。虫に限らず、コレクターというのはそもそも基本的に男の世界です。マッチの箱とか、ラベルとか、切手とか、余計なものを集めるのは男が圧倒的に多い。女性は集めるにしても実用品中心です。フィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人は靴を山ほど集めていました。それも要するに実用品です。使い終わったものが残っているだけ。買い込みすぎて結果的に実用にならなかっただけです。女性の頑固さというのは生物学的なこの安定性に基づいているのではないでしょうか。システム的な安定性を持っていると言ってもいい。
 体が安定していることは頭のことにもつながる。だから、口論になって男のほうがあれこれ理屈を言っても女のほうは内部的な安定性をはっきり持ってしまっているからびくともしない。「どんなに言われても、私はこうなのよ」と自信がある。それが頑固さにつながっているのです。もしも女性の方が社会的に低い評価を受けるとすれば、それはそういう安定性を低く評価する文化があるからでしょう。女は頑固だ、というときには明らかに安定性を悪く言っている。しかし私はむしろ女性の安定性を高く評価すべきだと思っています。もちろんこの安定性には欠点もあります。安定しているのはあくまでも自分です。ということは他人から見れば自分勝手だということにもなる。社会性が低いとも思われる。あくまでも個体としての安定性を持っているわけですから、そういう人とはつき合いづらいと思われるでしょう。そういう一対一の対人関係の場面では、勘弁してくれよというふうに男側が思うことも多いでしょう。
 でも、もっと大きなスケールで考えると、人間である以上は極端までいったってたかが知れている。極端に手のひらが大きくて空を羽ばたけるなんて人はいません。どうせ真ん中に戻ってくるなら、それが社会の安定平衡点になる。人間の常識の分布の中のいい線に女の人がいて真ん中におさまっていると言ってもいいでしょう。
―― 「超バカの壁」養老 孟司 著(新潮新書)より

 21世紀のフロンティアは「女性」だという。有史以来、「未開」のフロンティアだ。誤解しないでほしい。リーダーシップの問題である。人類の未来をどこに託すか、だ。だって、オトコは太古より及第点を取ったためしがないからだ、とか。
 はてさて、同じぞろ目でも馬券のそれなら連勝式でいただきだが、染色体のぞろ目には気後れしてしまう。所詮、太刀打ちできぬサダメか。□