伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

国連には力がある

2019年11月30日 | エッセー
 開催が決まった当初、東京2020で江戸前(東京湾)の魚を振る舞うのはハードルが相当高いと見られていた。トーマス・バッハ会長の音頭で、IOCがSDGsの旗を振り始めたからだ。選手村を始めオリンピックでは大量の食材を使う。別けても世界で獲る天然魚の3分の1は過剰だから、オリンピックは先駆けて削減に努めようではないかというわけだ。12年のロンドン大会以降、天然魚の使用基準が国際機関が認証したものに限られた。その基準でいくと、東京湾の魚を使うためには東京湾全体の資源管理を基にした持続可能な漁業対策が必要となる。そんなものがある訳はない。ならば欧州産の魚を食わせるほかあるまいと、頭を抱え込む成り行きとなった。そこで17年、東京大会組織委員会が漁業者が作った資源計画でも行政が認証すればよいとの助け船を出した。これで一気にハードルが下がり、国内の魚で9割を賄えるようになった。
 農産物も然りだ。GGAP(グローバルギャップ)と呼ばれる国際機関の認証が必要とされる。安全性や環境保全など220項目が審査対象で、取得には数十万円かかる。16年時点で取得している農家は全体の1%に過ぎなかった。これではお手上げだ。これも17年、組織委員会が助け船を出した。国の指針に適合すると都道府県が確認したものも含むと。これで供給可能農家が一気に増え国内産で賄えるようになった。
 SDGsはさらに施設建築にも及ぶ。まずは労働安全。過重労働と人権への配慮が求められた。しかし工期が否応なくのしかかる。現場では長時間労働が繰り返され過労自殺も起こったが、厳重な情報管理がなされた。今年2月労働組合の国際組織が立ち入り調査し、通報制度の機能不全などいろいろな問題点が指摘された。建築資材も同様だ。16年、ある木材輸入商社が国際的な森林認証を取得したインドネシア産型枠合板を建設資材として輸入した。それでも新国立競技場や有明アリーナでは、型枠合板に熱帯林破壊、森林の乱開発だと批判されるマレーシアやインドネシア産の製品が使用されていたことが判明。今年1月、組織委員会は農地転換材を使わない方針を公表した。遅まきながら、金看板を上げ直した恰好だ。
 以上は今月24・25日、朝日新聞に掲載された「(聖火は照らす TOKYO2020)SDGsを掲げて」と題する特集から要約したものだ。腰砕けや弥縫策はあるものの、SDGsが東京五輪に重い軛となっていることは事実だ。
 Sustainable Development Goals:SDGs「持続可能な開発目標」は、15年9月国連総会で採択された『我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ』の実現に向けた具体的行動指針である。17の分野別目標と、169のターゲット項目(達成基準)からなる。
1. 貧困をなくす…「あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる」
2. 飢餓をゼロに…「飢餓を終わらせ、食料安全保障及び栄養改善を実現し、持続可能な農業を促進する」
 と分野別目標が続き、1. のターゲット項目として、
(1) 2030年までに、現在1日1.25ドル未満で生活する人々と定義されている極度の貧困をあらゆる場所で終わらせる。
(2) 2030年までに、各国定義によるあらゆる次元の貧困状態にある、すべての年齢の男性、女性、子どもの割合を半減させる。
 等と、5つのターゲット項目が並ぶ。“Think Globally Act Locally”の国連版である。「人類の議会」と宣揚される割にはとかく無力が囁かれて久しいが、やはり国連には力があるといえよう。十全ではないにせよ、国連での決議は国境を超えた拘束力を持ち得る。オリンピックはその好例ではないか。「核兵器禁止条約」が保有国、その傘下諸国によって骨抜きにされているのはレギュレーションたり得ることの裏返しの証明だ。
 背景にはなにがあるか。『サピエンス全史』を著したユヴァル・ノア・ハラリが新刊『21 Lessonns』(河出書房、今月刊)で、こう述べている。
〈これまでの時代には、国家のアイデンティティは、地元の部族の範囲をはるかに超え、全国的な協力があって初めて処理できる問題や機会に人間が直面したから創り出された。二一世紀には国家は昔の部族と同じ状況に置かれている。時代の最も重要な課題に対処する枠組みとしては、もう適切ではないのだ。私たちは新しいグローバルなアイデンティティを必要としている。なぜなら国の機関は、前例のない一連のグローバルな苦境に対応することができないからだ。今やグローバルな生態環境やグローバルな経済やグローバルな科学の時代なのにもかかわらず、私たちは依然として国政だけのレベルで立ち往生している。この食い違いのせいで、政治制度は私たちの主要な問題に効果的に対応できない。効果的な政治を行なうためには、生態系と経済と科学の進歩を非グローバル化するか、さもなければ、政治をグローバル化するかしなければならない。生態系と科学の進歩を非グローバル化するのは不可能だし、経済を非グローバル化する代償はおそらく法外なものになるだろうから、唯一の現実的な解決策は、政治をグローバル化することだ。〉(抄録)
 胸がすく巨視的慧眼である。一転刻下のリーダーたちに目を移すと、ドナルド・トランプもウラジーミル・プーチンも習近平も、ましてや安倍晋三なぞ、まことに貧弱で卑小な豆粒にしか見えないから悲しい。彼らには『21世紀を生きる人類が直面する21の重要テーマ』が捉えられているのだろうか。問題意識は器に直結する。自国第一で国境に壁、先祖返りか他国を武力併合、桁外れな監視国家への志向。もう一つ、花見大会で大はしゃぎする慢心男。どれもこれも器が小さすぎはしないか。至難ではあっても、国連が力を増していくしかない。そこにしか曙光はない。
 関連して、ハラリが『21 Lessons』で興味深い論攷を示している。1000年前にリオデジャネイロで中世オリンピックを開くとしたら、と問いかける。中華たる1016年の宋にとって、海の向こうにいる化外の野蛮人選手と宋の選手とが対等な地位であるとは考えられない侮辱であっただろう。中東はイスラム教内での多数の分立や数多の遊牧民集団があって一体どう代表を選出するのか、おそらく収拾はつかないだろう。ヨーロッパも同様、政治的実体は不鮮明で現れたり消えたり。交通通信手段がなかったことや統一したルールを持つ競技もなかった事情は脇に措いても、とりとめもない開催実体では“リオ1016”は不可能であったという。
〈だから、二〇二〇年に東京オリンピックを観るときには、これは一見すると国々が競っているように見えるとはいえ、じつは驚くほどグローバルな合意の表れであることを思い出してほしい。人々は自国の選手が金メダルを獲得して国旗が掲揚されるときに、国民としておおいに誇りを感じるものの、人類がこのような催しを計画できることにこそ、はるかに大きな誇りを感じるべきなのだ。〉(上掲書より)
 人類は実体も意識も確実に次数を上げ、地球という高次に達しようとしている──。そういうことではないか。だからこそ国連なのだ。国連には力がある、時代は瞭らかにそこを向いている。 □

ナイツがナイス、ベリーナイス!

2019年11月24日 | エッセー
 先々月のこと、ナイツの塙宣之が書いた『言い訳』、副題『関東芸人はなぜM―1で勝てないのか』を一読して少なからず落胆した。具体例を挙げつつ関東と関西のお笑い芸を比較し論じているのは大いに評価できた。だが、本稿で何度も触れてきた芸人の出自たる遊治郎の悲哀と近ごろの分を超えた跳梁については言及がなかった。そこが食い足りなかったのだ。しかし、今回は違った。朝日新聞のオピニオン欄『耕論』に登場して語ったことが実に我が意を得たからだ。
 「闇営業やら所得隠しやら、今年は黒い話題が目立ったお笑い業界。だがテレビでは司会やバラエティーなど、相変わらず芸人の万能ぶりが目立つ。このまま笑い続けてもいいの?」との問いかけに応じて話は始まった。
 大阪の漫才はサッカーで言うならブラジルだという。土着の度がてんで異なる。その上で、こう語る。
〈関西、関東に関係なく、今はお笑い芸人という存在が世間に定着して、影響力もすごくある。だから芸人を崇拝するというか、有識者扱いするような面がある。逆に少しでも問題発言をすると批判が集中するんでしょうね。もともと芸人なんかダメなやつがなるんだから崇拝するほうがおかしいんですけど。〉(今月23日の上掲記事より)
 「芸人を有識者扱いする」とはズバリではないか。職業に貴賤はないが立ち位置はあるだろうというのが稿者の持論である。庶民の代表面(ヅラ)して浅薄な知識で感覚的な与太を飛ばす。「分を超えた跳梁」である。某興業ならコストは安く付く。目先も変わる。TV局の都合が茶の間を左右する。ニュースショーは要注意だ。
 「もともと芸人なんかダメなやつがなる」も直球ど真ん中、ストライクだ。自虐だとしても芸人のトポスを正確に捉えている。改めて吉本隆明の深慮を引く。『情況』から。
〈芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、自分が遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。〉
 目を瞠ったのは次の展開だ。
〈闇営業や所得隠しなど今年起きたさまざまな事件は、お笑い界に師弟関係がなくなったことが一因ではないでしょうか。素人が養成学校で育つ時代になり、多くの芸人が輩出されるようになった一方で、厳しく叱られる経験もなく有名になってしまう。厳しく叱咤するけれど、いざとなったらケツをふいてくれる、芸事にはそんな師匠の存在が必要だと思います。その厳しさをパワハラとはき違えてはいけないと思うんです。歌舞伎や落語など古くから続いている芸事には、必ず師弟関係があります。お笑いでもたけしさん、さんまさん、鶴瓶師匠など長く活躍する人には師匠がいる。〉
 これは出色の見解である。深みと高みを併せ持つ論攷である。「一因」とはいうが、根因であろう。かつ当今の社会に並(ナ)べて欠落しているものもそれであろう。内田 樹氏の炯眼を参照しよう。
〈今や最も希薄になった人間関係って、主従関係と師弟関係じゃないかと思うんです。圧倒的な上位者に全幅の信頼を寄せて、まるごと身を委ねるというタイプの人間関係は、近代市民社会における契約関係とは異質なものです。主従も師弟関係も契約関係ではない。主君と臣下、師匠と弟子の関係は、対等な人間同士ではありません。非対称的な関係は市民社会とは食い合わせが悪い。ですから、市民社会内部にだんだん居場所がなくなってしまった。でも、全部が全部対等な個人間の契約関係になってしまうと、共同体の存続にかかわるような枢要な知恵や技術の継承ができない。それが現代社会の危機の実相ではないかというのが僕の仮説なんです。〉(『街場の共同体論』より抄録)
 塙君、ナイツ、いやナイスだ。
 「厳しく叱られる経験」から、さらに深掘りしたい。内田 樹氏は師匠とは「幻想」であるという。
〈師というのは、弟子がその人の弟子になった瞬間に結像する「幻想」である。ラーメン道を進むことを止めた若者にとってサノはただの「底意地の悪い親父」にすぎない。師は弟子のポジションに身を置いたものだけがリアルに感知できるような種類の幻想である。その幻想に賭け金を置いた弟子にだけ、「底知れぬ叡智」を伝えるような種類の幻想である。〉(「『おじさん』的思考」から)
 サノとは、「ラーメンの鬼」といわれた佐野実氏のことだ。20年くらい前のTV番組『ガチンコ!』の『ラーメン道シリーズ』に講師として登場した。やんちゃな連中から立ち直りを志し、「ラーメン道」に掛ける塾生が募集された。修業は苛酷を極めた。彼らはサノから事あるごとに烈しく罵倒され、「底意地」悪く冷水をかけられ、苦心してやっと作ったスープを「鬼」のように「マズイ!」と一喝され鍋ごと打ち捨てられる。大半が去っていくなか、何人かが最後までやり遂げ暖簾分けまで進む──。そういう実録であった。
 この場合、「幻想」とは空想でもなく、妄想でもない。そうではなく、「現実にないことをあるように感ずる想念」(広辞苑)の謂である。目には見えない師匠と弟子という関係性をありありと実感することだ。「師とは弟子のポジションに身を置いた者だけがリアルにつかめる『実感』」と置換できるだろう。しかも、時間、体力、知力、地位、財産など弟子自らが持つリソースをごっそり、つまりは「掛け金」をすべてその幻想に置く。そこに専一的に「底知れぬ叡智」がまっすぐ授受される。修業を貫いた塾生たちはサノ講師をラーメンの「師」と幻想し、自らを「弟子のポジションに身を置いた。そういう構造だ。淵源はハラリがいう『認知革命』に発したものにちがいない。サピエンス以外の動物に師弟関係は存在しないからだ。
 裏返せば、「弟子のポジションに身を置」かなかった者にとっては師匠は幻想ではなく虚像・偶像にしか見えない。また、虚像・偶像にバイアスのかかった情報を専一的、優先的に収集しようとする。したがって、当然「掛け金を置」くはずもないから「底知れぬ叡智」の授受は起こらない。そういう構図でもある。
 もう一度言おう。塙君、ベリーナイスだ。□

<承前>身の程知らず

2019年11月19日 | エッセー
 以下、朝日新聞から抄録。
〈首相は11月6日の衆院予算委で加計学園を巡る文書を追及する野党議員に「あなたが作ったのでは」と発言。ヤジを陳謝した。
 8日の参院予算委員会で、立憲民主党の杉尾秀哉氏の質問中に安倍晋三首相がヤジを飛ばし、審議が一時中断する場面があった。6日の衆院予算委でも安倍首相はヤジで陳謝しており、与党内からも苦言が出ている。
 ヤジが飛び出したのは、杉尾氏が2014年の衆院選の公示を前に自民党が各テレビ局に宛てた文書を取り上げた直後の場面。杉尾氏は「恫喝に等しい」と指摘。野党議員によると、首相は自席で別の質問に移った杉尾氏を指さし、「共産党」などと発言した。〉
 かつての秋葉原での「あの人たち」と同じ文脈である。いや、病膏肓に入るか。憲法43条には「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」とある。「全国民を代表」、こんなのはいろはのいの字ではないか。だから当然、一国のトップとは反対派を含めてのトップである。支持者だけを代表するわけではない。それが骨身に滲みていることをもって宰相の身の程を知るという。質問に立つ野党議員の後ろに主権者である国民をありありと見て取ることをもって宰相の器という。
 「身の丈をとんでもなく外れた園遊会擬き」(前稿)につづき、今度は身の程をてんで知らないとんでもヤジだ。
「歳を取った馬」を「親父馬(おやじうま)」と呼び、後、「野次馬」に転訛した。老馬は若駒の後塵を拝する以外ない。そこから、他人の為様(シザマ)を無責任に騒ぎ立てる輩をこう呼ぶようになったという。つまり野次馬は外野席にいる第三者なのだ。当事者ではない。責任を有しない傍観者の発語がヤジだ。だから、たかがヤジでは済まされない。発言席での応答に不穏当な言葉づかいがあったのなら、最低限当事者の立場にはあるといえる。あとは知的レベルと作為を糺せばいい。しかし、大臣席に座る宰相のヤジは違う。「不規則発言」というより、「責任回避騒擾」である。当事者であることを抛擲した議事妨害なのだ。そこは決して軽く考えない方がいい。行政府が立法府を牛耳る独裁への志向が透けて見えるからだ。昨年11月には衆院予算委員会で「私はいま立法府の長として立っている」と口を滑らせた。たしか2度目だった。語るに落ちたというべきであろう。ついでに言えば、現政権の専横が続くのは野党が弱いのではなく自民党が弱いからだ。対抗勢力を抱えない自民党は活力も同様に失う。
 木枯らしの時季になんともお寒い話だ。 □

身の丈 3例

2019年11月18日 | エッセー

 身の丈とは身長のことである。古くは古事記に出てくるそうだ。背丈に合わない服は具合が悪い。だから身の丈に合わせる必要がある。と、ここまではいい。時代が下って身分制度が定着すると身分の謂が重なってきた。明治以降にはさらに能力、経済力の意が加わった。だから身内に使えば極めて現実的で謙虚な物言いであるが、他人に向けると上から目線の高圧的な言辞となる。こともあろうに、これを文科省のトップがやっちまった。発言全体を踏まえれば差別の容認ではないと本人は釈明したが、撤回はしなかった。だが、言葉へのぞんざいな感覚がトリガーになったこと自体への自覚が文化行政の長として致命的に欠落している。
 東日本大震災以降、背伸びせず地道な生き方への志向が強まり「身の丈に合った暮らし」が盛んに謳われはじめたと指摘する識者もいる。ひょっとしたら、そういうトレンドに乗った「身の丈発言」だったのかも知れない。だとすれば、余りにも尻軽との謗りは免れまい。むしろ受験生に身の丈を超える挑戦を促してこそ大人の発言ではなかったのか。
 2つ目は1年前の11月、秋篠宮による「身の丈発言」である。
〈相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば。少なくとも皇室の行事と言っていますし。そういう形で行うのが本来の姿ではないかなと思いますし、そのことは宮内庁長官などにはかなり私も言っているんですね。ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています。〉
 これは身内に使っている身の丈であるから「極めて現実的で謙虚な物言い」といえよう。病ゆえ前皇太子妃が宮中祭祀を欠席するなか、秋篠宮家はいつも夫妻で欠かさず臨んでいた。それは「絶対にすべきものだ」を十全に裏打ちする。決して皇室の宗教性を軽んじているのではない。「少なくとも皇室の行事」が肝である。この場合、身の丈とは私的祭祀の「私的」を意味する。先日行われた大嘗祭は総額27億円余、公費である宮廷費で賄われた。秋篠宮はこれを天皇の私的生活費である内廷費から支出すべきであると提議したのだ。内廷費で許容される範囲に規模を縮小しようとの考えだ。まさに身の丈に合わせようということだ。加えて、私的行事とすることで前回訴訟に及んだ政教分離の論難を迂回できる。その狙いもあったのではないか。奔放に聞こえる発言のなかに皇嗣としての身の丈への自負と布石も窺える。
 さて、3番目の身の丈である。これは言葉としては出てこない。身の丈をとんでもなく外れた『桜を見る会』のことだ。
 違法性については措く。どこが「とんでもなく外れ」ているのか。第2次某内閣の某総理が主宰する見る会は園遊会をはるかに凌ぐ域に達している。人数、支出は毎回うなぎ登りで今年は5千万を超えていた。園遊会の向こうを張ったのかどうかは判らない。それほどの増上慢ではなかろうが、園遊会擬きではある。そこ、「とんでもなく外れ」ている中身とはそれだ。
 園遊会への参列は天皇、皇后への尊崇もしくは敬愛に基づく。見る会は権力への擦り寄り、阿(オモネ)り、あるいは権力側にとってはその誇示、プロパガンダにモチベーションがある。その意味で、芸人や芸能人が我先に総理にお愛想を振りまくのは権力に弄ばれる遊治郎の本質を図らずも見せてくれていてとてもいい絵面(エヅラ)になっている。某総理も小ネタを真似してはしゃぎまくる。こちらはなんともしょぼい図だ。そうやってみんなが寄ってたかって総理を持ち上げ、盛り上げる。つまりは主催者、参加者ともに啖呵売よろしくサクラを集め、サクラを見、見せる会なのである。それこそが哀しいくらい身の丈に合わなくしてしまっている中身なのだ。
 以上、1例目は悪例として、2例目は好例として、3例目は戯画として挙げた。 □

 


『グランデュードのまほうのコンパス』

2019年11月12日 | エッセー

 帯をそのまま写す。
──ポール・マッカートニーが贈る、とびっきりの冒険物語
      さあ、グランデュードといっしょに、ふしぎな旅にでかけよう! 
   グランデュードの世界へようこそ! 
      世界中で愛される伝説的ミュージシャン、ポール・マッカートニーからの贈り物。
      子どもも大人も、魔法のジェットコースターに乗っているかのように
      世界中をかけめぐったあとは、ふかふかのベッドへ! 

   キャスリンダーストのいきいきとした絵が、ストーリーに命をふき込みます。

   グランデュードはあっとおどろくまほうをかくしもつ、こわいものしらずの冒険家
   グランデュードがまほうのコンパスをつかえば、あっというまに、ちがうせかいへひとっとび。──
 潮出版社から今月5日に発刊されたポール・マッカートニー初の絵本『Hey Grandude!』の日本語版である。
 絵はいかにもの欧風タッチ。ストーリーはお馴染みのテレポーテーションと動物がらみのドタバタがあって、カール・ブッセの「山のあなた」風でお仕舞い。定番といえなくもないが、作者の超絶したプレゼンスが「たかが絵本」を「されど絵本」の遙か高みに押し上げている。
 ファンならずともビートルズ世代にはピンとくるものがあるはずだ。そう、『マジカル・ミステリー・ツアー』である。1067年、ポールの主導で作られたこの映画は、当時酷評された。魔法使いであるビートルズのメンバーと一緒に俳優やサーカス芸人が観光バスに乗り込んで旅をすれば、信じられないような不思議な出来事が起こるはず。それを記録しようという企画であった。目論見は無残にも外れ、なにごとも起こらなかった。「愚かなホーム・ムービー 伝説の終焉」などと散々なブーイングに見舞われた。
 臍が曲がっている稿者などは、ひょっとしたらあれから半世紀余を経てリベンジに出たか、そんなふうにも思案した。それにしても、ポール77歳。尽きぬ創作意欲にはただ脱帽するしかない。本物は「伝説的」や「レジェンド」なる献辞が大嫌いらしい。洋の東西を問わず。
 さて、対象者を考えると童話も昔話も同等に扱ってよかろう。ならば、そのドラマツルギーである。老人がなぜ主役なのか? 古典エッセイスト・大塚ひかり氏はこう語る。
〈最底辺の老人が、閉塞状況を打開させる役割を担い、仰ぎ見られるという逆転劇を実現する大きな要因は、長く生きた老人ならではの「知恵と知識」のせいでしょう。老人が「知恵や知識の象徴」と見なされていることは、昔話の多くの語り手が老人であることとも関係します。
 そもそも「弱い者」が、強い者を倒したり、主役を助けたりといった「意外な力」を発揮して、その存在感を示すというのは古今東西の物語のパターン。昔話の主役が老人である最大の理由、それは、「老人そのものがもつ物語性」です。〉(草思社、15年刊「昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか」)
 グランデュードは「最底辺」ではないが、「老人」にはちがいない。物語のはじまりは、文字通り『つまんない なんだかパッとしない あさ』と子どもたちが嘆く「閉塞状況」からである。「お馴染みの」「ドタバタ」を切り抜ける「逆転劇」はグランデュードが備える「知恵と知識」と「意外な力」によってなされる。コンパス、つまり羅針盤はその象徴的アイテムである。裏打ちするのは長く生きてきた「老人そのものがもつ物語性」だ。ポールの化身であるグランデュードは有り余るほどその資格を有する。「『されど絵本』の遙か高み」とはその謂である。ポールが贈ったこの絵本は見事にセオリー通りだったのだ。
 「リベンジ」は成功したと見ていい。稿者の生まれ月にビッグなプレゼント、そう勝手に喜んでいる。(余談ながら、この絵本は今年誕生した孫娘に遺贈するつもりである) 

<跋>  せっかくだからこの絵本になにか曲を作ってほしかったところなのだが、やはり『Magical Mystery Tour』以外には考え及ばない。というか、他にはあり得ない。 □


すっぱい話と、しょっぱい話

2019年11月10日 | エッセー

 先月の拙稿『栗ご飯』で五味に触れた。その内、酸味と塩味(エンミ)についての話である。
〈酸味も苦みに続くセンサーだ。腐敗の感知である。だが酸味のある食材には疲労回復やスタミナアップなどに資する作用があり、必須の味覚である。
 塩味(エンミ)はミネラルバランスを示すシグナルである。カルシウム、鉄などのミネラルは微量ではあっても人体に不可欠な無機質である。過不足ないミネラルバランスこそ最強の治癒力ともいわれる。〉
 酸味は腐敗のセンサーである。そのセンサーが見事に働いた。
《セブン、冷食「たこ焼」回収
 セブン&アイ・ホールディングスは8日、冷凍食品の「セブンプレミアム とろ~り食感たこ焼」約235万食分を自主回収すると発表した。酸味の強いものがあり製造工場で紅ショウガを入れすぎたなどの可能性があると同社はみている。健康被害は出ていないという。》(今月9日付朝日新聞より抄録)
 「腐敗の感知センサー」が働いた好例である。指摘は5・6件だったそうだが、対応は実に素早かった。原因も紅ショウガの偏りであってみれば笑って済ませられよう。回収数235万個と1袋税込235円は不思議な数の一致だが、絶妙ともいえる。推定5.5億円の回収は年間売上4.9兆円の最大手にとっても痛手ではあろうが、24時間営業問題で翳った企業イメージのさらなる悪化を防ぐにはやむを得なかったともいえる。
 センサーは大店の沽券に反応したのだから、こういう場合は酸いも甘いも噛み分けないほうが得策である。飽和状態とeコマースの隆盛に、今、コンビニ業界は苦戦を強いられつつある。『とろ~り』どころではなくなっている。酸味センサーはそんなアラームを鳴らしたといえば、大袈裟が過ぎようか。
 次は塩味である。同じく同日の朝日から抄録。
《羽田の塩――の謎 空港第2、断水解消
 羽田空港で6日朝から続いていた断水が8日午後に解消した。なぜ「しょっぱい水」になったのか。最初に異変が見つかったのは、機体を洗う洗機場。水が塩辛くなっていることに気付き、給水を止めた。担当者は「空港内で塩分が含まれてしまった可能性が高い」とみる。》
 「羽田の塩」とは巧い見出しだ。空港は東京湾という海に突き出している。塩水(シオミズ)に囲まれているのだから、塩害は不可避であろう。原因は水道管の腐蝕により海水が混入したのではないかと推測されている。さもありなんだ。
 塩味センサーが「ミネラルバランスを示すシグナル」だとすると、「羽田の塩」はにわかにおもしろくなる。まず空港とは人体という有機物にある無機物に準えることができよう。「機」とは生き生きる機能の「機」であり、それがあるかないかで有機、無機に別れる。もちろん陸(オカ)は有機物に溢れる世界だ。少量といえどもミネラルがなければ人体は生を維持できないように、現代の文明社会は空港がなければ立ち行かない。問題はバランスだ。
 来年のオリンピックを機に訪日客を4千万に持って行くため、羽田の国際線発着枠を年間6万回から9.9万回に増やす細工がなされた。米軍に頼み込んで横田空域を通過させてもらう。ために、首都上空を超低空で飛行する破目に。自国の空なのになぜ自由に飛べないのか。このおかしな「ミネラルバランス」については昨年12月の愚稿『知ってはいけない!』で述べた。
 アベノミクスの不首尾を糊塗する観光立国の目眩まし。成長神話の呪縛から逃れられない大計なき場当たり戦術。国家規模のミネラルバランスが崩れつつあるアラームが「羽田の塩」ではないのか、といえば牽強付会が過ぎようか。すっぱい話と、しょっぱい話。
 物言えば唇寒し秋の風  芭蕉 □

 


憎まれ口3つ

2019年11月07日 | エッセー

 「私の発言が直接影響したということではない」と当人は強弁するが、どっからどう見たって千三つにちがいない。ハギウダウダ君はアンバイ君にとっては大事な子飼いの部下。深傷を避けるため、官邸肝煎りで見直しに舵を切ったらしい。
 こういうのを瓢箪から駒、怪我の功名という。あの“失言”がなかったらと裏返せば、突っ走ったにちがいないのだから。
 論語の顔淵篇285にこうある。
〈子貢、政(マツリゴト)を問う。子曰く、食を足らわし、兵を足らわし、民にこれを信ぜしむ、子貢曰く、必ず巳むを得ずして去らば、この三者において何れを先にせん。曰く、兵を去る。子貢曰く、必ず巳むを得ずして去らば、この二者において何れを先にせん。日く、食を去る。古より皆な死あり、民、信なければ立たず。〉
 政治とは民を食わせ、兵により民を守り、民の信用を得る、之に尽きると孔子はいった。2つに絞るなら、軍備を捨てよ。1つに絞るなら、切るのは食糧だ。意外にもファーストプライオリティは民の信だとした。中国史において飢餓は常のこと、諦めもしよう。だが政(マツリゴト)への不信は反乱を招く。遂に為政者に下されるのは斬首だ──。そう子(シ)は訓えた。
 「信なくば立たず」はコイスミ君の受け売りでアンバイ君もよく口にする。だが悪用してもらっては困る。長々と羅列した公約の最下位に潜り込ませた憲法改定を、参院選で「信を得た」と呼ばわる。とんでもない堅白異同である。5割を切った投票率で、なおかつ自民党の絶対得票率は18%。どっからどう見たって「民、信なければ立たず」、早々に引っ込めるべき公約ではないか。加うるに、「兵を去る」の是非に是なりとの断が下ったものともとれよう。ともあれ人類史に屹立する箴言をドブに捨てないでくれたまえと切に願う。
 マラソン・競歩の札幌移転。IOC何様説が囂しい。そうなんです、IOCは何様なんです。勘違いしている向きがあるので確かめておきたい。そもそもIOCは国際機関ではない。国連のオブザーバーではあるが、下部組織ではない。UNは1945年の誕生、IOCは1894年、半世紀も早い。ピエール・ド・クーベルタン男爵が近代オリンピックを立ち上げた際に生まれた非政府組織、ぶっちゃけていえば民間団体だ。もっと分かりやすくいえば、興行主である。開催都市は興行先のイベント屋さんである。イベントがあまりにも巨大になりすぎたため、この構図が霞んでしまったのかもしれない。
 やたらと種目を増やしたり、アメリカの放映権のために猛暑に開いたり、ドーハであんまりバタバタ倒れるので札幌に移したり、そんなのはIOCにとっては文句言われる筋合いはないのである。ヤならいいよ、だ。もっとも先細りは怖いだろうが、今は天下のIOCなのである。そういう事情を一番弁えているのは、案外シンキロウ組織委員会会長だったりするのではなかろうか。都知事が逆立ちしたって適う相手ではないが、「合意なき決定」だと息巻くパフォーマンスをさせてあげたのだからもういいよねと“調整”してジョン・コーツ調整委員長は帰って行った。まあ、アンバイ君がフクシマはアンダーコントロールと大ウソを吐いて誘致したオリンピック。ゴタゴタがつづくのもやむを得まい。自業自得だ。
 復旧に向けた最大のネックは災害ゴミである。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』と謳われた1980年代以前なら、同程度の災害が起こってもこれほどの災害ゴミは出なかったであろう。ゴミ山には木材、家財以外に、冷蔵庫・洗濯機・乾燥機・炊飯器などの白物家電はもとよりテレビ・レコーダー・カメラなどの黒物も無残にうち捨てられている。自戒を込め、被災者のお怒りを覚悟でいうなら、消費社会のしっぺ返しである。メルカリの隆盛とネガポジである。と、わが家を見回せば稿者が最初に捨てられそうだが……。
 以上、憎まれ口3つ。でも、大臣席から訳の分からないヤジを飛ばす宰相には負けますが。はい。 □


吉田拓郎 LIVE 2019

2019年11月01日 | エッセー

── *:買ったアルバムについて音楽評論家ぶってネットで語らない人
    *:知ったかぶって吉田拓郎について語ったりしない人 ──
 が「アイ・ライク・ユー」だという。
 先月末リリースされた新譜
     TAKURO YOSHIDA
 2019 -LIVE 73 YEARS- in NAGOYA
 に添えられた小冊子に拓郎自身が綴ったものだ。上記は40数項目並んだうちの2つである。
 恐れながら大樹の陰に寄っかかって異論を唱えたい。大樹とは思想家・内田 樹氏である。
〈恋愛は誤解に基づく。恋に落ちたときのきっかけを、たいていの人は「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」という文型で語ります。みんなが知っている「よいところ」を私も同じように知っているというだけでは、恋は始まりません。〉(「先生はえらい」から抄録)
 半世紀もファンでありつづけてみれば、そこいらの恋愛なぞはとっくに超えている。「誤解」は高々とした信念と化し、「音楽評論家ぶって」はともあれ、せめて「知ったかぶって」語る資格は有するものと確信する。だから、「この人のすばらしいところを『私だけは知っている』という文型」は赦されていいのだ。

 体調が優れず、この30数年間で初めて“欠席”した。BDの映像が始まった途端、無性に込み上げた。2度目にはついに落涙した。“73 YEARS”の変わらぬ姿に、いや LIVE2016 よりも若やいだ様子にのっけから琴線が弾かれた。なんせLIVEのタイトルに堂々と 73 YEARS と名乗るミュージシャンがいるだろうか。そこに高齢化社会を歯牙にもかけぬ鮮やかな勇姿を見たのは「私だけは知っている」であろう。
 T&ぷらいべえつ with 2019T's BAND と名付けられたバックは“2016”とほとんど同じメンバーである。しかし格段にグレードアップしている。特にコーラスがいい。ステージのデザイン、ライティング、ポジショニング、全曲が拓郎作詞作曲の楽曲によるセットリスト、すべてが新鮮でかつ渋い。巨細にわたってソフィスティケートされている。今までのLIVEとは次元が違う。<ボーナス映像>に収録されたツアーメイキングに、その辺りの並々ならぬこだわりが垣間見られる。
 なんといっても出色は新曲『運命のツイスト』(もちろんこれも詞・曲ともに拓郎)である。なんと拓郎がステージでツイストを踊った。 「僕の長いライブの人生で/『踊った』事が過去にあったか・・/踊りたくなる曲に仕上がったから/身体が動くから『踊ろう』と思った」と彼はいう。
  〽もっとあなたと生きたいネ
 と始まり、
  〽思いもかけないはるかな旅路に
    君に届けと唄がきこえる
 と締める。なんともこころが腰振る応援歌ではないか。前記の「アイ・ライク・ユー」に、
〈*:「昔は良かった」とか「あの頃はこうだった」ばかり言わない人〉
 が「ライク」だとある。曲にすると、こうなるのか。
 同じく「アイ・ライク・ユー」に
 〈*:日本のフォークソングが好きじゃない人〉
 とは語るのだがやはり氏より育ち、60年代後半から70年代初頭をハイティーンとして潜った世代は、常に何かにプロテストし続けている気がしてならない。もちろん同じ時代の一部の体験であったとしても全体が共有していたように振り返る「模造記憶」ではあるだろう。だが、世代感覚とはそういうものではないか。
 『結婚しようよ』にしてもそうだ。ただのラブソングではなかった。「御両家、御婚儀相整いまして」という家制度の因習に訣別を宣し、条件はただ一つ、2人の髪の長さだと言い放ったプロテストソングだった(12年7月の拙稿「いまさら『結婚しようよ』」で詳述した)。
 何かへの乾きは今もつづき、何かへの異議申し立てはなおも止まない。“73 YEARS”とは団塊の世代の魁である。拓郎の背に心地よく負んぶされ、あるいは後ろに回って嗾ける。そんな半世紀であった。
 オーラス、今回のライブでも彼はいつもの長い長いお辞儀をしてステージを去った。お辞儀をするのはこちらだろうと少し恥ずかしくもあった。
 と、また「知ったかぶって」語ってしまった。だって、『私だけは知っている』のだから。 □