伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

脱・タックスペイヤーの悲哀

2015年06月27日 | エッセー

 固定資産税も介護・健康保険料も通知が届いているのに、住民税の知らせがなかなか来ない。強いて払いたいわけではないが、気になるので役場に訊いてみた。「65歳以上で年金受給額が課税対象以下ですので税金は掛かりません」という返事だった。
 とたんに拍子が抜け、抜けた間(アワイ)が詮なくて、そのうち面映ゆい気味になってきた。これはどうしたことか。反権力を気取ってはみても、やはり本邦古層のお上意識からは抜けがたいのか。内心忸怩たるものがある。
 維新を経て、年貢は税へと変わる。明治憲法ではこれにもう一つの義務が加わった。兵役の義務である。
「金で払う義務が税で、血で払う義務が兵役だった。『血税』は今日一般に誤解されているような『血と汗と涙の結晶を払うもの』ではなく、兵役のことを意味している」
 と語るのは、今年「民間税制調査会」を立ち上げた法学者の三木義一青山学院大学教授である。近著「日本の納税者」(岩波新書、先月刊)が興味深い。以下、同書を参照した。
 かつては兵役と納税が士農に分離されていたものが、四民平等ゆえに民草は両方を担うことになった。重い国家だ。
 だが戦後、劇的に変わった! と刷り込むように教えられた。日本国憲法で、主権は国民に移った。三木氏はこういう。
「主権者と納税者が基本的に一致する国家となったわけである。これは、日本という国の歴史を見るかぎり、初めてのことなのであろう。それ以前は、主権者として天皇が存在し、被統治者である臣民が納税の義務を負わされ、主権者が統治のためにその税を使う国家であった。」(上掲書より、以下同様)
 確かにコペルニクス的転回である。だがしかし、「納税の義務」は残る。この経緯(イキサツ)が怪異だ。当初、マッカーサー草案にはなかった。日本政府の原案にもなかった。無理やりねじ込んだのは税務行政の特権を手放したくない大蔵省と明治憲法の延長でしか新憲法を捉えられない時の与野党であった。義務規定がないと納税を拒否されるのではないかと危惧したらしい。同じ伝で、労働者の権利を謳うなら労働の義務も、教育を保障するなら保護者に受けさせる義務を負わせるべきだ、と。こうして「国民の三大義務」が生まれた。
 憲法は国家を縛る軛だ。そこに国家が国民に義務を課す規定が紛れ込むのはおかしい。戦後の憲法学はこのような義務規定を議論に値しないとネグってきた。刻下の税制への国民的無理解、無関心はここにも起因すると三木氏は指摘する。
 余談……でもないが、一方の「兵役の義務」は消えた。政府は憲法18条「苦役からの自由」を根拠に徴兵制はあり得ないという。憲法9条さえも読み替える“凶状持ち”がなんと白々しい口を利くことか。もしこの先自衛隊員の応募者が激減すれば、“環境の変化”を口実にきっと言い出すに決まっている。覚悟は必要だ。
 さて、税制である。三木氏は「『納税の義務』が復活されたことにより、大蔵省は従来の税務行政をそのまま踏襲することができた。国民に義務として課税し、納税しない国民を取り締まるという行政システムを維持することができたのである」と抉る。お上は隠然として君臨を再開したのだ。
 民主的制度として始まった申告納税の形骸化。源泉徴収による納税意識の希薄化。税務調査の理不尽。難解を窮める税法。通らない異議申し立て。裁判で国が負けないシステム。法学部出身者が少ない税理士。当てにならない公認会計士、弁護士……。三木氏はさまざまな問題点を挙げた後、こう訴える。
「私たち納税者が主権者となった今、税を取られるものとみる考え方も、課税の側面からだけみる考え方もそろそろ修正しよう。『税金は社会の会費』とよくいわれるが、単なる会費ではない。日本国憲法の下での私たちの社会の税は『資本主義の欠陥(格差拡大)を是正し、民主主義を維持・発展させるための対価』でなければならないのである。そろそろ、義務としての納税から、自分たちの意思としての「払税」に変え、社会の責任ある主権者として政治に、税制に、予算支出に関わっていこう」
 御意。ごもっともである。ただ哀しいことに、タックスペイヤーを脱した身にはきつい。言うに、ぶら下げる面(ツラ)がないのである。「面映ゆい気味」とはこのことだ。しかし、次の卓説には面映ゆい気味が晴れる。
◇人間というのは迷惑をかけたり、かけられたりするものだという人間理解が、基本にあります。けれども、今の人たちは「私は誰にも迷惑をかけたくないし、誰からも迷惑をかけられたくない」という願いを公言します。若い人にとってはそういう言い方は「当たり前」のものに聞こえるかもしれません。でも、少なくとも少し前までの日本では、そう公言する人は周囲からするどい非難のまなざしを浴びる覚悟が必要でした。そういうことが大声で言えるようになったのは、せいぜいこの三〇年です。相互扶助システムというのは、「強者には支援する義務があり、弱者には支援される権利がある」という、不公平なルールで運営されているのです。残念ながら、現代人はこのルールがよく理解できない。「オレの努力の成果はオレのものだろう? 何が悲しくて、他人と分け合わなくちゃいけないんだ」と、青筋立てる人がたくさんいます。◇(内田 樹「街場の共同体論」潮出版社、抄録)
 もつべきは哲人だ。 □


萩 寸景

2015年06月24日 | エッセー

 3年前は閑古鳥が鳴いていたのに“大河”の影響か、結構な賑わいが戻っていた。リアルな蝋人形を使った松陰の資料館も松下村塾の隣に生まれていた。城下町も瀟洒なカフェを挟みながらよく整備されている。薩摩では維新の大立て者は下級武士だった。然したる住まいではなかったであろうし、中心地に近い加治屋町も維新後瞬く間に区画整備されていったにちがいない。一方、長州の大立て者は中上級の武士であった。幕末に藩庁を山口に移したこともあり、城下の屋敷町はそのまま残るに至った。事情の違いはそのあたりにあっただろう。
 史跡巡りのために一人乗りのレンタルEV車も登場していた。時代である。観光客の消費量は住民の約七倍に及ぶという。各資料館での意匠に富んだ展示、あちこちのスポットで待ち受ける案内人やボランティアガイド、懇切な案内板にいたるまで観光への注力が見て取れる。
 行ったり来たり、なかなか見つけられない遺跡があった。「萩反射炉跡」である。何度も尋ねた町だが、今回初めて訪った。山間(ヤマアイ)ではなく、意外にも小さな湾に接するように盛り上がった丘の頂にあった。今年の世界遺産登録を目指す「明治日本の産業革命遺産」23資産の1つである。
 太陽光を反射するにしてはあの煙突様(ヨウ)のものはなんだろう。小っ恥ずかしいことに、その程度の認識しかなかった。「反射」とは燃料を燃やした反射“熱”のことである。炉の天井や側壁からの高温の反射熱を使って金属を溶かす。煙突“様”のものとは何あろう、そのまま煙突なのだ。
 幕末、洋式の鉄製大砲を鋳造するため一藩挙げて取り組んだ。海防は急を要する。先行する佐賀藩に教えを請うが、断られる。ならばと長州の発明になる独自の砲架と取引に及んで、やっと見学を許された。その時持ち帰ったスケッチが建造の端緒を開いた。
 維新の10年前に完成するが本格操業した形跡はなく、試験炉ではなかったかという説が有力だ。おそらく一藩を丸ごと擲った幕末の騒擾で反射炉どころではなくなったのではないか。それどころか、第二次長州征伐では熊本藩が輸入したアームストロング砲に散々な目に遭わされている。幕府の権勢も堕ち、各藩競って舶来の武器で身を固めた。しかしそれは後の話で、幕末に自前の反射炉を建造した藩は5、6藩に及ぶ。その中で韮山反射炉と萩だけが遺る。得難い遺構にまちがいない。
 ともあれ青銅砲では間拍子に合わない。世界は鉄製砲の時代に入っている。危機は迫る。手を拱いてはいられない。身を灼かれるような焦慮に先人は懊悩したのではないか。やがて焦燥は見よう見まねの反射炉に凝(コゴ)る。だから反射炉は幕末維新を生きた人たちが死活を賭けた技術革新の象徴、モニュメントといえる。
 萩に残るのは煙突部分だけだ。本体の炉は土に埋もれている。掘り返すと煙突が倒壊するかもしれないそうだ。だが、現代技術を駆使すればできなくはなかろう。勝手な希望だが、ぜひ本体部分を発掘してほしい。世界遺産を見越して駐車場や遊歩道の建設が始まっていたが、それよりも史跡が中途半端では興ざめだろう。
 司馬遼太郎の箴言が甦る。
「歴史とは、人間がいっぱいつまっている倉庫だが、かびくさくはない。人間で、賑やかすぎるほどの世界である。」 (『歴史と小説』から)
 遺跡を廻るのは単なる懐古ではあるまい。今や「かびくさく」なった史跡という「倉庫」に、「賑やかすぎるほどの世界」を観ることではないか。「賑やか」とはいっても、悲喜、禍福糾ったそれだ。
 萩反射炉は実用に供することなく歴史の後景にひっそりと退いた。それは容赦ない時代の激動を物語っている。藩運を賭した技術の習得には先達の健気が偲ばれる。健気とは難事に立ち向かう直向きであろう。それを想起するのは今とこれからに有意味なはずだ。でなければ、先人は浮かばれまい。
 先の大戦後、鋳物工場の象徴となったのがキューポラである。現代版の反射炉といえなくもない。『キューポラのある街』は復興と差別、貧困を問いかけた。基幹産業であった製鉄は、今主役の座を降りている。2度の開国的回天を先駆けた製鉄の炉は歴史となった。それはこの国が新しいフェーズに歩み込んだ証ではないか。成長か成熟か。またしても、岐路にさしかかった。 □


おかんの珍メール

2015年06月19日 | エッセー

 テレビでは『とんねるずのみなさんのおかげでした──全落・水落コーナー』がめっぽう好きで、欠かさず見るようにしている。本では、いつかも紹介した『テストの珍解答』シリーズ。5、6冊は読み漁った。持って生まれた素直な性格のゆえか、他人様の失敗が大好きである。他人の不幸は蜜の味、なんともこれが旨いのなんの。で、今度はお母さんのメールである。
「買い物 佐藤俊雄買ってきて!」
 これはありがちだろう。『砂糖と塩』の変換違いである。
「忙しいからあとで変身します」
 これも同じく。でも次ぐらいになると、非常にきわどくなってくる。
「今日帰りに正常位四位でワイン買ってきて!」
 スーパー『成城石井』の誤変換だ。というより、マシンは正直だからこちらの“誤確定”である。極めつけはこれ。
 子供からの「今どこにいるの?もう着いたんだけど」に対し
「さっきからずっと快感の入口にいるよ」
 うおぉー! これはマズいでしょう。あらぬ誤解を生みそう。
  おかんからの
               珍メール・なぞメール 
                                        (株式会社メディアソフトから先月末発刊)
 紹介されているのは“誤確定”の連打である。中には類推不可能なものもあるが、捻りの利いた上手いものもある。
 子供が「あーお腹すいたー 今日のおにぎりの具なに?」と寄こした。対して、おかんが 
「塩対応」
 と返す。「対応」が貧困への対応なのか、多忙へのそれなのか。座布団をあげたくなる。
「ネットで椅子が買いたいんだけど、アマゾンってパスポートは必要なの?」
 とか、
「知らない人から英語のメールが来たの。読めないので帰ってきたら読んでね」に、子供が「もしかしてその人って、MAILER DAEMONって人?」と返すと、 
「そう、その人! え、知り合い!?」 
 と応える。これら2例は笑いを誘う可愛い物知らずといえる。もう一つ。
 子供から「明日そっちに行くって知ってる?」への返信。
「狂気いた明日狂うって」
 これは御入力、いや誤入力であろう。不慣れのゆえならよいが、指使いに支障があるのなら一度病院をお薦めしたい。
 今、おかんと呼ばれる女性たちはきっとキーボードによるパソコン入力をじっくりと経験していないのではないだろうか。入力をして変換する──このプロセスに難渋する、あるいは狂喜する原体験が希薄であるのが如上の悲喜劇を生んでいるのではなかろうかと推察申し上げている。
 おとんに関して出版するに至らないのは、おとんと呼ばれる男どもが曲がりなりにも仕事上忌まわしい苦渋を嘗めてきたからかもしれない。失敗が成功の母となったか。となれば、失敗のなかった母が成功しなかったわけだ。あるいはわたくしに仮説を立てるとすると、女性性による大らかさ、根拠のない自信が誘因ではないか。エビデンスはないが、今後の生物学からの九名、いや救命、いや究明に期待したいしたいところ大である。
 キーボード入力を経ないままいきなりケータイでのタップ入力やスマホでのフリック入力に移行したことが近因であるような気がしてならない。大袈裟にいえば、文明開化の激変に揉まれることなくその余沢にあずかっている後継世代。イノヴェーション後続世代には新しい発想があると同時に旧い価値が失われていく。変革とはそのようなものだといえば木で鼻を括るのだが、インカネーションした文化的資質はただ消失するだけではない。文化のリゾームはそれほど単純ではあるまい。様々なフリクションが伴う。
 「かな漢字変換」というわが国文字文化史上、あるいは広義の文化史上一大転機に偶会したか否か。手書きから“打ち”書きへ。これは西欧のタイプライターとはまるっきり次元の違うコンヴァージョンである。かつて手書き時代にはうろ覚えの文字は似たような字で誤魔化すか類推を誘うか、またはカタカナかひらがなで記した。語句も同様だ。字切りも同等である。しかし「かな漢字変換」ではそうはいかない。デジタルに曖昧はない。それが今、対極にあるおかんが珍メールを量産している真因ではないか。
 ともあれ、筆から鉛筆へ、鉛筆からキー入力へ。これは単なる道具の変化ではあるまい。鉛筆までは指の動きを即物的に紙に伝えた。キーは思考をマシンに伝える介在物である。アナログとデジタルの違い。キーではなくなる可能性もあるし、脳からダイレクトに伝達できるようになるかもしれない。つまり、思念の表現経路が次元を変えた。逆も然り、思念も変わるのではないか。事は「ペーパーレス」などとは比較にならぬほど深刻かもしれない。この変容はもっと注視されていい。ツイートのような短文化の波、絵文字やスタンプの隆盛、インパクトのあるワンフレーズプロパガンダなど、世の思考回路も短小化しつつある。未だ経験の浅いキー入力が深く広く定着していけば、はたして元に復すであろうか。わたしはそれほど楽観的にはなれない。今後はこのイシューを出来のよくないわが脳みそを叱咤しつつ愚慮を廻らしてみたい。
 お棺の、いやお燗の、元い、『おかんの珍メール』は悪寒のするほどシビアな問題提起なのかもしれない。 □


そんなに急いでどこへ行く?

2015年06月16日 | エッセー

 なんとかの一つ覚えか、政府与党は決まって「安全保障環境の変化」と言う。まるで思考停止を強いる錦の御旗のようだ。ならば、孫子の格言を返したい。
「彼を知り己を知れば百戦殆からず。彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆し」(『孫子』)
 「彼」についてどこまで知っているのか。「彼」とは誰なのか。「己」はどうなのか。その「環境の変化」を克明に提示願いたい。
 ところが、敵もさるもの引っ掻くもの(この「敵」は政府与党、ややこしい!)。「特定秘密保護法」とやらで、先刻がっちり予防線を張っている。ブラックボックスに手を入れようものなら、即刻お縄だ。それに俄に軍事通ぶって、知っていると言うこと自体軍事の鉄則に反すると宣う。まことに荷厄介だ。百歩も千歩も譲ろう。孫子がいうのは、もし戦わばの話だ。武の本道は敵をつくらない、戦わないことにある。武はこの至高のアンビヴァレントの只中にこそある。そのような高みを掲げたところに憲法九条の世界に冠たる誇りがあるはずだが、「環境の変化」なる現実論が我が物顔に尊大な道行を始めたようだ。
 では、現実はどうか。仮に中国とすると、軍事的にはもう手遅れだ。米国が介入したとしても、すでに勝てる相手ではない。その冷厳な事実を腰を据えて見定めることこそが現実論ではないか。中国は大国化しつつあるのではない。大国に戻りつつあるのだ。4千年のタイムスパンで鳥瞰すれば、列強の後塵を拝したのはちょいの間、邯鄲の“悪”夢といえよう。
 ノースコリアも核を持った以上手遅れともいえるが、核兵器開発と暴発を防ぐには非軍事的対応以外手はない。ノドンは日本を丸ごと射程内に収めているし、MDなど絵空事に近い。それに彼らのお相手は米国だ。彼の国への軍事的対応は百害あって一利なしと見定めることこそが現実論ではないか。
 テロについては、先般のISによる日本人人質事件を例示すれば足りる。軍事的対応なぞ論外だ。歯が立つはずがない。それが現実だ。
 いずれにせよ、「環境の変化」に応ずるに軍事的リアクションこそ非現実的なのだ。そう闡明に自覚することが現実論であろう。「環境の変化」はパラダイムシフトを冀求していると、肝に銘じる知性を現実的と呼んでおそらく間違ってはいない。
 自民党の高村副総裁は約言すると「日本の安全を揺るがす事態が明日起こるか、数年先か、それは分からない。いつ起こってもいいように準備をするんだ」と言ったそうだ。ちょっとお待ちよ車屋さん、だ(古い!)。火山噴火や地震の話ではない。戦争は人間が引き起こすまるっきりの人為である。明日起こさないように、数年先でも起こさないように人為の限りを尽くすのが政治であろう。まるで逆さまだ。安全保障と防災は違う。
 さて、パラダイムシフトの一例を示したい。
 進化生物学の学識によると、生物はサバイバルのため物理的な戦いだけではなく、捕食回避のためさまざまな戦略を駆使しているという。つまり即物的な争いを避け、知略を繰り広げている。
 「食う/食われる」の生態系はピラミッドのようなヒエラルヒーだと今まで考えられてきたが、実は状況によってダイナミックに変化する網の目状であることが判ってきた。一強他弱の縦社会では変化に脆い。全滅する恐れがあるからだ──。かなり示唆的である。
 ニワトリをはじめ「死んだふり」をするたくさんの動物。さらに、動き回る動物に紛れて死んだふりの「擬態」を演じ生き延びるカブト虫。これは「後出しジャンケン」とでも呼べる生き残り術だ。ほかにもテントウ虫がわざと食い残して被捕食者の産卵を促す戦略などなど、サバイバルのために直面した問題を棚上げする「先送り」戦略に満ちている。「冬眠」や「寄生」、「変態」。勝ち目がない相手にどう立ち向かうか。多彩な技を総動員して生き残りを図る生き物たち。多くの教訓に溢れている。
 最も興味深いのは、托卵するカッコウとそのカッコウを用心棒にしてしまうカラスとの共生関係。多くの寄生者が最終的に「共生」関係に至る進化だ。妥協こそが進化の産物ともいえよう。
 如上の知見は宮竹貴久著「『先送り』は生物学的に正しい」(講談社+α新書)を参照した。一読の値打ちありだ。
 もしも物理的な闘争のみから人類が抜け出せないでいるとしたら、生物の進化に背を向けていることになる。「万物の霊長」なぞ片腹痛い話だ。してみると、憲法九条は生物の進化における輝かしい達成ともいえる。

 「せまい日本そんなに急いでどこへ行く」
 73年に総理大臣賞を受けた、史上最も名高い交通安全標語である。作者は高知県の警察官。石碑まで建てられているそうだ。
 とかくにビジネスマインドの為政者たち。国家運営は企業経営とは違う。なにを急ぐ。なぜ慌てる。「『先送り』は生物学的に正しい」のだ。そこで、かの標語を借りてみた。
 「せまい世界そんなに急いでどこへ行く」
 お粗末……と言えればよいのだが。 □


“知の無知”

2015年06月11日 | エッセー

 至高の境位を「無知の知」とソクラテスさんは言った。不遜を覚悟で洒落ると、これは端っから知を蔑むさしずめ“知の無知”だ。
 今月4日、衆院憲法審査会で3人の憲法学者が安全保障関連法案を違憲と断じた。火消しに躍起となった自民党は、反論ビラで「高度の政治性を有する事柄が憲法に合致するかどうかを判断するのは、明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所ではなく、内閣と国会」だと書いた。モンテスキューさんが聞けば、激怒のあまり卒倒するかもしれない。「高度の政治性を有する事柄」であろうと憲法の範を超えないことが三権分立ではないのか。超えざるを得なければ、憲法自体を変える規矩を憲法はすでに設えている。立憲主義は元来懐が深い。にもかかわらず、解釈などといって恩を仇で返してはなるまい。
 三権分立、立憲主義。中学生レベルの知見を天下の大政党がもたないはずはない。大衆を煙(ケム)に巻くとんでもない頬被り。“知の無知”とはこのことだ。
 つづけてビラは、安保政策に責任を持つのは「私たち政治家」と呼ばわっている。学者になにが判るか、日本丸の舵を握っているのは自分たちだと言いたいのであろう。
 プラトンさんは『国家』で「洞窟の比喩」を説いた。人びとよ、イデアをめざせ。永遠普遍の実在に無関心で、感覚で捉えた情報を鵜呑みにしてよしとするのは洞窟に緊縛された囚人だ。彼らが見ているのは松明が照らす影だ。洞窟から彼らを解放し、イデアを見せようとする者こそ哲学者である。そうプラトンさんは力説した。
 操舵手は政治家として、海図の見方が間違っているよと言うのが学者ではないか。安保政策の責任、日本丸航海の責任、ともに政治家も学者も同等だ。学へのリスペクトに欠けた自民党の姿勢もまた“知の無知”といえよう。
 9日、自民党の高村正彦副総裁は「60年前に自衛隊ができた時に、ほとんどの憲法学者が『自衛隊は憲法違反だ』と言っていた。憲法学者の言う通りにしていたら、自衛隊は今もない、日米安全保障条約もない。日本の平和と安全が保たれたか極めて疑わしい」と述べた。
 ここにはトリックがある。「自衛隊は今もない」とは、過程をすっ飛ばして結果オーライだと言っているに過ぎない。なにより「自衛隊が今も『ある』」ことで「日本の平和と安全が保たれた」具体的事例があったのであろうか。どこかの岬に某国の軍隊が無謀な上陸を試み、勇敢なる自衛隊の奮戦によって見事に退けられたなどという“戦果”があるのなら挙げてほしい。いや抑止効果だという声もあろう。ならば「日本の平和と安全が保たれた」という“実績”があるのなら、自衛隊の増強で事は足りるはずではないか。個別的自衛権と集団的自衛権の恣意的な混淆がある。
 もう一つ。自衛隊「違憲論」と日米安保条約締結は別物だ。52年の旧安保はサンフランシスコ講和条約とセットで締結された。主権の回復とバーターされたものだ。違憲論議が介在する猶予も余裕もなかったはずだ。あったとは寡聞にして知らない。
 コンテクストを『自衛隊がなかったら日米安保もなかった』という因果関係に置き換えると、自衛隊の創設は54年、日米安保は52年。時系列は逆転してしまう。50年設置の警察予備隊を持ち出すなら、GHQの指令によるものであり、なによりその装備や体勢では計が行かないために自衛隊に改組したのではなかったか。
 60年前も学者は反対した。でも、それを押し切った。結果はよかったではないか。今も同じだ──。この単純なロジックに引っ掛かってはならない。原因と結果を短絡するのは知的退嬰であり、ポピュリズムの骨法だ。“知の無知”へ誘(イザナ)うものだ。
 反知性主義について、内田 樹氏はこう語る。
◇「あなたが同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。◇(晶文社「日本の反知性主義」から抄録)
 「もう一度勉強して出直してきます」と言える知性の保持者が永田町に何人いるか。悍しい限りだ。しかし、赤坂真理氏の次の指摘は重い。
◇「反知性主義」的態度は、どんな兵器より破壊的である。でも、それを、我々自身が用意した側面もある、と思わずにいることもまた、反知性主義的態度であると思う。彼らこそ、もしかしたら私たち「国民」の映し絵ではないか? そう思う想像力くらい、私たちの側にあってもいいと思うのだ。◇(上掲書より)
  「我々自身が用意した側面もある」とは、まさに頂門の一針ではないか。「映し絵」は痛撃でもある。またしても『往復ビンタ』だ。 □


肥後 寸景

2015年06月06日 | エッセー

 熊本ではまっさきに田原坂に向かった。ここはどうしても外せない。実はここだけが目当てだった。
 鹿児島本線田原坂駅のホームに降り電車が去って視界が開けた時、吃驚のあまり「えぇー」と声に漏らしてしまった。私たち2人以外だれもいない。高名な地名を冠する駅であるのに無人。故事を記した看板が一つ。駅舎はない。山裾から少し上を複線路が通り、裾側の小高い迫り出しにベンチを一つだけ置いた小さな待合室があるきりだ。往き来に坂道が付けてある。鉄道の下を畑に挟まれた細い道路が走り、人家がいくつか散在する。山峡(ヤマカイ)の小振りな平地(ヒラチ)。なんとも拍子抜けするほど閑散としている。後に訊いてみると、田原坂への経路は隣の植木からがメインらしい。それにしても、背負う歴史の重みに比してやるせなく心寂(ウラサビ)しい。
 待合室の貼り紙に書かれたタクシーを呼ぶ。小雨の中、待つこと15分。車を駆って一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂と、古戦場の坂を登る。

¶田原坂は、こんにちなお往時の景観と大差はない。要害といっても自動車でそこを通れば、ほとんど気づかぬうちに過ぎ切ってしまうほどに、変哲もなさそうである。
 この坂は、小丘陵の稜線を縦に貫いている。
 ただし、丘陵といえるほどの高さもない隆起である。要害であるという点は、道路の両側が谷になっていて、谷の形状が複雑に入り組み、谷間には水田が耕作されていて、軍隊の通行をゆるさないことがまず挙げられるであろう。
 道路にも、特徴がある。すでにのべたように、おそらく加藤清正がそのように作為したものらしく、道路が塹壕のように地をえぐって造られている。えぐった土が両側に積みあげられ、その両側の堆土にはえた樹々が陽を遮り、所によっては道を昏くして隧道をゆくような感じの場所もある。
 しかも道路はしきりに曲っていて、その曲り角ごとに塁を築けば、坂をのぼってくる政府軍は追いおとされざるをえない。¶

 司馬遼太郎が『翔ぶが如く』に活写して40年、「こんにちなお往時の景観と大差はない」であろう。舗装はされているが、結構は名作に写し取られたそのままだ。
 田原坂の激闘。『翔ぶが如く』をつづける。

¶十数日つづいた田原坂の攻防戦というものは、同時代の世界戦史のなかで、激戦という点で類を見ない。小銃弾の使用量のけたはずれの大きさも、機関銃の出現以前の戦いではこの兵力規模で他と比較しようにも例がないのではないかと思える。さらには防禦側の意思の強烈さと攻撃側の執拗さは一種恐怖をさえ感じさせるものがある。¶

 西南戦争は日本史上最後の内戦であった。薩軍は緒戦から躓く。政府軍が籠もる熊本城を落とせない。その内、政府側が援軍を送る。南下する官軍、坂上に布陣して迎え撃つ薩軍。両軍が激突し、死闘を繰り広げたのが田原坂であった。この坂を越えると台地が続く。熊本城までは一瀉千里だ

¶「行きあい弾」とよばれるものも出てくる。敵味方の弾が空中でぶつかりあって互いに噛みあい、だんごのようになったもので・・・・
 偶然のおもしろさというようなものではないであろう。こういう「行きあい弾」が幾つも発見されたというのは、一定の空間によほど濃厚な密度で銃弾が往来しないかぎりおこりえないものと思われる。¶(同上)

 1日に30数万発もの弾丸が行き交った。「行きあい弾」は資料館にある(「かちあい弾」と表記されている)。「防禦側の意思の強烈さと攻撃側の執拗さ」が凝った一級の遺物だ。
 ふと、『田原坂』の歌詞が浮かんだ。元歌はこうだ。
   〽雨は降る降る じんばはぬれる
      越すに越されぬ 田原坂      
 「越すに越されぬ」のはどちらだろう。
 歌は薩摩軍の残党が作り、のち宴席で唄われた。当たり前だが、通じて薩軍を謳っている(「じんば」は「人馬」ではなく、雨により不利となった薩軍の「陣場」だという郷土史家もいる)。だから勘違いするが、越し倦ねているのは官軍である。

¶俗謡に、雨は降るふる、人馬は濡るる、越すに越されぬ田原坂、とうたわれた・・・・越すに越されぬというのは薩軍の立場ではなく、政府軍の立場であった。田原坂を越さなければ熊本城に入ることはできないのである。¶(同上)

 一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂。「越すに越されぬ」鉄壁の坂。現地を践んで、生え抜きの誇り高き武士団に挑んだ民草による初の国民軍の健気に心が震えた。
 元歌はこうつづく。
   〽右手に血刀 左手に生首
      馬上豊かな 美少年
 あり得ない描写には士族の矜持が込められているにちがいない。前稿で記したように西郷が「アンシャンレジームを一身に体現し人身御供となって革命を最終的に完結した」とすれば、量り難いほどの血が流れ止めどもないルサンチマンの炎上と引き替えにそれはなされたことになる。その絶頂として田原坂はある。ここに、内戦は畢った。
 爾来日本は外戦を繰り返し、結句昭和の壊滅的な敗戦を招いた。これで外戦も畢った、はずである。先人はそう九条に認(シタタ)めた、はずだ。今それが揺らいでいる。肥後、雨の田原坂に立ち、またしても想念が翔んだ。 □


薩摩 寸景

2015年06月04日 | エッセー

 山妻の退職記念に鹿児島と熊本を訪った。寸景を留めてみたい。
 仮想的にだが、東京駅のプラットホームを離れる順にJRの車両はナンバリングされる。だから、九州新幹線さくらの1号車は東京駅から最南端に停まることになる。鹿児島中央駅に降り立った時、先頭車両の十数メートル先でレールは切れていた。文字通り、行き止まりである。しばし目を凝らす。
 来年春、新幹線は青函トンネルを潜(クグ)って北海道へ渡る。30年には札幌まで延伸。北端はまだ遙か先だ。ならば新幹線は狭義の日本列島南北両端のうち、南は窮めたわけだ。
 在来の鹿児島本線は南端の鹿児島駅で日豊本線と繋がる。九州の両縁は呼び名は変わろうと鉄路が切れ目なく周(グルリ)を囲んでいる。だが、新幹線ばかりは鹿児島がターミナルだ。在来線の面を覆う鉄道網と点と点を結ぶ直線的な路線の違い。いかな最新技術をしてもこの先はない。点は陸地という絶対的な制約を受けて、そのピリオドをここに打つ。数日前に噴いた口永良部島とて同じだ。人智では太刀打ちできない。逃げるほかない。ガイアの軛は人為の夜郎自大を歯牙にもかけない。フクシマも……。
 終点のレール止めに、ふと稚拙で突飛な感慨に耽った。
 
 当たり前と言えばその通りだが、かごっまはせごどんに溢れている。駆け足で要所を廻ったのだが、ほとんどが、いやすべてが西郷南州有縁の史跡、旧跡である。島津にしても西郷なかりせばあれほどには顕彰されなかったに違いない。論より証拠、各種記念館から土産物のキーホルダーやTシャツに至るまでせごどんものばかりである。比するに、大久保利通の影が薄い。「維新の三傑」、その両雄は当地薩摩である。両雄並び立たず、か。それにしても薄い。維新の群像がプリントされた土産物のファイルには、近藤勇はあっても大久保はない。
 銅像は生誕の地近くに一体。フロックコートを翻す颯爽とした偉丈夫だが、没後100年昭和54年の制作だ。なんとも遅い。再評価されたのであろうか。まさか、3年前に連載が終わった司馬遼太郎著『翔ぶが如く』に触発されたわけではあるまいが。ともあれ銅像はこれきり。どの記念館の展示にも申し訳程度にあるばかり。西郷さんは同志と共に宏壮な墓地に眠るが、一蔵どんの墓はない。片や判官贔屓ともいえるが、片や継子扱いといえなくもない。
 古い記憶を辿ると、『翔ぶが如く』は両雄をどちらにも偏せず同等に描(エガ)き評価していた。幕末維新と明治開闢を俯瞰し、西郷をアンシャンレジームを一身に体現し人身御供となって革命を最終的に完結した雄傑、大久保を肇国の苦渋を窮める離れ業に命を捧げ“坂の上の雲”に先鞭をつけた英傑として物語は紡がれていた。なのに生地ではこのありさまだ。おそらくこれは西南の役に因るものであろうが、だとしてもまことに根深い。130余年を経ても、風土に染みついた歴史感覚は狷介だといえる。
 かごっまでの一蔵どんの居心地の悪さ。梅雨入りしたばかりの雨に煙る霧島に奇想が跳ねて、昨今の歴史認識問題の至難が脳裏を掠めた。 □