“ヨシ子 Who?” が囂しい。明治安田生命「名前ベスト100」で調べると、ヨシ子を含め嘉子・好子・喜子・美子・良子・佳子・芳子・よし子、一人もいない。字は不明だが、「よしこ」がDQN(ドキュン/ネットで非常識を指す用語)だと悩んでいる女子中学生の投稿があった。それほどに古格である。稿者が推察するに、「ヨシ子」はベルエポックの象徴ではないか。仮名も漢字も使わず“ヨシ”として、和洋折衷風の溜を拵えたところに工夫が滲む。そのままの「ヨシ」だと戻りすぎてしまうが、「子」がグンと引き寄せる。してみると、昭和の30年代。そんな按配ではないか。「さん」は郷愁の呼び掛けだ。今年の2月で還暦を迎えた紛れもない「オッサン」の桑田が、遂に懐かしのメロディーを奏でる。しかもうんと桑田流で。それが新譜『ヨシ子さん』だ。
「オッサンそういうの疎いのよ 妙に」
と嘆くのは、R&BとHIPHOPについて。オッサンはやっぱり
「サタデー・ナイトはディスコでフィーバー」
だと言うが、霞むようにすげぇー古いフレーズだ。
“EDM”(Electronic Dance Music)をED(Erectile Dysfunction)とトッ違えたり、刻下流行りの音楽配信システム“サブスクリプション”からターンテーブル時代の“ナガオカ針”に飛んだり、挙句
「なんやかんや言うても演歌は良いな」
と、なりふり構わぬ開き直りをカマす。もう、オッサンそのもののリアクションだ。しかし、そこに桑田のメッセージがある。
10年8月、拙稿「私的演歌考」にこう記した。
<演歌とはなんだろう。ふと、考える。
演歌。 演説の歌。
艶歌。 艶物の歌。
怨歌。 怨嗟の歌。
諸説ある。どれもその通りだ。しかし、わたしはこう仮説を立てた。
―― 歌を演ずる。
それが演歌ではないか。
歌うのではない。演ずるのだ。歌をドラマ化する。感情移入では、まだ浅い。歌中の人となる。それでこそプロだ。憑依すれば、すでに天才だ。巧いかどうか、美声か否か。それは前提でもあり、埒外でもある。歌唱能力は演技力の一部でしかない。アマを隔つ壁はそこに屹立する。
自由民権運動抑圧の渦中に「演説歌」として生まれ、政治的主張や諷刺が託された。「オッペケペー節」が代表である。つまり、弁士の代わりを演歌師が担ったのだ。そこに源流がある。
演歌一般にそうなのだが、情感をステロタイプにして押しつけてくるところが鼻持ちならない。『大きなお世話』に、いつも苛立つ。嫌悪感(押し付けがましさ、強引さ)は、演説という祖型に来由するのかもしれない。遡及すれば、そうなる。>(抜粋)
桑田は新譜についてフジテレビのインタビューで、「色気・笑い・風刺」という歌謡曲の原点への回帰を語っていた。風刺では川上音二郎の名を挙げ、「オッペケペー節」に込められたお上の抑圧に抗する庶民の反骨に心を寄せていた。今もまた同じ抑圧の気配を感じると。
「チキドン(チキドン)/チキドン(チキドン)/チキドン/エロ本(エロ本)/エロ本(エロ本)/エロ本」
「フンガ フンガ 上鴨そば(Hey)」
の間の手は風刺と色気、それにことば遊びの笑いも凝っている(おそらく「上鴨そば」は桑田の頭脳にストックされた語彙のケミストリーで、鴨蕎麦の上という他特段の意味はないはず)。もうこれは桑田にしかなし得ない独壇場だ。インド音楽風のメロディーラインや、エロくて無国籍な音楽ビデオ、サイケデリックなCDジャケットといい“桑田ワールド”全開である。特にビデオの振り付けは「演ずる」歌を地で行く。矢沢某の“カッコいい”振り付けと比すれば、桑田が演じるオッサンがどれだけダサいか。カッコよくできるのは凡才で充分だが、ダサくできるのは非凡、鬼才もしくは天才に拠る。
ところがこのオッサン、間抜けなことに恋したヨシ子さんに袖にされる。
「可愛い姐ちゃんに惚れちゃったんだよ/ヨシ子さん 好きさ
・ ・ ・ ・
イイ歳こいて捨てられたんだよ/ヨシ子さん ノー・リターン」
励まし諭してくれるのは、なんとディランとボウイ。無秩序なシッチャカメッチャカが桑田ワールドである。
例に漏れず、若者にやたら説教を垂れるのがオッサンの特性。
「青春はお洒落でスゲェ High!!」
なのに
「最近はエロが足んねぇ Why?/笑ってもっとベイビー Smile!!
と、いつか聞いた台詞を挟んで
「ニッポンの男達(メンズ)よ Are you happy?」
と苦言を呈する。「イイ歳こいて捨てられた」自分のことは棚に上げて。
それにしても、ベルエポックのヨシ子さんに振られるとはいかなることか。温故の至難をいったのか、オッサンの失敗を披露してニッポンのメンズをインスパイアするつもりなのか。多重な繙読もしくは誤解、曲解は一級品の愉しみでもある。
3年前のサザン復活の時、精神科医の斉藤 環氏はこう述べた。
<“サザン”は日本語を解放した。「語り」の延長線上に閉じ込められていた日本語は、意味の呪縛から解き放たれ、8ビートに躍動する「うた」となった。その挑発、その風刺、その猥雑、その皮肉、すべての背後にかいま見えるのは桑田佳祐の“シャイネス”だ。その含羞の上にこそ、彼らの「ロック」が輝いている。>(毎日新聞から)
そうなのだ。“シャイネス”という補助線を引かないと、桑田ワールドは解らない。自虐はシャイネスの裏返しでもある。
6月29日に『ヨシ子さん』はリリースされた。ビートルズ来日50年のその日であった。意識したのかどうか。あの日から日本のミュージック・シーンは劇的に変わった。桑田もその申し子である。半世紀を経てオッサンになった彼がどんなリターンを打つのか。その1球目がラケットを離れた。 □