アルタンホヤグ・イチンノロブの“イチ”から“逸”としたそうだ。もちろん安逸、逸機ではなく、秀逸、逸材の“逸”だ。外の部屋にとっては大変な逸材を逸機したといえようが。
秋場所の奔逸な快挙は贅言を要すまい。稿者としては十三日目の鶴竜との一戦が特に印象深い。大関稀勢の里戦と同じくモンスターが横綱を相手に、なんと変わり身を見せた。しかも悪びれもせず、「勝てる気がしなかったから、(立ち合いの変化は)最初から決めていました」と言い放った。
「横綱、大関への初挑戦で飛ぶようなケチ臭い根性で張れるほど、綱は軽いものではない」、あるいは「役止まり(大関、関脇、小結)がせいぜい」と酷評した元横綱もいた。しかし、この当たり前すぎるコメントに事の実相が隠されているのではないか。
「綱は軽いものではない」というが、近年の綱は相当軽くなっているのではないか。髷を掴んで反則負けになる横綱や、三場所経っても優勝できない横綱。綱のチャンスのたびに腰砕けになる大関や、優勝に絡めないどころか幾度も格下げの危機をさまよう大関。規程ギリギリで促成された横綱、大関のなんと多いことか。それらしいのは白鵬だけではないかと、日本相撲協会の粗製濫造に憤りを覚える。一連の不祥事とそれに踵を接した人気低落に打開策を打ったつもりであろうが、裏目に出ているとしかいえない。確かに今場所は一日を除き、満員御礼に沸いた。だがそれは遠藤と逸ノ城に拠るもので、上位陣はお世辞にも褒められたものではない。協会にとっては逸ノ城様々である。それを「役止まりがせいぜい」などと、おそらく協会の役員であろう元横綱がどの面ぶら下げて言えるのか。経営感覚もなければ、メンターとしての資質も疑わしい。
彼は首都を去ること遙けき大草原で育った。最大の財産である家畜をオオカミから守るため、番犬の咆哮に即応し馬を自在に乗り回して育った。獣の気配を感じ、息遣いを聞き、足音を捉え、身動きを察しつつ対峙してきたのだ。そのような容赦のない敵との攻防を身体化した若者に、異国の紳士協定を説いても始まるまい。「初挑戦で」飛んだのではなく、「初挑戦で」あるからこそ、飛んだのだ。適わない敵に遭遇した時、どう対するのか。本物の野獣と日常的に対決してきた若者が“飛ぶ”のは至極当然の応戦ではないか。「綱は軽いものではない」と見抜いたからこそ、“軽々と”心身を翻した。その野人の身体知を解ってやらねば、角を矯めて牛を殺す。
知己が彼を評して、「蒙古襲来」といった。巧い物言いだが、実はそれはとっくに畢っている。今や大内裏に闖入し、摂政関白を懲貶する事態に立ち至った。つまりは、逸ノ城が相撲を取った相手は誰あろう、相撲協会だったのではなかろうか。ある時はひらりと身を躱し、ある時は寄り、またある時は豪快に投げ飛ばして土俵に叩き付けた当の相手とは、大相撲の位階秩序をオーソライズしてきた協会のインフルエンスそのものだったといえば壮語に過ぎるか。割を壊した意味はそれだ。
一時代前なら新入幕と大関横綱で割を組むことはなかった。だから、とっくに優勝である。それを無理筋の勝負をさせて、逆に一敗地に塗れたのが協会ではないか。よって、「横綱、大関への初挑戦で」とは片腹痛い。百年ぶりの歴史的な優勝は逸したものの、協会との取り組みは見事な右四つ・寄り切りの勝ちであった。
片や、気の利いた四股名でも考えてやればいいのにと気を揉むのが遠藤だ。彼については本年五月に、「負けっぷりがいい」と題して拙稿で取り上げた。
今場所も、徹して負けた。肩を落とし、頭(コウベ)を垂れて花道を引き揚げる姿が連日続いた。入れ替わり立ち替わり、対戦相手は大枚の懸賞を鷲掴みにした。高い授業料を払い続けたともいえるし、さらに負けっぷりに磨きが掛かったともいえる。
彼の場合、実力が伴わない人気先行だと評される場合がある。しかし、それは管見というものだろう。彼ほど定石通りに実力に応じて駆け上り、実力に応じて壁に直面し、跳ね返され、呻吟し苦悶する力士は当今稀ではないか。人気と力が相反しつつ拮抗していく。あたかも若者が世の荒海を漕ぎ進む物語のようでもある。一時(イットキ)の人気に右顧左眄することなく、十年一剣を磨く。そのようなあり様(ヨウ)である。そこを、それこそを辛抱強く待ち、見つづける。それがこの力士との対し方といえば大袈裟だが、応援の仕方だと愚慮している。だからむしろ観られているのは、桟敷の観察眼かもしれない。稿者はブレークスルーが必ず訪れると確信する。懸賞に出す金はないが大声だけは出して、来場所もテレビ桟敷から応援したい。
秋場所の明暗を分かつ二人のようだが、片や相撲協会の、片や桟敷席の眼が問われた場所であった。 □
※○○と畳は新しい方が良いといいます。○○を新調したいのですが、これは困難、至難、“死なん”の業。代わりにPCを新調しました。カスタマイズがなかなか進みませんが、旬の内の投稿には漕ぎ着けました。引き続きご愛顧を。