伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

成功を祈る!

2009年03月31日 | エッセー
 北朝鮮の駐英大使が「貧しく生活が苦しい国は、宇宙開発をしてはいけないのか!」となにかの会議で噛みついたそうだ。日本でいうなら、生活保護を受けている人がキャデラックを乗り回すようなものだ。周囲の顰蹙を買うどころか、たちまち保護は打ち切られてしまう。大使は物言いを誤った。正直にミサイル開発だと言えばよかった。それなら、いかに貧しくとも国防のためだから、とまだ理屈がつく。

 時期は4月4日から8日までと予告している。せめて4月1日なら物騒なブラック・ジョークとうっちゃっておけるのだが、本物のミサイルでは洒落にもならない。
 ついでながら、エープリル・フールとは ―― 。
〓〓むかし、むかし、日本では戦国時代のころだ。フランスの王様が1年の始まりを1月1日に変えた。それまでは、3月25日が新年だった。4月1日までが春の祭り。永く続いた慣習だった。おそらく農作業の流れに由来したものだったろう。王様はそれを無視した。民衆は反発し、4月1日を「嘘の新年」として、腹立ち紛れのどんちゃん騒ぎを始めた。ダダイズムにダダ(駄々)をこねたのだ。(駄洒落。失礼、大変失礼!)逆ギレした王様は騒いだ連中を根こそぎひっ捕らえ、処刑してしまった。「四月バカ」という冗談めかした呼び名とは逆に、由来は相当に陰惨で血なまぐさい。〓〓(07年4月1日付本ブログ「絶筆 宣言」より)
 まさか「陰惨で血なまぐさい」由来を知って、朔日を避けたのではあるまい。だが4月4日を「嘘の新年」明けとすると、「嘘の新年」の『仕事始め』がミサイルとなる。そうこじつけると、にわかに件(クダン)の王様がだれかと重なってくる。

 軍隊とは国家の政治的目的を遂行するためのツールである。その核心は物理的破壊力である。つまり、兵器だ。決して「将軍様」のマニアックな趣味嗜好のためのツールではない。政治的目的のためだ。また軍の論理として、自己肥大と最新化、強力化にバイアスがかかる。その極みに、核兵器とその運搬手段としてのミサイルがある。だがツールにばかり目を奪われて、政治的目的を失念してはなるまい。
 それは宇宙開発などであろうはずはない。諸外国の援助とバーターすることもあるにはあるが、所詮はアメリカだ。アメリカによる『認知』である。『ならず者』の名札は外してくれたが、国としての『認知』はまだだ。それが狙いにちがいない。彼の国はそこから逆算した手練手管を繰り出してくるのだ。海千山千、したたかこの上もない。こちらもその政治的目的から逆算した対応をせねばならない。アメリカに頼らず自力で迎撃できる、と能天気に力んでいるのは的外れもいいところだ。
 ミサイル技術が十全に開発されたとして、中ロに向けて撃つはずはない。韓国では自殺行為になる。アメリカでは「虎の尾を踏む」どころか自爆テロだ。標的はわが国しかない。だからアメリカの核の傘だ、では論議は振りだしに戻る。旧ソ連の時代と構図は同じだからだ。ミサイルは約10分で日本に届く。車で10分だと5、6キロか。歩いて行ける距離に引っ越して来たに等しい。もはや日本海はないも同然だ。だから自衛力の強化を、では指し違いも止むなしになってしまう。それは御免蒙る。呉下安蒙、20世紀の愚行を繰り返すわけにはいくまい。攻めの外交だ。防衛省ではなく、外務省こそ出番だろう。ところが、どうも外務の影が薄い。

 さて、論点を絞ろう。報道によると迎撃の準備はできた。とはいっても、不測の事態に備えてだ。つまり、打ち上げに失敗して日本領土に堕ちてくる場合にである。トラブルへの対処である。まともに? 日本を飛び越える場合は迎撃しない。日本が標的となれば防衛のために迎撃できるが、飛び越えていく場合は迎撃の根拠がない。第一、見極めがつかない。今回は日本領海を離れた太平洋上が落下予定地点である。傲岸不遜、神経を逆なでする非礼ではあるが、大気圏外の飛行物体を狙う法的権限も義務もない。判別は難しいが米本土を目指して飛ぶ場合も迎撃はできない。集団的自衛権の問題が発生するからだ。もっとも今はアメリカを狙える技術はないらしい。いずれにしても、難題、難儀、この上ない迷惑だ。金もかかる。PAC3とSM3による迎撃システムは2兆円もするそうだ。2兆円とくると、定額給付金の総額と同じだ。配備するだけで定額給付金が全部消えた勘定になる。

 ではひるがえって、迎撃は可能か。撃ち墜とせる確率はイチローの打率にはるか及ぶまい。現に、去年11月のハワイでの実験では失敗している。イージス艦「ちょうかい」が模擬弾に向けてSM3を発射したが、追尾しきれず逃がしてしまった。一説には、ピストルの弾をピストルで撃ち墜とすに等しいという。よしんば、的中したとしても破片が落ちてくる。デブリなら燃え尽きるだろうが、こちらは直ぐに落下してくる。これはもう防ぎようがない。厄介なことだ。

 間違えてはなるまい。繰り返すと、ミサイル飛行が失敗した時に迎撃するのである。備える「不測の事態」とは、ミサイルの失敗である。「予定」どおり「成功」するならば、迎撃はない。手も足も出ない、出せない。
 だからこの際、ちゃんと飛んでもらわねば困るのである。なんとも皮肉な話だ。ひたすら「成功を祈る!」という珍妙なるパラドックスに嵌まってしまっている。最良の選択肢は成功の二字だ。大いなる戯画である。笑うに笑えない。
 結びに一言 …… 成功を祈る! □


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それはちがう! 

2009年03月28日 | エッセー
 前稿を上げて2時間、正確には1時間57分後にトラックバックが貼られていた。なんとも速い! 先方は「藤原紀香・陣内智則の離婚の理由は陣内の浮気にあった」とする内容。
 以下、そのことについて感想を述べる。

 ちがい:その1 ―― 内容が見当ちがい
 おそらく「三年ぶり と 三年目 の浮気」の「浮気」がキーワードになったのだろう。関連語を使ってのコンセプト検索であろうか。人手ではなく、おそらくプログラム化されたロボット検索であろう。彼らの離婚の原因が浮気であろうがなかろうが、コンテクストがまるで違う。当方の「浮気」は出しであって、具は「ぶり」と「目」だ。風馬牛である。
 要するに、技術レベルがその程度なのだ。わたしもコンセプト検索はよく使う。関連する語句を援用して検索するのがやっとで、コンテクスストをきっちりと押さえてのサーチはまだまだだ。ヒットし過ぎる。絞り込みは結局のところ、キーワードで、ということになる。そこにいくと、グーグルは凄まじい。トップシークレットだそうだが、あの検索レベルの高さの秘密はなんだろう。輪郭は判るが大いなる謎だ。

 ちがい:その2 ―― 間隔と人数のちがい
 前項は浮気の『間隔』にこだわった。「ぶり」と「目」のちがいをあぶり出すためだ。そのためにカラオケの定番デュエット「三年目の浮気」を借りた。人数なぞはまったく思慮の外であった。ところがトラックバック先の情報によれば、陣内くん、人数が半端ではないらしい。もちろん、実人数だ。垂涎の的ともいえるが、石田純一くんのように「不倫は文化だ」と一気に形而上学にしてしまうほどの度胸も頭脳もないらしい。「芸人の妻。2、3人までは」と公言していた紀香女史も、さすがに「大目に見」るわけにはいかなくなったのか。
 これで「明るく楽しく笑いの絶えない家庭にしたい」(後述)との希望は断たれる次第となったが、『希望』を叶える有力な秘策を紹介したい。
 以下、養老孟司著「養老訓」(新潮社)から抄録する。
 〓〓夫婦で向かい合って話す様を想像なさってください。正面から向かい合って話す、というと聞こえはいいのですが、実はこんなに互いの感覚が異なる話し方も無いわけです。向かい合って話しているときぐらい、互いの見ているものが違う状態はありません。お互いに相手の見えないものしか見ていないといってもいいくらいです。私には家内の顔と彼女の背景しか見えていない。向こうには私の顔と背景しか見えない。実はそっぽを向いているのと同じくらいに、互いの見ているものは重なり合わないのです。二人きりで暮らすと、一年も経たないうちに喧嘩をする原因のひとつが、向かい合いすぎることなのです。
 ところが、ぶつかってしまうことの原因を今の人は、「性格の違い」「価値観の違い」と解釈して納得してしまっている。その挙句にバラバラ殺人事件を起こしてしまうような夫婦までいました。これも「二人で親密に暮らせば同じ感覚を共有できる」とどこかで勘違いをしているからです。むしろ二人で親密に暮らせば暮らすほど、感覚世界は違ってしまう危険性すらあることに気づかなければいけないのです。特に相対した場合、感覚は異なってしまうことを頭に入れておいてほしいのです。
 コスタリカに行ったときに面白いことに気がつきました。レストランで食事する恋人同士や夫婦が、横に並んで食べていたのです。彼らは「向かい合うとろくなことはない」と気がついているのではないでしょうか。イタリアでも恋人同士ならば直角に並んで食べるそうです。だから夫婦は直角に向かい合うのが正しい、と私はいつも言っているのです。
 夫婦は二人で暮らすのだから、外から見ると、必ず合力になります。直角はなぜいいか。二つのベクトルが直角になっているときに、力はいちばん大きくなります。いちばん無駄なのは、お互いの向いている方向が正反対なときです。まったく同じ向きはどうでしょう。これは良いようで、そうでもない。実は長いほうで済んでしまう。力はなかなか足せないので、長い方だけあればいい。〓〓
 つまり「夫婦は向かい合わない!」これが秘中の秘、極意である。

 ちがい:その3 ―― いくつかのちがい
 まことに汗顔の至りではあるが、拙稿を引用したい。07年2月22日付「奇貨可居」を抄録する。
 〓〓たかが芸人の他愛のない戯(ザ)れ事とうっちゃっておけばいいのだが、どうにもオカしいのである。
 先日(2月17日)、お笑い芸人J君と俳優F嬢が神戸のI神社で挙式をなさったそうな。新聞は「同神社はこの日、一般客の立ち入りを禁止し、周囲を高さ約3メートルの紅白の幕で覆ったが、約300人の報道陣とファン約400人が詰めかけ、周辺が一時混雑した。」と伝える。なんと、F嬢は十二単(ジュウニヒトエ)、J君は束帯(ソクタイ)姿。テレビで拝見したところ、どこの宮家かと見紛うばかり。式後、白無垢姿で記者会見したFさんは「明るく楽しく笑いの絶えない家庭にしたい」と仰せになったとか。これもいつかどこかで聞いたお言葉だ。吹き出しそうになったのを堪(コラ)えて、飲んでいた珈琲が鼻に逆流してしまった。尾籠な話で失礼。
 オカしいのは挙措だ。静止している分には、それなりに古式ゆかしく厳かでもある。しかし動き出すと、途端にいけない。何ともてんでにぎこちない。身のこなしは誤魔化せない。テレビや映画だとカメラワークで上手く撮れるのだろうが、ニュース映像ではそうはいかない。馬子にも衣装ではなくなってしまうのだ。
 何十年と和服で暮らしてきた人、偶(タマ)に着る人。動きを見れば、素人目にだって分かる。学芸会レベルの盛装では御里が知れるというものだ。
 さらに一つ。
 芸能誌を筆頭に報道陣が300人。日曜日ということもりニュースの薄い日ではあったが、それにしてもオカしい。このような虚仮威しに、はたして報道の価値があるのだろうか。「平和ボケ」の一現象と括るのか。あるいは、ひょっとして奇貨可居(キカオクベシ)か。
 日本は、類い稀なる身分に隔てのない社会である。西欧流の貴族階級もなければ、泥沼のようなカーストもない。
 一介の芸人が殿上人を気取っても、何の咎め立てもされない。どころか、周りがはしゃぐ。そうなのだ。『学芸会』の亜種なのだ。同級生がたまたま演じるヒーローとヒロイン。
 わが国の世界に冠たる無階級性を大いに喧伝することとなった今回の挙式。めでたい限りである。やはり、奇貨可居か。〓〓
 つまり、タカアンドトシなら「皇族か!」とツッコミが入るような勘違い。ぎこちない動き、御里が知れる挙措のちがい。学芸会レベルのイベントに群がるマスコミの報道姿勢。本来の役割と違うだろう、と。だが、待てよ。無階級社会の日本で、芸人風情がハイソの向こうを張る。張れる。この珍奇な逆転が、奇しくも階級の違いなぞないことを証明しているのではないか。だから、奇貨可居ではないか。と、こんなことを嘯いたのである。
 この大言壮語、今もって些かも『ちがい』はない。

 トラックバックを見た第一印象は「それはちがう!」であった。どう違うのか。横道にそれつつ感想を述べた。 □


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たかが3年、されど3年

2009年03月27日 | エッセー
 本ブログを始めてきょうで3周年、4年目となる。 …… 紛らわしい。いや、勘定の仕方が、である。
 「周年」「周忌」と【周】が付くと、満で数える。1周、2周のトラックレースを考えればよく解る。スタートして一巡り、戻って来てカウント=1だ。【ぶり】も満勘定である。バットの1振り、片道である。ヘッドが構えた起点から動き、ある位置で止まる。それが終点で、1振りである。起点を含まない。3回振れば3振りだ。100メートル走でもいい。スタートラインからゴールまで走って、カウント=1だ。日本舞踊で踊りと踊りの間をつなぐしぐさを「振(フ)り」というそうだ。つまり間隔のことである。それからも類推できそうだ。
 【目】は数えである。10本目のホームランは、当然最初の1本を勘定に入れる。アイズの目ではなく、ネットの目であろう。すべての網目は勘定に入れる。【回】も数え。「回」とは度数を意味する。重なりである。重ねた皿は一番下の皿から「1枚、2枚 …… 」と勘定する。だから、「回忌」は数えである。忌日の度数だから、最初の忌日を含む。「周忌」は『トラック』だから、起点は含まず次の忌日が来てはじめてカウントする。「1周忌」は亡くなった翌年、翌々年は「3回忌」となる。「三年ぶりの浮気」は、中(ナカ)3年。「三年目の浮気」は、中2年である。まことに面倒だが、ちがいは大きい。後者は常習性が芬々だ。10年のスパンでは、前者が4回、後者は6回となる。山の神としては『大目に見』るわけにはいくまい。
 ともかく、今稿で219本。このランキング・サイトでは数日間の例外を除き、浮沈と出入りが忙(セワ)しいなか、3年間ずっとベスト10内にいつづけることができた。いつも巧みなコメントを入れてくださるメンバーをはじめ、ご愛読いただく皆さまに満腔の謝意を捧げたい。
  
 さて、わたしは生来耳が悪い。いや、耳『も』悪い。この5、6年で4度左の耳を患った。水が溜まって聴力が落ちる。さしたる痛みはないが、わが声さえも淀みくぐもってしまう。医者は中耳炎の一種だという。1度だけ自然に治ったことがあり、1、2週間はひたすら快復を俟つ。だが、ついに堪えきれず病院へ。耳に孔を開け空気を送り、鼻から水をバキュームする。数秒だが、激痛が隙間だらけの頭の中を駆け巡る。年甲斐もなく「ンガッー! ! 」と喚く。医者は驚き、看護師は嗤う。『耳の』恥はかき捨てだ。待合室を足早に抜け、支払いを済まして早々に退散する。それで一件は落着、耳は元通りになる。毎度の顛末、問題はその決心がつかぬことだ。
  ―― この際、何年ぶりだろうが何年目だろうが関係ない。そんなことはどうでもいい。 ―― どういうリズムなのか。今年もまた、2週間前あたりから左の耳がおかしくなった。ただ今回は事情が違う。大いに違う。スタジオ・コンサートが控えているのだ。

   大いなる明日へ ~復活!吉田拓郎~
   3月22日(日) 19:30~21:00
   NHK-BS2

 こんな状態では満足に聴けない。左の耳が通らねば、「復活!」の音が掴めない。コンサートより先に、わが耳を「復活」させねばならない。万に一つの自然回復に望みを繋ぐものの、埒が明かない。ついに意を決したのが前日21日。「ンガッー! ! 」一発で、クリアーな音が蘇った。

 コンサートは格別にすばらしかった。大病以来では、声が一番よく出ていたのではないか。番組の構成も気が利いている。瀬尾一三率いるビッグバンドの演奏もさらに洗練された。リハを除き、全11曲。ほとんどが新曲の中で、なんと「伽草子」が入っていたではないか! コンサートでこの曲を聴いた記憶は、たしか、ない。
  ―― このブログへのトリビュートにちがいない。開始3周年を祝って。 ―― わたしは勝手にそう確信した。これは決してドッペルゲンガーでも、誇大妄想でもない。単なる偶然である。かつ偶然の解釈に恣意が紛れ込むだけのことだ。文句はないはずだ。だれも傷つけはしない。
 さて、番組の大団円。ファンにメッセージを、と促されて ――

 はっ。メッセージはないし、まっ、あのー、これで例えば、あのー、何てんだろ、えーっと、すべてが終わってしまうっていうようなことでは全くない訳で。
 僕は音楽は続けたいと思ってるし、音楽のそばにはずっといたいし、まだやり足りないなってものもあるしね。
 それをやっぱりやりたいっていうことがあるんで、そのためにもコンサートツアーは、あのー、もういいっていうのもあるんで。まー、そういうこともあるんで、音楽はやり続けていきたい。それは、まあ、その、僕の人生が終わるまで音楽っていう気はするんで。
 ですから、まっ、今後のことについて言うと、まあ、ありきたりですけども、「ほっといてくれ!」と。

  ―― 最後の一言には笑いが弾けた。のけぞって大笑した。なんとも拓郎らしい! 拓郎、健在! である。一句満了である。このワン・フレーズで「ンガッー! ! 」が報われた。哭いた甲斐があった。絶妙のカタルシスであった。

 たかが3年、されど3年。自身も世間も、さまざまなことどもがぎっしり詰まった3年間であった。隔靴掻痒ながら駄文に留(トド)めてきたつもりだ。もちろんエッセーを気取ってみても、与太話の域を出なかったが。
 「桃栗三年柿八年」「石の上にも三年」「三年飛ばず鳴かず」「三年塞り」 ポジとネガはあるものの、いずれも相応の辛抱を説いている。メルクマールとしての3年だ。そうすれば状況は拓く、と。
 だが、どうやら当方は「三年味噌」が落ちか。造って3年も経つと味噌は塩辛くなる。転じて吝嗇なこと、勘定高いことをいう。いや、そうなってはまずい。やはり、面相と同じく三枚目の賑やかしでいくか。いやはや、なかなか「三年竹」は至難の業だ。もう一度、「たかが3年」と肚を括るか。 □


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裁かれるのはだれだ!

2009年03月19日 | エッセー
 東京タワーは、いったい何本あるのだろう。怪獣、別けてもゴジラの出現のたびに壊される。だからかつて、そんな揶揄を飛ばしたものだ。ところが意外なことに、ゴジラは一度も倒していない。俄に信じがたいが、先入主とは怖いものだ。さほどにゴジラは怪怪にして獰悪なる獣として刷り込まれている。
 身長50メートル。核の落とし子である。それが東京を襲う。核兵器開発という人類の愚行から手痛いしっぺ返しを受けて、首都は阿鼻叫喚の巷と化し灰燼に帰す。恐怖の権化である。
 しかし、ひょっとするとゴジラの上を行くかもしれない怪物がいた。旧約聖書に登場する「リヴァイアサン」だ。

  口には鋭く巨大な歯が生え、火炎が噴き出し 火の粉が飛び散る。
  鼻からは煙が吹き出し、喉は燃える炭火。
  首には猛威が宿り 顔には威嚇が漲っている。
  体は強固な鱗に鎧われ、剣も槍も、矢も投げ槍も
  彼を突き刺すことはできない。
  両眼をぎらぎらと光らせながら獲物を探し、
  波を逆巻かせながら海面を泳ぐ。
  心臓は石臼のように硬く、凶暴でこの上なく冷酷無情。
  彼が立ち上がれば、神々もおののき取り乱して逃げ惑う。
 
 キリスト教に説かれる七大罪の一つ、嫉妬に対をなす悪魔である。ゴジラと優に伍して余りある空前絶後、史上最強、無敵の怪物である。嫉妬という醜悪で悍しい情念とその魔性を比喩的に表現したのかもしれない。
 トマス・ホッブズは、国家をこの怪物に準(ナゾラ)えた。「国家はリヴァイアサンである」 ―― 同時代を生きたルネ・デカルトの「コギト・エルゴ・スム」と比肩する歴史に屹立した大原理である。近代法体系の大前提であり発想の起点でもある。建物でいえば、土台だ。ここを押さえないと、議論はデラシネの如くさまよう。
 四捨五入すると、西洋の近代は国家性悪説に立つ。日本においては太古より「お上」であり、性、善に在る。この違いは大きい。
 ともかく、物事には前提がある。リヴァイアサンをいかにして抑え込むか、これが最優先の課題である。この怪獣を封じ込めるために設(シツラ)えた檻が「憲法」である。
 国家は強制力をもつ。合法化された暴力装置だ。警察と軍隊である。この力を後ろ盾に、国民の生殺与奪の権を握る。今のところ、国家権力を超える「力」は存在しない。「ビヒーモス」はいるか。いるとすれば、二つ。当該の国家を超える別の国家か、国家を消滅させるほどの天変地異か、である。少なくとも、いま住まう国はリヴァイアサン以外の何物でもない。だからまず憲法で縛りを掛けたのだ。夥しい流血の果てに勝ち得た人類、特に近代西洋の珠玉の戦利品である。したがって、国家が憲法の「名宛人」であることは自明の理だ。憲法は国民ではなく、国家こそを御するためにある。 ―― このボタンを掛け違えると、齟齬は際限なくつづく。字句のトリビアルな解釈は本質を曇らせる。
 この憲法を基(モトイ)として、国家が発する強制的な命令が法律である。リヴァイアサンの手足に当たる。当然、手枷、足枷を嵌めねばならぬ。それが「罪刑法定主義」であり、「デュー・プロセスの原則」である。近代西洋の知恵の結晶だ。

 「名宛人」が重要だ。つまり「命令」の対象者である。これは、その命令に反することができるのはだれか、を考えれば容易に判る。
 刑法第199条には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」とある。被告人にはまったくのお門違い、風馬牛だ。この命令に背けるのは唯一、裁判官である。したがって、刑法の名宛人は司法の代表たる裁判官である。裁判官を縛る法律が刑法である。この場合有罪ならば、被告人に2年の懲役を科すことも、終身刑に処すこともできない。法に定めがないからだ。(日本には終身刑はない)これを「罪刑法定主義」という。裁判官の恣意は徹底して排除される。あくまでも刑法に緊縛される。
 そして、本題だ。リヴァイアサンである以上、国家は性、悪である。これが前提だ。ものごとのはじまりだ。よって、警察、検察に端(ハナ)から信を措かない。国家権力をもってすれば証拠の捏造も、ことによれば事件そのものの捏造も意のままだ。そのような権力の毒牙から被告をいかにして守るか。それが近代刑事裁判のあり方である。
 「疑わしきは罰せず」も、「千人の罪人を逃すとも、一人の無辜を刑するなかれ」も同じ文脈である。リヴァイアサンの凶悪を防ぐためだ。また、一人を殺せば殺人犯だが、国家の名において百万人を殺せば英雄だという。リヴァイアサンの悪事は桁が違う。「推定無罪」もそうだ。有罪が確定するまでは犯罪者ではいない。法廷に罪人はいない。被告人がいるだけだ。となると、いったい刑事裁判において裁判官はだれを裁くのか。 ―― 検察官を裁いているのだ。有り体にいえば、検察官の主張を審理しているのである。つまりは裁判官が代表する司法権が、検察官が代表する行政権を裁く場が法廷である。裁判官が向き合う敵は検察だ。リヴァイアサンの手足に嵌められた手枷、足枷のせめぎ合いである。
 そこに登場するのが刑事訴訟法である。警察、検察という行政権力への命令である。検察への繋縛である。国の懲罰権を行使する際の定めである。検察は一点の瑕疵もなくこの法に則らねばならない。徹底した遵法が求められる。微小でも逸脱があれば、被告は無罪放免となる。これが「デュー・プロセスの原則」である。たとえ真犯人であったとしても、デュー・プロセスに瑕瑾があれば即刻無罪だ。それほど捜査、立証は厳密、厳格を要求される。なぜか、 ―― ひとりの無辜も刑さないためだ。推定無罪だからだ。さらには、「国家はリヴァイアサンである」からだ。

 と、ここまでの拙稿には形式論だとの反駁があろう。然り、形式論と原則論は見分けがたい。だが形式は取り去れても、原則はそうはいかない。迷ったら原点だ。とば口に戻るに如(シ)くはない。

 日本が世界に誇る? 数字がある。有罪率99%、である。刑事裁判で、告訴された事件のうち100件中1件しか無罪判決がないのだ。裁判官 VS 検察官と置き換えれば、裁判官の1勝99敗である。さほどに警察、検察は有能であるのか。あるいは、裁判官が懈怠、無能であるのか。判断に迷う。大いに迷う。
 前稿で取り上げた大阪高裁の控訴審判決は貴重な1%の内である。だから、拍手を送った。

 先般、小沢氏が秘書の逮捕について国策逮捕だと噛みついた。与党はすぐに検察の中立性を言挙げし、一時は言論封殺の様相を呈した。だが、二階経産大臣に矛先が向かうと途端に立ち消えた。しかし、検察を批判することは断じてタブーではないはずだ。能天気に検察だけを聖域視する方がよほどおかしい。なぜなら、権力には魔性が宿るからだ。檻に入れ、手枷足枷を掛け、衆目で監視しつづけねばならない。マスメディアは衆目を代替するはずだが、これがとんと不甲斐ない。時として検察のメッセンジャーにさえ甘んじる。
 もう一度繰り返そう。いまも国家はリヴァイアサンでありつづけている。リヴァイアサンは架空でも、国家がリヴァイアサンであることは紛れもない真実であり、事実だ。 □


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大阪高裁に拍手!

2009年03月12日 | エッセー
 まずは今月4日の報道を引きたい。(asahi.com から)

〓〓「浮浪」容疑逮捕、違法捜査認定 覚せい剤使用に無罪  
 軽犯罪法違反(浮浪)の疑いで奈良県警に現行犯逮捕され、勾留(こうりゅう)中の尿検査の結果から覚せい剤取締法違反(使用)の罪で起訴された住所不定、無職の男性(43)の控訴審で、大阪高裁は3日、逆転無罪の判決を言い渡した。古川博裁判長は浮浪容疑での逮捕について「要件を満たしておらず違法」と判断。「違法な別件逮捕中の採尿にもとづく鑑定には証拠能力はない」と述べ、懲役3年の実刑とした昨年10月の一審・奈良地裁判決を破棄した。
 浮浪は軽犯罪法が列挙する罪の一つで、「働く能力がありながら職業に就く意思を持たず、一定の住居を持たずに諸方をうろついたもの」と規定され、ほかの罪とともに「該当する者は拘留または科料に処する」とされている。警察庁の07年の犯罪統計によると、同法違反の摘発件数1万8478件のうち浮浪の適用は6件。弁護人によると勾留されたケースは異例。
 判決は、男性の生活実態について、男性が乗っていた車の中に求人情報誌や求人票があり、就職活動中だった。又マンションを賃借していた、と認定。浮浪容疑での逮捕は誤っていたと判断した。そのうえで、軽犯罪法が適用上の注意として「国民の権利を不当に侵害しないように留意し、本来の目的を逸脱して他の目的のために乱用してはならない」と定めている点に触れ、県警の捜査について「定めに反する判断で、落ち度にほかならない」と非難した。
 判決によると、男性は07年10月7日、奈良県生駒市のパチンコ店駐車場にいたところを奈良県警の警察官に職務質問され、浮浪の疑いで現行犯逮捕された。強制で行われた尿検査で覚せい剤反応があり、翌8日にいったん釈放された後、覚せい剤取締法違反の疑いで逮捕・起訴された。
 判決について弁護人は「捜査に疑いを持って、事実を真正面からみた内容だ」と評価した。〓〓

 極めて澄明で良質の判決である。30数年前「ストリーキング」が話題になった折、軽犯罪法を読んでみたことがある。第1条第4号が目に留まった。

■ 生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの

 「浮浪」の定めである。となると当時、駅構内に屯していた「浮浪者」はすべて取り締まりの対象になる。自ら望んでその境涯に甘んじているわけではなかろうに、と割り切れない憤りを覚えた記憶がある。
 いまは主に公園に「居」を移し、ホームレスと呼ばれる。が、実態は同じであろう。この法律を四角四面に適用すれば、「塀」の中はたちまち溢れる。
 同法ができたのは、昭和23年。第1条には、「各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する」とあり、30数項が列挙されている。
 「拘留」とは1日以上30日未満で「禁固」より短いが、身体の自由を奪う自由刑である。かつ執行猶予なしの実刑である。「科料」とは千円以上1万円未満で「罰金」より少額ではあるが、財産の強制的徴収である。双方とも歴(レッキ)とした刑罰であり、前科となる。戸籍に記載されることはないが、検察庁の前科調書には記録が残る。
 同法で罪とされる行為の中からいくつか挙げてみる。

■ 廃屋にたむろする行為
■ 威勢を示して汽車、電車、乗合自動車、船舶その他の公共の乗物、演劇その他の催し若しくは割当物資の配給を待ち、若しくはこれらの乗物若しくは催しの切符を買い、若しくは割当物資の配給に関する証票を得るため待つている公衆の列に割り込み、若しくはその列を乱した者
―― 「廃屋」「割当物資」「配給」、終戦直後の灰神楽の中から生まれた言葉だ。ただ、廃屋は各地でまた現れつつあるが。

■ 変事非協力の罪  目の前で事件が起きているのに警察官や消防士、自衛官などの協力要請を無視した場合
―― 至極当たり前のことを法定化せねばならなかった背景とは何だろう。象徴的な事件があったのか。それとも、戦後の解放感が権力行使に過剰に敏感になっていたのか。浅学、寡聞ゆえに詳らかにできない。

■ 官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは外国におけるこれらに準ずるものを詐称し、又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作った物を用いた者
―― コスプレには注意が必要だ。警備員の服装や道具類もこの号に抵触しないようさまざまな規制を設けている。

■ 自己の占有する場所内に、老幼、不具若しくは傷病のため扶助を必要とする者又は人の死体若しくは死胎のあることを知りながら、速やかにこれを公務員に申し出なかつた者
■ 人畜に対して犬その他の動物をけしかけ、又は馬若しくは牛を驚かせて逃げ走らせた者
―― この二つは一体、どういう状況を想定しているのだろうか。とてつもないアナクロニズムのようでもあり、きょうの社会面に載っていてもおかしくはなさそうでもあり、想像力を大層くすぐる。

■ 公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者    
―― 「ストリーキング」はこれだ。ほかに刑法174条の公然猥褻罪や各都道府県条例が適用されることもある。しかし、いまではその出現をまったく聞かない。年に一二度、海外ニュースで報じられる程度だ。なにやら淋しい気もするのはわたしだけか。

■ 公私の儀式に対して悪戯などでこれを妨害した者
―― 荒れる成人式はこれに該当すだろう。テレビのドッキリものでこれに触れるのがありはしないか。だとしても、「笑って、許して」なのか。餌食にされるのがお笑いタレントだから、頃合いのバッファになるのか。 

 さて、本題に戻ろう。この控訴審判決だ。軽犯罪法はとかく別件逮捕に利用される。だから、同法には歯止めが明記されている。引用の報道の中にもあった第4条の使用上の注意、乱用防止の規程である。これを適用し、捜査に瑕疵を認めた。つまり、デュー・プロセスの原則を貫いた。「浮浪」を的確に解釈した点もさることながら、この意義は大きい。大阪高裁に拍手だ。
  ―― 裁判は被告人ではなく、検察官を裁くものである ―― との原理を際立たせた極めて澄明で良質の判決である。この原理については、別に稿を立てるつもりだ。

 今月10日、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、ホームレスの社会復帰支援活動の第一人者である奥田知志氏を取り上げていた。「ホームレスを支援しているのではない。田中さんであり、山田さんというその人を支援しているんです」との言葉が印象的だった。浮浪と言おうとホームレスと呼ぼうと、烙印に変わりはない。規矩準縄で括って落着できるほど、事はたやすくない。「生計の途」が奪われていく社会にどう立ち向かうのか。「職業に就く意思」を阻喪した人をどうエンカレッジしていくか。空蝉の奈落で苦闘する『戦士』に頭が下がった。 □


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2009年2月の出来事から

2009年03月08日 | エッセー
<政 治>
●天下りあっせん年内禁止
 麻生首相が衆院予算委員会で発言(3日)
―― 『官僚主権』『四権』についてはさんざん述べてきた。なかなか一筋縄では行かない。モグラ叩きでイタチごっこだ。霞ヶ関がヒエラルヒーである以上、定年制が十全に機能しない部分がある。「組織論」から再構築しないことにはドラスチックな解決は望めないだろう。

●小泉元首相が麻生首相批判
 郵政民営化に反対だったとの発言に(12日)
―― 『政界のナガシマさん』、敬愛を込めて贈りたいニックネームだ。意表を突くことばの巧みさ? 動物的な勘と反射神経。それぞれ、球界と政界で絶頂を極めた。
 しかしこちらのナガシマさん、下山で躓(ツマズ)いた。天性の運動神経もどこかが詰まったのか、切れたのか。明らかにタイミングを読み違えた。さざ波すら起きなかった。
 「笑っちゃうくらいあきれる」のは、こちらのセリフだ。後継指名の不評といい、もうちょっとカッコよく大向を唸らせる引き際はできなかったのか。
 それにつけても、晩節は難事だ。

●中川財務相辞任
 イタリアでの主要7力国財務相・中央銀行総裁会議でのもうろう記者会見で(17日)
―― この一年、おすもうさんが何人もおクスリで土俵の外へ投げ飛ばされた。こちらもおクスリでころんだ。ただ風邪薬だったそうだから違法性はない。飲み合わせた美禄にもお咎めはない。問題は,時機と量だ。少なくとも、こんな飲み方はプロではない。
 アッソーくんにとっては、酒盛って尻切られる結果となった。弱り目に祟り目。今夜もホテルのバーで浮き世の憂さをただただ、ゴックン! か。

●首相がオバマ米大統領と会談
 外国首脳として初。日米同盟強化、経済危機対応への協力で一致。(24日)
―― どうせなら、福井県小浜市の村上利夫市長を伴い、ついでにデンジャラスのノッチでも連れていけばかなりの話題になっただろうに。人気もないが、能もない。まったくー。

<経 済>
●「かんぽの宿」売却撤回
 日本郵政がオリックス不動産への契約を白紙撤回(13日)
―― お説御尤もなのだが、この人が言うとどうもパフォーマンスに見えてくる。
 07年、「友人の友人がアルカイダ」発言。08年、鹿児島志布志事件に関し、全員の無罪確定後に「冤罪と呼ぶべきではない」と発言。などなど、問題発言には事欠かない。
 福田内閣の法相時代には、13人の死刑執行を命令。最多記録を更新し、なおかつ死刑囚の氏名を公表した。
 政界のサラブレッド。田中角栄の秘書からスタートし、新自由クラブ、自民党、新進党、民主党、ふたたび自民党と渡り歩く。その間、99年には都知事選に立候補。石原慎太郎の次点に泣く。
 ともかく、名うてのパフォーマーだ。どうしてもその分、引き算をしてしまう。
 突如現れた正義の味方・月光仮面のおじさんに、仕事なりあい飯弁慶、JPのおじさんたちも『ぽかん』の宿だ。

●豪で山火事、死者200人以上
 オーストラリア南東部で大規模な山火事があり同国史上最悪の被害に(8日)
―― 山火事だろ、なぜ逃げないんだ? と、報道に呟いた。だが、浅慮だった。なにせ火勢は時速100キロにも達するという。自然は人知を超える。身の程を知らねばならない。

●イスラエル総選挙で中道カディマが第1党
 右派リクードが第2党、極右政党が第3党に躍進(12日)
―― イスラエルの議会は一院制である。クネセトという。全国一区の比例代表選挙で120名の議員を選ぶ。カディマが発足した2005年まではリクードと労働党による二大政党制に近いものであったが、比例代表の習いとして一党で過半数を占めたことがない。いつも小党との連立政権であった。イタリアも事情は同じだ。合従連衡が常で、目まぐるしく政権が交代する。
 傍目には不安定で非効率に見える。しかし、破滅的な独走も暴走もない。今度のガザ攻撃にしても、リクードの単独政権であったら様相はまったく違ったであろう。
 同国の地政学上の位置を考えた時、もっと強権的な政治構造になってもおかしくはない。浅学ゆえに経緯は知らぬが、この選挙制度は歴史の僥倖といってよい。イスラエル国民の智慧でもある。

<社 会>
●円天会長ら22人を逮捕
 警視庁などが、健康商品販売会社「エル・アンド・ジー(L&G)」の会長らを組織犯罪処罰法違反の疑いで(5日)
―― 貨幣の幻想性については何度か取り上げた。(08年10月22日付「きほんの『き』」、09年2月1日付「きほんの『ほ』」など)この事件はそういう問題を考えるいい材料になるかもしれない。死ぬほど暇にでもなれば考えてみよう。

●薬の通販・大幅規制へ
 風邪薬や漢方薬など700種以上について、省令改正(6日)
―― 賛否は措(オ)いて、この「省令」というのが曲者だ。かつて議論となった「行政指導」はもっと質(タチ)が悪いが、これも劣らず悪い。
 メーカー、ディーラー、ユーザーはいつも振り回される。今度も一斉のブーイングに見直しを検討するらしい。朝令暮改もいいところだ。
 省令の改変については、もっと広範な討議に掛けるシステムを考えるべきではないか。切にそう願う。「官僚主権」は願い下げだ。

●新卒医師の臨床研修、1年も可能に
 現行2年から短縮の案。(18日)
―― 粗製乱造にならぬか心配だ。現行の科目数を減らすという。医師不足が問題なのではなく、遍在こそが難題だ。本当に難しい。知恵はないものか。
 ちかごろ、竹藪が増殖して山林を枯死させているらしい。過疎化の影響だ。どちらも、ヤブには困る。といえば、藪睨みか。

●不妊治療で受精卵取り違え
 高松市の香川県立中央病院が昨秋、20代女性に誤って別の患者の受精卵を移植した可能性があると判明(19日)
―― いまや年間2万人が体外受精で誕生している。人工授精ではない。なおのこと、間違いは許されない。
 ところが作業台には複数のシャーレが置いてある。蓋に名前が書いてあっても,開ければ紛れる。当たり前だ。そんなことも解らないヤブがいるのだ。ヤブ被害は山林ばかりではない。こんなよい加減なのは『大概』受精とでもいうしかない。
 工事現場での究極の安全対策は何か。それは、仕事をしないことだ。いまや2万人、その伝は通じない。藪蛇だ。ならば、ケアレスミスを大前提にした対策を講じるほかあるまい。医療現場でのフェールセーフである。
 振り返れば去年の今ごろ、バーコードの入ったリストバンドを嵌められて病院にいた。院内の各セクションで読み取り機を当てて識別される。そのたびに「ここはコンビニのレジかい!」と、悪態を吐(ツ)いたものだ。お陰で他人に間違えられることはなかったのだが …… 。

●日本14年ぶり金
 ノルディックスキー世界選手権(チェコ)の複合団体で復活(26日)
―― 長い低迷期の主因は、ルールの改定にあったそうだ。ジャンプの配点を減らし、クロスカントリーを増やした。当然、日本には不利だ。柔道,体操をはじめ、このような例はままある。
 その軛を払っての勝利だ。めでたい。来年のバンクーバーが射程に入った。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


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空打ち

2009年03月04日 | エッセー
 たとえばやっと書き上げた数枚の書類の端を丁寧に揃え、慎重に位置を決め、やおらグッとホッチキスを押す。と、いつもの小気味いい音がしない。指にはなんの抵抗もなくホッチキスは合わさり、紙に少しの窪みだけが残る。
 針が切れていたのだ。
 こんな時、僅かな徒労感とともに一瞬の空しさが襲う。舌打ちをして、針を入れる。紙を重ねるところからやり直しだ。

 3月3日、「笑っていいとも」のテレフォン ショッキングに現れたのは樹木希林であった。お決まりの土産はなし。出演したDVDを持参し宣伝はしたものの、そのまま持ち帰る。当たり前のように受け取ろうとしたタモリに、「どうせ観ないでしょう」と、さらり。
 百分の一アンケートでは見事に当てる。しかし、ニコリともしない。仏頂面のゲストでも、当たれば意外なほどに相好を崩す。ガッツポーズも出る。ほとんど見落としはないつもりだが、褒美のストラップにかえって迷惑そうな顔をしたのは樹木がはじめてだ。
 「こういうものは、一番いただきたくないものなのね。どなた? …… ここに置いて帰るから、持ってってください」
 タモリは客席に、「よかったですねー」とフォローするのが精一杯。樹木の自由奔放なおかしみに顔色なしだった。

 したたかな計算があったようにはみえない。あるとすれば、バラエティーのもつ恐さ、陥穽への警戒か。それも巧まざる天性によるものだ。役者は「素顔」で売っても、売られてもいけない。「楽屋」を見せるなどは下半身を晒すに等しい。そのような気質(カタギ)のなかにあるにちがいなかろう。

 勝負というのも変な話だが、今回は完全に樹木の勝ちだ。筋金入りの役者がバラエティーの雄に、そうたやすく呑み込まれはすまい。タモリは、ホッチキスの空打ちをしてしまった。「僅かな徒労感とともに一瞬の空しさ」に襲われたにちがいない。
 
 樹木に繋いだのは養老孟司氏だった。「養老さんは、ハンサムな声ね」と言う。「カラオケが本当にお上手なの。いろんなジャンルを、感情移入せずに、しかも音程がしっかりしてるのよ」と、冒頭にひとしきり養老氏が話題になった。
 「感情移入せずに」がいかにも養老氏らしく、それを言挙げするのもいかにも樹木らしかった。こちらはしっかりと針で綴られていたようだ。 □


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