伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『ファクトフルネス』から診たトランプ

2019年08月30日 | エッセー

 先月の拙稿で紹介したハンス・ロスリング著『ファクトフルネス』を援用して第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプを診てみたい。
 同書では「ありのままに世界を見られないのはなぜだろう?」と問い掛け、元凶として「10の本能」を挙げている。逐一要約しつつ愚案を巡らす。
1. 分断本能
 〈人は誰しも、さまざまな物事や人びとを2つのグループに分けないと気が済まないものだ。そして、その2つのグループのあいだには、決して埋まることのない溝があるはずだと思い込む。〉
 どの国も自国第一だが、アメリカ第一主義は分断本能が先鋭化したものといえる。看板政策である移民排除はその最たるものであり、メキシコ国境の壁はその象徴だ。
2. ネガティブ本能
 〈「とんでもない勘違い」が生まれる原因とは、「世界はどんどん悪くなっている」というものだ。〉
 トランプを押し上げたラストベルトの反グローバリズムはこの本能に火をつけた。
3. 直線本能
 〈直線本能により「世界の人口はひたすら増え続ける」と聞くと、何もしなければ人口増加は止まらないような感じがする。よほどのことがない限り、人口は増え続けると思い込む間違い。〉
 実際にはグラフは直線ではなくさまざまなカーブを描く。米国への移民も然りで、過去増減を刻んでいる。確かに2044年までに非ヒスパニック系白人が5割を切るとの予測もあるが、それはそれで新しい国のかたちを模索すべきであろう。オバマはまさにその象徴でもあった。
4. 恐怖本能
 〈頭の中と、外の世界のあいだには、「関心フィルター」という、いわば防御壁のようなものがある。この関心フィルターは、わたしたちを世界の雑音から守ってくれる。〉
 「守ってくれる」とはいっても過保護はいけない。見たいもの、聞きたいものしか見聞きしない本能がファクトを歪める。昨年7月、トランプは批判的な質問をする記者を排除しようとした。トップリーダーは反対勢力を含めて一国を代表する。オブジェクションに耳を傾けないのは恐怖本能からか。どこかのポチも同じだが。器が小さいとも、小心ともいえる。
5.過大視本能
 〈数字を見ないと、世界のことはわからない。しかし、数字だけを見ても、世界のことはわからない。〉
 エビデンスは数字だけにあるのではない。どこかの政権のように偽造する不届き者もいる。トランプは二言目には米国経済は史上最高の好景気と呼ばわるが、1950・60年代は今以上のGDP成長率を記録している。数字の切り取り方でデータはフェイクに変貌する。現政権が経済成長を実現したと吹聴する某国政権も同様。実は前政権時代から経済は成長軌道に入っていた。数字には説得力があるが、鵜呑みは禁物だ。
6. パターン本能
 〈人間はいつも、何も考えずに物事をパターン化し、それをすべてに当てはめてしまうものだ。偏見があるかどうかや、意識が高いかどうかは関係ない。〉
 外交をもディールと捉えるトランプはこの本能の権化である。なるほど、パターン化は思考を省ける。しかしタテヨコの世界観を致命的に欠く。
7. 宿命本能
 〈宿命本能とは、持って生まれた宿命によって、人や国や宗教や文化の行方は決まるという思い込みだ。〉
 裏返すと、ダイバシティを著しく相殺することになる。トランプの自国第一主義は最大の支持勢力である福音派に底流する選民思想をくすぐっているにちがいない。
8. 単純化本能  〈すべての問題がひとつのやり方で解決できると思い込むと、なにもかもがシンプルになる。世の中のさまざまな問題にひとつの原因とひとつの解答を当てはめてしまう傾向。〉
 6. とも通底する。多国間交渉を嫌い、差しの外交を選好するのはこの本能の為せる技か。TPPに始まり、INFからも離脱。去年今年のG7では我が儘放題。シンプルではあるが、一国挙げての退嬰化に見える。
9. 犯人捜し本能
 〈物事ははるかに複雑なのだ。もし本当に世界を変えたいのなら、肝に銘じておこう。犯人捜し本能は役に立たないと。〉
 6. 、8. が導出するともいえる。ヒスパニック難民を槍玉に挙げ、イランや中国を集中攻撃する。そのくせ、NKのミサイルは不問に付す。トランプのダブルスタンダードは「はるかに複雑」な物事を捨象するから嵌まるピットホールだ。
10.焦り本能
 〈焦り本能だけは特に注意したほうがいい。「いましかない」という焦りはストレスのもとになったり、逆に無関心につながってしまう。考えることをやめ、本能に負け、愚かな判断をしてしまうことになる。〉
 再選のためは中身がないパフォーマンスを繰り出す。NKにはすっかり足元を見られている。100年の大計どころか、短兵急で近視眼的な成果主義に走る。ゆえに政治の劣化は果てしなく進む。闇雲に憲法改定を焦る本邦政権もまた同等である。

 幾つかで触れたが、アンバイ政権との酷似に驚く。福音派を戦前志向の核にある国家神道に置換すれば瓜二つだ。洋の東西に現れた奇怪な政権。政治家だから話は盛る。だが2人は度が過ぎる。ウソも平気だ。その素因は那辺にあるか。アルフレッド・アドラー創始によるアドラー心理学にその解らしきものがある。
「もしも自慢する人がいるとすれば、それは劣等感を感じているからにすぎない」(『嫌われる勇気』から)
 意外だが、図星ではないか。 □


ゴルディオスの結び目

2019年08月25日 | エッセー

 朝日までが韓国のGSOMIA(ジーソミア)破棄について、
「冷静な思考を踏み外したというほかない」
「現状を顧みずに、強硬姿勢にひた走る外交は慎むべきだ」
「歴史問題から、経済、安保へと広がる対立の連鎖を断ち切らなくてはならない」
「落ち着いて話しあうべきだ」
 と論評している(今月24日社説)。他のメディアも同等の浅薄で皮相的な掴み方だ。文大統領麾下のスキャンダル隠し、目眩ましとの憶測もある。何をか言わんや、だ。
 なんのことはない、まんまとアンバイ君の術中に嵌まったというほかない。今月4日の拙稿『もっと、あざとい!』を引く。
 〈明治政府によって作為された当方の「感情のレベル」に未だ搦め捕られたまま、「自分を相手の立場に置いてみる想像力」(内田 樹氏)に悲しいほど欠けた本邦の“空気”。手続き論で御せるほど容易い事態ではない。いな、手続き論で浮揚を図るアンバイ君の底意を見落とさない方がいい。外交的成果をも何ひとつ挙げられなかったアンバイ政権が捨て身の権謀に出た。得点は要らない。狙いは敵失だ。だから、タロウ君よりもっと、あざとい! という。〉
 「得点は要らない。狙いは敵失だ」 ここだ! 事態はこの通りに推移している。ポンペオ国務長官は「失望した」と述べた。大きな敵失、図星である。だからアンバイ君はしれっと「国同士の約束は守ってほしい」などととぼけていればいいわけだ。まことに狡い。
 さらに同稿では、
 〈さまざまな関係国への影響を考えず、目先の利益や支持を狙って経済政策を武器に他国を締め上げる。そのトランプ流の猿真似であろうか。こんな手荒な為様(シザマ)は戦後絶えてなかった。アンバイ君が忠実なトランプのポチであってみれば、当然といえば当然なのだが。〉
 と綴った。「ポチ」と比するに、大親分さえも向こうに回す文氏のなんと潔いことか。漢(オトコ)である。今、韓国は有事作戦統制権を自国軍へ移管するようアメリカに迫っている。片や、未だ占領状態に甘んじ際限のないアメリカ追随を繰り返す本邦。どちらが健気か、筋目の通った話か。
 荷車の梶棒に絡みついた縄を一刀両断したアレクサンドロス大王。はたして日韓の「ゴルディオスの結び目」はどうか。大王同様、旧来の発想を変えねばならない。真新しいシンプルな解。それはカネでもヤクソクでもなく、「感情のレベル」にあるにちがいない。
 囂しい「旧来の発想」に抗って異論を提示してみた。 □


『羆嵐』

2019年08月23日 | エッセー

 熱い! 暑気払いに吉村 昭の『羆嵐(クマアラシ)』を読んだ。ミステリーも怪奇譚も縁遠い。本屋を漁るうち、これに触手が伸びた。効果は覿面、食欲が大いに減退するほどに冷え切ってしまった。
 昭和52年(1977年)新潮社発刊。文庫本の裏表紙にはこうある。
 〈北海道天塩(テシオ)山麓の開拓村を突然恐怖の渦に巻込んだ一頭の羆(ヒグマ)の出現! 日本獣害史上最大の惨事は大正4年12月に起った。冬眠の時期を逸した羆が、わずか2日間に6人の男女を殺害したのである。鮮血に染まる雪、羆を潜める闇、人骨を囓る不気味な音……。自然の猛威の前で、なす術のない人間たちと、ただ一人沈着に羆と対決する老練な猟師の姿を浮彫りにする、ドキュメンタリー長編。〉(註・死亡7名、重傷3名との集計もある)
 さすがは稀代のノンフィクション作家である。事件後62年にも拘わらず克明な事実調査に基づいて淡々とした筆致で描かれる。読了は一気だ。
 第一次世界大戦による不況の最中、大正4年(1915年)12月。北海道北西部の寒村、そのまた先の僻地に東北から集団移住してきた15戸の開拓民。それを体長2.7メートル、体重383キロの雄の羆が襲う。
 〈避難者たちの集団が雪道に消えると、かれらは、おびえた眼で周囲の地形を見まわした。トド松の密生した林は果しなくひろがり、渓流の両側には雪におおわれた山肌が迫っている。それらは野生動物の恰好の棲息地で、峰づたいに追ってきたアイヌの猟師が村落の近くで熊を仕止めたこともある。
 かれらは、村落が自然の中につつまれたものであることをあらためて意識し、熊が姿をあらわしても不思議のない地であることを知った。〉(上掲書より、以下同様。註・「かれら」とは討伐隊)
 さりげない語り口だが、物語の核心はここにあるといえる。「熊が姿をあらわしても不思議のない地」に人間が住まうことこそ「不思議」なのだ。その不思議が綻びて「獣害史上最大の惨事」が引き起こされた。だから、「不思議」ではない。
 曲折の末、熊の生態を知悉したニヒルで「老練な猟師」によって巨大な羆は仕留められた。だが、結末はこうだ。
 〈その年の秋、作物の収穫を待っていたように二家族が村落をはなれていった。翌年、雪の下からあらわれた地表に草が萌えはじめた頃、近くの山中でアイヌの猟師が仔連れの熊を仕とめ、夏には氷橋(スガバシ、註・冬季用の橋)附近の山林の中を一頭の熊が遠ざかるのを村人が目撃した。その直後、二家族が村を去り、秋の収穫期後には他の家族も家を捨て、東北地方や北海道各地に散った。六線沢(ロクセンサワ)は、無人の地になった。〉
 人間は撤退した。「無人の地」、つまり熊出現が「不思議のない地」に戻ったのだ。多少のモニュメントはあるものの、現在も「無人の地」でありつづける。
 大正4年当時は明治初期からの「狩猟法」の下にあった。狩猟の規制はあるが、保護の観点はまだない。保護の視点を明確に据えた全面改定は大正7年(1918年)である。だから事件は「熊退治」であり、自然保護の発想などは毫もない。「自然環境保全法」は昭和47年(1972年)の制定だから、はるか57年後のことだ。
 『羆嵐』は絶大で圧倒的な自然の膂力に人間が捻伏せられ敗退した物語だともいえよう。もちろんさまざまな人間模様も描かれてはいるが、一線を越えた人間への恐るべき自然の報復こそモチーフではないか。
 この夏、日本列島の亜熱帯化が囁かれた。なぜか『羆嵐』と地続きであるようで、怖気立った。 □


台風10号が残したもの

2019年08月19日 | エッセー

 頭の中のタイムスタンプは完全に掻き消えているので小3ぐらいとしかいえない。洪水の後、河川敷に水死体が流れ着いたと聞き、怖い物見たさに駆けつけた。遠巻きに囲んだ人垣を搔い潜り、近づいた。骸には筵が掛けられ、真ん中が異様に膨らんでいた。足も手も抜き出てはいなかったが、頭髪だけが少し覗いていた。背中を冷気が突き抜けた。その感触とともに長く記憶に沈潜し、時折の水難の報道に呼び覚まされる。
 台風10号は「超大型」と報じられた割には被害は極小に留められたのではないか。TBSの“ひるおび”でも森朗予報士が連日、恵を始めコメンテーターたちにいびられつつも健気に細やかに解説していた。
 その森朗氏については、14年10月の拙稿『森いじり』で触れた。
 〈キャスター、コメンテーターは政治、経済、教育、医療、スポーツ、芸能など、さまざまな分野にいる。それぞれのエキスパートであり、オーソリティーであろう。しかし何を発言しても、たちまちその正当性を問われる分野はお天気キャスターを措いて外にはあるまい。明日の天気は明日に、台風は数日経てば明白になる。政治は甲論乙駁であるし、経済は数年、教育に至っては10年は要する。医療もスポーツも推して知るべし。芸能は端っから鵺のごときものである。さすればお天気キャスターとはなんとも厳しく、かつ知的果報に満ちた生業であることか。(略)
 それでも“外れ”る。「リアルでクールな自己評価」(内田 樹氏)を、巧まずして日常的に突きつけられているといえよう。女心と秋の空。しかし森キャスターなら、きっと予測確率が圧倒的に高いにちがいない。〉(抄録)
 台風10号は森予報士の読み通りに進んだ。「台風は数日経てば明白になる」のだから、大いに「知的果報」を享けたにちがいない。
 台風一過、書店に足を運んだ。少し古いのだが、森朗氏の著作が目に入った。『異常気象はなぜ増えたのか』(祥伝社新書、17年10月刊)と、タイトルにある。ファンのひとりとしてすぐに買い求めた。春と秋は似て非なるものだと語る中で、次のような一節があった。
 〈「春に3日の晴れなし」「男心と秋の空」などの言葉は、春や秋の天気の変わりやすさを表現したものです。一見同じように見える春と秋の天気ですが、その変化はけっこう違います。〉
 ん、お気づきであろうか。愚稿では「女心と秋の空」、森氏は「男心と秋の空」。森氏、痛恨のケアレスミス! とは一瞬の糠喜びだった。調べてみると、実は「男心と秋の空」が正統なのだ。
 室町時代の狂言には「男心と秋の空は一夜にして七度変わる」という科白があり、江戸時代も「男心と秋の空」が常用されていたそうだ。娘たちにオトコへの警戒を呼びかけ、ある時は失恋の慰めとして使われたらしい。逆転は明治以降に起こったという。つまり「女心と秋の空」は「男心と秋の空」から派生したわけだ。森氏の博覧強記に敬服するばかりである。改めて、「リアルでクールな自己評価」に向き合う姿勢を正されたといえなくもない。ハンス・ロスリングの『ファクトフルネス』ならば、「人間はいつも、何も考えずに物事をパターン化し、それをすべてに当てはめてしまうものだ」に該当するか。
 ともあれ、台風10号は記憶の古層から骸を呼び覚まし、表層にクールな自己評価を刻印して去って行った。 □


「おおー、一緒だ!」

2019年08月15日 | エッセー

 稿者のような鄙のディレッタントにとって、高名な識者と同じ問題意識を持ち見解が一致することは望外の喜びである。「おおー、一緒だ!」と、ガッツポーズのひとつもとりたくなる。知的ミーハーには至福の共鳴である。
 12年1月の本稿『“断捨離” と “ときめき”』から。
 〈なんといっても『ときめき』がキーワードである。「片づけはマインドが9割」と説く。触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかが、捨てるか否かの見極めどこだと力説する。そして、完璧な片づけで人生がときめくと誘(イザナ)う。
 「ときめかなくなったモノを捨てる。それはそのモノにとっての新しい門出。だから祝福してあげてください」などと諭されると、フェティシズムの臭気を感じなくもない。だが個人的な嗜好でいえば、(「断捨離」より)こちらの方に引かれる。なにせ斬り口が鮮烈だ。『好奇のムシ』が喜ぶ、喜ぶ。〉(抄録)
 “コンマリ”こと近藤真理恵氏の“片付けの魔法”である。あれから8年、時の人は今や世界の“KonMari”へと飛躍した。1月後、『“ときめき”と“ワクワク”』と題して再び触れた。
 「ワクワク」を選択し続けると学問・生活両面でいいことが起こる。それは身体に自らを善導するセンサーがあるからではないか、との思想家・内田 樹氏の達見を引いて、
 〈「ワクワク」と「センサー」。見事に「ときめき」と一致するではないか。身体の情報処理という哲学的知見を家常茶飯にパラフレーズすると、「ときめき収納法」になるのか。こんまり先生、鮮やかである。“ときめき”といい“ワクワク”といい、人類のプリミティヴな探知能力がそのような心のありように引き継がれているとしたら、なんだか楽しくなってくる。だが裏を返せば、“ときめき”や“ワクワク”が失せたらキケンと知ろう。〉(抄録)
 と記した。匍匐ながら“ときめき”の実体に迫ったような気がする。さらに本年5月の『岡目八目』で米国人ジャーナリストの著作を紹介し、国難にある日本を救うひとつの曙光としてコンマリを取り上げていると綴った。
 〈戦後物作りのハードで先行し、平成に入りソフトで後れを取った日本──。大括りにすればそうなる。ところがどっこい、欧米から「ウサギ小屋」とバカにされた住環境ゆえに「Spark Joy」(「ときめき」の訳語)が生まれ、「KonMari~人生がときめく片づけの魔法~」が誕生した。今や「世界で最もクリエイティブな国」と評されている。「日常的な家事を、見事なまでにイノベーティブなソフトとして展開した」と彼は評する。〉(抄録)
 そこで件(クダン)の「至福の共鳴」だ。
 脳科学者・茂木健一郎氏の近著「なぜ日本の当たり前に世界は熱狂するのか」(角川新書 本年5月刊)──アニメからこんまりまで、世界が日本を絶賛する理由は脳科学で解明できる。「礼賛」でも「自虐」でもない、著者渾身の日本人論!──で、同趣旨の論攷を提示している。
 服に「また会いたいか」、長い間押し入れにある物は「寝ている」、わが家の物は「おうちの子」など、片付けを物との対話と捉え擬人化する表現が多いことに注目し、
「物に精神性を求めるこのような発想は、八百万の神の世界観に極めて近いものがあり、片付けを理論的な作業として捉える外国人にとっては新鮮なものだったにちがいない」(上掲書より)
 と語る。「おおー、一緒だ!」ではないか。幼稚と揶揄されようと、権威への追従と冷笑されようと「鄙のディレッタント」には「望外の喜び」である。
 もうひとつ。英語の「I」と「YOU」。
 英語の「私」が「I」ひとつ切りであるのに日本語ではいくつもあると疑問を投げかけ、
 〈内田樹さんの言葉を借りれば、これらは一種の「メタ・メッセージ」として、相手との関係性を表す際に非常に有効に使われる。一人称の使い方一つで相手への印象はがらりと変わり、それは「私はこういう立場で、あなたはこういう立場ですよ」というメタ・メッセージとして大きな役割を果たしている。一人称の発達は、ときに話の内容よりも相手との関係性を明確にしたいと考える、日本人ならではの配慮の極みといえるだろう。〉(上掲書より抄録)
 これは16年11月『“I” と “You”』で愚慮を呈した通りだ。ただ拙稿ではその拠って来る淵源に浅慮を致した。
 〈日本語の一人称が、話者と相手との関係で巧みにトポスを変え多様に変化するのとは大いに異なる。なぜか。
 相手はひとりしかいないからだ。  そのひとりとは神である。唯一の絶対者である神と向き合う形で全ては始まっているからだ。“God”と対するなら“I”のトポスは不変だ。いかなる高位者であろうとも“Godに向き合うI”に比するなら、神の僕(シモベ)以上の意味はもたない。常に“Godに向き合うI”からの発語なのだ。しかも日常的には“Godに向き合う”の部分が捨象され、“I”だけが残る。だから、これ一つ限りになる。〉
 さらに、
 〈なぜ二人称は単複ともに“You”なのか。これがかねてよりの疑問であった。だが如上の愚見を踏まえると、謎は氷解する。つまり、“You”とは神だからだ。唯一の絶対者であるのだから、当然複数形はあり得ない。これがプリミティヴな成り立ちだ。複数を兼ねるのは派生の一形態だろう。〉
 まことに盲蛇に怖じず、郢書燕説、汗顔の至りだが、智者が語り残したイシューに分け入る蛮勇もまた「鄙のディレッタント」には浅慮の一得か、鄙ゆえの特権ではあろう。
 さらにひとつ。「ファクトフルネス」について。
 先月、本稿で絶賛した。ただし、上掲書で茂木氏は高い評価をした上でオブジェクションを投げかける。
 〈ファクトフルネスで真実を知ることは極めて大切なことだが、データに載らない人々の声や感情があることも理解し、つねに物事の全体を把握する俯瞰的な視点を持ち合わせていなければならない。こうした思想のことを「社会的マインドフルネス」とでもいおうか。「いま、この瞬間の体験に目を向け、目の前で起こることを評価をせずに受け入れる」ことがマインドフルネスの定義だとすれば、対人、対世界においても「社会的マインドフルネス」が必要だとぼくは考える。それはあるいは、共感能力にも近い。ファクトフルネスと社会的マインドフルネスは、いわばクルマの両輪である。いつの時代も事実は説得力をもつが、それを相手の心に届けるには共感の力が必要だ。〉(上掲書から収録)
 んー、これは参った。著者であるハンス・ロスリングも触れてはいるが、ファクトの圧倒的なインパクトゆえに見逃してしまう視座である。「鄙のディレッタント」には頂門の一針だ。至福の不協和音といえなくもない。深遠な知の世界の外れにある「鄙のディレッタント」。鄙ゆえの悲喜交々があるが、万に一つの至福の共鳴は格別だ。 □  


またまた、あざとい

2019年08月09日 | エッセー

 コイズミJr.が首相官邸で結婚報告会見を開いたことが物議を醸している。公私混同の劇場型だと、批判の矢が飛んでいる。朝日は元毎日放送プロデューサーの影山貴彦・同志社女子大教授のコメントを載せた。
 〈「すべて計算ずくだったのでは。週刊誌に結婚をかぎつけられる前に、ワイドショーの時間を狙って一斉に情報を発信したように見える」滝川さんと一緒に堂々と結婚を報告することで、小泉氏を熱心に支えているとされる女性支持者らを納得させることにも成功したのではないか、とも。「劇場型結婚とでも言えるでしょうか。あざといけれど、父の小泉純一郎元首相と親子そろって、メディアの使い方はピカイチだと思いました」〉(8月9日付)
 もう一度確かめる。「あざとい」とは『押しが強く、やり方が露骨で、抜け目がない』という意味である。そのままズバリ。中でも「抜け目がない」とはなにか。個人的な人気だけではなく、直々に報告できる首相との近さをアピールすることで内閣改造・党役員人事へ布石を打つ。アンバイ君も異分子の取り込みを図る。それではないか。だとすれば、「抜け目がない」政治利用だ。TVメディアのあのはしゃぎようはまんまと術中に陥った不様な姿に見える。
 聞けば、デキ婚らしい。はたして選良たるに相応しいのか。その議論は寡聞にして知らない。いまだ夫婦別姓にすら踏み切れない自民党の価値観(倫理感)とは整合性がとれない。あるいは、人によって“お・も・て・な・し”が変わるのか。なんとも奇怪だ。
 若くてイケメンでエッジが効いて、血筋も申し分なし。招来の首相に擬せられるコイズミJr.だが、最も危険な政治家だと評する識者もいる。特に女性。特有な嗅覚が働くのだろう。自民党有力議員の中で際立ってカリスマ性が高い。カリスマ性は独裁と踵を接する。それを嗅ぎ取っているのであろう。一時(イットキ)の田中真紀子に似てなくもない。実はその田中真紀子がコイズミJr.批判の急先鋒だ。同属嫌悪というべきか。
 内田 樹氏はかつて、「ある政党が政権を獲ったらどうなるか」について、「その政党の今のありさまがそっくりそのまま現実になるにちがいない」と語った。それは国政のトップリーダーにおいても援用できる経験則である。
 2001年、NHKが企画した従軍慰安婦問題の法的責任を追及する民間法廷を追ったドキュメンタリー番組が放送直前に官邸の圧力によって改変されるという騒ぎがあった。官邸幹部がNHKの放送総局長を呼び出し直談判に及んだ。当時の局長はこう証言する。〈「ここをこう変えろ」という直接、具体的指示はなかったが、投げかけられたのは「勘ぐれ、おまえ」という言葉だった〉と。もちろん本人は「圧力なんてかけていない」と否定するが、「勘ぐれ」とはすなわち「忖度せよ」であり、「おまえ」とは剥き出しの権力誇示だ。その官邸幹部とは当時の安倍晋三官房副長官その人である。「忖度」も「一強」も今に始まったことではない。御里はそのまま持ち越されている。他山の石としたい。
 これで、あざとい四人衆。もういい加減にしませんか。 □


馬の耳

2019年08月08日 | エッセー

 踏切を越えてちょっと行ったところでお巡りさんに停められた。
「この踏切は時間によって一方通行なんです。キップ切ります」
 お巡りさんは黙々とボールペンを走らせ、
「違反点数2点、反則金は7000円です」
 と告げた。ムカッとしたぼくは、
「キミの事故をなくしたい、違反を防ぎたいという正義感が本物なら、なぜ踏切の向こう側に立たない!」
 そう荒々しくも淡々と、かつ上から目線で咆えた。しかし彼は顔色ひとつ変えず、眉間に皺ひとつ寄せず、聞こえているのかいないのか、暖簾に腕押し、豆腐にかすがい、ヌカに釘。粛々と役務を終え、「では、気をつけて」と言葉を残して立ち去った。
 馬耳東風とはこういうことをいうのか。だが待てよ、そこで考えた。
 あの時、彼の耳は東風(コチ)を感じない馬の耳になっていたのではないか。上意下達の縛りの中、規矩準縄を忠実に履行する最末端の下部(シモベ)に徹する。そのためには人の耳は邪魔になる。だから馬の耳に擬装したのだ。なんとも泣かせる話ではないか。本邦の巨躯を支える万余の杭の一本。彼こそ公僕の鑑といえよう。
 当今、権力の劣化ないしは腐敗が指弾される。政権の要路にある者たちの専横が糾弾される。
「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗する」
 とは英国の歴史家ジョン・アクトンの箴言である。200年を経てもなお教訓であり続ける。頭から腐り始めた魚の尾っぽが必死で腐蝕に抗している。実に健気だ。馬の耳どころか、人間の10倍を超える聴覚を持つ“犬の耳”で忖度を繰り返す永田町や霞ヶ関の懲りないポチたち。彼我の違いは歴然である。そう愚慮するうち、馬の耳のお巡りさんにエールを送りたくなった。


 以上、負け惜しみ。……とほほ。 □


もっと、あざとい!

2019年08月04日 | エッセー

 セコーい君は「あくまでも、今回の閣議決定は、韓国の輸出管理制度や運用に不十分な点があることなどを踏まえた、輸出管理を適切に実施するための運用見直しでありまして、もともと日韓関係に影響を与えるなどということは、全く我々は意図しておりませんし、ましてや何かに対する対抗措置といった種類のものでもないわけであります」と語った。彼は自らを客観視する視座を持ち合わせていないのだろうか。アンバイ君の腰巾着としてはまことに良くした発言だが、強弁、白々しいにもほどがある。その意図があったかななかったかは別にして、他人の足を踏んでおいてあなたの靴を汚すつもりはまったくありません、と言えるか。「もともと日韓関係に影響を与えるなどということは、全く我々は意図しておりません」と木で鼻を括られては、セコーい君にはまともな思考能力があるのか疑ってしまう。一手先も読めないヘボ将棋にも劣る。いや、思考停止そのものだ。だが待てよ、ひょっとしたら解っていて言ってるのかもしれない。反発は承知の上でしれっとしているのだとすれば、(前稿の伝で)あざとい! タロウ君よりもっと、あざとい! 加うるに、あこぎでもある。
 さまざまな関係国への影響を考えず、目先の利益や支持を狙って経済政策を武器にして他国を締め上げる。そのトランプ流の猿真似であろうか。こんな手荒な為様(シザマ)は戦後絶えてなかった。アンバイ君が忠実なトランプのポチであってみれば、当然といえば当然なのだが。
 政治学者で神戸大学大学院教授の木村 幹氏は「(今回の措置は)政策の効力にではなく、これにより『韓国を痛めつけ』あるいは『痛めつけようとする』のだ、というメッセージそのものにある」と看破している。つまりは日本会議を中心とする右派支持勢力への実績作りだ。「韓国に国際約束を反故にされたからこういう行動をとった。国際約束が守れないのであれば我々はいままで取っていた特別な優遇措置はやめて、普通の手続きに戻す」とアンバイ君は啖呵を切った。勇ましい! 慰安婦、徴用工といつもビハインドであった本邦がこれだけは国際条約反古を声高に主張できる。絶好のアドバンテージ、チャンス到来、奇貨可居である。
 ワイドショーに鎮座ましますコメンテーター諸氏も挙げてアンバイ政権の手続き論に肩入れしている。浅慮といういう他ない。真相も深層もそこではない。如上の通りだ。これほどお隣さんと揉めていて居心地がよかろうはずない。まさかの時はどうする。
 旧稿を引用したい。
──いくらカネを積んでも、いくら取り決めを巡らしても、敗戦の処理は終わってはいないという現実。30年に及ぶ被征服民のルサンチマンは軽く考えない方がいい。内田 樹氏はこう語る。
〈自分を相手の立場に置いてみる想像力があれば、「謝罪は済んだ。われわれには咎められる筋はない」という態度を示されたら「そういうことなら永遠に許さない」という気分になることくらいわかるはずである。今の歴史認識問題は事実関係のレベルにあるのではない。解釈のレベル、さらに言えば感情のレベルにある。経験則は「無限の謝罪要求」は「もう謝ったからいいじゃないか」という自己都合ではなく、「あなたの言い分には十分な理がある」という「自分の立場をいったん離れた承認」によってしか制御できないことを教えている。〉(「内田 樹の大市民講座」から抄録)
 こういう論調には屈辱外交という言葉が必ず返ってくる。屈辱とはなにか。決別したはずの過去への道、戦争への道に引きずり込まれることこそ屈辱ではないのか。外交にはそれ以外に「屈辱」の名は見いだせない。屈辱、みっともない話。つまりは人類的宿痾に屈服させられ恥辱を受けるからだ。──(本年1月『みっともない話』から)
 果たして戦後ドイツが近隣国から今も謝罪や補償を求められることがあるだろうか。戦争責任をまっすぐに認め、領土要求をきっぱりと断ち、亡霊の復活を許さない法的整備を行い、補償を誠実に履行したからだ。本邦と事情は違う。しかしそれをいっては疏明でしかない。彼我の違いに頭を垂れ謙虚に学ぶべきだ。
 引火性の極めて強い「感情のレベル」がそこにある。事は30年に限らない。古代から中華とわが辺境とを橋渡しし、人材の到来を含め文化の礎を提供してくれた隣国。だが江戸期まで確かにあった敬畏をかなぐり捨てて、掌を返すように蔑視に転じた明治政府。そして、侵略。忘恩は150年に及ぶ。明治政府によって作為された当方の「感情のレベル」に未だ搦め捕られたまま、「自分を相手の立場に置いてみる想像力」に悲しいほど欠けた本邦の“空気”。手続き論で御せるほど容易い事態ではない。いな、手続き論で浮揚を図る政権の底意を見落とさない方がいい。外交的成果をも何ひとつ挙げられなかったアンバイ政権が捨て身の権謀に出た。得点は要らない。狙いは敵失だ。だから、タロウ君よりもっと、あざとい! という。
 日韓対立で内心ほくそ笑んでいるのは、誰あろう、トランプ親分である。プレゼンスがいや増して高まるからだ。タイでポンペオ国務長官による仲介が不調に終わったのは親分お出ましの前座と見ていい。主役と脇役の違いだ。それぐらい弁えられなければ親分には仕えられぬ。韓国はジーソミア(GSOMIA=日韓秘密軍事情報保護協定)の破棄まで言及し始めた。こうなればいよいよ親分の登場だ。「お前たち、いい加減にしろ!」と、親分の一喝が下り渋々手打ちに、と筋書きはほぼ読める。となれば、親分こそもっと、あざとい! もう一度いおう、「あざとい」とは〈押しが強く、やり方が露骨で、抜け目がない〉との謂である。タロウ君、シンちゃん、トランプおじさん。あざとい三羽ガラスの揃い踏みといったところか。 □