Ⅰ 人生
◇「いいか、喧嘩てえのは力じゃあねえぞ、男意気だ。やれ御法だの世間の目だのに気を遣って、爺イの小便みてえにちまちまと小出しにするぐれえなら、ドンと一発花火を上げて恨みつらみを煙(ケム)にするほうが後生もよかろう。」
◇「今にして思や、さほどのべっぴんだったとも思えねえ。だが、男はみんなすれちがいざまに惚れた。女はもっと惚れた。あれア、姿形じゃあねえんだ。心意気がおめかしをして歩っているようなもんだった」
心意気という言葉はよくわからないけれど、そういう人は今でもいると思う。それほど美人じゃないのに、思い出してみるととてもきれいな人。すれちがいざまに、ハッと心を奪われるような人。
「ひとことで言やア、垢抜けてて格好がよかった」
◇「のう、若え衆(シ)。俺ア何もおめえに、四の五のと説教垂れているわけじゃあねんだぜ。やくざに生きるも堅気に暮らすも、俺に言わせりゃあ、大(テエ)したちげえはねえ。一等ばかばかししのは、肚が括れずに生きているか死んでいるかもよくわからねえ人生だ。もっとも、世の中あらかたはその手合いだがの」
◇安吉一家の身内は、みなそれぞれに目細(メボソ)の安の心意気を受け継いでいる。ことの大小はてんから頭になく、よしあしばかりを考える。だから人の命と名もなき少女の悲しみは、秤にかからない。なのだ。こうと決めたら銭勘定も星勘定もせず、たったひとりでも世界中を相手にする意地が、安吉親分の侠気だった。
「喧嘩」は、一生には三度あるという乾坤一擲の切所と解してもよかろう。戦力の小出しはタクティクスとしても下の下だ。
「男意気」と「心意気」は同根であろう。男意気は「肚」を括るし、「すれちがいざまに惚れ」させる「べっぴん」は心意気がつくる。ともあれ、「あらかたはその手合い」には勘定されたくはないものだ。
「救いがたい人々のこぼす一滴の涙は、いつだって地球と同じ重さ」だからこそ、「たったひとりでも世界中を相手にする意地」が「男意気」だ。言葉遣いはいたって乱暴、べらんめえだが、人生の奥義を語って余りある。
Ⅱ 非戦
◇寅兄ィは膝に両手を据えたまま、松蔵にもうめにも背を向けてしまった。そして西山の茜雲に坊主頭を晒して、誰に言うでもなくたったひとこと、「すまねえ」と眩いた。
けつして他人に頭を下げぬ寅兄ィは、きっと天皇陛下や乃木将軍になりかわって、田中一等卒に詫びたのだろうと松蔵は思った。
◇「こんな悪い戦はさっさとやめにゃあ嘘だぜ。
田中一等卒はいい兵隊だった。死んだやつらはみな同じだ。勝ち負けもなく、生き死にもなく、損得もなかった。ただ、てめえの力でばかばかしい戦の始末をつけようとした。
◇女房子供のために死んだか。そうじゃねえ。男の命はそれほど安かねえぞ。そんじゃ、お国のためか。けっ、ばかくせえ。人の命はお国に召し上げられるほど安かあるめえ。
いい兵隊は、いい人間だ。田中一等卒はたったひとりで、戦争を終わらせようとした。勝ち負けも生き死にも、損得もなかったんだ。
◇もし空耳でなければ、男の人は千代子の耳元で、はっきりと言ってくれた。
「ごめんな」
いいことなどひとつもなかったけれど、この一言だけで生きて行けると千代子は思った。お国が何をしてくれなくても、お国にかわって詫びてくれる人がいるうちは、胸を張って生きなければいけない。
寅兄ィは日露戦争の二百三高地で戦死した部下の家を巡礼し、線香を立て、たいそうな香奠を届ける。二十数年間、繰り返してきた。「戦争を終わらせ」るために捧げた「安かねえ」男の命に、「天皇陛下や乃木将軍になりかわって」頭を下げた。
この戦争観を再帰的言説と捉える向きもあろう。しかし「女房子供のために死んだか。そうじゃねえ。男の命はそれほど安かねえぞ。」とは、愛に眩んだ薄っぺらなそれを見事に一蹴する卓見ではないか。「ばかくせえ。人の命はお国に召し上げられるほど安かあるめえ」とは、まことに痛快な反戦の一撃であろう。
内田 樹氏は「街場の読書論」で、「世代的な義務」に言及している。
──私たちは父の世代から「私が決して知ることのできない記憶」、言葉にすることのできない戦争経験を遺贈された。その「遺産受取人」という歴史的条件が私たちの世代のものの考え方やふるまい方を深いところで規定している。「父のまわりにわだかまっていた死の存在」が依然として私たちの記憶にとどまっていて、私たちはその「死の存在」の輪郭を指でかたどり、それに名を付け、できれば「弔う」世代的な義務を負っているように感じている。そんなことを感じる必要はないとか、オレは感じないよとか言う人がいるのはわかっている。でも、私は感じるし、村上春樹は感じているし、浅田次郎も感じているし、たぶん関川夏央も感じている。外にも同じ事を感じている人はたくさんいるはずである。──
寅兄ィの巡礼は、「浅田次郎も感じている」世代的な義務から導出されているのではないか。蓋し、深い非戦論である。
Ⅲ 芸人
◇「テレビジョンが薄っぺたになったと思や、ちかごろ中味まで薄っぺらだの。芸のねえ芸人どもが昼ひなかから夜おそくまで、わいわいがやがやとてめえ勝手にしゃべってるだけじゃあねえか」
「まったく、芸がねえなあ。笑ってるお客の気が知れね。下不タに楽屋オチてえ、昔の芸人ならしちゃならねえことばっかし並べやがって。ああ、つまらねえ ──消せや」
「このごろの芸人にゃ芸がねえ。あんな芸で笑わにゃならねえお客さんは、よしんばお義理にせえ哀れなもんだ。これから俺の出会った本物の芸人の話を聞かせてやる。」
拙稿でも何度も述べた。簡潔にして適確。深々と刺さる頂門の一針である。だから、
「──消せや」
となる。
Ⅳ チャップリン
前項の「本物の芸人の話」として、チャップリンが登場する。
◇舞台は終わった。少女の手を引いて、チャップリンは客席の通路を歩いてきた。常兄ィと握手をかわすチャップリンの顔が、悲しげに見えるのは化粧のせいだろう。
二言三言、英語で立ち話をしたあと、チャップリンは観客席から出て行った。
常兄ィはチャップリンの言葉を声にした。
「どうやらご本人は、今しがたの芸には満足しなかったようです。こんなことをおっしゃってましたぜ──私は素人です。一生素人です。たぶん、素人のまんま終わるんでしょう、と」
◇みごとな演出をしたにちがいない本物のコーノが、松蔵に囁きかけた。
「おやじが納得していないのは、本当ですよ。僕は舞台の袖から見ていたんですがね。あの子、それほど嬉しそうじゃなかった。おそらくあの子が会いたいのは、チャーリーじゃないんでしょう。どんなに人を笑わせたって、いっときの娯楽でしかない。悩み苦しみまでは手が届かないから、自分を素人だと言い続けるんです。本音なんですよ、あれは」
「どんなに人を笑わせたって、いっときの娯楽でしかない。悩み苦しみまでは手が届かないから」。この冷厳な真理に自覚的である者を「素人」だと、彼は呼んだ。彼の天才はそこに発した。
以上、 浅田次郎著
「天切り松 闇がたり」 第五巻 ライムライト(集英社、本年一月三十日発刊)
より抜粋した。村田松蔵は、天切り松の本名である。このシリーズ、九年ぶりの最新刊である。もう、読ませる。読ませる。別けても、「あの子が会いたいの」が明かされる最終から七行目の台詞。泪が一時に吹き上げた。小説はこうでなくちゃ! □