伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

吉野家礼讚

2011年08月29日 | エッセー

 およそ八ヶ月振りに喰った。あまりの旨さに泣きたくなった。食い物ごときで落涙しては恥ずかしいので、原稿に字を落とす。

 吉野家の牛丼である。
 わが愛おしき片田舎にはそのような洒落た処はない。モスやミスドはあるのに、マックが二十分、ケンタが四十分。吉牛には車で二時間は走らねば行き逢えない。間遠である。まことに文化から孤絶している。
 吉野家は明治二十二年の創業と聞く。東京日本橋に牛丼屋として店を開いた。初代・松田栄吉が大阪吉野町の出身であったことからこの屋号が付いた。同年には、大日本帝国憲法が公布され、東京市が生まれ、東海道線が全線開通した。『坂の上の雲』が輪郭を現し始めた頃ともいえる。爾来百十余年間、牛丼のみを売り続けた。まさに商いは牛の涎である。牛を馬に乗り換えた(といって馬肉ではないが)のが〇一年。一杯二百八十円、十数秒で「はい、お待ち」のファストフードに大転換を図った。今やメニューも増え海外にも展開、低価格・外食産業の雄である。
 特筆すべきは〇三年のBSE騒動での対応だ。あくまでも米国産牛肉に拘り、豚丼などの代替商品を急遽投入してまでも、輸入再開まで牛丼の販売を中断した。吉野家の味は米国産牛肉でしか出せない。ファストフード店らしからぬ職人気質であろうか。老舗の沽券か。報道に接し、心中快哉を叫んだものだ。
 すき家とは双璧をなす。松屋もある。だが、筆者は吉野家だ。味が二者を断然引き離すし、なにより名がいい。かつてわが町に粋な料亭があり、同じ屋号であった。川に乗り出すように躯体を構え、灯りが川面に映り、三味線や太鼓の音(ネ)が華やかに聞こえた。少年だったころの街の賑わいが、その名とともに戻ってくるのだ。それにBSEで見せた一本気。やはり、吉野家だ。
 
 ワインは赤だの白だの、ナイフがどうでフォークがこうで、イタ飯だかイカ飯だか、乙にフレンチか、そも懐石はなどと、性分に合わぬ。早飯早〇芸のうちではないか。ファストフードでなぜいけぬ。栄養的に、とは片腹痛い。人間、死ぬまでは断じて生きている!(以上は、荊妻への面当て、ないしはレジスタンスである)
 夜鷹蕎麦も歴とした本邦伝来のファストフードである。駅の立ち食いそばもそうだ。札(サツ)の要らない安価にどれだけ助けられたか。山のように掛けた刻み葱は、野菜の補給に役立ったはずだ(たぶん)。ホームでの沸き立つような喧噪に急かされて、勤め人たちが突っ立ったままでソバを掻き込む。時計を見遣りながら黙々と。今に変わらぬあの情景は、湯漬けを流し込んで戦場へ向かった戦国の武士(モノノフ)を彷彿させるではないか。
 かつて触れたが、カップヌードルには少なからぬカルチャーショックを受けた。チキンラーメンにも打たれたが、その比ではなかった。これぞファストフードの極みではないか。器さえも用意が要らないというのは文明史を画す発明だ、と感じ入った。耆宿の言を借りよう。


 縄文文化における土器の役割は大きかった。粘土で成形して火で焼いたこの容器は、それを持たない時代の人が“煮炊き”というものを知らなかったことにくらべ、人間のくらしに大きな便利をあたえた。ドングリも粉にして煮ることができるし、これに肉を加えれば、消化が容易になり、大量の栄養をとることができる。“煮炊きは第二の胃袋”といえるが、べつの表現でいえば、土器は体外の胃袋ともいえるのである。(司馬遼太郎著「街道をゆく」38から)


 “煮炊きは第二の胃袋”であり、煮炊きを可能にした「土器は体外の胃袋」である。目の覚めるような洞察だ。なんだか縄文の世が、一瞬にして輝いてくるではないか。ならば熱湯三分で煮炊きを叶える件のカップは、さしずめ『現代最速の土器』か。やにわに嬉しくなってくる。
 吉牛とカップヌードル、ファストフードの双璧だ。片や文明開化の滋味であり、片や昭和絶頂期の妙味である。つづく平成の世、世界の食文化が幸(サキ)わう。なんならついでに『カップ牛丼』はいかがであろう。
 久方ぶりの吉牛に堪能し、つい噺が撥ねた。□


「御伽草子」

2011年08月25日 | エッセー

 さしたる意図はなく、拓郎のアルバムタイトル(収録されている曲名でもある)を借用したのが本ブログの名である。以前にも記したが、あちらは「『お』とぎそうし」であり、こちらは「とぎそうし」である。なぜ『お』が付くのかは、なお不明である。
 解題というほどのものではないが、名乗りの本家本元に溯ってみるのも店賃の替わりにはなるかもしれない。
 
 室町から江戸期にかけて、庶民の間で挿絵の入った短編物語が盛んに生まれた。その数、300とも100ともいわれる。ほとんどが作者不詳。内23編を、大坂の版元・渋川清右衛門が「御伽文庫」、「御伽草子」(おとぎぞうし)と名付けて刊行した。これが名のはじまりで
ある。時、享保であった。元禄の滾りから一転、幕府は引き締めに舵を切った。「享保の改革」である。華美を避ける世の流れに、草子はうまく棹さしたのかもしれない。
  酒呑童子
  猫の草子
  弁慶物語
  一寸法師
  道成寺縁起
  ものぐさ太郎
  蛤草子 
などなど、今に読まれるものもある。
 草子、つまり庶民の読物である。文章は平易で、挿絵が重宝された。ストーリーやプロットが純朴である分、多義的といえなくもない。アレゴリーを掬い採り、世のありようを垣間見ることもできる。大衆文学の嚆矢であったかもしれない。
 余談ながら、司馬遼太郎著「街道をゆく」39巻──「ニューヨーク散歩」に「御伽草子」という章がある。中世日本文学を研究する、氏とは旧知のアメリカ人女性学者が登場する。「御伽草子」について、彼女が「みごとに音感でよみとっている」と驚嘆している。なぜなら、「いうまでもなく本を黙読するのは近代の風習である。近代以前では、書く人も口誦(クチズ)さみつつ書き、読む人は、ときに朗々と諷誦(フウショウ)した。」からだと、氏はいう。草子はまさに読み物であったわけだ。
 さらに蛇足ながら、浅田次郎氏(日本ペンクラブ会長)は推敲段階で原稿を必ず音読するという。あの流麗な文章の秘密の一端はそこにあるかもしれない。

 「お伽草紙」
 こちらは太宰治だ。前記の「御伽草子」とは無関係に、太宰が書いた短編小説集である。戦時中の苛酷な言論統制の中、文学不毛時代に高々と掲げた篝火であった。民話や昔話に材を求めるものの、ウィットが利きパロディに鋳込まれ、鋭い人間観察が綴られる。

 さて、拓郎の「伽草子」はどうか。73年リリースのこのアルバムは、クロニクル中で記念碑的位置を持つ。つまり、“渦中”での発表であった。何の渦中か、には触れない。故なきことであろうとも(相手側の狂言が判明し無実が証明された)、想起したくもない過去はだれにでもある。一つもないと公言できるのは万に一人の聖人か、よほどの奇人、あるいは痴呆でしかない。なにせ筆者なぞは、畢生がそれらの群れで埋め尽くされている。
 ともあれ袖を絞る禍災、四面に楚歌を聞く蹉跌の渦中で矢は放たれたのだ。たちまちにしてヒット・チャートを駆け登り、頂点に立ったのはいうまでもない。

   「伽草子」 作詞:白石ありす/作曲:吉田拓郎
  〽雨もふりあきて 風もやんだようだね
   つい今しがたまで ドンチャン 騒いでた街が
    ひっそりかんと ひざを正してさ
   静かだね 静かだね 夢でも食べながら
   もう少し 起きていようよ

   君も少しは お酒を飲んだらいいさ
   おぼえたての歌を 唄ってほしい夜だ
    スプーンも お皿も 耳をすましてさ
   ああいいネ ああいいネ 泣き出しそうな声で
   もう少し いきますか

   雲がとばされて 月がぽっかり ひとり言
   こんな空は昔 ほうきに乗った 魔法使いの
    ものだったよと 悲しい顔してさ
   君の絵本を 閉じてしまおう もう少し幸せに
   幸せに なろうよ〽

 作詞者は寡聞にして知らない。どういう人物であろうか。それにしても肩の力が抜け、ほどよくポエム、今様の御伽噺ではないか。なにより、それぞれの括りの「もう少し……」との誘(イザナ)いが胸を揺する。メロディーもたゆとうようで、微かに哀切でもある。

 艱難が人を磨く。数奇が人を練る。面目躍如は不遇の渦中でこそ用意される。そう心得たい。意図というより、そんな心境がわずかに響いて名を借りたのかもしれない。□


諫言の士をどうする?

2011年08月18日 | エッセー


  暴露本の類いはあまり好きではないが、話題と売れ行きに釣られて手に取った。読みはじめて浅慮に気づいた。案に相違して暴露どころか、直言、諫言の書であった。

   日本中枢の崩壊  講談社  本年5月刊

 著者は古賀 茂明氏。現職の霞ヶ関官僚である。ただ“現職”とはいっても、経済産業省大臣『官房付』。有り体は“窓際”どころか“ベランダ”、閑職そのもの、さらには“幽閉”ともいえる。どころか、退職を迫られ首の皮一枚の瀬戸際である。忠言耳に逆らうは、いつの世にも変わらぬ道理だ。
 キャッチコピーを引こう。
〓〓経産省現役幹部が実名で告発!! 
  「日本の裏支配者が誰か教えよう」
  福島原発のメルトダウンは必然だった……
  政府閉鎖すら起こる2013年の悪夢とは?! 
  家族の生命を守るため、全日本人必読の書
  民主党政権と霞ヶ関がもっとも恐れる大物官僚が、ついに全てを語る! 
  日本中枢が崩壊してゆく現状を、全て白日の下に!〓〓
 キャッチだから、スポーツ紙の見出しのように芝居めくのはやむを得ない。しかし、語られる中身はセンセーショナルなコピーを凌ぐほどに深刻だ。また、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山、菅とつづく歴代総理、さらに仙石前官房長官などの実像が垣間見られる。やはり、という部分。おや、と意外なところ……。例えば、安倍政権が禁じた定年前の天下り先の斡旋。これは殊勲だった。ところが菅政権は現役での出向、派遣なら問題ないとした。公務員の身分を残したままのそれである。官民の癒着は余計悪質化する。これは、まやかしだ。なぜこんなことになる? それは……。など、興味深い論点が畳み込むように語られていく。圧巻は民主党の“躓き”、官僚の“生態”について語る部分だ。気が滅入るのを堪(コラ)えながら読むのもまた一興ではあるが……。
 同書の「まえがき」には、以下のようにある。


 現在の国家公務員制度の本質的問題は、官僚が国民のために働くシステムになっていないという点に尽きる。大半の官僚が内向きの論理にとらわれ、外の世界からは目をそむけ、省益誘導に血道を上げているとどうなるか。昨今の日本の凋落ぶりがその答えだ。すなわち、すべての改革を迅速かつ効果的に推進させるための大前提が、公務員制度改革なのだ。したがって、山積する日本の課題のなかでも真っ先に取り組むべきテーマは公務員制度改革だと私は考えている。


 著者の焦燥と、使命感はここに尽きていよう。後段では、自身による提言が述べられる。数例を挙げると、
「逆農地解放」
「平成の身分制度」撤廃
「死亡時清算方式」の(年金への)導入と年金の失業保険化
「壊す公共事業」と「作らない公共事業」
 などだ。委細は同書に当たっていただくとして、ドラスティックで刺激的なアイデアが並ぶ。“告発”や問題提起に終わらず、暗闇にサーチライトの閃光を射掛けるのはただならぬ使命感の高揚といえよう。

 億面もなく拙稿を引きたい。わが国における官僚の祖型についてである。
〓〓堺屋太一氏は96年に著した「日本を創った12人」(PHP新書)の中で、唯ひとり実在しなかった人物を取り上げている。光源氏だ。以下、要点を列挙してみる。
◆遣唐使が打ち切られ、鎖国状態の日本にあって、光源氏は外交問題はもちろん、産業発展にも財政問題にもほとんど関心を持つことがなかった。平安貴族の権威と武力が衰え、平将門の乱、藤原純友の乱が起きてくる。光源氏はその直前に太政大臣職にありながら、治安や財政にはあまり問題意識もなく過ごしていたらしい。むしろ、治安や財政などの現実的な重要問題に貴族政治家は直接タッチせず、荘園の現地管理人である地頭(=官僚)、後の武士階級に任せていた。
◆何もしなかった政治家・光源氏の影響は、現代日本にどう現れているのだろうか。まず第一は、日本的な貴族政治家の原型を創り出したことだ。実際、この国にはしばしば、「光源氏」型の政治家が現れる。つまり、一見上品で人柄はよさそうだが、現実の政治はほとんどやらず、やる気さえなく、行財政の細部と実務には知識も関心もない、というタイプの政治家である。その典型は近衛文麿であろう。
◆欧米では、全責任を持って決定するのがトップである。ところが、日本では、あまり細かいことをいう人は大物ではない、という風潮がある。欧米の貴族が、慢性的戦争状態の中で領地を奪い合った武将であったのに対し、日本の平安貴族は、宮廷文化人だったこと、つまり光源氏型だったことに由来するのではないだろうか。
◆動乱期、例えば戦国時代や幕末維新となると強力な指導者が必要である。しかし、世の中が安定してくると、日本ではたちまちリーダーシップ拒否現象が現れ、集団主義的意志決定構造が生まれてくる。光源氏以来の上流人士は実務に携わらず、上品な人は他人と争うような指揮監督はしない、という伝統が蘇るからである。
 非常におもしろい、意表を突く視点である。氏は光源氏を 「日本的政治家の原型」として位置づけている。つまり ――
① 政治家はリーダーシップを発揮することなく、実務は官僚に任せる宮廷文化人が祖型。
② 動乱期には強いリーダーシップが必要とされるが、安定期には責任分散型の集団主義に戻る。
 ―― となるであろうか。〓〓(08年4月本ブログ「『四権』?国家」から抜粋)
 近代国家の官僚機構は明治政府によって造られた。棟梁は初代内務卿・大久保利通であった。大久保は「有司専制」との誹謗を受けつつも、内務省を「富国強兵」の強靭な推進力として『坂の上の雲』へ猪突した。上記 ② の前半・動乱期に当たる。爾来140年、制度疲労を来さないわけがない。加うるに、今は安定期か否か。子どもでも解る。しかし、貪官汚吏を懲らしめれば足りるという次元の話ではない。システム、構造に斬り込まねば埒は明かないのだ。

 今、霞ヶ関にとって古賀氏は目の上の瘤、喉に刺さった骨、いな喉元に突き付けられた刃でもある。だから仙石官房長官(前)には国会の場で恫喝され、熾烈なパージに遭っている。本書の内容はもとよりだが、著者の処遇にこそ関心が注がれる。諫言の士を斬るか、容れるか。懐柔か、生殺しか。はてはネグるか。そこに『日本中枢』の本性が顕れる。
 氏への慰撫になるかどうか。唐代に、天朝への直言により左遷された韓愈の詩を記して結びとしたい。

     一封(イップウ)朝(アシタ)に奏す九重(キュウチョウ)の天
     夕べに潮州(チョウシュウ)に貶(ヘン)せらる路(ミチ)八千
     聖明(セイメイ)の為に弊事(ヘイジ)を除かんと欲す
     肯(アエ)て衰朽(スイキュウ)を将(モ)って残年を惜しまんや
        雲は秦嶺(シンレイ)に横たわりて家何(イズ)くにか在(ア)る
     雪は藍関(ランカン)に擁(ヨウ)して馬進まず
     知る 汝の遠く来(キタ)るは応(マサ)に意(イ)有るべし
        好(ヨ)し吾が骨を収めよ 瘴江(ショウコウ)の辺(ホトリ)に

 奇しくも古賀氏と同じ50代での左遷だ。遥か8千里を隔つ僻遠の地。雲居に人家は隠れ、深雪が行く手を阻む。だが終わり2行が気負い立って、志は挫けていないと謳う。
 後、韓愈は中央政界に復帰し栄達を遂げた。氏もかくあれと祈りたい。□


いざという前

2011年08月14日 | エッセー

「交通事故に遇ったのよー」
 突然の電話に面食らった。ケータイに義姉の悲痛な声が響く。
「今から救急車で運ばれるところなんだけど、Yと連絡が取れないの。そちらからYに連絡してちょうだい」
 Yは同居する息子だ。東京湾岸の高層マンション20階に住む。事故はその直下の四つ角で起こった。
 急いでYのケータイを鳴らす。出ない。寝ているのか。もちろん救急車のサイレンが20階に届くはずはない。固定電話を呼ぶ。両方で間断なくコールする。
 ……やっと出た。寝惚けた声だ。消防署に問い合わせて搬送先の病院に駆けつけるよう告げる。
 怪我は尾骨の骨折だった。交差点を横断中に、左折してきた車に跳ね飛ばされたらしい。幸い回復が速く、今は元通りだ。
 1000キロを越える遣り取りであった。急がば回れとはいうが、マンション20階までの約40メートル先へ気脈を通ずるのに、その5万倍を迂回したことになる。一時代前なら、考えられないことだ。しかし突飛ではあるが、当方を経由したのは機転の利いた判断であった。

 飛躍するようだが、いざという時どう行動するか。多くの場合、生死を別つ。3月11日石巻で大地震直後に、なんと沿岸部へ向かった幼稚園の送迎バスがあった。悲しいかな、5人の園児は津波に呑まれた。いま訴訟になっている。おそらくあの日、それに類する悲喜劇が幾千となく起こったにちがいにない。
 内田樹氏が、「人間性の原基的形態」について述べている。
〓〓今、原発事故の根本のところにあるのは、現代日本人の、「霊的な力」に対する畏怖の念の欠如ではないかと思います。
 どうして人類が「死霊」や「鬼神」という概念を持つようになったのか、その由来をぼくは知りません。けれども、その機能ならわかります。それは「センサーの感度を上げろ」ということです。もし生き延びたいと思ったら、眼に見えず、耳に聞こえず、匂いも、触感もしない「それ」を感知できるようにセンサーの感度を最大化しろ。それが、「霊的なもの」という概念から導かれるとりあえず唯一の実践的命令です。
 ぼくたちの祖先は数万年前に「死者」という概念を持ちました。そして、それによって、「存在しないものが切迫する」という実感を手に入れました(人類以外の霊長類、は「死者」という観念を持ちません。だから、葬礼ということをしません)。この実感を手がかりにして、眼に見えず、音が聞こえず、匂いもせず、手触りもしないが、自分の生存にかかわるかもしれない、何かとてつもなく危険なものが接近してくるときに、「アラーム」が鳴るように心身を訓練しました。あらゆる手立てを尽くして、その訓練をした。ぼくはそれが人間性と呼ばれるもののもっとも原基的な形態ではないかと思っています。〓〓(朝日新聞出版 「大津波と原発」<あとがき>より) 
 人類はフィジカルには弱い。生き延びるためには危機を回避せねばならない。逃げるが勝ちなのだ。そのためには危険の接近を感知する「アラーム」が必要だ。さらに、「センサー」の感度を上げて「アラーム」の機能を強化しておかねばならない。動機づけたのは、「『霊的な力』に対する畏怖の念」であった。
──人間たることのプリミティヴな属性とは、生存のために錬磨された「センサー」にある。──さすがの慧眼ではないか。なんといっても、命あっての物種である。生きていなければなにごとも始まりはしない。その生存を確保するために、全身全霊を尽くして危険を察知する。危機感知能力こそが、人間にとって本来もっとも基本の能力ではないか。そう、氏はいっている。
 養老孟司氏がいう「脳化社会」の進行とともに「畏怖の念」は著しく退行した。いま「こうすれば、こうなる。ああすれば、ああなる」が軽々と一蹴される事態に直面して、「畏怖の念」に立ち戻れるかどうか。大きな課題だ。
 いざという時から、いざという前の話になってしまった。人間性、人間らしさといっても、柔(ヤワ)なお話ではない。□


きほんの『ん』 2/2

2011年08月12日 | エッセー

 ロンドンの暴動が英国全土に飛び火しているという。若者たちの放火、略奪が止まらない。野放し状態だとの批判に、政府は力づくで押さえ込もうとしている。発端は人種差別まがいの警察官による発砲事件なのだが、背後にはキャメロン政権の緊縮財政がある。地方へ回る予算を3割カット、加えて社会福祉削減、消費税増税、大学授業料値上げなど、荒療治が続く。当然、失業も増える。2割の失業率に、割りを食うのは若年層だ。その不満に火が着いた。
 ここのところキャメロン政権への支持率は3割で、5割が不支持という構図は一貫している。しかし政権は安定し、経済政策は少しも揺るがない。
 これが日本であれば、たちまち政権は政争に塗れる。批判が続出し、混迷は深まる。なにより国会はねじれを抱えている。跛行のごとく政権は政策推進力に欠ける。格言が諭すように「政治屋は次の選挙を考える」ゆえか、ポピュリズムが瀰漫する。イシューは暈(ボカ)され、先送りされる。議論は正鵠を外れ、非難が繰り返され、負担を強いる決断は回避される。挙げ句は、付け焼き刃と泥縄だけだ。
 と述べれば現政権に幾分か同情的に聞こえるが、決してそうではない。本ブログで再三再四『カン蹴り』をしてきのは、宰相としての人格、資質に問題があると指摘、批判するためだった。あにはからんや3.11の『国難』以降それが露になり、政治の混迷が極まった。だからこそ、早急な退場を求めているのだ。

 ゼロ金利を導入しても成長率が上がらないことを「ジャパナイゼーション」と呼ぶらしいが、国会が両極化し政治が著しく機能低下する現象にも使うらしい。政権をリベラルな勢力(千歩も万歩も譲り、一応そうだとして)が握り、保守的勢力(これも比較相対すればの話だが)が国会のねじれを使ってそれを揺さぶる。英国のエコノミー誌には、この図がアメリカにもあるように見えた。だから、“Yes,You Kan”(オバマ≒カン)中身に横たわる雲泥の差は措いて、この洒落でおちょくる感覚はほんとうに巧い! 
 これはどうも二大政党制に起因するとみたほうがいい。副因には政治家の質的劣化があるが、システムとしてはそうだ。議会と政府との相関の違いを超えて、同様の事態に至っているのだからなおそうであろう。かてて加えて議会の両院でねじれを起こすと、前記の副因が主因となって病は膏肓に入る。ここだ! これが病根といっていい。つまり政治的意思の決定、政策推進力の向上を狙った二大政党制が仇になっているのだ。拮抗する勢力だからこそ熟議をとの願いは、ポピュリズムの風に煽られてすでに徒花である。正体見たり枯尾花である。
 さらにマスコミも政策への探求や詮議ではなく、大向こうの受けを狙う政争に目が向く。というより、スキャンダラスな政争の報道に終始する(記者自体に政治、政策を論ずる学識も専門知識もないのが原因だと、池上彰氏は指摘する)。日本はいまだ疑似二大政党制の段階だが、かなりの近似値ではある。仕掛け人は剛腕・小沢氏であった。どっこい、今や薮蛇。だから言わないこっちゃない。一考、再考が急務だ。

 そこでイギリスだ。ここも二大政党制であり議院内閣制である。しかし政権はまずぶれない。なぜか? 二院制ではあるが、上院の権限が弱いからだ。下院が断然強い。そういう制度設計になっている。上院を野党が占めてもねじれは起きない。だから任期途中の解散はまずない。さらに保守・労働両党が棲み分けをしている恒常的無風区が7割もある。だから大局的観点から一時的に民意を捨象できるともいえる。
 吉田茂の側近でマッカーサーと渡り合い、「柔順ならざる唯一の日本人」と言わしめた白洲次郎。氏は英国同様に、参議院の権限縮小を力説したそうだ。卓見というほかない。しかし憲法を改定せねばならぬ。これは難事になる。なにか知恵はないものか。
 ドイツではどうか。ここも議院内閣制を採る。その首相を不信任するには後任首相を選出せねばならないという「建設的不信任制度」が設けられている。次期首相を決めずに議会の解散はできない仕組みだ。倒閣の連発による政治の混迷からナチスに付け入られた苦い体験から生まれた。過去「建設的不信任」が可決されたのは1度しかなく、議会の解散はないに等しい。長期の安定政権が生まれる道理だ。
 英独ともに熟達の民主主義国家だ。政争の非生産性を熟知しているともいえる。歴史の辛酸に学んだ知恵の結晶であろう。

 社会学者の宮台真司氏(首都大学東京教授)は次のように語る。
──日本は「引き受けて考える社会」ではなく、「任せて文句を言う社会」だ。任せられる側は、「知識を尊重する社会」ではなく、「空気に支配される社会」である。普通選挙制はあっても、民主主義の「心の習慣」がない。(8月11日付朝日新聞)──
 炯眼といえる。頂門の一針ともいえる。ともあれ厳しく選択し、選んだ以上はじっくり仕事をさせる。そのためには、システムの改革とともに、選ぶ側の「引き受けて考える」「心の習慣」が求められよう。どうもそのあたりが、きほんの『ん』ではないか。『町の衆(シ)も悪い』を繰り返すのは愚の骨頂だ。今度限りにしたい。□


きほんの『ん』 1/2

2011年08月09日 | エッセー

 先日披露した『カン張る』(7月23日付本ブログ「遊語披露」)──これは相当イケると悦に入っていたが、上には上がいるものだ。
“Yes,You Kan”!
 これにはまいった。英国の雑誌が債務危機に呻吟するオバマ大統領を皮肉ったものだ。“Kan”の意外な使われ方に苦笑いし、洒落の巧みさに脱帽する。だが同じ呻吟でも本邦は魚目燕石、中身も天地雲泥の差がある。オバマに人格的、資質的問題を指摘する声は絶無だが、当方はまずそれが起点である。要するにミスキャストなのだ。
 オバマの戦いは財政的原理主義とリベラリズムとの戦いと捉えることはできるが、日本にはそれに値するような高尚な対立はない。「この顔が見たくないなら、法案を通せ」などという押し売りもどき、チンピラまがいの台詞を平気で吐く人物なのである。なにせトップ・リーダーに辞めて『いただく』ために、法案の成立を急ぐなどという国がいずこにあろうか。なんともお恥ずかしい限りだ。「国家の品格」どころか『国会の品格』、何をかいわんやだ。

 アメリカの債務危機について再度触れたい。前述の「財政的原理主義」については、前稿で微かに述べた。去る08年9月、リーマン・ショック、金融危機の際には分不相応にも問題の根因を探ってみた。凡愚の脳みそを絞り上げて出てきたのが、「貨幣の幻想性」というアポリアであった。これについては、08年10月「きほんの『き』」、翌年2月の「きほんの『ほ』」にまとめた。読み返すと酢豆腐のほどに汗顔の至りだが、恥の上塗りに一部を引用する。

■ Aは漁で鮭を獲った。鮭がほしかったBは貝殻と鮭を交換した。Aはその貝殻でCの持っていた鶏と交換した。『鮭 → 貝殻 → 鶏』の連鎖である。この中に、三つの重要な論点がある。
 一つ目は、鮭が鶏に変わる『マジック』が起こったこと。超魔術師・Mr.マリックなぞ足元にも及ばない超弩級のマジックである。この魔術は人類以外には断じて成し得ない。『二足歩行に匹敵する』人類史的進化である。この魔法は人間の生活に革命的変化をもたらした。
 二つ目に、魔法のタネは貝殻という異質のモノであったことである。鮭と鶏は喰えるが、貝殻は喰えない。貝殻自体にはほとんど値打ちはない。鮭および鶏の値打ちを象徴し代替するモノとしてある。鮭から貝殻、貝殻から鶏。そこに『大きな飛躍』があり、幻想性が潜む。つまり、猫に小判。いかな愛猫であっても、幻想性を共有することは叶わぬ。『人類以外には断じて成し得ない』幻想の共有があった。
 三つ目に、『信用の環(ワ)』があったこと。実はこれこそが核心である。貝殻の幻想性を超えるものとして信頼関係があった。Bの持っていた貝殻をCを含む他人が物資の交換手段として受け入れてくれる、とAは信じた。これが前提である。この信頼が魔法を喚んだ。ところが、信頼は時として裏切られる。だから、信用の行為には『賭け』がつきまとう。たとえば、貝殻には祟りがあるという噂が流れたとする。だれも受け取らなくなった貝殻は、たちまちにして貨幣としての機能を失う。幻想性を帯したモノを信用することは賭けでもあるのだ。サブプライムは『信用の環』が崩れ、幻想性が露わになったモノだ。 
 物品貨幣としての貝殻は物資そのものではない。決して鮭でも鶏でもない。さらに貝殻ですらない。だから、実体を装う幻想である。幻想に寄りかかることは無から有を産むこと。つまりは『マジック』であり、同時に『賭け』である。幻想は時として誇大する。そこに危険が宿り、諸悪の根源となる。
 貨幣が『幻想性を帯したモノ』である以上、それを『信用することは賭けでもある』。賭け、すなわち投機は不安定だからこそ成り立つ。一寸先が闇だからこそ機会を投げるのだ。貨幣は生来、「効率化」と「不安定」化の「二律背反的な存在」としてある。この「貨幣の純粋な投機としての不安定性の問題」を克服する、貨幣に替わるなにものかは出現するのだろうか。世紀を跨ぐ課題であろう。電子マネーの試みはあるが、所詮は貨幣の代替物でしかない。イリュージョンが転位しただけだ。(「きほんの『き』」より)
■ 貨幣のアプリオリな属性として幻想性を挙げた。これを下敷きに『マジック』は起こる。魔術を裏書きするのは『信用の環(ワ)』である。さらに、それらを陰画に転ずると『賭け』が浮き上がると語った。つまり、一つ目と二つ目は人類の経済活動に革命をもたらしたが、幻想性ゆえに人間の所有欲に火をつける結果になった。食欲は健常な場合、胃袋の容積を越えることはない。しかし本来物理的存在ではない貨幣への欲は満たされることがない。また何にでも『変』えられる『マジック』である以上、所有するにこれほど便利なものはない。打ち出の小槌だ。小槌で小槌を生もうとしたのが金融経済だ。幻想性ゆえのトリックであり、幻想性ゆえにトラップと化した。それがリーマンショックだ。
 そのようにして手段と目的は逆転していく。手段が自己目的化する。避け難い陥穽であり、宿痾でもある。それゆえにマモニズムは跋扈する。(「きほんの『ほ』」より)
 
 世界の基軸通貨はドルである。ドルの『マジック』を裏書きする『信用の環』は、アメリカという超大国を軸に回っている。その軸がぶれた。当然、『環』が揺らぐ。それが今の「債務ショック」に連動する世界株安とドル売りだ。地球規模で経済がガタつきはじめている。
 『信用の環』がなければ『マジック』は起こせない。G7が慌てる道理だ。『マジック』なしならどうする? 物々交換に戻るか。空想を超えるほどに現実から遠い。それとも71年にまで遡及し、ニクソン・ショックを帳消しにしてブレトン・ウッズに戻るか。さらに不可能だ。世界の経済規模は当時の比ではない。アメリカは即座に沈んでしまう。道連れは世界だ。「貨幣に替わるなにものか」も、いまのところ妄想の域を出ない。世界が多極化へ向かう象徴的動きだ、との鳥瞰図もある。その通りであろう。しかし道程(ミチノリ)は遥か霧の中だ。
 人類がはじめた経済活動は、人類を人類足らしめた大きな活動であった。だが、『幻想性』ゆえにマモニズムに足を掬われてもきた。
 作家・宮部みゆきは「火車」で、弁護士にこう語らせる。


 弁護士はちょっと考え、それから首を振った。「金融市場なんてものは、もともと幻なんです。元来、実態のないものなんですよ。そもそも、貨幣にしてからが、そうでしょうが。ただの紙切れ、ただの平たく丸い金属の塊だ。そうじゃあありませんか? 」
 溝口弁護士は、淡々とした口調で言った。
「しかし、現実には、一万円札にはそれだけの価値がある。百円硬貨は、一歩店を出れば使えなくなってしまうゲームセンターのコインとは違って、日本全国どこの自動販売機でも受け入れてくれる。これは、約束事があるからですよ。小学生だって、授業で教えられて知っているはずだ。貨幣経済のなんたるかをね。もとは幻だということを。金の実態は、国がつくった取り決めなのだということを。しかし、そのおかげで我々は、猪一頭を、家族の衣類とひきかえの野菜と米に交換してもらうため、山をおりてゆく──という生活から解放されたわけです。社会の基盤に貨幣経済が存在しているからこそ、私は他人のもめごとを解決してあげることで生活をたててゆける。そうじゃありませんかな?
 左様、金融市場は、もともとが幻です。だが、それは言わば、現実社会の『影』としての幻なんですよ。だから、そこにはおのずと限界がある。社会の許容する限界が。それを考えると、この消費者信用の異常な膨らみ方は、やはりおかしい。本来膨らむはずのないところを、無理のあるやり方で膨らまさないかぎり、これほど急激に成長するはずがないのです。この幻は、本来あるべきサイズよりも、はるかに大きく膨張している。たとえれば、本間さん、あなたはかなり背が高いが、それだって伸長二メートルはないでしょう? そのあなたの影が十メートルもの大きさになったら、これは妙だとおもいませんか」


 極めて卑俗な例ともいえる。しかし「消費者信用の異常な膨らみ」を「マモニズムの跋扈」に置き換えれば、そのまま世界経済の簡便な説明になる。
 蓋し機軸が揺らぎ世界が多極化へ向かう流れは、とりもなおさず人類史的価値観の転換点でもあるのではないか。大袈裟ではなく、生き残りのためにこればかりは見果てぬ夢にしてはならない。凡愚には輪郭さえも描けぬ夢ではあるが……。
 人類史400万年、ついに地球を手挟(タバサ)んだわれわれが迎える結節点であるのは確かだ。(もう一つの、いわば政治的な視点については次稿に送る)□


お茶でもどうぞ

2011年08月04日 | エッセー

 親子に理屈は要らない。だが、夫婦には理屈が必要だ。そんなばかなという向きもあろうが、腹を痛めた体験とその因をつくった記憶が親にあれば足りる。子とて、物心がつけば親は側にいる。やがて顔も物腰も性格まで似てくる。疑問があれば、血液を調べればあっさりと形(カタ)はつく。理屈以前の問題だ。
 ところが愛だの恋だのといっても、それだけで夫婦にはなれない。逆に、好いた惚れたはなくても夫婦はできる。かつてはほとんどがそうだった。第一元をただせば、赤の他人だ。さまざまな手順と手続きという理屈を踏まねば事は成らぬ。成ったあとに恋が冷め愛も干からびても、子は鎹(カスガイ)などと理屈を付けては夫婦を続ける。何より既成事実が格好の理屈となる。さらに、夫婦を止めるについても理屈が要る。理屈が行き違えば、出るところへ出ねばならぬ。
 乱暴だが、国も同じだ。日本のごときネーションなら親子の伝で理屈は要らぬが、アメリカのようなステートとなると夫婦にも似て理屈が必要になる。いな、理屈でできあがった国とえなくもない。別けても、税金には大(オオ)理屈がなくてはならない。
 やっと決着したアメリカの財政赤字問題。「債務上限引き上げ法案」に頑強に抵抗したのは“ティーパーティー”だった。230余年の昔、アメリカ独立の先駆けとなったボストン茶会事件。反権力の謂か、ほぼ冗談でこれに名を採った21世紀の茶会運動は、「小さな政府」、自立自存というアメリカの古き好き時代への回帰をめざす。だから、保守派のポピュリスト運動とも評される。昨年の中間選挙では、共和党躍進の原動力となった。
 だからサブプライム・ローン問題の際、「支払いに窮した他人のローンを、代わりに払ってやろうという人間が、一体このアメリカに何人いるのか」とオバマに噛みついた。“Tea”とは、“Taxed Enough Already”(税金はもうたくさんだ!)のイニシャルを並べたとの説もある。
 彼らの理屈を溯ると、「リバタリアニズム」という大理屈に辿り着く。「無政府資本主義」とも、「最小国家主義」とも名付けられる。「自由原理主義」と呼ぶ人もいる。さらに遠祖にはジョン・ロックもいるのだが、名のごとく徹して自由を掲げ、個人を重んじる。
〓〓人間は肉体を所有している。これは、自己を所有していると言い換えることができる。だから、自分の肉体を使って労働すると、その労働の成果も自己が所有することになり、労働の結果生まれた財産も自己が所有することになる。つまり、肉体から財産までを含めて、自己の所有物と考えるのが自己所有の考え方なのである。この自己所有の考え方に基づくと、自分の労働で得た財産は、はじめの状況が正義に適っている限り、所有する権利(所有権)を持つことになる。だから、その財産を取り上げる課税は、国家から強制的に働かされたのと同義となる。そこで、リバタリアニズム論者からすると、課税は強制労働であり、一種の奴隷制のようなものということになるのである。〓〓(小林正弥「サンデルの政治哲学」平凡社新書)
 なんとも、われら困窮せる民草には涙が出るほど喜ばしい大理屈である。(決して屁理屈ではない。力量の不足ゆえに要説できないが、錚々たる大学者たちが営々と構築した学説である。)

 時としてアメリカが見せる頑なな、教条主義的ともいえる動き、騒擾。ネーション・日本には理解が届かぬ局面がある。親子に理屈は要らぬゆえか。ところがアメリカは人類の能力を超えるほどに巨大なステートならばこそ、理屈を通さねば即刻空中分解だ。夫婦を続けるのは難儀なことだ。だが税制問題がすぐに陳腐な政争にすり替わるわがネーションよりも、面倒臭いがとことん鬩(セメ)ぎ合うステートの方が『国家の品格』は圧倒的に優るのではないか。お茶でも喫(ノ)みながら考えてみよう。□


九捨一入

2011年08月03日 | エッセー

 四捨五入すると、肝心なものが捨てられてしまうかもしれない。単純化し過ぎると、本質を損ねる恐れもある。しかし危うくはあるが、枝葉を削ぎ落とせば幹を露にする効用はある。なにせ森は繁茂しすぎて見分けがつかぬ。歩み込もうにも埒が明かない。ここは一番、蛮勇を振るってみる。

■ 社会保障と税の一体改革
──年金を削って、税金を上げること。
 現在、社会保障費に約90兆円かかっている。内、50兆が年金、医療に30兆、10兆が介護だ。これが10年後には年金65兆、医療50兆、介護20兆、計135兆円と試算されている。
 さて、どうするか。「一体」が曲者だ。社会保障の水準はそのままで税だけ上げる、であればまだしも、値段は上がってキャラメルの数は減りそうだ。さらに消費税上げの格好の口実にされる雲行き。これとて腰砕け。踏んだり蹴ったり。責任者、出て来いだ。いや、もう出て来ないでくれ! 

■ 消費税増税
──打ち出の小槌と勘違いし、被災地からも金を巻き上げること。
 1%が約2.1兆円だ。ベラボウな額でしかも、相手構わないベラボウな税金だ。基幹税との関連、直間比率など全体像を描かないで安易な「増税ありき」では困る。税は民主主義発祥の原点である。最も有効な政策誘導の舵でもある。熟慮を要する。

■ 再生可能エネルギー買い取り法案       
──ソーラーを付けられる金持ちの電気代を隣の貧乏人が払う制度。また、気まぐれ者が考えた気まぐれな電気の、お代だけはキッチリと集金されること。
 今まで何度も触れてきた。最近では先月20日付「羹に懲りて膾を吹く」。参照いただければ、幸甚。

■ 脱原発  
──行き先を決めずに引っ越しをすること。
 最近は減原発ともいう。いずれにせよ行き先が判らぬ。服ではあるまいに、そう簡単に脱いだり着たりできるものではない。
 1000万戸の屋根にソーラーを設置するなどという能天気は、ノー天気の極みだ。鳩ぽっぽクンの温室効果ガス25%削減と大差ない戯言ともいえる。

■ ストレステスト
──辞めろコールのストレスを原発に当て付けること。
 とばっちりは、『万里窮す』だ(7月23日付本ブログ「遊語披露」)。早晩そこら中でストレスは昴(コウ)じ、万事休すは疑いなしである。

■ 国債発行
──国家規模のサラ金借金のこと。
 サラ金のごとく抵当も保証人も要らない。だが必ず返さねばならない。子や孫へ負の財産を残していいものか。この場合、相続放棄はできない。日本の場合、ほとんど国内で引き受けられている。貯蓄も1000兆円ある。しかしそれとて、あと少しだ。EUもアメリカも、国債の問題はいまや先進諸国の悩みの種でもある。

■ TPP(Trans Pacific Pertnership  環太平洋戦略的経済連携協定)
──アメリカ主導の自由貿易圏づくり。
 自由と付けば聞こえはいいが、しっかりした戦略のもとによほど慎重にすすめないと、日本経済はガタガタになる。そこへいくと、貿易の自由化について韓国はいい先達だ。規模の違いはあるが、お手本として学ぶべきではないか(韓国はTPPには不参加)。
 震災対応でいまは沙汰止みになっているが、やがて俎上に戻る。短兵急では事を仕損じる。食ってはみたが、『To(ト)たんにおなかがPP』では薮蛇だ。


 さて、幹まで削ったかもしれない。四捨五入どころか八捨二入、否、九捨一入になってしまった。その一入が核心を穿っていればいいのだが……。皆さまの御高察に俟つほかあるまい。□