望まない転居の思い出と重なり、「上を向いて歩こう」は嫌いな歌だった。他人(ヒト)は明るいと言ったが、わたしは抗しがたい哀音を聴いていた。天の邪鬼といってしまえばそれまでだが、個人的な経験が尋常な感性を塞いでいたのかも知れない。
Eテレの「知恵泉」は秀逸な番組である。歴史には知恵の泉があるという。ウィングは近現代にも及ぶ。今年6月「永六輔」「中村八大」を取り上げ、以後3回再放送された。タイトルは、「日本の“バラエティー”を発信せよ! 永六輔」、「“オリジナリティー”って何だ!? 中村八大」である。
もちろん「上を向いて歩こう」が登場する。いつも穏やかな永六輔が坂本九の歌い方に激怒したそうだ。ロカビリー歌手のアレンジに文字面通りに唄えと言って下がらない。中村八大が必死の説得をしてやっとレコーディングできた。そのエピソードをその場に居合わせたゲストの黒柳徹子が披露した。個性と個性の格闘が名曲を生んだ秘話である。徹子さんがアフリカを訪れた際、極貧に喘ぐ子どもたちが飛び飛びのたどたどしい日本語でこの曲を歌ってくれた、と徹子さんが涙ながらに語った。本年でリリース60年になる。
永が60年安保の挫折を詠い、中村が軽快な曲でデコったのがこの曲だ。「涙」は悔恨のそれだ。「上」を向くのは涙を気(ケ)取られないためだ。だから、明るいはずはない。わたしが聴いた哀音はそれであったろう。
60年前には国内で小児麻痺が猛威をふるい、「ベルリンの壁」が忽然と現れ、ソ連は核実験に手を染めた。「高度経済成長」は始まったばかり。経済に曙光はまだ射してはいなかった。現世(ウツシヨ)も厚い暗雲の下(モト)にあった。
だから、以下の拙稿は訂正せざるを得ない。
〈「悲しい時には明るい曲」は歌いづらい。否、歌えない。悲しみに倍するメンタルの力を要する。「なすがままに」、悲しい時には悲しい曲を。悲哀に塗れて泣くだけ泣けば、やがて薄日が差し込んでくる。と、語りかけている。そう料簡したい。
「悲しい時には明るい曲」の典型は、おそらく『上を向いて歩こう』であろう。「涙がこぼれないように」「上を向いて歩こう」。これが高度成長期を下支えしたエモーションだったのではないか。今日がどんなに辛く悲しくとも、明日はきっとよくなる。そういう時代的風景の中にあった。泣いてる暇なんかなかったのだ。それをいきなり、泣けよと誘(イザナ)われると躊躇してしまう。そういう事情ではなかったか。〉(13年12月「Hey Jude のナゾ」から抄録)
「上を向いて歩こう」は「明日はきっとよくなる」なんて言っていない。明日なぞ見えてはいなかったのだ。「下支えしたエモーション」ではなく、「下支えなきメランコリー」。「『悲しい時には明るい曲』の典型」ではなかった。逆だ。「悲しい時には悲しい曲」を。「Hey Jude」と同じ語りかけだ。
ただ、その「悲しい曲」を八大のメロディーが軽やかに包(クル)み込んで世人を韜晦した。そこに中村八大の天才があった。
今年も行く。「上を向いて歩こう」そのままに。永六輔と中村八大の天才はなんと詠い、どう奏でるだろう。 □
「えぇ!」いつもより遅い帰宅時間に玄関が開き、松葉杖を突いた荊妻が現れた。出勤途中に突如転び、踝(クルブシ)にヒビが入ったという。さして痛まなかったらしくそのまま勤務し、夕方わが家とは指呼の間にある整形医院に蹌踉めき入(イ)ったとの顛末をお告げになる。つまり、「骨折中」だと。「はぁ?」だ。段差にでも引っかかったのか。違う。じゃあ、ダンサーの真似でもしなすったか。それも違う。フラットな歩道で「突如」だと繰り返す。いつものコースのどこかにパワースポットではなく“逆パワースポット”があるのだろうか。いやそうではなく、毎日重圧に苛まれている柔肌のペーブメントが反撃に出たか。おそらく後者であろう。
さて、「骨折中」は変だ。40年くらい前、この「中」が論争を呼んだ。「故障中」が槍玉に挙げられ、主語が人間に限る、瞬間的動作の動詞には使えない。いや、「中」には継続の謂があり使える。いっそ「修理中」なら問題はない。など囂しい詮議が盛り上がったが、その内沙汰止みになった。
白川 静「字統」に拠れば、旗竿を象った文字で中央軍の将が樹(タ)てた軍旗が「中」の字源である。戦場で将の存在を知らしめる道具立てである。告知だ。ならば、故障であることを広く知らしめると捉えれば「故障中」はありだ。
では、「骨折中」は。骨折という瞬間的動作が継続しているのであり、問題なしか。だが、広く知らしめるのは小っ恥ずかしい。やっぱり問題ありか。
事態は問題ありへと展開した。子どもたちに松葉杖を突きVサインでポーズを取った写メなぞ送ったものだから、やいのやいのとテレビ電話が掛かり見舞い品が届き始めた。中には気を利かしたものか、無洗米も。米櫃までわずか6、7メートルの距離であっても『骨折中』が運べるわけはなく、お鉢は連れ合いに。この老体がヒーヒー言いながら10数キロのダンボールを運ぶ破目になった。最近の荷物はやたらダンボール詰めが多い。袋ならまだしも、箱は引っかかりがなくて持ち運びしにくい。おまけにバラバラにしないとゴミ処理ができない。などということを初めて“知らしめ”られた。
向こう三軒両隣では突然の“傷痍兵”の出現に車の便や買い出しをしてくださる人が幾人も。地獄に仏だ。厚い人情は鄙にはまだまだ健在だ。涙が出て来る。
話を聞きつけた友人たちも押っ取り刀で駆けつけ、あれこれの世話を焼いてくれる。まことに持つべきは友だ。涙が滲む。
ほんの1メートルの横移動、たった5、60センチの上下移動が儘ならない。当方への細々とした要求が増える。醤油を調味料入れから取り出し渡す。普段の当たり前が当たり前でなくなる。出し抜けの松葉杖は打ち付けの老老介護に変身した。
あと2ヶ月、もうちょっと。医者はハラスメントを恐れて口が裂けても言わぬが、『逆パワースポットの正体見たり過体重』(字余り、失礼)。とは言うものの、『骨折中』には馬耳東風、足は折れても食欲は折れていない。ケガに打ち勝つためと、食い気全開である。……やっぱり「骨折中」はおかしい。 □
日本漢字能力検定協会が発表する「今年の漢字」は「金」に決まった。『かね』ではあるまい。金メダルに沸いた五輪の『きん』であろう。「金」は4度目の選出で、オリンピックやノーベル賞絡みの話題を象徴する。
以下、
2位「輪」
3位「楽」
4位「変」
5位「新」
6位「翔」
7位「希」
8位「耐」
9位「家」
10位「病」
と並んだ。
「輪」は五輪。「新」、「変」、「病」はコロナ。「耐」は自粛、「家」はテレワーク、「翔」は大谷翔平。「楽」と「希」は気鬱だった世相の裏返しか。
ウィクショナリー日本語版では、「金」の字源は土+ハ(鉱物の意)+今(キン=「含む」をあらわす)から、土中に含まれる鉱物、転じて金属の意味に用いる、とある。白川静先生の「字統」は更に深く、〈当時の金とは青銅のことであり「五色の金(ゴシキノカネ)」の長」とされた〉と説く。「五色の金」は上位から「銅」「金」「銀」「鉄」「鉛」である。エジプト文明以来西洋は金の文化、中国を軸とするアジアは銀の文化だった。IOCも西洋文化の端くれゆえ、最高位を「金」としたのであろう。中国発祥なら、おそらく「銅」「金」「銀」のランク付になっていた。となれば、「今年の漢字」は「銅」だ。金メダル至上主義なぞ止めて、開催国それぞれの「五色の金」に合わせたらどうだろう。もしもインドネシアならレアメタルのニッケルが第1位、なんて面白いのではなかろうか。荒唐無稽と嗤うなかれ。オリンピック至上主義への痛撃にはなる。
財政も今は管理通貨制度だが、文字通り金本位制から始まった。その財政の「財」は宝物の謂である。偏は「貝」偏。日本銀行金融研究所のWebサイトでは、
〈紀元前16世紀から紀元前8世紀、殷・周の時代の中国では、南方海産の「たから貝」が貨幣と して使用された。 この貨幣は貝貨あるいは貝幣と呼ばれる。 たから貝(別名 子安貝)は、布・毛皮・穀物・農具などの実用品、亀の甲羅・玉・金銀など の宝物・装飾品とともに、物品貨幣の1つである。〉
と解説されている。だから、販 貯 貼 貽 賂 賄 賤 賭 購 贈など、貝偏の文字はカネ絡みが多い。
貝といえば、例年隣市の友人からお歳暮にサザエをいただく。漢字は「栄螺」「拳螺」と書く。殻の見た目が「小(ささ)+ 家(いえ)」、つまり「ささいえ」から転訛したという。よく見ると「貝」がない。「虫」だ。古代、サザエは貝ではなく虫とされていたことになる。昆虫食の走りであったか。現代ではサザエ、アワビ共に貝類にカテゴライズされている。
さらにこの「貝」、実は『かい』は訓読みである。音読みは『ばい』だ。甲羅や殻で鎧われた海産物は「介」と呼ぶ。カニやエビは魚貝ではなく魚介である。「介」は鎧をつけた人の形が字源だ。音読みで『かい』、訓では『たす(ける)・ すけ』。物騒なところでは「介錯」、「介護」とくれば老老介護が身に染みる。加えて「仲介」「媒介」、次官の「介(スケ)」などが並ぶ。それゆえ、「魚介」は双方音読みで『ぎょかい』だが、「魚貝」を『ぎょかい』と読むと重箱読みになる。岩波の広辞苑第7版もそうだが、「魚介」だけを見出し語にしている字引も多い。
なおなお、「魚貝」と書くと魚と貝類のみと見做され海産動物の総称としてはふさわしくないとの説もある。魚介であるカニやエビが外される。よって、「魚介」と表記すべきだと。なんとも面倒なことだ。
まあ難しいことはペンディングにして、目を閉じれば岩に打ち付ける波の音、心を擽る磯の香りに満たされて美味しくいただきました。
今年の漢字は「貝」に決まり。 □
親子は一世、夫婦は二世、主従は三世という。おそらく本当の親疎はこの逆であろう。封建の世を維持する関係を重要度に応じて並べるとこうなる。家の存続には養子もあり得たし、夫婦円満に越したことはないが夫婦別れが世の崩壊に直結するわけでもない。現に江戸時代の離婚率は高い家筋の大名・旗本で11.23%という驚異的な数字であった。古諺の狙いは主従だ。これは世の乱れに直結する。下克上が繰り返された戦国乱世の教訓から最も危うい主従の絆を最も高からしめねばならない。だからこの順番になったのではないか。
刻下、トラバーユは常識である。主従なぞ跡形もない。19年度厚労省調査によると離婚率は35%。二世どころか、二分に一組が別れている。残るは親子。こればかりは不動の絆だが、少子化という予期せぬ危機に見舞われている。
その一番深い絆である「親子は一世」が今、身も蓋もなく「親ガチャ」と称される。親子はガチャガチャ・マシンから出て来るカプセルだという。子は親を選べない。無作為、偶然によって格差社会のトポスが決せられる。逆は、親の側から「子ガチャ」という。どちらも殺伐としたものだ。
しかし、恥を忍んで「親ガチャ」を持ち出すほかない。コロナ対策の財源に国債を使うことへのエクスキューズである。
以下、讀賣オンラインから抄録。
〈新型コロナウイルス対策を柱とする2021年度補正予算は20日、参院本会議で与党などの賛成多数で可決、成立した。コロナ病床確保や18歳以下への10万円相当の給付のための費用などが盛り込まれた。コロナ禍の生活困窮者対策となる住民税非課税世帯への現金10万円の給付は、来年春にも本格化する見通しだ。
一般会計の歳出は35兆9895億円で、補正予算としては過去最大となった。財源を確保するため、国の借金となる国債を新たに22兆580億円発行する。
新型コロナ対策には18兆6059億円を計上した。病床確保やワクチン接種体制の整備、治療薬の確保に充てる。住民税非課税世帯への現金給付や、売り上げが減った中小企業への最大250万円の「事業復活支援金」なども盛り込んだ。〉
「国債を新たに22兆580億円発行」、ここだ。これで国債残高は初めて1000兆円を超える。
種別の国債については措く。成長経済が終焉を迎えるとば口にあって、建設国債にせよ将来世代に負担を背負(ショ)わせることに相違はなく、ましてや特例国債(赤字国債)は丸ごと孫子、あるいはその子までも巻き添えにする。だが、コロナ禍は「孫子、あるいはその子までも」の存亡が掛かったクライシスである。大震災と同じだ。危急存亡の時に形振り構ってはいられない。次世代以降税負担が増え社会保障をはじめ財政規模はシュリンクするであろうが、已むを得まい。ここは親が蕩尽した付けが後代に回っても、店(タナ)が潰えれば孫子が路頭に迷ってしまうゆえと得心してもらうほかない。親の因果が子に報う。巡り合わせが悪かったと諦めていただくしかない。もちろん現代法では親子は別人格である。今稿は法律を論じているのではない。一国の歴史的継承について愚考を巡らしている。
かつて高市早苗が「私は戦後に生まれたので、戦争責任を謝罪しろと言われても、私は謝る義理はない」と宣ったことがある。国家的ルサンチマンを一顧だにしない他責的で幼児のごとき発想である。国家という共同体と個人は深い次元で結び合っている。その結び合は「親ガチャ」に起因する根深いものだ。そう、「親ガチャ」なのだ。だからこそ、棒引きされたとはいえ太平洋戦争での膨大な賠償金を課されたのは参戦した人たちだけではなく銃後の人たちを含めた国民全員だった。共謀従犯であっても、応分の戦争責任は負う。そんな単純な理路を理解できない輩が与党の政策責任者の座にある。憑かれたように喚き散らす「台湾有事」よりもっと危ない。
以上、言い訳になっただろうか。一笑に付されることは覚悟で、敢えてエクスキューズしてみた。「親ガチャ」と白眼視されても……とほほ。 □
こんな理不尽が許されていいのか。タイピングする指先に怒りを込めてこの稿を書く。
以下、今月15日付朝日新聞から。
〈森友公文書改ざん巡る国賠訴訟 国側が赤木さん側の請求を認めて終結
学校法人森友学園への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられ、自死した同省近畿財務局職員の赤木俊夫さんの妻・雅子さんが国に損害賠償を求めた訴訟は15日、国側が雅子さん側の請求を受け入れ、終結した。国側は請求の棄却を求めていたが、一転して賠償責任を認めた。雅子さんの代理人弁護士は「改ざん問題が追及されることを避けるため、訴訟を終わらせた」と批判した。
雅子さんの代理人弁護士によると、国側の代理人がこの日、大阪地裁であった非公開の訴訟手続きで、約1億700万円の損害賠償を求めた雅子さん側の請求を「認諾する」と伝えた。認諾は、被告が原告の請求を認めるもので、裁判所の調書に記載されると、確定判決と同じ効力を持つ。〉
先月12日「辞めないワケ」と題して、非価値観政党を糾弾した。
々 25日「辞めるワケ」と題して、再び価値観を持たない政治を批判した。
今月 7日「天下の愚策こそ天下の下劣」と題して、橋下徹と維新の反知性主義を糾した。
今月11日「政治家は事業主か?」と題して、雇調金から政治の株式会社化を指弾した。
今月14日「価値観なき政治」と題して、政治の劣化は価値観なき政治の成れの果てだと難じた。
連続して呵してきたとどの詰りが「認諾」である。PCでいえば『強制終了』どころか、『フォーマット』だ。初期化されたPCはOS、つまり一からやり直さねばならない。裁判も初期化され中身が消えた。逆手に取られたというか、悪辣な関節技にしてやられたというか、唾棄すべき遣り口だ。
財務省は「いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではなく、決裁文書の改ざんという重大な行為が介在している事案の性質などに鑑みた」と説明した。理由にも何もなっていない。裁判の延長がなぜ「適切」ではないのか? 何にとって「適切」ではないのか? この場合、明らかに「適切」ではない人は2人しかいない。安倍と佐川だ。別けても日本史に汚点、いや汚物を残した安倍だ。臭い物には蓋、そのものではないか。
「鑑みた」「事案の性質などに」とは、何を指しているのか? 「事案」とは何で、「性質」とはいかなる性質か? 人ひとりが死んでいる事案である。いい加減な言い訳に丸め込まれるわけにはいかない。大きなお世話だろうが、補足してあげよう。「鑑みた」「事案の性質などに」とは、安倍、麻生両人の政治的延命である。特に「など」が意味深だ。安倍、麻生が『闇将軍、闇副将軍』としてのトポスを誇示し固持するためだ。当て推量と嗤うなかれ。新聞の政治面は毎日のように2匹のゾンビの暗躍を報じている。因みに鈴木財務相は麻生派に属する。
価値観なき政治家には己を超える価値がない。だから、「価値観なき政治」は属人化する。かつ排他的に属人化する。中軸には忖度という不可視な強制力が惹起され、ネポティズムがこれ見よがしに跋扈する。だから赤木氏は理不尽にも見殺しにされたのだ。
ついでにいっておこう。国交省におけるGDP産出にも使われる基幹統計が8年前から書き換えられてきた一件。アベノミクスなる愚策が施行されたのが2012年12月。足かけ9年前だ。「8年前から」がすっぽり入る。効果を偽装するため上げ底したにちがいない。憐れな裸の王様というほかない。己を超える価値なきゆえか。これもまた理不尽の一典型だ。
価値観なき政治にこれ以上毒を吐き続けさせていいものか。参院選は来年だ。 □
円とは平面上の定点0からの距離が等しい点の集合でできる曲線のことと定義される。もちろんそんな完璧な円は実在しない。アタマの中にだけあるものだ。同じく、実在はしないが魂の目をもってすれば認識しうる真理を「イデア」とプラトンは呼んだ。
先月の拙稿「辞めないワケ」で「議員の『辞め度合』という物差し」は「価値観」にあるとし、それは
〈絶対価値である。その政党が抱く理念、目的、価値観、核心的価値、譲歩できない閾値である。レゾンデートルといってもいい。自身を相対化する基軸である。自らの思念や言動を常にリファレンスする規範だ。〉
と記した。今月の「政治家は事業主か?」では「エシカル度合」ともパラフレーズした。しつこいようだが、もう一度視点を変えると「イデア」と代置できるのではないか。
もとよりそんなものが現世(ウツシヨ)に顕れ出(イ)でた例(タメシ)はない。しかし無欠の円がアタマの中で認識し得るがゆえに近似の円が手書きできるように、絶対価値が魂の中で認識し得うるがゆえに近似の振る舞いが可能となる。だから、そのような振る舞いに信憑を措かない者をして下衆と呼ぶ。心が卑しいからだ。哲学とは遙かな懸隔があるからだ。
先日鮮やかに退いたメルケル首相には哲学があった。彼女は講演で「問題は政治や経済以上に精神的な価値観にかかっている」と語っていたそうだ。内外からの批判を押し切って中東からの難民を受け入れたのは政治経済的勘定を超えた「精神的な価値観」ゆえであったろう。引退後は一切の政治的ポストを請けないとする身綺麗さもその価値観からだ。仮病を使って辞任し、今またゾンビのように小汚く蠢動する某国元首相なぞは恥ずかしくて比較にもならない。「美しい国」と喧伝しても「精神的な価値観」無き与太であった証拠だ。
繰り返しになるが、数学的に定義される「点」も「線」も現実には存在しない。だが、あるという前提で精緻な設計図が引かれ建物が作られる。哲学的に定義される「価値観」も現実には存在しない。だが、あるという前提でさまざまな起案がなされ施策が練られる。 肌が粟立つような近年の政治劣化は「価値観」の不毛がもたらしたものだ。価値観を持たない政党が跋扈した結末だ。
科学的実験は社会現象には不向きだ。では、社会をどうやって認識するか。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが提唱したのが「理念型」という定点を措定する方法だ。現実には純度100%のものはないが、とりあえず純度100%の理念があるとしてそこからの距離を測る。完璧な二刀流はないが、仮にベーブルースを100%の二刀流として理想に据える。大谷翔平が二刀流の完成にベーブルースを理想としてどこまで近づけるか。そういう方法論である(実際は違うだろうが、譬えとして)。
「価値観」も「理念型」も持ち合わせない政治のなんと貧困なことか。とはいっても産みの親はわれわれ国民だ。こちらが変わらないことには何も始まらない。 □
「公正な手続きに則った受給だが、首相の職務遂行に迷惑を掛けるのは本意ではない」と石原のあんちゃんが官房参与を辞めた。親父譲りか大物ぶるくせに尻軽な浮薄男がやらかした大ちょんぼだ。それにしても僅か1週間、事実はマンガより珍なりだ。
「公正な手続きに則った受給」とはあんちゃんならいかにも口走りそうな言い草だが、腑に落ちないのはなぜ政治団体が雇調金の受給対象になるのかということだ。さらには何十回も申請書類の不備を理由に行政から突き返される“不備ループ”が横行する最中で早々に給付がなされたことにも一驚を喫するが、それは措いておこう。
厚労省のHPによると
〈雇用調整助成金とは、「新型コロナウイルス感染症の影響」により、「事業活動の縮小」を余儀なくされた場合に、従業員の雇用維持を図るために、「労使間の協定」に基づき、「雇用調整(休業)」を実施する事業主に対して、休業手当などの一部を助成するものです。〉
とある。「事業活動」、「縮小」、「従業員」、「雇用維持」、「労使間」、「雇用調整(休業)」、「休業手当」いずれも政治団体や政党支部とは違和感がある。いや違和感を超えて異質としかいいようがない。民は太っ腹、1日でも文通費100万円満額支給はむしろ納得できる(真摯に励むなら)。しかし政治団体に雇調金は得心いかない、腑に落ちない。
余談ながら、当選後の初登院で議員が議事堂に向かって一斉にお辞儀をする。あれはおかしい。門の外に向かってすべきだ。選んでくれた国民にこそ叩頭すべきではないか。
片や、自民党の大岡環境副大臣は「(政治家ではなく)雇用主として受給を判断した。手続きは適正で、不適切なことはない」と違法性を否定した上で返金すると表明した。こいつもおかしい。同じ穴の狢だ。加えて、「雇用主として」が気に障る。お前は「私企業からの隔離」を定めた国家公務員法103条を知らないのか。そこには「自ら営利企業を営んではならない」と、明確に兼業禁止が定められている。なのに「雇用主として」と平気で公言する、その不見識、非常識。この程度の者しか自民党にはいないのか。ああ、情けない。
大きく掴めば、政治が株式会社化した成れの果て。深く掴めば、価値観なき政党の本質露呈である(先月の拙稿『辞めないワケ』で述べた)。
そうだ、もう一匹、いやもう30匹同じ穴の狢がいた。大阪市長で日本維新の会代表の松井のおっちゃんが今月、衆院大阪選挙関係者約30人と「反省会」と称して2時間半以上の会食をしていたことが判明した。おっちゃんは会見で「(府・市で定めた)ルールを破ったとまでは思っていない。会食時間が2時間を超えたことについては「市民から、お叱りがあるかもしれない」と言い訳をした。2時間以内だったらOKだったとでも言う積もりなのか。さらに「反省すべきとこかなぁと思ってますけどね」とも宣った。
おっちゃん、それはちゃうでー。何度も記してきたが、公人には市民としての私権行使は許されない。この政道の基底的鉄則をおっちゃんは間違いなく知らない。
『辞めないワケ』では〈議員の『辞め度合』という物差しがあるとすると、その度合が一番低いのは自民党であろう。次いで維新。立民、国民ときて、最も高い政党は公明、共産にちがいない。〉と呵した。パラフレーズすると、『エシカル度合』となろうか。石原のあんちゃんがズッコケ、大岡某がつづき、松井のおっちゃんが極めつきのボケ。『逆エシカル』三人衆の揃い踏みだ。 □
18歳以下の子どもへの10万円給付を現金5万円とクーポン5万円に分けて支給する。現金給付だけだと事務作業費が300億円、現金だけでなくクーポンと2回に分けたことで事務費が約900億円増え、1200億円になる。──これを橋下徹を筆頭に吉村知事、松井市長が「天下の愚策」「愚策中の愚策だと批判している。維新の会も声を揃え、他の野党も一斉に追随している。
だが、こう考えてはどうだろう。アフリカの奥地で飢餓が発生。緊急に食料を送るため、紛争地を避けて複雑なルートを取らざるを得ず輸送費が予想外に掛かることになった。さて、輸送費がもったいないから食料の輸送は止めるのか? そんなバカな。送るべきものは送らねばならない。単に事務作業費がかさむことだけにフォーカスして目的を矮小化する狡いロジックである。
さらに橋下は意図的に触れないのだろうが、10万円給付の総額は1.2兆円。それだけの大きな事業に経費も比例して増えるのは当たり前ではないか。例えば住宅建設の場合、諸経費の比率は工事費の10%から20%の間が多い。1.2兆の10%は1200億円。「1200億円」はリーズナブルといえる。
吉村知事は「国民、納税者をばかにした話だ。900億円の税金を納めることがどれだけしんどいことか、よく考えてもらいたい」「完全な愚策だ。やめてもらいたい」と宣った。彼は日本の子ども貧困率が13.5%(17歳以下、18年時点)、7人に1人が食うに食えない状態にあり、さらに1人親世帯では48.1%と一気に跳ね上がる実態を知っているのであろうか。GDP世界第3位のこの国で税金が真っ当に回っていないのだ。その眼前の理不尽には触れず、局所的な課題を意図的に拡大する。物事の多面性や複雑性を捨象して知的負荷が掛からない“一刀両断”を演じてみせる。大衆を舐めきった阿漕な遣り口だ。そんなポピュリズムの手管に騙されてはならない! 件(クダン)の吉村君の言い草、熨斗を付けて君に返そう。「国民、納税者をばかにした話だ。900億円の税金をどう回すかどれだけしんどいことか、よく考えてもらいたい」「完全に下劣な批判だ。やめてもらいたい」と。
「900億円あったら給付額を増やせばいい」とも聞く。これはトートロージーの罠だ。事務作業費の比率は変わりない。事業規模が増えれば同じ比率で増加する。無責任な与太だ。まとめると、こうなる。
「天下の愚策」批判は「天下の下劣」「下劣中の下劣」批判。
思想家 内田 樹氏は維新の反知性主義をこう抉る。
「大阪の生活人的な批評性の良質なかたちが司馬遼太郎と田辺聖子だとすると、その劣化したかたちが、維新の反知性主義だということは言えると思う。あれは大阪の文化的深層に根を持つものですから。」(「『アジア辺境論』これが日本の活きる道」から)
権威を見下す「生活人的な批評性」が歪に露出したものが「維新の反知性主義」ということか。ともあれ、為にする批判のための批判はとっとと「やめてもらいたい」! □
「私は飛行士になった最初の日から『宇宙は人間をどう変えるのか』といった問題に関心があります。日本の7人の現役宇宙飛行士で、こうした哲学的な問題をライフワークと考えているのは私一人だと思います」
この発言には目を見張った。かつてUFOブームのころ抱いていた「UFOを見た、乗った、宇宙人と接触した人の人生がどう変わったのか? 真否よりもそれを知りたい」という問題意識に直結するからだ。
先月12日、野口聡一宇宙飛行士が朝日新聞のインタビューに登場した。3回目、半年間の宇宙滞在。5月に無事帰還した。56歳にして「4回目、5回目のチャンスはきっとあると思っている。準備はしっかりと続けていく」と意欲を示した。「太平洋独りぼっち」から60年、来年、太平洋単独無寄港横断に世界最高齢で挑戦する堀江謙一さんに重なる。
ドーパミンD4受容体遺伝子が欧米人には数多く存在し、挑戦を賛美する気風の根源となっていると脳科学者 中野信子氏は分析する。だが両氏は違う。日本人にもドーパミンを劣らず、いやそれ以上多量に持ち合わせているサピエンスがいるということか。
東京大学工学部卒の飛行士が通算滞在時間344日9時間34分の宇宙で「哲学的な問題」解明への端緒を掴んだのか? 無重力に触れる中で、宇宙時代には言葉が変わるかも知れないと言う。
「例えば、『上下関係』という規範も意味がなくなるかもしれません。『大地に根を下ろす』という言葉は、植物の生態からの比喩です。無重力空間では水を吸収でき、光合成を行える場所なら、どこでもその方向へ根は伸びる。重力に基づく言葉は無重力では実態と離れてしまいます」(同インタビューから抄録、以下同様)
即物的だと片づけるのは浅慮に過ぎよう。フィジカルな発想を持たない俚諺が生まれるはずはないし、継承された例しもないからだ。
さらに、こう繋いだ。
「宇宙に飛び立つと、何かが欠けていきます。家族や友人との距離は離れるし、燃料も減る。重力も食べ物も制限される。船外活動で夜には視覚もなくなる。つまり、宇宙は永遠に続く『引き算の世界』であり、最後に残ったものとどう折り合うかが問題になります。結局、私たち人類に必要なものは全部地球にある。宇宙に行くと、地球がパラダイスであるという真実をよく理解できます」
「パラダイスから引き算が繰り返されるのが宇宙」とは、環境運動家のクリシェに比してなんと新鮮なことか。
地球の色が「青かった」というより、その「圧倒的なまぶしさに驚いた」そうだ。“パラダイス”は眩しい。色の判別を超えて、もう一つの巨大な宇宙船が偉容を誇っているのであろうか。
その眩さの対極にあるのが「真っ黒な世界である宇宙」。その「黒」とは、
「地上の黒は、反射した光の色からの黒です。でも宇宙では、光は永遠に真っ暗な世界に吸い込まれたまま、戻ってきません。だから、漆黒と言っても色とは違う。何もない黒です」
「何もない黒」とは想像を絶するが、背筋が凍り付く気配は想像がつく。
「船外活動で、身ひとつで宇宙空間に出て行くのは、この世とあの世の間に流れる『三途の川』を渡るような感覚、と表現できるのかもしれません」
これは日本人の死生観にフィットする表現だ。船内と船外、一度わたれば帰れない生死の一線を宇宙飛行士の目がありありと捉えた。あるいは、生と死が薄皮1枚でオルタナティブに連続する死生観か。
作業場となった「中心部から約50メートル手すりを頼りに歩いた船体のいちばん先」、
「手すりの端を持って身を乗り出すと、目に見えるのは何もない世界、生命の存在を許さない完全なる死の世界です。気配もないし、音もない。命ある文明社会とつながっているのがぼくの左手だけだと実感しました。指先だけで手すりとつながっているから『生と死の境界点』とも言えます」
「指先が『生と死の境界点』」とは絶妙な言葉遣いだ。文系宇宙飛行士の面目躍如である。
宇宙は近づいたか? 古稀を超えた翁には無縁だが、孫やひ孫の代にはきっと日常化する。往来は措くとしても宇宙産食品や薬品、工業品が生まれ、社会のシステムが宇宙と連結されるだろう。軍事的覇権の舞台は宇宙空間に移っているかもしれない。悪い予感だが……。
その時、孫やひ孫たちも21C初頭の文系宇宙飛行士が抱いた「哲学的な問題」を問い続けていてほしい。そう希うばかりだ。 □