本年5月11日付本ブログ「『お言葉』を拝して」で、裁判員制度に異を唱えた。欠片の主張 その5。 〓裁判員制度は中止しよう! 裁判のコンピューター化に本格的に取り組もう〓 と。コンピューター化はさて置き、繰り返しになるがその要点を列記してみる。
◆明らかに一周も二周も遅れている。下手をすれば、時代錯誤、とんでもない先祖返りかもしれない。
◆本質的には市民化がなぜ必要なのかということだ。
◆裁判員制度には、刑法の原則から考えて疑義がある。司法の独立を認め、職業裁判官に特化して付与した権能だからこそレギュレーションを掛けているのだ。その権能に不特定の市民が介在することは、刑法の対象が拡散する結果にならないか。本来、特権と制約はセットの筈だ。裁判員の登場は両者のバランスに齟齬をきたさないか。
◆法の整合性に疑問が湧く。
◆「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の責任の希釈化なのか。
◆刑事裁判での99%という異常な有罪率への目眩ましか。
◆ひとつ穿って考えれば、憲法改正への陽動作戦かもしれぬ。
◆疑わしきは罰せずの伝で、疑わしきは進まずの慎重さが必要だ。市民感覚なる漠たるものの代償に、法秩序をはじめ失うものが余りにも多すぎはしないか。
◆複雑系の社会だからこそ、エキスパートが挨たれる。必要なのは市民感覚ではなく、専門知識であり、厳正なジャッジメントだ。「1000人の罪人を逃がすとも、1人の無辜を刑するなかれ」と、格言は戒める。
◆裁判員制度は「裁判員法」に準拠する。なぜ刑法に裁判員制度を追記しないのか。刑法を変えずに、刑事裁判のあり方を変える。これも腑に落ちない。
◆性悪の前提に立つがゆえに、法は人的要素を極限まで削ぎ落とそうとする。徳治など欠片も残すまいとする。それが法治の在り方だ。そのベクトルに裁判員制度は明白に逆行する。人民裁判や陶片追放へのバイアスは寸毫も許してはならない。
さて、我が意を得たりどころか、我が意を全うしてくれる書籍が出た。講談社現代新書「裁判員制度の正体」である。今月20日初版のホヤホヤだ。著者は西野 喜一氏。東大法学部卒、元判事で現在新潟大学教授。専門誌に掲載した論文が好評で、ぜひ一般向けにとの要望に応えた。なるほど、解りやすい。かつ丁寧で親切だ。この制度の愚昧、狡猾、なにより怖さが判然と了解できる。曰く『現代の赤紙』なのだ。一握りの人々を除いて、この場合男女を問わずほとんどの国民が『召集』される可能性がある。軽挙妄動はいけない。先ずは何よりその『正体』をしっかと掴んでおかねばなるまい。ご一読を薦めたい。さらに『徴兵を免れたい』と願う人には必読の一書でもある。(最終章に、赤紙逃れが伝授されている)
本書への誘(イザナ)いとして、ポイントを抄録してみる。長くなるが、緊要な問題ゆえどうか精読願いたい。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1.【無用な制度 ―― 誰も求めていないのに】裁判員制度は、これを実施しなければならない必然性がない無用な制度だということです。
一定以上の重大犯罪に関する刑事裁判の一審について裁判員が加わる。他方、軽い刑事事件のほか、民事事件、行政事件、少年事件、家事事件などにはこの制度は適用されません。まず、対象範囲を普通の庶民にはもっとも縁が遠いような事件に限定した意味が問題となるでしょう。これからすると、政府は、いままでこういう重大刑事事件の裁判では「健全な社会常識」が反映されなかったと、言っていることになりそうですが、はたしてそうでしょうか。
政府や最高裁は、裁判官だけの高裁の審理がその後にちゃんと控えているのだから、裁判員が入った一審でおかしな判決が出ても心配することはない、と考えている可能性も十分にあります。結局、裁判員制度の理念といっても所詮その程度のものなのだということかもしれません。そして、もし仮にそうであるなら、どうしても裁判員制度を導入しなければならないという必然性はもうないも同然なのです。
裁判にとって国民参加が必要なものであるとか、望ましいものであるというその前提がまず誤っているわけです。わが国では、抽選で集めただけの素人に被告人の運命を委ねるという素朴な段階を脱し、証拠にもとづいて専門家に担当させるという合理的な方策を採用しているので、むしろわが国のやり方こそ進んだ訴訟方式であるという見方も十分できるのです。医療にたとえれば、呪術や民間療法に頼る時代を抜け出し、専門家に任せる段階になっているということなのです。陪審制を採用している諸国でも、陪審に判断を委ねる事項はだんだん減らされ、専門家のみが判断する傾向が強まっていることはその表われといえるでしょう。
2.【違法な制度 ―― 憲法軽視の恐怖】この制度は、わが国の骨格を定めた日本国憲法に違反する違法な制度だということです。
憲法第三十二条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と定めています。どんな人でも憲法第六章で定めているような裁判所での裁判を受ける権利を奪われることはない、ということでしょう。そして、裁判官についてのみ規定があって、参審(や陪審)に関する規定はまったくないだけでなく、裁判官は独立であって、憲法と法律にのみ拘束されると書いててあるのです。裁判官のほかに裁判員も加わって一緒になって被告人の運命を決めるという制度がこの憲法に反することは明らかです。
裁判官グループと裁判員グループとで意見を異にした場合には、被告人は無罪となります。裁判官全員が有罪を確信している場合でも、裁判員が皆反対であるという理由で、無罪判決を書いてそれを言い渡さなければならないということになるわけです。こういう事態になってもかまわないと言っているこの制度が、裁判官は独立で、憲法および法律に「のみ」拘束される、とするこの条項に反することは明白でしょう。
3.【粗雑な制度 ―― 粗雑司法の発想】この制度は、手抜き審理が横行する可能性がある粗雑な制度だということです。
およそ世のなかでくじで決めてよいのは、結果がどちらに転んでもかまわないというものだけです。たとえば会社でも役所でも個人の営業でも、人を雇用するのに応募者のなかからくじで決めようなどということは、いったいどんな人が選ばれることになるのか、恐しくて誰もできないでしょう。
裁判員の負担を考慮した審理の手抜き。いままで五回、十回かかっていた公判を、裁判員でも堪えられるよう無理にでも「数回以内」に抑えようというのがこの裁判員制度なのです。重大事件の被告人は、裁判員制度のために、そうでない軽い事件の被告人より審理が粗雑になるという危険性が本当にあるのです。
4.【不安な制度 ―― 真相究明は不可能に】この制度は、事案の真相の追求が図られなくなる恐れがある、不安な制度だということです。
直接的な証拠は何もなく、状況証拠を積み重ねて細かい事実(間接事実)を一つ一つ立証してゆき、その間接事実から合理的な推理を展開して、犯罪事実の有無を証明しなければならないという事件もたくさんあるのです。こういう推理、判断の技術は、合理的な思考のほか、訓練と経験によって身についてゆくものです。裁判官に高給を払っているのは、医師やその他の専門家に対する高額の報酬同様、その思考、訓練、経験のためだといってもよいでしょう。しかし、裁判員は、特別の資格、要件なしで、そして当該事件限りで集められた人たちですから、合理的な思考能力はその人次第とはいえ、訓練や経験とはまったく縁がないのです。そして何よりも、刑事裁判で問題となっているのは、犯罪というきわめて非日常的で、特殊な現象であることを忘れてはなりません。それでもなお彼らの証拠評価や推理に信頼が置けると考えるのはよほど楽観的な人としか思えません。「餅は餅屋」ということわざがあるとおり、専門的なことは専門家に任せるのが当たり前のことです。病気を治そうとする場合には誰でも専門の医師に任せるわけです。今日から素人も加わって判断する、と言われたら、病人も(無実の)被告人も震え上がるでしょう。
5.【過酷な制度 ―― 犯罪被害者へのダブルパンチ】この制度は、公判のあり方自体において、被告人にも、犯罪被害者にも辛く苦しい思いをさせる過酷な制度だということです。
6.【迷惑な制度 ―― 裁判員になるとこんな目に遭う!】この制度は、費用がかかり過ぎる浪費の制度だということです。
この秘密維持の義務(違反すると「六月以下の懲役又は、五十万円以下の罰金」)はいつまでも終わらず、死ぬまで続きます。立法段階で、これでは裁判員をつとめた者は晩酌もできないと言われ、こんな刑罰で威嚇しなければならないほど国民が信用できないのなら、裁判員制度など止めてしまえという議論になりました。
自白事件で平均四回、否認事件で平均十回ということになりますから、仮に公判を連続開廷としても、四回ということは一週間の平日がほとんど全部潰れるということであり、同様に十回ということは丸々二週間かかるということになります。いずれにしても職業を持っている国民にとってはたいへんな負担であることに変わりはありません。
労働者の場合には、裁判員であったことを理由に不利益を課してはならないという条文(だけ)はあるが、自営業者の場合にはもちろんそのような規定はありません。これでは零細自営業者は裁判員をやって勝手に倒産しろと言っているようなものです。
仮に有罪であることが明々白々な事件であっても、そしてあなたが死刑廃止論者でないとしても、一人の人を死刑台に送ったということは、普通の人であれば、その後もずっと大きな精神的負担、心の傷として残るのではないでしょうか。
裁判員はその候補者時代から、義務教育終了の有無、前科前歴、心身の故障の有無・程度、当該犯罪や被告人との関係、合理的な思考能力の有無・程度、犯罪やこれに対抗する国家権力に対する思考・思想など、場合によっては行動形態や趣味嗜好にいたるまで、徹底的に調べられると思わなければなりません。また、裁判員を逃れるために、本当は隠しておきたかった自分の事情や家庭の状況を自分で説明しなければならなくなることもありえるでしょう。
7.【この「現代の赤紙」から逃れるには】この制度は、裁判員に動員される国民の負担があまりにも大きい迷惑な制度だということです。この制度は、国民動員につながる思想をはらんだ危険な制度だということです。
陪審にせよ、参審にせよ、刑事司法に国民を参加させる制度を有している国の大部分は、徴兵制を有しています。これらの諸国はいずれも、国民に対し、国のため、おまえたちの生命・生活を投げ出せ、と言える体制、思想を持っています。そういうシステムの一環として、それぞれの生活、仕事を放擲して裁判所に来て、刑事裁判に協力せよと言っているわけなのです。裁判員制度を実行しようという発想の根拠には、国民はもっと国のために奉仕すべきだという思想があることは当然です。そうでなければ、これほど国民に迷惑をかける制度を実行できるはずがありません。この裁判員制度に徴兵制へいたる道を心配する意見もあるということは知っておいてもらう意味があると思われます。仮に裁判員制度を強行すれば、いずれ政府が国民に対し、もっと国家のために働け、個人の利害より国家の利害の方が重要だ、と言うことはいまよりずっと容易になるでしょうし、国民の側でもそれを受け入れる土壌がいまよりずっと成長するでしょう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ことの起こりは、平成十一年に始まった司法制度改革審議会であった。戦後半世紀を経て、司法を抜本的に見直そうということだ。意気込みはよしとするが、法律専門家を半数以下にした構成にまず問題ありきだった。対象分野は極めて専門的、技術的である。かつ死活に関わる。八百屋を集めて肉の詮議をするようなものだ。案の定、ファナティックな『陪審論者』に鼻っ面を引き回された。出てきた結論が上記のごとき『薮蛇』である。
なお、「判断」での多数決の採り方や罰則規定については煩雑なので割愛した。本書に当たっていただきたい。ただ一点、罰金は前科になることだけは忘れてはならない。裁判員が増えて前科者が巷に溢れる。ウソのような話が、すぐそこだ。
繰り返そう ―― 欠片の主張 その5。 〓裁判員制度は中止しよう!〓 □
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◆明らかに一周も二周も遅れている。下手をすれば、時代錯誤、とんでもない先祖返りかもしれない。
◆本質的には市民化がなぜ必要なのかということだ。
◆裁判員制度には、刑法の原則から考えて疑義がある。司法の独立を認め、職業裁判官に特化して付与した権能だからこそレギュレーションを掛けているのだ。その権能に不特定の市民が介在することは、刑法の対象が拡散する結果にならないか。本来、特権と制約はセットの筈だ。裁判員の登場は両者のバランスに齟齬をきたさないか。
◆法の整合性に疑問が湧く。
◆「赤信号、みんなで渡れば怖くない」式の責任の希釈化なのか。
◆刑事裁判での99%という異常な有罪率への目眩ましか。
◆ひとつ穿って考えれば、憲法改正への陽動作戦かもしれぬ。
◆疑わしきは罰せずの伝で、疑わしきは進まずの慎重さが必要だ。市民感覚なる漠たるものの代償に、法秩序をはじめ失うものが余りにも多すぎはしないか。
◆複雑系の社会だからこそ、エキスパートが挨たれる。必要なのは市民感覚ではなく、専門知識であり、厳正なジャッジメントだ。「1000人の罪人を逃がすとも、1人の無辜を刑するなかれ」と、格言は戒める。
◆裁判員制度は「裁判員法」に準拠する。なぜ刑法に裁判員制度を追記しないのか。刑法を変えずに、刑事裁判のあり方を変える。これも腑に落ちない。
◆性悪の前提に立つがゆえに、法は人的要素を極限まで削ぎ落とそうとする。徳治など欠片も残すまいとする。それが法治の在り方だ。そのベクトルに裁判員制度は明白に逆行する。人民裁判や陶片追放へのバイアスは寸毫も許してはならない。
さて、我が意を得たりどころか、我が意を全うしてくれる書籍が出た。講談社現代新書「裁判員制度の正体」である。今月20日初版のホヤホヤだ。著者は西野 喜一氏。東大法学部卒、元判事で現在新潟大学教授。専門誌に掲載した論文が好評で、ぜひ一般向けにとの要望に応えた。なるほど、解りやすい。かつ丁寧で親切だ。この制度の愚昧、狡猾、なにより怖さが判然と了解できる。曰く『現代の赤紙』なのだ。一握りの人々を除いて、この場合男女を問わずほとんどの国民が『召集』される可能性がある。軽挙妄動はいけない。先ずは何よりその『正体』をしっかと掴んでおかねばなるまい。ご一読を薦めたい。さらに『徴兵を免れたい』と願う人には必読の一書でもある。(最終章に、赤紙逃れが伝授されている)
本書への誘(イザナ)いとして、ポイントを抄録してみる。長くなるが、緊要な問題ゆえどうか精読願いたい。
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1.【無用な制度 ―― 誰も求めていないのに】裁判員制度は、これを実施しなければならない必然性がない無用な制度だということです。
一定以上の重大犯罪に関する刑事裁判の一審について裁判員が加わる。他方、軽い刑事事件のほか、民事事件、行政事件、少年事件、家事事件などにはこの制度は適用されません。まず、対象範囲を普通の庶民にはもっとも縁が遠いような事件に限定した意味が問題となるでしょう。これからすると、政府は、いままでこういう重大刑事事件の裁判では「健全な社会常識」が反映されなかったと、言っていることになりそうですが、はたしてそうでしょうか。
政府や最高裁は、裁判官だけの高裁の審理がその後にちゃんと控えているのだから、裁判員が入った一審でおかしな判決が出ても心配することはない、と考えている可能性も十分にあります。結局、裁判員制度の理念といっても所詮その程度のものなのだということかもしれません。そして、もし仮にそうであるなら、どうしても裁判員制度を導入しなければならないという必然性はもうないも同然なのです。
裁判にとって国民参加が必要なものであるとか、望ましいものであるというその前提がまず誤っているわけです。わが国では、抽選で集めただけの素人に被告人の運命を委ねるという素朴な段階を脱し、証拠にもとづいて専門家に担当させるという合理的な方策を採用しているので、むしろわが国のやり方こそ進んだ訴訟方式であるという見方も十分できるのです。医療にたとえれば、呪術や民間療法に頼る時代を抜け出し、専門家に任せる段階になっているということなのです。陪審制を採用している諸国でも、陪審に判断を委ねる事項はだんだん減らされ、専門家のみが判断する傾向が強まっていることはその表われといえるでしょう。
2.【違法な制度 ―― 憲法軽視の恐怖】この制度は、わが国の骨格を定めた日本国憲法に違反する違法な制度だということです。
憲法第三十二条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と定めています。どんな人でも憲法第六章で定めているような裁判所での裁判を受ける権利を奪われることはない、ということでしょう。そして、裁判官についてのみ規定があって、参審(や陪審)に関する規定はまったくないだけでなく、裁判官は独立であって、憲法と法律にのみ拘束されると書いててあるのです。裁判官のほかに裁判員も加わって一緒になって被告人の運命を決めるという制度がこの憲法に反することは明らかです。
裁判官グループと裁判員グループとで意見を異にした場合には、被告人は無罪となります。裁判官全員が有罪を確信している場合でも、裁判員が皆反対であるという理由で、無罪判決を書いてそれを言い渡さなければならないということになるわけです。こういう事態になってもかまわないと言っているこの制度が、裁判官は独立で、憲法および法律に「のみ」拘束される、とするこの条項に反することは明白でしょう。
3.【粗雑な制度 ―― 粗雑司法の発想】この制度は、手抜き審理が横行する可能性がある粗雑な制度だということです。
およそ世のなかでくじで決めてよいのは、結果がどちらに転んでもかまわないというものだけです。たとえば会社でも役所でも個人の営業でも、人を雇用するのに応募者のなかからくじで決めようなどということは、いったいどんな人が選ばれることになるのか、恐しくて誰もできないでしょう。
裁判員の負担を考慮した審理の手抜き。いままで五回、十回かかっていた公判を、裁判員でも堪えられるよう無理にでも「数回以内」に抑えようというのがこの裁判員制度なのです。重大事件の被告人は、裁判員制度のために、そうでない軽い事件の被告人より審理が粗雑になるという危険性が本当にあるのです。
4.【不安な制度 ―― 真相究明は不可能に】この制度は、事案の真相の追求が図られなくなる恐れがある、不安な制度だということです。
直接的な証拠は何もなく、状況証拠を積み重ねて細かい事実(間接事実)を一つ一つ立証してゆき、その間接事実から合理的な推理を展開して、犯罪事実の有無を証明しなければならないという事件もたくさんあるのです。こういう推理、判断の技術は、合理的な思考のほか、訓練と経験によって身についてゆくものです。裁判官に高給を払っているのは、医師やその他の専門家に対する高額の報酬同様、その思考、訓練、経験のためだといってもよいでしょう。しかし、裁判員は、特別の資格、要件なしで、そして当該事件限りで集められた人たちですから、合理的な思考能力はその人次第とはいえ、訓練や経験とはまったく縁がないのです。そして何よりも、刑事裁判で問題となっているのは、犯罪というきわめて非日常的で、特殊な現象であることを忘れてはなりません。それでもなお彼らの証拠評価や推理に信頼が置けると考えるのはよほど楽観的な人としか思えません。「餅は餅屋」ということわざがあるとおり、専門的なことは専門家に任せるのが当たり前のことです。病気を治そうとする場合には誰でも専門の医師に任せるわけです。今日から素人も加わって判断する、と言われたら、病人も(無実の)被告人も震え上がるでしょう。
5.【過酷な制度 ―― 犯罪被害者へのダブルパンチ】この制度は、公判のあり方自体において、被告人にも、犯罪被害者にも辛く苦しい思いをさせる過酷な制度だということです。
6.【迷惑な制度 ―― 裁判員になるとこんな目に遭う!】この制度は、費用がかかり過ぎる浪費の制度だということです。
この秘密維持の義務(違反すると「六月以下の懲役又は、五十万円以下の罰金」)はいつまでも終わらず、死ぬまで続きます。立法段階で、これでは裁判員をつとめた者は晩酌もできないと言われ、こんな刑罰で威嚇しなければならないほど国民が信用できないのなら、裁判員制度など止めてしまえという議論になりました。
自白事件で平均四回、否認事件で平均十回ということになりますから、仮に公判を連続開廷としても、四回ということは一週間の平日がほとんど全部潰れるということであり、同様に十回ということは丸々二週間かかるということになります。いずれにしても職業を持っている国民にとってはたいへんな負担であることに変わりはありません。
労働者の場合には、裁判員であったことを理由に不利益を課してはならないという条文(だけ)はあるが、自営業者の場合にはもちろんそのような規定はありません。これでは零細自営業者は裁判員をやって勝手に倒産しろと言っているようなものです。
仮に有罪であることが明々白々な事件であっても、そしてあなたが死刑廃止論者でないとしても、一人の人を死刑台に送ったということは、普通の人であれば、その後もずっと大きな精神的負担、心の傷として残るのではないでしょうか。
裁判員はその候補者時代から、義務教育終了の有無、前科前歴、心身の故障の有無・程度、当該犯罪や被告人との関係、合理的な思考能力の有無・程度、犯罪やこれに対抗する国家権力に対する思考・思想など、場合によっては行動形態や趣味嗜好にいたるまで、徹底的に調べられると思わなければなりません。また、裁判員を逃れるために、本当は隠しておきたかった自分の事情や家庭の状況を自分で説明しなければならなくなることもありえるでしょう。
7.【この「現代の赤紙」から逃れるには】この制度は、裁判員に動員される国民の負担があまりにも大きい迷惑な制度だということです。この制度は、国民動員につながる思想をはらんだ危険な制度だということです。
陪審にせよ、参審にせよ、刑事司法に国民を参加させる制度を有している国の大部分は、徴兵制を有しています。これらの諸国はいずれも、国民に対し、国のため、おまえたちの生命・生活を投げ出せ、と言える体制、思想を持っています。そういうシステムの一環として、それぞれの生活、仕事を放擲して裁判所に来て、刑事裁判に協力せよと言っているわけなのです。裁判員制度を実行しようという発想の根拠には、国民はもっと国のために奉仕すべきだという思想があることは当然です。そうでなければ、これほど国民に迷惑をかける制度を実行できるはずがありません。この裁判員制度に徴兵制へいたる道を心配する意見もあるということは知っておいてもらう意味があると思われます。仮に裁判員制度を強行すれば、いずれ政府が国民に対し、もっと国家のために働け、個人の利害より国家の利害の方が重要だ、と言うことはいまよりずっと容易になるでしょうし、国民の側でもそれを受け入れる土壌がいまよりずっと成長するでしょう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ことの起こりは、平成十一年に始まった司法制度改革審議会であった。戦後半世紀を経て、司法を抜本的に見直そうということだ。意気込みはよしとするが、法律専門家を半数以下にした構成にまず問題ありきだった。対象分野は極めて専門的、技術的である。かつ死活に関わる。八百屋を集めて肉の詮議をするようなものだ。案の定、ファナティックな『陪審論者』に鼻っ面を引き回された。出てきた結論が上記のごとき『薮蛇』である。
なお、「判断」での多数決の採り方や罰則規定については煩雑なので割愛した。本書に当たっていただきたい。ただ一点、罰金は前科になることだけは忘れてはならない。裁判員が増えて前科者が巷に溢れる。ウソのような話が、すぐそこだ。
繰り返そう ―― 欠片の主張 その5。 〓裁判員制度は中止しよう!〓 □
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