伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

富岡製糸場 世界遺産へ

2014年04月30日 | エッセー

 「富岡製糸場 世界遺産へ」のニュースに接した時、「女工哀史」はどうするんだと、疑念が湧いた。
 富岡製糸場は維新直後に当時の花形産業のパイオニアとして官立された。フランス人が指導し、労務面でも時代に先駆けて充実していた。1日8時間労働、夏冬の長期休暇などを定めた就業規則があり、病院も備えていた。福沢諭吉の書翰に「富岡行の工女一同 無事一昨十八日 着京」とある女工たちも元武家や官吏の処子で、全国への技術伝播を託されたエリートであった。だから、「女工哀史」とはまったく趣を異にする。
 「哀史」の女工は貧農層の子女であり、労働は劣悪を極めた。戸主が受け取った約定金という名の借金を返すために働いた。貧困対策を逆手に取り、富国強兵に駆り出された消耗品としての労働力であった。『あゝ野麦峠』の世界である。今でいうブラック企業の走りかもしれない。富岡と岡谷では、雲泥の差があった。
 世界遺産にケチをつけるつもりはない。ただ、日向にだけ目を向けていては片手落ちではないかといいたいのだ。日陰にも時代を生き抜いてきた息遣いがあり、魂の刻印がある。両両相俟って人類の遺産は成るはずだ。少なくとも、そう想像や知見を及ぼすことは先人への礼節ではなかろうか。
 社会学者の濱野智史氏が、先日24日の朝日新聞で次のように語っていた。
◇政治家、特に安倍首相とその側近たちの妄言が相次いでいる。その多くが歴史認識問題や憲法解釈をめぐるものだが、筆者が特に気になったのは、首相が観桜会で詠んだという次の句である。「給料の 上がりし春は 八重桜」。確かにこの首相の句がまずいのは「日本人の大半が正規雇用者であり、春闘を通じて給料が上がった」と考えているようにしか見えないことだ。この句を見たら、例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか、どうやら全く視野に入っていないのである。これは由々しき事態だ。
 政治家の妄言は今に始まったことではないが、あまりに知的レベルが低いとしか思えない発言が連鎖する現状を、どう考えたらいいのだろうか。(略)それは彼らが「世界」を失っているからなのだ。◇(政治家の妄言と「世界」喪失)
 その「世界」とは、
「ポリスのような小規模な地域の『現場』、自分の言動が人々に常に見られ、記憶され、後世に受け継がれていくと実感できる『世界』に関わること」
 と述べている。ひょっとして作為かもしれないという留保はつけつつも、「あまりに知的レベルが低い」首相の駄句は如上の「片手落ち」と軌を一にするような気がしてならぬ。「例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか」などという想像力はすっぽりと欠落してる。『現場』を見失った、『世界』の喪失だ。
 「『世界』遺産」に「世界」が欠損しては元も子もない。「女工哀史」も忘れない世界遺産であってほしい。そう切に願いたい。
 下げてばかりでは「片手落ち」だ。上げてもおこう。以下、毎日新聞から。
〓富岡製糸場が創業当時の姿をほぼそのまま残して保存されてきたのは、民間に払い下げられた後、1939年に経営を引き継いだ繊維会社「片倉工業」の存在がある。87年の操業停止後も当時の経営者は「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、2005年に富岡市に移管するまで、億単位の維持費を毎年負担してきた。世界遺産登録勧告を受けて、岩井賢太郎市長は「製糸場をしっかり守ってくれた片倉工業に心から感謝とお礼を申し上げたい」と述べた。〓
 片倉工業株式会社。今は蚕糸事業から撤退し、不動産運営・賃貸、機械製造販売、繊維製品の製造販売を業としている。創業100年に及ぶ老舗企業である。自腹を切って遺産の維持に努めた。立派な会社ではないか。企業メセナの鑑ともいえる。
 実は、わが街にその名を冠した「片倉通り」がある。かつて片倉工業が富岡以外に全国展開した紡績工場の一つがあった。猛烈な工場誘致が実り、戦争の数年前に操業を始めた。最新式の設備を揃え広大な規模を誇ったが、戦時中に軍部に接収され造兵廠にされてしまう。大砲などの薬莢を造っていたらしい。戦後復活し、多くのうら若き女性たちが寮生活を送る賑わいが戻った。だがやがて産業構造の変遷に伴い斜陽し、ついに昭和60年代に撤退。今は面影の一つとてない街衢に生まれ変わっている。残っているのは、その昔工場を取り巻いていた冠道路だけだ。工場と道路とを一対にして記憶に留めているのは、もはや団塊の世代が下限かもしれない。しかし、名は残った。
 作家のカズオ・イシグロ氏が生物学者の福岡伸一氏との対談で、こんな言葉を投げかけている。
◇(アメリカの作曲家のある作品を取り上げ・引用者註)物語の終わり近く、キャシーはこういいます。「私はルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません」。記憶とはそのような作用をするものだと思います。つまり記憶とは、死に対する部分的な勝利なのです。私たちは、とても大切な人々を死によって失います。それでも、彼らの記憶を保ち続けることはできる。これこそが記憶のもつ大きな力です。それは、死に対する慰めなのです。◇(木楽舎「動的平衡」から)  
 「記憶とは、死に対する部分的な勝利」とは、実に味わい深い。人が亡くなり、事物が失せる。ひとつとして無常ならざるものはない。万物の流転に抗い得るものがあるとすれば、それは「記憶」にちがいない。その有力な便(ヨスガ)こそ、名を冠することではあるまいか。名は体を表すという。かつ、名は体を残すといえなくもない。
 もとより遺構もなく富岡とは歴史が格段に違うとはいえ、ふと足許の遺産に立ち止まり往事を偲んでみたくなった。 □


定番の疑問

2014年04月25日 | エッセー

 級友にして旧友との談偶々、日本史上お決まりのアポリアに話柄が及んだ。「天皇はなぜ存続し得たのか。覇者がその地位を奪取しなかった理由はなにか?」と、彼は詰め寄った。経緯ではない。ドラスティックな要因を知りたいと──。
 内田 樹氏はこういう。
◇歴史には無数の分岐点、転轍点があって、わずかな入力の変化で歴史はどう変わったかわからない。「『起きてもよかったこと』はどうして起きなかったのか?」というふうに問題を立ててみることも必要ではないかと思うのです。(「街場の中国論」から)  
 歴史に「もしも」を入れるのは大切な頭の訓練法です。そのときに「起こったかもしれないのに起こらなかったこと」は「なぜ起こらなかったのか?」を考えるのはできあいの「物語」の風通しをよくするためにはとても有効な方法です。(「街場のアメリカ論」から)
 現在から過去に向かって遡行しながら、そのつどの「分岐点」をチェックして、「どうしてこの出来事は起きなかったのだろう?」というふうに考えてみる。そういう「選ばれなかったオプション」について歴史の教科書は決して言及しません。(同上)◇
 彼は「歴史の教科書は決して言及」しない問いを発している。アポリアはお決まりだが、正答はお決まりではない。だが、話の穂は継いでおきたい。糸口に、気鋭の歴史学者の言説を徴してみたい。與那覇 潤氏。12年2月の拙稿「平成の『大鏡』?」をはじめ、何度か触れた。その折、
〓「中国化する日本  日中『「文明の衝突』一千年史」(文藝春秋)──「宋朝型社会」と「江戸時代型社会」との対比から日本近現代史を俯瞰するものだ。怖ろしく斬新で知的カタルシスに満ちる。私はこれを、『鷲づかみ日本史』と名づけたい。〓
 と、オマージュを呈した。先学である東島 誠氏との対談集『日本の起源』(太田出版、昨年9月刊)から引く。
 東島氏が「王権あるいは統治システムの二重性についてですが、それ自体は別段、特殊日本的というわけでもないように思うのですが」と提起したのを受けて、次のように語る。
◇なるほど。たとえば中世ヨーロッパにおける教皇と皇帝のように、むしろ分かれているほうが普通だと考えてみるわけですね。単なる聖俗の役割分担なら、天皇制以外にもいくらでも事例は探せる。逆に、中国のようにどちらも独占してしまう人が出てくるほうが、じつは特殊なケースなのだと。◇
 中国が特殊で日本が普通とは、前者が宏大な国土と多民族を麾下に束ねた特異性を勘案すれば納得がいく。むしろ後者が「いくらでも事例」のある一般則だとすると、旧友が措定した『起きてもよかったこと』と「選ばれなかったオプション」とは特別にレアなケースというほかない。問題の立て方が逆になる。極めて稀な『こと』と『オプション』がごく普通に起きなかっただけ、といえなくもない。
 続いて、「バッファー(=緩衝帯)」をキー・コンセプトに論攷が進む。
◇武家政権の成立過程を見ると、こういう父(先代)と息子(当代)のように時間軸を重ね合わせてバッファー期間を作るのではなく、頼朝や尊氏のように、同世代の二人の有力者(兄弟)で役割分担をすることがある。これはむしろ、天皇(大王)さえ最初は有力豪族の輪番制だったと見られるとおり、人間が権力集中を嫌うことの表れかもしれない。いきなりひとりがぜんぶ独占すると反発が来るので、二人で分掌して相互に牽制しているから大丈夫ですよというかたちでごまかして、だましだまし統合しつつ最後は片方を切り捨てる。そういうタイプのバッファー機能もあるように思います。◇
 「人間が権力集中を嫌うことの表れ」とは、一つの有意なアンサーかもしれない。いかな独裁政権であろうとも服わせるためには、自らのオーソドキシーを開示せねばならない。「アカウンタビリティ」である。どこかの国が十八番にするど派手なパフォーマンスや巨大な銅像、繰り返される“将軍”神話の数々も、すべてアカウンタビリティの構築である。蓋し、抜き差しならぬ問題だ。
◇中国であれば、儒教の理念と科挙の競争原理で徹底的なアカウンタビリティを構築しているから、皇帝単独支配でも問題ないのですが、日本ではそうはいかなかった。「なぜ武家政権ができても天皇家は滅ぼされないのか」という定番の疑問も、同様の角度(前段を受けて、バッファー機能・引用者註)から考えられるのではないでしょうか。いわば天皇そのものが、ずっと日本の社会制度のなかでバッファー状態になっていると。
 最初はわりと実力次第なところがあったのに、あとから血統によるアカウンタビリティを作って、系譜づけすることで起源の神話が創作される。儒教の本場である中国は、科挙を導入して道徳によるアカウンタビリティを人工的に構築する官僚制に帰着したけれども、日本の場合は系譜に沿った世襲、という一見自然らしく見えるアカウンタビリティのみに依存してきた。そういう古代以来の文脈が効いているのではないでしょうか。◇
 與那覇氏は「定番の疑問」に対し件のキー・コンセプトを挙げる。「天皇そのものが、ずっと日本の社会制度のなかでバッファー状態になっている」という。そのオーソドキシーは「系譜に沿った世襲」であり、その「一見自然らしく見えるアカウンタビリティのみに依存してきた」という。『日本の起源』に纏わる核心部分だ。深遠でスリリングな考究が展開されていく。中身は同書に当たっていただくほかないが、「血統によるアカウンタビリティ」が王権の常道ではあっても、永きに亘って崩れなかった史実は極めて特異ではある。
 着目すべきは、「古代以来の文脈が効いている」というところだ。なぜ、効くのか。「古代以来の文脈」とは昨年5月拙稿『メルヘン?』で、「人は小さな嘘には欺されるが、大きな嘘には酔う」と述べた神話を泉源とする「文脈」であろう。さて、「効く」、だ。別の著作で、與那覇氏は社会学の視点として「再帰性」について語っている。
◇認識と現実のあいだでループ現象が生じることを、社会学の用語で「再帰性」と言います。
 「当初の誤った考え」がリアルになる。最初は間違った認識であっても、その認識を前提に人々が行動すれば、その誤った認識に合わせて現実の方が書き換えられてしまうのです。
 人間の社会はそもそも、再帰性を活用しなければ成り立たないものであることがわかります。再帰性は貨幣経済のような利便性も、人種偏見のような罪悪も、どちらももたらす両義的な存在ですが、しかしなくすことはできない。それは、複数名で集合的に行為しながら生きていかざるをえない人間の、いわば宿命のようなものなのです。この「社会のあらゆる現象は再帰的に作り上げられるものであり、最初から実体として存在するわけではない」という前提に立つ視点が、社会学の基本的な方法論です。
 「伝統」は、たしかに再帰的な現象ですね。みんながある行為を「昔からの伝統だ」と認識することによって、それが本当に伝統として継承される。そのように、現状を固定するかたちでのみ再帰性が機能している状態を、社会学では「前近代」とみなします。◇(集英社「日本人はなぜ存在するか」より)
 再帰性の不活性をもって「前近代」との分水嶺とする。達識ではあるまいか。ならば「瑞穂の国」「神の国」と宣うて憚らない面々は、未だ分水嶺の彼方に止(トド)まっていると断じてよかろう。
 『日本の起源』で、與那覇氏はこう括っている。
◇もし後醍醐のギラギラ路線が主流で、中世の天皇家が衰微してなかったら、天皇という制度はとっくになくなっていたでしょうね。平安京が早々と荒廃して以来、天皇制は衰微しているからこそ生き残れる王権だった。これは、中国皇帝との決定的な違いですよね。圧倒的な富と権威があるから、みんながしたがうわけではない。その点でまさに、紫禁城(明・清朝の王宮。現在は故宮博物院)と皇居は宿命の対比ですね。共産党が勝った中国では、毛沢東が紫禁城を博物館にして使ってしまう。対して日本では幕末の内戦以来、江戸城の焼け跡に天皇家が住んでいて、だからこそ太平洋戦争後も生き残った。◇
 「衰微してなかったら、天皇という制度はとっくになくなっていた」「衰微しているからこそ生き残れる王権だった」 このパラドキシカルな理路はアポリアの肝を見事に抉っているのではないだろうか。
 
 これで旧友への回答になったであろうか。はなはだ自信がない。エドワード・ローレンツが気象研究から導出した「バタフライ効果」を援用すれば、始原での極小のインプットが歴程をドラマティックに変えるといえよう。それにしても、蝶はなぜ羽搏いたか。蝶の属性に来由したにちがいはないが、「いつ、どこで」とはドラマだったといわない限りトートロジーに落ち込むほかない。
 かつて小林秀雄は湯川秀樹との対談で、「偶然」についてこう語った。
◇たとえば、屋根から石が偶然に落っこちてきてある男が死んだ。そういうときに使われている偶然という考え方でも、石という物理学的な物性の運動だけを考えているわけじゃないので、石にある人間的な意味を持たして考えているのです。持たすから偶然という一つの感じ……一つの生活感情が生じます。石が落ちて怪我をしたか死んで了ったかという問題は、物理学的には同じ偶然性の問題だが、人間の偶然感にとっては大きな違いが出て来る。落ちて来た石は、その人の運命の象徴なのです。だから偶然という言葉が出てくるのじゃないか。◇(新潮文庫「直感を磨くもの」から)
 「物性の運動」にも「人間的な意味を持た」せる。つまり、「物理学的」偶然が「人間の偶然感」に変位する。「劇」はそこから生まれるのではなかろうか。というより、劇にしなければすべてが「物理学的な物性の運動だけ」に帰一され人間は立つ瀬を失う。寸土も生きていく地面がなくなるではないか。
 持つべきは友。「定番の疑問」が恰好の「頭の訓練法」に誘(イザナ)ってくれた。 □


アウトソーシング

2014年04月22日 | エッセー

 先日、親戚の葬儀に馳せ参じた。大都市近郊の壮麗で宮殿のような葬祭場であった。
 驚いた。
 正面祭壇は溢れんばかりの花々で飾られ、中央に大風な遺影が置かれている。棺はフロアに、祭壇に頭を向けて横たえられている。Tの字の縦の棒に当たる配置だ。それを取り囲むように遺族が腰掛ける。他の会葬者は一段下のフロアに、近親者から順に横に数十列並ぶ。焼香台は棺のこちら側、足下側にある。仏像と僧侶は祭壇上手を少し離れた脇に位置する。
 はじめて見た。このレイアウトはなんだろう。無宗教ではあるまいが、極力宗教色を薄める狙いであろうか。家族葬を基調にしたのかもしれないが、それにしても宗教は見るからに『脇』役になっている。だからであろうか、厳かなBGMに誘(イザナ)われて入場してきた僧侶は淡々と読経のみして説法なしで再び荘重なBGMに送られて退場していった。
 辟易するほど過剰に丁寧な言葉遣い。辞儀は背筋を伸ばして深々と、焼香の案内も膝をついて。制服に身を包んだ何人ものスタッフが粛々と儀式を進めていく。場面場面でBGMが変わり、ライティングまで加わる。星をかたどった天井の照明が点滅しつつ流れる。時に祭壇が色を変えてライトアップされる。
 「人生は……」に始まる、司会による開式前の定番の挨拶。加えて、故人の略歴まで織り込んでいく。更には最終盤で「喪主は気持ちの整理がつきませんので」と、司会が遺族代表の謝辞を代行する(代読ではなく、ステロタイプなもの)。ならば兄弟でも子供でもいるだろうにと腑に落ちぬまま、閉式。喪葬の肝心要は抜け落ちたままとなった。
 出棺に先立って皆で棺に花を入れる。蓋を覆った後、司会の誘導で亡夫が大きな花束を載せる。「皆さま、いよいよご出棺でございます」と司会。ドアがさっと開かれストレッチャーが移動する。なんだかショー化しすぎではないか。スムーズに流れすぎて、気持ちが残らない。そういえば「別れ花」に参列者を漏れなく誘導したっぷり時間を掛けたのは、ショー化して希釈された心情を即物的に補完しようとしたといえなくもない。辻褄合わせだ。
 養老孟司氏の伝でいけば、都市化の先端的な一現象ではないか。都市は自然を駆逐していく。生まれるのは病院。病んだら病院。老いては施設。死ぬのも病院。人生の最重要局面が四つとも日常から隔離される。アウトソーシングである。遂には死した後、葬送儀礼までがアウトソーシングされた。つまりは、そういうことではないか。葬儀業者が簇生して、近隣が関わらなくなって久しい。そして遂には、「悲しみ」までもがアウトソーシングされる。
 小林秀雄は儀礼についてこう述べている。
◇禮は人々の実情を導く、その導き方なのであって、内容を欠いた知的形式ではなかった。もろこしの聖人の智慧を軽蔑しないほうがよい。喪を哭するに禮があるとは、形式を守って泣けといふのではない。秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない。人に悲しみをよく感じて貰う事が出来ないからだ。人は悲しみのうちにゐて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が禮である。◇(「考へるヒント」~『言葉』から)
 「悲しみをととのえ」、「悲しみを救う工夫」である儀礼が「内容を欠いた知的形式」に堕しつつある。それが「都市化の先端的な一現象」との謂だ。その中で、確かに何かが失われつつある。それは何だろう。喪葬の意味について、内田 樹氏の洞見を徴したい。
◇人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣を持つことで、他の霊長類と分岐した。これは「生きている人間」と「死んでいる人間」は「違う」ということを知ったという意味ではない(動物だって「生きている動物」と「死んだ動物」は「違う」ということくらい知っている)。そうではなくて、「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである(フランス語では「幽霊」のことを「戻ってくる者」という意味の言葉で表す)。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。◇(「街場の現代思想」から)
 都市化の中で、人は「死者の声が聞こえる動物」から次第に遠ざかりつつあるのではないだろうか。疑念が抑え難い。

 鬱懐を抱えたまま会場を後にした帰りの電車の中、ドアの横に貼ってある広告に目が行った。大きく『○○○美容外科』とあり、およそ半分が院長の温和な顔写真。あと半分は住所、電話、診療項目が並ぶ。釘付けになったのは写真の下にあるキャッチコピーだ。
──勇気があれば道は開ける──
 確かにそう書いてある。美容と「勇気」のギャップに堪らず吹き出しそうになった。ひょっとしたら、猪木の「元気があれば何でもできる!」の捩りであろうか。それにしても、このミスマッチはどうしたことか。もしや、勇気は「外科」に係るのか。痛いのをがまんすれば、といっているのだろうか。それも違う。やはり、「勇気」を奮って「美容」の門を叩けと呼びかけている。とすると、「道」とは何か。美人への道か、モデルへの道か。人生逆転劇への道か。百田尚樹が書いた嘔吐を催すほど醜悪な小説『モンスター』がふと連想されて、気が滅入ってくる。それにしても大仰な。むしろ有り体で勝負することこそ「勇気」のような気もするのだが。ともあれ、美容のための『外』科、これこそアウトソーシングそのものではないか。
 ただしこのCMは厚労省が医療機関の広告緩和に際して示したガイドラインの内、「広告を行うものが客観的事実であると証明できない広告」に抵触する恐れは充分にある。勇気を出して受けた美容外科施術が道を開いた「客観的事実」は立証困難であろうからだ。
 傍らの荊妻に「この広告、おかしいよな。なんで、勇気なんだよ」と話すと、「お金のことでしょ」と即答した。「金があれば」といわずに「勇気」と置き換えた、と。身も蓋もないパラフレーズである。やはり、おばさんは即物性の権化だ。生き延びるわけだ。 □


白村江、再びか?

2014年04月14日 | エッセー

 663年、白村江の戦い。本邦最初の「集団的自衛権」行使の実例として時々引き合いに出される。
 7世紀初頭に唐が成立。高句麗を滅ぼし、6世紀からの百済、新羅と合わせた三国鼎立が崩れる。続いて唐は新羅を冊封し、同国の要請を受ける形で百済に侵攻。一旦、百済は滅亡する。その3年後、再興を掛けて挙兵。要請を受けた倭国が援軍を送ったが、圧倒的な軍事力を誇る唐・新羅連合軍に大敗を喫した。これは言葉本来の意味での集団的自衛権に当たるであろう。
 当時本邦は大化の改新後20年弱、内政の激動期で外交の舵取りも揺れた。公用語が百済語であったといわれるほど飛鳥王朝以来百済との結びつきは深い。一方、超大国・中国王朝とは太古よりの繋がりがある。どちらに与するか、親百済か親唐か。孝徳天皇と中大兄皇子の二派に別れての路線対立があった。
 結果は惨敗に終わる。当然、唐による本邦侵攻の危機が予見される。4年後即位した中大兄皇子・天智天皇は関係改善のため遣唐使を送り出す。併せて北部九州や瀬戸内、西日本の防衛強化、さらに海浜部から内陸部への遷都。実に素早く適確な対応であった。目が覚めたというべきであろう。素朴な侵略、拡張の時代に粗略な戦略が国家存亡の危殆を招いた。アナクロニズムと嗤うなかれ。大国の覇権、彼我の戦力、辺境という立ち位置、地政学的な諸元はなにも変わってはいない。
 「集団的自衛権」とは「集団的自衛『義務』」に他ならない、と何度も述べてきた。繰り返しになるが、内田 樹氏の達識を要約すると以下の5点になる。

(1) 集団的自衛権というのは、軍事的小国には「現実的には」認められていない権利である。それが行使できるのは「超大国」だけである。
(2) 集団的自衛権というのは平たく言えば「よその喧嘩を買って出る」権利ということである。助っ人する「義務」はある。 でも、助っ人にかけつける「権利」などというものはありえない。
(3) 集団的自衛権とは、超大国が自分の支配圏内で起きた紛争について武力介入する権利のことである。「シマうちでの反抗的な動きを潰す」権利なのである。
(4) アメリカと心中したいというのが「集団的自衛権の行使」を言い立てている人々の抑圧された欲望ではないか。小泉純一郎、安倍晋三、石原慎太郎、橋下徹もたぶんそうだと思う。
(5) 米国との共同行動なら、わからないでもない。だが、ベトナム戦争にコミットしたことでアメリカは多くのものを失った。「よしたほうがいいぜ」と言ってあげるのが友邦のなすべきことだった。

 「権利」ではなく「義務」であるとは、(2) である。
 (1) と(3) 、つまり「シマうちでの反抗的な動きを潰」した実例を挙げてみる。以下、松下伸幸氏の「集団的自衛権の深層」(平凡社新書、昨年9月刊)から摘出した。

① ソ連のハンガリー介入(56年)
集団的自衛権をかかげた軍事行動のなかで、戦後はじめての事例
② 米・英のレバノン・ヨルダン介入(58年)
西側諸国も負けていなかった。その次の発動は、アメリカとイギリスによるものなの
③ イギリスのイエメン介入(64年)
南アラビア連邦を支援しておこなわれたイギリスによるイエメンに対する軍事行動
④ アメリカのベトナム侵略(66年)
第二次大戦後最大規模かつ最長期間の戦争。フランスに次いでアメリカが前面に出てベトナムの独立に敵対しようとした
⑤ ソ連のチェコスロバキア侵略(68年)
ソ連の支配から脱して、自主的な国づくりをすすめようという国民運動「プラハの春」が、ソ連軍によって潰された
⑥ ソ連のアフガニスタン介入(80年)
ソ連軍が突如として首都カブールに侵入。ソ連に批判的な政権を転覆
⑦ アメリカのグレナダ介入(83年)
集団的自衛権が介入の根拠として使われた
⑧ アメリカのニカラグア介入(84年)
79年、革命政権が樹立され、内戦状態。隣国の親米国家エルサルバドルでも、反政府組織が勢力を拡大
⑨ フランスのチャド介入(86年)
冷戦期の集団的自衛権行使の最後の実例とされる

 45年国連憲章第51条に初めて明文化されて以降、これだけある。なんとも多い。さらに本年のクリミア併合も、「同胞」を守る責任を掲げつつロシアによる「シマうちでの反抗的な動きを潰」した実例に変わりはあるまい。⑨ からもう1件増えた勘定だ。
 松下伸幸氏は上掲書の中で、 
◇実際に集団的自衛権を行使したと表明したのは世界の百九十数力国のなかで、ただの四力国にとどまっているのである。しかも、その四力国とは、米英ソ仏という、世界のなかの超軍事大国だけだったのだ。実際に発動された事例をみると、別にどの国も「武力攻撃」を受けたわけではないのに、アメリカやソ連などの方が、攻撃をしかけているのだ。
 集団的自衛権というのは、「同盟国」を助けるものだったはずである。ところが、実際に発動された事例をみると、その「同盟国」が武力攻撃の対象になっているのである。
 これらの事例(① ~⑨)に共通するのは、集団的自衛権というものの実態は、「自衛」とは何の関係もないのはもちろん、二重にも三重にも違法な武力行使だったということである。国際法に対する重大な違反だったのだ。◇
 と述べている。傾聴すべき見解であり、内田 樹氏の洞見と深く響き合う。
 問題は(5) 「米国との共同行動」である。如上の如く「集団的自衛権」という呼称には不釣り合いな中身だ。(5) に絞って、というか矮小化ないしはイシューをずらして集団的自衛権を言挙げする意図が薄気味悪い。(4) でもあろうし、かつて取り上げた白井 聡氏が「永続敗戦論」で剔抉した歪んだ構造があるのかもしれない。ともあれ安保法制懇のケーススタディはブラックジョークの域を出ないものだらけだ。
 日本海で米艦が攻撃されたら……。そうなったら在日米軍基地も当然攻撃を受ける。それは集団的自衛権以前に日本有事だ。原発もある。破れかぶれで標的にされたら、どうする。ケーススタディというなら、とことん詰めねば意味はない。イージス艦が持つ迎撃ミサイル「SM3」では弾道ミサイルは撃ち落とせない。明々白々のスペックだ。第一、ミサイル迎撃システムそのものがまったくの未完の技術である。早い話が夢物語だ。何よりも法制懇は、軍事は自己肥大するという自明の原理を失念している。なんだか話の成り行きは、絵空事を本気で話し合う『集団的憑依』の様相を呈しているようだ。ケーススタディの結果がありうべからざる結末を招来するなら、そのケース自体を回避する方策を詮議すべきではないか。核兵器への対処と同じだ。
 冒頭で白村江の戦いを、「素朴な侵略、拡張の時代に粗略な戦略が国家存亡の危殆を招いた」と記した。1351年経って、はたしてどうだろう。『集団的憑依』が先祖返りし、粗略どころか空想の戦略が一人歩きしている。むしろ戎具が破滅的になっただけ、より事態は深刻でカタストロフに近い。

 


<跋>
 書き損じてかれこれひと月になりますが、先月23日をもって本ブログ開始8年を迎えました。一口に8年といってもいろいろな事どもがありました。世界も日本もそうです。必死に追っかけ、雑感を綴ってきましたが、振り返ると至らぬところばかりです。一方私的には最大の出来事は、08年の入院と昨年のリタイアでした。前者は浅田次郎著『壬生義士伝』に勇気をもらい、後者は同じく浅田次郎著『一路』に背中を押されました。蓋し、良書は良き伴侶です。加えて、近年では内田 樹氏の著作にインスパイアされることばかりです。心底「学びを起動」させられます。蓋し、得難きメンターは無比の羅針盤です。
 愚案、愚稿にお付き合いしていただいている方々に跪座し、満腔の謝意を捧げます。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いします。 欠片 拝。 □


再度 小保方、ガンバレ!

2014年04月11日 | エッセー

 欲目ではなく、実に堂々とした立派な会見であった。NHKは夕方のニュースで、「冒頭、原稿を読み上げて・・・・」とアナウンスしたが、それは明らかな間違いだ。何度かテーブルに目は落としたものの、ノー原稿で正面を見据えての発言であった。もちろんプロンプターなどありはしない。おそらくNHKは事前に用意したニュース原稿をそのまま使ったのだろう。不用心にも程がある。衆人環視の中、妙齢ゆえに臆する余り言葉に詰まるのを警戒するにちがいないという先入主があったのか。それが、「原稿を読み上げて」と筆を曲げさせたものであろう。アタマにへんてこりんなのが座ると、末までおかしくなるか。
 あっちでもこっちでも訳知り顔のコメンテーターなるものが、『誰かが代わりに言いそうなこと』を捲し立てている。『優しさや度量』のある発言など皆無だ。本邦はいつからこんな窮屈な按配になったのだろう。3日の本稿で語った通りだ。
 それにしても、頭がくるんくるん回転して言葉を賢明に選び分けながらの見事な応答であった。肚が据わった、まことに高高とした応戦であったといえる。
 ある情報番組でアンカーが「理研がせっついた研究発表だったのに、なんだか可哀相だった」と発言したのを受けた解説の先生が、「それは次元が違う。科学的証明とは話を分けて考えなければいけない」と宣っていた。これには呆れた。学会の発表会でもあるまいに、超最先端の専門的知見が記者会見ごときで披露できるはずはない。専門用語を繰り出せば、煙に巻くなの怒号が浴びせられるのは必定だ。会見は、事の成り行きを説明するために開かれたものだ(会場費は小保方女史の自腹だそうだ)。学者同士の、学問上の質疑応答ではない。件の先生は一見正論に聞こえて、実は会見の意味を『分けて考え』られない無思慮を晒している。木に縁りて魚を求む。駄々っ子にちかい。この程度の知的レベルが世をミスリードする。やはり、テレビは怖い。
 会見で、耳を欹てた『典型的な』遣り取りがあった。以下の通りである。(毎日新聞から)

Q これより強い証拠がある? これでアカデミアは納得する?
弁護士 証拠に関しては、不服申し立ての準備を始めたのは3月31日以降。それまで準備をしてきたかというと、してません。わずか1週間で準備しました。・・・・
Q アカデミアの常識に照らしてどうか、小保方さんに伺いたい。
小保方 証拠が用意できるかどうかに関してでしょうか?
Q この証拠が、アカデミアの人間にとって納得いくかということ。
小保方 室谷先生との相談で、今回は調査が不十分と示すための不服申立書になっていると思います。これから実験的な証拠に関しては、私としては用意できると考えていますが、第三者が見て納得できるものでないといけないので、それに向けての準備を進めていければと思います。

 若い記者だった。詰問調で早口、嫌に居丈高だった。この記者クン、何か勘違いをしてないか。まずは、内田 樹氏の高説を徴したい。
◇「とりあえず『弱者』の味方」をする、というのはメディアの態度としては正しい。けれども、それは結論ではなくて、一時的な「方便」にすぎないということを忘れてはいけない。何が起きたかを吟味する仕事は、そこから始まらなければならない。僕はメディアはそのことを忘れているのではないかと思います。
 社会的責務を基礎づけるロジックをメディア自身がきちんと把握していない。そこが問題なのです。なぜ、メディアはとりあえず弱者の味方をしなければいけないのか。メディアはその問いをたぶん自分に向けたことがない。そうするのが当たり前だと思っていて、惰性でそうしている。そういう種類の思考停止のことを僕は先に「知的な劣化」と呼んだのです。裁判では「推定無罪」という法理があります。同じように、メディアは弱者と強者の利害対立に際しては、弱者に「推定正義」を適用する。これがメディアのルールです。「同じ負荷をかけた場合に先に壊れるほう」を、ことの理非が決するまでは、優先的に保護する。でも、「推定無罪」が無罪そのものではないように、「推定正義」も正義そのものではありません。弱者に「推定正義」を認めるのは、あくまで「とりあえず」という限定を付けての話です。個人が学校や病院と対立したときに、メディアがとりあえず個人の側に肩入れすることは適切な判断です。けれども、それは理非が決したということを意味しない。理非を決するための中立的でフェアな「裁定の場」を確保したというだけのことです。しかし、メディアはいったんある立場を「推定正義」として仮定すると、それが「推定」にすぎないということをすぐに忘れてしまう。「とりあえず」という限定を付した暫定的判断であることを忘れてしまう。
 検証の過程で「正義ではなかった」ということが起きる可能性はつねにある。「よく調べたら、この『弱者』の言い分には無理があります」と後になって認めたにしても、それは少しもメディアの公正さや洞察力を傷つけるものではないと僕は思います。ぜんぜん構わない。「推定正義」を適用して、とりあえず弱者に肩入れするのはメディアの本務の一部なんですから。でも、メディアは「つねに正しいことだけを選択的に報道している」というありえない夢を追います。この態度は病的だと僕は思います。◇(「街場のメディア論」から)
 医療事故やいじめ問題の報道に関する論攷である。援引の肝は『弱者』である。いつもながらのマスコミによるマッチポンプの側面を割り引いても、『弱者』は誰か、明白だ。
──「同じ負荷をかけた場合に先に壊れるほう」──
 は子供だって解る。
 件の記者クンは、
──「とりあえず『弱者』の味方」をする、というのはメディアの態度としては正しい──
 という基本の「き」を踏んでいない。したがって、
──弱者に「推定正義」を適用する──
 という「メディアのルール」に反している。さらに、この論究が奥深いのは後段である。
──検証の過程で「正義ではなかった」ということが起きる可能性はつねにある──
 のだから、「推定正義」は「暫定的判断」である。だから撤回しても、
──少しもメディアの公正さや洞察力を傷つけるものではない──
 ことに理解が及んでいない。つまりは、彼(カ)の記者クンは
──メディアは「つねに正しいことだけを選択的に報道している」というありえない夢を追い──
 続ける、絵に描いたような「知的な劣化」を地で行く凡庸な記者である。頼まれてもいないのに(きっと)、「アカデミア」を連発する彼の『正義感』にこそ、稿者はまっさきに「推定正義」を適用してあげたい。
 余談だが、彼女のペーパーで気になるところがある。ワープロ打ちした文書の、読点がカンマになっている。以前のコメントもそうだった。理系だからそのあたりにはぞんざいなのかもしれない。最近はネットでもよく見かける。世の大勢ともいえるが、稿者などは生理的に違和を感じる。才媛のご愛敬ととれば一興かもしれぬが、いかな才女とて『万能』ではないらしい。
 今日の朝日はトップに、次のように報じた。
〓STAP(スタップ)細胞の論文問題で、理化学研究所の小保方(おぼかた)晴子ユニットリーダーの指導役の笹井芳樹氏(52)が朝日新聞の取材に「STAPはreal phenomenon(本物の現象)だと考えている」とこたえた。小保方氏の現状については「こうした事態を迎えた責任は私の指導不足にあり、大変心を痛めた」と心境を説明した。来週中に会見を開く方針。〓
 デビ夫人以外にも、強力な助っ人が現れたやもしれぬ。改めて、エールを送りたい。
 小保方、ガンバレ! □


団塊世代必読の書

2014年04月08日 | エッセー

 ああ、そうかと、膝を打った。
 作品中、円谷幸吉の遺書が引かれる。


 遺書の文面の一部を知った静は、「なんだか、不思議な人ね」と言った。円谷幸吉よりわずか六歳年下でしかない静にとって、自分の人生を締め括る遺書を綴るのに際して、素朴としか言いようのない食物名を列記することが不思議で、自分の両親を「父上様、母上様」と呼ぶことは、あまりにも古めかしい表現に思えた。事実、その遺書にあった「美味しうございました」という表現は、一部の若者達の間で流行語のように使われた。角刈り頭で白のランニングシャツ、短パンで走るだけのマラソン選手の頭の中にそんな古風な表現が隠されていたということが、あまりにも奇異だったのである。


 まことに下世話ながら、随分昔のテレビ番組『料理の鉄人』に登場していた料理評論家の岸 朝子さんの十八番が蘇ったのだ。
「美味しうございました」
 件の番組でこのフレーズが出るたび、なぜか懐かしかった。そのわけがすとんと腑に落ちた。
「一部の若者達の間で流行語のように使われた」
 自分が使っていたのか、使われていたのを耳にしたのか、どちらにせよ円谷幸吉のフレーズが呼び起こされていたのだ。平成の初頭に耳にとまった「古めかしい表現」が、実は昭和の中葉に話題を呼んだ「古めかしい表現」だった。岸さんは一九二三年生まれ。円谷幸吉より七歳上だ。ほぼ同じ文化的年齢層にあったといえる。不覚にも円谷の名を射当てずに、闇雲に懐かしがっていたのだ。ひょっとすると、旧懐は忘失と隣り合わせかもしれない。
 
 遅ればせながら、四年前の橋本 治著『リア家の人々』(新潮社)を読んだ。ある意味でだが、時代ではなく世代限定の小説である。それも団塊の世代だ。如上のノスタルジアはその一例である。高橋源一郎氏は、
──この「リア家」の真の主人公は「昭和」だ──
 と評した。さすがの慧眼である。『リア王』と類似した設定ではあるが、悲劇ではない。諍いはあっても、破局が訪うわけではない。虐待も裏切りも、悶死もない。抑制の利いた語り口で世の劇的な移ろいが淡々と刻まれていく。「人々」が主人公であるような、ないような。いや、そうではあるまい。やはり高橋氏が抉ったように、リア王は昭和だ。栄耀とカタストロフ、二つ乍らを生きたのは「昭和」だ。そのリア王が後嗣に疎んじられていく際(キワ)で、この作品は畢る。昭和四十四年だ。誰あろう、後嗣とは団塊の世代である。だから、身につまされる。なにせ作者自身が当該世代だ。四十星霜を隔てて、『人々』だったうちの一人が時代の意味を問う。「世代限定」とはその謂だ。
 「学園紛争」について、作者はこう語る。


 それは政治でもない、思想でもない。政治や思想の言葉を使ってバラバラに訴えられたものは、その社会の秩序を形成する人間達の「体質」である。だからこそ、東京大学の教授達は、学生達から罵られ、嗤われ、困惑し怒っても、なにが問われているのかが分からなかった。秩序を形成する者の「体質」、形成された秩序の「体質」が問われるようなことは、かつて一度もなかった。なにが問われているのかが分かったとしても、事の性質上、それはたやすく改められることがなかった。だからこそ、事態は紛争へと至って、その紛争は、そう簡単に解決されることがなかった。仮に紛争が収まって「元の状態」へ戻ったとしても、問題を発生させた「元の状態」がいいものであるのかどうかが、分からないからである。


 作品の肝を晒していいものかどうか懸念はあるが、「当事者」だった団塊の世代の肺腑を衝くパッセージだ。
──『リア家の人々』とは他でもない、わたしだ。
 当該世代なら、そう呻くにちがいない。 □


散るぞめでたき

2014年04月05日 | エッセー

 夜来の風にいたぶられても必死に堪えたのに、昼下がりからの日和には他愛なく枝を去った幾百千のさくらばな。
 ほんの数日の爛漫のために、昨夏より永い支度をしてきた彼女たち。木々が燃え盛り、山並が紅の錦を纏う時は目立たぬようにそそと佇んでいた。木枯らしに煽られ、吹雪に撃たれてもじっとがまんをつづけた。
 長遠な隠忍は須臾の佳局のためだった。公園で、アベニューで、川辺で、湖岸で、さらには埒外の雑木のただ中で、誇りかに、そして艶(アデ)やかに一指舞うがためだった。
 これほど散るを惜しまれる華が、他にあろうか。いな、これほど散るを愛でられる華が、他にあろうか。咲いて散るのではなく、散るために咲く。花吹雪こそが、彼女たちのみがなしうる至極の舞だ。寂寥を鮮麗が包み、死を美が乗っ取る。これほどのパラドックスが、これほどの背理が、他にあろうか。

    願わくは 花の下にて 春死なん
              そのきさらぎの 望月の頃

 なんとも即物的に過ぎる西行の企みは、背理を一身に担おうとしたのかもしれない。だとすれば、悍しい成功を見たといえなくもない。

 古今和歌集は詠じる。

    のこりなく 散るぞめでたき 桜花 
                     ありて世の中 はての憂ければ

 下の句はは詠嘆であろうか、それとも諧謔であろうか。ふた様に亘るところに滋味はある。比するに、上の句はあらぬ誤読を生んだやもしれぬ。勲(イサオシ)の賛美に供されたとしたら、詠み人の胸中とは遙けき逕庭がある。なぜなら、舞い手は手弱女たちだからだ。

 めでたき舞はもうすぐ終わる。のこりなく仕舞いとなる。舞子たちは数ヶ月の暇(イトマ)を挟んで、新たな支度に入る。一巡の後、願わくは花の下にて晴々と集いたい。 □


小保方、ガンバレ!

2014年04月03日 | エッセー

◇「自分が言わなくても誰かが代わりに言いそうなこと」よりは「自分がここで言わないと、たぶん誰も言わないこと」を選んで語るほうがいい。それは個人の場合も、メディアの場合も変わらないのではないかと僕は思います。◇(『街場のメディア論』から)
 この内田 樹氏の箴言に背中を押されて、小保方晴子女史にエールを送りたい。もとより稿者は科学者などではなく課外者、有態にいえば化外者である。
 まずは臆面もなく、旧稿を引きたい。
〓題名は「四人はなぜ死んだのか」。文芸春秋より99年7月に発刊された。著者は三好万季。中3の夏休みに理科の宿題として書いたレポートだったというから、もはや脱帽。第60回文芸春秋読者賞を受賞した。
 『犯人は他にもいる』と昨年和歌山で起きた「毒入りカレー事件」を追う。
 当時、「天才少女論客」の名を取った。その後、とんと消息を知らずに来た。医者志望だった彼女、いまごろは研修も終え第一線に立っているのかと、期待しつつ調べてみた。ところが時の人となった翌年、高校を辞めていた。理由は定かではないが、ブラックジャーナリズムの好餌にされた痕跡が窺える。
 99年12月発行の雑誌「噂の眞相」に「『天才少女論客』三好万季の親父は詐欺師だった!」が載った。父君の間で何度か攻防がなされたようだが、『書き逃げ』『書き得』そして『書かれ損』に終わったらしい。詳しい経緯は与り知らぬが、ショーぺンハウアーが弾劾した「断然有害」の暴力性、その毒牙にかかった可能性が高い。
 なんとも口惜しい限りだ。事の「真相」は措いてでも、『怪物』をおもしろがり育てようなどという優しさや度量は、この社会から消えてなくなったのだろうか。「出る杭は打つ」どころか、「出る」前に打ち込んでしまおうというまことに貧しい国に成り下がってしまったのか。三文雑誌が『五人目』のスケープゴートを生んだことだけは確かだ。〓(09年、「あの人は今?」から抄録)
 囂しい偽造説に、埃を被った愚案が蘇った。「『怪物』をおもしろがり育てようなどという優しさや度量」が失せた社会は決してクリエーティブではなかろう。眉に唾つけて狐狸に騙されないのも用心のひとつだが、騙されてみるのも一興である。ヒョウタンからウマが出ないとも限らない。なにもマッドサイエンティストを嘉しているわけではないが、常軌を超え世紀を画する知見はほとんどがマッドサイエンティストに擬せられる。ガリレオは異端とされたし、アインシュタインはネグレクトされた。“デビュー”はそのようなものだ。ともあれ「芽を摘むな!」とだけは呼ばわりたい。玉石混淆という。当然、玉は悲劇的に少ない。だからといって十把一絡げに捨てるわけにはいかない。ならば、どうする。とりあえず、バッファに置いておこう。それが『おもしろがる』ということではないか。おそらくこの属性は人類の進化に欠かせないものだったにちがいない。
 先日も引いたが、脳科学の達識を再録したい。
◇人生の目的のために真摯に努力することと、快楽に我を忘れることには、同じ脳内物質が関わっているのです。何かを成し遂げ、社会的に評価されて喜びを感じるとき、友人や家族や恋人から感謝やお祝いの言葉を聞いて幸福感に包まれるとき、私たちの脳の中では、快楽をもたらす物質「ドーパミン」が大量に分泌されています。この物質は食事やセックス、そのほかの生物的な快楽を脳が感じるときに分泌されている物質、またギャンブルやゲームに我を忘れているときに分泌されている物質とまったく同じなのです。これは一体どういうことなのでしょう。ご存じのように、ヒトという生き物は大脳新皮質、つまり「ものを考える脳」を発達させることで繁殖に成功してきました。狩りをしたり、植物の実を食べたり、繁殖期に異性を見つけて交尾したり、今を生きるために必要なことならほかの動物にもできます。ところがヒトという種は、遠い将来のことを見据えて作物を育てたり、家を建てたり、さらには村や国を作り、ついには何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐような生物です。そういった、一見役に立つかどうかわからなそうな物事に大脳新皮質を駆使することで結果的に自然の脅威を克服し、進化してきた動物がヒトであるともいえるでしょう。◇(中野信子著『脳内麻薬』から)
 「快楽をもたらす物質『ドーパミン』が大量に分泌」されるのは、「生物的な快楽を脳が感じるとき」だけではなく、「ギャンブルやゲームに我を忘れているとき」もである。後者はつまり「何の役に立つのかわからない、科学や芸術といったことに懸命に力を注ぐ」ことを先導し、ヒトが「自然の脅威を克服し、進化してきた」結果を招来した。大仰にいえば、『おもしろがる』には人類の進化が懸かっているわけだ。
 さて、先月末の拙稿で使った『寝技』をもう一度繰り出してみたい。
〓内田 樹氏の洞見を援引したい。
◇例えば、クラスに、級友がどんなにちゃんとした行為をしても、立派なことを言っても、「どうせ利己的で卑しい動機で、そういうことしてるんだろう」と斜めに構えて皮肉なことばかり言う人がいたとしますね。そういう人はたぶん自分は人間の「行為」ではなく、「本質」を見ているのだと思っているのでしょう。でも、世の中が「そういう人」ばかりだったら、どうなると思いますか。たしかに、どのような立派な行為の背後にも卑劣な動機があり、どのような正論の底にも邪悪な意図があるということになれば、世の中すっきりはするでしょう。「人間なんて、ろくなもんじゃない」というのは、たしかに真理の一面を衝いてはいますから。でも、それによって世の中が住み易くなるということは起こりません。絶対。だって、何しても「どうせお前の一見すると善行めいた行動も、実は卑しい利己的動機からなされているんだろう」といちいち耳元で厭らしく言われたら、そのうちに「善行めいた行動」なんか誰もしなくなってしまうからです。もう、誰もおばあさんに席を譲らないし、道ばたの空き缶を拾わないし、「いじめられっ子」をかばうこともしなくなる。誰も「いいこと」をしなくなる社会が住みよい社会だとぼくは思いません。全然。それよりは少数でも、ささやかでも、「いいこと」をする人がいる社会の方が、ぼくはいいです。その「いいことをする人」が「本質的には邪悪な人間」であっても、とりあえずぼくは気にしません。◇(「若者よ、マルクスを読もう」から)
 万が一、件の捏造が証明されたとして人類史的向上にどれほどの貢献が刻まれるであろうか。「世の中すっきりはするでしょう」が(その向きの論者には)、「人間なんて、ろくなもんじゃない」という「真理の一面」は明らかになっても、「それによって世の中(=世界)が住み易くなるということは起こりません。絶対。」だから、「とりあえずぼくは気にしません」でいいのではないか。なにせ、【スタップ細胞が偽物だった】として、脳梗塞、心臓発作、または発狂、倒産などの実害を被る人は地球上には一人もいないはずである(おそらく)。ならば、【彼女】が威風堂々と人類の先駆けに『気持ちよく』任じてくれる方がどれほど世界的受益が大きいか。〓(本ブログ「アポロ捏造説を諭す」から)
 【 】部分は、本稿用に置き換えた。寝技だから立技のように鮮やかに一本というわけにはいかない。抑え込みに入っても30秒は掛かる。解(ホド)けるやも知れぬ。だが、水際だった返し技を喰う心配はない。鬼の首を取ったように繰り返されるエビデンスと科学者倫理。二つ乍ら寝技に持ち込んだ。篤と吟味願いたい。
 近々、反論記者会見が予定されていると聞く。これは完全に後世の偽作らしいが「それでも地球は動く」を借りて、「それでもスタップ細胞はできる」はどうだろう。捨て台詞には持って来いだ。あーそれから、ぜひ割烹着でお出まし願いたい。年間580億円の交付金に頭が上がらず、『おもしろがり』精神を忘れ、組織の論理に絡め取られた理研を割(サ)いて烹(ニ)る。返す刀で、右に倣えの「邪悪な意図」探しメディアをも割烹に。んー、寓意に満ちてはいないか。
 小保方、ガンバレ! スタップ細胞をストップしてはいけない。今の苦悩は栄光へのワン・ステップだ。たとえ一人になっても、おじさんは君を信じる。いざとなれば、スタッフにだってなる。研究室の掃除ぐらいはできるし、なんならマウスの代わりをしてもいい。相当ガタは来ているが、いまだ生きた人体であることは確かだ。
 負けるな! 小保方。ガンバレ! 小保方。 □


『笑っていいとも!』終演に寄せて

2014年04月02日 | エッセー

 『笑っていいとも!』が終わった。同番組やタモリについては、何度か禿筆を呵してきた。佶屈聱牙な駄文の数々に赤面のいったり来たりだが、臆面もなく再録しつつ本ブログとしてもピリオドを打っておきたい。

 先ずは本ブログ開始直後、“警句”に触れた。
〓タモリ、時として警句を発する。徹夜で飲んでいたといって、「笑っていいとも」に出てきた。番組が始まって、1・2年のころだ。ほとんどヘベレケ状態、呂律も回らない。案の定、抗議が殺到した。そして明くる日。開口一場、史上最高の『警句』が発せられた。 
  ―― 『お前ら、白面でテレビなんか見るな!!』
 我が意を得たり! 立ち上がって快哉を叫んだ。よくぞ言ってくれた。くすぶっていた鬱憤が一気に晴れた瞬間だった。以来、より深く、さらに強く氏を敬愛するようになった。
 そうなのだ。たかがテレビなのだ。所詮バラエティーだ。大仰に目くじら立てるほうがおかしい。ワイドショーなるものが最盛期を迎えようとしていたころだった。頼みもしないのに、河原乞食風情が国民の代弁者のようなツラをして得意然と講釈をたれていることに辟易していた。テレビがうとましくなりはじめていた当方にとって、それは痛快この上もない一言だった。〓(06年5月「白面はいけません!」から抄録)
 他にも、「嫌いな言葉は“努力”」などがある。このピカレスクを昼の帯に載せたところに当番組の肝があった。案の定、早速ショートしたのが件の警句だった。

 爾来6年後、当時感じつつあった“変調”を取り上げた。
〓中居なんという小僧はどうでもいいが、まさかタモリまでとは、あきれけーって二の句が継げない。
 フジテレビ『タモリ・中居のコンビニでイイのに…!』──ドラマチック・アウトドア。4月9日(月)夜9時から11時18分まで放送された。
 筆者はスポンサーではないから文句を付ける筋合いはない。だが、6000万タックスペイヤーの1人として、電波という公共財の無駄遣いには異を唱えてもよかろう。
 だらだらと延々2時間余。とてもじゃないが、番組の名には値しない。2時間余とは、筆者がその長丁場見ていたわけではない。それならボケの始まりか終わりだ。番組表から知ったのであり、アタマだけを見てすぐにリモコンを床に叩きつけた。……といえばカッコいいが、その振りだけをしてそっと赤い電源ボタンを押した。
 番組の宣伝、美食、飽食、饒舌、およそ無意味な与太話、楽屋落ちのネタ、裏話、当たり障りのない相関図、生放送によるドタバタや失言、芸人たちの上下関係などが、軽い多幸症的雰囲気の中でズルズルと送り続けられる。与太番組の典型である。といって、番宣を軸に視聴率を稼げるアイテムをてんこ盛りにしたしたたかな計算も窺える。
 かつてタモリは「白面でテレビなんか見るな!」と名言をはいた。あの開き直りと挑発、本質の諧謔は、どこへいったのか。銘酒を遣りながらにせよ、こんなモノではほろ酔いどころか悪酔い、二日酔いは必定だ。『白面で見てはならないテレビ』の旗手だったタモリは、もはや消えたのであろうか。歳を食っただけ、好々爺に成り下がったのだろうか。
 穿っていえば、年老いてなお老練な『白面で見てはならないテレビ』を送っているのかもしれない。新手のそれだ。ならば納得だが、アバタもえくぼに過ぎるか。
 タモリがデビューしたてのころ、大橋巨泉は「あんな座敷芸がテレビで通用するわけがない!」とこき下ろした。巨泉はテレビがすでに「座敷」にあることに気づいていなかった。巨泉の不明であった。今や座敷どころか所構わず、である。夕餉を覗きに、本当に座敷に上がり込んでくる野放図な落語家崩れまでいる。テレビのフレームワークそのものが座敷化しているのだ。となれば、お笑い芸人の跳梁、跋扈は得心がいく。だって、テレビは「お座敷」なのだから。ということは、お座敷に御酒は付き物である。白面でなんか見るのは野暮、下衆の極みになる。やっぱり「白面でテレビなんか見るな!」だ。蓋し名言は時代を超える。〓(12年4月「タモリよ、どうした!?」から抄録)
 『いいとも』は、当初ちょいの間のつもりだったそうだ。そういえば、タイトルもテーマソングもいかにもブリコラージュの風(フウ)がある。ところが案に相違して“お昼の顔”になってしまった。それも30年。むしろ変調しない方がおかしいともいえる。ピカレスクは「お座敷」の日常性に絡め取られるほど退潮した。「タモリよ、どうした!?」──稿者は変調に、終焉の予兆を捕らえたのかも知れない。

 1年半後、ヒット中の「タモリ論」(樋口毅宏著、新潮新書)に触発されて“心性”を綴ってみた。
〓同書になかった点について愚慮、私見を書きなぐっておきたい。
 『坂』についてだ。
 「日本坂道学会」、おふざけの会ではない。真面目な研究会だが、自称の学会で会員は二人。タモリは副会長である。「タモリの坂道美学入門」という著書もある。NHKの『ブラタモリ』でも、坂の話題になると異様に元気だったのが記憶に新しい。なぜ『坂』にアディクトするのか。
 上掲書が指摘するタモリの「孤独」と「狂気」。そのバランサーが『坂』ではないか。
 いうまでもなく「孤独」はタモリの芸を裏打ちしている。諸説あるが、“グラサン”はお笑いの裏に隠し持った「孤独」ないしはシニシズムを気取られないためのペルソナにちがいない。「狂気」は希釈し小出しにするとタモリの持ちネタになる。イグアナだ。たけしのような出し方はしない。たけしの亜流は本人を含め、誰も望まない。
 しかし当人の中では二つのモチベーションは常に拮抗しているのではないか。有り体にいえば、股裂き状態だ。そこに登場するのがオタクだ。坂である以上、上りと下りがある。どちらに立ってどちらに向かうかは別にして、上位と下位を結ぶものとして坂はある。「孤独」と「狂気」をいずれに配するかはさておき、心性における位階差を地上に落とすと坂になるといえなくもない。そう措定すると、あのアディクションには合点がいく。幻想における血みどろの果たし合いをピットに落としてスポーツにしてみたり、ディスプレイに落としてゲームにしてみたり、そのようにして人はただならぬ心性を包(クル)んできた。それをタモリはより知的に昇華している。そう視たい。一ファンの舞文曲筆ではあるが。〓(13年8月「舞文 三題」から抄録)

 そして昨年12月である。終演の“理由”についてドクサを述べた。
〓来年3月、タモリが『笑っていいとも』を降りる。半年も前からえらい騒ぎである。それほどタモリの存在は大きい。稿者は初回から観ている。まあ半年も続かないな、という印象であった。それがなんと31年にも及ぶ長寿番組となった。降りることより、それ自体が事件だともいえる。
 博覧強記、万般に造詣が深くなんでもこなす。エロくもあるがエラくもあって、笑いにかけては当代随一。私生活は堅実で、ヘマはこかない。巨泉をすっかりオーバーライトしてしまったのがタモリであった。座敷芸は見事にメジャーとなり、タモリ自身もエスタブリッシュメントとなった。降板の真因とは、実はそれではないか。酒宴の座敷が日常化すると、褻にも晴にもとはいかなくなる。「晴」が異を唱える。
 褻に居着くテレビメディアは容易に「晴にも」浸潤する膂力を持っていた。まさに褻にも晴にも、である。「晴」に位置する(とされる)NHKにも(さらにはEテレにまで)お笑い芸人が頻出するのはその好個の例だ(お笑い番組ではなく)。先鞭はタモリがつけた(こればかりは巨泉もなし得なかった)。
 当たり前の話だが、芸人にも意外な側面や能力がある。如上の「巨泉をすっかりオーバーライトしてしまった」『タモリ』が量産されるに至った。何とかオタク、タレント擬き、歌手擬き、俳優擬き、アンカーマン擬き、コメンテーター擬きなど、芸を売らない芸人の(あるいは元芸人の)独壇場である。果ては、芸人による芸人のための芸人の隠し芸大会や、のど自慢、物まね大会、楽屋話、与太話の類いが際限もなく繰り返される破目となった。中には家族まで闖入して馬鹿騒ぎするものまである。オーディエンスとの敷居は無きに等しく、芸能界の内もボーダレスになっている。挙句、笑いの芸は果てもなく劣化しつつある。繰り返すが先鞭はタモリがつけ、『笑っていいとも』がゲートウェイとなった。
 言うまでもないが、職業の選択は自由である。貴賤もない。しかし自らの生業に対する自覚は不断に必要ではないか。吉本隆明の以下の言は、依然として重い。
◇芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。◇(「情況」より)
 かつての島田紳助は「錯覚」の典型であったろうし、みのもんたも同類である。似たり寄ったりの手合は後続しつつあるし、芸能界に「錯覚」は瀰漫しているともいえる。今や「自覚」をもつ者は希少種となっている。
 ここからが欲目である。
 「座敷芸は見事にメジャーとなり、タモリ自身もエスタブリッシュメントとなった」事況を、彼はリセットしようとしているのではないか。いや、「リセット」は正しくないかもしれない。自らが領導した芸能シーンがあらぬランナウェイを始めた。もう彼には止められない。超えることはなおできない。となれば、ごめんなさいとドロップアウトするほかはない。『タモリ』を脱するに如くはない。看板番組を畳むのはそのためだ。〓(13年12月「脱タモリ論」より抄録)
 まったくの臆見である。ラストのパッセージは面面の楊貴妃でもある(カマではない。念のため)。

 最終回特番は瞬間で33パーセント強の生特番最高視聴率を記録した。稿者は昼も夜も、義理を立ててすべて見た(何の義理だか判らぬが)。夜の部では、最後の週間レギュラー陣が感謝の言葉を述べるという企画があった。ステージに立つタモリに向かい合って語りかける。まるで生きながらの弔辞だ。まあ、タモリもよく耐えたものだ。一番らしくないシチュエーションで、一番らしくない応対をする。ピカレスクにとって最も残忍な仕打ちだ。その中で唯一光ったのが太田 光ではなく、その相方の田中裕二だった。彼は、約めると「32年間もやってて、タモリさんは毎回テレてましたね。これだけやってて、慣れないところがすごい! だから長続きできたんですね」と語った。これは達見である。慣れないからこそ長続きできた。茶の間に闖入したピカレスクがテレないわけがあるまい。場違いもいいところだ。居心地が悪いから慣れようにも土台ムリだ。だから番度新鮮だったともいえる。タモリの本性をこれほど適確に捉えた寸評を知らない。田中裕二に喝采だ。
 テレといえば、吉永小百合からのプレゼントを受け取った際のあられもない赤面。第1回のテレフォンショッキングは桜田淳子だった。その時以来、稿者は最終回は吉永小百合にちがいないと睨んでいた。タモリが熱狂的なサユリストであることはつとに有名だ。ところが予想は外れ、たけしだった。夜の出演予定も映画撮影のためテレビ中継となった。それでも、画面越しでさえテレまくる。「タモリよ、どうした!?」ではなく、「タモリよ、やっぱり!?」である。
 ともあれ、番組終了に何の感慨も抱いていないのはタモリ自身であることは確かだ。逆説めくが、でなければ32年間も続くはずがない。
 かくなる上は、
  〽頭につまった
   昨日までのガラクタを 処分処分〽
 した『脱タモリ』を俟つとしよう。 □