かつて本ブログ(昨年12月「数え日に」)でペンディングにしていた論件──
<大坂ダブル選挙、維新圧勝 府知事選と大阪市長選が11月27日に投開票され、新市長には、橋下徹・前知事が当選した。>
大阪についてはペンディングである。ただ一点だけいえば、橋下氏の掲げる「教育改革」には嫌悪感を覚える。こういう形で『維新』政治の「見栄え」を狙うなら、とんだ大間違いだ。──を取り上げたい。『橋下流』、『橋下現象』といわれるものについてである。
『船中八策』は正式には3月上旬に発表されるそうだが、骨格は明らかになっている。
──①統治機構の再構築 ②行財政改革 ③教育改革 ④公務員制度改革 ⑤社会保障制度改革 ⑥経済政策 ⑦外交・安全保障 ⑧憲法改正──を柱とし、細目では、◆首相公選制 ◆憲法改正の発議要件を衆参両院それぞれの3分の2から過半数に改める ◆ベーシック・インカムの導入なども盛り込むらしい。
今月19日から朝日新聞が「唯我独走 橋下考」と題して、特集を組んでいる。そこでは3つの象徴的視点から考察を試みている。
一方、「週刊現代」は3月3日号で、中沢新一・内田 樹両氏による特別対談を載せた。「『橋下現象と原発』これからの日本を読む」というタイトルである。さすがに地層を掘り起こすような深い洞察だ。
本稿では朝日の視点を援用し、中沢・内田両氏の見解を中心に愚考を廻らしてみる。(〓部分は、橋下氏の発言)
1.選 挙
〓「私は選挙で選ばれた者であり、私の感覚が府民の大枠の感覚だとご理解いただきたい」
「民意は重いし反論の機会は十分に与えた。これを無視するのは行政マンもできないだろう」
「『独裁的』との批判をよく受けますが、僕の判断が適切だったかどうかは、選挙で有権者の審判を受ければいいと思っています」〓
民意を絶対視した中央集権的発想が明瞭だ。いや逆に、集権の根拠に民意という錦の御旗を掲げているとも見える。本ブログでも何度か触れたが、たとえ民意は絶対であろうとも選挙は絶対ではない。選挙がはたして民意を十全に掬い得るものかどうかが、いま深刻に問われている。後述するが、選挙や多数決原理そのものに民主主義が生来的に孕むアポリアを指摘する識者もいる。選挙による多数の支持は白紙委任なのかどうかを含め、ドラスティックな議論が必要とされている。なのに、氏のワーディングはいかにも乱暴だ。世上向けられるポピュリズム批判への口封じともとれる。上記の対談では、中沢氏の臭覚が背後に「ヤンキー的なもの」を捕らえる。
◇内田:彼は典型的なアンチ・パターナリスト(反父権主義者)でしょう。既得権益者に向かって、「われわれに権力も財貨もすべて譲り渡せ」という。
中沢:そのオヤジたち(既成政党の老政治家たち・引用者註)はいまや政治の世界では退場を迫られている。代わりに登場したのが兄ちゃんみたいな人たちで、彼らはおしなべて新自由主義を掲げて人気を得ている。背景に「ヤンキー的なもの」の静かな台頭もあるかも。◇
内田氏はアンチ・パターナリズムといい、中沢氏はヤンキーという。後者は前者の俗化ともいえる。背広を着て政道の端に屯するやんちゃな兄(アン)ちゃんたち、といった図か。
2,競 争
〓「大阪部構想の一つの目標は、大阪を世界に冠たる大部市につくりあげ、東アジアの競争に打ち勝ち、人、モノ、金を集め、皆さんの所得を上げることだ」
「倒産のリスクがない役所は、民間以上に切磋琢磨してほしい」
「何事もやっぱり人生は競争」〓
競争原理、市場原理への素朴な信奉である。教育基本条例案がその最右翼。なんとも胡乱だ。朝日の今月1日付に、作家・佐藤優氏がインタビューに応えていた。
◇人間は合理的な存在でマニュアルさえ決めれば動くという考えなのでしょう。でも外交官として様々な人を見てきた者として疑問です。人間とは不合理なもの。マニュアルで行動を支配できるなんてフィクションにすぎない。条例案は国際競争に勝てる人材を育てるとうたいますが、教科書を覚え、答案用紙に再現する能力が高い人間が本当に勝てるのか。私が付き合ってきた海外のエリートは深い教養と豊かな発想、歴史観を備えた手ごわい相手ばかり。テストの点を稼ぐ偏差値秀才は太刀打ちできない。既存の教育システムの中で締め付けを強めることにばかり力を注ぐのではなく、もっと大きな議論を提起したらいい。
国家にとって「いざというとき国のために死んでくれる国民」「きちんと働いて税金を納める国民」を育てることが教育の究極の目的です。愛国心や国際競争力の育成を理念に掲げ、首長をトップとした鉄の規律を持ち込もうとしている条例案も、本質的なところで国家の意思と調和する。国家の機能が弱りつつある中、国家という生き物の生存本能のようなものが橋下さんに乗り移っている。私にはそんなふうに見えます。◇
佐藤氏らしい腸(ハラワタ)を抉るような洞見である。「国家という生き物の生存本能」が憑依したとは、まことに鋭い。掲げる教育改革が「教育の究極の目的」を指向するとしたらそのまま「国家の意思と調和する」ことになる。それは国家主義以外のなにものでもない。
さらに橋下氏が教育に市場原理を持ち込もうとしていることに、内田氏が哲学的な切り口から異を唱える。
◇内田:僕がいちばん危険だと思うのは教育基本条例。教育を効率とか費用対効果とかビジネスの言葉で語ろうとしている。
中沢:キーワードは、僕らが愛用する「贈与の感覚」だね。
内田:レヴィナス(エマニュエル・レヴィナス、仏、ユダヤ人哲学者・引用者註)は「始原の遅れ」という言葉で言うんだけど、僕たちはすでに見知らぬ誰かから贈り物を受け取ってしまっている。ここに存在していられるのは、僕より前にこの場所にいた誰かが僕のために場所を空けてくれたからだ、と。だから、人間の最初の行動はすでに受け取ってしまった贈り物に対する反対給付義務を果たすことだ。それが贈与論の基本的な考え方だね。教育も医療も行政も、社会制度の根幹にかかわる制度は本来はビジネスが入り込む場所じゃない。
中沢:贈与の特徴は「時間差があること」。たとえば教育であれば、本来は世代をまたいで受け継がれていく。でもビジネスマンの発想では、「カネを払った分、役に立つものをすぐに寄こせ」ということになる。新自由主義者たちが言う「グローバルな人材の育成」という教育理念は、まさに「すぐに役に立つことを教えろ」という消費者マインドに基づいている。そこには贈与の精神が欠如しています。◇
「贈与」に関しては深いテーマゆえ、内田氏の著作に当たるに如(シ)くはない。なににせよ、荒海に揉まれ舵定まらぬ船を導(シル)べする大きな灯台たるに疑いはない。
さらに、経済面での競争原理に話柄が転ずる。
◇中沢:今の大阪は全然堅牢じゃなくなっている。東大阪の町工場や船場の古くからある店はボロボロになり始めている。そういう大阪で「新自由主義的な発想でいかないと繁栄を維持できない」と言う人たちがいるけど、「今の繁栄」そのものがもうボロボロな幻想で。
内田:すでにボロボロに疲弊した労働者たちをさらに徹底した能力主義で格付けして非力なものを叩き落とすというのは、坂道を転げ落ちている時にアクセルを踏むようなものだよ。◇
「新自由主義的な発想」とはリバタリアニズムであろう。とくれば、マイケル・サンデル教授の「白熱教室」が連想される。なんだか、大阪の話は1、2周遅れの議論のようにも聞こえてくるのだが。
3.統 制
〓「僕が設定した政治的目標をいかに達成したか、貢献したかで人事が決まるのがあるべきだ姿だ」
「ギリシャをみてください。公務員の組合をのさばらせておくと国が破綻してしまう」〓
「橋下流」にさまざまな見方があるうちで、以下の指摘は最も「深層」に迫るものではないか。
◇内田:実際には彼は府知事の4年間でグローバリスト政策では成果を上げていないでしょう。大阪都だ、道州制だ、カジノだ、10大名物だ、維新塾だ、「船中八策」だと毎日のようにイシューを繰り出すからメディアは後追いするしかないけれど、政策成果の吟味は誰もしてない。
中沢:大阪から日本を変えると宣言するからには、「大阪的原理」をちゃんと大切にしないといけない。裏切ると大変なことになります。大阪は古来、海民や渡来民が入ってきやすい土地で、古墳時代から墓守や皮革産業など人や動物の死にまつわる仕事もごく身近だった。そのためか異端者とか敗者に優しい、受容器のような性格を持つ都市であり続けてきた。たしかにそこには差別もあるけど、社会的弱者に対する温かい眼差しが常にあった。6世紀末に聖徳太子が四天王寺を建立した時以来、そのことは連綿と可視化されてきました。弱者、敗者の受容器という大阪の歴史ある役割が、新自由主義によって消滅してしまうことが怖い。橋下さんも「選挙で勝ったから勝者」と単純に思わないで、自分の人気は目に見えない「大阪的原理」が支えてくれていると思ったほうがいい。◇
「異端者とか敗者に優しい、受容器のような性格を持つ都市」という「大阪的原理」は、重畳たる歴史の古層に立つ。依って建つ古層を自ら掘り崩す愚を犯してはなるまい。
内田氏の「毎日のようにイシューを繰り出すからメディアは後追いするしかないけれど、政策成果の吟味は誰もしてない」は、橋下流の本質部分を剔抉しているのではなかろうか。私には、都構想をはじめ繰り出すイシューが「後出しジャンケン」のような気がしてならない。先導しているようで、一瞬のタイムラグから先方の手を瞥見する。後出しが負けるわけはない。「問うに落ちず語るに落ちる」ともいえる。行き先を読んで待ち伏せれば捕らえられるのは当然だ。そのあたりの嗅覚は並ではない。弁護士稼業で体得したものであろうか。それともタレント稼業で獲得した呼吸か。あるいは件(クダン)の「大阪的原理」を庶民芸に開いたボケにツッコミ・ノリボケ・ノリツッコミの外連なのか。それなら地生えだ。
関連して、紹介したい。京大の佐伯啓思教授(社会経済学・社会思想史を専攻。アメリカニズムに懐疑し、ケインジアンの立場からグローバリズム・新自由主義を批判)が実に手厳しい見方をしている。(昨年12月1日付朝日新聞「民主主義と独裁」と題するインタビュー記事)
◇「小泉さんも橋下さんも、まず自分が人気を獲得して、大衆をうまく乗せ、自分のやりたいことを実現させてしまう。大衆を喜ばせるんじゃなく、大衆を扇動するデマゴーグに近い。ただ、小泉さんの場合、郵政民営化という目的がはっきりしていた。橋下さんは、何をやりたいのかが見えない」
<大阪都実現が目的なのでは。>
「大阪都構想は、目的ではなく手段の話です。市議会が反対するから、役人が働かないから大阪はダメなんだというだけで、府と市を再編して将来の大阪をどうするのかという具体的なビジョンがない。橋下さんは権力そのものが自己目的化しているんじゃないか。同じデマゴーグ的な政治家でも、橋下さんのほうが危険かもしれません」◇
ポピュリズム批判を超えて、「大衆を扇動するデマゴーグ」と視る。適評といえる。さらに民主主義の正体を次のように語る。
◇<「独裁が必要」とも語る橋下さんは、民主主義から逸脱しているという批判も受けています。>
「いや、むしろ民主主義が橋下さんを生み出したのです。もともと民主主義には非常に不安定な要素が埋め込まれている。民意といっても、一人一人の意見や利害は違う。選挙や多数決で集約しても、必ず不満が出てくる。その不満にもまた応えようとするので、結果的に政治は迷走する。民主主義が進み、より民意を反映させようとすればするほど、政治は不安定になってしまう。その場合、人々の不満を解消するためには、何か敵を作って、叩くのが一番早い。小泉さんや橋下さんのような政治家を生み出してしまう可能性が高いんです。橋下現象は、極端にいえば、民主主義の半ば必然的な結果でもあるんです。
日本人は、民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか。古代ギリシャの時代から、民主主義は放っておけば衆愚政治に行き着く、その危険をいかに防ぐか、というのが政治の中心的なテーマでした。だから近代の民主政治は、民意を直接反映させない仕組みを組み込んできた。政党がさまざまな利害をすくい上げ、練り上げてから内閣に持っていくことで、民意は直接反映しないのです。二院制もそうで、下院は比較的民意を反映させるが、上院はそうではないことが多い。実際の行政を、選挙で選ばれるのではない官僚が中心になって行うのも、その時の民意に左右されず、行政の継続性、一貫性を担保するためです。そういう非民主的な仕組みを入れ込むことによって、実は民主政治は成り立っていました。その仕組みが働かなくなってきたのも事実ですが、日本では公務員バッシングといった薄っぺらいかたちで官僚システムを攻撃してきた。政治が民意に極端に左右されないようにする仕組みが失われ、平板な民主主義ができあがってしまった」◇
目眩を覚える論旨だ。「民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか。」だから、本稿で先述した『民主主義が生来的に孕むアポリア』に理解が及ばない。だから、「民主政治は、民意を直接反映させない仕組みを組み込んできた」手の内が見抜けないのだ。挙句、出て来るものは「平板な民主主義」ということになる。後頭部を痛打されでもしたような衝撃の創見だ。やっぱり学者は偉い、というほかない。
ここらで括ろう。先日紹介した「輿那覇史観」が恰好の規矩になる。一部は今月2日付「平成の『大鏡』?」に引用した。詳説は「中国化する日本 日中『「文明の衝突』一千年史」(文藝春秋)を玩味するほかないが、「宋朝型社会」と「江戸時代型社会」との対比から日本近現代史を俯瞰するものだ。怖ろしく斬新で知的カタルシスに満ちる。私はこれを、『鷲づかみ日本史』と名づけたい。
同書で輿那覇氏は「中国化」についてこう語る。
◇現在のグローバル社会の先駆けともいえる近世宋朝中国=中華文明の本質を、あえて一文で要約すれば、「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」といったところになるでしょう。◇
この要約を開いて四捨五入の上、概括すると──
宋朝型とは、中央集権と市場原理を竜骨とする。前者は、徳治と科挙による貴族制の廃止。封建制から郡県制への移行を柱とする。後者は貨幣の普及、自由競争の導入。社会の流動化を主要素とする。一方、江戸型とはその逆だ。身分制と封建制。米本位経済と社会の固定化。
──となろうか。別けても明治維新の内実は千年遅れの中国化、宋朝型社会の導入、移行と捉える。加えて西欧化によるハイブリッド社会が成立した稀有の成功例だという。
「橋下流」を上記の文脈で括ると──
選挙至上、民意の絶対化は「徳治」に(新しい装いの「受命思想」ともいえる)。官僚叩きとブレーン政治、「維新塾」は「科挙」に。都構想は「郡県制」に。教育改革は市場原理、自由競争に。
──比することができよう。
橋下氏は新聞のインタビューで、「明治以来の制度を壊すという人が、なぜ「維新」とか「船中八策」など明治を作ったものの名前をつけているんですか?」との記者の問いかけに、「まったく思慮はありません。そこは批判してください」と応えた。
この珍妙な問答は、記者と橋下氏双方が維新の実質をまったく理解していないことから起こったといえる。『鷲づかみ日本史』に倣えば、『維新』とはそのものズバリのネーミングなのだ。それもかなり皮相で、ちまちまとした……。
果たして、橋の下はどこへ向かう流れか? □