伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

634のはなし

2012年02月29日 | エッセー

 持って生まれた性分ゆえに、碌でもないことによくこだわる。さして意味もないし、もちろん金にもならぬ。だが、頭の体操にはなる。
 先日来ハマっている古川柳、そのうちでも破礼句(バレク・下ネタ中心の江戸川柳)に殊の外執心している。さて、次の句である。
 
   御めかけの声二ケ国へひヾひたの
 
 隅田川にたゆとう遊山の舟。芸者上がりの御めかけさんがいい声で唄っている。その美声が隅田川の両岸に響き渡る。「声」には別の解釈もできるであろうが、本稿の主意からは外れるので触れない(まことに申し訳ない)。
 問題は、両岸が「二ケ国」と詠まれていることだ。二つの国とは、武蔵国と下総国である。つまり隅田川が国境(クニザカイ)だ。隅田川より東側が下総国、西側が武蔵国である。
 となると突然だが、「東京スカイツリー」を槍玉に挙げざるをえない。なぜか? 634メートルの根拠が崩れるからだ。
 スカイツリーは墨田区押上1丁目に立つ。同町、というより墨田区そのものが隅田川の東側にある。ということは武蔵国ではなく、下総国に立地している! 
 これは一大事ではないか。相当マズい。「しもうさ」では、どだい数字にはならぬ。634がダメだとなると、いっそ『674』ではどうか(大阪に『宮本むなし』という定食屋チェーンがある。むなしのくせに、ご飯とみそ汁がお代わり自由だ)。でも、「空し」だからマズいか。でも、「空(ソラ)」を「刺(=4)」すで結構イケるかもしれない。しかし構造的にあと40メートルはキツかろう。664も654も644も、はたまた624もこじつけが浮かばぬ。アタマの「6」は技術的なマキシムだろうが、下桁に「4」をなぜ残す? あー、土壷に嵌まりそう……。
 アタマがブレイクする前にコーヒーブレイクして調べてみた。
 なになにの国という令制国は律令制に基づいて生まれた。奈良時代から明治初期まで、日本を地理上、行政上区分けする基本単位であった。「延喜式」で「大国・遠国」と格付けされた両国は、制定時にその境を隅田川とされた。ところが近世に至り、徳川幕府の河川改修により境界を太日川(おおいがわ・現江戸川)まで東にずらした。つまり江戸初期に現墨田区域は、下総国からそっくり武蔵国に編入されたのである。だから、『634』でよいのだ。先述の江戸川柳は古代の名残でそう呼び習わしていたのであろう。そう考えた方がリーズナブルだ。
 あるいは国ではなく「武蔵野」ととれば、これがまた面倒なことになる。武蔵野とは武蔵野台地の略称である。武蔵野台地は荒川と多摩川に挟まれた地域に広がる台地である。この「荒川」がややこしい。端折っていえば、今の隅田川が昔の荒川下流域である。岩淵水門より下流でいま荒川と呼ばれているのは、明治から大正にかけて造られた「荒川放水路」のことである。昭和40年に荒川と改称した。したがって今に引き寄せれば、「隅田川」と多摩川に挟まれた地域が武蔵野になる。これもマズい。押上1丁目は武蔵野ではくなる。となれば、厳密には「武蔵野」説は採用し難い。
 なんとも歯切れの悪い展開なのだが、実は驚き。話は逆なのだ。
 東京スカイツリー、当初の計画は610メートルであった。ところが、世界のあちこちで高層建造物が建てられていく。どうせなら自立式電波塔世界一の高さを目指そうではないかと衆議が熟し、種々検討の結果634メートルに決定した。昨年11月には、目論みどおり「世界一高いタワー」としてギネスに登録された。これが事の次第だ。そこに登場したのが「武蔵=むさし」である。634を覚えやすくするため、シャレてみた。つまり「武蔵国」はパブリシティー上、後出ししたものである。634が先、武蔵が後。完全な勘違い。順序が逆さまだったのである。お恥ずかしい限りではあるが、少しは頭の体操になった。

 いよいよ開業を5月に迎える。21世紀の『遊山の塔』は「二ケ国」どころか、世界中に「ひヾひたの」である。しかも「御めかけ」なぞではなく、立派な正妻だ。いや、待てよ。んー、東京タワーはどうなる? また、難問だ。 □


橋下流とは?

2012年02月26日 | エッセー

 かつて本ブログ(昨年12月「数え日に」)でペンディングにしていた論件──
<大坂ダブル選挙、維新圧勝  府知事選と大阪市長選が11月27日に投開票され、新市長には、橋下徹・前知事が当選した。>
 大阪についてはペンディングである。ただ一点だけいえば、橋下氏の掲げる「教育改革」には嫌悪感を覚える。こういう形で『維新』政治の「見栄え」を狙うなら、とんだ大間違いだ。──を取り上げたい。『橋下流』、『橋下現象』といわれるものについてである。

 『船中八策』は正式には3月上旬に発表されるそうだが、骨格は明らかになっている。
──①統治機構の再構築 ②行財政改革 ③教育改革 ④公務員制度改革 ⑤社会保障制度改革 ⑥経済政策 ⑦外交・安全保障 ⑧憲法改正──を柱とし、細目では、◆首相公選制 ◆憲法改正の発議要件を衆参両院それぞれの3分の2から過半数に改める ◆ベーシック・インカムの導入なども盛り込むらしい。
 今月19日から朝日新聞が「唯我独走 橋下考」と題して、特集を組んでいる。そこでは3つの象徴的視点から考察を試みている。
 一方、「週刊現代」は3月3日号で、中沢新一・内田 樹両氏による特別対談を載せた。「『橋下現象と原発』これからの日本を読む」というタイトルである。さすがに地層を掘り起こすような深い洞察だ。
 本稿では朝日の視点を援用し、中沢・内田両氏の見解を中心に愚考を廻らしてみる。(〓部分は、橋下氏の発言)
                    
1.選 挙 
〓「私は選挙で選ばれた者であり、私の感覚が府民の大枠の感覚だとご理解いただきたい」
「民意は重いし反論の機会は十分に与えた。これを無視するのは行政マンもできないだろう」
「『独裁的』との批判をよく受けますが、僕の判断が適切だったかどうかは、選挙で有権者の審判を受ければいいと思っています」〓
 民意を絶対視した中央集権的発想が明瞭だ。いや逆に、集権の根拠に民意という錦の御旗を掲げているとも見える。本ブログでも何度か触れたが、たとえ民意は絶対であろうとも選挙は絶対ではない。選挙がはたして民意を十全に掬い得るものかどうかが、いま深刻に問われている。後述するが、選挙や多数決原理そのものに民主主義が生来的に孕むアポリアを指摘する識者もいる。選挙による多数の支持は白紙委任なのかどうかを含め、ドラスティックな議論が必要とされている。なのに、氏のワーディングはいかにも乱暴だ。世上向けられるポピュリズム批判への口封じともとれる。上記の対談では、中沢氏の臭覚が背後に「ヤンキー的なもの」を捕らえる。

◇内田:彼は典型的なアンチ・パターナリスト(反父権主義者)でしょう。既得権益者に向かって、「われわれに権力も財貨もすべて譲り渡せ」という。
中沢:そのオヤジたち(既成政党の老政治家たち・引用者註)はいまや政治の世界では退場を迫られている。代わりに登場したのが兄ちゃんみたいな人たちで、彼らはおしなべて新自由主義を掲げて人気を得ている。背景に「ヤンキー的なもの」の静かな台頭もあるかも。◇

 内田氏はアンチ・パターナリズムといい、中沢氏はヤンキーという。後者は前者の俗化ともいえる。背広を着て政道の端に屯するやんちゃな兄(アン)ちゃんたち、といった図か。

2,競 争
〓「大阪部構想の一つの目標は、大阪を世界に冠たる大部市につくりあげ、東アジアの競争に打ち勝ち、人、モノ、金を集め、皆さんの所得を上げることだ」
「倒産のリスクがない役所は、民間以上に切磋琢磨してほしい」
「何事もやっぱり人生は競争」〓
 競争原理、市場原理への素朴な信奉である。教育基本条例案がその最右翼。なんとも胡乱だ。朝日の今月1日付に、作家・佐藤優氏がインタビューに応えていた。

◇人間は合理的な存在でマニュアルさえ決めれば動くという考えなのでしょう。でも外交官として様々な人を見てきた者として疑問です。人間とは不合理なもの。マニュアルで行動を支配できるなんてフィクションにすぎない。条例案は国際競争に勝てる人材を育てるとうたいますが、教科書を覚え、答案用紙に再現する能力が高い人間が本当に勝てるのか。私が付き合ってきた海外のエリートは深い教養と豊かな発想、歴史観を備えた手ごわい相手ばかり。テストの点を稼ぐ偏差値秀才は太刀打ちできない。既存の教育システムの中で締め付けを強めることにばかり力を注ぐのではなく、もっと大きな議論を提起したらいい。
 国家にとって「いざというとき国のために死んでくれる国民」「きちんと働いて税金を納める国民」を育てることが教育の究極の目的です。愛国心や国際競争力の育成を理念に掲げ、首長をトップとした鉄の規律を持ち込もうとしている条例案も、本質的なところで国家の意思と調和する。国家の機能が弱りつつある中、国家という生き物の生存本能のようなものが橋下さんに乗り移っている。私にはそんなふうに見えます。◇

 佐藤氏らしい腸(ハラワタ)を抉るような洞見である。「国家という生き物の生存本能」が憑依したとは、まことに鋭い。掲げる教育改革が「教育の究極の目的」を指向するとしたらそのまま「国家の意思と調和する」ことになる。それは国家主義以外のなにものでもない。
 さらに橋下氏が教育に市場原理を持ち込もうとしていることに、内田氏が哲学的な切り口から異を唱える。

◇内田:僕がいちばん危険だと思うのは教育基本条例。教育を効率とか費用対効果とかビジネスの言葉で語ろうとしている。
中沢:キーワードは、僕らが愛用する「贈与の感覚」だね。
内田:レヴィナス(エマニュエル・レヴィナス、仏、ユダヤ人哲学者・引用者註)は「始原の遅れ」という言葉で言うんだけど、僕たちはすでに見知らぬ誰かから贈り物を受け取ってしまっている。ここに存在していられるのは、僕より前にこの場所にいた誰かが僕のために場所を空けてくれたからだ、と。だから、人間の最初の行動はすでに受け取ってしまった贈り物に対する反対給付義務を果たすことだ。それが贈与論の基本的な考え方だね。教育も医療も行政も、社会制度の根幹にかかわる制度は本来はビジネスが入り込む場所じゃない。
中沢:贈与の特徴は「時間差があること」。たとえば教育であれば、本来は世代をまたいで受け継がれていく。でもビジネスマンの発想では、「カネを払った分、役に立つものをすぐに寄こせ」ということになる。新自由主義者たちが言う「グローバルな人材の育成」という教育理念は、まさに「すぐに役に立つことを教えろ」という消費者マインドに基づいている。そこには贈与の精神が欠如しています。◇

 「贈与」に関しては深いテーマゆえ、内田氏の著作に当たるに如(シ)くはない。なににせよ、荒海に揉まれ舵定まらぬ船を導(シル)べする大きな灯台たるに疑いはない。
 さらに、経済面での競争原理に話柄が転ずる。

◇中沢:今の大阪は全然堅牢じゃなくなっている。東大阪の町工場や船場の古くからある店はボロボロになり始めている。そういう大阪で「新自由主義的な発想でいかないと繁栄を維持できない」と言う人たちがいるけど、「今の繁栄」そのものがもうボロボロな幻想で。
内田:すでにボロボロに疲弊した労働者たちをさらに徹底した能力主義で格付けして非力なものを叩き落とすというのは、坂道を転げ落ちている時にアクセルを踏むようなものだよ。◇

 「新自由主義的な発想」とはリバタリアニズムであろう。とくれば、マイケル・サンデル教授の「白熱教室」が連想される。なんだか、大阪の話は1、2周遅れの議論のようにも聞こえてくるのだが。

3.統 制
〓「僕が設定した政治的目標をいかに達成したか、貢献したかで人事が決まるのがあるべきだ姿だ」
「ギリシャをみてください。公務員の組合をのさばらせておくと国が破綻してしまう」〓
 「橋下流」にさまざまな見方があるうちで、以下の指摘は最も「深層」に迫るものではないか。

◇内田:実際には彼は府知事の4年間でグローバリスト政策では成果を上げていないでしょう。大阪都だ、道州制だ、カジノだ、10大名物だ、維新塾だ、「船中八策」だと毎日のようにイシューを繰り出すからメディアは後追いするしかないけれど、政策成果の吟味は誰もしてない。
中沢:大阪から日本を変えると宣言するからには、「大阪的原理」をちゃんと大切にしないといけない。裏切ると大変なことになります。大阪は古来、海民や渡来民が入ってきやすい土地で、古墳時代から墓守や皮革産業など人や動物の死にまつわる仕事もごく身近だった。そのためか異端者とか敗者に優しい、受容器のような性格を持つ都市であり続けてきた。たしかにそこには差別もあるけど、社会的弱者に対する温かい眼差しが常にあった。6世紀末に聖徳太子が四天王寺を建立した時以来、そのことは連綿と可視化されてきました。弱者、敗者の受容器という大阪の歴史ある役割が、新自由主義によって消滅してしまうことが怖い。橋下さんも「選挙で勝ったから勝者」と単純に思わないで、自分の人気は目に見えない「大阪的原理」が支えてくれていると思ったほうがいい。◇

 「異端者とか敗者に優しい、受容器のような性格を持つ都市」という「大阪的原理」は、重畳たる歴史の古層に立つ。依って建つ古層を自ら掘り崩す愚を犯してはなるまい。
 内田氏の「毎日のようにイシューを繰り出すからメディアは後追いするしかないけれど、政策成果の吟味は誰もしてない」は、橋下流の本質部分を剔抉しているのではなかろうか。私には、都構想をはじめ繰り出すイシューが「後出しジャンケン」のような気がしてならない。先導しているようで、一瞬のタイムラグから先方の手を瞥見する。後出しが負けるわけはない。「問うに落ちず語るに落ちる」ともいえる。行き先を読んで待ち伏せれば捕らえられるのは当然だ。そのあたりの嗅覚は並ではない。弁護士稼業で体得したものであろうか。それともタレント稼業で獲得した呼吸か。あるいは件(クダン)の「大阪的原理」を庶民芸に開いたボケにツッコミ・ノリボケ・ノリツッコミの外連なのか。それなら地生えだ。
 関連して、紹介したい。京大の佐伯啓思教授(社会経済学・社会思想史を専攻。アメリカニズムに懐疑し、ケインジアンの立場からグローバリズム・新自由主義を批判)が実に手厳しい見方をしている。(昨年12月1日付朝日新聞「民主主義と独裁」と題するインタビュー記事) 

◇「小泉さんも橋下さんも、まず自分が人気を獲得して、大衆をうまく乗せ、自分のやりたいことを実現させてしまう。大衆を喜ばせるんじゃなく、大衆を扇動するデマゴーグに近い。ただ、小泉さんの場合、郵政民営化という目的がはっきりしていた。橋下さんは、何をやりたいのかが見えない」
<大阪都実現が目的なのでは。>
 「大阪都構想は、目的ではなく手段の話です。市議会が反対するから、役人が働かないから大阪はダメなんだというだけで、府と市を再編して将来の大阪をどうするのかという具体的なビジョンがない。橋下さんは権力そのものが自己目的化しているんじゃないか。同じデマゴーグ的な政治家でも、橋下さんのほうが危険かもしれません」◇

  ポピュリズム批判を超えて、「大衆を扇動するデマゴーグ」と視る。適評といえる。さらに民主主義の正体を次のように語る。

◇<「独裁が必要」とも語る橋下さんは、民主主義から逸脱しているという批判も受けています。>
 「いや、むしろ民主主義が橋下さんを生み出したのです。もともと民主主義には非常に不安定な要素が埋め込まれている。民意といっても、一人一人の意見や利害は違う。選挙や多数決で集約しても、必ず不満が出てくる。その不満にもまた応えようとするので、結果的に政治は迷走する。民主主義が進み、より民意を反映させようとすればするほど、政治は不安定になってしまう。その場合、人々の不満を解消するためには、何か敵を作って、叩くのが一番早い。小泉さんや橋下さんのような政治家を生み出してしまう可能性が高いんです。橋下現象は、極端にいえば、民主主義の半ば必然的な結果でもあるんです。
 日本人は、民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか。古代ギリシャの時代から、民主主義は放っておけば衆愚政治に行き着く、その危険をいかに防ぐか、というのが政治の中心的なテーマでした。だから近代の民主政治は、民意を直接反映させない仕組みを組み込んできた。政党がさまざまな利害をすくい上げ、練り上げてから内閣に持っていくことで、民意は直接反映しないのです。二院制もそうで、下院は比較的民意を反映させるが、上院はそうではないことが多い。実際の行政を、選挙で選ばれるのではない官僚が中心になって行うのも、その時の民意に左右されず、行政の継続性、一貫性を担保するためです。そういう非民主的な仕組みを入れ込むことによって、実は民主政治は成り立っていました。その仕組みが働かなくなってきたのも事実ですが、日本では公務員バッシングといった薄っぺらいかたちで官僚システムを攻撃してきた。政治が民意に極端に左右されないようにする仕組みが失われ、平板な民主主義ができあがってしまった」◇

 目眩を覚える論旨だ。「民意がストレートに政治に反映すればするほどいい民主主義だと思ってきた。その理解そのものが間違っていたんじゃないか。」だから、本稿で先述した『民主主義が生来的に孕むアポリア』に理解が及ばない。だから、「民主政治は、民意を直接反映させない仕組みを組み込んできた」手の内が見抜けないのだ。挙句、出て来るものは「平板な民主主義」ということになる。後頭部を痛打されでもしたような衝撃の創見だ。やっぱり学者は偉い、というほかない。
 ここらで括ろう。先日紹介した「輿那覇史観」が恰好の規矩になる。一部は今月2日付「平成の『大鏡』?」に引用した。詳説は「中国化する日本  日中『「文明の衝突』一千年史」(文藝春秋)を玩味するほかないが、「宋朝型社会」と「江戸時代型社会」との対比から日本近現代史を俯瞰するものだ。怖ろしく斬新で知的カタルシスに満ちる。私はこれを、『鷲づかみ日本史』と名づけたい。
 同書で輿那覇氏は「中国化」についてこう語る。

◇現在のグローバル社会の先駆けともいえる近世宋朝中国=中華文明の本質を、あえて一文で要約すれば、「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」といったところになるでしょう。◇ 

 この要約を開いて四捨五入の上、概括すると──
 宋朝型とは、中央集権と市場原理を竜骨とする。前者は、徳治と科挙による貴族制の廃止。封建制から郡県制への移行を柱とする。後者は貨幣の普及、自由競争の導入。社会の流動化を主要素とする。一方、江戸型とはその逆だ。身分制と封建制。米本位経済と社会の固定化。
──となろうか。別けても明治維新の内実は千年遅れの中国化、宋朝型社会の導入、移行と捉える。加えて西欧化によるハイブリッド社会が成立した稀有の成功例だという。
 「橋下流」を上記の文脈で括ると──
 選挙至上、民意の絶対化は「徳治」に(新しい装いの「受命思想」ともいえる)。官僚叩きとブレーン政治、「維新塾」は「科挙」に。都構想は「郡県制」に。教育改革は市場原理、自由競争に。
──比することができよう。

 橋下氏は新聞のインタビューで、「明治以来の制度を壊すという人が、なぜ「維新」とか「船中八策」など明治を作ったものの名前をつけているんですか?」との記者の問いかけに、「まったく思慮はありません。そこは批判してください」と応えた。
 この珍妙な問答は、記者と橋下氏双方が維新の実質をまったく理解していないことから起こったといえる。『鷲づかみ日本史』に倣えば、『維新』とはそのものズバリのネーミングなのだ。それもかなり皮相で、ちまちまとした……。
 果たして、橋の下はどこへ向かう流れか? □


悲しいキュウカン鳥

2012年02月22日 | エッセー

 人間呆れ返ると、弾みに嗤ってしまうものだ。なお高ずると、仕舞には悲しくなる。まあ、朝日の記事をお読みくだされ。
〓〓鳩山氏「外交」担当 菅氏「エネルギー」  民主、最高顧問らに役付け
 民主党は最高顧問や副代表に政策分野の担当を付ける方針を決めた。鳩山由紀夫元首相は外交、菅直人前首相はエネルギーを担当する。だが、具体的な活動内容は煮詰まっておらず、党内では成果を疑問視する声も出ている。「やって頂ける方は準備をしてくれているのかなと予想している」。輿石東幹事長は20日の記者会見でこう述べ、今回の方針に期待感を示した。最高顧問は7人で、鳩山、菅両氏のような首相経験者や党代表経験者ら。副代表は4人でいずれも党の重鎮だ。現在の政権幹部以外の重鎮級議員に政策面で支援してもらい、消費増税法案の閣議決定に向けて野田政権の求心力を高めるねらいがある。
 担当としての活動内容は、若手議員との勉強会開催や提言とりまとめなどが検討されているが、具体化はこれから。野田佳彦首相は17日の衆院予算委員会で、外交担当の鳩山氏について「アドバイスをちょうだいしたい。政策というよりも党外交の面での活躍を期待している」と述べた。だが、党内では「根回しが必要な人が増えるだけ」(若手議員)と冷ややかな受け止めが広がる。鳩山氏の外交担当についても、米軍普天間飛行場問題で迷走の末に首相を退陣した経緯から、ベテラン議員の一人は「逆効果。波風が立つだけだ」と批判している。〓〓(2月21日付)
 どうも他紙は報じていないようだ。ばかばかしくて端からネグったとみえる。なにせ、エイプリル・フールにはひと月ちょい早い。このタイミングの悪い与太に付き合う朝日は律儀者というべきか。
 ブラック・ジョークにしては、度が過ぎる。でないなら、敵前逃亡したA級戦犯を方面軍の作戦参謀に据えるつもりか。アタマがおかしいという以外、適切なワーディングを持ち合わせない。「鳩山氏について『アドバイスをちょうだいしたい。政策というよりも党外交の面での活躍を期待している』と述べた」に至っては、二の句が継げぬ。百歩も千歩も譲って善意にとれば、むかし流行った誉め殺しか、極めつきの皮肉といえなくもない。だがこちらの推測や善意の解釈を遙かに超えて、救い難いほどに本気である。まったく呆れる。
 呆れついでに、このところ嵌まっている古川柳で嗤いのめしてみたい。
   
    緋の衣着れば浮世がおしくなり

 緋の衣を着るほどに偉くなった坊さんなら、浮世の褒貶は超えているはずだ。しかし、さにあらず。依然として去り難きは煩悩の巷、忘れ難きは生臭い損得勘定。祭り上げられていればいいものを、「やって頂ける」などとおだてられ、のこのことしゃしゃり出たと視る。愚人は権威やおだてにいたって弱いと知ろう。

 それとも、まさか意趣返しか。

    こもそうは能く似た㒵(カオ=顔)で二日来る

 仇討ちの武士が虚無僧姿に身をやつし最初は敵(カタキ)を探しに、二日目はいよいよ果たし合いに乗り込んでくる。よく似た面相だといっても当たり前。深編み笠で顔は見えぬ。物腰や後先の次第で同一人物と見抜けるかどうか。ここが肝心だ。みすみす刃傷沙汰に巻き込まれたくはない。
 永田町の権威を目深に、文字通り笠に着る鳩菅(キュウカン)両人。ともに本性は執念深いと視た。見事に暴かれた無能と凡才を、今度は仇で返すつもりか。「二日」を「二人」に替えれば,そのものズバリだ。桑原、桑原。

    親の気になれとは無理なしかりよう

 ここまで育てやったのに、お前はなんと不肖の子であることか。親の気にもなって改心せい。と、親は叱る。おそらく舌を出しながら、親不孝息子が言い返したのであろう。親の心子知らず、だ。親とはこの場合、もちろん国民の『みなあん』である(かつて触れたが、なぜか鳩クンは「皆さん」をこのように発音する)。子もぼんくらだが、親も悪い。「無理なしかりよう」は止めて、すぐに勘当だ。

    手のこんだ化ものゝ出るしゝん城

 日本の宮中を紫宸殿に見立て、源頼政の鵺退治を詠んだ句である。永田町にある「しゝん城」にも、「化もの」が数多出る。しかも昼日中から徘徊する。その中でもとびきりの「手のこんだ化もの」こそ、なんとか党の最高顧問の面々ではないか。「手のこんだ」とは、まことに言い得て妙である。

    楠は鼻をつまんで下知をなし

 楠正成、千早城での籠城戦だ。攻め上る敵に煮え滾った糞尿をぶっ掛けたという。今や政権党は八方塞がりの雪隠詰めを受け続ける窮地。じりじりと纏わり付く敵を一気に退散させる妙手、これに過ぎたるはなしだ。誰も寄りつかない鼻つまみ。人材が払底したこの党にも、これだけはある。畑に撒かずに赤絨毯にぶっちゃける。これは、ひょっとすると奇策中の奇策かもしれない。きっと成功はしないだろうが。なぜなら、彼らはとっくにウンが尽きているから。なんとも臭い話で失礼。

──鳩山氏「外交」担当 菅氏「エネルギー」担当──
 この人を喰った分担は、政権党の連中が信じ難いほど自らを客観視できていない事実を如実に示している。一人のベテラン議員が「逆効果。波風が立つだけ」と批判したそうだが、波風で済むものか! 国民をナメたらイカンぜよ! だ。 
 「デモクラシーは最悪の政治形態だ。これまで試されてきたどんな政治形態よりもましだが……」もはや、このチャーチルの名言も疑わしくなってくる。
    呆れ果て嗤って悲しいキュウカン鳥
 お粗末。 □


マツコ・デラックスの意味

2012年02月17日 | エッセー

 前稿と同じパターンになりそうで汗顔の至ったりきたりだが、勇を鼓して書く。
 まずは、話のとば口として分類をしておきたい。
 おカマとは、女になりたい男のことである。男が好きなために、女性化している。メンタルではすっかり女である。オネエ系とはおカマの中でオネエ言葉を使い、メンタルでは半分男を残している類いだ。だから女性側の恋愛相談にも乗れる。カマとの区別はつけ難いが、『半男半女』のメンタリティーを特徴とする。ただ、双方ともにフィジカルには男である。物理的な処方を加えるとニューハーフとなって、カマを超える(筆者自身、書いてはみたものの「超える」とは何なのかよく解らぬが……)。敢えて例示すると、はるな愛がニューハーフで、おすピーがカマ、そしてオネエ系の代表格が今を時めくマツコ・デラックスである。なお上記3類とも出自は男で、戸籍上も男である(多分)。マツコDXはトランスヴェスタイト(=異性装者)というカテゴリーにも属す。まことにややっこしい。
 そのマツコDXのことだ。もちろん男性、千葉県出身。肩書は、コラムニスト、エッセイスト、女装タレントと多彩だ。178センチ、体重140キロの巨体。最近流行りのデブ・タレの中でも一頭地を抜く。ちなみに3サイズは140、140、140である(まったく蛇足)。毎朝5合の飯を平らげる馬食で知られ、ヘビースモーカーでもある。そのくせ本人が「奇跡の血液サラサラデブ」と公言するように、まったくの健康体であるそうだ。
 巨躯で威圧しつつ毒舌を吐く。まことに迫力があり、変に説得力もある。同性愛者は遺伝子に異常があると語った石原都知事を痛烈に批判し、4期再選には「年寄りはああいうファッショに好意を寄せる」とこき下ろした。小泉純一郎元首相も、橋下徹大坂市長もともにファッショだと切り捨てる。フジテレビの韓流偏重批判デモには新右翼と難じつつ、K-POPはアメリカのパクリだとも発言。物議を醸した。
 小沢一郎氏を持ち上げ、政治資金疑惑では検察の捜査姿勢に疑問を呈した。鳩山元首相には同情を寄せ、松本元復興担当大臣の暴言にも理解を示した。概して自民党には批判的だが、中川昭一氏には性的興奮を覚えたと言う。経済成長路線を斥け、人口の減少には移民による対処を唱える。時に正論、たまに奇説、ふいに異論、概ね俗論。まことに破天荒である。恐い物知らず、かつ傍若無人である。
 推定40歳。女装をしても妙齢の佳人には到底見えぬ。声は堂々たるまったくのおじさんだ。つまりおじさんがおばさんの格好をして、おばさんのように喋りまくっている。これは一体、何なんだ。世に物申すに、なぜトランスヴェスタイトでなければならないのか。現代の妖怪、大きな謎だ。

 謎に惑う折、先日のこと、内田 樹氏の新著「日本の文脈」(中沢新一氏との対談、角川書店 本年1月刊)を読んでいたら、この“おじさんとおばさん”が登場したのである。いや、驚いた。抄録してみる。
〓〓小学校の頃に、学校から帰ってくると、母親と二人でおやつを食べながら、お茶を飲んでいると、母がいろいろ話してくる。親戚のこととか、ご近所さんのこととか。あそこの夫婦は不仲だとか、嫁姑のいさかいがたいへんだとか、あそこは夜逃げしたとか、そういう話を母親がするのを、大福なんか食べながら、適当に相づちを打って聞いているわけです。結構おもしろかったんですよね。
 おばさんて、挨拶もそこそこに、そのときの話題にいきなり割り込むんですよね。養老孟司先生も、ああいう剛毅な方ですけれど、「根はおばさん」だってカミングアウトしてました。僕と養老先生はその点で気が合うんですよ。おばさん同士だから。「いまの日本に必要なもの」は、「男のおばさん」じゃないかと思うんです。(略)
 構造主義のアイディアを生硬な学術用語のままで差し出しても、アカデミズムの世界のインサイダーにしか届かない。できるだけ多くの人に届けて、日本人全体の知的パフォーマンスを高めたいと思ったら、アカデミックな言語で記述された命題を、土着語、生活言語に置き換えなきゃいけない。翻訳しなきゃいけない。この「真名」を「仮名」に開くっていう仕事はたぶん日本に特有のものなんだと思うんです。(略)
 「土着語に開く」という作業自体が実は、きわめて日本的なものだから。欧米には、そんな仕事をしている人がいないんですよ。こういう変な仕事は「真名」の世界と「仮名」の世界(引用者註:真名=外来の漢字、「アカデミズムの世界」/仮名=土着語・生活後、「できるだけ多くの人」)に同時に帰属していて、アカデミアの言語も生活言語も話せる「二重言語話者」にしか担うことができない。そういうタイプの人間のことを「男のおばさん」と僕は名づけたわけです。「男のおばさん」というのはきわだって日本人的な知性のあり方である、と。(略)
 いまの日本て、「女のおばさん」が減ってるでしょ。どんどん「女のおじさん」化している。おばさんがいなくなったことが、日本の問題なんじゃないか。
 女の子に向かって「おばさん化しろ」とは言えないですからねえ。女の子はおばさんになることを嫌がってるんです。それは仕方がない。じゃあ、僕たちがおばさんになります。
 二十一世紀は、おばさんの時代というか、おばさん的キャラクターが求められる時代だと思う。おじさんにはプリンシプルがある。世界理論がある。「俺らの相手は世界だ」っていう。あれ、邪魔なんですよね。おばさんは世界なんか相手にしない。相手にするのは町内会。ローカルから始まるのが、おばさん。一気に世界をめざすのが、おじさん。〓〓
 「辺境国家」ならではの知的営為に関する件(クダリ)だ。「おばさんは世界なんか相手にしない」「ローカルから始まるのが、おばさん」とは、「養老先生」を彷彿させる。内田氏との相性のよさも宜なる哉だ。
 饒舌で、下世話で、土着性がある。つまりはローカリティに満ちている存在、それが「おばさん」だ。「女のおじさん」化とは、女性における知的パフォーマンスの向上という謂か。「男のおばさん」化は、「アカデミアの言語」「プリンシプル」を「生活言語」「町内会」で語ること、倦むことなく語りつづけることといえよう。
 してみると、マツコDXとは「男のおばさん」そのものではないか。確かにその「プリンシプル」は極めて低レベルではあるが、外形はそれ以外の何者でもない。トランスヴェスタイトは、男が「おばさん」にメタモルするための秘術なのだ。まさにマツコDXこそ、この上なく具象的でティピカルな「男のおばさん」の体現者だ。それこそが、マツコ・デラックスの“意味”である。
 これでまた一つ、謎解きができた。現代の妖怪などと呼ばわるのは止めよう。「おばさん的キャラクターが求められる時代」の寵児だ。時の申し子、否、時の申し“おばさん”なのだ。 □


“ときめき”と“ワクワク”

2012年02月15日 | エッセー

 『こんまり先生』こと、近藤麻理恵女史については本ブログ「“断捨離” と “ときめき”」(今年1月)で紹介した。それこそ「掃いて捨てる」ほど数多の片付け・収納法がある中で、こんまり先生に注目するのは「ときめき」がキー・コンセプトになっているからだ。ここに、まさに『ときめく』のである。片付け・収納・整理なるロジカルであるべき世界に、突如『ときめき』なるセンチメントが闖入する。そこがおもしろい。
 拙稿を引用する。
〓〓「片づけはマインドが9割」と説く。触った瞬間に「ときめき」を感じるかどうかが、捨てるか否かの見極めどこだと力説する。さらに「場所別」ではなく「モノ別」、毎日ではなく「片づけはお祭り」などなど、意表を突く「魔法」を連発する。たんびに目から鱗だ。そして、完璧な片づけで人生がときめくと誘(イザナ)う。〓〓

 先日のことだ。内田 樹氏の新著「日本の文脈」(中沢新一氏との対談、角川書店 本年1月刊)を読んでいて、突如『ときめき』が来た~。
 脳と身体の情報処理の違いについて、こう語る。
〓〓ふらふらして、どっちに行ったらいいのかなっていうとき、頭で考えるとわからないんですよね。いろんな「ノイズ」が入ってくるんですけど、それを脳はどうしても重要度や有用性に基づいて格付けしちゃう。でも、身体はそういうふうな情報処理はしないんです。配列しないんです。無数のノイズの中にときどき「タグ」がついているのがあるんです。それが引っかかる。すると、そちらに引っ張られる。「ノイズにタグをつける」仕事って、いったい誰が、どこがやっているのか、よくわからないんです。でも、僕はそれがすごく気になるんです。自分がいまこっちに行きたいって感じるときに、僕の身体をこっちに向かせているのは、僕じゃないですよね。僕の中にある「何か」が働いて僕を動かしている。でも、それが何だかわからない。身体が指示する通りにやっていくと、いろんなところでいろんなものにつながる。事後的に「なるほど、こういうことがやりたかったのか」ということがわかる。でも、それは事前に計画を立てて、予測してそうなったわけじゃない。僕自身が統御したものじゃないんです。(略)
 学問的なテーマにしても、日々の仕事にしても、「ワクワク」を選択し続けていると、なんとなくいいことが起こる。身体の中に、自分自身を正しい方向に導くセンサーがある。何か未開で、野生のものが僕の中にあって、行くべき道を指し示しているような気がするんです。〓〓
 「無数のノイズの中にときどき『タグ』がついている」の「タグ」。「『ワクワク』を選択し続けていると、なんとなくいいことが起こる」の「ワクワク」。「身体の中に、自分自身を正しい方向に導くセンサーがある」の「センサー」。見事に「ときめき」と一致するではないか。アナロジーなんてもんじゃない。そのものズバリである。身体の情報処理という哲学的知見を家常茶飯にパラフレーズすると、「ときめき収納法」になるのか。こんまり先生、鮮やかである。
 “ときめき”といい“ワクワク”といい、人類のプリミティヴな探知能力がそのような心のありように引き継がれているとしたら、なんだか楽しくなってくる。だが裏を返せば、“ときめき”や“ワクワク”が失せたらキケンと知ろう。 □


市民がいなくなる!

2012年02月13日 | エッセー

 「デフレの正体」は、昨年2月に本ブログ「正体見たり!」で取り上げた。その著者である藻谷浩介氏の講演会が近くであるというので、出かけた。以下、講演の一部を紹介する。
〓〓やっぱりこのペースでいくとマズいんです。かなりマズいことが起きる。どのくらいマズいかということをちょっとお見せしましょう。(グラフを示しながら話す)
 平成17年から27年の10年間に今のペースでいくと、〇〇市民は3.500人いなくなる。年平均350人いなくなるという予測なんです。年平均350人。実際はどうも、もっとペースアップしてますよね。100年経ったらどうなる。35.000人いなくなる。うそつけ、〇〇市民、35.000人もいない。
 これは大変なことなんです。皆さんいいですか。今のまま何も止められなかったら、もう80年で〇〇市民はいなくなる。
 ところで皆さん、更にいやな話があるんです。15歳から64歳だけ取り出すとどうなっているか。高校生以上退職前のサラリーマンの人たち、「現役世代」と言っているんですが。ネタ元は私ではなくて国立社会保障人口問題研究所というところです。これは国、厚生労働省ですね。厚労省はですね、年金担当なんで、年金を払う人はあまり入れては困るんですよ。あまり言うなと言われてるんですが、ザックリどんなものか。15歳から64歳の人は何年ぐらいで0になる勢いなんでしょうね? だいたい50年ちょいでいなくなる。
 あと50年で〇〇市から、現役世代がいなくなる。なに、そうすると〇〇市には子どもと老人しかいなくなる。いや、そんなことはない。子どもは、このままで行くとあと30年でいなくなる。でも〇〇市民、誰もいなくなると言うんじゃない。ちゃんと増えていく人がいる、増えていく人が。そうしないと帳尻が合わないですよ。昭和25年以前にお生まれの方は、3年後には一人残らず65歳以上になっております。亡くなる人はほぼいないと思って下さい。つまり、〇〇市は今人口減少と言うけれど、正確にはお年寄りだけがいる町へ驀進中でございます。
 東京はどうなんでしょうか。東京の高校生から退職前の人はどうなるのでありましょうか? 東京は非常に少子化しているので0歳から14歳まで、あれだけ若い人を集めているのに、10年間で50万人、子どもが減るといわれている。専業主婦が多くて、収入が低く、家賃が高くて、保育所が全然ないので子育てが非常に厳しいですから、子どもが減るわけなんです。どんなことをしても。あんまり驚かないで下さい。事実は事実なんです。
 このペースでいくと160年後に東京からも「現役世代」はいなくなる。〇〇市は50年、東京は160年で3倍違うじゃんというご意見もあるかもしれませんが、2000年以上の日本の歴史から見たらほんの一瞬です。日本全体が大ピンチです。それでも160年もつのは、いまだに全国の地方から若い子を集めるようにしているから。でも無駄。こんな子どもを産めんような所にどんどん集めていくと、ますます日本中の地方で子どもを産めた人も産めんようになって、家賃払ってそれだけで終わる。どんどんどんどん日本が消滅してしまう。本当にマズい。ものすごくマズい。国自身が認めている。だが、誰も問題意識を持ってない。
 ワイドショーでも取り上げない。なぜ取り上げないか? おもしろくないから。「○○のせいで」の「せい」の話を盛り上げるとみんな喜ぶんですよ。人のせいにするというのは大好きですから。ワイドショーのはしごは、皆さん、止めたほうがいいですよ。
 10年間で子どもさんが50万減る。15歳から64歳は147万人の減少。ということは、それ以外の人をたすと122万人増えないと、東京全体の人口と帳尻が合わない。122万人とは、65歳以上。つまり、高齢者大激増です。
 これは、何のせいでもない。単に皆年取っただけですから。一生懸命やってきたらこうなった。東京がやたら若い人を集めまくって、その人らが大挙して高齢化しているために史上空前の高齢化の激動が東京で起きているわけですね。〓〓
 東京と比べるのは極大と極小との比較に近いが、〇〇市は全国の先駆けといえなくもない。藻谷氏もさかんにそれを強調していたが、〇〇市は喜んでいいものかどうか。事は例外的な〇〇市の話ではない。「お年寄りだけがいる町へ驀進中」なのは、本邦一つの例外もない。ならば、『辺境の市』〇〇の出番とみたい。
 詳細は「デフレの正体」に譲るとして、社会そのものである人口の問題を拱手傍観していいはずはなかろう。TPPだの何だのとで騒いでいる場合ではない。講演で藻谷氏はさかんにそう言った。社会そのものが危うい。“危機”は確実に迫っている。高齢化がそうであるように、少子化は物理的に不可避だ。むしろ人為を超えた調整機能が働いていると視た方が理に適う。薄っぺらな少子化対策や凡庸な担当大臣を置いたぐらいで事態が“改善”するわけがない。直面しているのは紛れもないアポリアだ。    
 「武士の家計簿」の著者・磯田道史氏は、1707年の宝永地震と大津波を江戸時代の大きな転換点として挙げる。それまでの新田開発を中心とする高成長・人口増の拡大路線から、低成長・人口減へ、量的拡大から質的充実を求める社会へと構造が変容していったという(NHK Eテレ「さかのぼり日本史」)。これを3.11に引き寄せると、今また社会構造の大転機にあると捉えられる。構造上の問題が小手先で動く道理はない。
 跡継ぎがいない年寄り夫婦。このままではわが家が絶える。養子を迎えるか。だが、他家にも子はいない。譬えれば、そんな具合だ。さらにいうなら、やがて世界的規模で人口は減少に向かう。ならば、日本自体が人類史的アポリアに先駆的挑戦を課せられているともいえる。『辺境の市』どころか、「辺境国家」の出番とみたい。 □


紙にも表裏

2012年02月08日 | エッセー

 字引によれば、「除染」とは放射性物質や有害化学物質による汚染を取り除くこと、とある。では汚染を取り除いた後、汚染源はどうなるのか。昨年から、脳裏に蟠る疑念だ。                   
 除染は「消去」ではない。「染」は除いても、「源」は消えてはいない。昨年末の首相による「事故収束宣言」同様、訝しい言葉だ。原子炉本体に限ったとしても案の定、つい先日2号機の圧力容器温度が急上昇し化けの皮が剥がれつつある。
 何度も引き合いに出すが、「部屋を掃除してキレイになっても、掃除機の中はゴミだらけ」との養老孟司氏の言がつい浮かぶ。放射線は減殺できても、放射能が低減したわけではない。半減期という天意に人為が介入できはしない。依然として放射能を持ち続ける放射性物質はどこへ行ったのか。放射性物質が拡散しただけではないのか。それが疑念の核心だ。

 昨年11月、朝日新聞のコラム「プロメテウスの罠」に『珍』裁判が紹介されていた。このコラムは原発事故を丹念に追っていて、実に秀抜だ。
 福島県のある有名なゴルフ場が、東電によるコースの除染を東京地裁に訴えた。『珍』なのは、東電の弁明だ。
 曰く。原発から飛び散った放射性物質はもともと無主物であって、東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない。「所有権を観念し得るとしても、 既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者 (東電) が放射性物質を所有しているわけではない」
 まことに『珍』答弁だ。民法239条によれば、所有者が存在しない不動産は国庫の所有に属する。だから、除染のことは国にいってくれということか。電気だけ採ったら、後は野となれ山となれか。これでは「東電」改め、『盗』電ではないか。
 昨秋地裁は汚染は認めたものの、除染方法や廃棄物処理のあり方が確立していないとして訴えを退けた。汚染の度合いも子どもの屋外活動を制限した文科省の規準以下だとして、営業に支障はないとした。こちらも東電の弁明に劣らぬ『珍』判決だ。体のいい門前払だ。こんな判決しか出せないのでは、裁判は一体誰のものかといいたくなる。もはや裁判所自体が無主物のようだ。
 昨年8月政府が発表した「除染に関する緊急実施基本方針」には、「国は、県、市町村、地域住民と連携し、以下の方針に基づいて、迅速かつ着実な除染の推進に責任を持って取り組み、住民の被ばく線量の低減を実現することを基本とします。」とある。本年2月には政府が工程表をまとめ、国が自ら計画を作り、業者と契約するとしている。急ぎのことゆえ、国が率先するのは分かる。しかし、まったく東電の責任を不問に付したままでいいのか。まさか政府も『無主物論』に与しているのではないか、と疑いたくなる。

 汚染された土砂や瓦礫の除去なら判りやすい。汚染物と汚染源は一体だ。汚染源そのものが、視認できる形で処理されるからだ。つまり行き先が見える。見えるだけに、その至難さが解る。それも広義の除染とはいえるが、普通の語感では建物、道具類や身体の汚染を取り除くことがその謂であろう。こちらは汚染物はそのままに、汚染源だけを剥離する。汚染源は放射性物質だ。見るに見えない代物だ。だから手強い。一つは、除くのが。もう一つは、除かれた後の行き先が定かならぬからだ。パラサイト先から引き離され、無宿となった『無主物』の行く末が問題だ。もう一度言おう。消えてはいないのだ。放射線を放ちつつ、どこかにいる。
 除染費用は数兆円規模に昇る。ゼネコンをはじめ、これに商機を嗅ぎつけた動きが出始めている。雇用の増加にはなるかもしれぬ。インセンティブが大きいだけに除染工程は前進が期待できる。反面、手抜きや安全無視、請負関係による不平等なども心配されるが。
 一日でも早く生活の場から放射線を追い払いたいとの心情は痛いほど分かる。苦衷は察するに余りある。労を多としたい。それに水を差すつもりはまったくない。だが除染は進んでも、それは本来的な浄化ではない。そこは外さずにいたい。「除染」の本質的な部分、隠れた面を忘れてはならない。「一枚の紙にも表裏あり」だ。木を見て森を見ない愚は避けねばならぬ。後に続く世代のために。 □


猫の一念

2012年02月06日 | エッセー

 虚仮の一念といいたいところだが、努力を嘉してタイトルを変えた。猫 ひろし、34歳。1メートル47センチ、45キロ。極めて小柄な芸人である。どうかすると、猫に見える。日本人であったが、昨年11月カンボジア人になった。テレビ番組がきっかけで、マラソンに嵌まったそうだ。ブタもおだてりゃ木に登る、ネコもおだてりゃマラソン走る。あろうことか、オリンピックを目指すと決めた。隠れた才能が遅まきながら開花を迎えたのであろうか、それとも正銘の狂い咲きか。ともあれ、国籍変更はそのためである。
 陸上競技のオリンピック参加標準記録は、種目ごとにA・Bがある。男子マラソンのAは2時間15分0秒、これをクリアすれば1カ国・地域から3人まで出場できる。Bは2時間18分0秒、こちらは1人のみ。さて肝心なのは次の規定だ。──陸上全種目でBをだれもクリアできなかった場合、1人だけなんらかの陸上種目で出場できる──この『救済』条項が、カンボジアで活かせそうなのだ。セコいともいえるが、そこが何とかの一念。窮鼠猫を噛むならぬ、窮猫鼠穴(キュウビョウソケツ)に入(イ)る(筆者造語)ではないか。なんとも小さな抜け穴を探したものだ。だがかつての江川巨人入りよりは、余程真っ当である(古い話で恐縮)。
 08年にフルマラソンに挑戦して以来、涙ぐましい精進を重ねてきた。谷川真理を育てた中島進氏を師と仰ぎ、仕事終わりの深夜に40キロ走を繰り返した。カンボジアに渡って3月(ミツキ)半、実業団選手並みにひと月1000キロを走り込んでもきた。そしてこのたび、5日に行われた別府大分毎日マラソンで2時間30分26秒でゴールを果たした。自己記録を7分以上も更新したが、先述のBには遠く及ばないし順位も50位だった。しかし、この30分26秒に大きな意味がある。
 実はカンボジアには強力なライバルがいる。ヘム・ブンティン選手、26歳。前回北京に、件(クダン)の『救済』条項を使って出場しているのだ。そのブンティンは自己最高が2時間25分20秒(09年)。ただし昨年は2時間31分58秒がベスト。その差、1分32秒。まさに鼻の差のリードだ。現在ケニアで特訓中だというライバルが自己最高に近い走りをすれば、ロンドンは露と消える。猫の一念は果たして稔るか否か。今はまだ彼(カ)の都は深い霧の中だ。
 大分のレースでは、本格派の大きなストライド走法。事前の約束通り「ニャー!」と鳴いてゴールした。沿道では応援に手を振り、ピースサイン。先頭集団を喰う人気で、芸人らしく外連味たっぷりの力走であった。
 カンボジア・オリンピック委員会は今回の結果を好感してはいるものの、やはり2時間25分程度の記録を期待するとコメントしている。明らかにブンティンを意識している。正真の自国民を五輪に送り出したいのは当然の人情だ。腰掛けの国民が推薦を受けるには、有無を言わさぬ好記録を出すしかあるまい。やはり、霧は深い。
 猫くん、よしんば選に漏れたとしても、嘆くことはない。同じ露と消えるにしても、アンコールワットの露ならば本望ではないか。そして、胸を張り、こう言えばいい。
「吾輩は猫である。名前はまだ猫だ。」
 名無しの猫ではない。猫という名の猫だ。名の由来はとても本稿では書けない“組合員”のスラングらしいが、名前にはちがいない。五輪は逃しても,猫は猫だ。猫可愛がりされるのを脱して、大きな夢に挑戦した物語は残る。なんとかテレビの、作られた感動の長距離ランナーではない。安っぽい作為の走破ではない。醇乎たる世界の舞台への挑戦だ。多少のセコさは芸人に免じて目をつぶっていただき、大いに負け惜しみを叫べばよいのだ。
 いや、俟て。猫騙しという手もある。案外意外な展開で、ロンドンの霧が晴れるかもしれない。となれば、ロンドンは俄然おもしろくなるのだが……。 □


平成の『大鏡』?

2012年02月02日 | エッセー

 
 以下、2月1日付朝日新聞に掲載された、気鋭の歴史学者・輿那覇 潤(32)氏のインタビューである。

◆中国の発展がめざましい。急ピッチで近代化が進み、日本に追いついたという見方もあるでしょうが、逆に日本のほうが中国を追いかけているんです。
◆「中国化」とは、1千年前の宋朝に始まった「中国独自の近代化」のことです。宋は、経済の自由化と政治の集権化の同時進行。科挙による官僚登用で、貴族制度を廃し、皇帝が権力を独占した。一方で農民にまで貨幣使用を行き渡らせ、市場で自由に競わせる体制にした。
◆規制(身分)と共同体(ムラ)で生活を保障する江戸時代の体制がようやく明治維新で終わる。身分制の廃止、試験による官吏登用、廃藩置県による中央集権、職業の自由化などの中国化が行われ、議会政治など西洋化も進みます。中国化が遅れたため、中国化と西洋化をたまたま同時にできたのが日本の「成功」の理由です。
◆ところが昭和初期に「再江戸化」が起こる。終身雇用企業という新しいムラができ、生活保障を担う「江戸時代のアップデート版」になった。バブル後に日本的経営が崩壊して「江戸時代」が終わると、再び中国化へ傾いた。小泉純一郎さんや橋下徹さんの政治が賛否両論を呼ぶのも、いわば「中国的な民主主義」だからでしょう。
◆『中国的な民主主義』は、民意という名で道徳感情に火をつけ、巧みに活用する。中国と西欧の政治の違いは、権力の暴走をコントロールする方法です。西欧は「法の支配」によって、議会が制定した法で王権を縛った。中国では「徳治」を掲げてモラルで縛る。強すぎる皇帝に対し、儒教道徳の体現者にふさわしい統治を、という期待で制御しようとした。
◆55年体制下の日本の政治家は、業界団体や労働組合などの「ムラ」の組織票が権力の源泉でした。組織が弱体化した今は、もう移り気な民意に頼るしかない。小泉さんも橋下さんも、既得権益という「悪」を設定して、それと闘う自分を「徳治者」にみせることで支持を得る。首相公選制など、行政の長との一体感を求める声が高まるのも、西欧的な議会政治がまどろっこしくて、むしろ中国式に「私利私欲を超越した道徳的なリーダーに全部任せよう」という「一君万民的」な方向へ向かっているからでしょう。
◆徳治は、価値の多元性を認めない。統治者と違う価値観に対しては、冷たい国になる危険が伴います。小泉さんや橋下さんのように「選挙で勝った以上、自分の考えこそが民意だから、妥協は必要ない。文句があるなら次の選挙で引きずり降ろしてみろ」ということになる。
◆今の中国共産党が、あれだけ資本主義になっても、建前だけは共産主義という「道徳」の看板を降ろさないのは、ある意味で徳治の伝統が生きているともいえます。宋朝から千年間やっているから、建前と実態にギャップがある状態に国民が慣れきっているのでしょう。日本人はその点ウブで、本気で為政者のモラルに期待して、そのつど本気で絶望しちゃうから、政権が安定しない。
◆「中国は経済発展が進めば、議会政治が定着して民主化も進む」という発想の方が、フランス革命以降に作られたストーリーだと考えるべきなんです。中国は宋代に大変な経済発展をしても、むしろ皇帝独裁が進んだ。経済だけが自由化されて政治は独裁のままというのは、中国史の文脈では矛盾しないので、なかなか民主化を求める人々の声が届かない。(以上、摘記)

 輿那覇氏は愛知県立大准教授で、専門は日本近現代史である。著書に、「中国化する日本 日中『文明の衝突』一千年史」「帝国の残影・兵士 小津安二郎の昭和史」がある。記事によると、氏は「東アジア世界に視野を広げ、歴史学の新しい語り口を模索する」とある。目眩がするような「新しい語り口」だ。
 特に、小泉、橋下評には膝を叩くほどの鮮やかさがある。「中国化」、「中国独自の近代化」という切り口。明治維新への意表を突く視座。昭和初期の「再江戸化」という角度。中国共産党下で生きる徳治の伝統や中国の民主化への意外な展望──。
 面白いともいえるし、衝撃的とも、穿ち過ぎとも、また奇を衒うとも、荒唐無稽とも、牽強付会ともいえよう。だが、エキセントリックだからといって等閑視してはなるまい。人物評とて然りだ。一面的に決めつけられるほど人間は単純にできてはいない。ましてやその複雑怪奇な人間たちが織り成す歴史の事どもである。多面的に観るに如くはない。マルチ・ビューこそ中庸だ。
 単眼は時として貧困と悲劇を生む。マルクス史観は一刀両断の切れ味で遂に世界史に斬り込んだものの、本来が地域限定であったために期間限定で終わってしまった。戦前の皇国史観とて同様である。
 ともあれ、問題は「観」だ。歴史観だ。史料、史実は蓄積され検証はすすんでいくであろうが、捌くのは「観」だ。
 懐古は歴史の目的ではない。未来への糧だ。だから、先人は歴史を「鏡」と呼んだ。教訓を読み取らなかったとしたら、鏡に背を向けることになる。「歴史は繰り返す。最初は悲劇として、二度目には笑劇として」とは、かのマルクスの言だ。「笑劇」は背を向けた報いにほかならぬ。それにしてもこの鏡、一瞥では勿体ないようだ。ひょっとしたら、非西洋に立ち位置を措いた平成の『大鏡』かもしれない。 □