伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「おふくろさん」と「キャンユー セレブレイト」

2008年11月30日 | エッセー
 「おふくろさん」はわたしの嫌いな歌の筆頭かもしれない。粘りつくような森進一の歌唱もさることながら、川内康範の詞がどうにもいけない。演歌一般にそうなのだが、情感をステロタイプにして押しつけてくるところが鼻持ちならないのだ。『大きなお世話』に、いつも苛立つ。
 それはさておき、今月初めに『おふくろさん騒動』なるものが収束したとの報道があった。以下、ニュースサイトから引用してみる。
―― 森と所属レコード会社・ビクターエンタテインメントの代表、川内の遺族との間で和解が成立、事実上歌唱禁止が解除されることになったことが報道された。
 2008年11月6日、森進一と川内康範の長男であり、弁護士でもある飯沼春樹が記者会見を行い、『今後は川内康範のオリジナル作品のみ歌唱すること』を条件として、森進一が『おふくろさん』を歌唱することを解禁すると発表した。 ――
 騒動の発端は2年前の紅白歌合戦にさかのぼる。イントロ前に、原曲にない語りを入れた。何も知らされていなかった川内が激怒し、「森には歌わせない」と著作権の侵害を訴えた。森もこの曲を封印することを宣言。だが、『あの曲は、森進一のおふくろさん』と口が滑ったり、『事務所が企画したことなのに、なぜ自分が謝るのか』と発言。火に油を注ぐ結果となる。羊羹を抱えたアポなし謝罪訪問が空振りに終わるという芝居モドキの出来事まで加わり、修復不能に陥ってしまった。騒動はそのままに、今年4月に川内が死去。半年を経て、前記の次第となった。
 この騒動のイシューはオリジナリティーの所在だ。「同一性保持権」という。もし起こしていれば訴訟相手は森ではなく所属事務所となろうが、作品の芸術性と作者の創造性を保護する権利である。「著作権」の枢要な一面である。作品が作者の手を離れた後も、所有者は作者の承諾なしに作品を改変することはできない。一般の財物とは、ここが違う。土地を売った後、前の地権者は新しい地主が何を建てようが口を挟めない。ところが著作権は違う。文字一つ、音符一つ、勝手にいじってはならない。それほどに作者のオリジナリティーが護られるのだ。だから『おふくろさん騒動』は「粘りつくような」感情の経緯を除けば、著作権のもつオリジナリティーの側面を際だたせた貴重な教訓となった。
 
 『騒動』の収束と相前後して起こったのが、コムロくん事件である。以下、ニュースサイトから引用。
―― 人気グループ「globe」のメンバーで、かつて数々のヒット曲で日本の音楽シーンをリードした小室哲哉・音楽プロデューサー(49)が、兵庫県内の個人投資家(48)に音楽著作権の譲渡を持ちかけ、5億円をだまし取った疑いが強まり、大阪地検特捜部は11月3日、詐欺容疑で11月4日に逮捕する方針を固めた。この著作権売買をめぐっては民事訴訟になり、代金返還でいったん和解したが、返還期日までに一部しか支払われず、投資家が小室プロデューサーを地検に刑事告訴していた。 ――
 そして、
―― 小室被告が平身低頭保釈…見物人にも謝罪
 著作権譲渡をめぐる5億円の詐欺容疑で逮捕された音楽プロデューサーの小室哲哉被告(49)が11月21日、大阪地検特捜部に起訴され、同日午後に大阪拘置所から保釈された。保釈保証金は3000万円。衝撃の逮捕から17日ぶりに姿を見せた小室被告は特にやつれた様子もなく「ご迷惑をおかけして、お騒がせいたしました」と謝罪した。報道陣や集まった見物人に10回以上頭を下げ続けるなど、ひたすら平身低頭だった。 ――
とあいなった。
 一報を聞いた時、大きな寂(サビ)しみを覚えた。「刑事コロンボ」の素材にもなりそうなセレブの事件なのに、あっさり認めてすんなり保釈。寂しさはそれにとどまらない。誤解を恐れずにいうと、音楽関係者がおクスリでお縄になるのはまだ解る。痴情の果ての刃傷沙汰、これも納得がいく。だがしかし、詐欺はないだろう。職業に貴賎はないが、職業によって罪は貴賤を別(ワ)かつ。芸術家の詐欺罪はもっとも賎しい。しかも自らの作品を使っての所業だ。貧すれば鈍する、はこの場合通用しない。もはや芸術を生業とする資格は失せたというべきか、もしくは端(ハナ)から芸術家などではなかったというべきか。おそらく後者であろう。星野某が日本のプロ野球を『世界の草野球』に貶めたように、日本のポピュラー音楽を『バナナのたたき売り』に引きずり下ろした。そのことがなんとも寂しい。悲しい。すこぶる情けない。
 これもまた、著作権に絡む。オリジナリティー、芸術的な側面と同時に、財産的側面が著作権にはある。二面性があるのだ。こちらは一般の財物と同じように売り買いが可能だ。テープレコーダーに始まるダビング技術の進化、CD、ネットなどの供給媒体の変化、カラオケの普及によって急速に注目されるようになった。はては、これのみが一人歩きを始めている。つまり、オリジナリティー、芸術性が抜け落ちて、財産的側面ひいては単なるコンテンツに成り下がりつつある。背景には市場万能主義の瀰漫がある。民主と衆愚が踵を接するように、市場の独走と恐慌は常に背中合わせだ。マーケットに投げ込まれた芸術作品は商品的価値しか持たない。ビッグヒットを生む作者は芸術家ではなく、ヒットメーカー、もしくは収益性の高いコンテンツの制作者でしかない。
 聞くところによれば、コムロくんは意識調査をして曲作りをしていたそうだ。サービス精神というより、大衆操作に近い。わたしが以前から感じていた胡散臭さはそのあたりが元かもしれない。曲には派手な構成のわりに、障子紙のような薄さがいつもあった。お帰りになる時に「リセットしたい」とおっしゃったそうだが、障子紙のように簡単に張り替えはできまい。

 「おふくろさん」と「キャンユー セレブレイト」。両者は著作権の二面を象徴する。余計なことをしたばっかりにせっかくの努力が水泡に帰してしまうことを「画蛇添足」という。「画竜点睛」の逆だ。その意味では通底するところがある。
 大阪拘置所の前で、もしも「キャンユー セレブレイト」と訊かれても、「イエス アイキャン」とはとても言えまい。 □


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人蕩し

2008年11月26日 | エッセー

 語らいの中にせよ、書物の中にせよ、忘れられないことばとの邂逅がある。たとえば、こうだ ―― 。


 猿は、十人の頭になった。
 卑役の長だが、役目がら信長のそばにいるため、猿のやり方が信長の目にもみえる。その十人を、手足を動かすような自在さで使っているのである。十人の男どもも息を弾ませるような態度で働き、他の小頭の指揮下にある者とまるでちがっていた。
 猿はこの点、天性の人蕩(タラ)しらしい。自分の配下の十人をわが長屋にひき入れて雑居し、彼等とおなじめしを食い、物を貰えば同じように分け、一人々々の気質を見きわめてそれをたくみに御したからみな感激をもって働いた。
 信長にはそういうからくりまではわからなかったが、とにかく猿の統御ぶりをみて、(こいつ、侍にしてやればよい戦さをするかもしれぬな)
 と思いはじめた。猿という道具に意外な使いみちを見つけた思いである。こうなると信長は道具の研究に熱中するたちだった。でなければ、十人の小頭にして二十日も経たぬのにふたたび浅野又右衛門をよび、
「あいつに二十人付けてやれ」といわなかったであろう。
 信長はこの道具を試すことにとりかかった。猿は配下が二十人になるとそのなかですぐれた男を三人世話人にし、三つの群れを競争させて働かせた。信長はさらに二十日後、又右衛門をよび、
「あいつを小人頭(コビトガシラ)にしろ」
 といった。小頭よりも一段上の格で、戦さとなれば粗末な具足の一領も着込める役目である。身分は騎乗の侍(将校)ではないが、徒士の最下級といってよかった。織田家に仕えて二年足らずでこの身分になったのはいくら物好きな信長の家中でもめずらしいといっていいであろう。どうやら信長の子供っぽい道具凝りに原因があるらしい。(司馬遼太郎「新史 太閤記」から)


 世に、「女誑(タラ)し」はごまんといる。しかし、「人蕩し」は盲亀の浮木だ。千載に一遇の好運がなければ巡り会えぬ。
 「誑す」とは、「甘言でだます。人をさそいこむ。誘惑する。また、子供などをすかしなだめる」と字引にある。したがって、「女誑し」とは、女をだましてもてあそぶこと。また、それを常習とする男である。さらに、「人誑し」とは、人をだますこと。また、その人である。いずれにせよ、人聞きは悪い。
 だからなおさら「人蕩し」が忘じ難く印象に残った。司馬氏は「誑」ではなく、「蕩」を充てている。遊蕩の蕩だ。「たらす」とは読めないが、「とろかす」とは訓(ヨ)める。こころを掴み、人をして掌の中にしてしまう。人心を蕩(トロ)かす。「人蕩し」とは、氏の猿への愛着が込められた実に巧みな物言いだ。よほどの人間通でかつ無類の人好きでなければ、発し得ないことばだ。かつて田辺聖子女史が、司馬氏自身が人たらしだった、と評したらしい。きっとそうであるにちがいない。
 世を驚かす「天下の詐欺師」はたまに出る。天才もまたしかり。だが、世を動かすほどの「天下の人蕩し」は優曇華(ウドンゲ)にも比せられる。浅学な頭には秀吉以外、坂本竜馬ぐらいしか浮かばない。それほどに稀だ。
 ふたりとも出自は下層、徒手空拳。唯一の武器は「人蕩し」の天稟であった。人格の力といってしまえば身も蓋もないが、もっと色気のある才だ。もっと俗気を纏った能だ。常に修羅場にありながらも力に頼らない。血を見ることを厭う。敵の肝を蕩かし、味方にさえしてしまう。覇道に対する王道。今様にいえば、ハードパワーに対するソフトパワーであろうか。全開で、極限の「人間力」である。
 
 英雄願望で片付けられては困るが、世の閉塞を突き破るのはやはり人だ。秀吉には遠くとも、竜馬には及ばずとも、「人蕩し」が望まれるところだ。まずなにより、そのような人物観が希薄だ。出る前に杭を打つ御時世だ。出れば出たで、寄ってたかって粗を探し引きずり下ろす。世の眼差しが毒々しく、貧しい。「大衆社会」の歪曲、もしくは跛行、あるいは逸走であろうか。
 脳科学者の茂木健一郎氏と経営コンサルタントの波頭 亮氏との対談に以下のようにあった。


茂木:大衆民主主義の横行とでもいえばいいのか。これは同じ六本木にある国立新美術館の在り方にも一脈通じるものがあって、あれなど国際的にみたら恥というほかないものです。なぜ国立美術館を公募展の場としてしまったのか。国立美術館が公募展を開くなど前代未聞です。パリのポンピドゥー・センターが公募展を開くなんて聞いたことがない。まさに「大衆というバケモノ」が野に放たれてしまったわけで、もうピカソもゴッホも関係ない。「俺たちの描く作品こそ素晴らしい」「俺たちこそ画家なのだ」という大衆に迎合しています。戦前は、こうした事象に対して「相手にするのも馬鹿らしい」と完全黙殺する層が確実に存在しました。ハイカルチャーを理解している層です。しかし、戦後は、野に放たれた大衆というバケモノがやりたい放題やり尽くした。
波頭:茂木さんは今「大衆というバケモノ」と表現されたけれど、大衆が自分の大衆性に開き直ったまま、野放図に自己肯定している国など日本だけでしょう。それにしても、なぜこうなってしまったのか? 日教組的な平等主義が諸悪の根元なのか? 運動会の徒競走で、順位をつけるかわりに皆で仲良く手をつないでゴールさせるなんて、絶望的な行為だと思います。
茂木:これは僕の持論であって、いつも言っていることなのだけれど、「ピアプレッシャー」、つまり「ピア」(=同輩)からの「プレッシャー」のダイナミクスにおいて、戦後の日本社会はこれまでずっと、抜き出ようとする者の足を引っ張ることしかしてこなかった。平均値に引きずりおろす方向にばかりピアブレッシャーの力学が働いてきたのです。
波頭:実際、このまま大衆の大衆性に迎合し続けて、大衆のご機嫌取りばかり優先し、分かりやすさだけを基準に物事を決めていたら、日本は早晩、ハイカルチャーを生み出せない国になってしまうでしょう。なにをやっても二流の国。日本は一億人以上もの母数がある国です。しかも、皆おしなべて熱心に勉強したり、勤勉に働いたりしている。そうした活動のインプットがあるのに、傑出した人の足を引っ張る、成功者には妬み嫉みで遇する……それでは、この先、豊かさは望めないでしょう。 (幻冬舎新書「日本人の精神と資本主義の倫理」から)
   

 人類の火星探索が視野に入ろうとする今、それでも依然として人類のフロンティアは人間の中にあり続ける。「人蕩し」はその一典型である。 □


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「だれでもいい」と「どうでもいい」の間

2008年11月19日 | エッセー
◆08年3月19日 茨城県土浦市で72歳の男性が自宅前で首を刺され死亡。24歳の男が指名手配される。23日 茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅付近の「荒川沖ショッピングセンター・さんぱる長崎屋」の入り口前で手配中の男が通行人を次々と刺し、男性1人が死亡、男女2人が重体。5人が軽傷。そのうち1人は土浦署の男性巡査だった。
 男は「最近、父親に『仕事に就け』と責められていた」などと供述。また72歳の男性を殺害する前に妹の殺害を計画していたとも話しており、家庭内不和が引き金と見られている。
◆08年3月25日 JR岡山駅突き落とし殺人事件。18歳の少年が駅のホームで電車を待っている岡山県職員の假谷国明さん(38)を線路に突き落とすという事件が起きた。線路に落ちた假谷さんは列車に轢かれて死亡した。加害者の少年は犯行動機について「誰でも良かった」と供述している。 
◆08年6月8日 秋葉原通り魔事件。7人が死亡、10人が負傷した。
◆08年7月22日 八王子通り魔事件。東京都八王子市の駅ビルで男が女性2人を刺し、1人が死亡。男は「誰でもよかった」と供述。
◆08年11月11日 千葉県香取市小見川で、男性が車にはねられ死亡した。運転していたのは同市の会社員の少年(19)で、直後に交番に出頭。わざとはねたと話したため、県警香取署は11日午前、殺人未遂容疑で逮捕した。「父親に仕事関係で怒られいらいらしていた。嫌がらせしようと思った。誰でもいいからひき殺せば、迷惑が掛かると思った」と供述しており、同署は殺人容疑に切り替えて調べている。

 ニュースサイトから抄録した今年の『だれでもいい』殺人事件である。『だれでもいい』殺人 ―― 動機と被害者が結びつかない殺人事件である。「未必の故意」では括れない。極めて悪質な八つ当たりである。同種の事件は昔からあったであろうが、最近、特に今年は頻発している。
 漏れがあるかもしれぬが、近年の同種の事件では、
◆99年9月 下関通り魔殺人事件
◆00年5月 西鉄バスジャック事件
◆01年6月 大阪教育大学附属池田小事件
 が特に耳目を驚かした。
 
 本ブログ「2008年6月の出来事から」(08年7月4日付)では、アキバ事件に触れた。引用してみる。
     ◇     ◇     ◇     ◇
 介抱していた通行人が刺され、刺されなかった通行人がその模様をケータイで撮っている。まことに奇っ怪な図である。おそらく写メールで『配信』されたにちがいない。
 写真家で作家の藤原真也氏は朝日新聞のインタビューで次のように語った。
〓〓終身雇用、年功序列という日本型の企業形態がアメリカ型の成果主義に変わり、正社員でさえ就労環境が非常に冷たいものになってきている。
 同じくそのアメリカが日本に企業進出する際に、若者の労働を「資源」と見なし、圧力をかけ、派遣社員制度制定の端緒をつくったわけだ。人をモノのように扱う戦前の「人買い」のような制度がのうのうとこの民主主義の時代に闊歩している不思議を、僕は何年も前から言及してきた。秋葉原で多くの犠牲者が出て、はじめて見直し論が出るというのは「剣はペンより強し」という逆転であり、忸怩たるものがある。
 若者の犠牲と不幸の上に立って国内総生産を維持する国というのは一体何か。アメリカモデルからの脱却という根本的な指針を、行政にあずかる者はそろそろ持つべき時代に来ている。(6月30日)〓〓
 鋭い洞察である。このような事件が起きた場合、原因を個人に特化して事足りてはいけない。たとえ微細であろうとも自らも背景の一角を占めていることを忘れるわけにはいかない。同日、同紙の「ポリティカにっぽん」は綴った。
〓〓彼の鬱屈は自己責任なのか社会構造の問題なのか、若者はかつかつの暮らしで恋人もできない、高齢者は裕福、いまの日本社会は「おかね」の配分が不公平なのではないか、いやいや、貧しくやっと生きている高齢者もいるよ、それにしても生きていくうえの「尊厳」が奪われているのではないか、アキバととげぬき地蔵(東京・巣鴨、「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる)とは「世代間闘争」の関係にあるのかどうか、いったい希望はどこにあるのか。連帯か、革命か、それとも戦争か? そんな議論に引き込まれて、私は茫然とする。高齢者は「ワラビ衆の寂しさ」(棄老)にさいなまされ、若者は「閉ざされた蟹工船」のなかでもがきつづける。平和と平等をめざした繁栄日本が行き着いたのは、マルクスが予言した、人間が人間らしく生きられない「人間疎外」の現実だったのか。〓〓
     ◇     ◇     ◇     ◇
■ 派遣社員制度制定 ―― 人をモノのように扱う戦前の「人買い」のような制度がのうのうとこの民主主義の時代に闊歩している不思議。
■ アキバととげぬき地蔵 ―― 高齢者は「ワラビ衆の寂しさ」(棄老)にさいなまされ、若者は「閉ざされた蟹工船」のなかでもがきつづける。
 いずれも社会的側面から問題の所在を鋭く剔抉している。しかしそれだけではない。心理面にイシューを当てた論議もある。例示すると、
◆過保護・父母の役割・親のエゴ 
◆体罰
◆「思春期挫折症候群」 
◆孤独と絶望感
◆職場でのつながり
◆「携帯依存」 
◆少年犯罪の心理
◆「ネット社会」の影
◆「失感情症」
◆「軽度発達障害」
◆人格障害
◆人間関係・他者との距離感
 などである。相互に関連しているし、どれひとつとして容易なものはない。先に引用した拙稿で述べたように、「原因を個人に特化して事足りてはいけない。たとえ微細であろうとも自らも背景の一角を占めていることを忘れるわけにはいかない」異端視して放擲しても、この国はいっかな変わらない。病巣を抱えたまま彷徨うだけだ。すぐさま解が見つかるわけでも、策が打てるわけでもない。だが「想像力」を振り絞り、わが身に引き寄せるべきではなかろうか。次代のためだ。万物の霊長たる者の厳かな使命だ。人類の歩みは、失敗の数ほど克服を重ねてきたはずだ。拱手傍観、「どうでもいい」は責任放棄だ。

 「想像力」については、07年3月27日付本ブログ「人格ということ」に愚考を載せた。蛇足だが、禿筆を引用してみる。
〓〓人格とは、すなわち想像力であろう。境界(キョウガイ)を超える力だ。肉体の痛みを共有することはできぬが、想像することはできる。哀しみもそうだ。苦汁も、そして時には歓びも。想像する力が国境を跨ぎ、民族を超えた時、人は人ならぬ高みに達する。〓〓
 「どうでもいい」は「想像力」の対極にある。

 繰り返していおう。原因は根深く多岐にわたり、かつ錯綜している。一刀両断の処方はない。とかくこういう場合に語られる歯切れのいい解決策とやらは眉唾物である。四捨五入した単純化は危険でさえある。二者を択一するがごとき二元論はなおさらだ。
 いつものことだが、軍事教練の復活を声高に唱える向きがある。これは短絡、もしくは思考停止に近い。さらにこの機に乗じて、合気道道場が護身術の宣伝を大々的に打っていた。笑ってしまった。商魂逞しい道場主だが、合気道より仕手戦がよほど向いている。
 腰を据えて原因を見つけ、一つ一つを丹念に分析し、プライオリティーを付け、衆知を集めて手立てを考え、果断に実行する。病の処方と同じともいえる。社会も同じく病んでいるのだから。

 「だれでもいい」と「どうでもいい」は踵を接する。表裏でもある。どちらも、対象と自らに脈絡が切れているのだ。分断はなにも生まない。負の連鎖が続くばかりだ。 □


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現代の『言葉使い』

2008年11月16日 | エッセー
 「言葉遣い」ではない。「言葉使い」は字引にない。「猛獣使い」「魔法使い」「剣術使い」「手品使い」はある。したがって、わたしの造語である。意味は、言葉を操ることである。ものの言い方ではない。「猛獣使い」と同じ用法である。
 猛獣を意のままに手懐(ナズ)け、動かす。特殊な習練と意志が要る。だが、「言葉使い」はそれ以上の練達と志操が必要だ。猛獣なら檻に囲えば済むが、言葉は閉じ込めようがない。御しがたさは猛獣の比ではない。人ひとり苦もなく深手を負わし、瞬時に殺しもする。それほどの凶刃だ。逆に癒し慈しみ絶望からの起死回生をもたらす『奇蹟』を呼ぶこもある。しかし、それは稀だ。野に放たれた無数の虎、それが言葉だ。「言葉使い」とは群れなす猛虎を巧みに操り、『奇蹟』をなし得る達人、名人をいう。

 言葉の出生には諸説ある。
 新約聖書「ヨハネ福音書」の冒頭にある「初めに言葉ありき」は、ここでは外す。本稿の次元とは異なるからだ。なお、それについての興味深い卓抜な創見については07年4月21日付本ブログ「旬の本にイナバウアー」で取り上げた。
 それ以外有力なものの一つに、猿のグルーミングにさかのぼる説がある。体毛や皮膚に付いた汚れや寄生虫を取り除き、群れの中の紐帯を固めるのが毛繕いだ。猿のコミュニケーションである。このグルーミングが人間の場合、言葉によってなされたとする。最新の学術成果だそうだ。
 もう一つ。動物の鳴き声が進化したとする説。「雉も鳴かずば撃たれまい」の逆で、敢えてわが身を犠牲にしてでも敵の接近を仲間に知らせる。つまり警戒音である。また、餌を発見した場合にも声を発する。独り占めにせず、仲間と分かち合うためだ。
 両説とも種の保存のためといえるし、愛情に包(クル)まれて誕生したともいえる。だから、出自は凶刃や猛獣からは果てもなく遠かったのだ。しかし人の世の移ろいとともに御しがたきものに変貌する。「言葉使い」とは、それを祖型に戻した人だ。

 現代の「言葉使い」 ―― わたしの乏しい知見から選(エ)るとすると、浅田次郎氏こそは最右翼だ。

 まずは、笑わせる。しかも哄笑だ。いま、「お笑い」はあっても「笑い」は稀少だ。印刷された文字で高笑いを誘うことは至難である。
 そして、泣かせる。『泣きの次郎』である。氏の作品に頻出する「泣き」は透明度の高い涙を伴う。つまりは、お涙頂戴ではない。かつ、泣きに向かっていると知りつつなお抗しがたく泣く。いつもしてやられる。「ずるい」と言っても後の祭りだ。
 泣きと笑い。憂き世をよくよく心得た、まことに巧い作家だ。
 
 氏は自らの文章作法についてこう述べている。


  僕が小説を書くときに考えていることはね、分かりやすく書く、美しく書く、面白く書く ―― この三つなんですよ。これは小説に限らず、総ての芸術に共通する三要素だと思うのですけれどね。(「あやし うらめし あな かなし」 ―― 双葉文庫版特別インタビュー から)
 

 もちろん希代のストーリーテラーである。しかしそれだけでは先んじ得ない。氏の真骨頂は「言葉使い」にこそある。「分かりやすく、美しく、面白く」書くために、言葉を選りすぐり、装いを施し、立ち位置と所作を与え、紙上を「美しく」舞わせる。万人のなし得ることではない。氏の言葉への徹したこだわりと天稟。追随を許さぬ「練達と志操」が裏打ちをしているにちがいない。
 メッセージもプロットも大事だ。しかしいまの文芸事情を観るに、言葉そのものが痩せてきているのではなかろうか。慢じていえば、憂思の士はわたし一人ではあるまい。
 ここで氏の「言葉使い」ぶりを例示はしない。しない、というよりできない。氏の作品すべて、端から端まで、一字残らずが、それだ。

 「あやし うらめし あな かなし」を先日読んだ。感想に替えて、これを綴った。 □


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ギターケース抱えて歩いたよ

2008年11月09日 | エッセー
〽ギターケース抱えて 歩いたよ
 何故かバスにのるより 自由な気がして
 こんな馬鹿なことが 出来るのも
 20才になるまでさ それでいいよね
 
 サマータイム・ブルース
 手当たり次第に 声かけて
 サマータイム・ブルース
 みんな振られたよ
 君も 淋しかったんだね
 僕も 淋しかったんだよ〽
(「サマータイム・ブルースが聴こえる」 作詞 松本 隆/作曲 吉田拓郎)


 時代を象徴するスタイルがある。維新のすぐあとであれば、散切り頭であろうか。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と謳われた。
 大正から昭和への端境期であれば、「モボ」「モガ」か。短髪にカマを伏せたような帽子をかぶり派手な化粧の、洋風の若者たちが銀座を闊歩した。
 60年代末から70年代端(ハナ)にかけて、団塊の世代といえば、長髪にヘルメット、手にはゲバ棒。なにも入ってなくとも抱えて歩いたギターケース。それに、小脇に挟んだ「朝日ジャーナル」であろう。

 「バス」にお定まりの世のありようをなぞらせ、ギターケースを抱えて街を歩くことに反骨の時代を託す。「何故かバスにのるより 自由な気がして」とは、実に巧い。

 「朝日ジャーナル」はペダンティックなアイテムだった。弾けもしないギターを抱えたように、解りもしないその週刊誌を小脇にして歩いたものだ。「右手にジャーナル、左手にパンチ」ともてはやされずいぶん売れた。しかし双方とも廃刊され、いまはない。
 ジャーナルの退潮があらわになった84年から3年間、編集長として立て直しに力を尽くしたのが筑紫哲也氏だった。氏の編んだ「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」が話題を呼んだ。「新人類」は流行語にもなった。だから、『後付けの』印象であろうか。「あのころ」小脇にしていた「朝日ジャーナル」と筑紫哲也氏とが別けがたくイメージに浮かぶ。筑紫哲也氏といえば、まずジャーナル。タイムラグを超えてつながる。そして、「NEWS23」の顔としての氏である。
 ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就いて4、5年経ったころだ。ペレストロイカを掲げる書記長の動静を「NEWS23」が伝えた。群衆の直中に入り激論を交わす映像を通して筑紫キャスターは、こんな指導者はソ連ではじめてだ、本物の改革がはじまる、と賞讃した。そのような評価はだれもしていないころであった。氏の眼の確かさ、視点の鋭さを感じた。テレビを観ながら「やっぱり、朝日ジャーナルは違うな!」と呟いた。氏への讃辞はやはり「朝日ジャーナル」発だったのだ。このちぐはぐな独り言がなんとも懐かしい。
 11月7日、氏は生者の列を離れた。ひとりの正銘のジャーナリストが去った。訃報のニュースに登場した立花隆氏が嗚咽した。筑紫氏の存在の大きさがそれをもっても知れよう。

 いま、抱えて歩くギターケースも小脇にはさむジャーナルもない。あるのは、いっこうに収まりやらぬ『多事争論』だけだ。 □


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2008年10月の出来事から

2008年11月02日 | エッセー
【政 治】
●マルチ業界から献金
 民主党の前田雄吉衆院議員が講演料と献金を受け取り・国会で業界擁護の発言をしていたことが発覚(13日)
―― 「ブルータス、お前もか」は暗殺者を指していった言葉だ。「民主党よ、お前もか」となれば、刃の向かう先は国民ということになる。とかく不祥事が頻発するこの政党。今回はめずらしく政治がらみだ。進歩か退歩か。その意味で希少価値がある。

●補正予算が成立
 景気対策を盛り込んだ08年度補正予算が成立(16日)
●麻生首相、追加経済策発表
 1世帯4人家族に約6万円の定額給付金の支給など総事業規模26.9兆円の新総合経済対策を発表。景気回復前提に3年後の消費税増税を明言(30日)
―― 10月22日付本ブログ「きほんの『き』」で基底の問題意識については触れた。通底する内容の寄稿が11月2日、朝日新聞に掲載された。出色である。以下、抜粋してみる。
〓〓 生活感が宿ってこそお金だ  平川克己 IT企業社長
 連日、大騒ぎの金融崩壊と世界同時不況。日々変化する状況に、専門家の言うことも楽観論、悲観論こもごもである。数千億円、数兆円という金が政府から銀行へ、民間から民間へ移動する様子が、新聞で毎日報告される。つまるところ、骨身に染みる実感のない空虚な記号でしかない。そこにあるのはただ、人間の欲得が作り出した巨大な闇だけである。
 やっかいなのは、この記号の世界の出来事が、早晩私たちの現実の世界を侵食しはじめることだ。下請け企業に仕事が回らなくなり、零細企業者は資金繰りに窮している。メディアは株価情報や為替情報を伝え、キャスターらが「市場はどう判断しているのか」と解説を加える。その値動きが民意とでもいうように。ここには厳密な意味での商品が存在しない。実需原則もない。交換されるのは欲望とリスクという形のない幻想である。幻想には限度がないので、商品市場のような需給バランスもまた存在しない。本来の商品は身を削って生産されたものであり、それが切実な生活費の一部と交換される。イカサマ商品は、消費者によって市場からはじき出される。商品の存在自体が信用を担保し、市場の暴走を食い止める枷になっているのだ。
 日本が「失われた十年」から回復できたのは、銀行に公的資金を注入したからでもなければ、金利操作などのテクニックが功を奏したからでもない。生産者がコストダウンの圧迫に耐えながらも商品を生み出し続け、消費者が低金利の預金を取り崩し、薄給をやりくりして少しずつ必需品を買い足していったからである。九千億円の話にはリアリティはないが、九百円はコンビニ弁当や大根と交換できる。お金には、私たちの汗やため息が染みこんでいる。だからこそ労働者の汗が染みこんだ商品と(等価)交換可能なのであり、私たちはお金を大切にしたいと思うのだ。この眼差しがなければ、お金は記号に過ぎなくなる。お金の価値は「小さな経済」にこそ宿っている。〓〓

●空自トップ更迭
 田母神俊雄航空幕僚長が懸賞論文で日本の過去の侵略を否定。「政府見解と異なる」として浜田防衛相に更迭された(31日)
―― よく勘違いする言葉に「確信犯」がある。字引によると、①道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などに見られる。②俗に、それが悪いことと知りつつ、あえて行う行為。と、ある。問題は② だ。字引の解説はゆるい。「俗に」ではなく、誤用だ。「悪いと分かった上での行為、犯罪」ではなく、悪いという認識はないのだ。むしろ、義務と感じて行為に及ぶのが「確信犯」である。
 今回の騒ぎも、これの典型である。つまり御しがたいのだ。現に、4月には「そんなの関係ねえ」発言で物議をかもしている。もともと問題視されていた人物を空幕のトップに据えること自体がおかしい。制服組の人事に背広組が介入しない慣習があるそうだが、まずはそこから改めるべきだ。でなければ、「文民統制」が泣く。
 「日本はルーズベルト(米大統領)の仕掛けた罠(わな)にはまり、真珠湾攻撃を決行した」件(クダン)の論文にある一節だ。夜郎自大を地でいく、時代錯誤の右翼のような物言いである。この程度の人物が空自を指揮している。怖ろしいことだ。
 麻生総理は件(クダン)の論文を「不適切」と語った。不適切なのは論文以前に、人物そのものではないか。最高指揮官よ、しっかりしてくれ。こんなことでは、戦後の路線を敷いたじいさまが浮かばれまい。

【経 済】
●米欧6中銀が協調利下げ
 米連邦準備制度理事会などが政策金利の引き下げを発表(8日)
●円、90円台に急騰
 対ドル円相場がロンドン市場で約13年ぶりに(24日)
●日銀・0.2%利下げ
 政策金利の誘導目標を年0.5%から0.3%に。利下げは01年3月以来、約7年7カ月ぶり(31日)
―― 10月8日、毎日新聞が「世界競争力ランキング」の本年版を報じた。
〓〓<世界競争力ランキング>日本、9位に下がる
 トップは前年に引き続き米国で、日本は昨年より1つ順位を下げて9位だった。
 日本は、技術革新や企業活動で世界最高水準の競争力を持つとされた。一方で、政府債務の項目が調査対象134カ国・地域の中で下から6番目の129位。「政府予算の無駄遣い」が108位、「財政赤字」が110位、「農業政策のコスト」が130位で、非効率な官僚制と税制が最大の問題だと指摘された。
 調査は今年春に行われたため、最近の金融危機は考慮されていない。ただ、同フォーラムは「ランキングは(各国経済の)構造的な強さに着目したもの」とし、米国は依然強い競争力をもたらす要因を持っているとの認識を示した。
 競争力2位はスイス、3位はデンマークと、いずれも昨年と同じ。アジアでは、シンガポール(5位)が最高で、香港(11位)、韓国(13位)、台湾(17位)が上位20位に入った。中国は昨年より4ランク上がって30位、インドは2ランク下げて50位だった。
 ランキングは、各国の経済データや企業トップへの調査などを基にした110余りの項目を指数化して算出している。〓〓
 BRICs がいる。Next11 といわれる国々も控える。世界はますます多極化していく。無極化だという人もいるが、メガ・コンペティションの時代を迎えるのは確かだ。

【国 際】
●米、北朝鮮のテロ支援国家指定解除
 日本には直前に電話説明(11日)
―― ちょうど一年前に引用した姜 尚中氏の言葉を再度引用したい。
〓〓六者協議(アメリカ、北朝鮮、中国、日本、韓国、ロシア)の根幹は三者協議ですよ。アメリカと北朝鮮と中国。なぜならこの三者は朝鮮戦争を戦った当事者だからです。米中の間には国交正常化があります。しかし米朝の間にはない。これが終わったとき初めて拉致問題の解決が見えてくるんです。この扉を開かない限り、私は問題解決はできないと思います。「北朝鮮というレジームは崩壊する」と、九四年から十二年間にわたって有象無象のジャーナリストや学者が予言してきました。崩壊したでしょうか。崩壊しません。あの国はそう簡単には崩壊しない。あってほしくない体制だけれども、崩壊しない。存続するとしたらどうしたらいいか。交渉するしかないんですよ。 ((「戦後日本は戦争をしてきた」角川oneテーマ21から)〓〓
 なお拉致問題に絡んで、指定解除はカードを手放すことになるとの懸念が強い。しかし、日本には国交正常化という最大、最強のカードがある。急いては事をし損じる。難敵にはなおさらだ。

●日本、10度目の国連安保理非常任理事国に
 国連総会でイランに大差をつけてアジア枠の議席獲得(17日)
―― なかなか常任理事国のイスは巡ってこない。やはり大きく梶を切り直し、軍事的貢献ではない第三の道を模索すべきだ。「世界遺産」に相応しい平和憲法を大上段に掲げて。

【社 会】
●大阪・難波の個室ビデオ店火災で16人が死亡
 大阪府警は殺人などの容疑で無職の男を逮捕(1日)
―― 浅学のゆえに、個室ビデオ店なる存在そのものを知らなかった。いうならば、ホームレスの一歩手前であろう。事件の個別性から離れると、日本国憲法第25条が浮かび上がってくる。
<第25条>生存権、国の生存権保護義務
 1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
 この憲法誕生以来、日本は右肩上がりの成長を続けてきた。だから、第25条がイシューになることはなかった。今世紀に入ってからである。声高に「格差」が叫ばれはじめた。落伍の責任が個人から社会に移った。帰るべき原点は25条である。セイフティーネットに絞ってもいい。喫緊で大局的判断を要する問題だ。患部を放置していては命取りになる。

●ノーベル物理学賞・化学賞に日本の4人
 物理学賞は・大阪市大名誉教授の南部陽一郎さん(87、米国籍)、高エネルギー加速器研究機構名誉教授の小林誠さん(64)、京大名誉教授の益川敏英さん(68)に(7日)。化学賞は米ウッズホール海洋生物学研究所元上席研究員の下村脩さん(80)ら(8日)
―― 障子の破れなら解るが、「対称性の破れ」などといわれても一向に合点がいかぬ。理論物理学が何の役に立つのだろうと訝るむきもあるが、IT社会の基になる半導体は90年近く前の量子力学から生まれた。だからこの『破れ』もいつかは人類の突『破』口になるかもしれない。それはともかく、快挙だ。日本史上に刻印される壮挙である。
 話柄を転じてことしのイグノーベル賞は時事通信の報道によると、
〓〓粘菌の賢さ解明、日本人受賞2年連続 イグ・ノーベル賞
 おかしくかつ意義深い独創的研究に贈られるイグ・ノーベル賞の授賞式が2日、米ボストンのハーバード大で行われ、脳を持たない原生生物である粘菌に迷路を最短ルートで解く能力があることを発見した北海道大の中垣俊之准教授ら6人が「認知科学賞」を受賞した。日本人の受賞は2年連続。
 広島大の小林亮教授、東北大の石黒章夫教授らも連名で同賞を獲得。小林教授は「狙っていても取れない賞。研究が『受けた』のはとてもうれしい」としている。日本人では、ウシのふんからバニラの芳香成分を抽出した山本麻由さんが昨年「化学賞」を受賞し、それ以前にもカラオケの発明者らが「栄誉」に輝いている。(10月3日 時事)〓〓
 こちらの方は、すぐにでも応用が利きそうだ。

●三浦元社長が自殺
 81年の米ロサンゼルス銃撃事件で、サイパンで逮捕された三浦和義元社長がロサンゼルス市警本部の留置場で自殺(10日)
―― 「2008年2月の出来事から」で、「江戸の敵を長崎が討つ」と述べた。しかし再考するに …… 『長崎』に『仇討ち』の権利はあるのか。『江戸』は黙っていていいのか。つまり、これは主権の侵害ではないのか。すくなくとも米国にナメられてはいないか。 …… と考えるに至った。
 日本の最高裁で最終決着のついた事件を他国が裁けるのか。一事不再理の原則は国境を跨げないのか。別件での逮捕の形は取っているものの、それはカモフラージュか後付の理屈であることは明白だ。日本の裁判には信が置けないというのか。最低限、日本において無辜の民となった人物を断りもなしに拘束するとは、どういう感覚なのであろうか。属国か、2級国家並の扱いを受けて、なぜ日本政府は抗議しないのであろう。これは、マスコミの論調にもなかったようだ。命に別状のない賞味期限の偽装には喧(カマビス)しいくせに、なんとも残念である。
 それにしても、三浦氏はいつも問題を極めて先鋭化した形で世に投げる人だった。

●中国産冷凍インゲンから高濃度の農薬
 都内のスーパーで販売の製品から基準値の3万倍超のジクロルボス。輸入元ニチレイフーズが回収(15日)
―― 国内での犯罪の臭いがするのはわたしひとりか?

●妊婦が8病院受け入れ拒否の末死亡
 出産間近で脳出血を起こした女性が死亡していたことが判明(22日)
●伊藤ハム・地下水汚染で製品回収
 基準値を超すシアン化合物を検出と発表(25日)。26品目約331万個に。
―― 昨今はとかくに厚労省がらみの事件、出来事が多い。自ら留任を願ったと聞くが、舛添大臣は逃げを打たず孤軍奮闘している。ひょっとしたら、これは本物かもしれない。いな、そうであることを切に願う。

●文化勲章 8人に
 指揮者の小澤征爾さん、作家の田辺聖子さん、日本文学研究者のドナルド・キーンさんら(28日)
 ドナルド・キーン氏はそこいらの日本人学者なぞ足元にも及ばない。というよりも授賞が遅い。論功行賞は的確であると同時に、機を逸しないでほしい。

●日本代表監督に巨人の原辰徳監督
 来年3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の指揮をとる(28日)
―― 「大切なのは足並みをそろえること。(惨敗の)北京の流れから(WBCを)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、足並みをそろえることなど不可能でしょう」。このイチローの一言で決まったらしい。なにはともあれ、日本のプロ野球を草野球並に貶めた星野氏に出番はない。氏以外を消去法でいけば順当な人選だろう。
 さらにもう一つ。かつて、名前は失念したが関西のお笑い芸人が「阪神がやってはいけないことは優勝だ」と言ったことがある。自虐的発言にしばし嗤った記憶がある。たまたまにせよ、その禁を犯したのが星野氏だ。分を超えると、ロクなことはない。それにひきかえ、岡田氏は、今度はきっちりと掟を守った。かの芸人も満足だろう。いかにも、阪神らしい。

●高橋尚子が現役引退表明
 女子マラソンのシドニー五輪金メダリスト(28日)
―― 2001年、ベルリンマラソンで2時間19分49秒の世界新記録達成した時のことだ。試合後、走る前につくった短歌を披露した。
 「いままでに いったいどれだけ 走ったか 残りはたった 四十二キロ」
 これには唸った。「残りはたった」がいい。万感がこもっている。有森の「自分をほめてあげたい」がクサかっただけに、よけい新鮮だった。
 引退の会見も爽やかだった。欠片流に言うところの「カズ」型をすんでの所で迂回し、「ヒデ」型で収まったのではないか。今後はありきたりのスポーツアナリストなどではなく、『スポーツ歌人』でいってはいかがであろう。

【哀 悼】
●緒形拳さん(俳優)71歳(5日)
 なんといってもNHK大河「太閤記」の印象が強い。秀吉役は後にも先にも彼を超える役者はいない。今わの際にはカッと目を見開き、虚空を掴むがごとく腕を伸ばしたらしい。「役者」がまたひとり生者の列を離れた。 

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げました。見出しとまとめはそのまま引用しました。 ―― 以下は欠片 筆)□


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