伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

Hey Jude

2012年07月30日 | エッセー

 吉本隆明はかつて、「詩の本質は言語を<意味>ではなくて<価値>で表現しようとする」ところにあるといった。この箴言が、にわかに蘇った。
〓〓歓迎の「ヘイ・ジュード」
 聖火がともり、花火が打ちあがる。興奮が頂点に高まったスタジアムに、ポール・マッカートニーさん(70)の歌声が響いた。
♪ヘイ・ジュード
 ビートルズ結成半世紀。世界中で口ずさまれてきたフレーズに歓声が沸いた。
♪世界をまるごと肩に背負わなくていい 冷めてる連中は愚かだ 世界を自分でつまらなくしてる
 「ヘイ・ジュード」が発表されたのはメキシコ五輪があった1968年。民主化を求めた「プラハの春」はソ連の軍事介入で封じられた。ベトナム戦争は泥沼化し、世界中で若者が変革を求めて街頭に集った。
♪やるのは君自身なんだ 君が求める「動き」は君自身が背負ってる
 一見変わったようで変わらない人の世。それでも歌は響き続け、スポーツは人を魅了し続ける。人々は、つながっていく。
♪始めるんだきっとうまくいくさ
 「じゃあ、みんなで!」。呼びかけると、選手も観客も声を合わせた。歌い終え、叫んだ。「ロンドンへようこそ!」(石田博士)〓〓
 7月29日、朝日のスポーツ面に掲載された記事だ。すばらしいの一語に尽きる。本ブロガーが駄文を捏ねるよりも、こちらの方がより正確に感動と背景を伝えている。だから、そのまま引用した(朝日さん、ごめんなさい)。
 ジョンが先妻と別れたころ、息子のジュリアン(当時、5歳)が落ち込んでいると聞いてポールが慰めに向かう。ジョンの旧宅へ走るその車中で、この名曲は生まれた。だから当初はジュリアンの愛称を採って、“Hey Jules”だったそうだ。ところがスタジオで録音本番の時、ポールはつい“Hey Jude”と歌ってしまった。カットインする曲だから起こったハプニングかもしれない。「いや、こっちの方がいい!」となって、衆議?は一決したそうだ。
 発表当初は、失恋した男に寄り添い励ましをおくる曲とされていた。73年刊の『ビートルズ詩集』(片岡義男訳、角川文庫)を開いてみると、黄ばんだ頁に確かにそのトーンに纏われた訳詞が載っている。まさか対象は幼児のジュリアンではなかろう。ジョンは自分宛のメッセージだと言っていた。オノ・ヨーコに夢中だった彼にとっては、なんとも都合のいい読み方ともいえる。しかし、確かにジュリアンを介したそれと取れるところはある。    

   Remember to let her into your heart
     ・・・・・
   You were made to go out and get her
   The minute you let her under your skin

 などがそれだ。“her”は、もちろんヨーコだ。ジュリアンの傷が癒えれば、ジョンには大きな助け船になる。深読みして、ヨーコの闖入によりBeatlesに兆し始めた亀裂にポールがジョンへの肩入れをすることでわだかまりを解こうとした、とは穿ち過ぎか。
 名曲は出自を超える。ドアのノックから生まれた「運命」が歴史に屹立するように、いまや「Hey Jude」は人間讃歌として世界を巡る。
   Don’t carry the world upon your shoulders
    For well you know that it’s a fool who plays it cool
 は、
  ♪世界をまるごと肩に背負わなくていい 
   冷めてる連中は愚かだ 世界を自分でつまらなくしてる
   (♪部分は朝日新聞による訳詞、以下同様)
 と、見事にメタモルフォーゼしている。「文意を変更せずに、置き換えの多様性があるとき<価値>として増殖される」との吉本隆明の言そのものではないか。世に優れたものほど、たくさんの切り口をもっている。

 5時からTVと四つに組んでいた。
 英国史を概観するスペクタクル。「007」による女王陛下のエスコート、ヘリからのパラシュート降下。ベッカムによる聖火の水上リレー。ロンドン交響楽団による「炎のランナー」、“Mr.ビーン”のおちゃらけ。「ハリー・ポッター」や「ピーターパン」のフィーチャリング。聖火が7人の若者から200余に及ぶ参加チームの小さな炎に分かたれ、そして一つになって大火炎が夜空を焦がす。アカデミー賞をいくつも取ったダニー・ボイル監督の手になる開会式であった。
 蜷川幸雄氏は、「スポーツをスペクタクル化したオープニングが多かったけれど、今回は人間の進化、作り上げた歴史を描いて、人間賛歌にもなっていた。何よりも、人間のスペクタクルになっているのが良かった」(朝日新聞)と絶賛した。
 “北京”が力業だとすると、“ロンドン”は匠の業か。洗練されていてすべてのディテールにまで神経が行き届き、明確にコンセプトが伝わる構成であった。特に、映像を組み込んでセレモニーの一部にしていたのは目を引いた。TV放映を前提にしての演出といえる。スタジアムだけが会場ではないのだ。新しい発想といえるし、“北京”の『CG花火』より納得がいく。さらにスタジアムの天井からウエーブのように放出された花火は、式の流れにしっかり嵌まり絵画(エズラ)もマッチして強く印象に残った。
 ただ、筆者は物足りなさを抱きつつ観ていた。Beatlesを生んだ国にしては、扱いが軽くはないか。現代音楽をトレースするシーンではたしか2曲(1曲?)しか出てこなかった。ロイヤルボックスには縁(えにし)深き女王陛下がお出ましだというのに……。
 選手宣誓が済んでいよいよ大団円というところで、ダニー・ボイル監督が魅せてくれた。
 Hey Jude
 である。悔しいが、監督は偉い! 巧い! 賢い! 泣かせる! 
 筆者、堪らず落涙してしまった。できうれば、アカデミー賞をもう10個ぐらい贈ってもいいのではないか。

 今現在、日本の出足は芳しくない。しかし、

   And don’t you know that it’s just you
    Hey Jude, you’ll do
    The movement you need is on your shoulder
          ・・・・・
     Then you’ll begin to make it better
  ♪やるのは君自身なんだ
   君が求める「動き」は君自身が背負ってる
   始めるんだ きっとうまくいくさ

 ではないか。
「じゃあ、みんなで!」
      da da da
      da da da da
      da da da da
   Hey Jude
      da da da 
      da da da da
      da da da da
   Hey Jude
    ・・・・・
    ・・・・・
 


スポーツ寸景

2012年07月27日 | エッセー

 なでしこジャパンがオリンピックの初戦を勝利で飾った。対戦前にカナダの監督が「カナダはうまくいって引き分け」と語ったのを受けて、「あいつもやっと分かってきた」と佐々木監督は嘯いた。舌戦の妙が、この監督も「やっと分かってきた」のだろうか。となれば、正真の世界レベルだ。
 それにしても、イギリスへのフライトがエコノミーであったとは驚きだ。男子がビジネス・クラスなのに、人気が懐事情に追いつかないのか。涙を誘う話だ。なでしこのメンバーたちは結構ハングリーだと聞く。『坂の上の雲』をめざして登攀している時が、一番清々しいともいえる。これからが胸突き八丁だ。
     *     *     *
 イチロー、突然の移籍。『男の花道』に歩み込んだ、と信じる。ほとんどの邦人大リーガーが刀折れ矢尽きて舞い戻り、余命を日本で繋ぐ(松井にもその予感が)。そのような末路にくらべ、彼はきっと違う大団円を迎えるにちがいない。なにせ「力試しの大リーグ」ではなく、「世界標準を書き足し、書き換え、新設」した(今年3月、本ブログ「私的イチロー考」より)彼のことだ。近々ではないにせよ、百花が繚乱する見事な“道”を創るにちがいない。
     *     *     *
 大相撲名古屋場所。印象に残ったのは、白鵬の力が明らかに落ちてきていること。それに場所中ほとんどが1階席後方からは観客がまばら、というよりガラガラだったことだ。土俵がなくては相撲が取れぬというが、なにも土俵ばかりではあるまい。華のある力士が消え、客が集まらないのも土俵がないに等しい。いまや協会自体が剣が峰だ。協会は分かっているのだろうか。
     *     *     *
 ロンドンとは8時間の時差がある。日本が早い。3分の1日分だ。なんか、中途半端である。それに暑い。なお、もうひとつ熱くなる。暑くて、熱い。もー、たまらん! 
 ここのとこ、真夏の開催がつづく。おそらくテレビ放映などの商業主義に引き摺られての時期設定なのだろうが、省エネからも一考すべきではないか。
 日本選手団の主将は村上幸史。他人事ではないような気もする。彼はやり投げ、こちらは投げやり。天地の差だ。一方ならぬ応援を送りたい。
     *     *     *
 個人的な印象なのだが、女子スポーツの方が断然おもしろい! 最近、特にそう感じる(断言するが、変な嗜好からではない)。本ブログでも、女子バレーは何度も取り上げてきた。サッカーにせよ、陸上、レスリング、ホッケー、卓球、フィギュアにいたるまで、ほとんどの種目がそうかもしれない。なぜか? 
 男子に比べ、動きが緩やかであること。併せて、戦術、テクニックが平易であることか。あくまでも男女を引き比べればの話だ。男女差が縮まってきたとはいえ、やはりなおそうだ。それに古代より男子先行で進んできた歴史がある。ジェンダーではなく、フィジカルでは圧倒的に男子が優位だ。ほとんどの世界記録は男子がつくってきたし、テクニカル面、戦術、戦略でも男子が先導してきた。つまり女子は後塵を拝した分、スローでイージーに見えるのだ。それが観やすさ、判りやすさに通じているのではないか。桟敷ではこちらの方がおもしろい。
 以前にも書いたが、男子バレーは女子バレーとは異種に近い。男子フィギュアの4回転ジャンプ(唯一、安藤美希にも成功例はあるが)は、スローでしか素人目には判然としない。内村航平のF、さらにG難度も然りだ。あれほど高度になると、「なんかやったな?!」でしかない。それにひきかえ、女子は観るに容易なのだ。女子サッカーは特にそうではないか。ボール回し、フォーメーション、展開が実によく見える。俯瞰すると、男子より格段にクリアだ。
 スポーツを観る楽しさ。それはそれぞれのスポーツが、祖型に近い形で競技される中にあるのではないか。もちろん、より速く、高く、強く、複雑に、は当然の成り行きだ。そこにアスリートはすべてを傾注する。しかし“観る”は、別ではないか。ひょっとしたら女子スポーツに、男子スポーツの1周前のデジャヴを求めているのかもしれない。そんな妄念が過る昨今だ。 □


カジドロ

2012年07月24日 | エッセー

〓〓野田内閣は3日、先月成立した原子力規制委員会設置法と改正原子力基本法に「我が国の安全保障に資する」との文言が盛り込まれたことについて、「我が国の原子力研究、開発及び利用は平和の目的に限るという方針に何ら影響を及ぼすものではない。非核三原則を堅持していく方針に変わりはない」などとする答弁書を閣議決定した。〓〓
〓〓野田首相は12日の衆院予算委員会で、自民党がまとめた国家安全保障基本法案に関して「集団的自衛権の一部を必要最小限度の自衛権に含むというのは一つの考えだ」と評価した。集団的自衛権の行使は政府の憲法解釈で禁じられているが、自衛権の対象を広げて行使を認める考え方にも理解を示したものだ。〓〓(asahi.com)

 如上の2項は双方とも今月。ただし原子力基本法の改定は先月だった。同時に成立した宇宙機構法の改定には安保条項が入れられた。これらはみな消費増税と原発再稼働の喧噪の渦中であった。まさか陽動作戦ではあるまいが、質(タチ)の悪いカジドロであるのは確かだ。
 前項は答えになっていない。平和目的に限るという方針に「何ら影響を及ぼすものではない」なら、そもそも不要ではないか。フクシマから1年そこそこで、よくこんなセンシティヴな領域に踏み込めるものだ。能天気というか、国際感覚が疑わしい。
 後項は首相が自衛官の伜ゆえの身びいきだ、などとは考えたくない。ただ一国を預かるトップとして、安全保障観の脇が甘いことだけは透けて見える。消費増税の約束破り以上に重要な一線である。それを唯々として超えようとするのか。実は、民主党の政権互助会としての本性はここにある。安全保障についての詰めをなさないままに烏合した結果だ。それにしても党内からオブジェクションが出ないのは不思議だ。それもまた烏合の成れの果てか。
 本来、法文の恣意的解釈はつきものだし、「理解を示」せば事態に特定のバイアスが掛かるのも否めない。分度器上での1度は僅少でも、2つの線が延伸すれば限りない開きとなる。であればこのカジドロ、見過ごすわけにはいかない。
 首相はダミ声であっても(前首相の獄卒の音声〈オンジョウ〉のごとき声よりはましだが)、頭でっかちであっても(あれは何頭身というのだろう、よく歩行ができるものだ)、誠実そうには見える。しかし行状はよくない。まるで逆だ。「心から、心から、心から」誠実なカジドロとは、人を食った戯画でしかない。
 百歩も千歩も譲れば、終わりの始まり、つまりレームダックへの道行きであってみれば野党に付け込まれ妥協に傾ぐのも無理はないかもしれぬ。だからといって、捨て置く訳にはいかない。事が事だ。火事のどさくさに紛れて平和と安全が盗まれる。火事場泥棒もいいところではないか。それにしても質(タチ)が悪い。この質の悪さはどこから来るのか。
 政治力のない者が危ない火遊びをするとこうなるともいえる。しかし事の推移をなぞるに、この首相には痼疾があるとしか考えられない。『消費税パラノイア』だ。万歩譲って使命感だとしても、党分裂を甘受し『自民党野田派』とまで酷評され、際限のない妥協を重ねてもなおなさねばならぬ使命とは何だろう。肉を切らせて骨を断つと意気がったとしても、それはむしろ野党の側だ。消費増税へのこだわりが利敵となる危険性が、なぜ見えないのか。薮蛇やミイラ取りがミイラになる愚行に、なぜ気づかないのか。足元を見透かされてのたかりになぜ従うのか。もっと賢明な道筋は描けなかったのか。状況に盲目となって特定の物事に固執する。それこそがパラノイアではないか。カジドロの性悪はこれに起因すると診た方が理に適う。
 火事場の馬鹿力なら大歓迎だが、カジドロでは洒落にならない。ましてや慌てて飛び出したものの、掴んでいたのが使い古しの枕では駄洒落にもなるまい。悪いことは言わぬ。一日も早くカウンセリングを受けた方がいい。別名、選挙という名の。 □


肩凝り

2012年07月19日 | エッセー

「なんで、こんな使い勝手の悪いモノを作るんだ!?」
 何度、宙を睨んでグチったことか。実はここ3、4日、スマホと悪戦苦闘を繰り返していた。
 とにかく、あの「タップ」とやらが上手くいかない。指先で画面をちょこんと叩くのだが、これがめっぽう難しい。指がとりわけ太いわけではないが、相手が小さすぎる。「ちょこんと叩く」なぞということは性格上不得手である。同じならバシッといきたい。でも、それでは壊れる。弱いと反応しない。強すぎるととんでもないところへ飛んでゆく。そのくせほかのところについ指が触ると、呼びもしないのに用もないのが顔を出す。ころあいがなんともつかみ難い。ショップのお兄さんは実に軽妙だ。蝶が舞い、蜂の刺すがごとくである。くやしい……! しかし笑みをたたえつつ教えを請わねばならぬ。嫌われたら、絶海の孤島に置き去りにされるに等しい(なにせ取説の類が極めて少ない)。なんだかPCを使い始めた20数年前にタイムスリップしたようでもある。
 「長押し」や「ピンチ(画面の拡大・縮小)」「ドラッグ」「フリック(スクロール操作)」、要するに人差し指の先っちょがマウスとなって、画面をクリックするのである。理屈は解るが、よくもこんな無体な小技を課したものだ。人差し指はその名の通りモノを指し示すためであって、めったにモノをつついたりはしない。ましてや掌サイズの小さな画面をつつき回すとは、人体構造上大いに問題がある。だから肩はバキバキ、目はショボショボ、auさんにあんま賃をいただかねばならぬ。冗談ではなく……。なにせ替えたくもない機種を、このままでは電波の帯が変更になって使えなくなるからと無理強いされての機種変である。金は取られ、身体の自由は奪われ、時間まで根こそぎ持ってかれて、まったく合った話ではないのである。
 もちろん“iPhone”ではない。意地でも使わない。理由はかつて述べた(11年10月本ブログ「嫌いな訳」)。“Android”である。“Android”とは19世紀に書かれたSF小説に登場した言葉で、人造人間を意味する。早い話が鋼鉄で鎧われたロボットであろう。肩が凝るわけだ。
 “Android”はGoogle社製である。“iPhone”ほど完成度や安全性は高くないものの、多様性と自由度に優れる。ダウンロード・アプリに危険性が指摘されるが、それを超えて安定志向よりチャレンジを止めない姿勢が好ましい(Googleだけに小さな親切、大きなお世話は随所にあるが)。
 先日、総務省が発表した2012年版の情報通信白書によると、スマートフォンの普及による経済波及効果は年間7.2兆円だという。消費増税で目論む13兆円の半分だ。しかも33万人の雇用増につながる。15年にはケータイの半分以上に普及するそうだから、スマホは財政危機の救世主になるかもしれない。政府の要路にある面々には、大いなる振興策を御一考願いたいものだ。
 付言すると、雇用増や蓄積される膨大な情報による新しいサービスのほかに、あんま、マッサージは確実に繁盛する。この業界は時ならぬ天恵に浴するにちがいない。政府は気がついていないだろうが、意外で、相当な経済効果が期待できる。ちなみに、筆者も大枚を散じた。
 ともあれ『ガラケー』(ガラパゴス化したケータイ)と呼ばれる日本独自路線が行き詰まり、世界標準に迫ろうする趨勢は変わらない。肩は凝っても、フィンガー・タップに挑戦だ。ああー。 □


シュプレヒコール

2012年07月12日 | エッセー

 茶番劇なのだが、一瞬目を瞠る場面があった。11日の新党設立総会でのこと。締めくくりはお定まりのシュプレヒコールだ。
「…………、がんばろう!」
「がんばろー!」
 一斉にこぶしを突き上げる。少し上手に小柄な元柔道選手がいた。すっと右腕を挙げる。さしたる動きではないのだが、シャープで無駄がない。明らかに外のメンバーのそれとはちがう。あれほど切れのいい挙手は見たことがない。鮮やかで、清楚で、厭味がまったくない。つまりは、奇麗なのだ。叫ぶスローガンは鼻をつまむほど陳腐なのだが、腕の動きにだけは目を奪われた。
 さすがはゴールド・メダリストというべきか。一流の武道家は身のこなしがかくも異なる。それに引き換えこの党に限らず、政治家のシュプレヒコールはどれもぎこちない。労組をバックにした政党ならいざしらず、かつて政党の集会でシュプレヒコールはなされていただろうか。当てずっぽうだが、おそらく平成に入ってからではないか。別けても保守政党のそれは、取って付けたとしかいいようのないものだ。てんで様になっていない。
 養老孟司氏はこう言う。「普遍的な身体の表現は、完成すれば必ずどこにでも通じるはずのものなのです。二本差しでちょんまげを結って威臨丸から降りた人たちがサンフランシスコを歩いたときに、アメリカ人は誰も笑わなかったと思います。それが型です。意識的表現に比べて、こういった無意識的表現というのは、非常に身につきにくいものです。それを本来担っていくのが日常の生活です」(だいわ文庫「まともバカ」)
 日常の生活がそっくり無意識的表現の獲得に費やされてきたアスリートの挙措は、たとえ舞台が変わっても様になる。見栄えがする。しかし俄侍では遣米使節団の威容は損なわれたかもしれない。身に付かない振る舞いは失笑を買ったことだろう。などと、連想が跳ねてしまった。

 新党の面々はいろいろに身の振り方は学習した(もしくは学習中)であろうが、身の動かし方は未習熟である。その違いがあの刹那に顕れたともいえるし、メダリストは身の振り方に未習熟だったといえなくもない。 □


一つの視点として

2012年07月11日 | エッセー

 海に面した町に育ったため、松はそらこじゅうにあった。いまは害虫にヤられてかなり減ってはいるが、それでもこの木が景色を造っている。
 子どものころには松脂を採るのがおもしろく、よく樹皮を剥がしたものだ。別にこれといって使うあてなどはなかった。傷痕の痂を自然に剥離する直前、恐る恐る剥がしてみる。痛みはなく、妙に初々しい肌が現れる。あの快感に近いものがあった。
 感覚について、作家の橋本 治氏が「子どものときに経験するっていうことがもう、死ぬほど大事なんですよね。子どものときに腐葉土の匂いをかいでいる子といない子だったら、人間の幅が絶対違うと思う。松の幹に触ってうっかりしてその松の表皮を一枚剥いでしまった子と、そういう経験をまったくしたことのない子っていうのは、絶対にものの感じ方から何からして違うと思います」と語っている(ちくま文庫「橋本治と内田樹」)。
 山も背負っていたから、腐葉土もそらこじゅうにあった。今でもたちどころに、あのガイアの体臭が記憶に蘇る。氏は「そういう経験」の有無が感覚を圧倒的に左右すると言う。筆者の場合「うっかり」ではなく、底意があって樹皮を剥いた。その分捻り戻さねばならぬにしても、仕業は同じだ。経験をもつ者がもたざる者の感覚を掴むのは容易ではないが、子どもたちを視ているとなんとなく判る。感覚に“溜”がなく、リニアなのだ。『自殺の練習』などというものは、おそらくその成れの果てではないか。

 腐葉が次の稔りに供される。匂いは、大きな循環の溜を最も直截に訓(オシ)えている。木は皮で鎧われている。外界(ゲカイ)との溜を纏っているともいえる。痂を剥がす。それは極小の脱皮だ。なんだか似てなくもない。
 だが、それらは後付けの理屈だ。感覚は遥か先だってある。都市化が自然を駆逐したため、感覚が退けられてしまった。「人間の幅」が際限もなく狭隘となり、他者への排斥が先鋭化する。『自殺の練習』という名の集団リンチだ。
 「死ぬほど大事」なものを忘れたために、『死ぬ予行』がなされる。なんとも皮肉で、悲痛な成り行きだ。 □


落選させたい政治家

2012年07月08日 | エッセー

 「新潮45」の7月号が『落選させたい政治家12人』という特集を載せている。これがなかなかおもしろい。要点を引用(◇部分)しつつ、身の程知らずの加筆をしてみたい。

① 言い訳ばかりの権力亡者「菅直人」──保阪正康(ノンフィクション作家)
◇この人物は「権力」に気にいられることなら何でも平然と行ってしまうタイプ。権力を握って何か事を成そうとするのではなく、権力を握ることのみが目的で、それ以外は何も関心がないという人物である。私は市民運動に詳しいわけではないので、あっさり言ってのけることになるが、こんな人物しか生みだすことができなかったのであれば、市民運動とは何と歪んだ世界なのだろうと実感する。民主党代表選で、こういう軽薄な人物が党首になること自体に、そうか日本は少し舵とりを誤れば市民運動出身の権力至上主義者が登場して、麗句と恫喝、そして自己陶酔でこの国の基本的な骨格をがたがたにするのだなとも思い至った。こういう首相のもとで、東日本大震災と福島原発事故が起こったことは日本にとって、きわめて不幸だった。◇
 まったく同感だ。市民運動以前の、後出する佐々淳行氏が言った『第4列の男』も有名である。アジ演説はうまいがデモではいつも逃げやすい第4列目にいた学生として、当時公安に記憶されていた。最終節は正確ではない。物事は逆なのだ。以下、拙稿を引く。
〓〓この男がアタマをとって以来、碌なことがない。
 まずは口蹄疫が襲い、参院選で大敗し(他人事ながら)、円高で苦しみ、尖閣で揉め、北方で揺れる。特にあとの二つはワン・ツー、ダブルパンチだ。そのほか巨細漏らさねば、紙幅が追いつかない。
 もうそろそろ気づいてもおかしくはない。つまるところ、この男は疫病神にちがいないのだ。人気ほしさのパフォーマンスとはいえ、四国お遍路が一の得意。憑いた疫病神を落とそうとでもいうのだろうか。それにしてもしょぼい。可哀想なくらいしょぼい。
 疫病神が死神にランクアップするまでに、なんとかせねばならない。エクソシストにお出まし願おうにも、宗旨がちがうと効き目はなかろう。さて、いかに。〓〓(10年11月「疫病神」)
 「疫病神が死神にランクアップ」は、あろうことか4ケ月後に的中した。

② 思い出したくもない 史上最低の総理「鳩山由紀夫」──福田和也(文芸評論家)
◇余計な事を──出来もしない案をぶちあげてしまう。この軽さは、一体全体、何なのだろう。たしかに沖縄の方々が受けている痛み、苦労は大変なものです。その負担にたいして、多少とも心を痛めるのは、まっとうな反応とはいえるかもしれない。しかし総理大臣という国政の、最高責任者が、思いつきで県外移転を公言した後、ごく簡単に投げ出し、前言を撤回してしまった。なんともはや……、いや、酷いという事は承知してはいたんですがね。まさかここまで、呆けているとは。◇
 「思い出したくもない」が、もう書きたくもない。『宇宙人』と呼ばれるこの御仁、地球の倫理、論理が通じないなら、宇宙へ帰ってもらうほかあるまい

③ 見識も政策もない 鵺のような「輿石東」──阿比留瑠比(産経新聞政治部記者)
◇偉そうに訳知り顔に振る舞うが、実のところは日本の将来像も政局の先行きも何も考えていないのが輿石氏だ。ただ自身の権力維持だけが目的なのである。輿石氏が素早く動いた事例は、小沢氏の党員資格停止処分の解除以外見当たらない。これも結局、いったんは一審で無罪判決を受けていた小沢氏が控訴により再び刑事被告人となったことで、野田政権の評判を落としただけだった。野田首相が人事下手と言われるゆえんであり、つまりは人を見る目が全くなかったということだろう。保守政治家を自任しながら、旧社会党、日教組出身の輿石氏なんかを重用する「禁じ手」を打ったのだから自業自得だ。「日教組のドンだか何だか知らないが、輿石氏は古い型の政治家だ。輿石氏の排除まで含めて考えるべきだ」今や輿石氏は、自民党の最後の派閥政治家とも言われた野中広務元官房長官にまでこう指摘される。◇
 『日教組のドン』。前述の保阪氏の伝でいけば、日本の労働運動は結局この程度のネゴシエーターしか生まなかったということだ。まことに貧困というほかない。

④ 龍馬かぶれの子供政治家「橋下徹」──小田嶋隆(コラムニスト)
◇龍馬の政治利用。これは、とても胡散臭い手法だ。なにより、現実に権力を握っている人間である政治家が、自身の存在を、龍馬のような一種やぶれかぶれな人物に重ねて考えることは、単純な話、危険極まりないなりゆきでもある。たとえばの話、乗っているタクシーの運転手がアイルトン・セナ(早逝したF1ドライバー)への憧れを語り出したら、私はこわい。あるいは、自分の手術を執刀するはずになっている外科医が、雑談の中でマルキ・ド・サドの信奉者である旨を語ったとすると、それはやはり相当に薄気味の悪い経験になる。◇
 実にうまいキャッチコピーだ。「子供」に関しては、次の内田 樹氏の考究は実に鋭い。「子供政治家」の本質を掴む上で落とせない視点だ。
 
 自分の身に「うまく説明のつかない」出来事が起きたとき、その原因を「誰かの悪意」に求めて説明しようとする人がいる。あらゆる問題について、「誰のせいだ?」というふうに問いを立てる人がいるだろう。「子ども」は、説明できないことが起こると、その原因を「私の外部にある強大なもの、私の理解を超えたもの」、つまり「あらゆる問いの答えを知っているもの」に帰着させようとする。だから「子ども」は神を信じるのと同じくらい簡単に悪魔の実在をも信じる。「誰かが全部を裏で糸を引いているんだ」。そういうふうに考えること、それが「子ども」の危うさだ。だからこそ「子ども」は、しばしば恐るべき暴力の培養基ともなる。「強力な悪がどこかに局在していて、世界中の出来事をコントロールしている」という考え方をする人間は、たとえ老人であっても「子ども」だ。「じゃあ、ジョージ・ブッシュは『子ども』ですか?」人類学的基準からすれば、答えは「イエス」だ。「私」は無垢であり、邪悪で強力なものが「外部」にあって、「私」の自己実現や自己認識を妨害している。そういう話型で「自分についての物語」を編み上げようとする人間は、老若男女を問わず、みんな「子ども」だ。(角川文庫「期間限定の思想」)

⑤やっぱり何も考えてないのね「田中直紀」──倉田真由美(漫画家)
◇「無知の知」野田総理が彼を評して言った言葉、これにも笑った。物は言いようだ。彼のはソクラテスが言うところの「無知の知」ではなく、ただの「無知の開き直り」だろう。子供が難解なことを聞かれて、「オレ、知らなーい」というのと同じだ。◇
 もはやどうでもいい人物である。ただどうにもならないのは、任命した首相の見識だ。これは忽せにできない。この程度の人物を選ぶのは、この程度の人物と同等でしかないといえる。筆者がこの首相につけたキャッチコピー『中学校の生徒会長』も再考を要するほどだ(小学校程度か)。有権者も“コーヒー”なんぞ喫んでる暇はない。真面目そうに見えても、中身をしかと見定めねばならない。中学生の“一日首相”とは訳がちがうのだから。

⑥ どの口で綺麗事を言うのか「小沢一郎」──屋山太郎(政治評論家)
◇小沢氏は消費税増税に反対して、野田内閣を揺さぶっている。「増税の前に国民に約束したことをやれ」という。全く同感だ。民主党の大看板は「天下り根絶」だったが、鳩山内閣誕生の直後に小沢幹事長がやったのは斎藤次郎元大蔵次官を日本郵政の社長に据えたことだ。見本のような天下りを自ら示して国民を欺いたのは小沢氏だ。小沢氏に発言の資格などない。◇
 加えて消費増税反対については、細川内閣でなんと“福祉目的”税としての「国民福祉税」構想を打ち上げた張本人だったことを忘れるわけにはいかない。この人物にとって政策とはそのようなものでしかない。
 先日本ブログ「ポピュリズム二景」で、内田 樹氏の言を引いて拙文を締め括った。
〓〓片や、生き残りのために捻りなしのポピュリズムに有り金を賭けるポピュリストたちもいる。「正義は我にあり」と「チープでシンプルな政治的信条を、怒声をはりあげて言い募る」。どちらにせよ、「日本の政治家たちが急速に幼児化し、知的に劣化している」なによりの証なのだろうか。〓〓

⑦ 調子の良さだけは一流の厚顔無恥「原口一博」──適菜収(作家・哲学者)
◇「国民の声を聞け」が口癖の原口だが、選挙には弱い。閣僚懇談会を途中退席してまでもバラエティー番組に出演したり、ツイッターに夢中になって参院予算委員会に遅刻したりするのも、マスメディアにおける露出が唯一の生命線であることを自覚しているからだろう。原口のあだ名は、「風見鶏」「ラグビーボール」である。要するに、どこになびくか、どこに転ぶか見当がつかない。政界においては、その時点における強者に近づいていく。小沢一郎の周辺をうろつき、マスメディアに登場しては大衆にひたすら媚びを売る。風向きを見ながら、大阪の橋下徹や名古屋の河村たかしにも接近しようとする。◇
 今回の消費増税案議決でもまさに「風見鶏」であった。講談ではないが、「声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のようだ」とでも言っておこう。

⑧ 究極の勘違い女「小宮山洋子」──麻生千晶(作家)
◇夫婦別姓主義の彼女が、未だに最初のダンナの小宮山姓を名乗っている無神経も理解できない。夫の祖母や姑たちと同居で辛かったと語っている結婚時代の苗字でも、NHKで名が知られて、選挙に有利ならば使うって? 随分とご都合主義だし、変てこりんだ。◇
 あの東大闘争時の加藤一郎総長が父親である。やたらとサラブレッドを鼻に掛けるらしいが、曰くがありすぎないか。それよりも国民の健康を預かる厚労大臣なのだから、首の振るえとやたらブレスの入るしゃべりは早く診察を受けた方がいい。 

⑨ 何が政治主導か 三百代言「枝野幸男」──佐々淳行(評論家)
◇枝野幸男前宣房長官の政治的行政的、道義的責任は極めて重大で、本来なら問責決議の対象となり、次の解散総選挙に際しては立候補を自ら遠慮すべき政治家である。何が「政治主導」なのか。3・11東日本大震災は大きな国家危機管理の大失敗にもかかわらず、関係省庁の政務三役でただの一人も自ら引責辞職した政治家はいない。内閣の要である官房長官なら知っておくべき内閣法、国家行政組織法、国家公務員法など国政にかかわる行政法、とくに国家危機管理法体系、すなわち警察法、自衛隊法、消防法、海上保安庁法、そしていわゆる「有事法制」研究の実定法化により近年急速に整備された「安全保障会議設置法、武力攻撃事態対処法」「国民保護法」に関する法律知識も行政体験も欠いている。口だけは達者な“三百代言”であるとの印象を決定的にした。確信ありげで滑舌もよく、説得力があるとみられたが、あまりにウソが多く、とくに「メルトダウンはない。チェルノブイリとはちがう」と一体何回いったことか.宣房長官が先頭に立って牛肉だ、稲わらだと風評被害をテレビ記者会見で拡大したのも、なんとも未熟だった。◇
 原発事故でのA級戦犯がなぜ内閣に居残るのか。それだけでも不思議だ。まともな人間なら、まずは自ら謹慎するだろう。当人にはおそらく有責感も罪悪感もないのだろう。舌足らずで(佐々氏の「滑舌もよく」とは見解を異にする)、寸足らず。おまけに、知恵足らず(佐々氏の指摘通り、知識も不足している)の倫理感まるでなし男。こんな手合いを任命する者もおかしい。⑤ に同じだ。
 現代版「舌切り雀」──助けたわけでも可愛がったわけでもない。張り替え用の糊を嘗めるどころか、ブスブス障子をつつき回して穴だらけにしてしまった。仕置きに舌を切ろうにも舌足らずだから、それもできない。頼みもしないのに、大きなお土産を持ってきた。開けたら、なんと原発再稼働だ──。

⑩ 永田町の絶滅危惧種「福島瑞穂」──ツノダ姉妹(マーケティング会社経営)
◇小泉元総理のワンフレーズ手法を真似たのかテレビで人気者だった頃の目立ちたがりの血が騒ぐのか、「一言でいうとぉ……」と、ことあるごとにネーミングを披露しております。それは今や内閣改造や解散時の国民的な風物詩で、『ボクちゃん投げ出し内閣』『福田保身内閣』、先日の野田内閣改造も『民間丸投げ無責任内閣』と早速ネーミング済み。政局に動きがあると「次は瑞穂がナント例えるのかな?」と楽しみですらあり、ツノダは勝手に「ネーミング番長」と名付けウォッチしているほどです。古き良き昭和な女の国会議員のスタンダードとして、福島瑞穂氏を特別天然記念物、絶滅危惧種として保護すべきだと宣言いたします。私たちにとって、瑞穂はトキと同様に、いなくて困ることはありませんが、いなくなったら寂しい存在なのです。◇
 「絶滅危惧種」とは絶妙だ。そういえば、S民党自体も絶滅危惧種である。前党首は「おタカさん」だったから、鳥つながりで現党首は『おトキさん』ではいかがか。もちろん、あの鴇である。こちらの鳥は絶滅を免れそうだが、政党の人工繁殖は寡聞にして知らない。
                        
⑪ 日本の政治そのもの 薄くて軽い「石原伸晃」──林操(コラムニスト)
◇石原家は名家、ってのも誤解っちゃ誤解。裕次郎および甥ッ子の石原4兄弟は確かに揃って慶応のお坊っちゃまながら、慎太郎は官学一橋大出だし、その父は山下汽船の子会社取締役まで出世したものの、入社したときは愛媛の旧制中学中退の店童。つまりはノブテル、2代さかのぼるだけで苦労人にたどり着く。◇
 彼の祖父、慎太郎・裕次郎の父親は、日露戦争でのし上がった船成金(山下汽船)の大番頭であった。この船会社は黒い噂を抱えていたし、朝鮮人労働者を食いものにした戦争成金であった。名家などであろうはずはない。
 ともあれ親父が弟の七光だから、甥っ子は叔父さんの三と二分の一光か。

⑫ とにかくなんだか恐ろしい「小泉信次郎」──青木るえか(エッセイスト)
◇とにかく橋下と石原親子にはぜひ落選して政治家でなくなってほしいが、政治家じゃなくてもテレビとかに出てきてうるさそうだ。いっそ尖閣諸島でも竹島でも沖ノ鳥島でも移住してくれないものか。などと言ってるが、実は私はこの3人についてはそれほど心配していない。石原父は寿命というものがたぶん迫っているし、伸晃は慎太郎よりスケールが小さい。橋下も、あのお調子者ぶり(橋下という男はウケるためなら何でも言う。今の反原発発言もそれである。いつまでもつか見モノだ、……と、書いてるそばから大飯原発再稼働は条件付きで容認とか言いだした。私が怖いのは小泉進次郎だ。いわゆる「危険な政治家」というのとは別の文脈で、怖ろしくてしょうがない.
 小泉は純一郎の時から怖かった。小泉ってブッシュの前でプレスリーを歌うとか、「痛みに耐えてよく頑張った感動した」とか、親しみやすげなパフォーマンスが目立ったが、騙されてはいけない、あれは冷たい男だ。トラブルが嫌い。トラブルは無視。意見の相違も嫌い。人の意見は無視。利害が一致した時のみ役に立ってくれるが、一致しないとなったらたちまちその人はモノとなり果てる。後継者は孝太郎じゃなく進次郎。当然だろう。すごく似てるから。似てるどころか純化している。さらに冷たく、そして(まずいことに)ハンサム。この息子なら、ハンサム冷血政治で日本を牛耳ることができる、と父は見込んだのだろう。政治的な立ち位置では、「民主党に対するアンチであり、自民党主流派に対しても反対意見を堂々と言うが、基本は自分に都合のいいようにする保守」という、ふだんあんまりものを考えない人々からゴッソリ票を得られるようなところにいて、しかし橋下や石原親子みたいに「良識ある人びとの眉をひそめさせる」ハデなことは言わないから、ジワジワと支持を伸ばした挙げ句に親子二代の総理大臣、なんてことになるのではないかと、想像するだけで恐怖に突き落とされる。◇
 女性特有の嗅覚か。恐れる意味はよく解る。手強い批判だ。

 犬の遠吠えの終わりに、ネガティブ・ボーティングを提案しておきたい。今のシステムでは、当該選挙区以外では「落選させたい」という願いは投票行動に反映できない。是非とも一考すべきではないか。大野伴睦は「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」と名言を残した。しかし今や、「ただの人」以下が木に登っているからややこしい。 □


いまさら『結婚しようよ』

2012年07月02日 | エッセー

 このブログをはじめてまもなくのころ、次のような拙文を載せた。
〓〓背筋に悪寒のような電流が走った。『結婚しようよ』を聴いた時だ。この世のものではない、と感じた。以来、ずっと一ファンでありつづけている。
 ただ、この曲は大変なブーイングを浴びた。フォークにあるべきメッセージ性がない、と。当時の筆者、フォークを耳にすることはあっても、さしてこころの動くことはなかった。むしろ、あのメッセージ性なるものが厭味でもあった。
 たくろうの大いなる足跡 ―― それは、フォークに身を置きながら軽々とフォークを超えたことだ。一気に音楽シーンの垣根を取り払ったことだ。『襟裳岬』の授賞はその象徴である。政治的なメッセージはすぐに干からびる。『肩まで伸びた髪』は、大人社会に対する若者のアンチテーゼだ。若者と大人が共存するかぎり、このメッセージは万古不易だ。と、そんな小ジャレたことを、当時、考えていたわけではない。これは後付けの理屈だ。〓〓(「赤いちゃんちゃんこ」06年4月)
 「電流」の正体については、本ブログ「マキタスポーツは売れ筋」(今年4月)に記した「音の物質性」がそれであろう。 
〓〓内田 樹氏が小学5年の時、英語も解らないままエルヴィスを聴いて震えた体験を通し「音楽の命は音の物質性のうちに棲まっている。言葉も同じである。言葉の命は言葉の物質性のうちに棲まっている。」(「こんな日本でよかったね」文春文庫)と語っている。筆者もそうだった。エルヴィスも、ビートルズの時も英詩を理解して痺れたわけではない。かつて書いたように拓郎もそうだった。まずイカれたのはあのメロディーと声。つまりは音にだった。小林秀雄も三島由紀夫の時もそうだった。文意を十全に受け取った後に嵌まったわけではない。スピーカーが送ってくるカッコいい音の連打に、紙面に刻された美しい言葉の群に酔ったのだ。でなければ、意味も解らず『来た~!』はずはない。〓〓
 要するに、この曲の詞にはほとんど頓着はしていなかったということだ。裏返せば、なんの抵抗もなかったのだ。ただ少しはニンマリしたかもしれない。意外なメルヘンに、である。
 やや古い書籍だが、神戸女学院大学教授で文化学、英米文学を専門とする難波江 和英氏が「恋するJポップ」(冬弓舎 04年刊)で意表を突く『問題』を指摘している。(◇部分は同書より引用、以下同じ)

◇田家秀樹は『読むJ―POP──1945-1999私的全史』で、「七〇年代の最初のフォーク系のヒットは『出発の歌』になる。でも、影響力や衝撃度の強さや大きさは『結婚しようよ』の比ではなかった」と指摘している。

♪僕の髪が/肩までのびて/君と同じに/なったら/約束どおり町の教会で/結婚しようよ/古いギターをボロンと鳴らそう/白いチャペルが見えたら/仲間を呼んで花を貰おう/結婚しようよ……二人で買った緑のシャツを/僕のおうちのベランダに並べて干そう/結婚しようよ/僕の髪は/もうすぐ肩までとどくよ

 こうして歌詞を読み直してみると、これは「牧歌的」といえるほど「のどかな歌」である。いまの若者なら、このどこに「問題」があるのか見えにくいかもしれない。この歌のイメージは、それほど現在の結婚風景と重なっている。しかし「問題」は、たしかに存在した。<略>
 (1) 家より本人……家(制度)からの独立、個人の意志(自立)
 (2) 地元より町……都会志向
 (3) 神式より教会式……西洋志向
 (4) 親戚縁者より仲間……共同体から友だちグループへの移行◇

 歌詞とのリファレンスは不要だろう。長髪が前時代との決別の記号であったことはもとよりだが、旧世代にとっての『問題』がぎっしりと嵌入されていたとは“いまさら”目から鱗である。
 引用をつづける。

◇この歌の背景には、団塊の世代を中心にした当時の若者たちと、戦前・戦中派を中心にしたその親たちとの結婚観の対立が、目に見えない構図として埋めこまれていた。
 旧世代が「男は強く、女は弱く」を男女関係の基本として刷りこまれた世代であるとすれば、新世代は「男女の対等」を意識し始めた世代である。それゆえ、リストに見られた結婚観の「反社会性」は、旧世代の「男>女」の価値観が新世代の「男/女」の価値観と対立するところから発生したように見える。
 しかし問題の根は、もっと深いところにある。旧世代から見れば、結婚は男子の系譜による家の継承を最優先して、家系を存続・強化するための家父長制の儀式だった。それゆえ彼らにとって、結婚は当然ながら、地元志向、日本志向、共同体志向をもつ土着の儀式でなければならなかった。ところが《結婚しようよ》の結婚では、主人公の意志は、それと相反する方向を指している。それどころか、この男性が継承するはずの「家」は、なんと〈僕のおうち〉になってしまっている。
 新旧の世代の結婚観は、この点で、もっとも大きい裂け目を見せる。なぜなら、男を強者とし、女を弱者とする男女関係を基本とする家父長制の「家」は、人間(特に男)の自己形成の場だったからである。たとえば明治以降の家制度の「家」にしても、それが意味していたのは、単に自分が生まれた建物のことではない。「家」とは実家であり、郷里であり、共同体であり、生の起源であり、死の回帰点である。それゆえ旧世代は、家を人間存在の意味の座標軸として、そのなかで、それとの関係性によって、各自の「わたし」を形成してきたのだった。
 それと同じことが、家系についてもいえるだろう。つまり家系もまた、単に家族の連鎖を意味しているわけではない。それは血筋を介した時間の流れや、時間の層をあらわしている。それゆえ旧世代は、その重層性をもつ時間の流れを人間存在の意味の座標軸として、そのなかで、それとの関係性によって、やはり各自の「わたし」を形成してきたのだった。男は血筋の継承者として、そして女は血筋の媒介者として。いい換えれば、人間にとって、各自の存在の意味は、それ自体のなかにはなく、家の存立を支えてきた空間軸と時間軸が交差するところに、その接点として立ちあらわれてくる。
 その観点から見れば、新郎になる男が長髪であることくらい、なんの問題でもない。たしかに旧世代が男の長髪に反発したのは、「男が女みたいになる」ことへの危惧からだった。しかし彼らの反発は、表面上、男の女性化にむけられながら、彼ら自身の思惑を越えて、もっと深いところまで届いている。
 それは、男女関係の基本が「男>女」から「男/女」へと推移するにつれて、それまでの自然(拡大家族・地元・日本式・共同体)が都市化(核家族・町・西洋式・仲間内)によって消えていくことだった。個人同士の結婚と共同体を構成する家族が分離するにつれて、人間が各自の存在を位置づけながら、その意味を確認してきた歴史のトポスとしての家そのものが風化していくことだった。◇

 長くなったが、見事な洞見ゆえ端折れない。如上、この曲はとてつもなく大きなアンチテーゼを孕んだ衝撃的なメッセージ・ソングだったことになる。しかし振り返ると、あの裏切りとまで酷評された「大変なブーイング」とは何だったのだろう。拓郎の痛烈なメッセージが「牧歌的」な音に隠れてしまったのか。時の若者たちには、違和感のない日常を「ヒット」というトポスに乗せるコマーシャリズムが捨て置けなかったのか。ヒットすることで、とんでもない大きな『問題』が「旧世代」に突き付けられていることに考え及ばなかったのか。若気の至りを『大人』にぶつけたつもりが、当の若気の『怒り』を呼んだということか。
 一昨年3月、文芸誌「すばる」に掲載された作家・重松 清氏とのインタビューに次のようなやりとりがあった。


吉田 あそこ(中津川フォークジャンボリー)でヒーローになってしまった吉田拓郎というヤツを、七五年ごろに僕は嫌いになっていた。それで、あの吉田拓郎と訣別したいというのがあるんだけど、ファンはそれを許さない。「あれがお前の姿じゃないか。『結婚しようよ』なんてお前の真の姿じゃない、仮の姿だ。分かっているんだ、拓郎よ」なんて言われたら、「冗談じゃない、お前は何も分かってねえ!」って言いたかった。
 『結婚しようよ』を歌っておいて、旅でサイコロ振るおじいさんに出会って、挙げ句にハワイのカハラ・ヒルトン・ホテルがいいよ、その上、『ローリング30』で三〇歳過ぎて転がる石になれって……。どれなんだよ、お前は(笑)。
重松 そして最近では、『ガンバラナイけどいいでしょう』と歌ってみたり。おかしいなあ。そうなるとまた聴く側が、四〇年間の中で勝手にピックアップして、許せる拓郎と許せない拓郎を分けていく。
吉田 それについて、いま言えることは「ごめんなさい、すみませんね」しかなくて。僕がもし聴く側にいたら、確かに混乱はすごいでしょうね。そんなヤツを好きにならない(笑)。
重松 そういう矛盾。拓郎さんは本の中で「とにかく自分には矛盾があるんだ」と書いていますね。「矛盾がいいんだ」とも。


 まことに軽妙なダイアローグである。2つ、注目点がありそうだ。難波江氏が導出したメッセージは作者が意図的に埋め込んだものではなかったという点。それは、「『結婚しようよ』なんてお前の真の姿じゃない……『結婚しようよ』を歌っておいて、旅でサイコロ振るおじいさんに出会って」のコンテクストから明らかに透過できる(意図したメッセージなら、異論をとなえるはずだ)。時の若者のありようを、そのまま歌っただけなのだ。無作為の妙というべきか。
 それに、もうひとつ。『矛盾』についてのやりとりだ。もともとが矛盾だらけの人間を、こちらも矛盾だらけの人間が詠う以上、ファンを裏切らないアーティストはただのエピゴーネンか石ころ並の凡庸でしかない。ならば「どれなんだよ、お前は」は、蓋し至言ではないか。いや、箴言といってもよい。
 それを前提にすると、以下の難波江氏の論考はなんとも肯んじがたい。

◇この歌の主人公も、根本から進歩派だったとはいえないだろう。地元より〈町〉、神式より〈教会〉がアカ抜けていると考えること自体、見方によれば非常にヤボったく思われる。そこには、新しいものに飛びつく日本人の田舎根性と保守性が透けて見える。
 この歌の時代性を考えるのであれば、むしろ主人公は、人間存在の根幹ともいえる性欲望をコントロールする制度として〈結婚〉を真先に否定するべきだったのではないか。◇

 「新しいものに飛びつく日本人の田舎根性と保守性」とは手厳しい。誰だって時代の外では生きられない。「見方によれば」とは、正確には「時代によれば」であろう。だから「アカ抜けていると考えること自体」ヤボではなく、時間軸のズレ具合によっては十分「進歩派」たりうる。かつ、作者はありのままを歌にしたのだ。むしろ、「無作為の妙」というべきではないか。
 また、どう「この歌の時代性を考え」ても「性欲望をコントロールする制度として〈結婚〉を真先に否定するべき」とはいえない。〈結婚〉制度は人間と社会の根幹に関わる。単なる「性欲望」のコントロール・システムではない。プログレッシヴとアナーキーは違う。勇み足、短見というべきではないか。
 締め括りはトーンが上がる。

◇制度の軸〈結婚〉は据え置いたままで、その軸を中心に展開する日常生活のモード(結婚式の方法など)を時代の波長に合わせて生きている。
 この生き方は、世渡り上手でありながら、自分のライフスタイルも実践するという意味で、適度に能動性を備えている、しかしこの生き方はまた、その反面、「決まったことは仕方がない、その範囲でなんとか暮らすことができればそれでいい」という受動性をあわせもつ可能性があった。◇

 氏には「時代の波長に合わせ」る「世渡り上手」な側面は見えても、「時代の波長に合わせ」なかったこの曲の立ち位置と作者の生きざまは等閑視されている。なにより「許せる拓郎と許せない拓郎」の類例は絶後だ。そんなアーティストがかつていただろうか。“いまさら”ながら、この曲の凄みに「悪寒のような電流」が走る。
 実は、先日の本ブログ「ポピュリズム二景」で引用した内田 樹氏の「街場の読書論」に難波江氏の上掲書が紹介されていた。“いまさら”ながら、遡って読んでみた。並のポップス論ではない。重厚な世代論、現代文化論ともいえる。こういう本はもっと読まれていい。“いまさら”どころか、いまでも決して遅くはない。もちろん『結婚しようよ』は“いまさら”どころか、いつまでも時代の転轍機として刻印されるだろう。 □