一. 赤坂の夜は更けて (西田佐知子、1965)
二. ウナ・セラ・ディ東京 (ザ・ピーナッツ、1964)
三. 東京ドドンパ娘 (渡辺マリ、1961)
四. すみだ川 (東海林太郎、1937)
五. 男はつらいよ (渥美清、1970)
六. 新宿の女 (藤圭子、1969)
七. 新宿そだち (大木英夫・津山洋子、1967)*桑田とTIGERのデュエットで
八. 紅とんぼ (ちあきなおみ、1988)
九. 北国の春 (千昌夫、1977)
十. 神田川 (かぐや姫、1973)
十一. 東京砂漠 (内山田洋とクールファイブ、1976)
十二. 東京 (桑田佳祐、2002)
十三. 悪戯されて (桑田佳祐、2016)*未発表曲
これは今月26日フジTVで放映された「桑田佳祐『偉大なる歌謡曲に感謝 ~東京の唄~』」のセットリストである。
〽R&Bって何だよ、兄ちゃん?
HIPHOPっての教えてよ! もう一度
オッサンそういうの疎いのよ 妙に
なんやかんや言うても演歌は良いな〽
6月の拙稿「ヨシ子さん」で取り上げた同名曲のワンフレーズだ。「そういうの」ばかりやってきたくせに、「疎い」とは白々しい。で、「なんやかんや言うても演歌」かい?! これにはびっくりポンだ(古い!)。
実はこの天衣無縫の豹変にはわけがある。変節ではなく、原点回帰なのだ。「なんやかんや言うても」とは、そのことだ。
13年のサザン復活に思想家・内田 樹氏が以下のようなコメントを寄せていた。同年8月の愚稿「南の風」で引用したものを再度引く。
<サザンオールスターズの音楽はおそらく「最後の国民歌謡」として日本音楽史に名前をとどめることになると思います。「国民歌謡」の条件はいくつかあります。
第一の条件は特定の年齢や性別や階層を排他的に標的にせず、「老若男女」すべてに全方位的に歌いかけていること。
第二の条件は「異文化とのハイブリッド」であること。土着的なものと舶来のものの混淆こそ日本文化の正統のかたちです。桑田佳祐の歌唱法はエリック・クラプトン的かつ前川清的ですが、これこそ国民歌謡の王道。
第三の条件、これがいちばん大切なのですけれど、「国土を祝福する歌謡」であること。「江ノ島が見えてきた」以来サザンはさまざまな地名を歌い込み、それらの土地を豊かに祝福してきました。これは古代の「国見」儀礼や山河の美しさを言祝ぐ「賦」の系譜に連なるものだと私は思っております。国民国家が解体しつつある時代に敢えて再登場を果たした「最後の国民歌謡」バンドに連帯の拍手を送ります。>
セットリストを見ると桑田は歌謡曲と演歌を混同している節があるが、「第一の条件」は軽々とクリアーしている。なるほど、「全方位的」な曲目だ。かつ、桑田節を封印して実に丁寧に判りやすく忠実に「歌いかけている」。否、歌い上げているともいえる。さらに寅さんまで出た日には、こちとら喝采を送らねば後生が悪かろう。
『東京砂漠』が掛かった時には我知らず膝を痛打した。「エリック・クラプトン的かつ前川清的」が立証された瞬間だった。第二の条件である「日本文化の正統のかたち」を体現するものだ。
「感謝 ~東京の唄~」とある以上は、第三の条件「国土を祝福する歌謡」は十全に満たしている。『北国の春』は都会、別けても東京からの望郷の唄だとイントロ紹介されていた。
となると、内田氏が剔抉した桑田が内包する「最後の国民歌謡」という本質が惜しげもなく披露されたステージだったというべきだろう。
言い忘れた。「なんやかんや言うても」、桑田は歌が巧い。もうこれは文句なしだ。言わずもがなだが、只者ではない。それにもう一人、只者ではないシンガーが加わった。7曲目の『新宿そだち』でデュエットしたTIGER。デビュー16年、MISIAや安室奈美恵などの作品にも係わってきた女性シンガーだ(日本人、たぶん)。これが桑田を喰うほど巧い。これは聴かせる。
全曲それぞれセットを変え、曲想に合わせた意匠を凝らしている。バックは超一流メンバー。原曲に忠実な演奏。ラストの『悪戯されて』などはまったくの正調歌謡曲で、バックも含めみんなが正装。桑田はチョウネクに頭を七三に分けて直立して歌う。コーダで深々とお辞儀。“まるで”演歌歌手のようだ。
翻って、拓郎はどうだろう。かつて『いつでも夢を』や『夜霧も今夜もありがとう』などを歌ったことはある。本人はサービスだと言った。サービスにしてはしっかりと作り上げていた。ただどう転んでも、拓郎節以外ではない。リスナーもアレンジを期待しているし、原曲は見事にメタモルされる。だが桑田に比して、拓郎は明らかに歌唱法において「第二の条件」に適わない。「前川清的」ではないのだ。つまりは小節だ。本人は憧れると言うが、これがまるでない。アプリオリにそうなのだから、致し方ない。しかし、これが最強の武器となって音楽シーンを塗り替える快挙がなった。つまりは、「前川清的」ではない歌唱の歌が若けーもんの心を鷲掴みにした。
刻下の学説(ロビン・ダンバー著『人類進化の謎を解き明かす』)に拠れば、類人猿が毛づくろいで絆をつくっていたのに対し霊長類はグルーミングの代わりに笑い、歌、踊り、さらには言語で絆を拡大、維持したという。
<社会的つながりを維持するメカニズムとして、音楽活動は笑いより重要な利点を二つもつ。まず、音楽はたくさんの人を巻きこむので、「毛づくろい」相手の数を劇的に増やす。音楽効果の上限についてはまだわかっていないが、笑いの上限の三人より大きいのはまちがいないだろう。集団サイズが三人より大きくても、音楽はそのより大きな集団内の絆を固めてくれるはずだ。二つ目の利点は、音楽活動(歌う、楽器を演奏する、踊る)には明確な共時性があり、もちろん、これは全員のタイミングを合わせるリズムによっておもに得られるということだ。共時性にはなにか純粋に不可思議なものがある。身体運動によって分泌されるエンドルフィンをおよそ二倍に増やすらしいのだ。>(上掲書より)
笑ったり歌うことによって胸壁筋にかかるストレスがエンドルフィンを産出する。エンドルフィンとは脳内物質の1つで、モルヒネ同様の作用をもつ。 特に、脳内の「報酬系」に多く分布し、鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらす。笑いに較べ音楽は人数を劇的に増加させ、共時性がエンドルフィンを倍増させる。
要するに、人類生存の最適手段である集団化に音楽は不可欠の貢献をしたことになる。してみれば、内田 樹氏が言う「国民国家が解体しつつある時代に敢えて再登場を果たした」とは言い得て妙、宜なる哉だ。更にまた、今度は国民国家の淵源に迫ろうというのだ。これは快挙というにふさわしい。
番組の冒頭と終わりには桑田扮するスケベなオッサンが楽屋落ちを入れた小芝居を演じる。こいう戯(オド)けは桑田の真骨頂だ。グルーミングの代わりの笑いといえなくもない。
11月にはフルバージョン、全20曲でDVDがリリースされるという。追加は──東京の屋根の下 (灰田勝彦、1949)/あゝ上野駅 (井沢八郎、1964)/有楽町で逢いましょう (フランク永井、1957)/車屋さん (美空ひばり、1961)/たそがれの銀座 (黒沢明とロス・プリモス、1949)/東京ナイト・クラブ (フランク永井・松尾和子、1959)/唐獅子牡丹 (高倉健、1965)──の7曲。なんとも賑やか、昭和の東京だ。耳を澄ますと、オッサンの声が聞こえる。
「なんやかんや言うても演歌は良いなー」 □