伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

なんやかんや言うても演歌は良いな♫♫

2016年08月29日 | エッセー

一.    赤坂の夜は更けて (西田佐知子、1965)
二.    ウナ・セラ・ディ東京 (ザ・ピーナッツ、1964)
三.    東京ドドンパ娘 (渡辺マリ、1961)
四.    すみだ川 (東海林太郎、1937)
五.    男はつらいよ (渥美清、1970)
六.    新宿の女 (藤圭子、1969)
七.    新宿そだち (大木英夫・津山洋子、1967)*桑田とTIGERのデュエットで
八.    紅とんぼ (ちあきなおみ、1988)
九.    北国の春 (千昌夫、1977)
十.    神田川 (かぐや姫、1973)
十一.  東京砂漠 (内山田洋とクールファイブ、1976)
十二.  東京 (桑田佳祐、2002)
十三.  悪戯されて (桑田佳祐、2016)*未発表曲  

  これは今月26日フジTVで放映された「桑田佳祐『偉大なる歌謡曲に感謝 ~東京の唄~』」のセットリストである。
  〽R&Bって何だよ、兄ちゃん? 
   HIPHOPっての教えてよ! もう一度
   オッサンそういうの疎いのよ 妙に
   なんやかんや言うても演歌は良いな〽
 6月の拙稿「ヨシ子さん」で取り上げた同名曲のワンフレーズだ。「そういうの」ばかりやってきたくせに、「疎い」とは白々しい。で、「なんやかんや言うても演歌」かい?! これにはびっくりポンだ(古い!)。
 実はこの天衣無縫の豹変にはわけがある。変節ではなく、原点回帰なのだ。「なんやかんや言うても」とは、そのことだ。
 13年のサザン復活に思想家・内田 樹氏が以下のようなコメントを寄せていた。同年8月の愚稿「南の風」で引用したものを再度引く。
<サザンオールスターズの音楽はおそらく「最後の国民歌謡」として日本音楽史に名前をとどめることになると思います。「国民歌謡」の条件はいくつかあります。
 第一の条件は特定の年齢や性別や階層を排他的に標的にせず、「老若男女」すべてに全方位的に歌いかけていること。
 第二の条件は「異文化とのハイブリッド」であること。土着的なものと舶来のものの混淆こそ日本文化の正統のかたちです。桑田佳祐の歌唱法はエリック・クラプトン的かつ前川清的ですが、これこそ国民歌謡の王道。
 第三の条件、これがいちばん大切なのですけれど、「国土を祝福する歌謡」であること。「江ノ島が見えてきた」以来サザンはさまざまな地名を歌い込み、それらの土地を豊かに祝福してきました。これは古代の「国見」儀礼や山河の美しさを言祝ぐ「賦」の系譜に連なるものだと私は思っております。国民国家が解体しつつある時代に敢えて再登場を果たした「最後の国民歌謡」バンドに連帯の拍手を送ります。>
 セットリストを見ると桑田は歌謡曲と演歌を混同している節があるが、「第一の条件」は軽々とクリアーしている。なるほど、「全方位的」な曲目だ。かつ、桑田節を封印して実に丁寧に判りやすく忠実に「歌いかけている」。否、歌い上げているともいえる。さらに寅さんまで出た日には、こちとら喝采を送らねば後生が悪かろう。
 『東京砂漠』が掛かった時には我知らず膝を痛打した。「エリック・クラプトン的かつ前川清的」が立証された瞬間だった。第二の条件である「日本文化の正統のかたち」を体現するものだ。
 「感謝 ~東京の唄~」とある以上は、第三の条件「国土を祝福する歌謡」は十全に満たしている。『北国の春』は都会、別けても東京からの望郷の唄だとイントロ紹介されていた。
 となると、内田氏が剔抉した桑田が内包する「最後の国民歌謡」という本質が惜しげもなく披露されたステージだったというべきだろう。
 言い忘れた。「なんやかんや言うても」、桑田は歌が巧い。もうこれは文句なしだ。言わずもがなだが、只者ではない。それにもう一人、只者ではないシンガーが加わった。7曲目の『新宿そだち』でデュエットしたTIGER。デビュー16年、MISIAや安室奈美恵などの作品にも係わってきた女性シンガーだ(日本人、たぶん)。これが桑田を喰うほど巧い。これは聴かせる。
 全曲それぞれセットを変え、曲想に合わせた意匠を凝らしている。バックは超一流メンバー。原曲に忠実な演奏。ラストの『悪戯されて』などはまったくの正調歌謡曲で、バックも含めみんなが正装。桑田はチョウネクに頭を七三に分けて直立して歌う。コーダで深々とお辞儀。“まるで”演歌歌手のようだ。
 翻って、拓郎はどうだろう。かつて『いつでも夢を』や『夜霧も今夜もありがとう』などを歌ったことはある。本人はサービスだと言った。サービスにしてはしっかりと作り上げていた。ただどう転んでも、拓郎節以外ではない。リスナーもアレンジを期待しているし、原曲は見事にメタモルされる。だが桑田に比して、拓郎は明らかに歌唱法において「第二の条件」に適わない。「前川清的」ではないのだ。つまりは小節だ。本人は憧れると言うが、これがまるでない。アプリオリにそうなのだから、致し方ない。しかし、これが最強の武器となって音楽シーンを塗り替える快挙がなった。つまりは、「前川清的」ではない歌唱の歌が若けーもんの心を鷲掴みにした。
 刻下の学説(ロビン・ダンバー著『人類進化の謎を解き明かす』)に拠れば、類人猿が毛づくろいで絆をつくっていたのに対し霊長類はグルーミングの代わりに笑い、歌、踊り、さらには言語で絆を拡大、維持したという。
<社会的つながりを維持するメカニズムとして、音楽活動は笑いより重要な利点を二つもつ。まず、音楽はたくさんの人を巻きこむので、「毛づくろい」相手の数を劇的に増やす。音楽効果の上限についてはまだわかっていないが、笑いの上限の三人より大きいのはまちがいないだろう。集団サイズが三人より大きくても、音楽はそのより大きな集団内の絆を固めてくれるはずだ。二つ目の利点は、音楽活動(歌う、楽器を演奏する、踊る)には明確な共時性があり、もちろん、これは全員のタイミングを合わせるリズムによっておもに得られるということだ。共時性にはなにか純粋に不可思議なものがある。身体運動によって分泌されるエンドルフィンをおよそ二倍に増やすらしいのだ。>(上掲書より)
 笑ったり歌うことによって胸壁筋にかかるストレスがエンドルフィンを産出する。エンドルフィンとは脳内物質の1つで、モルヒネ同様の作用をもつ。 特に、脳内の「報酬系」に多く分布し、鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらす。笑いに較べ音楽は人数を劇的に増加させ、共時性がエンドルフィンを倍増させる。
 要するに、人類生存の最適手段である集団化に音楽は不可欠の貢献をしたことになる。してみれば、内田 樹氏が言う「国民国家が解体しつつある時代に敢えて再登場を果たした」とは言い得て妙、宜なる哉だ。更にまた、今度は国民国家の淵源に迫ろうというのだ。これは快挙というにふさわしい。
 番組の冒頭と終わりには桑田扮するスケベなオッサンが楽屋落ちを入れた小芝居を演じる。こいう戯(オド)けは桑田の真骨頂だ。グルーミングの代わりの笑いといえなくもない。
 11月にはフルバージョン、全20曲でDVDがリリースされるという。追加は──東京の屋根の下 (灰田勝彦、1949)/あゝ上野駅 (井沢八郎、1964)/有楽町で逢いましょう (フランク永井、1957)/車屋さん (美空ひばり、1961)/たそがれの銀座 (黒沢明とロス・プリモス、1949)/東京ナイト・クラブ (フランク永井・松尾和子、1959)/唐獅子牡丹 (高倉健、1965)──の7曲。なんとも賑やか、昭和の東京だ。耳を澄ますと、オッサンの声が聞こえる。
「なんやかんや言うても演歌は良いなー」 □


無冠の勝者! Kuniaki Takizaki

2016年08月24日 | エッセー

 「絶対に歩かないぞ」とは、実にオリンピックを喰った啖呵だ。市民マラソン並みに扱われたトップアスリートたちには好い面の皮だったろう。確かに155人中15人はリタイアしているから、歩かずに完“走”したのは天晴れともいえる。
 朝日は「出し切ったビリ争い」とタイトルを付けてこう報じた。
<男子マラソンの最下位脱出争い。ゴールまで1キロを切ったあたりで、カンボジア代表の猫ひろしの背中を、追い上げてきたヨルダンの選手がポンッとたたいた。「さあもう少しだ。頑張ろうぜ」。フラフラになっていた猫への励ましだった。
 「こりゃ負けられねえ」。自分がビリだと思って走っていた猫に気力が戻った。歯を食いしばって加速すると、ヨルダンの選手もついてきた。完走者で最後尾の2人が演じたデッドヒートは、ゴール地点の大型スクリーンにも映し出された。1位の選手がゴールしてから37分、スタンドはまた大歓声に包まれた。
 猫が23秒早くゴール。レース後、2人は抱き合って健闘をたたえた。そう、メダルだけが五輪じゃない。>
 記録は2時間45分55秒、完走140人中139位であった。女子マラソンではモンゴルのオトゴンバヤル選手が同タイムで85位。国籍ではなくて、性別を替えていれば(条件付きで可能)順位は飛躍したかもしれない。
 虚仮の一心と嗤ってはいけない。「ビリ争い」は「オリンピックは参加することに意義がある」とのオリンピック精神をそのままに体現するものだ。問題、課題山積の五輪、その原点回帰である。「メダルだけが五輪じゃない」、その通りだ。ピエール・ド・クーベルタン男爵はこう宣した。
「勝つことではなく、参加することに意義があるとは、至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、征服したかどうかにあるのではなく、よく戦ったかどうかにある。」
 同じ参加でも、ゲームのキャラクターに扮して悦に入っているどこかのアホ首相は参加じゃなくて惨禍だろう。ただの悪のり、目立ちたがり屋、出たがり屋。見せられるこちとらは恥ずかしくていけない。穴があったら入りたい。あのヤンキー君、羞恥心を羽田に置き忘れて飛んでったにちがいない。
 なんにせよ、「Takizaki 2187」がいい。このゼッケンがリオを力走した。もちろん、カンボジア代表だ。苦肉の策と嘲ってはいけない。当今の風潮に鑑みる時、わが日本国を足蹴にするとは実に颯爽たるものだ。快哉を叫ばずにはいられない。別けても大国が金に飽かせて有望選手を引っこ抜くのではなく、その逆、素人選手が自らを強引に小国に売り込んだ手法がなんともあざとくて涙を誘う。海の向こうの大国に限りなく貢ぐどっかの属国と比するに、これぞ小なりといえども男の道だ。属国に三行半を叩きつけてなにが悪い。彼にそのような意図はなかったかもしれない(きっと、ない)。だが、傍目にはそう写る。だから、拍手だ。
 本邦国籍への復帰はかなり難しいらしい。外国人の帰化と同様となるためだ。前例を作りたくないとの意識も働くだろう。最後は法務大臣の決裁。アホ内閣が続いていれば望み薄だ。いっそ Kuniaki Takizaki のままではどうか。「純粋な日本人」などという幻想に一撃を加えようではないか。
 ゴールでは「にゃー!」のギャグをカマした。これが滅法決まった。オリンピックの最終日にふさわしい括り方だ。古い話だが、アベベの修行僧のような表情とは雲泥の差である。国家を背負(ショ)わないスポーツはこんなに楽しいとのメッセージだといえなくもない。五輪に乗じて国威発揚を図ろうとする悪巧みを洒落のめす痛撃だった。“Rio 2016”最高の見せ場だった。あれこそ勝利の雄叫びだ。芸人の余技を五輪の晴れ舞台に持ち込むまで、どれほどの辛苦があったか。それは決してギャグではなかったろう。その意味でも勝利と呼びうる。ただし、無冠だ。無冠の勝者だ。
 メダリスト以外は敗者だとすれば、人類は4年ごとに数10万単位の敗者(予選を含め)を産出していることになる。まさかそれは壮大な無駄であろうか。勝利から得るものよりも敗北から得られるものがよほど人生を豊かにする。穿てば、「参加することに意義あり」とはそのような事情をいうのではあるまいか。
 あらぬものを担わされ「ごめんなさい」を繰り返す吉田沙保里の慟哭に誘われた胸苦しさをTakizaki君が一気に晴らしてくれた。礼を言いたい。 □


人間のクズ

2016年08月23日 | エッセー

 むかしむかし、太古のむかし、隣の部族との境界線になんだかわけの分からぬ物が知らぬ間に置いてあった。見れば隣の特産品らしい。受け取った部族は返礼に自分たちの特産品を置く。顔を合わせずにモノが行き交う。贈与と返礼の繰り返し。この「沈黙交易」が人類最初の経済活動だとされる。
 話は簡単だが、肯綮が3つある。
 1つは、交易が「沈黙」のうちに行われたこと。対面ではなかったゆえにあらぬ勘違いを生んだ。ひょっとしたら単なる落とし物だったかもしれない、あるいは忘れ物だったかもしれないものを「自分宛ての贈り物」だと早とちり、ないしは誤解した。そういう意味の膨らみを沈黙が導出した点だ。太古の昔である。他集団との接触、対面は容易ではない。存亡が掛かる。言葉も通じるかどうか。罠だと無視したら、話はそこで沙汰止みになったろう。沈黙とは絶妙のシチュエーションだった。
 2つには、「わけの分からぬ物」であったこと。おそらく両部族は価値の尺度を共有していない。していないからこそ、わけが分からない。返礼品も相手にはわけが分からない。つまり等価交換ではなかった。不等価交換だった。これは常識的理解とは逆だが、決定的に重要だ。贈品との等価交換では繰り返しも連鎖も起こらない。1回限(キ)りで終わってしまう。価値不明であることがエンドレスの交易を生んだのだ。
 3つ目は、「返礼」である。「『自分宛ての贈り物』だと早とちり、ないしは誤解した」人が返礼義務を身を焦がすまでに感じたことだ。最高峰の知性ともいうべきフランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、人間社会のベーシックなシステムはすべてこの反対給付義務に裏打ちされているという。贈品を受け取った者には心理的負債感が生じ、返礼をしないではいられなくなる。贈与に対する反対給付。あらゆる人間集団で観察されるそうだ。
 内田 樹氏はこう述べる。
◇人間であろうと望むなら、贈与をしなくてはならない。贈与を受けたら返礼しなければならない。すべての人間的制度の起源にあるのはこの人類学的命令です。
 たまたま手にしたものを「私宛ての贈り物」だとみなし、それに対する返礼義務を感じた人間が出現することによって贈与のサイクルは起動した。人間的制度の起源にあるのは「これは私宛ての贈り物だ」という一方的な宣言なのです。おそらく、その宣言をなしうる能力が人間的諸制度のすべてを基礎づけている。ですから、端的に言えば、何かを見たとき、根拠もなしに「これは私宛ての贈り物だ」と宣言できる能力のことを「人間性」と呼んでもいいと僕は思います。◇(「街場のメディア論」から)
 幼児の発育過程を見れば解るように、贈与は人間としての成熟を示す。高次には「人間であろうと望むなら、贈与をしなくてはならない」道理が俟つ。
 「返礼義務を感じた人間が出現することによって贈与のサイクルは起動した」とは如上の通り。付言するなら、返礼義務を負う被贈与者が出現しない限り贈与者は存在しない。「贈与のサイクル」は永遠に起動しない。
 「人類学的命令」とは、おそらく人類としての存続に不可欠との謂であろう。贈与と返礼は通途の認識を超えて、人類学的意味を帯びるのだ。フィジカルには虚弱な人類が生き延びるためには連帯せねばならない。連帯の原初的導因に贈与と返礼給付義務があった。
 「何かを見たとき、根拠もなしに『これは私宛ての贈り物だ』と宣言できる能力のことを『人間性』と呼んでもいい」とは実に深い。経済活動から人間性の起源へと、論点が颯爽と絞り込まれていく。「何かを見たとき」、換言すれば他者との関わりの中で「根拠もなしに」被贈与者であると「宣言できる能力」を人間性と呼ぶ。「根拠もなしに」とは、「人類学的命令」が血肉化していることではないか。「返礼義務」を感じる本能的反応だ。他の誰でもない、自らが返礼義務を履行することで贈与と返礼のサイクルを起動する。他者との架橋を始める。そのありさまを「宣言できる能力」と語り、「人間性」の起源とした。約(ツヅ)めれば──人間のみが驚異的になし得る他者との架橋作業に人間の属性があり、それは返礼義務から生まれる──となろうか。
 以上の論を裏返せば、“人間のクズ”が見えてくる。反対給付義務に身を焦がさない手合だ。内田氏はこうも語る。
◇贈与を起動させるのは、「これを贈ってあげよう」という雅量ではないんです。「こんな贈り物をもらってしまった。もらった以上はお返しをしないと罰が当たる」という恐怖と焦燥が人を反対給付行動に駆り立てる。経済的人間というのは、要するに「人から何か受けとったときには『お返し』をしないと悪いことが起こる」という信憑を深く内面化した人間のことです。そういう人間だけが交易を始めることになる。人から何かを受けとったときに「ラッキー」と言って、懐にしまいこんで、誰にも何も与えない人たちばかりで構成された共同体では、いかなる意味でも経済活動は発生しません。◇(「属国民主主義論」から)
 「経済的人間」といい「経済活動」といっても、人間の振るまいといって違いはあるまい。「『お返しをしないと罰が当たる』という恐怖と焦燥」に愚鈍であり、「『お返しをしないと悪いことが起こる』という信憑」に無縁である者。それが人間のクズだ。口でいかに高邁な理想を語ろうとも、他者との架橋作業に身銭を切れない者はクズだ。返礼義務に苛まれ身悶えしない者はクズだ。等価交換に憂き身を窶すコマーシャリズムに毒されてか、クズは増加の一途である。
 蓋し、沈黙交易とは祖型にして目前の課題でもある。 □


平成の富国強兵

2016年08月18日 | エッセー

 今年になってバカ売れしている商品がある。なんと、金庫だ。日銀によるマイナス金利政策がタンス預金を誘発したらしい。まことに庶民の知恵は強(シタタ)かだ。白だか黒だかしらないが、アホノミクスのお先棒を担ぐ総裁さんの思惑はことごとく外れっぱなしだ。打率ゼロ、プロ野球ならこんなバッターは即刻クビだ。しかし依然として高慢な物知り顔で闊歩できるのはアンバイ君のお気に入りで、かつ格好の財政ファイナンスの相棒だからであろう。
 アホノミクスに隠された真の狙い。それは、
「アホノミクスをもって富国の土台を強化する。憲法改正をもって強兵の体制を整える。この二つの踏み台からジャンプして、大日本帝国に着地する」
 ことだと喝破するのはご存知、浜 矩子先生である。本年6月『アホノミクス完全崩壊に備えよ』(角川新書)での、快刀乱麻を断つ一閃である。昨年2月の拙稿『欠片流パラフレーズ』で粗々紹介した『国民なき経済成長 脱・アホノミクスのすすめ』(角川新書)の続編だ。なんとも深い、明解、痛快この上ない。
 してみれば、今様の「富国強兵」ではないか。欧米列強の東アジア進出に抗して、急速な資本主義化と近代的軍事力の創設を掲げた明治政府による国家目標である。殖産興業による「富国」と、それを基礎とした列強に伍する「強兵」の獲得──「欧米列強」をどこかの大国に、「富国」をアベノミクスに、「強兵」を安保法制に置換すればそのまま『平成の富国強兵』である。驚天動地の先祖返り、とんでもないアナクロニズムである。化けの皮を剥ぐと、つまりはこういうことだ。
 こんなトンデモ政策にGDP世界第3位の富国が躍らされている。「完全崩壊」に至る前に目を覚ませ、事を正視せよとの警鐘である。
<今は、もはやあの時ではない。今の日本に求められているのは、勢いへのこだわりを超えて、世界に冠たる蓄えの賢き分かち合いの構図を見出すことだ。戦後期を実に勢いよく走り抜いた。その果実が今日的蓄えだ。今、我々はその賢明な共有の在り方を工夫しなければいけない。それは、「あの時」の日本には求められていなかったことだ。もはや、「あの時」できていたことができる必要はない。今は、「あの時」にできていなかったことができるようになる必要がある。>(前掲書より)
 「あの時」とは戦後復興期を指す。戦後の経済的歴程を振り返れば、もはや「あの時」ではなく、次のフェーズにあることは明々白々だ。安っぽいノスタルジアに包(クル)んだトンデモ政策に「今日的蓄え」を台無しにされてはなるまい。
 同書は「完全崩壊」に向かう過程をアンバイ政府の諸策を冷静に分析しつつ克明に描き出し、終章においてランディング・シナリオを2つ提示している。蓋し、警世の書である。本体の厚みに比して中身は分厚い。一読に値する。

 さて今稿は承前して「平成の」と冠している。以下の一文を追記しておきたい。
<私が皆さんにお聞きしたいのは、いま、一番安倍さんに抵抗しておられるのは天皇陛下じゃないかと考えているのですが、どうご覧になられていますか。天皇陛下あるいは皇后陛下もそうですが、先日のお誕生日のときにも三分の一ぐらいは陛下は戦争の話をされています。(昨年の・引用者註)八月一五日の戦没者追悼式のときにも初めて戦争に対する深い反省の意を述べられていたということで、どうも世の中の空気が戦争の方向に流れていくのを何としてでも天皇陛下は止めたいと思っておられるのではないか。ただ、あまり政治的な発言はやりにくいから抑えておられるのだろうと思いますが、いまの政治状況を一番心配しておられるのが陛下ご自身ではないかと私は思っています。この点はむしろ、安倍さんに伺いたいくらいですが、本来であれば、右寄りの方と言えば天皇陛下の思いというものを大事にし、心の中に一番重視しながら、言葉を選んで話をされるべきだと思いますが、安倍政権は天皇陛下がいまの政治を心配しているというこの現実をなぜ無視して平気でいられるのでしょうか。>
 発言の主は誰あろう、鳩山由紀夫元総理大臣である。本ブログではさんざ上げたり下げたりしてきた人物だ。前稿を呵した後、偶然目にして同類の趣旨に一驚を喫した。詩想社新書『誰がこの国を動かしているのか(鳩山由紀夫&白井聡&木村朗)』(本年6月刊)の一文である。宇宙人も捨てたものではない。 □


平成の人間宣言

2016年08月13日 | エッセー

<天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。>(8月8日、ビデオメッセージから)
 ここが肝心要、急所だ。自身の言葉ではっきりと「摂政」を拒否している。論拠は終身天皇に随伴する非情、更にいえば非人間性である。それは、「生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」の一文に凝っている。そう読めなければ、真っ当なリテラシーとは言い難い。
 GHQの神道指令に呼応して自ら「国民トノ間ノ紐帯ハ」「単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と語った「新日本建設に関する詔書」は、神格を脱いだ「人間宣言」と称される。人間である限り、老いと患いから無縁であるはずはない。ならば、「生涯の終わりに至るまで」のあり方が問われねばならない。「終身」であるために晩節が人間らしからざる軛となるなら、一考を要する。そう語り掛けているのではないか。してみれば、『平成の人間宣言』といえなくもない。
 明治以降、生前退位は封印された。昭和に至る3代の天皇は晩年に皆、「終身」がゆえの困難に見舞われた。今上天皇は先代天皇の晩年を識っている。それが下敷きになっていることは十分推測できる。
 先ずは政治マターだ。安倍一派(「日本会議」を中核とした右派勢力)にとっては3分の2を握り、やおら憲法改正へという矢先だった。完全に出端を挫かれた格好である。宮内庁の出し抜けに官房長官の菅が激怒したというのも宜なる哉だ。先月の拙稿「最終オフェンスライン」で記した通りである。絶妙のタイミングといえる。安倍は「考える」と一言。いつになく慎重を装った。昨年無理矢理な憲法の解釈変更で見せた厚顔とはまるで別人だ。
 安倍一派の目論見は「摂政」の設置にあったにちがいない。前記の稿でも触れたように、退位の意向報道に「日本会議」のブレーン百地 章は即座に摂政案を提示した。安倍の本音を代弁したと見える。これなら皇室典範に規定があり、厄介な議論や面倒な法律改定なしに凌げる。ところが、超重量級のカウンターパンチを喰らった。まさか、御手ずからNGが出た。これに勝る卓袱台返しはそうそうない。かつ各種世論調査でも圧倒的な支持を得た。もう捨て置くわけにはいかない。
 もう一つ、いわば「象徴」マターだ。
 フランス語の和訳で中江兆民の訳書が初出だという。ある別のものを指示する目印・記号で、広辞苑によると「本来かかわりのない二つのもの=具体的なものと抽象的なものを何らかの類似性をもとに関連づける作用」とある。ハトを平和の象徴とするのが一例だ。
 象徴天皇の「象徴」は日本国と日本国民統合を象徴する。上記に準えれば、日本という「抽象的なもの」を、天皇という「具体的なもの」と、皇統という「類似性をもとに関連」づけたといえよう。歴史的にみて、これは極めてリーズナブルで本来的だ。かつて司馬遼太郎は、大化の改新以前を「弥生式の天皇制」と呼び、それを祖型とした。
<たとえばヨーロッパでのアレクサンダー大王のような英雄王は必要でなく、英雄が出る条件も皆無だった。弥生式農民の宗教的象徴が、たとえばジンギス・カンやフビライ・カンのような世界の五分ノ四を征服するというようなことでもなかった。世界の五分ノ四どころか、一ヵ所をも斬り取ることができないというのが、本来の上代天皇であったであろう。要するに農業が日本列島にゆきわたるにつれて天皇制がひろがって行っただけ>(「街道をゆく」から)
 と語った。ところが大化の改新後、
<中国の律令体制を輸入することによって、 ―― 皇帝とは権力であるらしい。という思いもよらぬ新知識を得たにわか律令官僚どもが、弥生式天皇制をゆがめることによって、奥州を武力討伐したのである。中国の猿まねであった。つまり、「唐土の皇帝は辺境の夷狄のざわめきを鎮めるのに武力を用いる」ということを知り、日本の畿内政権にとって辺境の夷狄を翻訳すればすなわち奥州の非農耕集団(縄文式土器を用いていたであろう)のことであり、これを征討することによって中国風の中央集権国家の外観を完成させようとした。>
 しかし律令制の進展とともにやがて祖型に戻り、武士の世には永く権力から離れた権威であり続けた。大きく括れば、歴史の大半は象徴天皇が常態だったといえる。それが大きく先祖返りしたのが維新であった。伊藤博文を軸とする明治の「にわか律令官僚どもが」「皇帝とは権力であるらしい。という思いもよらぬ新知識を」捻りだし、「弥生式天皇制をゆがめ」て絶対的統治者としての天皇を導出した。「奥州を武力討伐した」古代を今に引き写し、「討伐」は大陸へと向かった。──そういうことだ。「猿まね」だ。
 この点について、姜 尚中氏は鋭い指摘をしている。
<伊藤博文たちは、臣民としての国民の創出が郷土愛や伝統的な習俗、宗教心の同心円的な拡大によってかなえられるとは全く考えてはいませんでした。なぜなら、国民的秩序は、「自然」に成長するのではなく、「政治的作為」によって創出されると考えていたからです。したがって、国家の機軸となるのは、「伝統的天皇」ではなく、「超越的統治権者」としての天皇の創出でした。ここには政治的作為に対する伊藤たちの鋭敏な感覚が息づいています。>(朝日新書「愛国の作法」より抄録)
 「『政治的作為』によって創出」された明治天皇制こそが異形(イギョウ)なのだ。長い日本史上の僅か80年弱の歴程に呪縛されて正視眼を失うとすれば、反知性主義と断ずる以外に応えようはない。
 冗長になった。ものごとの理解には反義語をリファレンスすることが有効だからだ。つまりこの場合、「象徴」の反義語は「超越的統治権者」である。それを裏打ちする神聖性、神性、神格ともいえる。
 では安倍一派が生前退位を嫌うのはなぜか。それは、「象徴」が代替されることで神聖性が相対化されるからだ。象徴と元象徴との併存は「超越的統治権者」を心の底から熱願する彼らの心象には馴染まない(日本会議の最終目標は憲法改正ではなく、驚くことに明治憲法の復活にある)。政治的利用を避けるなどとは体のいい理屈に過ぎぬ。摂政への拘りは象徴と元象徴との併存を避け、クリアカットに一人の「超越的統治権者」(「超越的」である限り一人しかいない)を冀求するからだ。彼らにとって、「象徴」は世を忍ぶ仮の姿だ。“復活”への唯一の因(ヨスガ)である。それさえもがオルタナティブになるのは耐え難いことであろう。専制君主は唯一性こそが属性であるからだ。
 早晩、安倍は首相の座を降りる。いな、降りざるを得なくなる。まさか「生涯の終わりに至るまで『首相』であり続けること」はない。囂々たる非難の飛礫は受けるであろうが、在任中の『罪科』を「終身」負うことは法的にはない。呑気なものだ。「人間」の「生涯の終わりに至る」懊悩が解るわけはあるまい。 □


「コンビニ人間」

2016年08月09日 | エッセー

 読み終えて、小林秀雄の「当麻」が頻りに浮かんだ。


 間狂言になり、場内はざわめてゐた。どうして、みんなあんな奇怪な顔に見入つてゐたのだらう。念の入つたひねくれた工夫。併し、あの強い何とも言えぬ印象を疑ふわけにはいかぬ、化かされてゐたとは思へぬ。何故眼が離せなかつたのだらう。この場内には、ずゐぶん顔が集まつてゐるが、目が離せない様な面白い顔が、一つもなささうではないか。どれもこれも何といふ不安定な退屈な表情だらう。さう考へてゐる自分にしたところが、今どんな馬鹿々々しい顔を人前に曝してゐるか、僕の知った事でないとすれば、自分の顔に責任が持てる様な者は一人もゐない事になる。而も、お互いに相手の表情なぞ読み合つては得々としてゐる。滑稽な果無い話である。幾時ごろから、僕等は、そんな面倒な情無い状態に堕落したのだらう。さう古い事ではあるまい。現に眼の前の舞台は、着物を着る以上お面も被つた方がよいといふ、さういう人生がつい先だつてまで厳存してゐた事を語つてゐる。
 仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚き乍ら、何処に行くのかもしらず、近代文明といふものは駆け出したらしい。


 かつての愚稿にはこう呵した
<能・狂言は「生の肉体を曝すことを嫌って来た、が故に装束で身を固め、能に至っては面で顔も覆い尽くす。つまり首と手以外、生身を曝すことなど有り得ないのである。これぞ無機的リアリズム」と、野村萬斎氏はいう。小林は「不安定な退屈な表情」にかまけず、「着物を着る以上お面も被つた方がよい」という。かつて内田氏は「身体は一般論を語らない」と述べた。その言を逆手にとると、一般に供するためには身体性を封印せねばならぬ。玄奥な表現にとって邪魔な身体性、身体の個性を消すために能は面を用い、狂言は素面の芸で立ち向かう。意外にも、現身(ウツシミ)のリアリズムはぎりぎりに純化された「無機的」な型に依って成就される。>(13年3月「型ということ 2/2」から)

 第155回芥川賞受賞作!
 コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる──。
  コンビニ人間  村田沙耶香
 36歳未婚女性、古倉恵子。
 大学卒業後も就職せず、コンビニのバイトは18年目。これまで彼氏なし。
 日々食べるのはコンビニ食、夢の中でもコンビニのレジを打ち、
 清潔なコンビニの風景と「いらっしゃいませ!」の掛け声が、
 毎日の安らかな眠りをもたらしてくれる。
 ある日、婚活目的の新入り男性、白羽がやってきて、
 そんなコンビニ的生き方は恥ずかしいと突きつけられるが……。
 「普通」とは何か? 現代の実存を軽やかに問う衝撃作

 と、帯にある。「真っ白なオフィスビルの一階が透明の水槽のようになっているのを発見」するところからコンビニ人間ははじまる。劇的なドラマツルギーはない。主人公がドラマを超えるほどに劇的なのだ。筆遣いは軽やかではあるが、決して華やかではない。文字通り、コンビニエンスだ。
 性に合って、嵌まったからコンビニ人間になったのではない。「コンビニこそが、私を世界の正常な部品にしてくれる」からこそコンビニ人間なのだ。「水槽」の中でしか泳げない熱帯魚のように。
 世界が「どれもこれも何といふ不安定な退屈な表情だらう。・・・・そんな面倒な情無い状態に堕落」していながら、「仮面を脱げ、素面を見よ、そんな事ばかり喚き」散らしているとしたら「着物を着る以上お面も被つた方がよい」と小林はいった。括れば、安手の個性偏重を嗤い、個性を抜いた様式にこそ奥深さがあると断じたのだ。それは、「身体は一般論を語らない」という内田氏の言を逆手に取って「意外にも、現身のリアリズムはぎりぎりに純化された『無機的』な型に依って成就される」とした愚考にも通じる。大仰にいえば、「普通」ではない「目が離せない様な面白い」個性が世界で生きるためには「個性を抜いた様式」と「ぎりぎりに純化された『無機的』な型」が必要なのだ。その様式と型、それがコンビニだ。現代の能面、ペルソナでもある。大袈裟だが、南米の河川に帰還できない以上水槽の中で泳ぎ続けねばならぬ熱帯魚と同等の生存戦略である。
 公園で死んでいた青い綺麗な小鳥を、
「せっかく死んでいるから・・・・お父さん、焼き鳥好きだから、今日、これを焼いて食べよう」
 と言って周囲を唖然とさせた幼稚園児。小さなお墓に「その辺の花の茎を引きちぎって殺し」、「『綺麗なお花。きっと小鳥さんも喜ぶよ』などと言っている光景が頭がおかしいように見えた」少女。「誰かがゴミ箱から拾ってきたアイスの棒が土の上に刺されて、花の死体が大量に供えられた」と映じる個性が、長じてもなお世界の「普通」と向き合う。個性と普通の間(アワイ)にコンビニがある。緩衝地帯ではない。世界を、普通を極小化した「水槽」なのだ。なんともおもしろい結構である。スーパーやデパートでは用をなさない。それらには極小化という属性がないからだ。だから、オフィスビルで見つけた「水槽」は絶妙なキーワードになっている。
 去年の又吉が外れだったので尚更かもしれぬが、これは芥川賞の名に恥じぬ逸作だ。コンビニの楽しみが倍加する。ひょっとしたら恵子に会えるかもしれぬ。ただペルソナは判別が至難であるが。
 著者は09年に野間文芸新人賞、13年に三島由紀夫賞を受けている。決してぽっと出ではない。着実に階段を昇ってきたといえる。傍ら、今でも週に3日コンビニで働いている。
「社会との接点があるほうが、小説が進む。空想の世界に閉じこもりがちなので、引き戻してくれる場所としても必要なんです」(朝日のインタビューで)
 と、語る。名前にもなぜか親近感があって、手に取った。次作が待ち遠しい。 □


三人寄れば文殊の知恵

2016年08月07日 | エッセー

 木製から鉄器の鍬に変わって稲作は劇的に飛躍した。道具、機械は人体の機能を特定的に代行し、拡張する。鉄鍬が行き着いた先が耕運機であり、あるいはパワーショベルであったといえる。だから、はるかに人力を超える。どれほど剛の者でも、まさかパワーショベルと腕相撲はできない。「アルファ碁」との対決もそれと似たり寄ったりだそうだ。「異種格闘技戦」だと評する人もいる。つまり比するに当たらざるものを無理やり競わせる、無粋な悪趣味というわけだ。クルマとマラソンをして負けたからと、クルマを褒めそやす愚に等しい。
 そうとは知らず、その悪趣味にまんまと一杯食わされた。本年5月、愚稿『先駆的ラッダイト』である。
<ホーキングが警告した通り、「真に知的なAIが完成することは、人類の終焉を意味する」。クライシスを回避する手立てはあるか──。
 そうだ、「創世記」だ。今のうちにAIに徹底的に学ばせる。聖典にはじまり関連文書を少なくとも「10万」点は入力し、自己学習を最低「3千万回」させる。“ディープラーニング”だ。つまり原罪を深々と刷り込んでおくのだ。AIに原罪を背負(ショ)わせる。これだ。先駆的「ラッダイト」だ。>
 “ディープラーニング”を逆手に取った起死回生策とばかり悦に入ったのだが、なんとも浅慮であった。愚者も千慮に一得有りどころか、浅慮に一得も無しだ。
   「ビッグデータと人工知能 可能性と罠を見極める
 先月刊の中公新書である。著者は西垣 通氏。日本の情報学・メディア論の大家で東京大学名誉教授、工学博士である。先述のクルマVSマラソンの例は同著からだ。
◇クルマとマラソンをして負けたからといってクルマを賞賛する人がいないように、年表・百科事典・数学事典などを自在に検索できる人工知能と知識比べをして負けたからといって、人工知能を崇拝するのはもう止めたらどうなのか、と言いたいだけである。どうしても試合をしたければ、将棋でもクイズでも、人間相手でなくむしろ人工知能同士で闘うべきだろう。異種格闘技戦めいた茶番はそろそろ願い下げだ。◇
 「茶番」に乗せられたおのれが情けない。で、なぜ茶番なのか。詳しくは同書に当たっていただくしかないが掻い摘まむと、現在実用化されているAIは特定の目的のために作られた「専用人工知能」だからだという。パワーショベルと同じだ。脳の「機能を特定的に代行し、拡張」したものにすぎない。パワーショベルで土は掘れても縫い針は使えない。それはミシンの仕事だ。記憶も計算も推論も予測も飛躍も想像も時として妄想まで、あれもこれもできる「人間のような知能」は夢でしかない。
 ところが、科学の進歩はやがて「シンギュラリティ」(特異点。特異日)に至り「汎用人工知能(AGI:Artificial General Intelligence)」が出現するという仮説がある。なぜ欧米の科学者が「科学技術万能な楽観主義」に嵌まってしまうのか。西垣氏は一神教という宗教的背景から繙いていく。ここが圧巻だ。
 さらにAIの本質的限界を“プログラム”=「前もって(pro)書く(gram)」という属性に求める。ここも山場だ。いかに巨大なビッグ・データであろうと、“現実に常に遅れる”ことはAIの致命的欠陥である。このイシューは一般化した誤解(創作をはじめ、AIはすべての知的活動を代行できる)を氷解する核心部分だ。
 止(トド)めは、身体性を持ち得ないこと。人間の脳は身体と不可分にある。脳の機能だけを抽出しても「人間のような知能」にはならない。ここが極めつきだ。生物と機械の違いに焦点を当てつつAGIの不可能を克明に論究していく。
 深い知見からの一刀両断は続く。
「人工知能で外国語学習が不要になる日など、決してこない」
「機械翻訳のフログラムは、文章の意味を解釈し理解しているわけでは全然ない」
「コンピュータにとって『意味』の解釈など無縁」
「シンギュラリティ仮説など、一神教文化の世俗化がもたらした虚妄」
 やがて論述は「集団内の人々が多様な推測」をする「集合知」へと向かい、
「人工知能やビッグデータ関連の技術をやたらに崇拝して、機械的分析結果を『人間より賢いはずだ』とばかり盲信するのは禁物なのだ」
 と戒め、AIではなく“IA”(Intelligence Amplifier)を提唱する。
「一般の人々の多様な知恵が、適切な専門知のバックアップをうけて組み合わされ、熟議を重ねて問題を解決していくのが、二十一世紀の知の望ましいあり方なのだ。IAの役割は、人手にあまる膨大なビッグデータを分析し、専門家にヒントとなる分析結果を提供しつつ、集合知の精度や信頼性をあげていくことこそ、その使命といえないだろうか。まず集合知ありき、なのである」
 結論は「まず集合知ありき」である。スパコンが束になっても三人寄れば文殊の知恵には適わない。AIに原罪を刷り込む必要はない。「創世記」に出番はなくなった。
 近年じわじわと身に沁みる居住まいの悪さを払拭する、まことに胸の空く一書である。 □


廃車

2016年08月04日 | エッセー

 フェティシズムはもともとない。何とかロスにも当たらない。しかし、日増しに惜別の情が募る。先月末、13年乗ったマイカーを廃車にした。今まではたんびに新車に乗り換えてきたので、新参の車を迎える昂揚が惜情を呑み込んでいたのかもしれない。エンジンや足回りはまだしも、至る所に錆、傷、満身創痍だ。荊妻もリタイアしたので、車検を機に1台にした。新入生が来ない廃校予定の卒業式。そんなところか。
 愛車は拙稿に1度登場している。13年の4月、ネズミ取りに引っ掛かった腹癒せを「キューブラー・ロス プロセス」に準えて呵した。『ある春の日に』とタイトルはまことに悠揚たるものだが、煮えくり返る腸(ハラワタ)を鎮めつつ書き殴った。
 ツー・シーターで小柄、愛くるしくオモチャのようで新車の頃は衆目を集めたものだ。スーパーなどの駐車場で人が寄ってくる。やがて持ち主が現れると、イメージのギャップに何度も失笑を買った。「そんなものを買いにここに来たんじゃない!」と、顔で笑って心で泣いた。
 数年ではあったが重く深い日々を共有した儕(トモガラ)を乗せ、隣市の長距離高速バスの発着場へ送ったのもあの車だった。帰路、泪の代わりに拓郎の『ともだち』を何度も聴いた。
 昼休みに押っ取り刀で自宅へ戻り、寝坊している倅を叩き起こして発車寸前の列車に放り込んだ。夏休み明けのコメディーのようなドタバタ劇はあの車が替えがたい大道具となった。
 社用車を使わず、わざわざ自家用車で長距離の出張に出かけた時だ。帰りしなにコンビニに立ち寄り荷物を片付けようと屈み込んだ刹那、魔女の一撃に見舞われた。ギックリ腰だ。斜め座りのような奇怪な姿勢で痛みを堪えつつ、恐る恐る運転して帰ったあの悪夢のドライブ。小さなボディーに固いサス。酷使へのしっぺ返しに二三日寝込んでしまった。
 深夜の電話で、先妣の入っていた病院に慌てて駆け付けたのもあの車だった。ほどなく今際の際が訪れた。
 もちろん、会社からの最後の帰宅に使ったのもあの車だ。なぜかスロットルを踏み込めなくて、ゆっくりと流れる景色を目に焼き付けるようにハンドルを握った。
 振り返ると、人生の何齣か、それもかなり枢要な場面に車は登場する。人ひとりの大団円には黒塗りの大きな車が必ず迎えに来る。モータリゼーションゆえに当たり前ではあるが、車は人生劇場の舞台装置、舞台回しといえば大袈裟か。かつてはプラットフォームを後にする列車がそうしたように。
 「自動車」、英語では“car”。“vehicle”から派生したらしい。原義は「重いものを運ぶ」だという。“自動車”が動きにフォーカスされているのに比して、“vehicle”は「運ぶ」に力点がありそうだ。自動車は人を運ぶ。それは人生を運ぶことでもあろう。時として運び去ってしまうこともあるが、字源に照らせば英語の方が腑に落ちるといえなくもない。AIを駆使した自動運転自動車が普及しても、その属性に変わりはない。
 家内(ヤウチ)でのカー・シェアリングが始まった。車はシェアできても、人生のシェアはできない。分割不能な一期を載せ替えつつ、どんな舞台回しをしてくれるのか。残された“vehicle”は1台限(キ)りで、依然として2人分の「重いものを運」びつづけねばならない。音を上げるのはどちらが先か。機械如きに負けるわけにはいかぬ。 □