伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

北斗の人

2015年09月27日 | エッセー

 わたしには絶対罹らないと断言できる病気がある。かわいそうだけれど、はるな愛ちゃんもIKKOクンにも生涯無縁の病がある。乳ガンだ。こともあろうに、すげぇー男っぽい北斗 晶がそれで患っていると聞く。世の中、うまくいかないものだ(「うまく」とは愛ちゃん及びその同類には叶わない“悪夢”ということ)。
 ヒールで鳴らした元女子プロレスラー。引退後の困窮を越え、今やタレントにして実業家、女優ともいわれ芸能プロモーターの肩書きまで持つ。料理は玄人裸足で、力尽くの良妻にして心優しい賢母。当今はいざ知らず女子プロそのものがヤンキーの象徴であったことを踏まえれば、日本人の好きな「元ヤン」を地でいくような人物である。
 不刊の書ともいうべき斎藤 環氏の「ヤンキー化する日本」(角川oneテーマ21)によれば、ヤンキーは次の6つの特徴をもつ。
──①バッドセンス  ②キャラとコミュニケーション  ③アゲアゲのノリと気合  ④リアリズムとロマンティシズム  ⑤角栄的リアリズム  ⑥ポエムな美意識と女性性──
 一々の詳説は措くとして、ことごとく符合している。①は女子プロの属性であろうし、キャラが立ち地頭がよく仕切りが巧いのは②である。③は女子プロ以来の一貫したスタイルだ。斎藤氏は「愛する家族と一戸建ての家とポルシェ」を④の典型として挙げる。ならば、DREAM COME TRUE であろうし、⑤が原動力になったにちがいない。如上の良妻賢母はまさしく⑥といえよう。
 いや、待て。これは「元ヤン」ではない。なによりトポロジーに変わりはない。現役、「今ヤン」、「ずっとヤン」ではないか。典型的ヤンキーにして、大成功を掴んだヤンキーではないか。成功のメッキが剥げ始めた永田町のヤンキー宰相と比するに、なんとも鮮やかだ。
 手に入れた安保法制、最初の施行は来年5月の南スーダンPKOになる模様だ。約めれば、中国脅威論を盾にごり押しした規矩準縄である。同国には中国が大金を叩いてこさえた石油施設がある。なんのことはない、「駆けつけ警護」は脅威であるとする当の中国の利権を“警護”する羽目になりかねない。おまけに万が一事が起こって刃傷沙汰にでもなれば、世論は沸騰する。来夏の参院選は大敗必定だ。さらに、アベノミクス“新3本の矢”の呆れるほどのお粗末さ。経済指標の低迷を糊塗し、“アホノミクス”の失敗から目を逸らそうとする姑息な目眩ましだ。アホノミクス、恥の上塗りでしかない。“第2ステージ”などと言い出す事自体、上手くいかなかった証拠ではないか。メッキは確実に落ち始めている。新国立競技場もエンブレムも本ブログの当てずっぽうが近似した。己惚れていえば、ヤンキー宰相「アゲアゲのノリと気合」は一気にヘコむにちがいない。
 片や、元女子プロヤンキーはこの闘病でますます株を上げる。「ポエムな美意識と女性性」に磨きが掛かる。
 司馬遼太郎作品に『北斗の人』がある。北辰一刀流を開いた千葉周作を描いた名作だ。周作は奥義、秘儀に屏息した剣術を大いに開いた。木刀を竹刀に替え、防具を用いた打ち込み稽古を重んじた。近代剣道の祖型とも賞される。
 突飛な連想だが、もし彼女が平成の“女流北斗の人”だとしたら何を開くのか。窮屈な男社会を開くティピカルな女性像か──などと、怖ろしい当てずっぽうが盛んに脳裏を過ぎる。 □


シルバーウィークに寄せて

2015年09月22日 | エッセー

 シルバーウィークである。敬老の日を中にした連休だから高齢の意でそう呼ぶものと勘違いしていた。実は5月のゴールデンウィークに対してのネーミングだという。それでは格落ちだろう。長の骨休みに金も銀もない。せめて春のゴールデンウィーク、“秋のゴールデンウィーク”とでもいえばいいのになどと、繰り言が出てくる。
 今時点で65歳以上は3400万人、総人口の27%に達した。内、ざっと4分の1は団塊の世代だ。なんだか肩身の狭い気がしないでもない。
 間違いなく増えるのは脳卒中、癌、心筋梗塞、認知症などのいわゆる老人病である。それらへの対処はもちろん大事だが、もっと気をつけねばならないのは『昔はよかった病』ではないか。
 「昔は治安がよかった」 
 「昔はクレーマーなんていなかった」
 「昔、コーラもウーロン茶もなかった」
 「昔は熱中症で倒れる人なんていなかった」
 「昔は敬老精神に溢れていた」
 「昔は絆社会だった」
 「昔は皆勤勉だった」
 などである。ことごとく間違い。
    酒のまぬ身のウウロン茶、カフエ、コカコラ、チヨコレエト
 この戯れ歌、作ったのはなんと芥川龍之介。大正14年、立派な「昔」である。といったエピソードも交え、目から鱗の検証が連発する。
 本年7月刊、新潮新書。
    「昔はよかった」病
 作者はパオロ・マッツァリーノ、イタリア生まれの日本文化史研究家を名乗る。だが、どうもイザヤ・ベンダサンの同族とみて外れはないだろう。
 この本、実におもしろい。この病は大人世代を覆うのだが、罹患率は圧倒的にシルバー世代が高いはずだ。なにせ5000年前のエジプト遺跡から出土した粘土板には、「最近の若者はけしからん。俺が若い頃は……」という象形文字が刻まれている。裏返せば、『昔はよかった病』の典型的な病症だ。振り返れば人類は少なく見積もって、なんと5000年もの長きに亘ってこの病識をもたないまま過ごしてきたともいえる。宿痾に近い。
 さてその病因について愚案を巡らすうち、佐藤 優氏の達識にハタと膝を打った。。
 チンパンジーは分裂病以外のさまざまな精神病を患う。さらに手話やキーボードによる言語学習能力があることが判明し、ヒトにとって「言語」という最後の砦も危うくなっている。氏は「彼らは萌芽的な形でなら、人間のもっているものは何でももっている」と語る。これは大変だ。だがしかし、“救い”はあった。
◇ひょっとすると、これだけは人間特有と言っていいかもしれないものが一つある。自分を騙すという能力である。
 「客観性、実証性を軽視もしくは無視して、自分が欲する形で世界を解釈する」という態度は、「自分を騙すという能力」でもある。  
 自分の都合の良いことはよく覚えているのに、都合の悪いことはすぐに忘れてしまう性質、あるいは自分のことが本来とは随分違う姿に見えてしまう性質……。つまり物事を無意識のうちに誤解し、錯覚する能力だ。こうした「自己欺瞞」の能力こそが人間の危機を救ったものと思われるのである。賢いはずの人間が時々とんでもなく大アホであることの理由は、一つにはこういうところにあるような気がする。◇(祥伝社新書「知性とは何か」から抄録)
 6月の拙稿「そんなに急いでどこへ行く?」で触れたが、動物も擬態やカムフラージュによる嘘をつく。しかし自分を騙しはしない。「人間の危機を救った」とは、知性の高度な発達による精神的クラッシュを防ぐことだ。「自分の都合の良いこと」をすぐに忘れ、「都合の悪いこと」をすべて忘れなければどうなるか。自分を苛み続けるにちがいない。「自分のことが本来」通りの姿に見えれば、自己嫌悪に陥る。これでは遺伝戦略上、不都合だ。だから「自分を騙すという能力」が備わったのではないか、そういう話だ。
 となると、『昔はよかった病』も自己防衛のための宿痾といえなくもない。しかし、それは反知性主義と裏腹でもある。今年のシルバーウィーク直前には、その反知性主義のゾンビが永田町で荒れ狂った。これだけは『昔はよかった病』の発症を断じて抑え込まねばならない。でなければ、本物の『昔はよかった』になってしまう。 □


やっぱり、ウロボロス

2015年09月15日 | エッセー

 本年4月の拙稿「ウロボロス撃退法」を抄録する。
〓(ウロボロスから)ヘビにテメーの尾っぽを噛ませることで自死に至らしめるという奇策が浮かんだ。最低限、周りに危害は加えなくなる。ワナも毒も要らない。刃物もハジキも使わない。極めて人道的、というか“蛇道”的撃退法ではないか。
 想念は集団的自衛権に跳んだ。与党が合意した「集団的自衛権の行使の新3要件」である。曰く──
日本と密接な関係にある他国が攻撃を受けた際、
(1)我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
(2)武力行使以外に適当な手段がない
(3)必要最小限度の実力行使にとどまる──というものだ。
 法案に落とす際、(1)は「存立危機事態」という呼称になるそうだ。で、再度「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利【=存立】が根底から覆される明白な危険【=危機】がある」場合【=事態】を翫味すると、これは限りなく「個別的自衛権」に近似してないか。いや、個別的自衛権そのものである。だって「明白な危険」は、「我が国の」といっている。属格は日本という“個別の”国である。つまり「集団的自衛権」という毒ヘビに「存立危機事態」というテメーの尾っぽを噛ませることだ。ぐるぐる回っているうちに力尽き、やがてヘビは自死に至る。自縄自縛の高等戦術といえなくもない。史記の「商君列伝」に、こういう話がある。
 秦の富国を図るため、宰相の商鞅は厳格な法治を行う。ために反感を買い、身に危険が迫る。ついに国外逃亡を試みるが、身元不明者の宿泊を禁ずる新法によって捕らえられてしまう。その新法は自国民を国内に縛り付け流出させないため、なんと自らが制定したものだった。苛政への恨みか、商鞅は四肢を馬に引かせて八つ裂きにする極刑に処せられた。自縄自縛の故事である。〓
 永田町は大団円を迎えつつある。ここだけの話だが、成立に臍を噛んでいるのは実は外務官僚にちがいない。湾岸戦争以来25年、「ショー・ザ・フラッグ」は外務省のトラウマである。イラク戦争では「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」と、せっつかれた。集団的自衛権は外務省の悲願であった。ところが難産の末に産み落とされたのはとんでもない鬼っ子、似て非なるものであった。さぞ胸中憮然、悄然たるものがあろう。平成の商鞅といえなくもない。
 佐藤 優氏は本年6月刊の「知性とは何か」(祥伝社新書)で、次のように肝を捌き出している。
◇実態として見るならば、この閣議決定で厳しい縛りがかかり、以前よりも自衛隊の海外派遣は難しくなった。「こんなに縛りがついているんじゃ米国に要請されても、自衛隊を派遣することができない。今までは憲法上容認できないという言い訳ができたが、文言の上では集団的自衛権を認めているので、今後は政治判断で自衛隊を派遣しないことになる。日米の信頼関係にマイナスになる危険をはらんでいる」(外務省OB)との見方が事柄の本質を衝いている。◇
 「厳しい縛り」とは、国会審議がそれを証明している。野党から微に入り細を穿たれると、「総合的判断」を連発するしかない。なぜか? 使いたくても、「こんなに縛りがついている」からだ。「自衛隊がかつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、今後とも決してない」というアンバイ君の答弁はめずらしく正直、語るに落ちた。憲法学者の木村草太氏も、「個別的自衛権の行使としても正当化可能なケースについてのみ、集団的自衛権の行使を限定的に認める──7.1閣議決定は、そういうふうに読むことが自然な内容になっています」と語っている。
 米国に要請されて憲法を盾に断る。それでも「ショー・ザ・フラッグ」「ブーツ・オン・ザ・グラウンド」に抗し切れず、特別措置法で応じる。ところが今度は、『切れ目ない』法律が切れ目なくレギュレーションを掛けてくる。憲法を盾にはできない。縛りだらけの下位法に依る「政治判断で自衛隊を派遣しないことに」なり、「日米の信頼関係にマイナスになる」。「実態として見るならば」、これが肝だ。
 アンバイ君は実を捨てて名を取った。ご先祖様に顔向けはできる。自身の遺伝的トラウマは晴れるであろう。可哀相なのは外務官僚。実も取れず手にしたのは使えない名刺だけ。ために両両相俟って戦争反対の健全なる国民的常識を喚起する、つまりは寝た子を起こす大きな功績を残したといえる。
 ウロボロスとは無始無終の象徴である。エラい毒々しい象徴だ。事が阿漕なだけにこれが似合いともいえる。なににせよ、気分のいい一週間とはいくまい。 □


サーモンに恨みはないが

2015年09月11日 | エッセー

 かつて、『うんちく居酒屋』なる新書を紹介した。一部を引いてみる。
〓居酒屋での、おじさんたちの一番の肴は「蘊蓄」を傾けることであろうか。へぇーなどと返されようものなら、ますます悦に入る。へぇ~ボタンが三度(ミタビ)四度(ヨタビ)に及ぶと、ブタもおだてりゃ木に登る、完璧に図に乗ってしまう。周りの迷惑を尻目に、杯を傾けるかわりに大いにこれを傾けつづける。終(シマ)いには少なからぬ顰蹙を買って、座は白ける。しかしおじさんは空気も読めず、一人御満悦だ。ま、こんな図が全国津々浦々で散見される今日このごろである。
 
  ◇「ねぎま」の「ま」は何でしょう? 
    「間」じゃ、ないんです。は、は、は。教えてあげない。〓(13年3月、本ブログ「「うんちくゆうぞー」から)
 正解は、鮪の「ま」。江戸末期、醤油漬けにしたマグロを葱と一緒に鍋で煮た。この葱鮪汁(ネギマジル)が維新後、名前はそのままでかしわに替わった。つまり、「葱鮪」である。だからスーパーなどで「ねぎ間」と名札が付いているのは、間の抜けた話なのだ。葱鮪汁はおもにトロ。足が速いので棄てるか、肥料にされていたものを巧みに味付けして食した。廃物利用、庶民の知恵が凝った逸品だった。
 縄文遺跡から骨が出るというから付き合いは旧いが、マグロのステータスは決して高くはなかった。証拠に、「腐っても鯛」に類する俚諺はない。むしろ、目が「眼黒」や、背中が「真黒」を語源とする下手の魚、猫跨ぎの代表格であった。北大路魯山人は、下手魚で食通に適う代物ではないと切り捨てていたそうだ。因みに、旁の“有”は「囲む」から派生した回遊を意味する。
 それがにわかにグレードアップしたのは戦後らしい。高度成長に合わせて味覚が変化した。淡泊から濃厚へ。牛肉も霜降りが珍重されるようになり、魚ではマグロのトロに人気が集中した。魚食の下克上、今や高級魚の座に君臨している。
 さて、サーモンである。近ごろでは回転寿司の人気ネタ、ナンバーワンだという。万事に臍の曲がった稿者はこれを喰わない。廻って来ても、サケる(失礼)。鮭ではないからだ。昔も今も焼いた紅鮭は好物である。だが炙りであろうが、トロであろうがサーモンは嫌だ。良くて代用魚、下手をすると偽装魚といえなくもない。
 要するにサケ科に「サーモン」という英語名の一種があり、日本には在来の「鮭」(正式和名「シロザケ)という別の一種がある。両者は同じではない。ほかに「トラウト」があるが、ややこしいので割愛する。外来のサーモンをサケ科の魚という意味で「サケ」とは呼べようが、「鮭」ではない。鮭の英訳がサーモンではないし、サーモンの和訳が鮭でもないのだ。腹が「裂ける」、あるいは身が朱(アカ)いの転訛、有力なのはアイヌ語で「夏の食べ物」が語源だそうだ。旁の“圭”は三角に尖っていい形という謂。鮪と違い、こちらは古来「捨てるところがない」といって重宝されてきた。特に秋に川を遡上するシロザケを定置網で獲る「アキサケ」は北からの旬の味として長く食卓を賑わしてきた。ところが今ではチリ産のギンザケがほとんど。アキザケの淡泊から脂の乗った真っ赤で濃厚な味へ、輸入養殖ものへシフトしている。これは鮪と同じだ。
 輸入サケが急増した背景には、近年大手水産会社がアキサケを買い占め加工原料として輸出している動きがある。低コストの中国で加工し、アメリカ西海岸の大衆市場に流される。ために、国内市場には安価なアラスカ産シロザケが流入してくる。大掴みにいえば、国産品を売って輸入品を喰う。市場原理通りだといえばそれまでだが、水産業にとどまらず本邦が抱える大きな問題の一典型だ。
 再び、サーモンである。鮭ではなく、サーモンという魚として食すればいいのではないかという御高見もあろう。美味しければいいではないかとの仰せもあろう。然り、だが得心いたしかねる。安くて旨い。高級食を大衆化してきた業界の努力は多とするが、なんかダマされているようないないような。そのあわいがなんとも居心地が悪い。サーモン即鮭との国民的誤解に乗っかっているようで、いないようで。かといって、回転寿司と永訣するわけにはいかない。大衆化路線の余沢に殊の外預かってきた身としては、それはできぬ。これからも長のお付き合いを願わねばならない。いっそ客が回りながら喰うスタイルはどうか。これだって、立派な『回転』寿司だ。設備コストを削減して、ネタを本物に替える。『シャケ』ナベイベー! ユーヤ先生なら乗るかもしれないアイデアだ。
 断っておくが、サーモンにはなんの恨みも辛みもない。中ったこともなければ、貸借関係も感情の縺れもない。あるのは、避け(サケ)難い違和感だけだ。 □


『嘘みたいな本当の話』プラス ワン

2015年09月06日 | エッセー

 そっくりな人の話

「おい、カトウ。カトウアツミ。俺だよ。ミヤベキュウゾウだよ。若い学生達を俺たちと同じ目に会わせるわけにはいかない。こんな法案は絶対反対だ。だから、一緒に散った連中を引き連れて生き返ってきたんだ」
 インタビューに応えて、その学生はこう言った。確かにそう聞こえた。横断幕を広げ、プラカードを掲げたSEALDsのデモがテレビ画面を埋め尽くしていた。数年前に連れ合いが逝き、手作りの夕餉を一口ずつスプーンで運びながら夜のニュースを見る。その手がぴたりと止まった。まちがいない。今風の髪やシャツを着てはいるものの凜々しい面立ち、よく通る声もミヤベその人だ。身体ほどに頭は老いてはいない。記憶は鮮明だし、事の是非はキチンと付けられる。安保法案の衆院通過には胸を掻き毟るほどの焦燥感を覚えた。
 あのころ、私は特攻隊を目指す海軍飛行予科練習生だった。ミヤベは一の友人だった。山口県防府の通信学校では、特攻機が敵艦に体当たりする時に発する「突入信号音」を何度も傍受した。先輩たちの最後の叫びが今も耳朶に残る。もちろんミヤベのそれもだ。16、18、20歳と、笑いや友情、恋もあったにちがいないこれからの人生が断ち切られ、五体が炸裂し肉片となって恨み死にした仲間たち。有無を言わせぬ軍国の颶風の中で死ねと命じられ、爆弾を抱いて飛び立った先輩たち。彼らが帰ってきたのだ。いま国会の前で、デモ隊となって立ち並んでいる。
 湯のように熱い涙が止めどなく流れた。老軀の芯から燃え上がる熱が溢れた。


 『嘘みたいな本当の話』は全149本。なんだか切りが悪い。もう1本ほしい。そこで作話した。というのは正確ではない。新聞の投書欄の稿を元に超掌篇に仕立てた。有り体にいえば、剽窃である。
 7月18日朝日の“声”に、「学生デモ 特攻の無念重ね涙」(無職 加藤敦美 京都府 86)が載り、話題を呼んだ。そして本日、再び加藤氏の投稿が掲載された。要約すると、
〓拙稿がツイッターなどで広がったと聞く。死んでいった特攻隊員たちが生まれ変わり国会前で反対する学生デモ隊となったように思い、感謝の気持ちを書いたものだ。先日、東京からその「SEALDs」の学生さんが自宅まで来て下さった。
 難聴の私に、学生さんは紙に書き示してくれた。「投稿を読んで泣きました。自分たちも時代が違ったら特攻に行ったかもしれないし、死んだかもしれません。他人が書いた投稿と思えませんでした。今、動かずにはいられません」
 海軍通信学校から特攻基地へ続々と出発していった予科練仲間たちが鮮明に目に浮かぶ。安倍政権の憲法破壊、戦争路線の行き着く先は何か。憤怒のデモを続ける学生さんたちはそれを見抜いていると感じた。死んだ仲間たちは今あなたたちと共にある。〓
 と、氏は記している。多言は要るまい。氏の長寿を祈る。 □


今年ときめきの新書三作

2015年09月03日 | エッセー

 新書とはなにか。齋藤 孝氏はこう答える。
◇学問の世界における「大人の階段」──高校生と大学生を分けるのは、どれだけ文庫から新書に脱皮できたかにかかっている。大学生なら、各界の第一人者が何を考え、どんな主張をしているかを知っておく必要がある。
 新書コーナーをチェックしないことがいかにもったいないか。やや大袈裟にいえば、新書コーナーは「知性と現代が交錯するライブ空間」なのだ。その存在を知らなければ、知性的にもなれないし、現代も語れない。◇
 これもメディアファクトリー“新書”『10分あれば 書店に行きなさい』(12年)からの引用である。「大人の階段」とは、当時香川照之が歌い出演した保険のCMであろう。いまさら高校も大学もないが、要は『大人の段階』の話だ。「知性と現代が交錯するライブ空間」とは言い得て妙だ。
 今年はまだ三分の一を残している。「今年・・・」というには早すぎるかも知れない。ひょっとしたら四部作になるか、あるいはどれかを外して三部作にするか(「三」に拘るのは三種の神器、鼎の軽重など文化的基数ゆえ)。まあ、市井のディレッタントのすることである。大目に見ていただきたい。僅かな読書量から「ときめいた」3冊を挙げれば次のようになる。
   一、鷲田清一『しんがりの思想』 角川新書 4月刊
   一、高橋源一郎『ぼくらの 民主主義なんだぜ』 朝日新書 5月刊
     ※「ぼくらの」の次にスペースを入れたのは原書はそこで改行しているため
   一、養老孟司『文系の壁』 PHP新書 6月刊
 奇しくも4・5・6と連月となった。他意はない。

 しんがりの思想    ※鷲田清一 49年生まれ、元阪大総長、哲学者。
 副題が「反リーダーシップ論」。amazonのコピーを引く。
──やかましいほどにリーダー論、リーダーシップ論がにぎやかである。いまの日本社会に閉塞感を感じている人はとくに、大きく社会を変えてくれるような強いリーダーを求めている。しかし、右肩下がりの縮小社会へと歩み出した日本で本当に必要とされているのは、登山でしんがりを務めるように後ろから皆を支えていける、または互いに助け合えるような、フォロアーシップ精神にあふれた人である。そしてもっとも大切なことは、いつでもリーダーの代わりが担えるように、誰もが準備を怠らないようにすることであると著者は説く。人口減少と高齢化社会という日本の課題に立ち向かうためには、市民としてどのような心もちであるべきかについて考察した一冊である。
 縮小社会・日本に必要なのは強いリーダーではない。求められているのは、つねに人びとを後ろから支えていける人であり、いつでもその役割を担えるよう誰もが準備しておくことである。新しい市民のかたちを考える。──
 併せて、「右肩上がり」」から「右肩下がり」へと向かった変遷を鋭い視点から繙いている。
◇「成長」という強迫観念に囚われたひとたちは、「縮小」や「減益」の気配に怯える。この怯えを、このひとたちはこの社会の未来を案じるからだと言う。しかし、ほんとうにそうなのか。「成長」の予感が安心をもたらす社会、「縮小」へとなかなかに反転できない社会というのは、じつは未来をあなどる社会ではないのだろうか。◇(上掲書より抄録)
 これが肝であろう。別けても、次の指摘は胸に刺さる。
◇「足るを知る」という古人の知恵、いいかえるとダウンサイジングというメンタリティに、いまだれよりも近いところにいるのが、というか、そうならざるをえない場所へいちばん先にはじき出されたのが、いまの若い世代なのかもしれない。骨の髄まで「成長」幻想に染められているそれ以前の世代には、過栄養という不自然が不自然には映らないからである。ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代のリーダー像では、縮小してゆく社会には対応できないのだ。◇(上掲書より)
 鷲田氏も団塊の世代である。「ダウンサイジングというメンタリティにもっとも遠い世代」の一人だ。「縮小してゆく社会には対応できない」。むしろ「いまの若い世代」にこそ「古人の知恵」を賦活するポテンシャルがある。なんという洞見であろう。恥じ入りつつ快哉を叫ばざるを得ない。
 必要なのは「しんがり」が努められる人だとし、故梅棹忠夫の次の言葉で論を括る。
 「請われれば一差し舞える人物になれ」
 心底にときめく一閃だ。

 ぼくらの 民主主義なんだぜ   ※高橋源一郎 51年生まれ、明治学院大教授、作家。
 amazonのコピーから。
──日本人に民主主義はムリなのか? 絶望しないための48か条。
 「論壇時評」はくしくも3月11日の東日本大震災直後からはじまり、震災と原発はこの国の民主主義に潜んでいる重大な欠陥を炙り出した。若者の就活、ヘイトスピーチ、特定秘密保護法、従軍慰安婦、表現の自由……さまざまな問題を取り上げながら、課題の解決に必要な柔らかい思考の根がとらえる、みんなで作る「ぼくらの民主主義」のためのエッセイ48。
 大きな声より小さな声に耳をすませた、著者の前人未到の傑作。11年4月から15年3月まで、朝日新聞に大好評連載された「論壇時評」に加筆して新書化。──
 これこそまさに「知性と現代が交錯するライブ空間」である。目次を拾うと、
──ことばもまた「復興」されなければならない/スローな民主主義にしてくれ/民主主義は単なるシステムじゃない/〈東北〉がはじまりの場所になればいい/国も憲法も自分で作っちゃおうぜ/自民党改憲案は最高の「アート」だった/ぼくらはみんな「泡沫」だ/戦争を知らない世代こそが希望なのか/選ぶのはキミだ 決めるのはキミだ 考えるのはキミだ/「考えないこと」こそが罪/わたしたちは自ら望んで「駒」になろうとしているのかもしれない/ぼくらの民主主義なんだぜ/「アナ雪」と天皇制/クソ民主主義にバカの一票/「怪物」は日常の中にいる──
 4年間の論壇についての評論である。48本、ほとんどのイシューを網羅するといえる。登場する論者は2百人を超えるだろう。並の膂力ではない。全編を流れる「柔らかい思考の根」にときめきを覚える。例えば、こうだ。
◇北朝鮮の「ミサイル」発射の件もなんか変な気がするんだよ。海外のメディアは、「ロケット」と呼んでいるみたいだけど、日本にいると、目に飛びこんでくるのは「ミサイル」ということばだ。弾頭を装着すれば「ミサイル」で、宇宙開発が目的なら「ロケット」というらしいんだけど、そんな違い、なんか意味があるのかな。っていうか、その「ミサイル」より、アメリカ軍が持ち込んでいるかもしれない核兵器や福島第一原発4号機の燃料プールの方がずっと怖いと思っちゃうのは、ぼくに「常識」がないからなんだろうか。◇(同書より)
 この口気からして「柔らかい」。しかし、弱さとは対極にある強靱な知性だ。「知性と現代」が切り結んだ迫真の平成クロニクルである。

 文系の壁   ※養老孟司 37年生まれ、解剖学者、東大名誉教授。
 以下、amazonのコピーから。
──「理系は言葉ではなく、論理で通じ合う」「他者の認識を実体験する技術で、人間の認知は進化する。」「細胞や脳のしくみから政治経済を考える」「STAP細胞研究は生物学ではない」……。解剖学者養老孟司が、言葉、現実、社会、科学研究において、多くの文系の意識外にあるような概念を、理系の知性と語り合う。
  『すべてがFになる』などの小説で知られる工学博士森博嗣、手軽にバーチャルリアリティが体験できるデバイス(段ボール製)を考案した脳科学者藤井直敬、話題作『なめらかな社会とその敵』の著者で、「スマートニュース」の運営者でもある鈴木健、『捏造の科学者 STAP細胞事件』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した毎日新聞記者・須田桃子。「前提」を揺さぶる思考を生む四つの議論。──
 前2作とは毛色が変わる。ともあれ久方ぶりの養老節、炸裂である。取り分け、ときめいたのは次の論及。
◇再生医療の分野でSTAP細胞が注目されていますし、STAP細胞という捏造騒動まで起こりました。ただ、STAP細胞にしても、元になる細胞はそれぞれの人間から採取してくるわけで、品種改良でサラブレッドを作るのと本質的には変わりません。既存の馬を掛け合わせて一番足が速い馬を作るのと同じように、既存の細胞を使って一番都合のよい細胞を作っていく。細胞とは何かという疑問には一切触れず、都合がよいモノを作るという発想は、科学ではなくて科学技術です。
 その複雑さ(地球上に生命が誕生する)を再現できないから、生命研究にしてもすでにある現実をそのまま利用した方が速いということになる。だから、iPS細胞のような研究が行われるわけです。しかし、学問全体がそういう方向に動いていくと、たぶんどこかで行き詰まるでしょう。生命とは何なのかについて考えずに、ただ目の前にあるものをいじっているだけだから。◇(同書より)
 大御所の知性は大鉈のそれだ。「発想は、科学ではなくて科学技術」とは、核心を剔抉して余りある。昨年の新潮新書『“自分”の壁』では、こう述べている。
◇よく、「遺伝子組み換え大豆」を使った食品の安全性について心配する人がいます。仮にあれが心配だというのであれば、iPS細胞も心配したほうがいいでしょう。生物学者の福岡伸一さんは、ipS細胞とがん細胞は生物学的に見ると、よく似ている点を指摘しています。iPS細胞そのものが、がん細胞になってしまう可能性だってあるのです。誤解のないように言っておきますが、私も福岡さんも新しい治療法が生まれることを期待していないわけではありません。しかし、まだよくわからないブラックボックスの部分がかなりあるから、簡単に応用へと進められるわけではない、ということです。ところが、ipS細胞に関しては、こういう否定的な意見はほとんど聞きません。それは、「体のことは頭(意識)で何とかできる」ということや、「科学が明るい未来を切り開く」といったメタメッセージが、かなり深いところまで浸透してしまっているからです。個々のメッセージではなく、こうしたメタメッセージは無意識のうちに、考える大前提になってしまっている。だから、疑われにくいのです。 ◇
 「こうしたメタメッセージは無意識のうちに、考える大前提になってしまっている。だから、疑われにくい」という。いまだ、バカの壁は難攻不落のようだ。 □