伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

お江戸でござる

2007年04月26日 | エッセー
 日本は無思想の国といわれてきた。たしかにヨーロッパに、インドに、中国に比するに、圧倒的に屹立する思想はない。しかし「無思想という思想」がある、と反駁するのが養老孟司氏だ。
  ~~「思想なんてものはない」。これは思想におけるゼロの発見である。ゼロには、二つの意味がある。一つは、数字としてのゼロである。マイナス1、ゼロ、プラス1、プラス2と数字を並べていくとき、ゼロは「数字のなかの一つの数字」に過ぎない。他方、ゼロという数を一つ取り出し、その意味だけを考えるなら、それは「とりあえずそこには数がない」ことをも意味している。「思想なんてものはない」つまり「無思想という思想」は、その意味でこのゼロに等しい。これ自体が一つの思想であるとともに、「とりあえずそこに思想はない」ということを、同時に意味しているからである。これが矛盾でもなんでもないことは、数字のゼロが証明している。それはむしろ数学をはるかに豊かにした。日本の無思想も無宗教も無哲学も、決してニヒリズムではない。数字のゼロだと思えばいい。そこから思想の大きな可能性が開けるはずである。~~(養老孟司著 ちくま新書「無思想の発見」から)
 無思想を「ゼロ」の両義性になぞらえるとは、実に巧みだ。しかし思想なしでは社会が成り立たぬ。では、思想を代替するものは何か。それが「世間」だと養老氏はいう。 
  ~~「世間と思想は補完的だ」という結論が得られる。それなら世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなるはずである。同じ世間のなかでは、頭の中で世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど、「思想的」なのである。ふつう「現実と思想は対立する」と思ってしまうのは、両者が補完的だと思っていないからである。これは思考には始終起こることである。男女を対立概念と思うから、極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じように、ウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。それを「欧米には立派な思想があるが、日本にはない」と思うのは勝手だが、おかげで自虐的になってしまうのである。~~(「無思想の発見」から)
 「世間の出来が悪い」とは、当意即妙ではないか。いかにも養老節だ。わたしなど、シビれてしまう。それはともかく、さらに ――
  ~~階層構造でいうなら、至高の神ではなく、最低の地面に位置する人間を信じる。それが世間教というものであろう。山本七平はそれを日本教と呼んだ。~~(「無思想の発見」から)
 ところが ――
  ~~その和魂、すなわち世間が危うい。明治にそうであったほどには、世間はもはやしっかりしてはいない。「思想というものがない」社会で「世間という現実」が危うくなれば、すべては崩壊に近づくしかない。~~(「無思想の発見」から)
 と、危機意識が語られる。
 この危機意識は、いままで様々に語られてきた。日本人像が危機の処方箋として俎上に挙がった。日本人の祖型をどこに求めるか。司馬遼太郎は「明治」を志向した。三島由紀夫はさらに遡及して、「武士道」に。藤原正彦氏も同じくだ。ところがここに来て、新手が現れた。同じ江戸でも「最低の地面に位置する人間」に視座を置く、「世間教」である。つまりは、江戸町方、庶民の目線である。大坂と違い、江戸は武士の町。武士道の町方への投影といえなくもない。

 NHKの「お江戸でござる」。この番組が先鞭をつけたのかどうか、『江戸しぐさ』がブームである。
 中心者は、越川禮子女史。八十を過ぎてなお矍鑠たる気品漂う老媼である。「江戸しぐさ語りべの会」を主宰する。社長として市場調査会社を切り盛りし、年に百回を越える講演をこなす。著書も数多い。アメリカの老人問題を扱った著作で顕彰もされた。正真正銘、キャリアウーマンの鑑である。
 江戸しぐさ ―― わたしは単なる処世訓として、はじめは等閑視していた。しかし食わず嫌いは損をする。
  ~~明治維新で薩長によって壊されてしまったといわれる江戸しぐさは、もはや原形をとどめていません。わずかに、伝え聞いた話をこうして残しているのみです。百万都市の江戸と一千万都市の東京を比べられませんが、もし江戸しぐさが、東京しぐさとして残されていたら、もっともっと住みよい町になっていたことと思っています。思いやりのあふれる町、東京があったかもしれません。~~(越川禮子著 日本文芸社「野暮な人 イキな人」から。以下、引用はすべて同書)    
 この一文に接した時、これも「危機」へのひとつの解答ではないか、と感じ入ってしまったのだ。「薩長によって壊されてしまった」とは、いかにも「江戸っ子」の言い分である。維新回天の時代の動きではなく、『薩長』のせいにしてしまうところが、なんとも江戸っ子老媼然としているではないか。愛おしくさえなってくる。
  ~~江戸しぐさとは「戸商人たちの商売繁盛のための知恵であり、商家の主人といった上に立つ者の哲学、行動学でした。そしてそれは、過密都市・江戸で争いごともなく共に生き抜くため、町方のリーダーたちが考え、率先して実行してきた「知恵」といえます。~~
 江戸しぐさでは価値は二手に両断される。すなわち、イキか野暮か。実に明快だ。
 「イキ」(粋)とは、「意気」から転じたらしい。言動が颯爽とし、あか抜けして、かつ艶がある。また、人情の機微に通じていることも含む。「野暮」とはその反対だ。野夫(田舎者)が転じたらしい。無風流で、不粋。世情にも人情にも疎い。野暮天ともいう。ともかくも、あか抜けがしていない。当然、野暮を忌み嫌う。潔く、美しくあれと振る舞った『武士道の町方への投影』であろうか。
 江戸しぐさとは、「世間教」の集大成である。三百年をかけて吟味熟成された江戸庶民の、極上の「和魂」である。
 以下、いくつかを紹介したい。(上掲書より引用)ただし、これは極々一部にすぎない。志あるお方は是非、著作に当たっていただきたい。また、WEBでも様々に公開されている。この際だ。平成の世に別れを告げて、『お江戸でござる』といきますか。

【口約束】
 江戸の商人の場合、文書にするよりも「口約束」を重視しました。お互いの言葉で約束をする ―― この言葉を忠実に守ったわけです。たとえどんな些細なことでも、口約束したことは守りました。現代では、口約束というと、ちょっと危ない約束のように受け取られそうですが、江戸の商人の間では絶対の約束でした。江戸の商人たちは、信用こそ商売の基本と考えていましたから、口約束をしたとき、最後にこうつけ加えたといいます。「死んだらごめん」 約束したことは絶対に守ります、でも、死んでしまったら、そのときはごめんなさい、約束は果たせません ―― つまり、生きている限り必ず約束は守りますという、強烈な決意表明でした。
 言葉は単なる「言の葉」ではなく、「事(行為、行動)」と同じ重みを持つとしていたのです。口から出たものは自分の行為・行動と同じと考えていたからです。
 江戸しぐさでは言葉を大事にしていました。きちんとした言葉は江戸しぐさの基本で、言葉が乱れれば生活も乱れてくるとばかり、言葉には注意を払いました。
【三脱の教え】
 江戸しぐさには「三脱の教え」というのがありました。親しくなるまでは相手の年齢・職業・地位の三つを聞かない、触れてはいけないというルールです。そのようなものに惑わされず、自分の目で人を見、平等のおつき合いをしましょうという考え方です。
 大人なら見てわかる当たり前のこと(体の特徴や外面の状態など)は言わない ―― 江戸しぐさのなかで、野暮の骨頂というものがあります。それは、「見てわかることを言う」ということです。一目瞭然のことを口に出すというのは、当たり前のことしか喋ることのできない野暮な人。その前に、気を働かせることです。
 人を評価するとき、「ろくのきく人だ」と言ったりしました。この「ろく」とは、「六感」のことです。六感を駆使してある事象を瞬間的につかみ取る、いわば「直感」です。「ピーンときた」などといまでも言いますが、それが六感です。
【忙しいは禁句】
 江戸商人の問では、「忙しい」という言葉は禁句だったといいます。「忙」の漢字を分解すると、「りっしんべん」に「なくす」となります。つまり、「心がない」こと、江戸っ子は心を大変大事にしていましたから、心をなくすというのは、それはすなわち人ではない、単なる木偶の坊だ、ということになってしまいます。ですから、忙しいという言葉は使わずに「ご多用」「書き入れどき」という言葉を使いました。
【ご存じと思いますが】
 江戸の話し方のルールのひとつに、最初に必ず「ご存じと思いますが」とつけるとあります。相手が知らないかもしれないと思っても、この言葉から会話を始めるのです。そして会話の最中に相手が、「それは初耳です」と合いの手を入れれば、この人は知らなかったのだ、では、どんなことを聞かれても丁寧に話そうと思ったといいます。
【戸締め言葉】
 「でも」「だって」「しかし」「そうは言っても」という言葉は、江戸しぐさでは「戸締め言葉」といいます。戸を締めて中に入れない ―― つまり、人の話を聞かない、無視するような言葉。相手の言葉を止めてしまう戸締め言葉は、自分中心の心の表れで、謙虚さに欠けるとして嫌われました。何を言っても、人の話を止めてしまう、まったく野暮な言葉だったのです。
【しつけ】
 五歳までは手取り足取り親が面倒を見ますが、それを過ぎると、自立心、自主性を養うために、一方的に教えたりはしなかったのです六歳になると寺子屋や講に通うことになり、そこで、子どもたちが自主的に、師匠や親兄弟、姉妹、世間を見習い、見取る(見て自分のものにする)ように仕向けたのです。見習い生とか見取り図などという言葉は、江戸のしつけ言葉のなごりなのです。九歳で大人同様の挨拶ができたそうです。
【さしのべしぐさ】
 道を歩いていると、前の人が倒れました。さあ、あなたなら、どうしますか? 急いで近寄り、助け起こす。でも、江戸しぐさでは違いました。こんなときは、すぐには手を貸しません。少し様子をうかがうのです。見て見ぬふりをします。ひとつには、助け起こすことによって相手の自尊心に傷がつかないかどうか、もうひとつは、その人の自主性にまかせるべきという考え方このふたつが、見て見ぬふりをさせるのです。そして、その人が本当に立ち上がれないとわかって初めて、手をさしのべるのです。これを江戸しぐさでは「さしのべしぐさ」といいました。
【おすそ分けすべからず】 
 べからず集のなかに、「江戸商人は、おすそ分けすべからず」とあります。これだけを読むと、江戸商人はケチなのか、と思いがちですが、そうではありません。いろいろな祝い事などで料理をつくりますが、全員に行き渡ってもなお残りがでるようではまずい、ということをいっているのです。
【夜明けの行灯】
 江戸では明るく、陽気なタイプの人たちが好かれました。人づき合いでも、周囲の人たちを不愉快にさせないことが大事でした。このような楽天的な考え方は、「夜明けの行灯」という江戸しぐさにも表れています。夫婦や親子の問でいさかいが起こったら、決定的にならないよう、その手前でやめ、その場ですぐに結論を出さないようにします。しばらく時間をおこうというわけです。これを「夜明けの行灯」といいます。夜明けの行灯は、外も明るくなり、あってもなくてもいい物。でも、また夜になれば必要です。感情にまかせてその場で大きな亀裂をつくるのは、夜明けの行灯のごとく不要といっているのと同じ。でも、また必要になる、だから冷静になるまで待ちなさい、感情的になって必要なものを不要にしてはいけない、という教えなのです
【ほほえみ】
 渡辺京二氏の『逝きし世の面影』によれば、幕末や明治の初めに来日した外国人たちは、日本人たちのほほえみに感動したといいます。それはお追従ではなく、貧しくともハッピーだと感じさせるほほえみだったからだそうです。ほんとうに美しい民族だと言っていたそうです。もはやそれは、逝きし世の面影なのでしょうか。□


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旬の本にイナバウアー

2007年04月21日 | エッセー
 筍の話ではない。面白いのである。目から鱗。先月、世に出たばかりの旬の本である。
 「ダ・ヴィンチの謎 ニュートンの奇跡」 ―― 『神の原理』はいかに解明されてきたか(サブタイトル)<祥伝社新書>である。
 著者は、三田 誠広(ミタ マサヒロ)。芥川賞作家(1977年、『僕って何』で受賞)で、かつ宗教、科学に造詣が深い。団塊の一員でもある。(決して、『欠片』などではない)
 まず、<まえがき>から 

  ◇◇現代人は科学と宗教を対立するものとしてとらえている。しかしダ・ヴィンチからガリレイ、デカルト、パスカルを経てニュートンに到る時代にあっては、科学は宗教と不可分なものであった。科学は宗教の一部であるだけでなく、宗教をより深めるものが科学であったといってもいい。◇◇

 のっけから、イナバウアー。「お、おぉ!」だ。つまり、科学は不信者の営みではなく、篤信者のそれであった。神を否定するためではなく、神を証明するためであった。これが本書の基調である。サブタイトル通り、彼らが解明しようとしたものは『宇宙・天然の原理』ではなく、『神の原理』であった。ここのところがポイントだ。西欧にとって、『宇宙』と『神』は同義であったのだ。ともすると、東洋人はこの前提を踏み外す。
 ツカミは、聖書冒頭。(新約聖書、ヨハネによる福音書) 

  ◇◇初めに言葉ありき。
 ここで「言葉」と書かれているのは、ギリシャ語のロゴスであり、まさに言葉ではあるのだが、言葉によって究められる原理をも意味している。(略)神は全知全能である。原理を創ったのも神である。◇◇

 つまり、「初めに原理ありき」と読み替えられる。だから、「神とは何か。それは原理だと、ヨハネは言っているのだ。」と続く。
 キーワードは【グノーシス】。全編を貫く。「神の領域」を、すなわち「原理」を求める営みである。

  ◇◇グノーシス。
 ギリシャ語で「認識」を意味する言葉だが、カトリックによって厳しく弾圧された歴史をもつ。秘密結社と呼ばれる組織は、何らかの形で、グノーシスという概念に関わっているといってもいい。◇◇

 【秘密結社】とはカトリックの目を逃れるという意味である。決して犯罪組織ではない。もっともカトリックから見れば大謀反人であるが。なぜ、カトリックは弾圧したのか。

  ◇◇カトリックという教団は、神秘主義を弾圧した。神父の言うことだけを信じよ、というのがカトリックだ。カトリックは民衆に、ものを考えないほうが幸福になれると説いた。考えることを弾圧したと言っていい。◇◇

 サワリだけを引用している。当然、容赦ない表現が多い。前後のふくらみは原書に当たっていただきたい。【神秘主義】とは、グノーシスの別名、反対勢力の命名だ。ダ・ヴィンチにとって、絵画は糊口を凌ぐ片手間仕事。本業はグノーシスだった。
 論及は、「数の世界こそ神の領域」とするピタゴラスから、「謎に満ちた」天才ダ・ヴィンチへと続き、「ほぼ完全に『重力の法則』を確立した」ガリレイ、そして「近代科学を確立した」ニュートンへと至る。もちろん、アインシュタインも登場し、時系列では逆になるがパスカルで締め括られる。
 題名の通り、主役は二人。実は ――

  ◇◇ダ・ヴィンチは神秘主義者だった。彼がシオン修道会という秘密結社の総長であったことは、最近、大きな話題となった。ニュートンもまたその同じ結社の総長であったといわれている。そこには、ダ・ヴィンチからニュートンに到る一つの流れがあったのではないか。(略)この組織が十字軍の遠征でエルサレムに赴いた若者たちによって結成されたという経緯や、ダ・ヴィンチの周辺には弟子の美少年がいるだけで、女性の影がまったくない(ニュートンも同様だが)ことからも、この組織はむしろホモ集団に近い、純粋な男だけの親密な組織ではなかったかとわたしは考えている。◇◇

 これで、二度目のイナバウアーだ。うすうす感じてはいたのだが、やっぱりそうきなすったか。最近、浅田作品に登場する亡霊と、この手のもには妙に勘が冴える。
 さて、東洋では ――

  ◇◇わたしは中国や日本でなぜ科学が発達しなかったか、そのことに疑問をもっていたのだが、結局のところ、中国にも日本にも、キリスト教のような絶対的な神が存在しなかったからだろうと思う。神がなければ、秘密結社も必要ないし、神が伏せたカードを開いていく喜びもない。つまり科学の発達は神がもたらしたものなのだ。◇◇

 「科学の発達は神がもたらした」 ―― これが、三度目のイナバウアー。科学は宗教のアンチテーゼではなかったのだ。アンチテーゼは宗教の権威であった。創造主によって伏せられたカードを科学者が一枚ずつ起こしていく。表が現れる。「神の原理」が次第に解明されていく。カードの数が残りずくなになり、やがて「決別」の時が来る。「パンセ」の一文が引用されエピローグを迎える。

  ◇◇「人間は自然の中で最も弱い一本の葦でしかない。しかし人間は考える葦である」(略)宇宙の前で、人間は無力だ。しかし人間は「考える」ことができる。考えることによって、人間は宇宙を包み込む(フランス語で「知る」と「包む」とは同じ言葉である)。つまり人間は、宇宙よりも大きな存在なのだ。(略)わたしはダ・ヴィンチでもニュートンでもないが、この世に人間として生まれたことを、誇りに思いたい。◇◇
 
 終わりは印象的だ。ちなみに、イナバウアーは股関節に180キログラムの負荷が掛かるそうだ。大相撲の把瑠都ひとり分を抱える勘定になる。やっぱり荒川静香は偉い。「万有引力」に抗して、見事にあの技を決める。アイザック・ニュートンが見ればたちどころに荷重を計算し、「お、おぉ!」とのけぞるにちがいない。□


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ムニュには飽いたか?

2007年04月17日 | エッセー
 いやはや、スゲー変化球である。松坂のスライダーどころではない。「巨人の星」の大リーグボール1号、いや2号か。
 「千の風になって」が大ブレイクだ。
 わたくし最近難聴の気があるのか、『千の風にのって』と聞こえた。聴覚は確かに『なって』と捉えたのであろうが、脳が修正を加えたにちがいない。風に『なる』のはめったやたらに起こり得ることではない。わたくしが風にでも『なろう』ものなら、驚天動地の大異変である。風に『乗る』のは風船から飛行機まで、ごくありふれた日常の光景だ。脳の修正はリーズナブルといえる。ところが、正解は『なって』であった。きょうまで、確実に3回は陰で笑われている。なぜその場で教えてくれないのか。付き合う友達を考えねばならない。

 原題は 『Do not stand at my grave and weep』。原詩はアメリカの女性がつくったらしいが、定かではないので作詞不祥とされる。日本語での訳詞は新井 満(マン)氏。曲も付けた。邦題は作中の『I am a thousand winds that blow』が使われた。このあたり、新井氏のセンスであろう。

  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
  千の風に
  千の風になって
  あの大きな空を
  吹きわたっています

  秋には光になって 畑にふりそそぐ
  冬はダイヤのように きらめく雪になる
  朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
  夜は星になって あなたを見守る
  <抜粋>

 どこがスゲー変化球なのか。まず第一に、テノール歌手・秋川 雅史(マサフミ)の存在だ。新井氏以外にも3、4人が歌っているが、なんといっても彼が群を抜いた。NHK教育テレビの、うんとマニアックな番組にしか出てこないような歌手が、フツーのステージで歌うのだ。もちろんコブシは入らないし、ダンス風のフリもない。マイクも要らないくらいの並外れた声量で歌い上げるのである。駄菓子屋に、一個何千円もするモンブランケーキが並んで売られているようなものだ。さらに昨年末の「紅白」出演を機にヒット・チャートを急上昇。ついにトップを占めた時期もある。純粋な声楽畑の人間がヒット・チャートを駆け上がるなどとは、とてつもない変化球という以外ない。古(イニシエ)の藤原義江や藤山一郎も声楽出身であったから、これは一種の先祖返りともいえるのだが……。
 第二に、レクイエムの大ヒットという点である。歌詞をほどくと正確にはレクイエムではないかもしれない。あるいは挽歌でもないかもしれぬ。遺言、辞世の歌といった方が近いか。この世ならぬ者の声を、生きゆく者が代弁するというイレギュラー気味の設定になっている。いずれにしても、死にまつわる歌だ。「こんにちわ赤ちゃん」ではない。まるでベクトルが逆だ。朝日が「天声人語」で取り上げたこともヒットに弾みをつけた。最近は葬儀会場で頻繁にこの曲が流れるそうだ。茶の間と葬儀場とに、同じ曲が響く。まれに見る変化球ではないか。
 第三に、中身の問題だ。反響は、感動の声と感動の押し売りだという両極に分かれる。感涙が止まらないの一方で、死の美化だとの不快感もある。それは、どちらでもいい。好き好きだ。そのことではなく、「欧米か!?」の反対。「東洋か!?」である。そんな発想はないだろう、ということだ
  ―― 「そこに私はいません 眠ってなんかいません」とあり、『風・光・雪・鳥・星』になると続く。西欧、そのバックボーンはキリスト教である。中心的テーマである「復活」といい「最後の審判」といい、その死生観からすると相当な変化球だ。イエスものけぞる仰天スライダーではないのか。原語からすると「風」は魂のことであるとスゲー好意的な解釈もあるが、全体のイメージからはほど遠い。
 むしろ、輪廻転生を説く東洋的発想にこそ近いのではないか。どう考えても、少なくとも、これは『欧米』ではない。新井氏が原詩に東洋的装いを施したとも考えられない。むしろ、欧米の死生観がなにがしかの変化を来していると、捉えた方が素直だ。そこに東洋人たる新井氏の感性が反応した、と。
 一例を挙げると、1965年、ヴァチカンが「火葬禁止令」を撤廃し、「火葬は教義に反しない」との公式見解を出した。以後、アメリカでは火葬率が増加してきている。あと2・3年もすると、3割を超えると予測されている。当然、エンバーミング(遺体の長期保全)は低下の一途だ。衛生上の事由もあるだろうが、葬送の形態は死生観の端的な表出である。

 さて、さて、そんなわけで、日本人民の好みもムニュからア・ラ・カルトにシフトしてきているのか。お決まりのコースではなく、極上の一品を堪能しはじめたのか。スゲー変化のはじまりか。『風』にでも訊いてみるか。
 ところで、「最後の晩餐」はムニュだったのか、ア・ラ・カルトだったのか。こちらは、レオナルドに訊くしかあるまい。

 余談ではあるが、吉田拓郎「吉田町の唄」のラスト部分。
  …………
  あの日 その人は やさしく笑い 母の手をにぎり 旅にでかけた
  おだやかに やすらかに 眠れと いのる
  やがて 雪を とかして せせらぎになれ
  いくど春が来て あの日をたどる この名も故郷も静かに生きる
  雲が空に浮かび 人の顔になる
  …………
 わたくしといたしましては、こちらの方がよほど琴線に触れるのであります。はい。□


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名言 ベスト1

2007年04月14日 | エッセー
 司馬 遼太郎 著「世に棲む日日」の最終章<老年>の一場面。いよいよ大団円を迎えるところだ。
     ◇    ◇     ◇
 晋作はずっと昏睡状態にあったが、夜がまだ明けぬころ、不意に瞼をあげてあたりを見た。意識が濁っていないことが、たれの目にもわかった。晋作は筆を要求した。枕頭にいた野村望東尼(モトニ)が紙を晋作の顔のそばにもっていき、筆をもたせた。 
 晋作は辞世の句を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。
 
  おもしろき こともなき世を
   おもしろく

 とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないとおもい、
「すみなすものは 心なりけり」
 と書き、晋作の頭の上にかざした。望東尼の下の句は変に道家めいていて晋作の好みらしくなかった。しかし晋作はいま一度目をひらいて、
「……面白いのう」
 と微笑し、ふたたび昏睡状態に入り、ほどなく脈が絶えた。
     ◇    ◇     ◇
 先月下旬、NHKで「『その時歴史が動いた』スペシャル もう一度聞きたいあの人の言葉 視聴者が選んだ名言ベスト20」が放映された。ベスト1は、意外にも高杉晋作辞世の句であった。意外にもというのは、人口に膾炙される句ではないと考えていたからだ。もしそうだとしたら、これを選ぶ心象とはどのようなものだろう。直截な人生訓ではない。むしろ搦め手からの切り口だ。解説の荻野アンナが、ニートの心情に合うかもしれないと言っていた。ロストジェネレーションの琴線に触れるものがあるとしても、選者はその世代だけではない。何にしてもかなりマニアックな選択である。
 下手な解釈は句意を貶めるだけだが、敢えて挑戦してみたい。
 司馬が言うように、たしかに尻きれとんぼだ。望東尼の下の句は道教臭くて色消しだ。疾風怒濤の晋作の人生は決して道家のそれではない。むしろ、古川柳だと考えればいいのではないか。だとすれば、これで立派に完結している。余韻は持て余すほどだ。
 あるいは、下の句は皆に預けたのではないか。付合(ツケアイ)そのものではなく、「君ならどう生きるのか」と……。とすると、末期(マツゴ)の「……面白いのう」が活きてくる。『望東尼よ、お主はそうきたか。ちょっと違うなー。でも、十人十色、面白いのう』とでも続いたのではなかろうか。
 それにしても、「おもしろき こともなき世」とは凄まじいニヒリズムだ。英傑が邂逅した幕末の世が「おもしろき こともなき世」であろう筈がない。第一、「おもしろき こともなき世」を司馬が書くわけがない。しかし、当人はおもしろくないと言う。これこそ、ニヒリズムではないか。虚無の深淵が黒々と覗き見える。
 しかしそれで終わらないのがこの句の凄味だ。 ―― 「おもしろく」。ここだ。これはもう、実存主義ではないのか。サルトルのように「実存は本質に先立つ」などと捏ねくり回さずとも、たった五文字で言ってのける。これこそ晋作の真骨頂である。人生に意味を与えるものは己自身だ、誰あろう俺は俺だ、と。破天荒を生きた自由人、晋作にしてはじめて発し得る言の葉である。小説の題名もこの句に来由するにちがいない。
 「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」とは伊藤博文の献辞だ。虚無を背負いながらも、アグレッシブに生きる。このアンビヴァレンスを手挟(タバサ)んでなお屹立する巨人。それが晋作ではなかったのか。
 なお、原作は「面白き こともなき世『に』 面白く」であり、『を』は後世の改作ではないかとする専門家がいる。だが、巷間流布されているのは『を』だ。元より司馬は『を』としている。なにより、『に』では弱い。『を』の方が句に勢いがある。また、この句は数ヶ月前に作られていたとする説もある。真相はそうかもしれぬ。しかし、辞世を前もって用意するのはよくある例だ。それに、本質を物語るのが小説だ。だから小説に準拠した。

 今の時代に生まれていれば、間違いなく歴史に名を残す詩人になっていたであろう、と司馬は語る。作品群の中から、わたしが一番に推したいのはこの都々逸だ。

   三千世界の 烏を殺し
    主(ヌシ)と朝寝が してみたい

 「三千世界」とくれば、これ以上のスケールはない。「烏」も「朝寝」も分かる。朝寝は当然艶事だ。気になっていたのは、烏と朝寝の繋がりである。「烏が鳴くから帰ろ」ではないが、朝ではなく夕方のイメージが強い。騒々しい烏を皆殺しにしてゆっくり朝寝を、ではおかしい。これはどう捉えればいいのか。本稿を書くに当たり、調べてみた。 ―― 神武天皇東征の折、熊野に現れ道案内をした神の使い、八咫烏(ヤタガラス)のことだ。故事に因み、熊野神社では烏の図柄を入れた誓紙を販売。「熊野誓紙」に違えると熊野で烏が死に、天罰が下るといわれた。
 合従連衡の取り決めなどに武将が利用した。商売でも常用された。さらに花魁もさかんにこれを使い、客を取り込んだ。熊野誓紙に契りを認(シタタ)め、祝言の真似事をしたわけだ。客はその気になっても、遊女の身の上、添い遂げられようはずはない。「誓紙書くたび 三羽づつ 熊野で烏が死んだげな」という小唄があったそうだ。互いが一通ずつ、もう一通を神社に奉納する。三通分の御破算が烏三羽という勘定になる。ただ遊郭の場合、罪科(ツミトガ)もない烏が破約の身代わりとなって、累はそこで停まった。……とされた。色恋沙汰ゆえ神意を煩わせまいとの深謀遠慮からか。あるいは、融通無碍、手前勝手な解釈か。

 これで繋がった。歌意を察するに ―― 花魁の逆手をとった相聞歌ではないか。その手は食わない。身代わりは、はなから根絶やしにしておく。天罰は直に主(ヌシ)に下るぞ。覚悟はよいな……。と、そんなところか。はたまた、今宵のことも戯れ事にちがいない。それは承知の上だ。だから浮世の烏はみな始末しておこう。神使(シンシ)がいなくなれば、神罰の沙汰はもう心配いらぬ。ままよ、心ゆくまで朝寝といくか、であろうか。何にせよ、「白髪三千丈」さえ及びもつかぬ超弩級の歌だ。李白も形無し。身の毛がよだつ恋の歌だ。自由で奔放な天稟が躍る。

 維新回天。日本史のひとつの絶頂に、類い稀な個性が光を放った。そのような人物を持ち得たことに、わたしは感謝したい。

 晋作の雅号は「東行」。歌聖・西行の向こうを張った。きょうは「東行忌」。行年28歳。師の松陰よりも1年、さらに短命だった。慶応3年(1867年)4月14日未明に辞世してより、満140年を迎える。□


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人間の「い」

2007年04月08日 | エッセー

 去年だったか、おととしだったか、久方振りに戻って来たタレントの野沢直子が「笑っていいとも」に出演した。タモリとのやり取りの中で、最近の若者たちの言葉遣いを習得して帰りたいと言い出した。
 「言葉尻が消えるでしょ。ほら、『長い』じゃなくて、『長っ』って」
 タモリははじめ分からなかったようだが、「はい、はい。本当にそうだね」と気がついた。長いアメリカ生活から一時帰国した野沢の方が敏感だ。
  ―― はやっ。(早い) たかっ。(高い) きつっ。(きつい) あつっ。(熱い) みじかっ。(短い) あまっ。(甘い) ダサっ。(ダサい) ―― などの類いだ。
 形容詞の語尾から「い」が抜け、「っ」の促音に変化する。あるいは、促音も抜ける。特別、驚いた場面ではないのに、おしなべてこういう表現をする。ラ抜きことばははや市民権を得る勢いだ。次なる標的は「い」なのか。新手の『イ抜きことば』について愚考を巡らせる。

 岩波新書「日本語ウォッチング」(東京外大教授<当時>井上 史雄著 1998年初版)は少し古いが、現代日本語事情を考える上での教科書的名著である。論究は多岐にわたるが、ここでは2点を取り上げる。以下、要点をまとめる。
 1点目に、「ラ抜きことば」が生まれた理由。
① <可能>と<受け身>・<尊敬>との区別がつきやすい【明晰化】
―― 「見られる」は、『だれかに見られている』<受け身>と『見ることができる』<可能>、『ご覧になる』<尊敬>の三通りに解釈できる。<可能>と重なって都合の悪いのは<受け身>だ。「彼は年齢より上に見られる」は<可能>か<受け身>かの区別がつかない。しかしもっと困るのは<尊敬>と<可能>が混同されることだ。尊敬のつもりで「先生、見られますか」と言ったのに、可能の「見ることができるか」の意味にとられて「目上の人の能力を問うとは失礼だ」となる。<可能>で「見れる」を使うようになればこのような誤解は起こらない。
 《私見だが、この背景に『ボキャ貧』の進行があるのではないかと考える。端的な例は上記の「ご覧になる」である。青年層ではほとんど死語に近い「見る」一言の変化ですべてを片付けようとする事情も誘因ではないか。》
② 五段動詞と同じく一段動詞の<可能>の言い方が変化した【単純化】
―― 五段活用動詞とは、「書く → 書かない」のように、否定の表現をする時に『ア段+ナイ』になる動詞。この五段活用動詞が、江戸から大正期まで300年かけて新しい<可能>の表現に変化し完成する。「書かれる」が「書ける」、「読まれる」が「読める」となったわけだ。
 《言葉本来のもつ「単純化」(簡単で字数も少ない)のバイアスがかかったのであろう。》
 この変化が一段活用動詞に及んだのが、いわゆる「ラ抜きことば」である。一段活用動詞とは、「見る → 見ない・受ける → 受けない」のように、否定の表現をする時に『イ段・エ段+ナイ』になる動詞で、数は多い。これらが大正期から、五段活用動詞と同じく単純化していく。つまり、ラ抜きを始めた。中部地方から始まり、80年以上かけて少しずつ拡大した。
③ 平安時代から1000年に及ぶ日本語動詞の【活用の簡素化・単純化】
―― ラ抜きことばはその大きな流れの一部である。動詞の種類も平安時代の9種類から、5ないし3種類に減った。日本各地で、一段活用動詞がラ行五段活用動詞へと変身しつつある。例えば、一段活用動詞の「着る」がラ行五段活用動詞の「切る」と同じ活用になってきた。「切る」の命令形は「切れ」。「着る」の命令形は本来「着ろ」なのに、「着れ」になってくる。活用が同一化、単純化しているのだ。
 《言葉は常に変化を続けている。ミレニアムに亘る壮大な話だ。ラ抜きを認めるかどうか、にわかに判断はつけかねる。ラ抜きにこだわる人に、トリビアをひとつ。「ラ」抜きができるかどうかの見分け方は、「よう」が付くかどうかで分かる。「見る」は「見よう」で付けられる。付けられれば、ラ抜きできない。「走る」は「走よう」とは言えない。付けられない場合は、ラ抜きできる。「走れる」は問題ない。これは早稲田大学のある教授の説だ。》
 2点目に、簡略化の動き。ことばの省エネ発音。
 例えば、「~てしまった」 → 「~ちまった」 → 「~ちゃった」 → 「~ちった」と、これは100年かけて変化している。5拍のことばが3拍に縮まったのである。口をあまり開かず、楽な発音、省エネ発音に向かう。「見てしまった」がついには「見ちった」になった。
 さらに、ことばそのものの簡略化がある。新しい形容詞の誕生である。たとえば、「……のように」にあたる言い方が、形容詞と同じ活用をとろうとする。例えば、「みたいに」が「みたい」や「みたく」に変化する。「バカみたいに」が「バカみたい」に、「鳥みたいに」が「鳥みたく飛びたい」のように使われる。実は、「みたいに」も元々は「……見たように」の簡略化だ。「富士山見たような山」が「富士山みたいな山」に縮まった。
 その他、アクセントの平板化など論及は多面にわたる。興味深い本だ。ただ時期が早すぎた。残念なことに「イ抜きことば」については言及がない。
 
 さて、「イ抜きことば」である。これは2点目の簡略化、省エネ発音にちがいない。同じ『抜き』でも「ラ抜き」とは異なる。第一、品詞が違う。こちらは形容詞だ。ただ、品詞として名詞と動詞の中間的な性質をもつことから、1点目の③に位置づけることもできるだろう。
 形容詞には、『イ』形(赤い、高い)と『ナ』形(元気な、静かな)の二類あるが、『ナ』形にはこの変化はない。
 また、外来語を取り込む際に形容詞化することもある。代表は「ナウい」。「ナウ」は聞いたことはないが、『取って付けた』「イ」であるので、抜いても構わぬ。「セコい」「ダサい」「ヤバい」の類も、俗語の形容詞化と捉えれば「イ抜き」は可能だ。
 問題なのは、「イ」抜きをしてもなお通じる不思議さだ。問題はこれだ。これは間違いなく漢字の賜だ。「イ抜きことば」はまだ文語にまでは及んでいない。だが、口語も頭の中では漢字に置き換えて理解している。「たかっ」は前後の状況から「高」に変換されている筈だ。漢字の存在が与って力がある、といえる。
 駄洒落と笑っていただこう。 ―― ひょっとしたら、「居抜き」ではないか。あるいは、換骨奪胎の亜種か。居抜きは、『居住』を抜くこと。周りはそのままだ。住人だけが替わる。言葉の道具立てはそのままに、使う人間が替わった。その象徴ではないか。ミレニアムを遙かに超えて、ことばも変わったが人も変わった。
 だが、「イ抜き」を許さない御仁がいる。「居抜き」はイケナイと警鐘を乱打する大御所がいる。音楽界の大御所は、当然のごとく人間にも通じている。『イ抜き』は人間臭さをも抜いてしまうとのアフォリズムか。『居抜き』したとて、浮世にある限りいつまでも『人間』に変わりはないとのメタフォールか。2003年に発表された曲だ。いや、実に味わい深っ。……だめ、だめ。味わい深い!

◇◇ 人間の「い」 ◇◇   
じれったい 抱きしめたい
うしろめたい いとおしい
・ ・ ・ ・ ・ 
許せない いくじがない
信じていたい 心地よい
・ ・ ・ ・ ・
人間の「い」
僕たちの「い」
・ ・ ・ ・ ・
永遠の「い」
命がけの「い」
作詞:吉田 拓郎□
 


一枚の寫眞

2007年04月04日 | エッセー
 誰にでも、目に焼き付いて離れない場面がある。映画、テレビのワンシーンであることも、実際に遭遇した出来事や風景の場合もあろう。
 それは、一枚の報道写真であった。昭和44年1月20日付の新聞。事件が18・19の両日だったからこの日に相違なかろう。何新聞であったか、記憶にない。
 東大安田講堂事件。全共闘400人が籠城していた講堂で警視庁機動隊との攻防戦が行われ、封鎖が解かれた。機動隊は総勢8500人に及ぶ。一連の学園紛争のクライマックスであった。文字通り頂点に位置する大学の、その頂で事は決した。屋上にはためくセクトの旗。激昂し悲痛に叫ぶアジ演説。装甲車からは、乾いた抑揚のない居丈高な声が響く。機動隊の説得だ。火炎瓶と飛礫(ツブテ)が講堂の屋上から弓箭(キュウセン)のように射掛けられる。各所から炎が上がり、怒号が乱れ飛ぶ。何本もの白い弧を描いて屋上に注がれる放水。上空からもヘリが滝のように催涙液を混ぜた水を落とす。休みなく放たれる催涙弾。立ちのぼる白煙。やがて機動隊の突入。頑丈なバリケードを崩しながら屋上へと迫る。攻防は終局を迎える。ジュラルミンの楯が鈍く光る。最後まで籠城した学生は約90名。本郷のキャンパスはさながら戦場と化した。逮捕者371人。重軽傷者は100人を超えた。
 スチューデントパワーによる既成秩序への異義申し立てだ、という見方。青二才の革命ごっこだ、という捉え方。両論はあったものの、日本中の耳目が集中した。テレビ局はこぞって延々と中継した。ぼくもテレビの前を離れることはなかった。喧噪が去ったキャンパスには、「止めてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている、男東大どこへ行く」と書かれた立て看が残された……。
 その後、学生運動はドグマに絡め取られ、陰惨、凶悪を窮める。内ゲバの愁嘆場を繰り返し、大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件、さらにあさま山荘事件などの連合赤軍事件へと歪(イビツ)な跛行を続ける。振り返れば、分水嶺はやはり安田講堂であった。そこまでは「正気」といえる。少なくとも「狂気」ではなかった。

 『寫眞』は安田講堂の攻防戦を伝えるものだった。何枚かの中のとりわけ大きな一枚だった。
 女子学生。60年安保に殉じた樺美智子の名が浮かぶ。上半身のアップだ。佐良直美に似たその顔はくすみ憔悴している。少しばかり阿弥陀被りになったヘルメットには角張った字体で「全共闘」と書いてある。マスク替わりであろう、あご紐を通した手拭が垂れ下がっている。両脇から機動隊員が腕を捕らえている。手は見えないが、おそらく縄目の恥辱を受けているにちがいない……。
 悔悟だったのだろうか。挫折か、虚脱か、敗北か。推し量りがたい強い感情が彼女の顔を隈取っていた。ぼくは身震いした。トップエリートの道を捨てるかもしれないその闘争に、彼女を駆り立てたものに畏怖した。写っていない縄目に痛哭した。権力の専横をただ純粋に呪った。そして時代を共有していることに感動した。時代が大きな渦を巻いていたことは間違いない。彼女が渦の目にいたとすると、ぼくは何巻も外周の縁に(フチ)いたことになる。だが、同じ渦の中だった。渦は日本をすっぽりと覆っていたのだ。

 山本義隆 ―― 東大全共闘議長。当時28歳。学籍を東大博士課程におきながら、京都大学の湯川秀樹研究室で素粒子物理学を専攻する選り抜きの頭脳だった。「将来のノーベル賞学者」の輿望を担う逸材だった。団塊の世代の多くにとって、『英雄』とも呼ぶべき存在だった。
 養老孟司 ―― 東大医学部助手。当時32歳。山本とは四つ違い。闘争の只中で研究を蹂躙され、矢面に立って全共闘と対峙する。
 東大闘争は医学部が発火点となった。当然のように、彼らは不倶戴天の敵となる。東大を去り曲折の後、山本は予備校講師に転身する。養老は東大で学究の道を歩みつつ、山本たちへのアンチテーゼを模索し、独自の思想を構築していく。二人にとっても、安田講堂は分水嶺となった。
 2003年3月。皮肉というべきか、因縁というべきか。二人は再び対峙する。養老は「大佛次郎賞」の選考委員として。山本は自著「重力と磁力の発見」を引っ提げて。同著は、「世界的な水準に達したオリジナルな業績。学問世界への挑戦であり、日本の知識人層に大きなインパクトを与えうるもの」との評価を得て、みごと同賞を受賞する。かつてのヒーロー・山本義隆の名が久方ぶりに日本列島を走った。
 養老は授賞に異存はないとしつつも、「選評を拒否する」というコメントを発表。苦渋の選択であったことを言外に示した。超ベストセラーとなった「バカの壁」はこの翌月に発刊される。知の角逐である。養老にとって東大闘争は未だ終焉してはいなかった。

 先日、浅田次郎著「活動寫眞の女」を読んだ。小説というものの面白さに、改めて唸った。やはりこの作家は、紛うかたなき凄腕のストーリーテラーだ。
 舞台は昭和44年の京都である。東大の入試が流れ、やむなく京大へ進んだ主人公。「映画少年」の彼と、負けず劣らず活動寫眞に魅入られた同学の友人。哲学部に学ぶ同窓の恋人。そしてもうひとりの主人公「活動寫眞の女」。絶世の美女でありながら、銀幕の夢叶わず不遇のうちに自死する。身を切り裂くほどの怨念と執念は人形(ひとがた)の霊となって二十数年後の京都に出現する。亡霊は著者の十八番(オハコ)だが、映画というこの世ならぬ虚構の世界がそれに絶妙の存在感を醸す。
 多弁ではないにせよ、当然、時代の書き割りとして学生運動が語られる。いくつか拾ってみよう。

 ―― 学生運動に対して反撥的であった僕。 
 安田講堂籠城のとき、様子のいい母親たちが大挙して校内に入り、泣きながら籠城中の親不孝者たちに呼びかけているという、奇妙なニュース映像が世間を騒がせた。よその大学ではそんな話は聞いたことがない。
 豊かさに向かっての最後の脱皮を図ろうとするその当時の社会は、あらゆる価値観がくつがえされていた。考えても仕方のないことだらけだった。
 僕がノンポリを決めこんでいた理由もつまりはそれだ。 ――
        
 主人公の見解であるとともに往時の著者を代弁してもいるのだろう。『渦』を避け距離を置いた学生たちも少なくはなかった。否、それが多数派だったかもしれない。どちらにせよぼくらは、時代が滾(タギ)るその只中にいた。確実に、いた。昭和44年は、ぼくにとっても分水嶺となった。
 
 ストーリーテラーにふたたびの乾杯を捧げつつ、あの頃を偲んだ。□


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絶筆 宣言

2007年04月01日 | エッセー
 このブログは先日、一年を超えた。これを汐(シオ)に断乎、筆を折る。御愛読いただいてきた皆さまに、衷心より御礼申し上げたい。このような駄文にお付き合いいただき、感謝の言葉もない。ないから、言わない。
 言い訳がましいが、最大の理由はネタ切れである。なにせ、もともと少ない蓄えだ。小出しに使ってはきたが、一年を過ぎ、ついに底を払ってしまった。この最終回で、引き出しにはもうなにも残っていない。

 浅田次郎御大の、忘れられない言葉がある。「小説家は唯一ウソをつくことを許された職業である」 ―― なんと言い得て妙。快刀乱麻、一刀両断、一句万了の名言、格言、箴言、金言ではないか。
 ところで、なぜ『小』説と呼ぶのだろう。数巻におよぶ長編であっても、『小』説である。『大説』ではない。あくまでも『小説』と呼ぶ。
 古い話だが、むかし観た映画「無法松の一生」のワンシーン。小説家志望の青年を励まして無法松がこう言う。「坊、小説ではなか。大説ば書きんしゃい」たぶん、このようなことを言った。あれ以来、気になっていた。
 調べてみると ―― 明治の大文豪・坪内逍遥が「novel」を訳すにあたり、漢籍から引っ張った。漢書芸文志に次のようにある。「小説家者流、蓋出於稗官、街談巷語、道聴塗説者之所造也」。四捨五入して言うと、稗史(ハイシ)、つまり公の正史ではなく巷間の種々雑多な話のことである。街中(マチナカ)の出来事や瑣末な事件、井戸端会議、四方山話、噂話から奇譚、怪談、猥談(これは筆者の類推だが)の類いまで、民間に材を取った書き物である。だから、『小』は公の「大」に対するものだろう。「民」に近いニュアンスであろうか。内容も形式も公の縛りを受けない。
 韻を踏まずともよい。語り手がいて物語るというスタイルは要らない。形式自由。作り手が事実を脚色するもよし、想像力逞しく話を拵(コシラ)えるもよし。実に、なんでもありなのだ。この辺りの事情を「ウソをつく」と、一言で分かりやすく、かつドギツく表出した御大の眼力はさすがというほかない。ということは、小説家にとっては1年365日、毎日がエイプリル・フールなのか。羨ましくも、まことに因果な商売だ。後生がよかろう筈はない。しかし読者をしてこの世ならぬ境涯に遊ばしめるのだから、差次(サシツギ)は合うのかもしれぬ。

 そこで、エイプリル・フール ―― むかし、むかし、日本では戦国時代のころだ。フランスの王様が1年の始まりを1月1日に変えた。それまでは、3月25日が新年だった。4月1日までが春の祭り。永く続いた慣習だった。おそらく農作業の流れに由来したものだったろう。王様はそれを無視した。民衆は反発し、4月1日を「嘘の新年」として、腹立ち紛れのどんちゃん騒ぎを始めた。ダダイズムにダダ(駄々)をこねたのだ。(駄洒落。失礼、大変失礼!) 逆ギレした王様は騒いだ連中を根こそぎひっ捕らえ、処刑してしまった。「四月バカ」という冗談めかした呼び名とは逆に、由来は相当に陰惨で血なまぐさい。
 「嘘の嘘の新年」つまり、嘘をついては『いけない』エイプリル・フールもあったらしい。これは月に数百万円のスゲー水道代をお支払いになる、どこかのデージンに打って付けだ。
 毎年この日は、世界中でウソが飛び交う。昨年、『2ちゃんねる』に掲載された「エイプリルフール中止のお知らせ」はなかなか洒落が利いていた。「宇宙人が攻めてきた」というのも、かつてあった。今年はどうだろう。出色のウソを期待したい。
 たとえば、「浅田次郎、ノーベル文学賞決定!」……。続けて、「因果応報か、三島由紀夫の亡霊に諌止され辞退!」なんてのはどうだろう。あるいは、「小泉元首相、政界引退を表明。日本郵政株式会社の社長に転身。郵政改革の総仕上げに旗を振る決意。特に『誤配の根絶』に総力」てのはいかがか。ありそうで、面白くないか。
 ええーい、もう一つ。「今日、安倍総理、靖国神社参拝。塩崎官房長官、『これはエイプリル・フールだ!』と必死に火消し」……。「中韓は真意を測りかね、静観。北朝鮮は宣戦布告と捉え、靖国を狙いテポドン発射。しかし目標を外れ、沖ノ鳥島に着弾。同島は完全に消滅。石原都知事、皇居前広場で切腹を図るも、投票日まで待つとドタキャン?!」こっちの方がいいか。
 年に一度の「どんちゃん騒ぎ」。平和ニッポン、処刑される心配はない。大いに愉しもうではないか。今日ばかりは小説家ならずともウソがつける。(蛇足ながら、沖ノ鳥島は東京都に属す)

 さて、この『最終稿』、いつものようにPCで書いている。筆は細かいものの掃除以外には用がないので、なくなっても支障はなさそうだ。□


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