~~「思想なんてものはない」。これは思想におけるゼロの発見である。ゼロには、二つの意味がある。一つは、数字としてのゼロである。マイナス1、ゼロ、プラス1、プラス2と数字を並べていくとき、ゼロは「数字のなかの一つの数字」に過ぎない。他方、ゼロという数を一つ取り出し、その意味だけを考えるなら、それは「とりあえずそこには数がない」ことをも意味している。「思想なんてものはない」つまり「無思想という思想」は、その意味でこのゼロに等しい。これ自体が一つの思想であるとともに、「とりあえずそこに思想はない」ということを、同時に意味しているからである。これが矛盾でもなんでもないことは、数字のゼロが証明している。それはむしろ数学をはるかに豊かにした。日本の無思想も無宗教も無哲学も、決してニヒリズムではない。数字のゼロだと思えばいい。そこから思想の大きな可能性が開けるはずである。~~(養老孟司著 ちくま新書「無思想の発見」から)
無思想を「ゼロ」の両義性になぞらえるとは、実に巧みだ。しかし思想なしでは社会が成り立たぬ。では、思想を代替するものは何か。それが「世間」だと養老氏はいう。
~~「世間と思想は補完的だ」という結論が得られる。それなら世間の役割が大きくなるほど、思想の役割は小さくなるはずである。同じ世間のなかでは、頭の中で世間が大きい人ほど「現実的」であり、思想が大きい人ほど、「思想的」なのである。ふつう「現実と思想は対立する」と思ってしまうのは、両者が補完的だと思っていないからである。これは思考には始終起こることである。男女を対立概念と思うから、極端なフェミニズムが生まれる。男女は対立ではなく、両者を合わせて人間である。同じように、ウチとソトを合わせて世界であり、「ある」と「ない」を合わせて存在である。基本的な語彙で、一見反対の意味を持つものは、じつは補完的なのである。異なる社会では、世間と思想の役割の大きさもそれぞれ異なる。世間が大きく、思想が小さいのが日本である。逆に偉大な思想が生まれる社会は、日本に比べて、よくいえば「世間の役割が小さい」、悪くいえば「世間の出来が悪い」のである。「自由、平等、博愛」などと大声でいわなければならないのは、そういうものが「その世間の日常になかった」からに決まっているではないか。それを「欧米には立派な思想があるが、日本にはない」と思うのは勝手だが、おかげで自虐的になってしまうのである。~~(「無思想の発見」から)
「世間の出来が悪い」とは、当意即妙ではないか。いかにも養老節だ。わたしなど、シビれてしまう。それはともかく、さらに ――
~~階層構造でいうなら、至高の神ではなく、最低の地面に位置する人間を信じる。それが世間教というものであろう。山本七平はそれを日本教と呼んだ。~~(「無思想の発見」から)
ところが ――
~~その和魂、すなわち世間が危うい。明治にそうであったほどには、世間はもはやしっかりしてはいない。「思想というものがない」社会で「世間という現実」が危うくなれば、すべては崩壊に近づくしかない。~~(「無思想の発見」から)
と、危機意識が語られる。
この危機意識は、いままで様々に語られてきた。日本人像が危機の処方箋として俎上に挙がった。日本人の祖型をどこに求めるか。司馬遼太郎は「明治」を志向した。三島由紀夫はさらに遡及して、「武士道」に。藤原正彦氏も同じくだ。ところがここに来て、新手が現れた。同じ江戸でも「最低の地面に位置する人間」に視座を置く、「世間教」である。つまりは、江戸町方、庶民の目線である。大坂と違い、江戸は武士の町。武士道の町方への投影といえなくもない。
NHKの「お江戸でござる」。この番組が先鞭をつけたのかどうか、『江戸しぐさ』がブームである。
中心者は、越川禮子女史。八十を過ぎてなお矍鑠たる気品漂う老媼である。「江戸しぐさ語りべの会」を主宰する。社長として市場調査会社を切り盛りし、年に百回を越える講演をこなす。著書も数多い。アメリカの老人問題を扱った著作で顕彰もされた。正真正銘、キャリアウーマンの鑑である。
江戸しぐさ ―― わたしは単なる処世訓として、はじめは等閑視していた。しかし食わず嫌いは損をする。
~~明治維新で薩長によって壊されてしまったといわれる江戸しぐさは、もはや原形をとどめていません。わずかに、伝え聞いた話をこうして残しているのみです。百万都市の江戸と一千万都市の東京を比べられませんが、もし江戸しぐさが、東京しぐさとして残されていたら、もっともっと住みよい町になっていたことと思っています。思いやりのあふれる町、東京があったかもしれません。~~(越川禮子著 日本文芸社「野暮な人 イキな人」から。以下、引用はすべて同書)
この一文に接した時、これも「危機」へのひとつの解答ではないか、と感じ入ってしまったのだ。「薩長によって壊されてしまった」とは、いかにも「江戸っ子」の言い分である。維新回天の時代の動きではなく、『薩長』のせいにしてしまうところが、なんとも江戸っ子老媼然としているではないか。愛おしくさえなってくる。
~~江戸しぐさとは「戸商人たちの商売繁盛のための知恵であり、商家の主人といった上に立つ者の哲学、行動学でした。そしてそれは、過密都市・江戸で争いごともなく共に生き抜くため、町方のリーダーたちが考え、率先して実行してきた「知恵」といえます。~~
江戸しぐさでは価値は二手に両断される。すなわち、イキか野暮か。実に明快だ。
「イキ」(粋)とは、「意気」から転じたらしい。言動が颯爽とし、あか抜けして、かつ艶がある。また、人情の機微に通じていることも含む。「野暮」とはその反対だ。野夫(田舎者)が転じたらしい。無風流で、不粋。世情にも人情にも疎い。野暮天ともいう。ともかくも、あか抜けがしていない。当然、野暮を忌み嫌う。潔く、美しくあれと振る舞った『武士道の町方への投影』であろうか。
江戸しぐさとは、「世間教」の集大成である。三百年をかけて吟味熟成された江戸庶民の、極上の「和魂」である。
以下、いくつかを紹介したい。(上掲書より引用)ただし、これは極々一部にすぎない。志あるお方は是非、著作に当たっていただきたい。また、WEBでも様々に公開されている。この際だ。平成の世に別れを告げて、『お江戸でござる』といきますか。
【口約束】
江戸の商人の場合、文書にするよりも「口約束」を重視しました。お互いの言葉で約束をする ―― この言葉を忠実に守ったわけです。たとえどんな些細なことでも、口約束したことは守りました。現代では、口約束というと、ちょっと危ない約束のように受け取られそうですが、江戸の商人の間では絶対の約束でした。江戸の商人たちは、信用こそ商売の基本と考えていましたから、口約束をしたとき、最後にこうつけ加えたといいます。「死んだらごめん」 約束したことは絶対に守ります、でも、死んでしまったら、そのときはごめんなさい、約束は果たせません ―― つまり、生きている限り必ず約束は守りますという、強烈な決意表明でした。
言葉は単なる「言の葉」ではなく、「事(行為、行動)」と同じ重みを持つとしていたのです。口から出たものは自分の行為・行動と同じと考えていたからです。
江戸しぐさでは言葉を大事にしていました。きちんとした言葉は江戸しぐさの基本で、言葉が乱れれば生活も乱れてくるとばかり、言葉には注意を払いました。
【三脱の教え】
江戸しぐさには「三脱の教え」というのがありました。親しくなるまでは相手の年齢・職業・地位の三つを聞かない、触れてはいけないというルールです。そのようなものに惑わされず、自分の目で人を見、平等のおつき合いをしましょうという考え方です。
大人なら見てわかる当たり前のこと(体の特徴や外面の状態など)は言わない ―― 江戸しぐさのなかで、野暮の骨頂というものがあります。それは、「見てわかることを言う」ということです。一目瞭然のことを口に出すというのは、当たり前のことしか喋ることのできない野暮な人。その前に、気を働かせることです。
人を評価するとき、「ろくのきく人だ」と言ったりしました。この「ろく」とは、「六感」のことです。六感を駆使してある事象を瞬間的につかみ取る、いわば「直感」です。「ピーンときた」などといまでも言いますが、それが六感です。
【忙しいは禁句】
江戸商人の問では、「忙しい」という言葉は禁句だったといいます。「忙」の漢字を分解すると、「りっしんべん」に「なくす」となります。つまり、「心がない」こと、江戸っ子は心を大変大事にしていましたから、心をなくすというのは、それはすなわち人ではない、単なる木偶の坊だ、ということになってしまいます。ですから、忙しいという言葉は使わずに「ご多用」「書き入れどき」という言葉を使いました。
【ご存じと思いますが】
江戸の話し方のルールのひとつに、最初に必ず「ご存じと思いますが」とつけるとあります。相手が知らないかもしれないと思っても、この言葉から会話を始めるのです。そして会話の最中に相手が、「それは初耳です」と合いの手を入れれば、この人は知らなかったのだ、では、どんなことを聞かれても丁寧に話そうと思ったといいます。
【戸締め言葉】
「でも」「だって」「しかし」「そうは言っても」という言葉は、江戸しぐさでは「戸締め言葉」といいます。戸を締めて中に入れない ―― つまり、人の話を聞かない、無視するような言葉。相手の言葉を止めてしまう戸締め言葉は、自分中心の心の表れで、謙虚さに欠けるとして嫌われました。何を言っても、人の話を止めてしまう、まったく野暮な言葉だったのです。
【しつけ】
五歳までは手取り足取り親が面倒を見ますが、それを過ぎると、自立心、自主性を養うために、一方的に教えたりはしなかったのです六歳になると寺子屋や講に通うことになり、そこで、子どもたちが自主的に、師匠や親兄弟、姉妹、世間を見習い、見取る(見て自分のものにする)ように仕向けたのです。見習い生とか見取り図などという言葉は、江戸のしつけ言葉のなごりなのです。九歳で大人同様の挨拶ができたそうです。
【さしのべしぐさ】
道を歩いていると、前の人が倒れました。さあ、あなたなら、どうしますか? 急いで近寄り、助け起こす。でも、江戸しぐさでは違いました。こんなときは、すぐには手を貸しません。少し様子をうかがうのです。見て見ぬふりをします。ひとつには、助け起こすことによって相手の自尊心に傷がつかないかどうか、もうひとつは、その人の自主性にまかせるべきという考え方このふたつが、見て見ぬふりをさせるのです。そして、その人が本当に立ち上がれないとわかって初めて、手をさしのべるのです。これを江戸しぐさでは「さしのべしぐさ」といいました。
【おすそ分けすべからず】
べからず集のなかに、「江戸商人は、おすそ分けすべからず」とあります。これだけを読むと、江戸商人はケチなのか、と思いがちですが、そうではありません。いろいろな祝い事などで料理をつくりますが、全員に行き渡ってもなお残りがでるようではまずい、ということをいっているのです。
【夜明けの行灯】
江戸では明るく、陽気なタイプの人たちが好かれました。人づき合いでも、周囲の人たちを不愉快にさせないことが大事でした。このような楽天的な考え方は、「夜明けの行灯」という江戸しぐさにも表れています。夫婦や親子の問でいさかいが起こったら、決定的にならないよう、その手前でやめ、その場ですぐに結論を出さないようにします。しばらく時間をおこうというわけです。これを「夜明けの行灯」といいます。夜明けの行灯は、外も明るくなり、あってもなくてもいい物。でも、また夜になれば必要です。感情にまかせてその場で大きな亀裂をつくるのは、夜明けの行灯のごとく不要といっているのと同じ。でも、また必要になる、だから冷静になるまで待ちなさい、感情的になって必要なものを不要にしてはいけない、という教えなのです
【ほほえみ】
渡辺京二氏の『逝きし世の面影』によれば、幕末や明治の初めに来日した外国人たちは、日本人たちのほほえみに感動したといいます。それはお追従ではなく、貧しくともハッピーだと感じさせるほほえみだったからだそうです。ほんとうに美しい民族だと言っていたそうです。もはやそれは、逝きし世の面影なのでしょうか。□
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