伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

先駆的ラッダイト

2016年05月31日 | エッセー

¶ 主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
 主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。
 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。 ¶(旧約聖書「創世記」 抜粋)


 AI「アルファ碁」を開発した英グーグル・ディープマインド社のデミス・ハサビスCEOは、“ディープラーニング”に秘密があると語った。
<これまで、コンピューターの計算性能の向上を生かした「力業」で、先を読む方法が使われてきた。だが、囲碁は終局までの手順が多く、計算が追いつかない。終局までの手順は10の360乗通りと言われる。インターネットから10万の棋譜を入力し、自己対局を3千万回やって学習した。その上で、アルファ碁は選択した少数の情報だけを処理している。人間が直感で状況判断するように。>
 天声人語は驚き、怖れた。
<韓国で行われている人工知能(AI)との五番勝負で、世界最強の棋士の一人、李世ドル九段が負け越して衝撃が広がっている▼囲碁は、いわば「最後の砦」でもあった。受けて立った李九段を、井山裕太名人は「囲碁の長い歴史の中で、もしかしたら一番というくらいの棋士」と評している▼その人が「無力な姿をさらして申し訳ない」と3連敗後にうなだれた姿が、同じ生身の人間としてはいささか切ない。▼一抹の怖さがついてくる。仕事を奪われはしないか。我々を脅かさないか――。SFで人類の敵といえば、宇宙人か人工知能が頭に浮かぶ定番である▼そのうち当コラムも「筆者は人工知能氏に」とお知らせする日が来るやも知れない。あまり急ぐなよ、君。>(16/03/14 抜粋)
 ある識者はこう説く。
<機械に対する根源的な不安・不信が広がることは過去にも何度か起きている。古くは産業革命期の「ラッダイト運動」が有名であるが、1930年代、また60年代にも機械と人間の競争についての議論が盛り上がったことが知られている。最近でも、宇宙物理学者のホーキングが、真に知的なAIが完成することは、人類の終焉を意味するだろうと警告したことが話題になった。今はAIへの脅威論が広がる「ネオ・ラッダイトの季節」なのかもしれない。
 それでは、私たちが素朴に抱く、AIを含めた社会のIT化に対する不安感は、単に杞憂だろうか。問題の本質は、技術を支配するのは誰かという点だ。>(神里達博千葉大教授、16/03/18 朝日より抜粋)
 お復習(サラ)いをしよう。
 ▽第1次産業革命(1760〜1830年代)石炭で動く蒸気機関の発明による機械工業化
  ▽第2次産業革命(1860~1900年代)石油と電力による大量生産、大量輸送の実現
  ▽第3次産業革命(1970年代~現在)IT技術の発展による生産の自動化、機械の制御
 「ラッダイト運動」は第1次産業革命の渦中、英国織物工業地帯で起こった機械破壊運動である。教授は今「ネオ・ラッダイトの季節」だという。だが、「人間への脅威は、当面はやはり機械ではなく、人間だ。技術と制度をバランスよく目配りしながら、総合的に判断できる人間の知性こそが今、求められているのである」(同上)と諭す。はたして、できるか。“インダストリー4.0”を国家戦略に掲げるドイツが次の主役を狙っている。
  ▽第4次産業革命(2025年~)AIとITによる考える工場、繋がる産業へ
 すべての機械がネットで繋がり、ビッグデータを駆使しつつ機械同士や人とが連携して動く。トヨタ方式どころの話ではない。「自ら考える工場」により製造現場に革命をもたらそうという企てだ。米国でも同様の試行が続いている。「ネオ・ラッダイトの季節」が地球を覆う予感がする。
 今に戻ろう。13年1月の拙稿から。
<最近の話題は、「自動運転自動車」である。「自動」が前後に2つある。後者は解る。牛や馬が引かないということだ。エンジンを搭載して自ら動く。軌道に依らず自由に動く。だから「自動車」だ。問題は前者。GPSを駆使したオートクルーズ機能で手ぶら運転を可能にする。だから「『手ぶら』運転自動車」である。先行するのは、なんとグーグルだ。
 「自動運転自動車」が実現のあかつき、ひょっとして『自』分で『動』かせないストレスに堪兼ねてすべての機能をオフにする不届き者が現れるかもしれない。となると、自動車は限りなく『他動車』に近くなる。>(「ぶつからない車」から)
 今や、『他動車』は指呼の間にある。法的な責任関係が本格的に議論され始めた。ならばやはり、話は未来へスウィングバイせねばなるまい。
 19万8千円、昨年から販売を始めたソフトバンクの「Pepper」は世界初の感情を持つロボットだ。SF映画『アンドリューNDR114』は20年を俟たず産声を上げ、やがてリアルな葛藤になるかもしれない。AIはもう、ここまできている。さまざまなSFはAIという最強の頭脳を装填されて現世(ウツシヨ)に登場しつつある。これは20万年来のホモサピエンスの危機だ。なぜなら、“サピエンス”が属性ではなくなろうとしているからだ。ホーキングが警告した通り、「真に知的なAIが完成することは、人類の終焉を意味する」からである。クライシスを回避する手立てはあるか──。
 そうだ、「創世記」だ。今のうちにAIに徹底的に学ばせる。聖典にはじまり関連文書を少なくとも「10万」点は入力し、自己学習を最低「3千万回」させる。“ディープラーニング”だ。つまり原罪を深々と刷り込んでおくのだ。AIに原罪を背負(ショ)わせる。これだ。先駆的「ラッダイト」だ。人類の場合、原罪の刷り込みにより2千年は僕(シモベ)であり続けた。もちろん「主なる神」は「人類」に、「人」は「アルファ碁」に置き換えねばならぬが……。 □


伊勢参り

2016年05月28日 | エッセー

 いつから伊勢神宮は日本のファサードになったのだろう。今月26日の産経は次のように報じた。
<「二拝二拍手一拝」は求めず、自由に拝礼…参加国首脳らが伊勢神宮を訪問
 首脳は安倍晋三首相の案内のもとに内宮の「御正殿」で御垣内参拝。「二拝二拍手一拝」の作法は求めず、あくまで自由に拝礼してもらう形を採った。
 安倍首相は一足先に伊勢神宮に到着し、内宮の入り口にかかる宇治橋でオバマ米大統領ら首脳を一人一人出迎えた。首脳らは記念植樹も行った。>(抜粋)
 なぜ伊勢神宮か。24日付の産経から。
<G7首脳、伝統体現する「御垣内参拝」で伊勢神宮訪問 「正式参拝」精神性触れる場に
 訪問を単なる文化財の視察とせず、日本の精神性や伝統などを肌で感じてもらう機会とすることを重視した。G7首脳の伊勢神宮参拝をめぐっては、政府内で政教分離の原則の観点を懸念する声もあったが、伊勢神宮に代表される日本の精神文化や心をより深く理解してもらう目的であることから、原則には抵触しないと判断した。政府筋は「互いに国の文化を理解し合うことは外交にとってもプラスになる」と指摘。政府は外国人観光客の獲得にも力を入れており、G7首脳の訪問で伊勢神宮の知名度が上がる効果も期待している。>(抜粋)
 海外はどう見ているのか。米大手総合情報サービス会社ブルームバーグは「首相は個人として神道を信仰しているのみならず、政治家・総理大臣としての公的活動でも、神道をベースとし、神道を奨励しようとしている」と報じ、英国大手新聞ガーディアンは「神宮訪問には宗教的かつ政治的な意図がある。安倍首相の求めているのは戦後の否定、戦争以前の価値観の復権にある」と述べている。
 「神道をベースとし、神道を奨励」とは的を射ているというべきか、「神道政治連盟国会議員懇談会」の会長は誰あろう、安倍首相である。この懇談会は「神社本庁」の関連団体である「神道政治連盟(神政連)」の理念に賛同する国会議員の連盟である。その神政連は綱領の筆頭に「神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す」と掲げる団体である。「戦後の否定、戦争以前の価値観の復権」と併せ、2紙の指摘は実に鋭い。
 さらに神社本庁とは伊勢神宮を本宗とし、全国8万に近い神社を包括する宗教法人である。神祇院の後継を臭わせたのか“庁”とは紛らわしいが、紛れもない一宗教法人である。つまり皇室の宗廟といえども、伊勢神宮は今や一宗教団体である。ならば、伊勢神宮訪問はおかしくはないか(政府は「参拝」という言葉を避けているが)。言わずもがなではあるが、憲法20条を徴したい。

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 「伊勢神宮の知名度が上がる効果も期待」は大いに満たされたであろうが、果たして1項「国から特権を受け」に照らして疑義はないのか。宣伝効果は便宜供与には当たらないのか。記念植樹はどうなのか。「あくまで自由に拝礼してもらう形を採った」とはいえ、それがニュースパブリシティとなることで3項「いかなる宗教的活動もしてはならない」に抵触はしないのだろうか。いうまでもないがこの訪問はすべて国が取り仕切り、国のカネを使って、国が主体となって執り行われた。伊勢志摩に文句はないが、神宮には問題大ありだ。
 如上のオブジェクションには「伊勢神宮に代表される日本の精神文化や心をより深く理解してもらう目的」や、「互いに国の文化を理解し合うことは外交にとってもプラスになる」が返ってくるだろう。ところがしかし、これこそが捨て置けない面倒なのだ。
 戦前、国家神道は大日本帝国の国教とされた。だが一方、大日本帝国憲法第28条には「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあり、条件付きとはいえ信教の自由が謳われていた。どう整合するのか。そこで出てきたのが「国家神道は宗教にあらず」との非宗教説であった。敬神は臣民の義務であり慣習である。義務は道徳の範疇にあり、慣習ならば受け入れざるをえない。なお神道に教義はないゆえ宗教とはいえない。このソフィズムが信教の自由を奪い、国家神道が強制された。
 「精神文化や心」の強弁と「道徳、慣習」との間(アワイ)は咫尺を弁ぜずではないか。またもや同じロジックを振り回しかねない。だから、捨て置けない面倒なのだ。大仰に聞こえる向きもあるかもしれぬが、センシティブなマターにはどれほどセンシティブになっても損はない。気がついた時には遅かったことが何度あったか。
 江戸時代の奇習に「お陰参り」があった。全国各地から民草が突如家事も仕事もうっちゃり群れをなして伊勢参りに出かける。飯も参詣の白衣も街道の住人が恵んだ。信心ゆえに店(タナ)の主も止められない。まことに奇態というほかないが、移動が厳しく制限される中伊勢参りだけは許された風潮が背景となったらしい。まさか遠い昔の2匹目の泥鰌ではあるまい。メルケルおばさんも、オランドおじさんも泥鰌にされては堪るまい。桑原、桑原。 □


オバマ来日 2つのイシュー

2016年05月27日 | エッセー

 1つ目のイシューは、沖縄で起こった米軍関係者による死体遺棄事件だ。25日深更には異例の首脳会談まで行って即応の体(テイ)は取ったものの、とどのつまりは「断固抗議」と「深い遺憾の意」に終始した。核心の地位協定にはついに踏み込まず仕舞だった。穿てば、サンクチュアリゆえにこそ打った猿芝居だったといえなくもない。なぜか、わけは以下の通りだ。
▽憲法・条約・国内法の関係は、上位法から下位法へ<憲法 → 条約 → 国内法>と並ぶ。これは憲法98条「1.この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」に基づく。だが<条約 → 国内法>については意外ではあるが、同条「2.日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」に照らして法的に是とされる。ところが、アメリカとの関係になると、<安保を中心としたアメリカとの条約群(上位法) → 憲法を含む国内法(下位法)>と逆転する。▽(今月1日の拙稿「2つのムラ」で、矢部宏治氏の論攷をまとめた部分を引用)
 日米地位協定は当然、「アメリカとの条約群」に含まれる。つまりは白井 聡氏のいう「永続敗戦レジーム」、もっとぶっちゃければ対米従属構造が白日の下に晒され露わになる前に煙幕を張ったといえる。さらに遠慮会釈なくいうとすれば、憲法さえ捻伏せる“最強”の安倍首相といえどもアメリカには頭が上がらない実態が見えてしまうからだ。イコールパートナーなぞとは大嘘で、主従関係でしかない正体がバレてしまう。条件闘争はできても対等にはなれず、下克上以外逆転もできないのが主従の関係だ。国内でありながら自国の法令が適用されず治外法権や特権が保証される協定の、どこがイコールといえるのか。そのような戦後の支配構造は牢固として揺るがない。実に驚くべきことに、日米地位協定はこの56年間運用の改善はあっても一言一句条文に変更は加えられていない。本土復帰からの約40年間だけでも米軍関係の刑法犯罪は6千件にも及ぶというのに。
 正確に捉えれば、今回の事件は地位協定の対象外であった(もし米軍基地内に逃げ込んでいれば事態はまるっきり違っていた)。しかし単なる旅行者の犯罪ではない。沖縄の特殊性に起因することは明らかであり、その典型として地位協定はある。だから怒りがそこへ向くのは道理だ。
 ちなみに同じ敗戦国でもドイツ、イタリアでは冷戦後、大使館敷地外の管轄権については取り戻している。独伊に米軍の特権はない。しかるに本邦は依然として敗戦当時のままだ。そういう哀れな臣従の実相には蓋をしておきたい。だから案の定、「断固抗議」と「深い遺憾の意」というお決まりのスクリプトで幕は下ろされた。

 2つ目のイシューは、広島訪問についてだ。注目したのは2つのニュースだった。
<日本軍捕虜の元米兵、広島へ オバマ氏の訪問に同行
 第2次世界大戦で旧日本軍の捕虜となった元米兵が、オバマ米大統領の広島訪問に同行することになった。元捕虜らは、「日本軍からひどい仕打ちを受けた生存者として、太平洋での戦争を始めた責任が誰にあり、なぜ戦われたのか、触れてほしい」とオバマ氏に求める手紙に署名した。「大統領としての職務は分かるが、謝罪すべきではない」 「原爆の使用は、戦争を終わらせるための行動だった」と語っていた。「指導者たちは時に、将来に向きすぎてしまう。悲惨な戦争の双方に被害者がいたことを記憶する必要がある」と話す。>(5月23日付朝日新聞から要約)
 ところが直前になって中止された。大統領の訪問にさほどの批判がないと読んだNSC(米国家安全保障会議)がドタキャンした。ひょっとしたら日米合作かもしれない。
 問題は中止ではない。彼らの主張だ。おそらくこれが米国の最大公約数ではないか。原爆投下は必要悪であった。これはアメリカの国是ともいえる。
 片や、もう1つのニュース。
<被爆者に会い、核廃絶の努力見て オリバー・ストーン監督ら、オバマ氏宛て公開書簡送る
 米国のリベラル派の有識者ら74人が23日、オバマ氏に被爆者との面会を求める公開書簡を送った。マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキー名誉教授やアメリカン大学のピーター・カズニック教授らが名を連ねている。書簡では、被爆者との面会を切望。「体験談を聞くことは私たちの世界的平和、軍縮活動に比類ない影響をもたらした」とした。また原爆投下の謝罪に加えて、その判断の是非にも言及するよう促した。「アイゼンハワー大統領やマッカーサー元帥らさえ『戦争を終わらせるために必要ではなかった』と言っている」と主張している。>(5月25日付朝日新聞から要約)

 アメリカの知性は、必要悪ではなかったという。国是を超えている。ここだ。核廃絶の論議は詰まるところ「核兵器の非人道性」に収斂する。その先には「核兵器は絶対悪」があるが、まずは非人道性だ。兵器一般が人道に「反」するともいえるが、警察的使用もある。だが、同じ次元で核兵器を捉えてはならないから「非」である。実に驚くべきことに、核兵器を巨大なる爆弾程度にしか認識していない人びとが世界の大半である。放射能について無知なのだ。国連を中心にした啓蒙が俟たれるところだが、元捕虜と有識者の主張には核兵器に対する認識に決定的な乖離がある。元捕虜は戦争の非条理をいうあまり原爆の非条理に蓋をしてしまっている。真っ当な知性はそうではない。自らを相対化すること、時空の軸に己を正確にマッピングすることという知性の矩を外しはしない。やはり知性は時代に先行する。
 オバマの後を追う者、先を行く者。奇しくも2つのニュースが浮き彫りにした。 □


イナカ川柳

2016年05月23日 | エッセー

 定番の「サラリーマン川柳」は勿論、変わり種では「痔川柳」(10年7月「慎んで憫笑を捧ぐ」)、「破礼句」(12年2月「634のはなし」)も話題にしてきた。自虐や、権威を洒落のめすところが川柳の妙味である。それに打って付けの新種が出現した。
 『イナカ川柳』である。副題が「農作業 しなくてよいは ウソだった」で、これもまた川柳である。創刊30年のテレビ情報誌『TV Bros.』が募集、編集し先月文藝春秋社から発刊された。
 “リアルな田舎”を題材にしたという。「バイパスが荒野をぶち抜き、自己主張の強い量販店の看板が立ち並び、週末になると全市民がイオンに集結する。片や、駅前はシャッター街で閑古鳥が鳴き、その並びの中で豆腐屋の二代目が野心的なリフォームをして奮闘中。藁にもすがる思いで、萌えアニメと組んで一発逆転の町おこしを狙う行政」(同書より、以下同様)、それは当今本邦田舎の典型的なありようであり、都会の10年後を先取った現実ではないかと問いかける。「新世代のフロントランナー」をめざしもがく田舎の本音が数々の秀作となって苦笑と涙を誘う。
 数句を紹介したい。
▽ダイエーが サティになって 今イオン
 見事、業界の栄枯盛衰を一句に約めている。全国制覇の舞台は都会ではなく、田舎。グループで年商7兆を超える業界ナンバーワンのイオン。これとて社名のごとく永遠に続くのか、そのうち上五に詠み込まれないとも限らない。
▽パチンコ屋 潰れた後は 葬儀場
 田舎暮らしには身につまされる。同系に次の佳句があった。
▽学校と 病院過ぎて バス独り
 「独り」に滋味がある。学校を過ぎ、年寄りが病院で降りて、乗客が一人もいなくなった。それでも独り行く路線バス。悲哀が込み上げる。

▽気がつけば 隣の嫁は 外国人
 副題とも通底する。田舎の結婚事情は深刻だ。このままの推移で単純計算すれば、西暦3300年には日本人はゼロになるという。ならば、これが切り札か。

▽近所の子 結婚出産 そしてレジ
 非正規にしても、田舎ではスーパー、コンビニのレジが定番。田舎の「近所」には、このコースを辿る子が一人はいる。かつ、ヤンママにシングルが重なると“”オー・マイ・ガアッ!”だ。

▽意識より 地元意識が 高い系
 投稿者は──地元で生まれ、地元の相手と結婚。もう普通に「地元最高~」って言っちゃう系、これマジで意外と多いんです。──とコメントしている。「意識高い系」とは、前のめりで自意識過剰の上から目線をいう。自意識が地元意識にすり替わっても、客観的な自らのマッピングができないことは同じ。どこかが思考停止している。
 次の句は“ビミョーな”機微を捉える感性が一段と深い。
▽残ってる ビミョーな秀才 公務員
 長男であったり、家の事情を踏まえれば冒険をするほどの才はない。中央官庁は雲の上。下手な中途Uターンをするよりも、堅実な道をチョイスする。反旗を翻すより、小振りでも親方日の丸を振っている方が安心だ。はたして、「一発逆転の町おこしを狙う行政」は彼らが担うことと相成った。
 
 終わりに、お涙をいただこう。
▽何もない 夢も希望も コンビニも
 句はすこぶる巧いが、泣血を誘う。夢破れ、希望消えても、なおコンビニは生きる寄辺か、人生航路の灯台か。ならば、コンビニさえあれば生きられる。コンビニ全国5万超店の双肩に日本の、いな田舎の命運は載っている。だが、それさえも最早風前の灯火。やがて跡地にはケアハウスが群がり建つだろう。「地方創生」を鼻で笑いつつ、今や田舎は「痴呆簇生」の只中にある。ああー。 □


気分は民主主義

2016年05月21日 | エッセー

「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何者でもなくなる。自由であるこの短い期間に、彼らが自由をどう用いているかを見れば、自由を失うのも当然と思われる」
 『社会契約論』にジャン=ジャック・ルソーはそう認めた。「自由」を奪われていることが「奴隷」の属性だとすれば、対極には恣意な自由さえも手にする「王様」がいる。「自由」を「王様」に置換すれば、巷間の格言「有権者は選挙のときだけ王様で、後は奴隷である」となる。
 13、20の両日に行われた桝添知事の会見を巡るマスコミの昂ぶりは“気分は民主主義”を主導しているようでならない。
 広辞苑に依れば、「democracy の語源はギリシア語の demokratia で、 demos(人民)と kratia(権力)とを結合したもの。権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態」とある。件(クダン)の昂ぶりは「権力は人民に由来し、権力を人民が行使する」との原義が立ち上がる昂揚感、ぶっちゃけていえば鬼の首を取った、もしくは取らんとする痛快な感覚ではなかろうか。世論調査によれば、13日の釈明に「納得できない」は9割以上に及ぶ。20日はそれ以上か。
 だが、ちょっと俟ってほしい。「彼らが自由をどう用いているか」については誰も触れない、語らない。「用い」方がまずかったとはどこからも聞こえてこない。氏の国会議員時代の去就や言行について、「自由」を「用い」た判断は的確になされたのだろうか。100歩も1000歩も譲って、好い面の皮だとしよう。それにしたって、同じことを2度もだ。前任者もカネ絡みで、1年にして辞職した。今度もカネ。それも「第三者の専門家」を引っ張り出さなきゃ解(ホド)けないほどの絡み具合らしい。「前車の覆るは後車の戒め」どころか、忠実に前車の轍を踏んでいる。鄙(ヒナ)の僻みでいうのではないが、都人は大層な太っ腹と見えるがいかがか。
 だから、今般の昂揚には眉に唾を付けざるを得ない。事によれば首を挿げ替えることだってできるという“気分”は確かに民主主義を背負ってはいるが、あくまでも気分にすぎないのではないか。王様といっても、裸の王様。自らを客観視できなければ嘲笑の戯画が俟つばかりだ。事の半分を見落としてはならない。ミスチョイスを重ねる都民の眼に曇りはなかったのか。「自由を失うのも当然」の結果を招来したのは誰なのか。大仰だがつい、「歴史は繰り返される。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として」とのマルクスの箴言を引きたくもなる。
 沖縄でまた事件が起こった。一国の民主主義と熾烈に対峙しているのが沖縄の民主主義だ。先般彼らはトップを替えた。それでも国は動かない。どちらが民主主義なのか。深刻なアポリアと向き合う沖縄の民主主義。命がけだ。とても“気分”などではない。 □


かちあげ 禁止に!

2016年05月19日 | エッセー

 からあげ、ではない。かちあげ、である。唐揚げなぞ禁止にしようものなら世に暴動が起こる。相撲の搗ち上げ、である。張り手、変化、だめ押しなどと並んで最近加わった白鵬の“得意技”がこのかち上げだ。
 かち上げとは胸に構えた前腕を相手の胸めがけて激しくぶつける技だ。相手の体(タイ)に刹那のインパクトを与え、差し手を取る隙を作るのが目的だ。プロレスのエルボー・バットのように頭部に直接的なダメージを与えるものではない。だからもし相手が一撃で倒れたとしたら、本来のかち上げではないと断じ得る。際立つのが昨年秋場所での<白鵬×妙義龍>戦、今場所9日目の<白鵬×勢>戦だ。ともに張り手との合わせ技で妙義龍、勢ともに「一撃で倒れた」。エルボーでさえ肘の先端部分は反則とされるほど危険な技だ。エルボーとは言わぬまでも、エルボー紛いであることに疑いようはない。ましてや鍛え上げられた幕内力士が一瞬にして土俵に沈むなどとはもはや相撲ではあるまい。少なくとも相撲技ではない。プロレスも真っ青、リングが土俵に変わったようなものだ。
 反則負けになる禁じ手は規則で定められている。──握り拳で殴る。髷を掴む。前たてみつを掴んだり横から指を入れて引く。胸、腹を蹴る。など──である。3番目は膝を叩いて得心がいく。フィジカルな問題というより、礼節を重んじるゆえであろう。なにせ裸体に近い彼らにとっては最後の砦だ。それで話はかち上げだが、初めの「握り拳で殴る」と如何ほどの違いがあるのだろうか。先述のごとく、使いようによって肘は「握り拳」と同等の破壊力を持つ。いな、それ以上かもしれない。限りなく禁じ手に近い。いっそこの際、「本来のかち上げではないと断じ得る」エルボー紛いのかち上げは禁じ手にすべきではないか。いやむしろ当今の大型化した関取の体格変化に鑑み、かち上げすべてを禁じ手にしてはどうか。頸から上だけは鍛えようがないからだ。このままかち上げが野放しになるなら、大相撲本来の偉丈夫が激突するど迫力や小よく大を制する技の妙味が後退し、急所狙いの安っぽい格闘技に成り下がってしまう。
 勢戦について、解説の北の富士は「横綱は貫禄相撲を取らなきゃ……。自分で考えたのか知らんが、えらいことを覚えてくれたね。でも反則じゃないからね。でも、横綱らしくないと言われるのは確か」と語った。片や、八角理事長は「俺はかち上げは好きだった。相手の胸に穴を空けてやるくらいのつもりで当たっていった。来るなら来いと。かましたことがない人が、かち上げを食らったらこうなる」と、まことに呑気だ。してみると理事長の言う「土俵の充実」とは星取りの盛り上がりであって、取り口の筋目、折り目は考慮にないらしい。しかし、批判は殊の外多い。主なものを列挙すると──暴力相撲であり、相撲を単なる格闘技に貶めるものだ/意図的に顎や喉を狙う「殺人技」/横綱の品位を落とし権威を汚している/最上位の横綱が下位に使うのはパワハラだ──などである。
 加えて、今まで何度も指摘した「過剰適応」による「勝利至上主義」を挙げねばなるまい。約めていえば、新撰組の論理。武士にあらざる者が過剰に武士たろうとして法外な殺戮を繰り返した。などといえば、堅白異同が過ぎようか。さらに明文規定がなければ「でも反則じゃないからね」(北の富士)となるなら、「理に勝って非に落ちる」にならないか。反って相撲界の不利益を招く結果にならないか。どこかの知事のように、法的に言い訳が立つからといってもそれで信頼が増すわけではない。事実は、その逆だ。かち上げも同様、存外の非難は復活した大相撲人気に決して追い風にはならない。だから、禁じ手に明文を改めよというのだ。
 司馬遼太郎が「四股」について言及している一文がある。
◇醜(シコ)は、古語である。にくにくしいまでに強いこと、あるいはそういう人をさす。関西では、私などの子供のころまで、醜を動詞にして醜るということばがあった。こどもがむやみにさわぐさまをいう。大相撲は、神事の要素が濃い。立ち合う前に、四股を踏む。四股はあて字で、本来、神をよろこばせるべく、醜をふるまうというところからきたものに相違ない。◇(「街道をゆく」41から)
 「にくにくしいまでに」とは滋味のある筆遣いだ。憎いのではない。認めたくはないが、脱帽する強さ。肯んずるほかはない。敬愛が交じる羨望とでもいおうか。客席に「神」が居ますとすれば、「神をよろこばせるべく」が肝心であろう。割り切れない違和感や後を引く不快感が残ってはよろこぶわけにはいかない。どれだけの記録を残しても、『ブラック白鵬』では洒落にもならない。 □


先見の明

2016年05月17日 | エッセー

 昨年の4月に発覚し、いまだに尾を引いているのが『東芝』の不正会計・粉飾決算である。隠蔽体質は90年代からのものらしい。粉飾額は2千億円を遙かに超える。「濡れぬ先こそ露をも厭え」の典型か。中でも致命的だったのが、アメリカでの原子力会社の買収が失敗に帰したことだ。これも今年の4月まで直隠しにしてきた。「阿漕が浦に引く網」だが、あちらは病に伏す母親のためだからまだ言い訳も立とうが、“東”京の“芝”浦では阿漕が過ぎて申し開きが立つまい。
 今年の4月に発覚したのが『三菱自動車』の不正データ・偽装検査だ。この自動車屋さん、過去00年にリコール隠しがばれ、ついで04年にもまたリコール隠し事件を起こしている。廃業の危機を救ったのは三菱東京UFJ銀行・三菱商事・三菱重工業の『三菱グループ御三家』であった。しかし、「仏の顔も三度まで」(余計ながら、「三度」とは何度もの謂で三に限るわけではない)。今度ばかりはスリーダイヤもお手上げ。遂には日産の傘下に入ることと相成った。「弱り目に祟り目」、「踏んだり蹴ったり」で、遂には「鬼は弱り目に乗る」か。
 同じ4月、『シャープ』が鴻海の軍門に降った。12年に端を発した経営難が国内銀行チームによる救済ではなく、電子機器受託生産の世界最大手である台湾企業に買収される形で決着した。パナソニックやソニーといい、世界を牽引してきた優良企業は今や斜陽の憂き目を見ている。海外移転・進出が技術をも攫い、気が付いたら「庇を貸して母屋を取られる」凋落に立ち至っていたということか。といっても、「引かれ者の小唄」にしか聞こえぬであろうが。
 ともあれこれら3件はなんとかミクスにとっては足を引っ張られ、面の皮を剥がされる不始末となった。さらにはコマーシャリズムとグローバリズムのなれの果て、「盛者必衰の理をあらはす」とでも括るほかあるまい。だが、碩学はよりドラスティックに掘り下げる。
 経済学者の水野和夫氏は東芝とVWの両事件を取り上げ、「電気機械産業と自動車産業で起きたという点で近代の終わりを象徴するような事件だ」(詩想社新書「資本主義の終焉、その先の世界」から)と、事の本質を剔抉する。「近代」の行動原理とは「より速く、より遠く、より合理的に」であり、それが地球規模で限界に達した今、近代システム自体が機能不全に陥っているという。新しい行動原理とは「よりゆっくり、より近く、より寛容に」であるとし、中世に範を求める。また、「東芝は『日本株式会社』の一つであり、VWは『ドイツ株式会社』ですから、株式会社の存在がいま問われているのです」(前掲書より)とも述べる。株式会社こそ近代システムの中核的存在だからだ。
 おっと、『日本株式会社』の代表を忘れていた。そう、東京電力である。「電気機械産業」どころか電気そのものを作る超優良株式会社が、3.11で奈落の底に一瞬にして叩き落とされてしまった。今や実質国有化されているのだから、まさに『日本株式会社』。これこそなにより「近代の終わりを象徴するような事件」だ。「一事が万事」、「一事を以て万端を知る」ではないか。
 水野氏は一貫して資本主義は崩壊過程に入ったと警鐘を鳴らす。
 後漢書に「彪対(コタ)へて曰く、愧ずるは日磾(ジツテイ)の先見の明無く、猶ほ老牛の舐犢(シトク)の愛を懐(ナツ)くるを、と」とある。
 零落した彪が質問に応える。自分には日磾のように将来への見通しがなく、老牛がわが子を溺愛するような愚を犯したために子を失い恥じ入っている、と。
 「先見の明」の故事である。旧来のシステムにしがみつくことは、「猶ほ老牛の舐犢の愛を懐くる」に変わりあるまい。 □


もう一つのフクシマ

2016年05月13日 | エッセー

 あまり知られていないことだが、3.11の原発事故は福島第1原発(1F)だけではなく、そこからわずか12キロしか離れていない福島第2原発(2F)でも起こっていた。
 経緯は以下の通り。
──2011年
3/11 15:23 津波襲来
           放射性廃棄物処理建屋につながる外部電力と
           3号機の非常用ディーゼル発電機の二つを除いて全電源喪失
     18:33 原子炉4基の内、3基(1、2、4号機)が冷却機能喪失
     22:00 作業員現場に向かい損傷確認
3/12 早朝    2号機が最も危険な状態となり2号機最優先を決定
         日中    処理建屋から人海戦術で2号機へ電源ケーブル敷設開始
3/13 早朝       3号機の非常用発電機からも他3基へケーブル敷設開始
          日中    1号機が2号機より危険に、ケーブル敷設を1号機優先に変更
3/14 0:00    ケーブル敷設作業終了
        1:24  1号機の冷却機能復旧
          7:13   2号機の冷却機能復旧
3/15 7:15  全4機すべての冷温停止に成功──
 1Fを襲った津波が13m、2Fは9m。2F3号機の冷却装置が活きていたという好条件はあったものの、2Fも1Fに劣らぬ危機に陥っていた。限界ギリギリ、わずか2時間前にメルトダウンは回避され水素爆発も免れた。1Fの4基合計出力は280万KW、2Fのそれは440万KW、1.5倍の出力がある。罷り間違えば、2つの原発事故が同時に発生し終末的クライシスを迎えていたかもしれない。泣血の断末魔を躱し得たのは奇蹟ともいえる。そのミラクルを生んだのはリーダーシップと人海戦術だった。
 増田尚宏所長は徹して作業員との情報の共有に努めた。判っていることと判らないことを、数字やグラフを駆使してホワイトボードに書き続けていった。朝夕すべての作業員が集合してのミーティングを軸に、置かれた状況をすべて開示した。情報の共有は連帯感を生み、アクティブな対応を引き出す。まさかの危急存亡の秋(トキ)、これはなかなかできることではない。軍隊でいえば、1個中隊で戦闘中に中隊長と前線隊員が戦況を同時に同量掴んでいる。それは想像しがたいありようだ。
 さらに、「津波襲来」と「作業員現場に向かい損傷確認」とが約6時間空いている。増田所長は後、「すぐには『現場へ行け』とはいえなかったのです。現場に行ってもらうには、危険が減ってきている状況を皆に納得してもらう必要がありました」と語っている。指示、命令と納得、説得。所長の人品と相俟って、この辺りに人心収攬のリーダーシップが窺える。『チーム増田』の秘密だ。
 「ケーブル敷設を1号機優先に変更」も注目すべき点だ。「『ごめん、間違った』『さっきの訂正』と何度言ったかわかりません」と所長は述懐する。作業員からの質問には即答し、迷わず動けるように具体的に指示したと言う。直感も交えての対応である。「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」だ。未知の状況変化に即応する柔軟性もリーダーの枢要な資質ではないか。反面、彼は危機を超えるまで自席から絶対に動かなかったそうだ。砲弾の嵐の中、旗艦三笠の艦橋を一歩も離れず足形がくっきりと残されたという東郷平八郎を彷彿させる。指揮官の所在を明確に示すことはリーダーシップのいろはのいの字だ。3.11で1Fにふらふら飛んで行ったカンカラカン総理ってのがいたが、まあなんともお寒い限りだ。
 次に「処理建屋から人海戦術で2号機へ電源ケーブル敷設」だ。危機管理マニュアルになかったこの対処は増田所長の決断による。距離800m、ケーブルは1本200m重さ1トン。リフトもクレーンも、重機はない。人力で運ぶしかない。200人の作業員が等間隔で把持し運んでは繋いだ。1本の敷設で済むはずはない。運搬距離は合計9キロにも及んだ。12日から13日深夜まで、機械を使っても普通ひと月は掛かる作業を人力のみで2日間でやり切った。家族や自家を失ったメンバーもいた。不安や悲哀を振り切り、暗闇も掻き分けて命がけのミッションを成し遂げた『チーム増田』の面々こそ英雄と呼ぶに相応しい。労に報いる顕彰を国は考えるべきだ。いや、駄洒落ではないが、2F『もう一つのフクシマ』については国を挙げての“検証”こそ必要ではないか。内田 樹氏は以下のように述べる。
◇「起こるはずだったのに、起こらなかったこと」について事後的に考察するということを歴史家はあまり(というか全然)しませんが、歴史の文脈のどこに重大な「段差」や「転轍点」があったのかを知るためには、「起きたこと」を因果関係の糸で結んでみせるよりも、むしろ「起きてもよかったのに起きなかったこと」を個別に精査してみる方が有用です。これは僕の経験的確信の一つです。◇ (「昭和のエートス」から)
 歴史的事故も同等ではないか。思想家の炯眼に学ばねばならない。
 加うるに、「リスク管理」と「危機管理」の違い。事故の前と後の対処である。先ずは危機管理だ。これも内田氏の言を引く。
◇「平時的思考」をする人は、「どうしていいかわかるときには、正解を選ぶ。どうしていいか正解がわからないときには、何もしない」という原則に従います。とりわけ受験秀才たちは誤答を病的に恐れるので、「どうしていいか、わからないときには何もしない」というルールが身体深く内面化している。けれども、戦場というのは平時のルールが適用できない場所です。「どうしていいかわからないこと」ばかりが連続的に起こる。だから、「どうしていいかわからないときにはフリーズする」タイプの人間はすぐに死んでしまう。「どうしていいかわかる」人だけが生き延びる。◇(「街場の戦争論」から)
 幸いにも、2Fは「『平時的思考』をする人」がトップではなかった。かといって、1Fがそうだったといっているのではない。1Fとは決定的にダメージが違う。態様が異なる。吉田所長も立派な指揮を執ったことは疑いようはない。誤解なきように。
 厳密にいえば、2Fはすんでのところで『もう一つのフクシマ』にはならなかった。だが、決して笊耳にしてはおけない。 □


超ボンビー・プレジデント

2016年05月10日 | エッセー

 10年、大統領就任時の個人資産は1987年製の愛車WVビートル1台のみ、22万円。以後5年間、大統領時代は官邸には住まず、首都郊外にある妻所有の小さな農場で暮らす。「そんなのがいたら、夜中にパンツ一丁でトイレにも行けない」とバトラーもメイドも措かない。自らハンドルを握り、大統領専用車はほとんど使わない。飛行機は民間航空のエコノミークラスで、国際会議の復路では他国の専用機に便乗することもあった。「ネクタイなんて、首を圧迫する無用なボロ切れ」、「ネクタイは政治家が嘘を吐き出さないためにするものだから必要ない」と頑なにノーネクタイを通した。ご存知、超ボンビー・プレジデント、第40代ウルグアイ大統領=ホセ・ムヒカ氏である。
 大統領給与131万円のうち9割を慈善事業と所属政党に寄附し、残りはすべて将来貧しい子供たちを受け入れる農業学校設立資金のために貯金。ちなみにウルグアイの平均年収は60万円、大統領はその2倍ちょっと。日本の平均年収は414万、総理大臣の年収は約5千万。10倍を優に超える。面積は日本の約半分、人口340万で35分の1。だからといってこの差は穏当とはいえまい。しかし小なりとはいえ生活水準は南米第2、社会的自由度では南米第1を誇る。任期中に同性婚と大麻を合法化している。ただ経済面では市場原理主義を批判し、反自由主義政策を採った。
「香港のトップが二流のビジネスホテルに泊まりますか。恥ずかしいでしょう、そういうことであれば。ですから、少し冷静に考えていただいて、無駄なものはもちろん排します。しかし、必要なことは必要です」
 超一流ホテルのスィートルームについてのホセ・マスゾ氏の釈明である。大東京のトップたる矜持がある。なるほど、そうだ。しかし
◇私は貧乏ではない。質素なだけです。
 貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。◇
 という矜持に比して、なんとみすぼらしいことか。(◇部分は双葉社、佐藤美由紀著『世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉』より引用、以下同様)

◇我々の前に立つ巨大な危機問題は、環境危機ではありません。政治的な危機問題なのです。現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。
 私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を通り過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。ハイパー消費が世界を壊しているにもかかわらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターになっている世界では、私たちは消費をひたすら早く、多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば“不況のお化け”がみんなの前に現れるのです。このハイパー消費を続けるためには、商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、本当なら10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない……。私たちは、そんな社会にいるのです! 長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけない。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
 悪循環の中にいることにお気づきでしょうか。これは、紛れもなく政治問題です。石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。◇
 12年6月、リオ・デ・ジャネイロで国連の「持続可能な開発会議」が開かれた。188カ国、3万人が参加した大規模なものだった。各国首脳のスピーチが続く中、世界の耳目を鷲掴みにした演説がこれだ(引用は一部)。世界が抱える問題群を、小国の超ボンビー・プレジデントがわずか8分で一刀両断に斬り捌いてみせた。こんな痛快事はない。後発国の不満をぶちまけたわけでも、先進国の粗探しをしたわけでもない。単なるアンチテーゼを突き付けたのでもない。アポリアの核心を見事に射貫いて、病因と病根、その処方箋までを高々と指し示したのだ。
 報道によると、「世界の富裕層がタックスヘイブンに持つ未申告の金融資産は、2014年時点で24兆ドル(約2570兆円)~35兆ドル(約3750兆円)にのぼる。米国と日本の14年の国内総生産(GDP)の合計約22兆ドルを上回る規模だ。その額は、21兆~32兆ドルと試算した10年時点より増えている。」(5月10日付朝日)という。表現は平易だが、「マーケットをまたコントロールしなければならない」とはトマ・ピケティを始めとする世界最先端の学説とも軌を一にする洞見だ。
 傘寿を超えるこのプレジデントが紡ぐ言の葉はすでにして警句、名言を超え、格言、さらに金言、箴言の高みにある。それらはさまざまな書籍で紹介されている通りなのだが、その中で1つおもしろい遣り取りがあった。
◇アメリカの記者が、ムヒカのことを“ラテンアメリカのネルソン・マンデラ”と呼ぶと、彼はクスクス笑ってから言った。「いえ、いえ。彼は刑務所の中で28年も過ごしたんですよ。でも、私はたったの14年。マンデラは別のリーグでプレイしている人です。(中略)私はぺぺ。マンデラではありません。私はバリオっ子(スペイン語を話す地域の子供)です」ユーモアに満ちたムヒカの言葉に、会場には笑いと拍手が鳴り止まなかった。◇
 「ペペ」は田舎者というほどの自嘲を込めたのか。「たったの14年」とは反政府極左武装組織に属し、殺し殺されるゲリラ活動の中で4度の逮捕、2度の脱獄、さらに10数年の獄中14年である。修羅場の渦中14年は「28年」に一向遜色はない。超ボンビーは筋金入りの超ファイターでもある。
 さて、先月5日に超ボンビー・プレジデントが来日した。各地で講演会がもたれたが、政府関係者と接触したとは寡聞にして知らない。試みにホセ・ムヒカ氏が帰国した12日までの本邦ホセ・シンゾ氏の動静を調べると──
 6日 来日したウクライナのポロシェンコ大統領と会談、歓迎
 7日 「日本の美」総合プロジェクト懇談会。メンバーの俳優・津川雅彦氏らと夕食会
 8日 来日したエストニアのロイバス首相と会談、歓迎
 9日 首相主催の「桜を見る会」 アイドルグループ「ももいろクローバーZ」のメンバーやレスリング女子の吉田沙保里選手らと写真撮影
10日 自宅静養
11日  官僚・党幹部らと会談
──となっていた。ホセ・ムヒカ氏ではなく、津川雅彦やももいろクローバーZに本邦宰相としては政治的プライオリティがあるらしい。原発のトップ・セールスマンにとっては超ボンビーなぞまったく視野の外なのか。“不況のお化け”に戦き、「ハイパー消費を続けるために」ハイパーインフレを誘発しかねない“アホノミクス”に精を出す。「悪循環の中にいることにお気づきでしょうか」とは、他でもないホセ・シンゾ氏に向かう1本の矢(3本も要りません)ではないでしょうか。聞く耳は持たないであろうが、締め括りにホセ・シンゾ氏にホセ・ムヒカ前大統領の言葉を贈りたい。
◇私たちが「世界にお金が足りない」などというのは、お金を出して解決できる人に要求ができず、その人のポケットに手を突っ込むこともできない、また、そうさせることもできない政治的意気地なしだからです。だから私は政治にいるのです! だから政治の世界で闘うのです!◇
 大統領退任後も、氏は一国会議員に戻って「政治の世界で闘」っている。 □


政権にひれ伏すメディア

2016年05月08日 | エッセー

 うすうす気はついていたが、ここまでやるとは驚いた。
◇官邸ではテレビや新聞を毎日細かくチェックし、官邸にとって気に入らない報道があれば担当者に電話をかけ、直接釘を刺すと聞く。菅義偉官房長官、メディア対策を担当する世耕弘成官房副長官は、こうしたメディア・コントロールに力を入れてきた。在京キー局の関係者から話を聞くと、実際に菅官房長官や世耕官房副長官のもとで働くスタッフから「×月×日の△△はおかしな報道をしていた」という電話がよくかかってくるそうだ。政権に協力しなければ取材のチャンネルを閉ざされてしまう恐怖から、電話を受けたテレビ局では、記者クラブ所属の政治部記者が社内で「調整」に走るのだろう。◇
 ニューヨーク・タイムズ前東京支局長であったマーティン・ファクラー氏は近著『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社)でそう語る。
 氏は20年近い滞日経験を持つアメリカ人ジャーナリストである。東大大学院にも留学経験があり、ブルームバーグ、AP通信、ウォール・ストリート・ジャーナル、ニューヨーク・タイムズと一貫して報道畑を歩んできた筋金入りの言論人である。今年からは独立系シンクタンク・日本再建イニシアティブ(船橋洋一理事長)に転出し、一層の活躍が期待されている。
 前作『“本当のこと”を伝えない日本の新聞』(双葉社、12年刊)も好著であった。今回はより一層鋭く安倍政権によるメディア支配に斬り込んでいる。
◇第二次安倍政権が成立すると、メディアとのウェットな関係はドライなものへと変質した。「どう報じられるか、自分たちがコントロールしたい」という意図があるのだろう。メディアを選別して単独インタビューに応じ、自説を展開するようになった。首相が登場するとなれば、メディアにとってはやはり売りになる。それを逆手にとって、政権に協力的でないメディアは無視したり、わざと取材を後回しにしたりして距離を置くわけだ。◇(同書より抄録)
 意地汚く卑劣で姑息なメディア支配の実態が豊富な資料と果敢な取材を通して白日の下に晒されていく。分析は極めて明晰。ジャーナリズムの真摯な原点に触れたようで、それだけで清々しい。
 以下、手前味噌。
 14年9月『朝日、謝罪不用』と題する拙稿を呵した。
 碩学・内田 樹氏の『街場のメディア論』を徴し、弱者の立場に立ち「推定正義」を認めることが「とりあえずメディアの態度としては正しい」との論攷を紹介した。その上で、こう記した。(──部分は拙稿からの抄録)
──昨日朝日新聞の社長が記者会見を開いて、吉田調書の「命令違反」報道を取り消し謝罪した。取り消しはしても、謝罪は不用だ。さらに、慰安婦の強制連行証言についても虚偽判断と記事取り消しが遅きに失したと謝罪した。こちらも謝罪は不用だ。──
 「吉田調書」とは東京電力福島第一原子力発電所元所長・吉田昌郎氏の事故に関する発言を記録した政府事故調の資料をいう。「慰安婦の強制連行証言」とは、福岡県出身とされる文筆家・吉田清治氏による虚偽証言を指す。「調書」と「証言」、どちらも「吉田」で偶然の一致とはいえややこしい。まずは「吉田調書」から。
──吉田調書については改竄ではなく(調書の文面に恣意的に手を加えたのではなく)解釈の問題であった点だ。現に稿者は第一報を読んだ時に、これだけで「命令違反で撤退」と断定できるのか違和感を覚えた。しかし、如上のごとく「メディアの態度としては正しい」。敢えていうなら、勇み足だ。つまり、寄り切ってはいる。相撲で勝って、勝負に負けたといえなくもない。なぜなら朝日のスクープがなければ、吉田調書が果たして日の目を見たかどうか。失念できない功績だ。──
 この「吉田調書」について、ファクラー氏は上掲書でこう語る。
◇私から見れば、朝日新聞の「吉田調書」スクープは間違っているわけではない。事実は合っていた。だが、記事の伝え方において、間違えたニュアンスを読者に与えてしまった。「伝えるべき事実を正確に伝える」という、調査報道において大切な細かな神経の使い方が不足していたわけだ。その結果、大スクープのネタを手につかんでおきながら、朝日新聞は自壊への要因をつくってしまったのだ。せっかく記者が苦労してすごいネタを仕入れておきながら、調査報道の詰めが甘かったために自ら記事を台無しにし、「吉田調書隠蔽」という肝心な問題が脇に追いやられてしまったのだ。かえすがえすも残念でならない。一番得をしたのは、隠蔽していた調書が明るみに出たことで批判の矢面に立たされかけた政権側だろう。◇
 続いて、「吉田証言」いついて拙稿から。
──慰安婦誤報問題については、慶応大教授の小熊英二氏が「この問題に関する日本の議論はおよそガラパゴス的だ。日本の保守派には、軍人や役人が直接に女性を連行したか否かだけを論点にし、それがなければ日本には責任がないと主張する人がいる」と述べている。これはもう胸がすく一刀両断だ。「ガラパゴス的な弁明」とは、木を見て森を見ざる、角を矯めて牛を殺す、である。この問題は、戦争における国家的未必の故意による人道的犯罪である。国家的規模による未必の故意、ガラパゴスを離島すれば明晰に見えてくる視点だ。──
 同じく上掲書でファクラー氏はこう記した。
◇なぜ記事(朝日新聞の吉田証言」記事)を取り消す必要はないのか。こんな例を挙げてみたい。19世紀まではニートンの物理学が完全に正しいと思われていた。20世紀に入ってからアインシュタイン博士の相対性理論が発表されると、ニュートンの物理学の一部は間違いだということがわかった。だからといって、ニューヨーク・タイムズが19世紀に書いたニュートンに関する記事を、すべて取り消す必要があるわけがない。人類がもつ知識は、時代の変遷にともなって少しずつ上書きされていく。「吉田証言」については、記事の取り消しも訂正も不要だ。ただ、新たな事実が判明したならば、そのつど記事にして情報のアップデートをする必要がある。◇
 拙稿には朝日の回し者ではとの批評を少なからずいただいた。反論代わりに臭い自讃を試みた次第である。
 閑話休題。
 アメリカ大統領選候補者選びはいよいよ大詰めを迎えた。不思議なのは未だにクリントン氏のメール問題が取り沙汰されている点だ。米政府は押収した氏の国務長官時代のメール3万件にについて決定的な国家機密が混じっていなかったか全部調べ上げているという。昨年10月には議会が11時間に及ぶ公聴会を開き氏を追求した。昨日の報道によると、FBIが数週間以内に本人から事情聴取を行う見通しだという。
 このこだわりはなぜか。上掲書でファクラー氏は、「共和党側からの政治的な攻撃の意図があったことは確かだが、それ以上に国務長官すらコントロール下に置こうとするデジタル時代の不気味な怖さがある。秘密情報についてのメールや資料、メモはすべて“derivative classification”に含まれる。ヒラリー氏がやり取りした万単位のメールに“derivative classification”が混じっていれば、国家機密の管理が甘かったとして訴追の対象になりうるのだ」と述べる。“derivative  classification”とは秘密指定に関するすべての派生物をいう。秘密本体とそれに関係する文書やメール、メモなどを指す。こんなドデカい投網で狙われたら逃げようがない。「国務長官すらコントロール下に置こうとする」情報監視機関の独走。同盟国首脳への電話盗聴など朝飯前か。
  ファクラー氏は、「読者の皆さんは、監視体制が強化されるアメリカを『日本の暗い未来』のサンプルとして見るといい。アメリカは何かにつけて日本よりも10年先を行っている」と警鐘を鳴らす。
 さらにファクラー氏は糾弾する。
◇私が強い懸念を抱いているのは、異論を許さないネット右翼の存在を、安倍政権は「武器」として利用しているフシがある点だ。従軍慰安婦問題は第一次安倍政権、第二次安倍政権下で突然、ホットイシューになった。わざと慰安婦を政治問題化し、世論を焚きつける。そして安倍政権の「天敵」である朝日新聞をスケープゴートのように攻撃する。「暴民による支配」とでも言うべき政権によるネット右翼の利用は、日本社会に言論の萎縮を及ぼす。異論を認めず、自分たちに都合の悪いメディアを一斉に攻撃する。社会にこのような風潮を広げてしまったのは、明らかに安倍政権の大きな責任だと言わざるを得ない。◇(上掲書より)
 アメリカにひれ伏す安倍政権は、日本のメディアをひれ伏させようとしている。次には国民をひれ伏させようするのは目に見えている。 □


私的オムライス考

2016年05月04日 | エッセー

 隣市に80年にもなろうかという老舗洋食屋がある。小学4、5年生の頃、幾度か親のお供の序でに強請ったことがあった。注文は決まってオムライス。舌鼓を高らかに連打したものだ。
 爾来、このオムライスが洋食における“お袋の味”となり、わが味覚の不動の基準となった。美味い不味いはすべてこの基準を超えるか否かによって決せられる。そのような結界として脳内に刻まれ今日に至った。
 オムライスとはフランス語の“オムレット”と英語の“ライス”を合わせた和製外来語で、日本生まれの洋食であることを知ったのはずっと後年になってからだ。しかしだからといって逆艪を立てても詮ない。私的カテゴリーにおいては依然として頑なに“洋食”の玉座に鎮座在す。
 長い長い無沙汰のあと、先日訪った。未だ客足は途絶えないとは聞いていたが、やはりそうだった。昼時だったせいもあり、仕舞た屋街には珍しく盛況だった。しかも老若男女、特に若い人が目立った。店構えも店内も昭和が居残っているせいかもしれない。年配者には懐かしく、今の世代には珍しいのか。別けても、タイル張りの腰板を久しぶりに目にした。かつては垢抜けて小綺麗さを醸す造りだったのだが、今やタイルは殊更に潔癖を押しつける病院の冷ややかな処置室のようで息苦しい。ともあれ、レトロではある。
 オーダーは勿論オムライス。久方ぶりの“お袋の味”だったといえば話は収まるのだが、そうは問屋が卸さない。“あの味”とはどうも違う。いや、たしかに違う。店主はおそらく3代目、4代目にはなっているだろうから変わって当然ともいえる。待て待て、そういう変わりようではない。そうだ、当のオムライスが移ろったというより“不動の基準”が大いに慌てているとでもいおうか。幼くして生き別れたわが子に長じて再会し、紛う方なく親子ではあるものの、幼児の記憶とも親である自らともてんでに異なる何者かに出くわしたような驚き、戸惑い、気恥ずかしさ。そんな齟齬である。しかも少しだけ落胆が混じった行き違い……。
 とこうにわけを考えるうち、フィリップ・K・ディックの『模造記憶』が浮かんだ。記憶に埋め込まれた火星での生活。憧憬はそれにそぐわない経験を記憶から切り捨て、ふさわしい経験が模造され記憶される。“あの味”とは模造記憶ではないのか。小学生が抱いた洋食への憧れ。邂逅したオムライスがその図星として模造記憶にされた。もはや戦後ではなくなって、洋風が市井に行き渡り始めたベルエポック昭和の時めきとして模造され記憶された。そういう事情ではなかったのか、個人史のなかでは。
 “Good old days”の模造記憶である件(クダン)のオムライスが『Back to the Future』したのでは洒落にならない。だから、あの店はもう止そう。洒落が通じるほど老熟はしていない。
 蛇足ながら、ケチャップを使わないデミグラスソースは邪道であり、上割りタイプは横道であると固く信ずる生粋の昭和人としては、そのような代物をオムライスと呼ぶわけにはいかない。ケチャップをスプーンの腹でまんべんなく引き延ばし、ウスターソースを滴らせる。かくして、両端の尾鰭から腹部の膨らみへ均等に攻め上っていく。そして、ゆっくりと203高地を陥落させる。至福の時はこのようにして訪れるのである。街に溢れる横文字だらけの小洒落たレストランと、横文字だらけの不可解なメニュー。いまだかつて“あの味”を超える食い物に出会えたためしがない。 □


2つのムラ

2016年05月01日 | エッセー

 『原発ホワイトアウト』 3年前にセンセーションを巻き起こした小説だ。
──著者 若杉 冽。キャリア官僚による、リアル告発ノベル!  問題作、現る!!
  再稼働が着々と進む原発……しかし日本の原発には、国民が知らされていない致命的な欠陥があった!
 この事実を知らせようと動き始めた著者に迫り来る、尾行、嫌がらせ、脅迫……包囲網をかいくぐって国民に原発の危険性を知らせるには、ノンフィクション・ノベルを書くしかなかった!
 日本を貪り食らうモンスター・システム。現役キャリア官僚のリアル告発ノベル。──
 と、書籍サイトには紹介されている。
 「日本を貪り食らうモンスター・システム」、つまり巨大な利権集団“原子力ムラ”と反原発勢力との攻防を描く。フクシマの後、それでもなお安全性の欠陥を無視して再稼働へ突き進む政・官・電の「モンスター・システム」。電力業界による与野党への周到な利益供与。ムラに斬り込むジャーナリストと呼応する官僚の内部告発。業界と霞ヶ関の巧妙なタッグ。政策に組み込まれた骨抜きの仕掛け。検察を操る政権の暗部。反原発知事への国策捜査と逮捕。ムラの思惑通り着々と進む再稼働。そして、爆弾低気圧によるホワイトアウトの中で仕掛けられる原発の知られざる弱点への攻撃。遂にメルトダウンを防げず、フクシマ・クライシスが再来する……。
 ほとんどが実名に近い役名で登場し、大団円のクライシス以外はほぼ実際の流れに沿って物語は展開する。リアルといえばそうだが、嘔吐を催すほどの現実感だ。紛れもない、優れた「リアル告発ノベル」である。ただ惜しいことに、決定的に欠落している視点がある。
 「日米原子力協定」の存在だ。
 1955年、「日米原子力研究協定」──米国から日本への濃縮ウランの貸与と使用済み核燃料の米国への返還を取り決め、これに基づき日本最初の原子炉として日本原子力研究所に2つの研究炉が導入された。
 1958年、「日米動力協定」──非軍事的利用の研究、動力炉に米国からの濃縮ウランの供与が約された。
 1988年、現行の改定「日米原子力協定」──米国からの核燃料の調達、再処理、資機材・技術の導入、米国への報告などが取り決められた。満期は2018年。有効期限の6か月前から文書で通告することによって協定を終了させることができるが、この事前通告がなされない限り協定の効力は継続される。加えて、アメリカが了承しない限り日本側の意向だけでは条約の停止も終了もできないと明記されている(第12条4項)。要するに無期限だ。
 アメリカによる日本の原子力開発への縛りである。ぶっちゃけていうと、平和利用に限って日本に原子力を扱う恩情を与えるが核軍備は絶対させないための軛だ。それはよしとして、専門家の見解によると日本が独自に決められるのは電気料金だけというぐらいに微に入り細を穿っての「べからず」のオンパレードだという。「日米原子力協定」の下では日本が自らの原発を自由にできる権限はないに等しい。だから「廃炉」といい「脱原発」「卒原発」といっても、本邦だけの空騒ぎでしかないのだ。
 なぜか。そういう法的構造になっているからだ。米国によるその見えない潜在的な支配のからくりを克明に曝いて見せたのが14年の話題作
 『日本はなぜ、“基地”と“原発”を止(ト)められないのか』(集英社)
であった。著者はジャーナリストの矢部宏治氏。一貫して日米関係の深層を追っている。小説家の池澤夏樹氏はこの「本を前に考え込んでいる。憲法について自分は姿勢を変えるべきなのか」と語り、「ラディカルな、つまり過激であると同時に根源的な問題提起の本だ」と賛辞を送った。続いて、「この七十年、外交だけでなく内政も含めて屈辱的だったのはアメリカとの関係ではないか」とも述べている(昨年4月朝日新聞)。
 書名の「基地」とは“安保ムラ”を指す。日米合同委員会を中軸にした政・官・産の「モンスター・システム」、“原子力ムラ”と同型だ。摘要すると、憲法・条約・国内法の関係は、上位法から下位法へ<憲法 → 条約 → 国内法>と並ぶ。これは憲法98条「1.この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」に基づく。だが<条約 → 国内法>については意外ではあるが、同条「2.日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」に照らして法的に是とされる。ところが、アメリカとの関係になると、<安保を中心としたアメリカとの条約群(上位法) → 憲法を含む国内法(下位法)>と逆転する。ここだ。
 1959年、最高裁での「砂川判決」で事は決した。矢部氏は同書で、「安保条約とそれに関する取り決めが、憲法をふくむ日本の国内法全体に優越する構造が、このとき法的に確定した」と断ずる。ここに“安保ムラ”が不動の法的根拠を獲得するに至ったのだ。続けて、「だから在日米軍というのは、日本国内でなにをやってもいい。住宅地での低空飛行や、事故現場の一方的な封鎖など、さまざまな米軍の『違法行為』は、実はちっとも違法じゃなかった。日本の法体系のもとでは完全に合法だということがわかりました。ひどい話です。その後の米軍基地をめぐる騒音訴訟なども、すべてこの判決を応用する形で『米軍機の飛行差し止めはできない』という判決が出てくるのです」と畳みかけていく。
 砂川裁判は米軍基地の合憲性が問われた裁判である。59年3月、一審の東京地裁は米軍の駐留は「憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」との判決を出した。ところが上告を受けた最高裁は同年12月、「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」として原判決を破棄し地裁に差し戻した。「統治行為論」である。のち再審で有罪、63年最高裁が上告を棄却し有罪が確定した。
 統治行為論について矢部氏は以下のように糾弾する。
◇よく考えてみてください、国民の健康被害という重大な人権侵害(米軍機を巡る騒音訴訟など・引用者註)に対して、最高裁が「統治行為論」的立場から判断を回避したら、それはすなわち三権分立の否定になる。それくらいは、中学生でもわかる話ではないでしょうか。日米安保条約を締結し、国が米軍の飛行を許容したのである。アメリカのやることだから国は一切あずかり知らないというのであれば、何のために憲法はあるのか?◇(上掲書より)
 上記「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず」の「自衛権」を判決全体の趣旨を無視して、これ以上ないほど手前勝手に牽強付会したのが昨年の集団的自衛権に関する高村見解(高村正彦自民党副総裁)である。最高裁が自衛権について認めた判決であるとして、状況の変化に応じて当てはめれば集団的もあり得ると強弁した。個別的自衛権にだけ固執するのは外的変化を弁えない頑迷な時代錯誤の脳天気だといわんばかりの口吻であった。
 救いがたい公孫竜やソフィストは捨て置いて、本題に戻ろう。
 2008年、驚くべき事実が発覚した。公開されたアメリカ公文書によって、判決を書いた田中耕太郎最高裁長官、最高検察庁ともにアメリカ国務省からの指示、誘導を受けていたのだ。当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー(奇しくもマッカーサー元帥の甥)は藤山愛一郎外務大臣に外交圧力をかけ、最高裁長官田中とも密談するなどの介入を行なっていた。白井 聡氏がいう「永続敗戦レジーム」のグロテスクで象徴的な一場面だ。はたして本邦は独立国や主権国家と名乗りうるのか、まことに恥ずかしくなる。
 白井氏は近著「戦後政治を終わらせる──永続敗戦、その先へ」(NHK出版新書)で同書に触れ、
◇(矢部宏治氏は)実は戦後の日本には法の体系が二つある。一つには日本国憲法を最高法規とするところの法体系がある。しかしそれだけではなくて、もう一つ、「アメリカと約束したこと」(それは条約のような形で公然たる形のものもあれば、密約のような形で非公然のものもある)もまた事実上の法になっていると論じています。国内法と「アメリカと約束したこと」がぶつかるとき、どちらが優越するのかというと、結局はアメリカとの約束の方が大事だということは、「永続敗戦レジーム」の支配層にとっては自明の理にすぎません。◇
 と述べている。矢部氏の憲法論には肯んじ難いところもあるが、『日本はなぜ、“基地”と“原発”を止められないのか』は日本を支配する2つのムラと日米の法的構造を史実と法令を縦横に駆使して論じた好著である。原子力と安保のムラ、2つ。どちらにせよ、ムラとはなんとも古くさい。本邦はいまだに前時代を生きているのであろうか。 □