伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「抱きしめたい」

2009年09月29日 | エッセー

  〽Oh yeah, I'll tell you something,
   I think you'll understand.
   When I'll say that something
   I want to hold your hand,
   I want to hold your hand,
   I want to hold your hand.〽

 原題は ―― I Want To Hold Your Hand ―― 言わずと知れた「抱きしめたい」である。いまや一つの楽曲であることを超え、歴史的遺産となった。
 ビートルズ、5枚目のシングル。63年11月にリリースされた。翌年2月には全米ヒットチャート1位。年間ランキングでも1位に輝いた。世界で1200万枚を売り上げ、ビートルズを不動の地位に押し上げた。日本では彼らのデビュー盤として、94年3月に東芝から発売された。はじめは「プリーズ・プリーズ・ミー」を予定していたのだが、アメリカでの驚異的なセールスに急遽差し替えとなった。
 アメリカでは一日24時間、打(ブ)っ通しでこの曲を流し続けた放送局があったそうだ。それほどに世界が熱狂した。ボブ・ディランは曲中の『I can't hide』を『I get high』と聞き違えて、ドラッグの歌と誤解した。とんだ早とちりだが、ディランがロックに向かう転轍機となった曲だ。
 アーリー・ビートルズを代表するこの曲、成功が巨大だっただけに陰に隠れたのか、不問に付されたのか、置き去りの疑問がある。
  ―― 邦題、である。曲を外して、詞だけを考える。
 前掲部分の日本語訳を掲げてみる。(昭和48年版 角川文庫 「ビートルズ詩集①」 片岡義男 訳)

   Oh yeah 教えてあげよう
   きみはわかってくれると思う
   ばくがきみに言いたいのは
   きみの手をとりたい
   きみの手をとりたい
   きみの手をとりたい、ということ

 イシューは、『I want to hold your hand』の一節だ。そのまま原題でもある。訳文は「きみの手をとりたい」である。「手を握りたい」とも訳されている。どちらにせよ、「抱きしめたい」ではないだろう。つづきを抜き書きしてみると。(上掲書より)

  〽You'll let me hold your hand.
   Now let me hold your hand〽

   ぼくにきみの手をとらせてくれと
   さあ、きみの手をとらせてほしい


  〽And when I touch you I feel happy inside.
   It's such a feeling that my love
   I can't hide〽

   きみに触れるとぼくは幸せな気持ち
   とてもすばらしい気持ちなので
   きみへの愛をかくすことができない

 終始、きわめて控え目なことばが並ぶ。
  〽Oh please, say to me
   You'll let me be your man〽
の『your man』が唯一きわどいといえなくもないが、当時の若者の常套句であったのかもしれない。上掲書の訳文は「きみの恋人にして」となっている。リンゴには、同年に『I Wanna Be Your Man』と題する曲もある。
 いずれにせよ、おとなしい求愛である。少なくとも、「抱きしめたい」ではない。それでは原詩を離れすぎている。意訳にしても度を超えている。むしろ誤訳に近い。
 なぜか ―― 。
 洋画には今でも邦題をつけるが、当時、洋楽では原題のままがほとんどだった。しかし、これは長すぎる。まずは、そうだろう。かといって、「手をとらせて」では散文的にすぎるし、「手を握らせてよ」では艶(ツヤ)がない。「手をつなごう」では市民運動だし、「お手をどうぞ」ではシャンソンだ。それとも、急な差し替えに遣っ付け仕事をしたのか。それなら、瓢箪から駒だ。

 昭和39年、東京オリンピックの年である。東海道新幹線が開通し、海外への観光旅行が自由化された。マイカー時代が始まったのもこのころである。この年のレコード大賞は青山和子「愛と死をみつめて」、新人賞は西郷輝彦「君だけを」と都はるみ「アンコ椿は恋の花」。洋楽ではアニマルズの「朝日のあたる家」、ベンチャーズの「ダイアモンド・ヘッド」が大ヒットした。 …… まことに懐かしい。  
 テレビのCMコピーを調べてみると、「飲んでますか」三船敏郎<アリナミン>、「ファイトで行こう」王貞治<リポビタンD>、「丈夫で長持ち」渥美清<ユベロン>。NHKでは「ひょっこりひょうたん島」が放送開始。さらに流行語では、「豚とソクラテス」「産業スパイ」「東京砂漠」「マンション」「過密」「おれについてこい!」「根性」「ウルトラC」「コンパニオン」「いい線いってるね」などなど。 …… もう涙なしには語れない。

 そのような時代相に照らすと、「抱きしめたい」は相当過激だ。おそらくあのころ『飛んでいた』若けーヤツらでも、赤面せずには言えないフレーズであったにちがいない。そこが狙い目だったか。『異』訳を承知で、ビートルズの過激性をこの邦題に埋め込んだのか。それなら、点頭せざるをえない。
 洋画では原題よりも邦題が嵌まった例は多い。「史上最大の作戦」(原題『The Longest Day』)、「明日に向って撃て!」(原題『Butch Cassidy and the Sundance Kid』)、「ランボー」(原題『FIRST BLOOD』)はその代表か。しかし「抱きしめたい」は特異だ。過ぎたるは及ばざるがごとしなのに、十二分以上に及んでしまった。
 なにせまだ中学生。『I Want To Hold Your Hand』が「抱きしめたい」とくれば、慣用句かスラングとして飲み込むしかなかった。第一彼らの疾走に追いつくのがやっとで、意味など詮索する余裕も暇(イトマ)もなかったのが実相だ。

 あれから46星霜を隔てた。ドーナツ盤が擦り切れるまで聴き入った遥かな遠景に目を凝らすと、あの時の興奮が淡く滲んでくる。 (リマスター版発売の報に触れて、想が涌いた) 


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

 


真夏の怪

2009年09月26日 | エッセー

 いま振り返っても、あれはおかしい。
 8月31日(月)、灰神楽の舞う一国挙げての祭りのあとだ。テレビは当選した旧野党、つまり新与党の面々をさかんに追っていた。投票日翌朝、早速支持者にお礼の挨拶回りをする新人。昨日までと同じスタイルで街頭に立ち、マイク片手に道行く人びとに礼と抱負を語るメンバー。一日中、沸き立つような興奮の渦の中で何度もリフレインされた。翌日になるが、新聞各紙も同様の報道内容だった。

 あれ、なにか変だ。まずいだろう、それは ―― ふと疑念が過(ヨ)ぎり、法文に当たってみた。案の定だ。

公職選挙法 (選挙期日後のあいさつ行為の制限)
第178条 何人も、選挙の期日後において、当選又は落選に関し、選挙人にあいさつする目的をもつて次に掲げる行為をすることができない。
1.選挙人に対して戸別訪問をすること。
2.自筆の信書及び当選又は落選に関する祝辞、見舞等の答礼のためにする信書を除くほか文書図画を頒布し又は掲示すること。
3.新聞紙又は雑誌を利用すること。
4.第151条の5に掲げる放送設備を利用して放送すること。
5.当選祝賀会その他の集会を開催すること。
6.自動車を連ね又は隊を組んで往来する等によつて気勢を張る行為をすること。
7.当選に関する答礼のため当選人の氏名又は政党その他の政治団体の名称を言い歩くこと。

 「支持者にお礼の挨拶回り」は1.に、「街頭に立ちマイク片手に、道行く人びとに礼と抱負を語る」のは7.に抵触するのではないか。いな、嫌疑は十分だ。その他、2.、6.もニアミスか。
 それにしても、テレビ局をはじめ新聞各紙は公選法を識(シ)らないのであろうか。それとも、御祝儀代わりに開けて通したのか。なぜ旧与党はクレームをつけなかったのか。意気消沈、奈落の闇で他人様のことなど眼中になかったのか。いずれにせよ、コンプライアンスはどこ吹く風。お寒い限りだ。これでは火事場泥棒に等しい。おバカなテレビは、なんでも写す防犯カメラのレベルか。新聞は分厚い広告を挟んで届けるためのファイルなのか。なにはともあれ立候補するのなら、せめて公選法ぐらいは読んでからにしてほしいものだ。
 さすがに「又は落選に関し」に該当する事例はなかったようだ。あるいは報じなかったのか。きっと有り体(テイ)は、そんな意欲も起きないほどに打ちのめされていたのではないか。
 
 巷間語られるように、公選法はザル法かもしれない。繁文縟礼の典型でありながら、穴だらけでもある。さらにネットも寄せ付けない弊習の塊ともいえる。しかし愚法も法だ。ソクラテスになれとは言わぬが、ルールは心得てほしい。クラス委員の選挙ではない。事は権力が関わる。祭りのドタバタは要注意。掏摸が多発する。選挙とて同じ。どさくさ紛れに、国法さえも掏(ス)られかねない。
 衆人環視の直中(タダナカ)で、よくぞ掏ったり、またも撮ったり、やはり載せたり、だ。いやはや当人も、取り巻きも誰も見咎めない。まことに真夏の怪であった。 □



☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


欠片の主張 その8

2009年09月25日 | エッセー

 久々の『主張』である。受給開始年齢が近づいてきて、『事故』を起こしそうなのだ。というのは …… 。
 07年7月30日付本ブログ「長生きは『事故』か?」で次のように述べた。
〓〓まずは以下のコラムをご一読願いたい。
【年金 ―― 保険は支えあい、長生きほど得】  
 自動車保険が事故をカバーするように、収入が減りがちな老後という「事故」に備えて現役時に保険料を納め、当事者になった人だけが現金をもらえる。その点が貯金とは全く違う。死ぬまで受け取れるから長生きするほど得だ。一方、受給開始を前に亡くなると「事故」に当たらないので、もらえない。保険料は「掛け捨て」になる。しかし、年金は老後だけでなく、遺族になったり、障害を負ったりした人に現金を給付する「遺族・障害保険」でもある。保険料を納めることで、万が一の備えという安心感も得られ、「払い損」ではない。 ―― これが政府の理屈だ。ただ、国民には伝わっているのだろうか。遺族や障害の条件も、当事者になる前から知っている人は少ない。この仕組みでいいのか考えるためにも、制度を伝える努力は欠かせない。(07年7月25日付朝日新聞から)
 自動車保険の譬えは非常に分かりやすいが、反面辛辣だ。『まかり間違って』長生きした場合に備えるのが年金である。つまりは、受給開始年齢以上の長生きは『事故』になるのだ。制度上、そうなる。
 老後という「事故」 ―― 長生きが『事故』になる「転倒」はなぜ起こるのか。「制度上、そうなる」と前述した。「制度」とはなにか。すなわち、人為である。人為の対極には「自然」がある。この制度は相手が悪い。寿命は人間にとって究極の自然である。どんな名医だって、自分の命日は判らない。寿命はいかんともしがたい。
 年金のシステムは自然に対する人為である。御し難い暴れ馬が相手なのだ。この前提を忘れると、ものごとが逆さまになる。〓〓(抄録)
 「58歳死亡説」をことあるごとに吹聴してきた筆者にとってまことに赤面の至りだが、その齢を過ぎてしまった。以前本ブログでも綴ったように際どいニアミスはしたが、自説を反古にしていまだに生者の列に留まっている。だから、『事故』は必至であろう。
 この先同類は増えつづけ、そこらじゅうで『事故』が続発するにちがいない。問題は、入ったはずの『保険』が消えたか、消されたか、ともかく雲散霧消したことだ。「宙に浮いた年金記録5000万件」である。(内、厚生年金4000万件、国民年金1000万件)
 アンバイ君は一年以内に一件残らず解明すると大見得を切って、そのままズラカってしまった。聞くところによれば、またぞろ永田町のお化け屋敷を徘徊しているらしい。普通の常識と一定の良識をもつ者なら恥ずかしくて二度と戻れないだろうに、赤絨毯がよほど好きらしい。お公家顔は案に相違して、厚顔無恥であったということか。

 07年7月、朝日新聞は社説で以下のように論じた。
〓〓宙に浮いた年金記録の解決策も、役所が抱え込まず、ためしにネットでみんなに聞いてみたらどうだろう。ネット上には技術的な問題と解答を交換するサイトがあり、予想外に良い答えが得られることもある。ネットを通じて世界中の人々の様々な知恵を自由に結びつけることができるようになった。
 官僚や「有識者」に丸投げせず、オープンな市場の知恵をもっと信頼する。それが21世紀に市場と国家の役割を仕切り直すうえで必要ではないか。市場とは結局、私たち自身のことなのだから。(抜粋)〓〓
 やや能天気ではあるが、視点はいい。ところが事はそうは進まず、依然として「役所が抱え込」んだままだ。大向う受けする啖呵を切り、
見栄を張りつづけている。「与党」民主党とて同じ。政策を抜き書きしてみると。
◇◇「年金通帳」で「消えない年金」
 いわゆる「消えた年金」「消された年金」問題への対応を国家プロジェクトと位置付け、2年間集中的に取り組みます。記録問題の被害者に一刻も早く補償し、年金記録問題の再発防止と年金制度に対する信頼の回復を図るため、以下の政策を実行します。
①年金記録が間違っている可能性の高い方については、証拠収集等を簡略化し、一定の基準の下で記録を訂正する「一括補償」を実施する
②納付した証拠のない方の記録を積極的に回復するため、「年金記録回復促進法案(仮称)」の成立を図り、事務局体制強化や判断基準の見直しを行う
④コンピューター上の年金記録と紙台帳の記録の全件照合を速やかに開始し、コンピューター上の記録の訂正・統合を行う◇◇
 ④は耳を疑う。「2年間集中的に取り組」むというが、成るものならばとっくに成っている。もうすでに足掛け3年も費やしている。それでも埒が明かない。様々に報じられているように、これは物理的に不可能だ。安土城の復元に等しい。それとも民主党の議員には際立った念力の持ち主がいるとでもいうのだろうか。話題の映画「火天の城」で再現されたのはオープンセットでしかない。つまりは15億円の巨費を投じ、想像を擦(ナゾ)った張りぼてである。まさか年金まで張りぼてではたまったものではない。
 ただ①だけはかすかに食指が動く。「一括補償」の中身が不透明だが、この方向は悪くない。②は隔靴掻痒、『安土城』の域を出ない。絵図面もなく、柱の一本すら残っていない「記憶」の古層(たとえば、古文書)から「記録」(建築に耐え得る数字的資料)を復元できるはずはなかろう。文字通り、絵空事である。
 ①を煮詰めてほしい。現行の第三者委員会も所詮は仲立ちするより逆立ちせよで、誤判を避けようとする意識が先行する。なにより、申請されたものの中で却下されたのは4割を越えている。また遅々として進まずの状況だ。
 そこで、欠片の主張。

  ―― 年金記録の消失者には、一律・一括賠償金を国が支払う ――

 この先2年であろうが、5年であろうが、できもしないことを引きずっていくのは生産的ではない。詩を作るより田を作れで、まずは口を糊する手立てだ。97年の名寄せ紹介に、キチンと対応しなかったこちら側にも責任の一端はある。だから早い話が、手打だ。この際、薬害、公害問題のように国が賠償する。(薬害、公害とは違い、企業は介在しないが)一律、一括がよかろう。新たな立法措置も必要であろう。金額の算出は大問題だが、筆者の能力を超えるゆえ、司に任せるほかあるまい。損失を被る人もあろうが、このままではとどのつまり首鼠両端して失うものが大きくなるばかりだ。嘘つきも当然いる。モラルハザードも懸念される。だが不届き者には罰則で応じるしかあるまい。ただ、財源はあるはずだ。積立金の約140兆がある。今は亡羊補牢の切所だ。英断すべきだ。

 「長生きは『事故』」といえなくもないが、年金が消えるのは正銘の『事故』だ。こちらには保険が掛かってない以上、国家が贖うしかあるまい。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


「小さい秋みつけた」

2009年09月20日 | エッセー

  〽だれかさんが だれかさんが
   だれかさんが 見つけた
   小さい秋 小さい秋
   小さい秋 見つけた


 1.  目かくし鬼さん 手のなる方へ
   すましたお耳に かすかにしみた
   呼んでる口笛 もずの声

 2.  お部屋は北向き くもりのガラス
   うつろな目の色 とかしたミルク
   わずかなすきから 秋の風

 3.  むかしのむかしの 風見の鳥の
   ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ
   はぜの葉あかくて 入日色


   小さい秋 小さい秋
   小さい秋 見つけた〽

(「小さい秋みつけた」 作詞:サトウハチロー/作曲:中田喜直 ※前後段は共通)

 秋には定番の童謡であるが、わたしはむかしからこの唄が好きではない。出所(デドコロ)がNHKということも少しあるが、抒情を細筆(ホソフデ)で隙間なく塗り重ねたような為着(シキ)せを感じてしまう。メロディーも沈鬱でいただけない。タイトルもいかにもというこれ見よがしが鼻に付く。
 ならばなぜと問われそうだが、ここ数日のあいだ何度もこの唄が聞こえてくる。もちろん空耳だ。


  ―― 百舌(モズ)はほかの鳥や動物を真似て鳴くという。よほど防衛本能が強いのであろう。秋から冬には縄張りを鋭い声で「高鳴き」して知らしめるらしい。先が見えない「目かくし鬼さん」を誘(イザナ)うものは「手のなる方」か、はたまた遠くに聞こえる口笛に似た「もずの声」か。 …… 秋は深まる。

  ―― 「北向き」の「お部屋」には陽が当たらない。窓の曇りガラスも外界を鈍く塞いでいる。建て付けの隙間から吹き込むのは肌を刺すような秋の風。 …… 冬の予感。

  ―― 近くの洋館に設(シツラ)えられた風見鶏。錆がきているのか、風を見つけ倦(アグ)ねている。紅葉した黄櫨(ハゼ)の葉が一枚(ヒラ)、光沢を失った鶏冠に掛かっている。朱い色は落日の色だ。 …… 朝は来るのか。春はまた訪(オトナ)うだろうか。


 とこうに歌意を解(ホド)きつつラジオに耳を傾けると、どこかの政党が総裁を選ぶというニュースを伝えていた。 ―― ああ、これだ。空耳の正体は。
 好きでもない唄ではあるが、寓意はしかと附会できる。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

 


「世界は分けてもわからない」

2009年09月17日 | エッセー

 ―― 顕微鏡をのぞいても生命の本質は見えてこない!? 科学者たちはなぜ見誤るのか? 生命に「部分」はあるか?
 ヒトの眼が切り取った「部分」は人工的なものであり、ヒトの認識が見出した「関係」の多くは妄想でしかない。私たちは見ようと思うものしか見ることができない。――
 
 読書の秋、先日、良書と出会った。
 今年7月の発刊、講談社現代新書「世界は分けてもわからない」。冒頭はその帯のキャッチコピーである。著者は、福岡伸一氏。青山学院大学教授、50歳。専攻は分子生物学。BSEのプリオン原因説に疑問を投げかけ話題を呼んだ。07年の「生物と無生物のあいだ」は60万部をこえるベストセラーとなった。 ―― 生命は流れの中のよどみ ―― これが、氏の主張の骨格である。
 まず驚かされるのは科学者らしからぬ流麗な文章である。さらに意外で巧みなプロット。トリビアを寄せ集めたおもしろ本でも、科学に材を採ったエッセーの類でもない。科学に向き合う姿勢を諭したミステリー仕立ての随想だ。特に後半はスリリングだ。

 かつて本ブログで万能細胞の開発を取り上げ、違和感を表したことがある。
〓〓その違和感とは、生命の「部品」視である。倫理性以前の生命観である。生命を部品の集合と捉える考え方だ。機械論的生命観ともいえる。パーツの集合から成る「機械」であれば、壊れたパーツは取り替えれば済む。ゲノムレベルであれば、遺伝子を組み換えれば事足りる。コンピュータ・プログラムのように……。
 しかし本当にそうだろうか。
 デカルトの『動物機械論』を淵源として近代医学は長足の進歩を遂げる。その極みに万能細胞があるとすると、極みであるからこそ底が割れてきたともいえる。つまり四捨五入すれば、パーツの単なる集積として生命はあるのではない。生命のありようはパーツのダイナミックなネットワークとしてある。パーツの相互作用の総和としてある、といえるのではないか。
 パーツの細工はできても、生命のありようは変えることができなかったともいえる。積み木細工はできても、積み木の家では住まうわけにはいかない。火星探査機は飛ばせても、ハエ一匹造れはしないのが人知だ。宇宙と同じほど限りなく奥深いものとして、生命はある。
 開発がムダであるとはいわない。絶大な恩恵を人類にもたらすにちがいない。しかし呉牛端月といわれようと、開発の先にあるものがサイボーグであるとしたら、わたしは御免蒙りたい。尤も、「人類」となってから500万年を生き延びた生命が、そう容易(タヤス)くベールを脱ぐとは考えられぬ。もう一度言おう、そうは問屋が卸すまい。〓〓(07年11月26日付「そうは問屋が卸すまい」より抜粋)
 門外漢の郢書燕説ではあるが、本書に照らしいくぶんか我が意を得た気もする。
 わたしにとって化学は最も苦手な分野である。学校時代も欠点続き、先生方のご厚恩にすがり下駄を履かせていただきながらの履修であった。化学式なる奇天烈な紋様を見るたびに、これに没頭できる人間の異能に深く畏(オソ)れ、強く慄(オノノ)いたものだ。その紋様がいきなりプロローグから登場する。なにせ、のっけがトリプトファンの話だ。あー、これはだめだと投げ飛ばしそうになったが、短気を引き止めたのはしなやかで巧緻な筆と話の運びであった。さらに絶妙な章のタイトル。こんな匠にかかったら、放擲などできはしない。

 身につまされたのは、「マップラバーとマップヘイター」の対比だ。ジグソーパズルはどちらが速いか。 …… 実は『地図好き』ではなく、『地図嫌い』なのだ。「マップラバー」を自認するわたしとしては身の縮む話だ。

〓〓マップヘイターにとって完成図は必要ない。マップヘイターは、ピースをひとつ選び出すと、やみくもに他のピースの山から、最初に選んだピースと合致するピースを探し出すことに専念する。そしてピースのまわりを囲むピースを見つけ出す。それができると次のピースについて同じことを行う。これは一見、とても能率が悪い作業のようにうつる。しかし必ずしもそうとはいえない。まず行動のルールが単純である。自分の形と合致するかしないか。しなければ次の試行にうつる。
 そしてもう一つ重要なことは、作業に、全体と部分という関係性が必要ないことである。個々のピースは、自分が全体のどの部分に定位しているかを知る必要がない。それゆえに、各ピースは、自分とごく近い周囲との関係性だけを手がかりに、世界全体を構築していけることになる。
 今、数千ピースからなるジグソーパズルを作ろうとするとき、マップラバーチームとマップヘイターチームが、それぞれ一セットずつパズルを与えられて競争したとしよう。おそらくマップラバーチームは、誰が何をするか決めるだけで大変な騒ぎになるだろう。しかしマップヘイターチームはすぐに作業に着手でき、あとはただ黙々とそれを進めればよい。自分のピースと形が合えば手元でそれをはめこみ、合わなければ真ん中の山に投げ返す。最初はなかなか進展しないようでも、徐々に山は減っていき、手元の図形は広がっていく。山が消えたあとは、図形を持ち寄って、相互の相補性を探していけば、やがて全体はつながり合うことだろう。〓〓

 人間の性向を二分する類型から、話柄はがん細胞とES細胞に転ずる。練達なストーリーテラーのようだ。

〓〓ガン細胞は、あるとき急に、周囲の空気が読めなくなった細胞、停止命令が聞こえなくなった細胞である。〓〓

 「空気を読む」「停止命令」と擬人化されると、素人にも理解は容易になる。そのような工夫が随所に光る。
 良書に饒舌な紹介は邪魔だ。結びの一節を引いて、全容の概説に替えたい。

〓〓この世界のあらゆる要素は、互いに連関し、すべてが一対多の関係でつながりあっている。つまり世界に部分はない。部分と呼び、部分として切り出せるものもない。そこには輪郭線もボーダーも存在しない。
 そして、この世界のあらゆる因子は、互いに他を律し、あるいは相補している。物質・エネルギー・情報をやりとりしている。そのやりとりには、ある瞬間だけを捉えてみると、供し手と受け手があるように見える。しかしその微分を解き、次の瞬間を見ると、原因と結果は逆転している。あるいは、また別の平衡を求めて動いている。つまり、この世界には、ほんとうの意味で因果関係と呼ぶべきものもまた存在しない。
 世界は分けないことにはわからない。しかし、世界は分けてもわからないのである。〓〓
 
 小気味よいカタルシスに浸りながら、本を閉じた。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


「秋刀魚は煙にかぎる」

2009年09月13日 | エッセー

 落語に「目黒の秋刀魚」という噺がある。黒焦げの秋刀魚を目黒で食し、いたく気に入った殿様。ある時招かれた先でも秋刀魚を所望する。先方はそのような下衆魚など用意してはいない。急いで日本橋の魚河岸から取り寄せはしたものの、脂が多くては身体に毒だと蒸してしまう。おまけに喉に刺さってはと小骨まですべて抜いて、バラバラになった身を椀に入れて食膳に。大いに期待が外れ、殿は一言。
「秋刀魚は目黒にかぎる」
 お馴染みの下げである。 
 角を矯めて牛を殺すという。盛大な煙は秋刀魚の「角」だ。而(シカ)して焦げ目はその痕跡である。だから、「秋刀魚は煙にかぎる」という次第である。
 濛々たる秋刀魚の煙。これは日本の極めて豪快な食風景である。決して副次的現象などではなく、あの魁偉な炊烟を含めての「秋刀魚」なのである。
 ところが養老孟司御大の言によれば、都市化は徹して自然物を排斥して進行する。したがって炊烟といえども忌み嫌われ、煙の出ない調理機器が貴ばれることとなる。まことに文明とは、伝来の文化を蹴散らしながら闊歩するものらしい。
 そのような雅趣なき社会の流れに抗って、この十数年わが家では猫の額ほどの庭で秋刀魚を焼くことにしている。かつ七輪を使う。とってもレトロである。一尾百円前後とはいえ、これは相当な贅沢だとひとり悦に入(イ)っている。たとえ東京は帝国ホテルであろうとも、このような贅は尽くせまい。生憎今もって、雑魚の魚交じりの機会に恵まれぬが、これ見よがしで見かけ倒しの御仕着せ西洋料理を楚々と喰らうのが関の山だ。などと嘯いた所で、物言えば唇寒し秋の風ではあるが …… 。

 世のブランド志向のためか、「大黒さんま」なる高級ブランドサンマが人気だそうだ。道東の厚岸(アッケシ)に産する。一尾 約900円、『ふつうの』秋刀魚の十倍近い。脂の乗った大型の秋刀魚だ。別に厚岸産「トロさんま」もあって、刺身でも相当に美味であるそうな。
 先日数人での語らいで、談たまたまその話になった。食したことがあるという友達は「秋刀魚を超える秋刀魚だね」と自慢した。と、別の友人が「それは、もうすでに秋刀魚ではないだろう」と応じた。なるほど、その通りだ。出世魚でないかぎり、秋刀魚が秋刀魚を超えてしまってはマグロにでもなるしかあるまい。道東ゆえに送賃も掛かるだろうが、秋刀魚はやはり庶民のさかなであってほしい。
 ただ、食指は動く。うたい文句の通りなら、さぞかしすげー煙を噴き上げるにちがいない。視界ゼロとなった庭を蹌踉(ヨロボ)いながら、七輪を探し当てる。網の上で仰け反るヤツを取り上げて、大根すりにぽん酢をたんまりとかけて頬張る。おぉー、これぞ垂涎三尺だ。消防署に事前の連絡をしておいたほうが無難であろうか。勘違いした近所の住人が大きなお世話の通報でもしたら。などと、喰う想(=空想、失礼!)は膨らむ。
 
 産直の手もある。夕飯の折、荊妻に提案したらにべもなく却下された。高すぎるというのだ。取り付く島もない。文化を解さぬ未開人はなんとも御しがたい。費用対効果を超えたところに文化はあるという平板な理屈が飲み込めぬらしい。「秋刀魚は煙にかぎる」というのに …… 。 □



☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


須臾の邂逅

2009年09月11日 | エッセー

 保育園のころ、「石鹸を食べる」とからかわれたことがある。なに、チーズだ。田舎ではチーズなぞ、まだなかった時代だ。給食もない。弁当に入っていたのを見つけられたのだろう。いまや、笑い話だ。
 戦時中、神戸からわが家に疎開していた知人から送られてきたものだ。おそらく六甲の産だったのだろう。濃厚な味は、微(カス)かながら記憶の残滓にある。
 それにしても、石鹸とはよく言ったものだ。だが石鹸も近ごろは液体が増えて、固形ばかりではない。「石鹸を喰う」では、子どもたちの間で意味が通じないかもしれない。それにチーズはごく日常の食品になっている。年寄りじみた物言いだが、今昔に微苦笑する。
 この体験、実は長い間忘れていた。昨年の同窓会で再会した幼友達から聞いて、俄に蘇った。とともに、保育園の裏手にあった砂浜の乾いた風が鼻を過(ヨギ)った。もちろん幻覚の類(タグイ)だが、心地よい海の風だ。遥かに退いた遠景から微量の感傷を含んで、それは吹き来たった。

 作家の嵐山光三郎氏が綴っている。「人々が同窓会へ出かけて、交錯した時間の糸をたぐり寄せあうのは、昔の自分に出会おうという無為の作業である」(「同窓会奇談」あとがき) ―― おそらく、そうかもしれない。齢(ヨワイ)を重ねるごとに、「交錯した時間の糸をたぐり寄せあう」難事に熱中する。糸は絡み合っている。ほぐし、伸ばし、順に並べねばならぬ。行きつ戻りつ、脇道に滑り込んだり、行き止まりにたじろいだり、労作業だ。しかし、辛くはない。むしろ、心地よい。昔の自分に再会するためのタイムスリップだ。

 四十数年ぶりの同窓会から一年が過ぎた。出席した小学校の同輩が、この僅かなあいだに二人も生者の列から離れた。あの日のバンケットルームを満たした数々のタイムスリップの渦の中に、彼らもいたはずだ。残された者が件(クダン)の難事に挑むかぎり、彼らは何度でも登場するだろう。なぜなら、キャスティングは不動だから。「永遠の嘘をついてくれ」の終節で中島みゆきが詠んだように …… 。

   〽君よ 永遠の嘘をついてくれ 
    いつまでもたねあかしをしないでくれ
    永遠の嘘をついてくれ 
    出会わなければよかった人などいないと笑ってくれ〽
       
  …… そうだ、「出会わなければよかった人などいない」のだ。滾る恋慕を逆説で韜晦するこの恋歌(コイウタ)が、つい漏らした本音だ。はたと気付いても、もう遅い。「笑ってくれ」は照れ隠しにちがいなかろう。ともあれ、名曲は琴線を掻き鳴らす。共鳴は意味を拡げる。同窓の友垣とて同じだ。「出会わなければよかった人などいない」 …… 。

  チーズの滋味、潮風の匂い。即物的過ぎる懐古だが、「交錯した時間の糸をたぐり寄せ」る有力なよすがにはなった。刹那、「昔の自分に出会」えたようで、気分が弾んだ。

 佶屈な拙稿に恥じ入りつつ、逝(ユ)いた朋友たちに捧ぐ。 □



☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆


2009年8月の出来事から

2009年09月08日 | エッセー

<政 治>
●総選挙 投開票
 民主党が過去最多の308議席を獲得。政権交代が確実に。(30日)
 ―― 民主党の勢力図では、今のところ小沢グループが群を抜いて最多を誇る。だが、新しい派閥がやがて生まれるであろう。「こんなはずではなかった」派だ。党内は無論のこと、『与党』を横断して勢力を伸ばすであろう。さて …… 。
 ついでに、因縁話をおさらいしておきたい。
 1946年(S21) 日本自由党結党。第一党となるが鳩山一郎総裁、公職追放に。代わって、吉田茂が総裁、総理大臣。約10年間、首相の座に。
 1954年(S29)  鳩山一郎、日本民主党結党。総理大臣就任。
 1955年(S30)  保守合同、自由民主党結党。第3次鳩山内閣。
 吉田は戦後のメインストリームをつくり、鳩山は戦後に残された課題であるソ連との交渉に礎を築いた。さて …… 。

<国 際>
●アフガン大統領選挙投票
 反政府勢力タリバーンが選挙妨害テロ、市民ら26人死亡(20日)
 ―― タリバーンの勢力回復には、多国籍軍による民間人の犠牲に対する反発、治安の混乱に乗じた面も当然ある。がしかし、国内に滞る経済的苦境が彼らの復活の下敷きとなっている点を見逃してはならない。その急所を外さない国際協力が肝心だ。
 さらにソ連が国土を蹂躙した時にはアメリカはタリバーンを支援し、9.11以降は正面の敵に据える。こうした大国の御都合主義への不信も底流しているにちがいない。オバマにとって、ブッシュにとってのイラクと同じ轍にならぬよう強く祈る。

<社 会>
●女優の大原麗子さん遺体で発見
 東京都渋谷区の自宅で。家族らが死亡を確認(6日)
 ―― 寅さんシリーズで2回、マドンナを演じた。
 第22作「噂の寅次郎」(昭和53年)早苗役。寅の慕情を知ってか知らずか、幼なじみと第二の人生に旅立って行く早苗。残される寅……。
 第34作「寅次郎真実一路」(昭和59年)ふじ子役。寅は淡い恋心を秘めつつ、蒸発した夫を必死に探し出す。抱き合う親子三人。旅に出る寅……。
 数々の名場面が蘇ってくる。
 良質で純度の高い色香。一世を風靡したウイスキーのキャッチコピーは、彼女の生きざまのようでもある。 …… 夜空に曳いた閃光は「すこ~し」であっても、「なが~く」心の銀幕で煌めきつづけるスター。その名に恥じぬ女優がひとり、去った。冥福を祈りたい。

●16年五輪 ソフト・野球落選
 追加競技はゴルフと7人制ラグビーに絞られた(13日)
 ―― 本ブログでも何度か触れたが、伝統ある世界大会のある種目はオリンピックから除外すべきだ。野球はWBC、サッカーはワールドカップ、テニスはウィンブルドン、ゴルフは全米オープンといくつもある。それらを五輪種目に取り入れるのは屋上屋であるし、商業主義以外のなにものでもなかろう。
 だからソフトは残すべきであるし、ゴルフは不要だ。犬の遠吠えではあるが、再考を切に願う。

<哀 悼>
●金大中さん
 民主活動家出身の元韓国大統領、南北和解・日韓関係改善に尽力 85歳。(18日)
 ―― 73年の拉致事件が忘れられない。くちびるに痣(アザ)を残して発見された写真が印象深い。さらに光州事件で死刑判決を受けた軍法会議での、白い収監服の姿。ピョンヤン空港での金正日とのハグ。一つひとつが絵になり、歴史を刻んだ政治家であった。あの跛行は、氏の半生と重ね合わせると一種の凄みを覚えた。清濁併せ持つ正銘の政治家であった。85歳、驚異の生命力でもあった。 合掌。

(朝日新聞に掲載される「<先>月の出来事」のうち、いくつかを取り上げた。すでに触れた話題、興味のないものは省いた。見出しとまとめはそのまま引用。 ―― 以下は欠片 筆)□


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆

 


 


After Revolution

2009年09月04日 | エッセー

 幕末、京都ではテロルの陰惨な風が吹き荒れた。実は維新が成っても、風は凪いではいない。これは意外だ。
 以下、司馬遼太郎著「街道をゆく」第12巻<十津川街道>から引用する。

〓〓革命をおこして早々の統一国家というのは、その内部に相異った主張の諸派を矛盾のまま内蔵している。それが噴き出すのが明治七年の佐賀ノ乱、明治十年の西南ノ役などであり、さらには底流として各地に頻発した農民一揆であったが、要人の暗殺というのも、その一連の事象のなかに入る。
 明治維新成立早々の京都は、どの時代史にも書かれていない。この町は遅れてやってきた志士たちの巣窟になった。その喧噪と殺伐と不服の充満は幕末どころではなかった。
 幕末には、反政府運動の卸し問屋として薩長があり、土佐は藩論が佐幕とはいえ、ややこれに似る。三藩はときに非常行動に出るが、たえず内部をも統御していた。その連中が天下をとって京都に太政官というひどく古めかしい名をもった革命政権を樹立する。と同時に、かつて攘夷をとなえて幕府をこまらせていたかれらが開国へ踏み切るのである。
  ―― いつ攘夷おとりやめというおふれをお出しになりましたか。
 と、京都御所の太政官へ皮肉を言いにきた老志士もいたという。
 新政権の部内にも、当然、鬱勃として不満をおさえかねている攘夷家が多数いた。(中略)京都にむらがりあつまってきた雑多な新志士たちはもう一度第二の維新をおこそうと諸方で車座を組んでいたが、それらを暗にたきつけていたのは、新政権の部内の栄達した攘夷家たちだった。
 いけにえは、新政府部内における尖端的な開明家だった。国民皆兵という、この当時における階級撤廃の衝撃を士族たちにあたえた村田蔵六が京都木屋町で襲撃されるのも、明治二年九月で、下手人は京都にむらがっていた新志士たちである。勝海舟と坂本竜馬に最大の影響をあたえた肥後出身の思想家で、新政府の官員だった横井小楠は、この新しいテロの季節の年の正月に殺される。〓〓

 革命後には革命政権内で粛清が起こる。アンシャンレジームの反撃ではないところが、なんとも悲しい。忌むべき歴史の宿痾だ。フランス革命、ロシア革命、中国革命。すべてそうだった。明治維新では、革命側が攘夷のパラノイアを巧みに使った。事が成り、純度の高い残滓が残った。時に引火し、暴発した。京都が「新しいテロの季節」に血塗られた。

 先日の拙稿で、『政権交代』を「現代版幻想の易姓革命」と括った。案の定というべきか、新聞や雑誌には「革命」の文字が踊る。「革命的」というなら的外れではあっても、局所的な事情には適う。しかし「易姓革命」ならまだしも、レヴォリューションでは断じてない。「現代版」は当然、この語に懸かる。問題は「幻想」だ。「虚」と知りつつも「実」に見せかける手管だ。幻想性に寄りかかる政党はもちろんのこと、メディアもそのお先棒を担ぐとなれば天に唾する愚行である。
 幻想はなぜ生まれるのか。9月2日、朝日新聞へ山崎正和氏が興味深い論を寄せている。
〓〓私は日本社会に広がる「リーダーなきポピュリズム」が今回の結果を生んだと見ています。人々が互いに過剰に適合しあって、雪だるまのように世論が形成されていく、そういう状態です。一人ひとりが熱狂的だとファシズムになりますが、そうでなくても、互いに影響しあうことで全体では熱狂的な結果が生まれる。それがポピュリズムの特徴です。
 今回の衆院選は前回2005年の、「郵政民営化選挙」と対になっています。どちらも特徴はワンフレーズ選挙です。前回は小泉さんの「郵政民営化」以外のテーマはほとんど関心を引かず、今回は鳩山さん(あるいは小沢さん)の言う「政権交代」に終始しました。
 歴史を振り返ると、ポピュリズムは、人間はどう振る舞ったら良いかが暗黙の了解として存在している時には発生しません。不安な時代、あるいは既成の秩序がゆるんだ時に起きやすいのです。じっくり考えるよりも、すぐに反応する、すぐに断定する。何でも二者択一で考える。そういう社会に進んでいるように私には見えます。
 政党支持などの世論の動向は、新聞やテレビがしきりに調査し報道するので非常に見えやすくなった。人々にとっては状況に乗りやすいし、誘われやすかった。えたいの知れない世論の流れが非常に形成しやすくなりました。これは日本人の伝統的な性向にも合うんですね。世の中の流れに乗り遅れまいとする傾向です。こうしたことが重なると、世の中の変化を一段と加速させます。
 即反応、即断定、二者択一。そうした性向を持った多数の人々が、時々の「空気」を読んで行動したら、その集積は巨大な変化を生むでしょう。私は「世論形成の液状化現象」と呼んでいます。(抜粋)〓〓
 さすがに鋭い分析だ。加えて言えば小選挙区制が民意の吸い上げではなく、民意の増幅装置として機能した。この点は入念な検証が必要だ。社会を過つ盲点になりかねない。
 After Revolution ―― 繰り返される歴史の宿痾。幻想の革命であってみれば、余計に増殖しかねない。だが、時代がちがう。流血のテロルが起こるわけではない。鬱屈は身の内を蝕みはじめる。やがて、内部の亀裂、分裂のトリガーとなっていく。果ては流血以上のカオスが待ち受けているかもしれない。

  …… とここまで綴って、あの曲が頭を駆け巡ってならぬ。
     
 
 〽You say you'll change the constitution
   Well, you know
   We'd all love to change your head
   You tell me it's the institution
   Well, you know
   You better free your mind instead〽

  ~体制を変えてやるとお前さんは言うが
   それよりも
   お前さんのその頭の中身を変えてやりたいよ
   新しい社会をつくるんだと熱っぽく語るけど
   それよりも
   まず自分のこころを解き放つのが先じゃないのかい~(筆者 訳)

 「 Revolution の一節だ。20回近いテイクのどれにも満足できず、ジョンはついにスタジオの床に寝転がって音入れをする。結局はそのテイクを採用した。「 Revolution 9」は電子音、逆回転、雑談、雑音、効果音をふんだんに使った文字通りミュージックシーンを「革命」した曲だ。
 ビートルズの全楽曲中最長のこの作品で、彼はなにを伝えたかったのか。この曲がリリースされた68年のあのころ、ベトナムでは戦火が燃え盛っていた。世界は「革命」に覆われていた。

  〽change your head 
  〽free your mind

 時代の奔流に抗して放った彼のメッセージは、いまでも辛辣で深刻だ。決して色褪せてはいない。名曲は軽々と時代を越える。
 蛇足ながら、あのころ高唱された「革命」はやがて幻想に畢(オワ)った。 □


☆☆ 投票は<BOOK MARK>からお入りください ☆☆