伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

赤いちゃんちゃんこ

2006年04月26日 | エッセー


 吉田拓郎 ―― 今月(6日)、60歳。これを書かずして、『伽草子』は名乗れない。
 37年前、背筋に悪寒のような電流が走った。『結婚しようよ』を聴いた時だ。この世のものではない、と感じた。以来、ずっと一ファンでありつづけている。
 ただ、この曲は大変なブーイングを浴びた。フォークにあるべきメッセージ性がない、と。当時の稿者、フォークを耳にすることはあっても、さしてこころの動くことはなかった。むしろ、あのメッセージ性なるものが厭味でもあった。
 たくろうの大いなる足跡 ―― それは、フォークに身を置きながら軽々とフォークを超えたことだ。一気に音楽シーンの垣根を取り払ったことだ。『襟裳岬』の授賞はその象徴である。政治的なメッセージはすぐに干からびる。『肩まで伸びた髪』は、大人社会に対する若者のアンチテーゼだ。若者と大人が共存するかぎり、このメッセージは万古不易だ。と、そんな小ジャレたことを、当時、考えていたわけではない。これは後付けの理屈だ。
 いまでいう『ハマった』のだ。爾来、『屈折、37年』。自らの人生は屈折を繰り返しても、ファンであることの道は一直線で来た。振り返って一片の後顧もない。勝手ながら、『共に歩んだ』37星霜である。これは『糟糠の愚妻』でさえ断じて及ばぬ絆である。
  10年前のコンサートで、彼は語った。「いよいよ来年、50の大台になる。どう生きていけばいいのか。手本はいない。あえて言えば一人、かまやつさんがいる。だけど、彼のようにはなりたくない」もちろん、愛情をたっぷり含んだ皮肉である。フォーク世代で一番乗りをする戸惑いやはにかみもあっただろう。その彼が、こんどは次のフェーズに進むことになった。
  50代のたくろう ―― アグレッシブであった。彼のどの年代よりも。わけても、死魔との戦いがあった。肺ガンを超えて復活した歌手はいないと聞く。だから、一昨年の復活コンサートは泣けた。ともかく泣けた。本人による「みなさんも、タバコを止めましょう」との館内アナウンスは大きなお世話であったが……。
 この数年間を共にしたバンマスの瀬尾一三氏が語る。「古い曲でも今聴くと、別の意味や違った味わいがあります」と。「たくろうは私の青春そのものです」という人がいる。しかし、それはちがう。簡単に懐メロにしないでほしい。声を大にして言いたい。「たくろうは今そのものです!」と。バリバリの現役である。苔むした曲で食いつないでいる懐メロ歌手ではない。下世話な話になるが、彼は昨年、高額納税者番付にランクインされた。稿者の記憶では、はじめてである。「今の人」以外の何者でもなかろう。たくろうに取り残された人にとっては「青春そのもの」かも知れないが……。
 さて、赤いちゃんちゃんこ。間違っても、彼は着ない。もっとも似合わないオジさんである。それはともかく、今度のフェーズもお手本はいない。彼はなんと言うのだろうか。稿者、借り物の言葉ではあるがメッセージを送りたい。「人間、だれしも今が一番若い!」と。「若かった」とは言えても、それは過去。この先は年取る一方だ。ならば、一番若いのは「今」をおいてない。
  9月には再びの『つま恋』だ。(31年前、かぐや姫とのジョイントで徹夜の野外コンサートを敢行。前代未聞の7万5千人を集める)おそらく死闘になるだろう。もう、納得だ。たくろうが、一番若い!

<追記>本ブログは文字通り『とぎそうし』と読むが、たくろうの「伽草子」は『おとぎそうし』と読ませる。稿者、不覚にもその謂われを知らない。□


死に神の名刺

2006年04月22日 | エッセー
 だれにでも、忘れられない言葉がある。通奏低音のように脳裏を流れる言葉の群れがある。
 黒澤明監督「夢」の一場面 ―― 原子力発電所が爆発し、逃げまどう人々。種別に着色された放射能の霧が迫る中、原発技師が叫ぶ。「人間はアホだ。放射能の着色技術を開発したって、知らずに殺されるか、知って殺されるか、それだけだ。死に神に名刺をもらったってしょうがない!」
 今月の26日、「チェルノブイリ」から20年が過ぎる。「夢」は事故の4年後の作品である。だから、監督は事故に触発されて撮ったに違いない。チェルノブイリの7年前には、スリーマイルでメタルダウンが起こっていた。20世紀末葉から日本でも関電美浜の死亡事故をはじめ、いくつかの事故が続いた。
 チェルノブイリの炉を覆う石棺はもう保たなくなりはじめた。2、3年後にはその上からさらに石棺をかぶせる。第二の石棺の耐用年数は100年。閉じこめられた放射能が1000分の1になるまでには、あと300年を要する。恐怖の引き算だ。
 原発は是か非か ―― 脱原発路線できたドイツやイタリア。ひたすら原発に活路を求めるフランス。ここにきて、ドイツもイタリアも少しずつ原発回帰にベクトルを変えつつある。日本では電力の3割はすでに原発から供給されている。稼働を止めると、日本列島はたちどころに渇する。温暖化の問題もある。巨人・中国がすべてを化石燃料にシフトしたら、温暖化は一気に進む。元凶・アメリカは温暖化問題を逆手に取りながら唯我独尊だ。太陽熱、風力、バイオ、燃料電池など可能性を秘めた分野はあるものの、一刀両断の解決にはならない。人類は「凡夫の後知恵」を限りなく繰り返しているかに見える。
 監督は何を言おうとしたのだろう。いかなるメタファーを忍ばせたのであろうか。現実を糊塗する悪あがきが放射能に色を着けさせたのか。放射能汚染の只中で、その種類や半減期が解ったところで何の解決になるというのか。それが人間の寿命を幾何級数的に上回ることを知っているだけで事は足りるだろう。いや、死に至る毒であると知っているだけで十分だ。なのに、『説明』しかできない科学の限界、無能。いな、科学の本質。知識と知恵の相克。核は一方に戦争へと向かう原爆となり、他方、平和にバイアスをかけると原発となる。戦争と平和、両極のようでともに放射能という毒を孕んだ双生児なのだ。このアポリアを前にわれわれは立ちつくすしかないのか。死に神と名刺交換するしかないのか。
 死に神とは何か。核が死に神か。いや、ちがう。それでは宇宙は成立しない。原発そのものでもないだろう。核兵器か。それもちがう。火を使い始めた人類が地球をも燃やせる道具を手にした。火打ち石から核ミサイルへ。だれが作った。天から降ってきたのか。つまりは、人間のなかに潜む悪魔、魔性。これこそ死に神の正体なのか。諸悪の根源はいずかたにあるか。外にはない。人間を離れて、あろうはずがない。
 監督には原子力を扱った作品が三つ。「生きものの記録」、「八月の狂詩曲」、それに「夢」。原水爆の恐怖に精神を病んだ町工場の主。ついに精神病院に入れられる。ラストシーン ―― 小さな窓越しに見える夕陽を指して彼は叫ぶ。「地球が燃えている!」狂っているのはどっちだ。彼か、社会か。痛烈な問いかけで物語は終わる。第五福竜丸事故に突き動かされて物にした「生きものの記録」だ。
 巨匠には逸話が多い。名うての衣裳デザイナー・ワダエミが作品に関わったことがある。ある俳優から「衣裳が重すぎる」とのクレームが付いた。監督に相談すると、言下に「だったら、役者を替えろ」との返事が。このやりとり、示唆的ではないか。□

ヘンなことば ―― 「こないだの続き」ですかね

2006年04月17日 | エッセー
 もちろん、ことばは生き物だ。世の移ろいとともに常に変化する。正しいかどうか、お上が決めることではない。かつては、いや、今でもそんな動きがある。モンカ省にモンクを言おう。みんなで、「大きなお世話だ!」とデカイ声で言おう!!
 お上ではなく、市井の民が世にもの申すことは許される。どころか、オレたちがやらずして誰がやる。だから、オレもやる! だから、キミもやれ! 「犬の遠吠え」と嗤うなかれ。「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」だ。ちょっとこの引用、意味が違うような気もするが……。

◆「とんでもありません」 
 これは明らかな誤用である。「とんでもない」で一つの言葉だ。「とんでも」+「ない」と誤解している向きがある。「ない」のところを丁寧に「ございません」と言ったところで、誤用でなくなる分けではない。
 「とんでもない○○です」と使う。「とんでもない話です」などなど。使うなら、「とんでもないことです」か、「とんでもないことでございます」である。 
◆「ご苦労様です」
 先日、筆者が勤務する会社に、ピカピカの女性社員が入ってきた。顔を合わせるやいなや、「ご苦労様です」ときた。「あのな、キミ。『ご苦労』というコトバは殿様が家来に言うコトバだよ。様を付けようが、ですを付けようが、上の者が下の者をねぎらう時に使うコトバなんです。だから、言うんなら『お疲れさまです』でしょうが……」とヤサしく教えてあげた。以来、筆者、ネグられ続けている。
◆「確認します」
 最近は免疫ができてきて開けて通すようになったが、お店で「○○はありますか?」と聞くと「はい、確認します」という答えが返ってくる。はじめは、ドキッとしたものだ。漢字でしかも音読みとなると、ただでさえ堅苦しい。たかが商品のあるなしを尋ねたに過ぎないものを、カクニンされた日にはしゃっちょこばってしまう。お役所でもあるまいに、大袈裟なのだ。もっともJRやJALなど、もっともっと『確認』してもらわねばならない所もあるが……。
 ともあれ、なんでこんな言い方が蔓延しているのだろう。「調べる」「問い合わせる」「聞いてみる」などと言うべき場面で、なべて『確認する』と言う。ひょっとしたら、世の中、すべてにファジーになってきたことの裏返しか。
◆「○○ですかね」
 これだ。こいつだ。『 ―― かね』は、筆者の語感では男性、しかもオジさん言葉のような気がする。オジさん同士、または上位の者が下位の者に対して使う言葉ではないか。これをうら若き乙女がお使いになる。テレビでは、若手の女性タレントが平気で使う。「○○でしょうか」と言えば素直に耳に入るものを、こう発言されると耳障りなのだ。筆者など、「若年者」にこう言われると馬鹿にされてるような感じを受ける。ホントに耳障りだ。
 ところで、「耳障りのいい」という言い方。時々、耳にする。これまた、明らかな誤用である。「耳障り」が「いい」とは、はたして如何なる状態を表現しているのか。足して引いたらゼロのはずだ! 

 以上、今回は、これくらいにしておこう。こんなのをいろいろ収集して、『あげつらって』みるのも一興だ。世のため、人のためだ。だんだんステージの袖に押しやられつつある団塊のオジさんたちにとっては憂さ晴らしにもなる。
 終わりに一言。 たしか早稲田の、某先生が素晴らしい発見をした。 ―― 「ら抜き」言葉の見分け方である。
 『よう』を付ける、という方法である。
「よう」が付く場合は、ら抜きができない。(例)「見る」は「見よう」と言えるから、「見れる」はダメ。「見られる」が正しい。
「よう」が付かない場合は、ら抜きできる。(例)「走る」は「走よう」とは言えないから、ら抜きして、「走れる」と言える。
 筆者、ものの本で仕入れた豆知識である。参考まで。□

恐竜の尾っぽはながーい!

2006年04月15日 | エッセー
 有史以前の話ではない。Web2.0(うぇぶ にーてんぜろ)のこと。いま、話題を呼んでいる「ウェブ進化論」(梅田 望夫著 ちくま新書)のサワリ(=筆者、感動した部分)を紹介したい。各紙のベストテンにランクされている旬の本である。
 「Web2.0」とは、『第二のIT革命』といえば分かりやすい。特徴として三つ。
 一つは、いままで情報の受け手でしかなかった一般のユーザーが積極的な発信者となり主体者となっていくこと……①全員参加型<わたしが主役!>ということ。
 二つ目に、検索技術の進化により多様なニーズに応えることができるようになった……②多用途対応型<あれもできる、これもできるよ!>ということ。
 三つ目に、通信の大容量・高速化(ブロードバンド)の展開により自分の機械のソフトにたよらずネットサービスに移行していく……③ネット重点型<なにもかもネット型>ということ。
 ③を言い換えると、PCがまずあってそれを繋いでいく時代から。ネットがまずあってPCから参入していく時代、となる。①②は、理想としてはあったが、技術的なカベがあり実現はできていなかった。それが現実のものになりつつある。
 以上が「Web2.0」の概要である。②については、<あれもできるこれもできるよ!>どころか、考えもしなかった(夢にも見なかった)ことが出現しつつある。
 かつて、立花隆氏は「地理上の新大陸が発見され尽くした今、インターネットは『知の世界』での『新大陸発見』である」と語った。その誕生から10年。いよいよ、『知の新大陸』への上陸がはじまったのだ。
 さて、前掲の「ウェブ進化論」に戻って……
 主張の柱は以下の通り。
―― 「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」という「次の10年への三代潮流」が相乗効果を起こし、そのインパクトがある閾値を超えた結果、リアル世界では絶対成立し得ない『三大法則』とも言うべきまったく新しいルールに基づき、ネット世界は発展を始めた。その『三大法則』とは、
 第一法則:神の視点からの世界理解
第二法則:ネットに作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏
 第三法則:(無限大)×(ゼロ)=Something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積  ――
 なるかならぬか、筆者、浅学を顧みず解説を加える。
 ブロードバンド化し、飛躍的に人口の増えた「インターネット」。値崩れを起こすほど劇的に安くなっていくIT関連製品。つまり「チープ革命」。リナックスに代表される、オープン化でより多くの人知を集約して進められるプログラム作り=「オープンソース」。この三つが混ざり合って、現実の世界ではあり得ない法則が成立していく。それが、『三大法則』である。
 第一法則:神の視点からの世界理解……筆者、グーグルを「最近伸してきたヤフーの対抗馬」ぐらいにしか考えていなかった。汗顔のいったり来たり。実は、グーグル、「地球上の知の世界を再編成する」という壮大かつ雄大な世界戦略を秘めたスゴい会社なのだ。20世紀になって、人類は人工衛星という宇宙からの視点を持つに至った。ガガーリンは「地球は青かった」と言ったが、いまやそのレベルではない。大陸のあり様から地上の数十センチの物体の識別までできる、まさに『神の視点』を確保している。GPSを使ったカーナビは自宅のガレージから目的地まで、切れ目なく見通しだ。子どもの登下校時や徘徊老人のセキュリティーにも使われ始めている。『神の視点』から世界を視る時代はすでに訪れている。
 今度は、地球上でだれが何を考え、何を知っているか。知的財産や情報が、どこにどのようにあるのか。それを、一網打尽にしようというのだ。なおかつ、グーグルの言う『ウェブ上での民主主義』を導入してそれらを再編成しようといういうのである。これは人間業ではない。『神のみぞなし得る』所業だ。筆者は、ここに新しい民主主義の可能性がありはしないかと、夢想したりもする。
第二法則:ネットに作った人間の分身がカネを稼いでくれる新しい経済圏……その一つの萌芽として本書が取り上げているのが、<グーグルのアドセンス>である。
―― 「アドセンス」とは、無数のウェブサイトの内容を自動識別し、それぞれの内容にマッチした広告を自動掲載する登録制無料サービス。自前のウェブサイトを持つ個人や企業が「アドセンス」に無料登録すれば、グーグル側がそのサイトの内容を自動的に分析し、そこにどんな広告を載せたらいいかを判断する。そしてグーグルに寄せられたたくさんの出稿候補広告の中から、そのサイトにマッチした広告を選び出して自動配信するのである。そしてそのサイトを訪れた人が配信された広告をクリックした瞬間に、サイトの運営者にカネ(広告主がグーグルに支払う広告費の一部)が落ちる仕組みである。つまりサイト運営者はアドセンス」に無料登録し、そのサイトを粛々と続けて集客するだけで、月々の小遣い稼ぎができるようになるのだ。 ―― (本文から引用)
 例えば、柴犬の成育日記を記しているブログがあるとすると、小型犬専門のペットショップの広告が自動掲載されるという寸法だ。 *「アフィリエイト」は売買が成立した時のみ報酬が入る。また、広告の選択も人間が行う。<注釈:筆者> 
 第三法則:(無限大)×(ゼロ)=Something、あるいは、消えて失われていったはずの価値の集積……本文をそのまま引用しよう。
―― インターネットの真の意味は、不特定多数無限大の人々とのつながりを持つためのコストがほぼゼロになったということである。子供の頃に「一億人の人から一円ずつもらえたら一億円になるなあ」なんて夢を思い描いたことのある人は多いのではないだろうか。「一円くれませんか」と人々を訪ね歩けば、かなりの確率で一円なら貰えるとしても、一円貰うための労力・コストが大きいから、リアル世界では非現実的な夢想に過ぎなかった。でも誰かから一円貰うコストが一円よりもずっと小さいとすれば、「不特定多数無限大の人々から一円貰って一億円稼ぐ」ネットビジネスは現実味を帯びてくる。時間で考えてみたっていい。従業員一万人の企業といえば立派な大企業であるが、この企業が一日稼働すると八万時間が価値創出のために使われる計算になる。「一万人×八時間」の人数を増やしながら、時間を短くしていくとどうなるだろう。一〇万人から四八分ずつ時間を集めることができれば八万時間になる。一〇〇万人ならば一人四分四八秒でいい。一〇〇〇万人なら二八・八秒。一億人ならば三秒弱である。つまり従業員一万人の企業の社員が丸一日フルに働くのと同じ価値を、ひょっとしたら一億人の時間を三秒ずつ集めることでできるかもしれないのだ。「(無限大)×(=無)=Something」。放っておけば消えて失われていってしまうはずの価値、つまりわずかな金やわずかな時間の断片といった無に近いものを、無限大に限りなく近い対象から、ゼロに限りなく近いコストで集積できたら何が起こるのか。ここに、インターネットの可能性の本質がある。 ――
 そして、極めつけ、『ロングテール』に話は及ぶ。恐竜のながーい尾っぽのことだ。たとえば本の売れ行きを棒グラフにする。左にたくさん売れる本、ベストセラーがくると、グラフは右肩下がりになる。年間数冊程度しか売れない本は限りなくX軸に近づいていく。これが延々と続く。左端の高い部分を恐竜の首とすると、右の部分は果てしなく長い恐竜の尻尾に見立てることができる。そこで、アマゾン・コムの登場となる。以下、本文を引用。
―― 米国のリアル書店チェーンの「バーンズ・アンド・ノーブル」が持っている在庫は13万タイトル(ランキング上位13万位までに入る本)だが、アマゾン・コムは全売り上げの3分の1以上を13万位以降の本から上げていると発表したのである。高さ1ミリ以下で10キロ近く続くグラフ上のロングテールを積分すると、まさに「塵も積もれば山」、売れる本「恐竜の首」の販売量を凌駕してしまうというのだ。リアル書店では在庫を持てない「売れない本」でも、インターネット上にリスティングする追加コストはほほセロたかから、アマゾンは230万点もの書籍を取り扱うことができる。しかも「売れない本」には価格競争がないから利幅も大きい(米国では新刊書にも値引き競争がある)と良い事ずくめになる。これがロングテール現象である。 ――
  以上が『三大法則』の粗筋である。その他、ブログに端を発して『総表現社会』の登場について。不特定多数を結びつけて大きな事業を成し遂げていく「マス・コラボレーション」のこと。などなど、興味津々の内容だ。特に、強力な検索エンジンで玉石混淆のウェブ世界に風穴を開けようとする動き。(さしずめ賽の河原の小石か庭の玉砂利にしか過ぎないこのブログなど、まっ先にふるい落とされるに違いない。)ウェブの宿命ともいうべき玉石混淆問題という『弱点』にも切り込みは始まっている。
 最後に一点。冒頭に触れた③ネット重点型<なにもかもネット型>について。技術進化の流れが、ネットの利用者側(PCをはじめとする様々な情報末端)である「こちら側」から、グーグルをはじめとするネット産業である「あちら側」に重点を移していく、と梅田氏は言う。これがメインストリームなのだ。かつ、本書の『ホシ』でもある。
 どデカいコンピューターがパーソナルになったことに感動したビル・ゲイツの世代。インターネットにシビれたグーグルの創業者たちの世代。主役は確実に世代交代しつつある、と梅田氏は主張する。これは刺激的な話である。
 以上、サワリだけ。梅田氏のプロフィールなどは割愛した。興味のある方は是非一読願いたい。と言うか、読まないと、『置いてきぼり』を食うかもしれませんよ。 断っておきますが、筆者、筑摩書房の回し者ではありません。念のため。□

「そんなヤツ、おらんやろー」

2006年04月13日 | エッセー

 3年前のこと、友人の童画展を観にいった。『オジさん』にはキツく、ツラい一日だった。
 童画とは、すなわち童『心』画のことらしい。とうに折り返し点をすぎた五十を過ぎたオジさんが「童心」に太刀打ちできるわけがない。ひたすら沈黙するしかない。泣きやまぬわらべに抗するに、「鬼」にでもなれと言うのか。「泣く子も黙る鬼」になりそこねた男には、ただただ泣き止んでくれるのを待つしか手はないのだ。だから、ひたすら身を縮め、押し黙って、体よくはにかんでいるしかない。そんな一日だった。
 人はみな、心中に子どもを懐きながらも、それをひた隠しにしつつ生きていく。せいぜい、趣味といわれる場面でしか見せはしない。それも、小出しにだ。ところかまわず露わにした日には、パージされるに決まっている。心中の子どもを置き去りにしていく過程が、すなわち社会化、もしくは年を取ることの意味だろう。
 だが、ただひとつ、自由奔放にさせる術がある。芸術がそれだ。ここでだけは解放できる。いな、狂気さえも自由なのだ。自らの耳をそぎ落として自画像に描く狂気さえもゆるされる。ゴッホを見よ。だから彼は生前、作品のひとつだにも理解されることはなかった。
 童心を芸術にすること。これは決して童心ではできぬ。技術と熟練がいる。いな、それだけではだめだ。たえず童心を手挟んで大人の目で見つづけること。大人の手で描きつづけること。それはもう、天賦の才によるしかない。常人の手には余る力業だ。童画になるのかどうか定かではないが、山下清に真反対の評価が混在するのは、そのあたりの事情を反映しているのかも知れない。
 個展には、その力業がひしめき、圧倒的な童心が踊っていた。対決は不能だ。五十過ぎのオジさんは、ただ押し黙っているしかなかった。
 と、作者に「いやー、すばらしい。童心にかえりましたよ!」と語りかける声が聞こえてきた。客の一人だ。こういうところには、決まっている手合いだ。筆者、「お前、豆腐の角にでも頭をぶつけて死んじまえ!」と怒鳴りたくなってきた。それほどたやすく童心にもどれるものなら、億万の手垢にまみれた君の来し方は、君を大人に仕立て上げなかったことになる。いとも簡単に退嬰してしまう精神とは、一種の病気にちがいない。それとも、純粋無垢なる精神を宿した天女か、君は。
 あーあ。その時、知っていれば、必ず言っていただろうひとこと。「そんなヤツ、おらんやろー」 大木こだま君、ブレークするのが遅い!□


「サインはV」

2006年04月10日 | エッセー
 朝丘ユミ(岡田可愛)が、後ろ向きではるか上方にサーブを放つ。相手コートに入った球は稲光のように変化して落ちていく ―― 「いなづま落とし」だ。昭和40年代中ごろ、一世を風靡したテレビドラマ「サインはV」の有名なひとコマである。
 それにしても霞ヶ関の知恵は無尽蔵である。奇手!か、妙手!か。離れ業!か。膠着した交渉を一気に打開した『滑走路V字案』。「いなづま落とし」か、奇想天外な官僚の知恵に舌を巻き、うなった。
 宜野湾市の中心に居座る米普天間飛行場を移設する計画。名護市の辺野古『沖』に移す当初案が頓挫し、辺野古『崎』に変更となった。反対運動はかわせそうだが、陸に近づくと今度は住民への危険が高まり、騒音の影響が大きくなる。滑走路の線引きで、まさに綱引きとなった。期限は迫る。またしても決裂かと危ぶまれた矢先、起死回生策が浮上した。本来一直線に伸びる滑走路を半分に折ってV字型にし、着陸と離陸を別々にする。こうして飛行ルートを振り分けると、住宅上空の飛行を回避できる。 ―― かくして、合意に至ったのだ。県は『沖』案をゆずらず反対の姿勢を崩さないが、大勢は決した。霞ヶ関の高笑いが聞こえそうな結末だ。『サインはV』だ。
 1972(昭和47)年、本土復帰の際、「本土並み」の原則のもとで基地の整理・縮小が約束された。しかし約束は反故同然。今もって、国土面積の0.6%を占めるにすぎない沖縄県に、在日米軍専用基地面積の75%が集中している。しかも本土では米軍基地の91%が国有地にあるのに、沖縄の場合、67%が市町村有地と民有地に設けられている。そのような沖縄の窮状に、ブレークスルーとして登場したのが「普天間移設」だ。しかし、本当に窮状を突破できるか。
 先日も引用した寺島実郎氏(日本総合研究所会長)の言。「我々は『独立国に外国の軍隊が長期に駐留し続けていることは不自然なことだ』という常識さえ見失いつつあるのではないか。米国の世界戦略に呼応するだけの外交がいかに空虚なものか、泥沼化するイラク戦争の現実を直視すれば分かる」この『常識』に照らせば、戦後60年、本当にこの国は独立していたのか、それともアメリカの51番目の州だったのか。
 平時に軍隊を外国に駐留させる例は、1900年の義和団事件後の列強や、日露戦争後の中国東北部へ進駐した日本などがある。すべて保護国や半植民地状態の国で行われた。いまアメリカは50カ国以上と同盟関係にあるが、そのうち1万人以上の駐留はドイツ、日本、韓国、イタリア、イギリスの5カ国だけで、イギリスを除き、他の4カ国は米軍に占領された国々だ。一方、同盟国でもカナダ、フランス、デンマーク、ノルウェー、ニュージーランドなどや南米の国々には米軍は駐留していない。オーストラリアにはわずか370人しかいない。
 だから自衛隊とコンバートを、などと言っているのではない。ならば、わが地へ誘致せよ、と言っているのでもない。ことはそれほど簡単ではない。場違いな木も、長年月が経てば容易には抜けない。しゃにむに抜き去ったところで、地崩れが起こるのがオチだ。短絡した思考はポピュリズムへの陥穽となる。
 長期の視野と鳥瞰の視点。そして漸進のプログラム。「いなづま落とし」はもはや効かない。それはもう、政治の土俵だ。官僚のたなごころで踊っていてはいけない。世の政治家諸氏よ、土俵の上で真っ向勝負せよ。滑走路は曲げられても、日本丸の航路は曲げられるか ―― 。その大事が成った時は、ためらいもなく「サインはV」だ。
*防衛庁は新宿区市ヶ谷にあり、霞ヶ関は千代田区である。文中、「霞ヶ関」とあるのは官僚機構を総体として象徴したつもりである。□

花より団子

2006年04月06日 | エッセー
 桜の季節である。あでやかな景観が日本列島を覆う。タイムラグをつけながら、南から北へ染め上げていく。
 「子どものころは、ああ桜が咲いてるな、ぐらいでさして気にもとめなかったが、年をとってくると妙に気にかかるようになる」 ―― 過日のタモリの言である。この男、時として警句を発する。最上最高のそれについては、後日語るつもりだ。
 加齢とともに、重心はあきらかに団子より花に移動する。いくつになっても、花の下で酒盛りに興ずる手合いは「花も団子も」の両刀遣いか。いやいや、これは無粋の極みで、断乎として団子派である、と主張する人もいるだろう。ともかく、人はやがて花寄りに重心を移すものらしい。
 散り際にこそ桜の美がある、と人生観になぞらえて語る人。二百数十日前から開花の準備を始めることに、人生訓を読み取る向きもある。雑木のなかに咲く一本の山桜に生き様を仮託する人、そこに日本の美を見いだす人。さまざまに愛でられる花ではある。
 先日、論客の一人、寺島実郎氏(<財>日本総合研究所会長)が、朝日新聞紙上で団塊の世代に訴えていた。氏は団塊の一員でもある。長い引用になるが、許されたい。
 ―― ホリエモンとその仲間、九七年に起きた神戸連続殺人事件の犯人だった一四歳の酒鬼薔薇少年、そして現在幼児虐待の母親たちを注視するとその両親が団塊の世代であることに気付く。「親の背中を見て育つ」というが、団塊の世代が身に着けた価値観が投影された社会面の記事が生まれていることに慄然とする。(略)我々の価値観に蓄積されたものは「経済主義」と「私生活主義」であった。(略)経済主義と私生活主義の谷間に生まれ育った団塊ジュニアが増幅された形での私的世界への陶酔とためらいなきマネーゲームの肯定という価値を身につけたとしても不思議ではない。(略)団塊の世代の平和主義志向が本物なのか真価が試されている。改めて考えてみよう。我々は「独立国に外国の軍隊が長期に駐留し続けていることは不自然なことだ」という常識さえ見失いつつあるのではないか。(略)「戦争を知らない子供たち」を口ずさんだ団塊の世代か不条理な戦争に加担する空気に傍観者の役割しか演じないならば、平和な時代を生きえたことの価値など何ほどのものでもない。(略)まだ、戦後など終わってはいない。老成を気取り小成に安んずる前にやるべきことに向き合わねばならない。 ――
 キツい頂門の一針だ。世の団塊諸氏よ、われわれには「老成を気取」っている余裕などないのだ。そうだ、「花より団子」に戻るべきなのだ。風流韻事を気取っているいとまなどありはしない。徹して俗世の団子をこね続けねばならない。「やるべきことに向き合わねばならない」。2007年は指呼の間である。
 と、一針の痛みを堪えつつ、散ってしまわぬうちにと、夜桜へ急ぐ筆者。手に持つ缶ビール一本の重いこと、重いこと。しこうして、筆者、「団子より花」か「花より団子」か。□

” 爆笑問題 ”の問題

2006年04月04日 | エッセー
 「泰平の ねむりをさます 正喜撰(じょうきせん) たった四はいで 夜もねむれず」とは、ペルーの黒船に上を下への大混乱をきたす幕府を皮肉った狂歌だ。当時、庶民は瓦版を中心に、狂歌、落首、狂句、物は付け、見立て番付、はてはパズル仕掛けの野堡台詩(やぼだいし)なるものまで駆使して腐った権力に抗した。権威、権勢を徹して皮肉り、揶揄し、洒落のめした。これが、一刀も持たぬ庶民の心意気というものだ。
 先般、爆笑問題が芸術選奨の文部科学大臣賞に『輝い』た。受章のコメントは、「何が評価されたのかは謎。この賞やるからちょっと黙れということなのか」 ―― だと。「敵から塩をもらって」おきならが、なんと能天気な。彼らには、権力との距離感覚がまったくないようだ。
 笑われてなんぼ、の芸人なら、庶民から抜きんでては決してならない。お上からオーソライズされてはならない。それは芸人としての自死に当たる。生活雑感風のネタが大半のお笑い界の中で、世にもの申すことを芸風にしたいのなら、超えてはならない一線があるのだ。その距離感覚、地理感覚がまことに危うい。
 ニュースバラエティー風の番組で、大向こうの快哉を得ているようだが、とんだ墓穴を掘ったかもしれない。あとは、自ら永田町にあるお化け屋敷の赤絨毯を踏むしか生き残る道はないだろう、とは見当外れか。幾人かの同類がそうしてきたように。(東京と大阪の知事さんもいたっけかな)でなければ、立つ瀬がないのだ。笑われてなんぼの「なんぼ」は、誰の懐から出ているのか。「一刀も持たぬ庶民」の懐だ。その心意気を忘れてもらっては困る。その心意気こそが、君たちの立つ瀬ではないのか。
 それから、もう一言。たけしを気どるとケガをする、と忠告しておく。第一、生き様の厚みがまるで違う。また、ツッコミがないと成立しない太田のボケとちがい、たけしは易々とツービートを超えた。
 この問題の処方箋になるかどうか。たしか、「国民栄誉賞」かなにかを、まだ現役を理由に断ったイチロー。そう、彼の爪の垢を煎じて飲むことを是非おすすめしたい。□

勝負師! 荒川静香

2006年04月01日 | エッセー
 トリノ開幕の少し前、みのもんたが司会をするクイズ番組に荒川静香が出た。最高金額1000万の一歩手前、750万円で降りた。したがって、750万満額を手にした。次の週、村主が出た。750万を越え、最終1000万に挑戦したが、あえなく敗退。手にしたのは100万。なにやら、トリノを象徴するような展開であった。戦略においても、撤退は最難事だ。ここに勝負勘があらわれる。凡将には撤退の決断はできない。
 荒川の戦歴を見ると、華々しいジュニアー時代に比べ、長野五輪以来、長い低迷に泣いてきた。2002年のソルトレークシティーを逃し、昨年12月の全日本選手権では村主に続く3位。かすかすでトリノに滑り込んだ。
 だから、満を持していたに違いない。それも、脂ぎった持し方ではなく、「人事を尽くして天命を待つ」体の澄明な心持ちであったに相違ない。そして、天命は紛れもなく荒川の頭上に下った。
 玉石が混淆する状況の中で、石を捨象し玉に狙いを定める。その一点に全身全霊を注ぎ込み、獲物を射止める。それが「勝負師」だとすれば、荒川の軌跡はまさに勝負師のそれだ。
 このオリンピックは、メダルが一つ。それも荒川の金が、その一つだ。仕組んでそうなる筈もない成り行きとはいえ、これ以上の希少価値はない。なにやら、凄みさえ感じてしまう。
 報道によると、トリノではいちばんの美人と評されたらしい。対する村主は、いかにも卵形の日本風。国内で人気の高かった安藤は今風の顔立ち。その中で、荒川の中国系の面立ちが、彼の地のひとびとに東洋美への憧憬を呼び起こしたのかも知れない。
 今後の去就については、いろいろと囁かれているが、「勝負師」らしい舵を切るに違いない。鮮やかな引き際を、ひそかに楽しみにしている。
 さて、あの「イナバウアー」。トカチェフやモリスエがあるのだから、きっと『稲葉』さんを始祖とする技に違いない。門外漢の筆者は、そう推測した。ところが、ドイツ人・イナバウアーが事の真相と分かり、赤面の至りだ。かつ、この技は一点の加点にもならないのだそうだ。ブローチやイヤリングのごとく技をしつらえて演技を飾るとは、心憎い。
 余談だが、荒川も村主も早稲田の出身。慶応なら女子フィギュアーのイメージが湧くが、早稲田は遠い。どんないきさつがあったのか。ひとつの謎だ。□